Пікірлер
@ayakashi__
@ayakashi__ 3 ай бұрын
30分余裕かぁ(2時間19分)
@BalderOrchard
@BalderOrchard 3 ай бұрын
何故あんな事を言ってしまったのかと後悔する事は、 人生において、たくさんあるかと思います。 今回の動画の尺も、そんな私の人生でのたくさんの後悔の一つになりました。
@ノスタルジック-g5s
@ノスタルジック-g5s 3 ай бұрын
生命は環境の渦に巻かれているだけ。 環境が環境であり続けているだけ。 そこにいろんな解釈を主に人間が乗っけさせられているだけ。 人間も環境を構成する一部。 生命が存在する意味はあると思うなら有る。ないと思うなら無い。 と思います。 あと、 あなたのいう不完全の定義の背景には、完全という曖昧な基準に依る。 と思う。 全ては基準に依る。 そもそも言葉自体が曖昧。 なぜなら環境の存在自体が曖昧だから。 だから、あなたが言葉の定義を勝手に決めろ!というのは非常に共感します笑 けれど、あなたの人の定義が厳格だと私は思って、日々の中で気に触ることが多そうで生きづらそうだなぁと思いもしました。 まぁそれも環境に望まされている行為なんだなぁとも思いました。 隙時語ですが 私の思想は、 人間を構成するものは、 環境+遺伝子だから、起源を辿るとそこには環境しかない。 つまり、最初の生命は環境に刺激されて突き動かされている。 という見方。 そして現在も、環境によって生命は突き動かされている。(言動させられている。) よって、世間一般でいう自我は存在しないと思ってます。 また、人が生きやすくなることを追求した終点は環境への帰依(分離の心の崩壊)だと思ってます。 なぜなら、それが一番生きやすいからです。 死なずにその終点に至るのが悟りかなと思います。 つまり、生きやすさを求め続けた末、人類は滅亡するってことですね。 また、全てが完璧に動いているという見方でもあります。 だから、私は常に今の自分が完璧だという基準にして生きてますね。 この考えは私はとても気に入っています。 全生命におすすめです♪
@BalderOrchard
@BalderOrchard 3 ай бұрын
コメントありがとうございます。 個人的な自己紹介の言葉を大事にするのが私ですので、 隙あらば自分語りは大歓迎です。 そちらで言う環境という言葉が、おそらく私の言っている経験に近い概念なのでしょう。 そう考えると、私の言う「人は経験でしかない」という言葉が、 そちらの環境の話に近いものなのだと思います。 なので、認識の根に近い部分では、そちらの思想と私の思想には共通点が多いかと思います。 明確に違う部分としたら、その認識の元に個人的に何を思うのか、という部分で、 そちらの思想ですと、人は生きているだけで完璧である、となり 私の思想ですと、人は生きているだけで不完全である、となります。 一応私の定義上ですと、そちらの思想は私の言う自然側に近い、というカテゴリの分け方も可能で、 私の思想への感想として、 人の定義が厳格で、気に障る事が多いと思った、という感想は、まさにその通りです。 私の思想とそちらの思想を、反対のものである、と言う事も出来なくはないでしょう。 ただ、個人的に思う事があるとしたら、 これは言葉のラベルの違いでしかなく、 生き方の違いが、生きやすさの定義を別のものにしているだけでしょう。 私の思う生きやすさが、人は生きているだけで不完全と思った方が生きやすい、であり、 そちらの思う生きやすさが、人は生きているだけで完全である、という言葉で表現されているだけです。 言葉としては逆のように見えますが、人の生きやすさを追求しているベクトルは一緒なのかなと思います。 私のよく言う言葉の中でも、「人はもっと傲慢に自分らしく生きていい。」というものがあったりします。 私自身、人生というものの価値を高く見積もる事を大事にしていて、 全ての人が自分らしく生きる事を、大切にしてほしいと思っています。 