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Пікірлер
@ちいといつ
Ай бұрын
国破れてサンガリヤ、みんな一緒に飲んだりや
@yugureyamanaka2730
2 ай бұрын
謝 枋得(しゃ ほうとく)(1226年3月23日) - 至元26年4月5日(1289年4月25日))は、中国南宋末期の政治家もエピソードが多いです。 彼の生き方が、【雪中松柏】 (せっちゅうしょうはく)という強烈な意味をもつ故事になりました。彼の人柄は豪壮にして博覧強記で直言を好み、常に古今の国家存亡について論じた。宝祐4年(1256年)に進士に及第し、撫州司戸参軍に任命されたがすぐに辞任し、呉潜に従って民兵を集め信州を守る。宝祐5年(1257年)に賈似道を誹謗した罪で興国軍に左遷された。徳祐元年(1275年)にモンゴル軍が南下すると長江沿岸の防備を任され、南宋を守るために奮闘したが大勢を覆すことができず、国の滅亡を見ることとなる。姓を変えて諸国を遍歴し、売卜(占い)を業としながら、弟子が多くなったので閩中に住居を定め、元のクビライの旨を受けて程鉅夫から招かれたが自分が「亡国の大夫」であるとして拒絶。至元25年(1288年)第5回目の人材招致があり、魏天祐に強要され燕京に赴く。死を覚悟した謝枋得は妻子知友に七言律詩を示し、道中から絶食し翌年4月に燕京到着直後に没する。 謝枋得の最期の詩も残っています。謝枋得の最期の詩は、以下のようなものでした。雪中の松柏は愈(いよいよ)青青 綱常を扶けて植(た)てるは此の行(たび)に在り 天下久しく 龔勝の潔なし 人間何ぞ独り伯夷のみ清からん 義は高く便(すなわ)ち覚ゆ 生の捨つるに堪えんと 礼は重く方に知る 死の甚だ軽きを 「南八」は男児にして 終に屈せず 皇天上帝 眼は分明 (詩の中の「綱常」は永遠の真理のことです。龔勝(きょうしょう)は、昔に、漢王朝から皇帝の座を奪った簒奪者の「王莽」に抵抗して自殺した人物です。南八(南霽雲)とは、安禄山の乱で、反乱軍に降伏せずに節を守って、処刑されただ人物です。唐王朝の側で戦ったそうです。南 霽雲(なん せいうん、生年不詳 - 757年)は、唐の武将。唐の名将の張巡配下として雷万春とともに活躍した。なお南八とも呼ばれている理由は、(生まれた順番が八番目であったと思われる)
@yugureyamanaka2730
2 ай бұрын
元と南宋が戦った「虎嘯山の戦い」(こしょうざんのたたかい)は、虎嘯山(現在の四川省広安市前鋒区の東での戦い)は、すごい激戦だったようです。虎嘯山の戦い(こしょうざんのたたかい)は、1264年(景定5年/至元元年)にモンゴル帝国と南宋との間で行われた戦闘。この歳、南宋側で新たに四川方面の司令官に任じられた夏貴が大軍でもって虎嘯山(現在の四川省広安市前鋒区の東)を包囲したが、元朝側の虎嘯山の守将である「張庭瑞」は南宋軍の包囲を耐え凌ぎ、援軍として到着した焦徳裕らとともに南宋軍を撃ち破った。 景定5年(1264年)4月3日、南宋朝廷はモンゴル軍の侵攻に対する対策として、将軍の「夏貴」を四川安撫制置使・知重慶府・四川総領・夔路転運使に任命して四川方面に派遣した。四川に赴任した将軍の「夏貴」は。まず対モンゴルの最前線である渠州に兵糧を届けるよう都統の王甫に命じ、自らはモンゴル側の前線基地である虎嘯山を攻撃することを計画した。夏貴による虎嘯山の包囲計画はモンゴル側にも伝わっており、同年6月に万戸の石抹紇札剌が命を受けて元帥のキプチャク(欽察)を援軍として虎嘯山に派遣している]。 この頃、虎嘯山にはモンゴルに仕える張庭瑞が5千の兵とともに駐屯しており、夏貴とその配下の張玨・昝万寿・孫立らが数万の兵を率いて虎嘯山を包囲すると、籠城戦を開始した。当初、張庭瑞配下の諸将は出城して決戦を挑むべきでると主張したが、張庭瑞は「敵軍は我が方の10倍近く多く、我らが往けば殲滅されるであろう(彼衆十、我往則殲矣)」と述べ、援軍要請を行うとともに籠城に専念することを決めたという。 張庭瑞は砲撃によって柵が破られると牛馬の革を広げて大樹にかけ柵がわりにし、また水攻めによって水不足となると人畜の溲(小便)を煮沸してしのぐなど、様々な手をこらして南宋軍の攻撃を耐え凌いだ。数カ月にわたる包囲戦の末に、遂に元帥のキプチャク(欽察)が派遣した趙匣剌・焦徳裕らが援軍として到着した。援軍の到着を知った張庭瑞は「敵軍は我らが怯懦で出戦することはないと思っているだろう」と述べ、1500の兵を500名ずつ3隊に分け、夜襲を仕掛けた]。時を同じくして焦徳裕も配下の兵卒に1人あたり3つもの松明を持たせ、実態以上に兵数を多く見せかけた上で夜襲を行った]。夜間に内外から予想外の攻撃を受けた夏貴軍は敗走し、張庭瑞は都統の欒俊・雍貴・胡世栄ら5名を捕縛・殺害する功績を挙げ、モンゴル側は全体で1千の首級と1万を超える馬畜・兵仗を獲る大勝利となった]。張庭瑞は激戦の中で全身に何カ所も傷を負ったが]、趙匣剌は敗走する南宋軍を追撃して新明県(現在の四川省広安市岳池県)まで至り、30余りの首級を得ている[]。なお、虎嘯山の戦いを巡る記述は史料によってやや異なり、張庭瑞の伝記である「張公神道碑」には「援軍が積極的に戦おうとしなかった(援至不敢前)」とあるが]、これは張庭瑞の功を強調するためのもので史実とは異なると考えられる[]。また夏貴の伝記である「夏公神道碑銘」には「監軍の呼延徳が成都への援軍のため兵を移すことを乞うたため、昝万寿・孫立らとともに虎相(虎嘯山)を去って潼川に向かった」とあり]敗戦のことを明記していないが、これも夏貴にとって不名誉な事実を隠蔽したものとみられる]。
@yugureyamanaka2730
2 ай бұрын
