Пікірлер
@boaots
@boaots 5 сағат бұрын
安曇族よろしくお願いします🙇‍♀
@北浦浩二
@北浦浩二 13 сағат бұрын
邪馬台国は出雲族の国で出雲族が縄文人と融和して出雲文化圏を築いてその中 にできた一国で、大和の磯城に本拠地があった とされそれが 唐古鍵遺跡です
@kazubonn69
@kazubonn69 Күн бұрын
「たかまのはら」じゃなく「たかまがはら」だと思いますよ。
@kuri6877
@kuri6877 Күн бұрын
予備校時代にむっちゃん先生の講義を生で受けていました むっちゃん先生との出会いで日本が好きになり、歴史にハマりました 著書とDVDは全部持っていて、勉強しています 最近は全国の神社を巡ってフィールドワークもしてます笑 色々な考察楽しみに見てますので、これからも頑張って下さいね〜😊
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 23 сағат бұрын
実は僕の友人でも予備校でむっちゃんの講義受けてた人いるので個人的に嬉しいコメントでした😊 ありがとうございます!!
@hoakarikusitama6573
@hoakarikusitama6573 Күн бұрын
別人という視点が 古代史を解く鍵になると思います。ホアカリが本流 ニギハヤヒが支流であることは 日本書紀 先代旧事本紀も 密かに告白しています。古代祭祀は 中臣 忌部の二派 前者は親ニギハヤヒ 後者は親ホアカリと親ニギハヤヒの二派 阿波忌部は後者の印象です
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa Күн бұрын
ありがとうございます! 日本書紀も一書として書いているのでホアカリを完全には隠さずに密かに足跡を残しているんですよね😊
@nonkoo
@nonkoo Күн бұрын
噴火後に日本から出て行って、あちこちで文明を築いてまた日本に戻って来た、という説が、現実味を帯びてきましたね。ワクワクします。
@姫香-himeka
@姫香-himeka 2 күн бұрын
姫香です👸こんばんは❤進撃さんを応援することにしましたので😅よろしくお願いします🙇‍♀
@わたちゃんきよ
@わたちゃんきよ 3 күн бұрын
帯方郡からの直線距離の測定ができたかどうかについて考えていました。 南北方向の位置関係は棒の日影長で分かりますが、東西方向はどう測定するかです。 釜山までは見通せないので、例えば、近くの剣山に登り、石鎚山、英彦山とつなぐことで、方向角度を測定 できたかもしれません。天文観測で測定する方法はあるのでしょうか。  また、剣山から平壌までの距離は、12000里(900km)に対し70kmほど遠いように見えます。 帯方郡の位置が平壌の南60kmの沙里院で、剣山までとすれば915kmとなり、その差15kmとかなり近づきます。 ただ、里の距離換算値、帯方郡の位置など、かなり誤差要素が大きいので、確定できないですね。 会稽東治の話は、魅力的ですが、どうなんでしょうね。ただ会稽郡の日影長のデータは持っていたのでしょうね。
@asa-358
@asa-358 3 күн бұрын
日ユ同祖論というのは、日本人の祖先がユダヤ人なのではなく、縄文時代より古い時代に、日本人とユダヤ人と呼ばれる民族の両方に共通する人類の始祖がいたということではないでしょうか?🤔 沈没した大陸の人々が共通先祖で、災害にともない各地に分布していったのかなと🤔 学術的な証拠や証明はできないので、憶測でしかないですが😅
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 3 күн бұрын
僕も同じように考えています😊 全部1つの動画にまとまりきらなかったのでひとまず古代イスラエルから日本に来る所の流れだけを見ているのがこちらの動画になります。 わかりにくくてすいません😅
@美瑠-miru
@美瑠-miru 3 күн бұрын