人が生きる事そのものの価値を高く見積もるというのは、 ある意味、人が生きているだけで完全である、という言葉の意図と被る場面が多いかと思います。 人が生きる事そのものを躊躇わないといけない理由など、どこにもありはしないのでしょう。 なので、私は嬉しく思います。 人の思想は、人生が違えば思想も違って当たり前であり、その結果中身が別々の物になろうが、 人よ生きやすくあれと願って思想を紡ぐというベクトルが、同じ方向を向いている事に。 目的の方向が同じであれば、結果として向く方向がバラバラであっても、 その方が目的達成効率が上がる事もあります、私の言う人間社会の相乗効果ってやつです。 私はそういう人の個人的な思想の話を聞くのが大好きですので、 あなたの個人的な思想の話を聞くのは、とても楽しかったです。 ありがとうございました。
@musyokun
@musyokun 3 ай бұрын
非常に合理的、論理的な話ばかりで面白かったです。この質問をするのはあなたを試す意図があったり、挑発的な意図があることはあえて否定せず先に明言しておきますが、その方がまだ少しは誠実であると思うので。人類はみな戦争もせず究極の全人類幸福になるべきだと思いますか?それとも今のままでいいと思いますか?言い換えますと、あなたが考える理想の社会や未来像はどんなものでしょうか?
@BalderOrchard
@BalderOrchard 3 ай бұрын
感想と、丁寧な前置きをありがとうございます。 正直に申し上げて、この丁寧な前置きを読んだだけで私は既にうれしく思っています。 偏屈オタクの血が一瞬騒いだ、とでも言えばいいでしょうか。 ですので私も私なりに、丁寧に質問に返していきたいと思います。 まず一点目、「人類はみな戦争もせず究極の全人類幸福になるべきだと思いますか?」について。 動画内の話と重複しますが、全人類の完全な幸福を定義できる存在は、 全知の存在であり、その手段は100%の推測である、としています。 その上で、人は全知には至れないよね、というのが私の話でしたが、 今回の質問文は、仮にそのような全人類の完全な幸福が実現できるとしたら、 それを目指すべきか、あるいは実現すべきか、という問いだと私は解釈しました。 それに対する私の答えは、目指すべきであるが、実現すべきではない。ですね。 100%を目指す事自体に意味はありますが、完全な幸福というのは、 今回のスライドで言う自然や死の側に属する物です。 今回のスライドの人の側にも、不完全さ、という文言があると思います。 人が生きる事そのものが、100%ではない事であるというのが、今回のスライドの内容です。 人が生きる事を、歩みを止めない事のように表現するなら、 仮に完全な幸福に至れば、それは歩みを止める事になります。 だが同時に、人が生きる事が歩みを止めない事なのであれば、 人が、各自の個人的な人生を自分なりにより良くする為に足掻く事を、私は肯定したいと思っています。 人生の終わりが、死という100%完全で自然な物だからと言って、生きる事に意味がないと言うのは、 今を生きている人を生きづらくしてしまう、というのと同じような話であります。 次に二点目、「あなたが考える理想の社会や未来像はどんなものでしょうか?」 これについても、一旦動画内の話と重複してしまいますが、 動画の最後の方で私は、人間社会の皆の目的達成効率を1%向上させる事で、 私の考えるハッピーな世界を実現する、というような話をしています。 確かに、ハッピーな世界というものは非常に曖昧な言葉であります。 とはいえ、同時に私はこうも言っています。 私の理想とする未来は、私の想像もできないものであってほしいし、私が正解を定義する気もない、と。 なので、この質問文に答えるとしたら、 私がその正解を示す事はないが、それが私の想像もできない物である事を望んでいる。 という感じになると思います。 そもそも、この課題自体が、 私の想像の範囲内では実現できないような、無理難題に対してのアプローチなのですから、 私が未来を想像出来てしまっていたら、それは最初から勝ち筋のない試合になってしまいます。 私は結果的な勝ち負けよりも、勝ちに行く事そのものを楽しむ事を大事にしていますので、 僅かでも勝てる可能性がある試合をしたいと思っています。 以上が、私からの返信になります。 最後に、コメント頂けた事自体に本当に感謝しております。 ありがとうございました。