製作者様、以前に、リクエストしていた「手に汗」が動画になっていて驚きました。趙 璧(ちょう へき)は、他にも南宋との戦いや、他にも朝鮮半島に派遣された時にも活躍しているようですね。趙璧 は、至元元年(1264年)、内戦が終結したことにより官制の整備が進むと、趙璧は栄禄大夫の地位を授けられた。この頃、南宋に対する檄文の執筆を担当して評価され、枢密副使の地位に移っている。至元6年(1269年)、南宋の守臣で投降を約する使者を派遣した者があったため、その処遇をめぐる謀議を行うためアジュの下に派遣され、以後は、南宋との最前線に留まることとなった。ある時、南宋の名将の「夏貴」が5万の兵と3千艘の軍船とともに襄陽城の救援のため接近してくると、趙璧は天険の地に伏兵を置きこれを待った。夜間、趙璧は伏兵を動かしてまず敵船を5奪い、「南宋水軍は既に敗れたぞ」と呼びかけたため、怖じ気づいた夏貴は軍を動かすことはなかった。翌日、アジュ率いる軍団が到着し、諸将とともに長江を渡って騎兵で夏貴軍を追撃し、趙璧は水軍万戸の解汝楫らとともに南宋水軍に接近し、虎尾洲で戦闘が繰り広げられた。この戦闘で南宋軍は大敗を喫して多くの溺死者を出し、趙璧は戦艦50を拿捕し将士300人余りを捕虜とする功績を挙げた。一方で、前年の至元5年(1268年)には、朝鮮半島にあった「高麗」王朝の国王の「元宗」が武臣の「林衍」によって王位を追われるという事件が起こっていたため、クビライは趙璧を、召喚して、「頭輦哥」とともに平壌の城に派遣した。趙璧らが到着する頃には既に林衍は死んでいたが、趙璧は元宗に江華島に都を置いたままであることが権臣の跋扈を招いているのであり、古京(=開京)に戻るべきであると助言したため、遂に元宗は開京への再遷都を決意したという。なお、趙璧らの帰還時には高麗の美人を同行することになり、趙璧にも3人が、あてがわれたが、趙璧はみな郷里に還してしまったと伝えられる[。● 夏 貴(か き、1198年 - 1280年)は、南宋末期の将軍です。 景定元年(1260年)以後、モンゴル帝国(後の元)の南下が始まり、淮南を守っていた夏貴はモンゴル軍の攻勢の前にたびたび苦戦を強いられた。しかし敗れたとは言え、郭侃・バヤンといったモンゴル側の名将をたびたび危機に陥れるなどして、武名は広く知られるようになった。 至元元年(1264年)には、四川安撫制置使・知重慶府・四川総領・夔路転運使に任命されて四川方面に赴任し、大軍で以てモンゴル側の前線基地である虎嘯山を包囲した。しかし、虎嘯山を守る張庭瑞は将兵をよく統御して数ヶ月にわたり籠城を続け、援軍として到着した焦徳裕らによって夏貴は敗れてしまった(虎嘯山の戦い)がありました。そのあとは、味方であった呂文煥が守る重要拠点の襄陽城への援軍として派遣されるが、南宋王朝の朝廷(中央)では権力者の「賈似道」の妨害を受けた上に、モンゴル軍によって水軍が壊滅させられたこともあって、十分な目的を達することが出来なかった。徳祐元年(1275年)、賈似道による元討伐軍に参加するが、元軍の前に蕪湖の戦いで大敗してしまい、都の臨安への道を元軍により絶たれたために、淮西に逃れて徹底抗戦をする。しかし、徳祐2年(1276年)に臨安が陥落して恭帝が降伏したと知ると、恭帝の身の上を案じていた夏貴はバヤンの説得を受けて元軍に降伏した。降伏後は元の官職を授けられ、弘安の役の蛮子軍(降伏した南宋の軍勢)司令官として任命されるなど重用されたようであるが、出兵前に心ここに在らずの状態で、失意のうちに病死した。人々は、「なぜ、(彼のような忠臣が)79歳で無くして83歳で逝ってしまったのか(降伏した時の年齢が79歳であった)」とその死を惜しんだと言う。
@thehero3594
2 ай бұрын
yugureさん、コメントありがとうございます。今回は一年以上前にリクエストをいただいた「手に汗握る」を動画にしてみました。正直、この言葉の由来がフビライハンにあるとは知りませんでした^^;これまで数々の中国史由来の言葉を紹介してきた私としては、いつか動画化しなくてはと思っていましたが、大元帝国の概要ぐらいしか知らなかったので挑むことができませんでした。なので史実的におかしなところもたくさんあると思いますが、結果的に自分の最高傑作を更新できたのかなと思います。これでyugureさんからのリクエスト作品は「七歩詩」「有志共成」以来の三作目となりました。またよければ、人物のエピソード・言葉の由来・史実による補足などコメントお待ちしています。では、ザ・ヒーローでした。
@nbuob19
2 ай бұрын
動画アップおつかれさまです、今回も面白かったです。 あまり有名でない個人(少数派)が、時の権力者(多数派)相手に堂々と自分の考えを主張し、世の中に一石を投じる様は胸のすく思いで、ヒーローさんらしい動画でしたね! 最後に最近あまり用いられない1990年代ネタをぶち込んでくるあたり最高です、世代なんでw
@nbuob19
2 ай бұрын
ヒーローさん動画おもしろかったです、今回は特に挿し絵の数が増えてますね! この動画内で名場面、名ゼリフがたくさんあって色々感想を述べたいのですが、ひとつだけピックアップしますと 世間から馬鹿にされ食べるツテを失ってボロボロになっている韓信に、自分のご飯を恵んだおばあさんの行動と博愛精神に感動です。 いいじゃないですかー、減らないおにぎりのくだり!! ここから余談ですが、 マザーテレサの活動に、「死を待つ人の家(Home for the Dying)」役立たずと思われて一生を過ごし、路上生活をしている瀕死の病人に、生涯受けたことのなかった暖かい手当てをして死なせてやるための場所の逸話があり、 死ぬに決まっている人たちに、足りない人手をかけ、なけなしの薬を与えるのは「無駄だ」という人に対して、マザーテレサはこう答えたといいます。 生きる価値がないかのように思ってきた人々が、生まれて初めて人間らしく接してもらい、もしかしたら生まれて初めて愛された思いを味わったとき、その人たちは「ありがとう」と、中には笑顔さえ浮かべて死んでゆくのですよ。 つらいことしかなかった一生の終わりに、自分を生み捨てた親も、冷たかった世間も許して、平安のうちに神仏の元に戻ることを可能にする薬、人手は決して無駄に用いられたのではないのです。 何ができてもできなくても、どんな人でも、生きているだけで価値がある。 と 韓信が大功を立てることができたのは、彼を信頼し続けた主君劉邦、 当時、実績ほぼ皆無であったが、彼の才能を誰よりも高く買い大将軍に推薦した蕭何、 韓信が下級役人時代に連座の罪で処刑されるのを止めた夏侯嬰、 命がけで懸命に戦った部下たち、とたくさんの人々の存在があったからですが、 韓信はこのおばあさんと出会わなければ、もしかしたら世に出ることもなく人の温かさを知らず、ひっそりと生涯を閉じていたかもしれませんよね。 今回もよい動画をありがとうございました! おつかれさまです。