進撃さん😍はじめまして😙美瑠(ミル)です🙂こんばんは🤨私は試験で赤点を取ってしまい😭補習と追試があって😭やばいです😭頑張って勉強したいので🤔激励の言葉をいただけますでしょうか👧
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 3 күн бұрын
無理し過ぎず頑張って下さい!! 応援してますよ😊
@sumisumi3932
@sumisumi3932 3 күн бұрын
百済は全く関係ないでしょう😅
@hymd-myhobbies
@hymd-myhobbies 4 күн бұрын
物部氏が失脚して忘れられてしまったのだろうか
@石原傳
@石原傳 5 күн бұрын
ステキ、学べます感謝
@mrrx2364
@mrrx2364 6 күн бұрын
扶余族が日本に渡来して来て有名なのは・・ 卑弥呼とイワレ彦。 倭国大乱の時期だ。
@Do_Na_306
@Do_Na_306 6 күн бұрын
なるほど 誤解するような図はあるが誤解を解くような図は誰も作りたがらない とゆうことですね 誤解していますよね?はなるほどですが なぜ誤解を解くような図で説明しないのか そこが重要ですね
@masunorikurata
@masunorikurata 7 күн бұрын
今まで見聞きした中で最も腑に落ちる仮説に感じました。DNA比率グラフが円グラフ、棒グラフともにパーセント値グラフですが、棒グラフについて推定人口を縦軸にとって横軸を時代軸にすることで、年代の流れの中での絶対人口の推移を読み取れますか?もう一つの側面からの人口増減と各遺伝子比率情報を見てみたいです。
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 6 күн бұрын
僕も同じ情報見てみたいくらいです😊 人口増減だけのデータならあると思うんですが、そこにDNA比率も加えようとすると各時代ごとに同じだけ人骨のサンプルをあつめて解析しないといけないと思うので実際はかなり難しいような気がします。 それもわかると時代ごとの移動まで可視化出来るのでもっと細かく考察出来そうですよね😊
@wajin5695
@wajin5695 7 күн бұрын
一寸千里法の必殺技の紹介、南北2箇所間の距離を一人で測った、しかも当日対向。 洛陽では毎日、80寸棒の影長の変化量がわかるので、夏至日相当に修正できます。 夏のある日、沙里院で日陰長を測ると、自然と洛陽との距離が測れます。 何日かして、同じ側手が女王国の日陰長を測ると、当日の洛陽のとの距離が測れる。 洛陽を中心に二つの距離を合計する、しかも雨天回避も可能ある。 以上の 方法で一人で2箇所の測量が可能となるのです。 なお、一寸千里法は影長の「寸」読みを「里」に、置換えるだけなので、インチキ距離です。でも有効な手段でした。
@Do_Na_306
@Do_Na_306 7 күн бұрын
日本史と世界史が繋がらない そのように教育体系を組んだ組織があるからですね 普通に考えれば世界史とその中での日本史とを常に比較する必要があります しかし教育体系で完全分離して考えることを前提とされます それには意味かありそれ以外にも紐解くことが出来ないようにいくつも仕組まれていると考えます 個人的にはユダヤ系天皇であろうと陛下には違いないと考えますが 日本には昔から色々な輩が巣食う為に古事記から隠匿してきたのだと考えます
@yyy_LM.
@yyy_LM. 7 күн бұрын
いつも楽しく拝見させてもらってます、今回の考察も興味深いです。最後の怒涛の状況証拠の嵐には痺れました👏 ちなみに愛媛にも気になるニギハヤヒの痕跡があり、名を國津比古命神社と言うのですが、全長50メートルの古墳の上に建っておるのです。そしてそこに眠っておられる方は未だ不明… 興味がおあれば考察にどうぞ…🧔
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 6 күн бұрын
ありがとうございます😊 いや〜愛媛もじっくり巡らなきゃいけないと思ってるんですが中々時間が取れずで。。。 そちらもチェックさせて頂きます!!
