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Пікірлер
@user-oc6zi2rd7y
4 күн бұрын
なもあみだぶつ
@user-ly5po1ok4u
13 күн бұрын
坊さん同士で足の引っ張り合いしていると親鸞会に笑われてますよ、チカラを合わせて教えを広めていって下さい🤨
@user-bv7pl4bg2l
13 күн бұрын
岡林先生。 恐山でのご経験。イタコの霊卸しを経験為された訳ではないと存じますが、その地域に横たわる雰囲気を肌で感じられて如何でしたでしょうか。 霊魂を認めないとイタコは成り立ちませんが、岡林先生が依って立つ浄土真宗とは相容れない対極に在るようにも感じられるのですが、その点は直に恐山に足を踏み入れられてどのように考えられたでしょうか。 改めて、本講話では深くは突っ込まれて居ない様にもお伺いした故、もう一段掘り下げたお話をお聞かせ頂ければと感じた次第です。
@user-bv7pl4bg2l
13 күн бұрын
岡林先生。 今回もお話を有難うございます。 日本人特に若者は現代社会の反映で自己肯定感は低いですね。 なので、自己肯定感が高いとする本願寺派総局❓️研究所の認識は誤って居ますね。 現在の特に若者は将来不安も有って心が不安定ですから、浄土真宗本山は認識を改めることから始めないとならないのではと感じた次第です。 ①昭和の高度成長期はみんなが豊かになることで日本全体が高揚して居ましたが現在の低成長下では世代間でパイの取り合いが生じて居ますが、此をどうすればより善き方へと向かえるのででしょうか。 そこに浄土真宗はどのような答えを示せると岡林先生はお考えでしょうか。 ②よく世間ではコメンテーターが日本は内向きになってはならないとの議論がされて居ますね。確かに内向きは諸外国との関係性で問題かも知れないですが、日本の国内がある意味ガタガタな現在。国内をもっと固める(国民の将来不安を払拭する)必要があるのではないでしょうか。 その意味でも、仏教就中浄土真宗の果たす(果たせる)役割はどうなのでしょうか。 ③機の深信を説いて居られたと存じますが、『機の深信』とは阿弥陀仏から頂く『法の深信』に対応する言葉(定義)だと存じますが、先生が仰せの様な日本人の有り様にまで定義を拡げるのは正しい見方なのでしょうか。お教え下さいます様、お願い申し上げます。
@user-rl6jv9ob6j
11 күн бұрын
最後は冗談で機の深信は自己肯定感ゼロだと申しましたが、自己肯定感を心理的機能とした場合、機の深信とは関係がないと言えると思います。 親鸞聖人は自己肯定感の高い方だったかどうかを考えればわかると思います。人倫のろう言を恥じずといわれているので、他人の評価は気にされない信仰であられました。 しかし、愛欲の広海に沈没し、名利の大船に迷惑すとおっしゃるように、煩悩の心は他人の評価を気にしてやまないという自覚をもっておられました。 信心は生死の問題に属し、わが心の状態は往生にはまったく関係がない、という自覚を生じます。 しかし、人間が生きていくには煩悩すなわち心理的欲求が満たされる必要があります。それは家族、職場、地域などの所属集団によってえられるものです。 本願寺教団が自己肯定感をあげるのに役立つとすれば、人間は煩悩具足の凡夫であるという機の深信にたったものが、相手の思いを受容し、相談にのってあげられる、お互いにありのままでいられる人間関係を作ってあげることだと思います。そこに、社会に役立つとか、社会的にいいことをしようなどという方向ずけは不要です。
@yoshi1038
16 күн бұрын
新しい領解文、最近の本願寺の活動、自己肯定感、「そのままでいい、大丈夫」と言われても若者には刺さらない、と言うところから始まり、とりとめなく流れていくラジオ的ないい感じのお話でした。 浄土真宗が全てというような宗教に酔った狭い視野ではなく、歴史、世界の中の一部である宗教、その一部である浄土真宗という視点でお話されるので勉強になります。 だいたい説教は「私の話す教えが正しい」というような聞く人の思考を奪うものが多いと思いますが、岡林先生のお話は、上からの正解の押し付けではなく情報提供と問題提起をされているのがよいところだと思います。 偉い先生の信心がどうとかいうお話も良いかもしれませんが、こう言った歴史を生きてきた個人的な経験に真実があるんじゃないかと思います。振り返って自分の生きている、生きてきた歴史、世界のことも考えますし。 最後は、自己肯定感0で弥陀肯定感100が浄土真宗であって、突然「そのままでいいんだよ」と言っても伝わりにくいんじゃないかというお話でした。