@yugureyamanaka2730
2 ай бұрын
作者様、 韓信の「つぶやき」は、個性的で面白かったです
@yugureyamanaka2730
3 ай бұрын
作者様、いつも新作アリガトウございます。 機会があったら光武帝を物凄く苦しめた反逆者の鄧 奉(とう ほう、? - 27年)の話も検討してみてください。鄧 奉(とう ほう、? - 27年)は、後漢草創期の功臣である鄧晨の兄の子です。鄧晨(とう しん)の妻は、光武帝(劉秀)の姉の劉元です。 ●建武元年(25年)、光武帝(劉秀)が即位すると、鄧奉も叔父の鄧晨と同様にその臣下となり、破虜将軍に任命された。しかし建武2年(26年)、大司馬の呉漢が、宛の董訢ら荊州の群雄を討伐に向かったが、呉漢軍はその際に各所で略奪行為を行い、なんと鄧奉の故郷の新野も被害にあった。激怒した「鄧奉」は、呉漢の軍を撃破し、漢に叛くことになる。この時、かねてから親交のあった趙憙が、鄧奉に度々書面を送って叛逆を非難したが、鄧奉は聞く耳を持たなかった。 鄧奉は董訢と協力して、漢の揚化将軍の「堅鐔」を南北から挟撃、包囲して、1年に渡り困窮させた。同年11月、光武帝は廷尉「岑彭」を征南大将軍に任命し、8人の将軍を率いさせて、(南陽郡葉県方城付近)の「董訢」を攻撃した。しかし「鄧奉」が「董訢」を救援し、その部隊は南陽の精鋭であったため、岑彭軍を相手に善戦する。その戦いぶりは、「賈復」を負傷させ、育陽の戦いで「朱祜」を生け捕りにするほどであった。 味方の大苦戦を聞いた、光武帝は、ついに、建武3年(27年)3月、ついに、みずから自分で親征することになりました。朱祜は、光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第8位になっているので、建武2年(26年)、南陽郡で、叛乱を起こした鄧奉と戦うも、敗れて捕われたと、 朱祜の記録に残っています。そして、光武帝が追撃してきたため、鄧奉は(南陽郡育陽県)で決戦を挑むが大敗した。進退窮まった鄧奉は、捕虜にしていた朱祜の仲介で漢に降伏します。 その後は、悲劇的な最期が待っています。光武帝も、処罰について、最後まで悩んだようです。
@thehero3594
3 ай бұрын
yugureさん、いつもコメントありがとうございます。光武帝の天下統一の物語りは必ず完結させようと思っています。その中で鄧奉との対決も描かれるでしょうし、まだ登場していない雲台二十八将も活躍すると思います。その中でも、隗 囂との苦しい戦いは私の腕の見せ所だと思っています。ただ、これからも後漢時代以外のエピソードが予定されているので先のことにはなると思います。近々新作もアップしますので楽しみにしていてください。では、ザ・ヒーローでした。
@yugureyamanaka2730
3 ай бұрын
光武帝の功臣である呉 漢(ご かん)が、時々、気まぐれで略奪行為をした事実も気になるエピソードですね。 人柄・逸話 朴訥な人物であるが、勇猛で知謀ありと鄧禹によって見出された。 朝廷では明察で謹厳質朴と見られ、戦場ではいつも冷静で挫ける事が無く、光武帝は呉漢を見れば安心できたと言う。 鬲県の攻略の際、鬲県の豪族たちがその長を追い出して反していたので、諸将が攻めるを請うも呉漢は「これは長の罪、軽々しく兵を進めるな」と許さず、この長を探させ捕えて城中に詫びさせ、無血開城させた。諸将はその知略に感服した。 建武2年、光武帝から宛の董訢の討伐を命じられたが、宛へ向かう途中で略奪を働く。故郷の新野を呉漢に荒らされた同僚の破虜将軍鄧奉は、激怒して呉漢を撃破し、漢に叛逆した。 蜀の攻略時、公孫述と延岑の一族を皆殺しにしただけでなく、配下の兵に掠奪を許し宮室を焼いたため、光武帝は譴責している。この禍根が後に蜀の叛乱につながった。 平時に光武帝が様子見させると武具の手入れをしていて、常に戦いに備え、何時でも出陣できた。
@yugureyamanaka2730
3 ай бұрын
光武帝の天下統一後に、反逆した人物達も興味深いですね。史 歆(し きん、? - 42年)は、中国の後漢時代初期の武将です。史歆は初めは漢の征南大将軍岑彭の護軍を務め、兵事に通暁しているとの評判を得ており、蜀(成家)の公孫述討伐に随従したと見られる。建武11年(35年)の岑彭の陣没を経て、建武12年(36年)に大司馬呉漢により公孫述が滅ぼされる。この後、史歆は蜀郡の守将として留め置かれた。しかし建武18年(42年)、史歆は成都で漢への叛旗を翻し、大司馬を自称した。史歆は蜀郡太守張穆を攻撃して、これを広都(蜀郡)に追い払い、郡県に檄を発したところ、宕渠(巴郡)の楊偉、朐忍(巴郡)の徐容などがこれに呼応した。史歆の反乱の動機は『後漢書』では明記されていないが、『華陽国志』によれば、公孫述を滅ぼした際の呉漢の略奪を憎んでのこととしている。光武帝は、史歆の軍事能力を警戒し、大司馬呉漢に武威将軍劉尚、太中大夫臧宮の2将を付け、1万人余りの軍勢を蜀に派遣した。呉漢は武都郡に入ると、広漢・巴・蜀の3郡の兵を徴発し、史歆を成都に包囲した。史歆も、呉漢を相手に100余日に渡って抵抗した。
@yugureyamanaka2730
3 ай бұрын
この動画の後に、隗 囂(かい ごう)と隗 純(かい じゅん)の親子が、光武帝から離反することで、4年以上の大戦になる話も期待しています。隗純は父を後継し、やはり天水郡に拠って光武帝への抵抗を続けた。これを支える部下には王元・周宗・行巡・高峻・苟宇・趙恢らが、健在で、しかも公孫述の部将である田弇・趙匡の援護もあったため、依然として侮れない勢力であった。これに対して光武帝は、中郎将来歙に、征西大将軍馮異・建威大将軍耿弇・虎牙大将軍蓋延・揚武将軍馬成・武威将軍劉尚を、天水へと侵攻させた。
@泰英岡田
2 ай бұрын
涼州平定戦は馬武の一番の見せ場がハイライトだと思います。初戦での敗戦の中、ここは俺に任せて行けと殿で大奮闘するまさに最後の切り札。さすがは雲台二十八将中最後まで生き残り、老いてなお最後の切り札として出陣して苦しい戦を繰り広げながらも勝利してみせる、これぞ闘将と呼ぶべき男の中の男!!