@555G-y6w
@555G-y6w 7 күн бұрын
応神と高良。徳島市応神町にも古川字高良には高良神社がありますよ。応神町の別宮八幡(べっくはちまん)神社から東へ1㎞足らずです。
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 6 күн бұрын
情報ありがとうございます😊
@乙中-otsuchu
@乙中-otsuchu 7 күн бұрын
進撃さん😯考察が素晴らしく🤨良かったです🙂
@lebaronde3204
@lebaronde3204 7 күн бұрын
饒速日命=天火明命と伝える二つの文書、先代旧辞本紀と出雲口伝の相違点からの考察、興味深いです。 個人的には、どちらの書物でも、彼が生きていた当代においては2人格として捉えていて、後世において統合されたような印象を受けます。 冨家は、崇神の大和入りで没落した出雲族の末裔、物部氏は崇神側の物部氏と解釈すると、天火明命と饒速日命の人格が統合されたタイミングが、崇神の代に完了したとされる物部東征の末、大和入りのタイミングだったという予想をします。
@lebaronde3204
@lebaronde3204 7 күн бұрын
後裔が異なるのは、人格統合前の2系統、それぞれの後裔だと考えます。 歴史の敗者となった冨家が徐福をネタ明かし、一方で先代旧辞本紀をまとめた当時は大和の中枢にいたはずの物部氏が、徐福の正体に言及しないことも一応納得できます。
@lebaronde3204
@lebaronde3204 7 күн бұрын
海部氏(出雲+天火明命の後裔)と物部氏の確執は、崇神後も続いたと個人的には考えていて、垂仁と狭穂姫の悲劇は、滋賀・京都北部が拠点の海部氏と、天皇家となった大和の物部氏の衝突の一例と予想します。
@mrrx2364
@mrrx2364 7 күн бұрын
我田引水ですよ。 後編でコメントします。
@松本建介-h2o
@松本建介-h2o 7 күн бұрын
文明の始まりについて話をするときは、必ず文明の定義を述べなければならないと思います。
@miyake0435
@miyake0435 8 күн бұрын
阿波徳島の古代イスラエルの遺跡から古代イスラエル10氏族であるエフライム族の紋章が付いた指輪が以前確かに発見せれていたので、エフライム族が古代の日本に渡ってきていたのは間違いないでしょう。
@moviefine9501
@moviefine9501 8 күн бұрын
どこかの動画で島根から奈良に避難した西出雲の一族が阿波へ逃れたと。確かに島根にはタケミナカタをまつる神社がないような気がします。四国の阿波は西出雲の大国主系の何かつながりを感じます。
@阿波阿波
@阿波阿波 8 күн бұрын
大宜津比売は天照のお姉ちゃん✨稲荷神、豊受大神と同一神と云われもあります。
@noshimaru123yt
@noshimaru123yt 8 күн бұрын
お疲れ様です。私は大和が北部九州説に始まったと考えているので、阿波節とは立ち位置は違いますが、大筋の考え方が近いので、とても参考になります。  饒速日の降臨先は北部九州説を支持します。磐船伝承を裏付けるような巨石があったりします。ガンジス文明の影響を受けた回帰縄文人だと思いますけど。福岡県鞍手郡の天照神社に降臨伝説ありです。ヒッタイトの鉄文化やビシュヌ神やガルーダ神の影響を受けた人たちで、アーリア人やハッティ人を引き連れてきたと思われます。鞍手郡には八釼神社もあります。アーリア人は八咫烏になったという説もあり、信憑性が高い気がします。時期的には、素戔嗚を討って大王となったのが紀元前14年という説です。長髄彦は素戔嗚が連れてきた出雲人の中のドラヴィダ人ではないかと思っています。神武の東征は、記紀編纂の後から話を膨らませたもので、紀元100年ごろ、北部九州で起こった話という説に信憑性を感じます。8世紀に火山活動が活発になったため、北部九州を諦めて京都に遷都したという説があり。その時に、英彦山に残っていた八咫烏が熊野に移り、天照は女神に変えられて伊勢に、そのほか諸々の土地名が記紀に沿うように名付けられた、というシナリオです。北部九州にあったお寺が廃された記録は事実としてあるようです。奈良の大仏も例外ではありません。衝撃です。  紀元前に呉が越に滅ぼされたり、越が楚に滅ぼされたり、秦が滅ぼされるたびに移民やら難民が押し寄せますが、主に若狭湾経由で関西に入り、河内あたりとか、さらには紫黒にも住んだのではないかと推測します。空白地帯だったのが奈良京都。農耕民としては、海側から川沿いに農耕を始めるのが定石でしょう。琵琶湖付近も耕地として早くから発展していたでしょうが、奈良ってそんなに古くから優先して開拓されるような要素ありますか? 海も無いのに? しかも青銅器も鉄器も無い時代に、木を切ってまで開拓できないと思いますよ。自然と海岸や川沿いから開拓されるでしょう?  福岡県の桂川町あたりに平城京があったとする説があります。鶴見火山の噴石が何日にもわたり降り続ける恐怖。三世一身の法やら墾田永年私財法などを立て続けに放ってでも、風水的に良好な土地に遷都したかったのだと思います。このあたりは、福永晋三氏の動画からインスパイアされた知見です。
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 8 күн бұрын
コメントありがとうございます! 北部九州説も興味深いですね!色々な角度からの考察があって楽しいです😊
@mrrx2364
@mrrx2364 8 күн бұрын
初見です。 素朴な疑問なのですが、ニギハヤヒとホアカリが同一人物か? と言う以前の問題として 『ニニギの命』が先に渡来していませんか? ヤタガラスの末裔である 伊勢の語り部が 暴露しました。 因幡の白ウサギとは 失われた十支族の内の一人であり『ニニギの命』だと。 助けたのは 大国主で 長い航海で皮膚が焼けただれ瀕死の所をがまの油で一命を取り留めたと。 ニニギは日向(高千穂)に降りて、その墓もある。 そのニニギの妹が大国主と結婚で、記紀では八上姫とされてますがね。 これが紀元前660年の建国記念の日。 ドラビダ族の 三内丸山遺跡は 紀元前4千年頃。 で、ニギハヤヒとホアカリは別人だと思います。 が・・ ニギハヤヒは アマテルですよね? ホツマツタエでは 天照大神は 男神で アマテルだと。 その奥さまは セオリツヒメ。 違うかな?