@user-rl6jv9ob6j
16 күн бұрын
わかりにくい話を補っていただき、ありがとうございます。
@user-ps9mq3cb7i
18 күн бұрын
真実信心かそうでないは何が違うのか、親鸞聖人がはっきり教えられています。最初に、「真実の信心はなにか。それを阿弥陀仏からいただくとどうなるのか。」をはっきり説明されないと、戯論に終わってしまうと思います。
@myoseji
18 күн бұрын
岩波の辞書ではないが、詰まるところ東西教義の差異かな、
@user-hn9es6ih3d
Ай бұрын
蓮如様は嘆いていました。信心頂いている方本当に少ないと。鉄下駄履いてでも、信心頂いている僧侶で、本当の教えを聞かせて頂ける僧侶必死で探せと。これが現実で、浄土真宗衰退の原因と考えます。岡林さん頑張られて下さい。
@user-hn9es6ih3d
Ай бұрын
凡夫の疑いはなくならないという説について・・・これでは信心出来ませんね。阿弥陀様入って頂けませんね。・・ありがたや・お任せします。ですね。
@user-cw8lt2pk6v
Ай бұрын
岡林先生は、宗門の内外から批判が多い『桜嵐の仏教部屋』に出演された事で大分、ご自身の格を落とされたのではないでしょうか?宗教の多様性を認めず他宗批判を繰り返す桜庭氏の考えを支持されているのでしょうか?
@user-oc6zi2rd7y
Ай бұрын
なもあみだぶつ
@papasan-u1z
Ай бұрын
仏願の生起本末、とても大事なところですね。尊いご説法ありがとうございます。南無阿弥陀仏
@HiroyukiIto-Singonsyu-Hakuun
Ай бұрын
南無阿弥陀仏🙏🪷🐉
@user-rl6jv9ob6j
Ай бұрын
本願寺派司教の紅楳英顕和上からも大変結構なご指摘であるとのおこばをいただきました。ありがとうございます。
@user-jl5wo4gu4g
2 ай бұрын
2度ほど拝聴しましたが、私には岡林さんが瓜生先生のご著書とご講義をご自分に大変都合よく解釈されているようにしか思えません。 瓜生先生は、正しさを握りしめてはだめだ、信心を獲得したと喜ぶのはダメだ、絶対許さない、そんなものは根絶しなければならないなどとおっしゃってないですよね。少なくとも私は瓜生先生がそんな言い方をされるのを聞いたことがありません。岡林さんがご自分の正しさに執着されずに、普通に話をお聞きになればそんなふうに聞こえることはないはずです。 瓜生先生の話を捻じ曲げて、単純化して結論づけるのはどうかこれ以上やめていただきたい。そもそもこの動画のタイトルも人に対して敬意がない、失礼なものだと思います。
@user-rl6jv9ob6j
Ай бұрын
信心をえた、救われた、悟りをえたという人を瓜生さんが激しく批判しておられたのを見たことがありますし、私自身そのことで瓜生さんにSNSで批判されたことがあります。 「信心をえた、救われたという人は自分で自分の心を眺めて正しいと言っているのにすぎないのであって、それは救いの証拠にはならない」という主旨の発言は著書にも書かれていますし、法話などでも何度も聞いています。 そして、親鸞教義にのっとって批判しているだけなのに、正しさを握りしめて、壁を作って、人を攻撃することで、安心する、という主旨の発言を私もされましたし、他の人にもしているのを見たことがあります。 タイトルについては、敬称を略すなど一般的な慣例にもとづくもので、特におかしいとは思えません。
@ruu4818
Ай бұрын
私もネット上で彼が信心を獲たという人を攻撃するどころか馬鹿にして笑っておられるのを何度もみました。 それは見ていて本当に嫌な気持ちがしました。 最近はどうなのでしょうか。ブロックされているのでわかりませんが。 タイトルで敬称を略するのは特に失礼なことではありません。 中身で一度も呼び捨てにはされていませんよね。
@user-jl5wo4gu4g
Ай бұрын
@@user-rl6jv9ob6j それはだめだから絶対許さない。そういう人をなくさなければならない、とおっしゃってないと私は言いたいのです。あなたが瓜生先生の論をそのように捻じ曲げているんです。わかりませんか?