@yugureyamanaka2730
2 ай бұрын
@@泰英岡田 馬武の故事【車前草】は、漢方では有名ですね。 しゃぜんそうは、「オオバコ」のことみたいですが、ややこしいのは、西洋オオバコは、古代の中国の「オオバコ」と違うようで、西洋オオバコは、アレルギー反応が出るので、触れないほうがいいみたいですね。 日本だと、中国にあった「オオバコ」と西洋オオバコが、混在しているみたいです。
@nbuob19
3 ай бұрын
光武帝シリーズ今回も面白かったです、ありがとうございます。
@yugureyamanaka2730
3 ай бұрын
祖国のためという思いが引き継がれるのは、動画を見ていて胸が熱くなりますね。 作者様の脚本効果で、登場する人間関係が理解しやすかったです。
@nbuob19
3 ай бұрын
さっそく前回の動画に続いてのアップおつかれさまです。 ぼく李牧wwwwwww
@泰英岡田
4 ай бұрын
龐煖、史実では90歳近い老将で、これから表に出てくるわけですね。趙の新しいヒーローの登場は、まだその時を待ち、この後には地獄の防衛戦が…ちなみに、個人的にその戦のヒーローといえば信陵君ですが、趙の国で捨て身で戦い抜いた某役人の奮戦も胸を打つものがあります。そして、彼の献身に見事に応えて見せた平原君も。色々悪評も多い平原君ですが、この件があるだけで嫌いになれませんね。そして、このような者達がいるということは、まだ趙の国の命運が尽きてはいないということを示しています。というわけで、続編である邯鄲籠城戦もお待ちしております!
@yugureyamanaka2730
4 ай бұрын
こんにちは、「兵法は完成することはない!」という言葉は良いですね。 趙奢 みたいな人は、日本でも東大卒に多いですね。 新しい趙のヒーローは、後姿から考えると、漫画キングダムで有名な人ですね。
@nbuob19
4 ай бұрын
ヒーローさんの藺相如回が特に好きです。今回も楽しませてもらいましたありがとうございます。
@battleonline
5 ай бұрын
おもしろいのでショートにしてみてはどうでしょうか
@yugureyamanaka2730
7 ай бұрын
作者様こんにちは、皇帝の「玄宗」は、この動画の時期に怪物パワーの無敵の秘密兵器をもっていたので、この時期に、かなり怖い存在だったようです。玄宗皇帝が、楊貴妃に夢中になって堕落したのは、孟浩然の死後になります。 美女の楊玉環は、天宝4載(745年)から、楊貴妃と名乗っています。■資料で見ると、「孟浩然」と同じ年(西暦740年)に亡くなった人物で、男の「楊思勗」(ようしきょく)がいました。彼が、皇帝の秘密兵器でした。楊 思勗(よう しきょく、? - 開元28年(740年))は、もとの姓は「蘇 」であったが、楊氏という宦官の養子となり、去勢を行い、内侍省に勤めた。力が強く、残忍で殺人を好んだと伝えられる。神龍3年(707年)、皇帝「中宗」の太子である「李重俊」が、「武三思」・「上官婉児」の討伐を名目に挙兵し、皇帝権力の奪取を企んで「中宗」に迫った時、宮闈令であった楊思勗が、李重俊軍の先鋒総官の野呼利を斬り殺した。そのためもあって、李重俊の挙兵は失敗に終わった。楊思勗は銀青光禄大夫・内常侍に昇進している。 景龍4年(710年)、李隆基(後の玄宗)に従い、女帝を夢見ていた野心家の「韋皇后」の討伐に加わって功績を立て、右監門衛将軍に任じられた。 開元10年(722年)、安南の首領である梅叔鸞(ばい しゅくらん)が反乱を起こし、32州を制し、衆40万を号して「黒帝」と称した。梅叔鸞は、林邑国・真臘国と通謀して、安南府を陥落させた。そのため、楊思勗が討伐を命じられた。楊思勗は嶺南に着くと、兵馬十数万人を募り、安南大都護の光楚客とともに、かつて後漢の名将の「馬援」が使った道を進軍して、梅叔鸞の不意を突いた。梅叔鸞は捕らえられて陣中で斬られ、その党類は全て処刑された。死体を積み上げ、京観とした後、帰還する。 開元12年(724年)、異民族である五渓の首領である「覃行璋」が反乱を起こした。楊思勗は討伐の任にあたり、覃行璋を捕らえ、その党類3万人を殺した。軍功により輔国大将軍に昇進した。さらに、玄宗の封禅の時に従い、驃騎大将軍になる。 開元14年(726年)、邕州の首領である梁大海が数州とともに反乱を起こした。楊思勗がまた、討伐し、梁大海ら3千人余を捕らえ、2万人余を殺し、死体を積み上げ、また京観とした。 開元16年(728年)、瀧州の首領である陳行範・何遊魯・馮璘らが反乱を起こし、四十余城を落とした。陳行範は帝を称し、何遊魯は定国大将軍を名乗り、馮璘は南越王を称し、嶺南地方を割拠した。楊思勗は十万の兵を率いて侵攻して破り、何遊魯と馮璘を殺した。陳行範は深州に逃げかくれ、洞にいた部族に投じたが、楊思勗に攻められ捕らえられた。6万人を殺し、奪った財は莫大なものであった。 楊思勗は剛毅で決断力があった。また、多く捕虜の顔や頭の皮を生きたまま剥ぎ、人に見せたため、配下の将士は彼を恐れ、仰ぎ見るものもなかった。これが、戦功を立てた要因と伝えられる。 開元27年(739年)、内給事の牛仙童が張守珪から賄賂を受け取っていたことが判明した。玄宗は、楊思勗にその殺害を命じた。楊思勗は彼を数日縛りつけた上で、その心臓を取り出し、手足を断ちきり、肉を切り裂いて食したと伝えられる。 開元28年(740年)、死去した。80余歳であった。80歳まで、フル稼働する残虐な、皇帝の指示で動く秘密兵器でした。
@nbuob19
7 ай бұрын
自分の理想を実現していようが、理想とかけ離れていていようが、現状その場所やその時でしか味わえない幸せがありますよね。 深い動画でした、今回もおもしろかったです、ありがとうございます。
@thehero3594
7 ай бұрын
みなさん!あらためまして、私が「ザ・ヒーロー」です!このたび、300人以上の方にチャンネル登録をしていただきました!これからもみなさんに楽しんでいただけるよう、全力を尽くさせていただきます!