@mrrx2364
@mrrx2364 8 күн бұрын
ニニギは日向に降りたが(宗像族)、他の失われた十支族は 高天原(熊野三山)に降りたそう(伊勢の語り部談)。 だから阿波説も正しい。 あと気になったのは ドラビィダ族がヒンズー教は違う。 ヒンズー教が発生する前に、日本に渡来しているので関係無い。 インドの蛇神ナーガが ナーガスネヒコになってないか? 手長足長族の証拠は 富雄丸山古墳出土の254cmの 蛇行剣。 盾型銅鏡も同時出土で、ナガスネヒコの一族のものと見て間違いない。 そのトミノ ナガスネヒコがニギハヤヒと関係が深かった(ホツマツタヱでは裏切り)。 ウマシマジと戦ったとか、大物主(アジスキタカヒコネ)の裏切りとか 富家も疑心暗鬼になるわ。
@noshimaru123yt
@noshimaru123yt 8 күн бұрын
縄文人帰還説に賛同します。アカホヤ噴火以前、稲作縄文人が吉備や讃岐、あるいは阿波で稲作を行っていた可能性は高いと思いますが、帰還した先が阿波という説には疑問を感じます。 青銅器、鉄器の技術を持って帰って来るのに、資源の無いところを選ぶものでしょうか? そして移動を始めた時期についても、10支族が消えた紀元前722年ごろから移動したのではなく、もっと前から徐々に帰る動きがあったと思います。ただ、大陸横断は困難を極めたので、途中途中、拠点にも残る人がいて、枝分かれしながらも、帰ってきたのだと思いますが、陸路だけではなく海路での帰還もあったはずです。ペルシャまで船で行く技術があったのですから。一部は西インドでインダス文明に影響を与えたと思います。ロータル遺跡というのがありますが、近くに塩田が今でも残ります。これ、縄文人が作ったのでは?と訝しんだりもします。ですが、前2000年ごろインダス文明へのアーリア人の侵攻があり、逃げ出すことに。このあたりの時期は、出雲口伝と近いですが、船で帰ってくれば1年もかからないのに、なんで陸路?って感じです。縄文人はドラヴィダ人と別れて海路で帰って来るのですが、途中寄り道したのでは、と思っています。まだ南九州がアカホヤ噴火の影響から完全には復活していなかったのかもしれませんが、長江流域で鉄や銅や錫が採れたからではないかと。その間、結果として、殷や周の建国を手伝っていたのかもしれません。それで九州北部に渡来したのは、春秋戦国時代が始まった頃。香春三の岳では鉄や銅、金が採れましたからね。鉄は砂鉄ではなく鉄鉱石らしいです。
@Wanko_Nyago
@Wanko_Nyago 8 күн бұрын
ハプログループ検査。簡単に出来るので面白いです。 わたしは女系も男系もアフリカから男系はAから、中東、アジア(男系はヒマラヤ北から南ルート、女系は南ルート)から、日本人でした笑。東京大学の研究で白のエリア出身の人はいまがどのハプログループでも、同じようになるような気がします笑
@Wanko_Nyago
@Wanko_Nyago 8 күн бұрын
出雲は八雲たつなど含めて 国かもしれませんが概念的な物や信仰的な物だったのかもしれませんね また都市伝説界隈で騒がれるDの遺伝子… ハプログループは進化して発生するので変わってない方が変わっているようです。 弥生人 O1b2 ja.m.wikipedia.org/wiki/弥生人 引用 「Y染色体ハプログループとY染色体構造解析によるY染色体の進化:日本人において比較的頻度が高いY染色体ハプログループD1a2、C、O1b2、O2a2b1、O2a1bは例外があるものの同一の構造パターンを示したことから、それぞれ共通の先祖から由来していると考えられる。一方、頻度が低いK、O1a、O1b1a1a1、O2は多数の構造パターンを示したことから、それぞれ異なった先祖由来であり比較的最近日本に流入したと示唆される。」 kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PUBLICLY-19H05346/ 東京大学の渡来系弥生人は有名ですね ゲノム解析はミトコンドリアにて男系も女系もわかりハプログループもわかるようですね 同様な一族でD、C、Oハプログループ? www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/8252/
@b.m.fujioka4530
@b.m.fujioka4530 9 күн бұрын
メルカトル図法でもズレがあります日本から東に行くと地図ではアメリカですが実際はチリに着きます。 当時メルカトル図法は無かったのでどんな地図を中華で使っていたかですよね 私は現代の地図上での整合性にはあまり拘らなくてもいいかなと思います。😊
@hitokotonushi-i6k
@hitokotonushi-i6k 9 күн бұрын
古代東アジアは中国の影響で漢字が国際語で、記録は漢字で書かれてる(日本書紀も漢文)ので勘違いしやすいが、突厥はトルコだし安氏はペルシャ人。すべてがモンゴロイド(顔の平たい族)の話ではない。
@hitokotonushi-i6k
@hitokotonushi-i6k 9 күн бұрын
箕子朝鮮(辰迂殷)=智准氏燕(チエシエン)→チョーセン(潮仙/朝鮮)……智准氏(カルデア人)の建てた最初の「燕」
@macyslime
@macyslime 9 күн бұрын
高知の物部から国道195号で峠を越えて徳島へ入ると那賀川上流の那賀郡木頭村ですが 昭和26年までは海部郡木頭村だったんですよね。 那賀川上流地域なのに大正時代に那賀川沿いの道路が開通するまでは 木頭の特産物は急峻な霧越峠を越えて海部川を下り海へと運ばれていたようです。 今でこそ酷道193号が昭和40年代に開通していますがそれでも険しすぎる山間部です。 物部と海部。 なんか気になります。
@F修子
@F修子 9 күн бұрын
科学的に説明されていて、説得力有り。最高‼️ 亡くなった叔母さんも歴史が大好きでした。 この画像を一緒に見たかったなぁ、、
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 9 күн бұрын
ありがとうございます😊
@古澤功-c7e
@古澤功-c7e 9 күн бұрын
出雲口伝、良いですね。・・・古事記、日本書紀、読んでいたが、歴史書ではないな、という印象でした。出雲口伝の方が、追いかけやすかな。因みに徐福が出雲に自身の子供を残していったと、述べてますが、そもそも徐福がイスラエル系のシオニスト血族の可能性ならば、平気で残して帰りますね。・・・率いた2000人にも及ぶ責任者ですし、大国主と少彦名を海童等が殺したとありますが、明らかに徐福の指示でしょう。秦の始皇帝の時代は、孫子の兵法全盛期、騙すこと、暗殺することが普通で、卑怯、汚い、自身の利益が優先で失敗は、即、死が待つ時代、映画キングダム等マンガ流の甘っちょろい世界ではない、時代でしたからね。だから子供なんかには見向きもせず、慌て逃げたのでしょう。・・・それに偽名を名乗り、コロコロ変えることに躊躇がない。・・・私なぞから見ると、シオニスト、彼等が世界中の王朝王室を憎み、近代では、ナポレオン戦争の時ナポレオンがイギリスに負けたにも関わらず、その情報を握りイギリス国債を大量売りで暴落させ、買い戻し、欧州一の財産家に。中国清王朝を阿片で崩壊させ、帝政ロシア打倒の為育成した明治期の日本の産業振興を指導し、日本を使って清王朝を打倒。