@musyokun
@musyokun 3 ай бұрын
@@BalderOrchard 素晴らしい回答ありがとうございます。非常に参考になりました
@ビリリダマン-o1w
@ビリリダマン-o1w Жыл бұрын
ただのレトリックじゃね? 両足ないよくんを両足ないからって殴ったら人扱いしとらんけど、両足ないからって理由で法的補助しても人間扱いしてないんか? イギリス国王だとか老人だとかの理由だけで殴ったらアレやけど、介護とか厚遇したら人間扱いしてないんか? レトリック事典に書いてありそうな手法で、実態以上に誇張した印象を与えてるだけなんよ そもそも矛盾してるやろ 人が一人一人違うなら、みんな違うのにみんなに同じ扱い・同じルールを敷いてたら、不平等かつ非効率やんけ みな性質の違う人間なら、同じルールが適応されたらそのルールに適してる誰かが得して誰かが損するだけやん 考え足らんやろ ネットによくいる、誰かに指摘されないまま育ったせいで誰も偏向思考を正してやれなかったから個人ブログに引きこもってツラツラ書いてるタイプやん 弟はそういうの見るの好きなんやが俺は嫌いなんよね
@BalderOrchard
@BalderOrchard Жыл бұрын
コメントありがとうございます。 レトリック、というものが何かはわからないのですが、 私の解釈では、法律も、人が生きやすくなる為の道具であり、 人が生きやすくなるように、特定の人々に法的補助を付ける法律がある事は、 解釈上何も問題がないと思っています。 人が人を殴る事に罰を設けることで、人が協力しやすくなり、 それが結果的に、人を生きやすくする、という道具だと思っています。 ゲイをゲイである、という理由で厚遇する事が、 人間を人間扱いしていない、という下りは、 人間は、ゲイとゲイでない人間の二種類ではなく、 そもそも一人一人違う、という疑問を呈す為の例として、 書かせていただきました。 矛盾、という言葉については、 私は、矛盾という認識・概念を人間が持っている時点で、 矛盾=存在しえないもの、という意味の否定では、 使用できない言葉だと思っています。 ただ、後半の文章の、 みんな違うのに、みんな同じ扱い・ルールを敷いてたら、 非効率という話は、完全に私の言いたい事と同じです。 人が一人一人違って当たり前なのに、 人間を良い人と悪い人の二種類に分けようとしたり、 自分と相手の考え方感じ方を同じだと思おうとしたり、 何が正しくて何が正しくないか、と言う話をするのが、 人が生きやすくなるために、人が作った道具である思想として、 目的達成効率が悪い、というのが私の主張です。 認識も、思想も、精神的な道具でしかないからこそ、 人を生きやすくしない使い方は、改善していくべきでしょう。 そこに、これは正しい、疑ってはいけない、考えてはいけないという領域を、 作りたくはないのです。 考えた量が足りないから人が不幸になる、という後半の話も、 私は、首を縦に振り続けるしかありません。 ちなみに、私がネットによくいる偏った狂人という認識も、大正解です。 私は言葉を惜しまない農家ですが、見やすいように少し短めの動画にしたせいで、 結果的に言葉を惜しんだ形になって、反省しております。 言葉は、決して理解されないものだからこそ、 言葉の量を、惜しむべきではありませんね。 そして何より、コメントを頂けて、非常にうれしいです。 私は、人間の嫌いという感情も、好きと同じように、 その人間の人生で感じた事、考えた事、選択した事として、 大事にしたいと考えています。 私の個人的な言葉を聞き、自分の個人的な言葉で、コメントを書いて頂けたあなたに、 多大なる感謝を。