@nbuob19
7 ай бұрын
いつもパワーあふれる動画制作おつかれさまです。お体に気をつけてご自愛ください。
@しせんおう
7 ай бұрын
実際に李世民は、自分の簒奪を正当化するために歴史の記録を徹底的に改竄したわけで、暴君と同じでしたね。
@KozoY-h3d
7 ай бұрын
自分の原稿用紙を持って人類史上最も悲惨な時代を生き抜いた杜甫。大酒飲みだったとさ。
@otanoshimi4
7 ай бұрын
遣唐使があった時代にこんな事があったのですね。広いスケールで見た場合、現代とさほど変わりない悩みが当時の人にもあったことがうかがえます。
@ryuichikokubo8888
7 ай бұрын
でも家無くなっても勉強してるしその傍ら副業してるから
@yugureyamanaka2730
8 ай бұрын
製作者様、「李世民」と仲の良かった兄弟や、兄弟喧嘩した兄弟も含めるとエピソードは膨大ですね。「李元軌」(り げんき、生年不詳 - 没年は、垂拱4年12月1日(688年12月28日))は、中国の唐の高祖李淵の(十四男です)。彼は、優秀でしたが、悲劇的な最期を迎えました。兄の2代皇帝の李世民とは仲良くやっていたようです。■父親の初代皇帝の李淵と張美人のあいだの子として生まれた。多方面の才能があり、父親の「李淵」に愛された。武徳6年(623年)、蜀王に封じられた。武徳8年(625年)、呉王に徙封された。貞観7年(633年)、寿州刺史に任じられ、実封六百戸を受けた。貞観9年(635年)、李淵が亡くなると、官職を辞して喪に服し、忌日にいたるまで食を断って、過剰なまでの礼を示した。貞観10年(636年)、霍王に改封され、絳州刺史に任じられた。まもなく徐州刺史に転じた。元軌は刺史に任じられても、邸を閉ざして読書し、事務は長史や司馬に任せっきりであった。元軌は態度を慎んで妄動せず、他人に与える物を惜しまなかった。処士の劉玄平をしばしば引見して、あたかも庶民同士の間柄のように交際した。 ■貞観23年(649年)、実封は千戸まで加増され、定州刺史に任じられた。突厥が定州を攻撃したが、元軌は城門を開き、旗や幟をかかげさせた。突厥は疑って、あえて入城しようとせず、夜間に遁走した。ときに定州の李嘉運が敵と結託していたことが発覚し、3代皇帝の「高宗」はその一党を処刑するように命じた。元軌は人心安定のために、李嘉運を殺したのみで、その他の人々に罪を及ぼさなかった。高宗は「朕は命令を出したことを悔いていたところだ。霍王の明察がなければ、定州を失っていただろう」と喜んだ。元軌の部下に王文操という者がいて、敵と戦って敗れ、その二子の王鳳と王賢が父をかばって戦死した。元軌がそのことを知ると、使者を派遣して弔わせ、高宗にそのことを報告した。王鳳と王賢には朝散大夫の位が追贈された。 元軌が朝廷に出ると、しばしば上疏して政治の得失を述べ、裨益するところが多かったので、3代皇帝の「高宗」は、叔父(おじ)にあたる「李元軌」を尊重して、大事があるたびに相談した。3代皇帝の「高宗」が世を去ると、元軌は侍中の劉斉賢とともに陵墓の事務をつかさどった。元軌は故事をよく知っていたので、劉斉賢に「これはわれらの及ぶところではない」と嘆息させた。元軌は国令を派遣して封国の租税を徴収させていたが、国令が諸国の交易に税をかけることを請願したところ、「お前は私の間違いを正すべき立場なのに、かえって私を利に誘おうというのか?」と答えて許さなかった。 垂拱元年(685年)、司徒の位を加えられ、間もなく襄州刺史として出向し、さらに青州刺史に転じた。垂拱4年(688年)、越王である「李貞」が敗れると、元軌はその謀反に連座して、黔州に流されることとなった。檻車に載せられて陳倉にいたったとき、亡くなった。 ■補足をすると、「李貞」(り てい、貞観元年(627年)から 垂拱4年9月11日(688年10月10日))は、唐の太宗(李世民)の八男でした。李貞は騎射を得意とし、文章や史学に通じ、役所仕事も有能で、宗室諸王の中でも有力であった。彼は、越王に立てられたが、乱を起こして失敗し、自殺した。乱を起こした理由は、女性権力者の武則天による簒奪(さんだつ)計画、「王室であるはずの李氏を、排除一掃」の情勢が疑われるようになったからです。3代皇帝の「高宗」の皇后が武則天であり、彼女は唐王朝を滅ぼしてから、新しい王朝を創設していると世界史の教科書に出ている通りです。垂拱4年(688年)、明堂が完成し、武則天による李氏一掃の情勢が疑われるようになると、「李貞」は上蔡を攻め落とし、7000の兵を集めて五営に分けた。李貞は中営にあって、裴守徳を大将軍とし、中営を領させた。趙成美を左中郎将として左営を領させ、閭弘道を右中郎将として右営を領させ、安摩訶を郎将として後軍を領させ、王孝志を右将軍として前軍を領させた。しかし後につづく各地の諸王の起兵がなく、李貞の軍の士気も低かった。9月、武則天は麴崇裕や岑長倩らに10万の兵を与えて李貞を討伐させ、李貞父子の属籍を削って、氏を「虺」と改めさせた。麴崇裕らが豫州に到着すると、李貞の末子の李規や裴守徳らが抗戦したが、潰滅した。李貞は服毒して死に、李規はその母を縊ってから自殺し、裴守徳も縊死した。
@yugureyamanaka2730
8 ай бұрын
李 智雲(り ちうん、604年 - 617年)は、中国の唐の高祖李淵の五男。もとの名は稚詮。楚王に追封された。李淵と万貴妃の間の子として生まれた。弓射と書をよくした。■大業13年(617年)、李淵が太原で起兵したとき、異母兄の李建成・李元吉らとともに河東にいた。李建成らは太原に逃げ去ったが、李智雲は隋の捕吏につかまって長安に送られた。陰世師によって殺害された。 ■武徳元年(618年)、楚王に追封され、哀と諡された。武徳3年(620年)、太宗の子の李寛が後を継ぎ、李智雲には涼州総管と・司徒の位を追贈された。