その実力を帝政ロシアに向け、帝政ロシアまで打倒。・・・倒れた清王朝後に中華人民共和国、帝政ロシア後にソビエト連邦という共産主義実験国家を作った。アメリカは王朝が無いのでこれ幸いに民主主義国家という実験国家を作った。・・・更にドイツをポーランド侵攻、日本を真珠湾攻撃を画策させ成功した。最後に日本本土攻撃で原爆含め50万人以上の民間人が死亡してもケロッとしている。その後シオニスト等はアメリカを使い、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、ウクライナ戦争、イスラエルによるガザ攻撃等、相手に戦争を仕掛けるように仕組む(CIA等が相手国をコントロール)・・・まあ徐福にこのユダヤ、シオニストが重なって見れるのです。強欲、傲慢、冷酷・・・出雲口伝に辿り着いてハッとしたのは、この事です。・・・確か、徐福等、或いはその子孫等が出雲領地内で無理矢理星神信仰を強要し、太陽信仰の器具等を次次と破壊し、結果的にそっぽを向かれたとあったと思いますが、まるで今世紀のアメリカ政府とアメリカ軍のやり方にダブって見えます。・・・出雲口伝の面白さは、出雲連合王家を保つ為、戦争をしないで結婚と豊作の国が不作の国に分け与えて広げた。一方徐福等は力で奪い取って広げた。縄文が平和で弥生が混乱の始まり。・・・ここですね。
@70yago
@70yago 9 күн бұрын
ヒッタイトのアリンナの太陽女神の子は豹にまたがりマサカリを担いだ『サルマ』と言う山神で牡牛の神でもある。アリンナの太陽女神は西王母と同一存在だと考えられ桃太郎の桃と関連がありサルマは金太郎に似ているよね☺️
@和秀多酒
@和秀多酒 10 күн бұрын
いつも楽しく拝見させて頂いております🙏✨ 口伝とされる「出雲の蘇我王国」では、徐福1回目の上陸時は「スサノオ」で、2回目の上陸が「火明櫛玉饒速日尊」ではなかったでしょうか? 今、ちょうど読み始めの途中なので、間違っていたらゴメンナサイ💦
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 9 күн бұрын
こちらこそありがとうございます😊 別のものでは一回目がホアカリで、彼の存在が記紀では後にスサノオに書き換えられたとあったり、本によって少しずつ主張が違ったりするのが個人的には気になっていたりします😅
@yoshiakimaeda3319
@yoshiakimaeda3319 10 күн бұрын
出雲口伝はあくまでも口伝 信憑性は低い様に思います
@tangseeajirapa
@tangseeajirapa 9 күн бұрын
@@yoshiakimaeda3319 そうやって全否定すると真実を見落とすし自分の幅を狭めるよ。 全部が誤りで全部が真実って考えが間違い。 どこが誤りでどこが真実かを自分で見極めたらいい。
@yoshiakimaeda3319
@yoshiakimaeda3319 9 күн бұрын
全てを否定しているわけではありません トラビダ(タミル)は一部言語は似ているものの 遺伝的な共通点は認められない。アラハバキ クナト神が関東以北で見られますがそれが出雲由来である根拠はありません あまべ氏の系図を添付されても 出雲と関係している根拠はありません いろいろもっと緻密に研究されている方の書物を読みましたが私の中では 口伝にあるような出雲王国はなかったと考えています
@tangseeajirapa
@tangseeajirapa 9 күн бұрын
@@yoshiakimaeda3319 ほう。。。そのいろいろもっと緻密に研究されてる方の書物とは誰のなんて書物なの?