@yugureyamanaka2730
8 ай бұрын
父親の初代皇帝の「李 淵」(り えん)の子供は、息子で22人で、娘で19人なので、数は凄いですね。 次男:李世民(太宗)
@thehero3594
8 ай бұрын
yugureさん、いつもコメントありがとうございます。今回もたくさん人物やエピソードを教えてもらってありがとうございました。李世民にそんなに多くのきょうだいがいるとは思いもよりませんでした。作中で李元吉が「あと二人殺せば俺が皇帝だ!」なんて息巻いていましたが、まだまだ後継者争いのライバルがいたんですね(^_^;)今回の玄武門は今までで一番苦戦しました。諦めかけていましたが、動画化することができてよかったです。また、次回作もご期待ください。ザ・ヒーローでした。
@yugureyamanaka2730
8 ай бұрын
こんにちは、唐の李世民(後の太宗)は、少林寺との関係が深いですね。■■唐朝の創業期には、洛陽を本拠とした王世充の鄭国政権を見限り、唐の李世民(後の太宗)軍に対して、「少林寺」の僧兵たちを援軍として出すことで助力し、鄭の征討に貢献した。寺内には、「皇唐嵩岳少林寺碑」、「唐太宗御書碑」が残る。
@yugureyamanaka2730
9 ай бұрын
群雄が勝手に部下を任命したりしたので、朝廷が任命していた青州刺史と、重なったりした事例もありますが、孔 融(こう ゆう)も、劉備と関係がありますね。孔 融は、孔子の子孫ですね。孔 融は、後漢の最混乱期に北海国の相となり、六年間これを勤め、劉備に上表されて、青州刺史として黄巾の乱で荒れ果てた山東地域を支えた。王修らを推挙し、また儒学の教布に努め、大学者の鄭玄に対し子孫のとるべき礼をとり、彼のために郷(県の一つ下の行政単位)を設けて鄭公郷と命名した。徐州刺史の陶謙が亡くなるとその遺託に沿い、後任を引き受けるよう劉備を説得した。近隣で袁紹が急速に勢力を拡大すると、袁紹の長子袁譚に攻められ、許に逃亡した。その後も朝廷に仕え、将作大匠・少府・太中大夫を歴任した。朝議の質疑応答では、いつも中心になって発言したという。孔子の子孫という立場、さらには類いまれなる文才で文人サロンの中心的存在となった。後に「建安の七子」の一人に挙げられている。■■直言居士な孔融は、時の権力者であった曹操と、事ある毎に対立していた。孔融は曹操の施政の中で納得いかないことがあると、前例に喩えて厳しく詰った。楊彪の処刑を諫止した時のような正論も中にはあったが、当てつけがましい屁理屈が多く、曹操は日頃から孔融を嫌悪していた。
@yugureyamanaka2730
9 ай бұрын
こんにちは、配下の分析のストーリーは、適材適所の人選が上手だった劉備の本領発揮でしたね。馬謖の欠点も劉備は見抜いていましたね。 趙雲は、関羽と張飛の中間みたいな統率をしていますね。趙雲は、袁紹の配下に名を連ねていたが、袁紹には忠君救民の心がなかったため、右北平太守公孫瓚のもとへ馳せ参じている。そして公孫瓚の部下となるが、「青州」で、袁紹と戦っていた「田楷」の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎となった。■補足です。田 楷(でん かい、? - 199年)は、中国後漢時代末期の軍人です。彼は、公孫瓚配下です。初平2年(191年)以降、公孫瓚は従弟の公孫範の活躍もあって、袁紹をも凌ぐほどに河北で勢力を拡大していた。この時、公孫瓚は厳綱を冀州刺史、単経を兗州刺史に任命し、同時に田楷も青州刺史に任命した。 初平3年(192年)、公孫瓚は界橋の戦いで敗れたものの、袁紹軍の崔巨業を撃破して、平原方面まで南進した。これにより田楷は斉に駐屯し、公孫瓚の下へ頼ってきた劉備らを配下として、袁紹に対抗した。しかし2年余り戦うも糧食が尽きたため、兵卒が疲労困憊し、青州の民衆も飢えに苦しんだという。初平4年(193年)、曹操が陶謙を攻撃した時、陶謙の援軍要請を受け徐州へ赴き、劉備の補佐を受けて陶謙を救援した。曹操が兵を退くと、劉備は陶謙の招聘を受けて徐州にとどまることになり、田楷は劉備と別れて青州に戻った。やがて、袁紹の子の袁譚が平原を拠点とし青州に進出したため(後に曹操から刺史に任命される)、田楷は駆逐されてしまった。その後、田楷は袁紹軍に敗れて戦死した。■補足ですが、『後漢書』公孫瓚伝によれば、田楷は薊へ帰還したとの記述がある。しかし、『三国志』魏書袁紹伝は、建安4年(199年)の公孫瓚滅亡後に袁譚が青州へ向かったとしている一方で、『三国志』魏書崔琰伝注は、建安元年(196年)に袁譚は青州刺史の孔融を青州から駆逐した、と記載している。そのため、田楷が青州から追われた時期が公孫瓚滅亡前後のいずれか、はっきりとしない。
@thehero3594
9 ай бұрын
yugureさん、コメントありがとうございます。私は劉備に狂言回し的な立ち位置で関羽と張飛を評価させましたので適材適所の劉備ならではの解釈というのは意識していませんでした。yugureさんのご指摘ではじめて気づきましたよ(^^)趙雲に関しては…いずれヒーロー動画に主役として登場させたいですが、キャラクターデザインはできているものの、どういう人物像、エピソードの切り抜き方をするかはまだハッキリとしていません(^_^;)孔融に関してもあのクセの強い人物をどう表現するのか…創作者として腕が試されると思います。私の動画にもついに、劉備・曹操・孫堅が並び立ちました。三国志シリーズはアイディアの宝庫なのでどんどん制作していこうと思っています。現在また、なが~い新作を鋭意制作中ですので待っていてください。では、ザ・ヒーローでした。
@nbuob19
9 ай бұрын
動画アップありがとうございます!
@nbuob19
9 ай бұрын
今回も面白かったです、ありがとうございます。
@yugureyamanaka2730
9 ай бұрын
製作者様、こんにちは、孫堅の父親の「孫鍾」(そん しょう)のエピソードも面白いですね。孫鍾は呉郡富春県(現在の浙江省杭州市富陽区)の瓜売りの商人であった。はやくから父を亡くして母とふたりで暮らしおり、親孝行であったという。ある年に凶作の飢饉の状況であり、彼は生き延びるために、瓜を植えてそれを売って生計を立てていた。ある日に、彼の家の前にとつぜん三人の少年が現れて、瓜が欲しいとせがんだ。迷った孫鍾自身も生活が苦しいものの、潔く少年らに瓜を与えた。瓜を食べ終わった三人の少年はまとめて孫鍾に「付近の山の下に墓を作って、あなたが埋葬されれば、その子孫から帝王となる人物が出るだろう」と述べた。まもなく三人の少年は白鶴に乗っていずこかに去っていった。歳月が流れて、孫鍾が亡くなると、かつて少年らが述べた付近の山の下に埋葬されたが、当地からたびたび光が見えて、五色の雲気が昇ったという。
@yugureyamanaka2730
11 ай бұрын
こんにちは、赤眉軍における有力部将の一人である「徐 宣」(じょ せん)が、投降する時に、光武帝と会話した内容もおもしろいですね。建世3年(27年)、樊崇・徐宣らは、光武帝(劉秀)配下の大司徒鄧禹の軍を各地で撃破しながら懸命に東へ逃走したが、崤底(弘農郡黽池県)で馮異率いる漢軍に大敗した。赤眉軍は宜陽(弘農郡)へ逃れたが、ここで光武帝らが率いる漢の大軍に正面を防がれ、ついに樊崇・徐宣以下30人の赤眉軍の将は肉袒(上半身を肌脱ぎ)して降伏した。この時、光武帝は樊崇らに対し「降伏したくないなら、一戦交えても良いぞ」と述べたが、徐宣は叩頭して「本日陛下に投降いたしましたのは、虎口を逃れて慈母の下に帰り着いたようなものです」と答えている。その後、徐宣は楊音と共に故郷に帰り、平穏に一生を終えた。
@thehero3594
11 ай бұрын
yugureさん、コメントありがとうございます。今年もたくさんの中国史のエピソードを教えていただいてありがとうございました!この「徐宣」なる人物も全然知らなかったので、参考になりました。彼も今後光武帝シリーズに登場させたいと思いますので楽しみにしていてください。では来年も引き続きヒーロー動画をよろしくお願いします。では、ザ・ヒーローでした。
@nbuob19
11 ай бұрын
ダチョウ倶楽部大活躍してる!! 51:30 モブの兵士って過去動画に出てたんだ気が付かなかったw
@thehero3594
11 ай бұрын
いつも長い動画を最後まで観てくれたみなさん、今年もありがとうございました!来年もみなさんに、より楽しんでいただけるようにがんばります!ザ・ヒーローでした!
@nbuob19
11 ай бұрын
動画アップ感謝します!今年一年お疲お疲れさまでした、よいお年をお迎えください。
@愛国者-f2u
Жыл бұрын
武力ゼロ 軍略ゼロ 財産ゼロ 人徳マックス の乱世英雄の 地力
@nbuob19
Жыл бұрын
22:16 ここすき
@yugureyamanaka2730
Жыл бұрын
こんにちは逃走は英雄の見せ場ですね。^^ 曹操も逃走劇が多数ありましたね。そういえば、劉邦の墓は劉邦と呂后の合葬墓だそうです。長陵(ちょうりょう)は、中国の陝西省咸陽市にある漢の高祖劉邦と呂后の合葬墓です。長生きした呂后が合葬墓にしたのは、プライドなのかもしれませんね。たぶん・・・劉邦は、合葬墓を嫌がっていたような気がします。紀元前195年に劉邦が長楽宮で死去すると、長陵に葬られた。紀元前180年に呂后が死去すると、同じく長陵に葬られた。長陵陵園の西側に高祖陵があり、その東南280メートルのところに呂后陵がある。陵園の東には陪葬墓63基があり、蕭何・曹参・周勃・戚夫人らが葬られている。1965年、長陵の陪葬墓から3000体あまりの彩色兵馬俑が出土した。1988年、国務院により長陵は全国重点文物保護単位に指定された。
@てっぺんハゲ-q3n
Жыл бұрын
やったー新作キター
@泰英岡田
Жыл бұрын
ここで陳平を取り上げるのは、やっぱり先日亡くなられたチンペイさんに因んでのことでしょうか?(某有名動画シリーズでは陳平の経歴で某Nさんや某Tさんを紹介しかけてチンペイ違いや、というネタやってましたが)
@yugureyamanaka2730
Жыл бұрын
こんにちは、作者様、新作ありがとうございました。陳平ならば、令和の時代も成功しそうですね。陳平VS呂氏がバトルをしている時に、実は意外な人物が南方で成長していますね。50年後に反乱を起こす「呉楚七国の乱の首謀者」で、劉邦の甥っ子の劉 濞(りゅう び)の成長は興味深いです。呉王として任地に赴いた劉濞であったが、中央政界に於ける呂雉を筆頭とする呂氏一族の専横とこれに対抗する元勲たちの政争に巻き込まれることもなく、国内整備に邁進することとなる。その結果として呉国は、その領域内から産出される銅と塩の生産と、それの他国への販売によってもたらされる巨万の富を背景に、国民に税をかけること必要もなく、労役に国民を駆り出した際にはかえって手間賃を払うというような、一種の別天地の様相を呈するようになる。さらに、税役を負担しきれず他国から逃亡してきた者を国内に迎え入れ、彼らに銭を盗鋳させるなど、朝廷でも統制できないくらいの勢力を誇るまでになった。しかし、呂氏の乱にて呂氏一族が滅び、従弟の文帝(劉恒)が即位すると、状況は徐々に変わっていった。時代は、「劉邦が予言した」通りに動いて、甥っ子が謀反が起きているのも興味深いです。劉邦が甥っ子の劉 濞(りゅう び)に言った言葉であるは「予言によれば、これから50年後に(帝都長安から見て)東南の地(呉の領域)で反乱が起こるというが、わしもお前も同じ血を引いた一族同士である。まかり間違えても反乱などと馬鹿げたことをするなよ」は印象的です。
@thehero3594
Жыл бұрын
yugureさん、コメントありがとうございます。大変お待たせして申し訳なかったです(^_^;)じつはわたくしごとなのですが、盆に噂のコロナ病を発症してしましまして、しばらく魂のアフレコができずにおりました。なのでだいぶ日が空いてしまいましたが、楽しんでいただけてよかったです。もうすでに私は次作の制作にとりかかっていますので、年内に新作をアップできると思いますので少々お待ちください。では、ザ・ヒーローでした。
@nbuob19
Жыл бұрын
チンペイとは中々タイムリーな動画ですね。 いつもながら、古代の話なのに現代(いやちょっと古い)的な話題を織り交ぜてくるところに笑ってしまいますw ヒーローも長時間動画UPおつです!