@yoshiakimaeda3319
@yoshiakimaeda3319 9 күн бұрын
@@tangseeajirapa  出雲口伝としては 富士林雅樹先生 斎木雲州先生の本を読みました それ以外に 小林惠子先生の興亡古代史   畑井 弘先生の古代倭王朝論 石渡 信一郎先生の 蘇我王朝と天武天皇 落合莞爾先生の 天皇皇統になりすましたユダヤ十支族 それに鹿島 昇先生の書物です
@tangseeajirapa
@tangseeajirapa 9 күн бұрын
@@yoshiakimaeda3319 アマゾンで調べた名前挙げられてもな
@asada11112
@asada11112 10 күн бұрын
飛騨地方での話ですが、 『ヒアカリ』と言う名前の蛇がいると、 (飛騨の方言?) 猟師だった明治生まれの祖父から聞いた事が有ります。 日本の古代史などでは古い神様が蛇だと言う話を聞きますが、 饒速日も蛇の神様と関係あるのかもしれません。 ネットで調べたところ、 『長野県松本市島立 (町区) における比喩語』 と言う資料にヒアカリと言う蛇について書かれていました。 正式な名前は『ヒバカリ』と言うヘビなのかもしれません。 (こちらはネットでちゃんと出てきます)
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 9 күн бұрын
ありがとうございます! 飛騨にも有名な口碑ありますもんね😊 第二次大戦の後、一時草薙の剣が熱田神宮から水無神社に移された事もあったようなので、飛騨と尾張も繋がっているとすれば飛騨にもホアカリの伝説が残っているのは納得出来ますね!
@maxwelmebius2798
@maxwelmebius2798 10 күн бұрын
ドラビダ族の言語が日本語に近いというのはこの穂明かりの渡来起源ということなのかなあ。 これら徐福の渡来系統は海のシルクロードコース(インド経由)ということだろう。 これと違って弓月国からの渡来した秦氏の系統は陸のシルクロードコースで半島経由のコースだろうね。
@maxwelmebius2798
@maxwelmebius2798 10 күн бұрын
ヘブライ語は今は死語になって現存しておらず、現代ユダヤ人の言語は人工的に作られたイーディッシュ語になってると思う。本来のヘブライ語がどうだったかは想像するしかないだろう。 縄文人の言語はおそらくアイヌ語に近いものだったと思われる。となると今の日本語は渡来人の言葉が基礎になってると考えられる。渡来人の言語は中国の中原(Y遺伝子Oタイプ)あたりと弓月国(Y遺伝子Dタイプ)のあたりの言語だろう。弓月国の言語がヘブライ語だったとすると日本語の半分がヘブライ語ということになるのではないかなあ。尤も現代の日本語は明治時代に作られた人造共通語なので大きく変化してしまっている。方言を発掘するとヘブライ語が出てくるかもしれない。
@elelsse
@elelsse 10 күн бұрын
「出雲」という漢字自体は後世の当て字でしょうが、ちゃんと伊津面(阿波の平野部)の意味を考慮してこの漢字が充てられていると思います。 古代の阿波(四国)は現在よりも平地が少なく多くの人々が山の斜面に村落を築いて生活していたのですが、山上のような高所に 村を作って住んでいれば村には頻繁に雲が掛かり正に雲の中で暮らしている様な状況だった訳です。 それに対して伊津面(平野部)は山上のように雲が直接掛かる事の無い、まさに出雲(雲の中から出た場所)だった訳で、雲の掛からない伊津面を見事に表現している漢字なんですね。 出雲という漢字は頻繁に雲が掛かる山上で生活している人々から見た雲の掛からない伊津面(阿波の平地)の土地を言い現わす為に創られた倭製漢字だったのですが、古代の人は現代人よりも高度なネーミングセンスを持ってたみたいですね。
@Fukuoka0717Taka4
@Fukuoka0717Taka4 10 күн бұрын
氷河期はアフリカより日本の方が暖かかったということでしょうか?
@surinngo4129
@surinngo4129 10 күн бұрын
いつもの
@UnknownUnknown-nx7ov
@UnknownUnknown-nx7ov 10 күн бұрын
段々と核心に近づいて来ましたね。確信に繋がると良いですね。
@kageura2262
@kageura2262 10 күн бұрын
はじめまして信政さん、いつも更新を楽しみにしています。 私は「伊津面」は「伊津毛」、もっと言えば「委津毛」と書くのかなと考えています。 「〜毛」は、onezerozero flatさんによれば、「「モウ(毛)」とは、集落の人々が集まる野原のこと。『万座毛』などが有名。」(『経塚の碑』~日常の合間の琉球史蹟巡り~)とのことです。 阿南の地に黒潮経由の海人族が同様の語彙を持ち込んだとの仮定が必要ですが、「イズモ」はイの国に隣接した野原に集まった人々の地とも言えます。伊豆も伊津つながりなんでしょうかね。
@shingekinobumasa
@shingekinobumasa 10 күн бұрын
ありがとうございます😊 漢字はいずれにしても後付けだとは思うんですが、色んな解釈がありそうですよね!