@yugureyamanaka2730
Жыл бұрын
三国志の曹操の人材募集の布告から「盗嫂受金) ((とうそうじゅきん)という言葉ができたのも面白いですね。
@nbuob19
Жыл бұрын
チューバイチューこの動画で知ったわw
@nbuob19
Жыл бұрын
ダチョウ倶楽部ネタ連発wwwwww
@yugureyamanaka2730
Жыл бұрын
製作者様、 今年は多くの動画作成ありがとうございます。 次の年末の新作も期待しています。
@daioh_gtonburi9204
Жыл бұрын
13:50 諱を書いてる時点でOUTなんじゃ………
@yugureyamanaka2730
Жыл бұрын
ギャグでは、ギリギリセーフのようです。 唐の太宗が避諱を免ずる詔を下したようです。彼は、実利を優先したようです。 中国では古来、親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なことと考えられていた(実名敬避)。特に皇帝およびその祖先の諱については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下がその諱を口にしたり書いたりすることを慎重に避けた。ある王朝の皇帝に関する避諱の範囲はその時代のあらゆる言語表現に及び、例えば、避諱に触れる文字を含む人名や地名があったときには適宜諱に当たらない名前に改められ、更にはその諱字に通う音の字を改めること(嫌名(けんめい))さえも行われた。唐の太宗のように避諱を免ずる詔を下す君主もいた(太宗の諱が「世民」であり、いずれも平易・頻用の字であったため。後述)が、このような例はまれである。
@yugureyamanaka2730
Жыл бұрын
唐代においては、太宗は避諱を免ずる詔を出したものの、後裔や臣下は厳に使用を避けた。そのため、300年近くにわたって代用字として使用された「代」や「人」の方が一般的になり、後代にまで影響を与え続けた。●簡単に言えば、日本のドラマの3年B組金八先生に影響を与えたことになります。
@yugureyamanaka2730
Жыл бұрын
金八先生の台詞で、君たちいいですか〜。人という字はねぇ、ひとりの「人」がもうひとりの「人」を支えている字です。つまり、人と人が支え合ってるから人なんです。人は人によって支えられ、人の間で人間として磨かれていくんです。これにも、おちがあって、21世紀になって、武田鉄矢 衝撃の告白「違ったんだよね」金八先生の名言“「人」について、「人」という字は立っている人を横から見た字の形が変わったものです。と修正したそうです。40昭和の名言になってから40年後の修正だったようです
@thehero3594
Жыл бұрын
yugureさん、コメントありがとうございます。日が空いてしまいましたが、現在新作を鋭意制作中ですので楽しみにしていてください!
@daioh_gtonburi9204
Жыл бұрын
あー、大宗がそんな詔を出していたんですね。 いつまで避諱が続いたかは気になったのですが、そこには気付きませんでした。
@TSUDATOSIYKI
Жыл бұрын
兄を騙し討ちして父を隠居させた経緯がほぼ隋の煬帝が帝位に就いたのまんま(煬帝は兄を殺していないし父を隠居させていないから李世民の方が非道だ。)だから唐も同じ道を辿らせまいというプレッシャーがすごかったんだろうな。
@雪下由布
Жыл бұрын
パリピ孔明の様に、西門豹にも日本に転生してもらって、不安を煽って自然食品やサプリの販売、宗教勧誘や有料会員勧誘なんかをやってる、現代の巫女や三老達を軒並み河の神に会いに行かせてあげてほしいわ。
@yugureyamanaka2730
Жыл бұрын
作者様こんにちは、●唐の第1次高句麗出兵の時に出来た兵法の用語があります。それは、瞞天過海(まんてんかかい)です。瞞天過海(まんてんかかい)とは、中国の兵法書に挙げられる兵法の一つで、「天を瞞きて海を過る」(てんを、あざむきて、うみをわたる)と訓読し、何食わない顔で敵を騙す兵法・計略を指します。唐の軍人の『張士貴』が、第1次の高句麗遠征(唐の高句麗出兵)の際に、第2代皇帝の「太宗」が海を恐れて乗船を拒んだのに対して、船に土を盛り陸上の屋敷のように仕立てて、天子(皇帝)を欺いて乗船させ、海を渡らせたという故事にちなみます。 張 士貴(ちょう しき)は、貞観18年(644年)、高句麗遠征(唐の高句麗出兵)において遼東道行軍総管をつとめ、冠軍大将軍に任ぜられました。●●この時に、『薛 仁貴』(せつ じんき)という軍人が面白い活躍をしています。彼は、若いころは貧しく、耕作を生業としていました。貞観19年(645年)、妻の「柳氏」の勧めにより、「張士貴」の行った兵の徴募に応じて、高句麗遠征(唐の高句麗出兵)に参加した。唐の軍勢が、敵の「安市城」を攻撃し、高句麗の将軍の「高延寿」らが20万の兵を率いて抗戦した。その時に、兵士だった「仁貴」は珍しい方法で目立つように手柄を立てようと考え、目立つ白衣を着て目印とし、戟を持ち、ふたつの弓を腰にかけて軍の先頭に立って突撃し、高句麗軍を破った。その姿が皇帝の太宗の目にとまって召し出され、褒賞を受けた。唐の遠征軍が都の「長安」に帰還すると、「仁貴」は、さらに出世して、右領軍中郎将に転じ、「宮城の北門」を守備した。
@yugureyamanaka2730
Жыл бұрын
補足です。唐の第1次高句麗遠征は、資料が多いです。第1次侵攻(西暦644から西暦645年)です。西暦642年に、高句麗では、対唐強硬派の「淵蓋蘇文」がクーデターを起こし、融和派の「栄留王」を殺して甥の「宝蔵王」を擁立した。唐は、その懲罰を名目に、西暦644年11月に高句麗への侵攻を開始した。西暦645年2月には、皇帝の太宗が直接親征する大規模な戦争となった。唐は水路と陸路の二面作戦をとった。「張亮」率いる水軍は高句麗の卑沙城を落したものの、その救援に向った高句麗水軍に大敗した。営州に集結した陸路の主力軍は、「李勣」を総司令官とし、尉遅敬徳・長孫無忌・薛仁貴・劉弘基・張倹・李道宗・契苾何力・閻立徳らが各隊を率い、これに契丹・奚からの援軍も伴って、高句麗領内に一気に攻め入った。緒戦では高句麗の城塞である蓋牟城・白巌城・遼東城を落し、さらに「安市城」(現在の遼寧省)を包囲した(安市城包囲戦)です。高句麗の将軍の「高延寿」と「高恵真」が、異民族の「靺鞨」の援軍とともに「安市城救援」に向かうと、「駐蹕山」で、唐と高句麗の両軍が衝突する大規模な会戦(野戦)となったが、結局は、唐軍が勝利した。●●この時に、前に説明した兵士の『薛 仁貴』(せつ じんき)が大活躍しました。その後に、高句麗の将軍の「高延寿」と「高恵真」は唐に降伏して官位を与えられています。しかし、「安市城」を守る守備部隊の将軍だった「楊万春」は、降伏を拒否し城内に立てこもって徹底抗戦を続けた。その後の、唐軍は高く強固な城壁に守られた「安市城」の攻略に手こずり、これを攻撃するため土山を築いたところ、これが崩壊して士卒に大きな被害を出し、結局この作戦は失敗に終わった。さらに唐軍は、新城と建安城の攻略にも失敗した。そうした中で、異民族の「鉄勒」が唐に侵入したとの知らせを受けた皇帝の太宗は、これから冬になると兵糧補給が困難になることもあり、これ以上の継戦は困難と判断したため、同年9月には退却を開始し、荒天や厳寒による被害を被りつつ撤退に成功したそうです。 唐軍は序盤は好調でしたが、後半になると苦戦して撤退に追い込まれました。