@user-rl6jv9ob6j
Ай бұрын
@@user-jl5wo4gu4gさん 今回は瓜生さんがほぼ活字にされているものを用いて論証しています。 また、彼と議論したやりとりやその応答なども踏まえていますので、ある程度は正確に理解していると思います。 それを曲解だとおっしやるなら、その根拠を示していただきたいものです。
@user-jl5wo4gu4g
Ай бұрын
@@user-rl6jv9ob6j 信心喜ぶことを絶対許さないなどとどこでおっしゃっているのですか?動画なり、文章なりではっきりとその表現をされている箇所を示してください。瓜生先生の話をあなたがそういうふうに受け取っているだけではありませんか?
@user-bv7pl4bg2l
2 ай бұрын
岡林先生。 ご解説視聴させて頂きました。 瓜生先生へのご批判ですが、瓜生先生は自身が親鸞会に居て、疑問を持った結果の脱会支援で、それを批判することと瓜生先生の考え方を批判することは区別されなければならないのではないでしょうか。 そう言う意味では、浄土真宗も僧侶様方は他宗派を見下し否定する傾向がなくはないのではないでしょうか。 即ち、浄土真宗に於いても自らが絶対に正しいとする断定性は他宗派との間に壁を造り他宗派を切り捨てる傲慢が全く無いと言えるのでしょうか。
@user-rl6jv9ob6j
Ай бұрын
瓜生師がご自身の信念でカルト脱会の支援をなさることを批判しているのではありません。 親鸞教義をご自身の信念に合わせて改変し、それを広く流布していることを批判しています。 宗教は超越・絶対的信仰でなければ意味を持ちません。それぞれに価値判断を持っています。それを認めた上で、共存、相互理解を深めなければ、お互いの宗教を尊重しているとは言えません。 自宗以外の宗教をあまり知らない真宗僧侶が他教・他宗派に対して傲慢な態度をとることは、深く反省しなければなりませんね。
@user-bv7pl4bg2l
Ай бұрын
@@user-rl6jv9ob6j 岡林先生。 おはようございます。 先生の冷静な分析には頭が下がります。 その上で、先に書きました通り、瓜生先生は瓜生先生の土俵で発信して居られる事かと存じます。 そして、岡林先生がご指摘の点。 法義がカチっとした本願寺派のそれとやや自由な大谷派のそれとは同列には評し難いものが有るかと存じます。 こうして書きつつも、岡林先生のご姿勢は大切だと存じます。 近い将来、先生の手になる『浄土真宗法義』の書籍を読んでみたいと存じます。
@user-hu4or6pk1h
Ай бұрын
宗教的体験は主観的なものです。絶対的なものではありません。私は大谷派は1住職ですが、相対的な信仰に耐えていきたいと思います。
@user-rl6jv9ob6j
Ай бұрын
@@user-hu4or6pk1h さん 超越があるので完全な自我否定が成り立ちますが、それがそのまま超越によって肯定されていくという宗教経験が真宗の信心だと思います。相対的信仰に耐えていくというのは親鸞聖人にはない考えだと思います。
@user-rl6jv9ob6j
2 ай бұрын
指月の譬えのところで月と指のいい間違えが一部ありました。指(善知識や表面的なことば)ではなく月(真理やことばがあらわしているお心)をよりどころにせよということです。「指をみてはいけない」というところを「月をみてはいけない」と言ってました。文脈的にご理解いただけると思いますが、訂正しておきます。
@user-pg3gy7tb3c
2 ай бұрын
信心が乱れるではなく、やはりこの道しか無いことに何度も立ち帰り、気づかされ、都度念仏が口に出るのですよ。その繰り返しが一念が多念にあらわれるのですが。
@yoshi1038
2 ай бұрын
とりとめのない感じのお話がラジオっぽくて良かったです。来週は浄土真宗とカルトのお話で、瓜生さんの著書も読み込まれたということで楽しみです。瓜生さんは脱会直後から日本脱カルト協会で活動されていましたし。
@user-rl6jv9ob6j
2 ай бұрын
ありがとうございます。次回はしっかりまとめたいと思います。別動画にするかもしれません。
@user-ue3bi4yq3i
2 ай бұрын
岡林先生、大変な学びとさせていただきました。ありがとうございます。疑心往生説とは、十劫安心の1種なのでしょうか。異義をとなえるひとは無宿善で因果の道理をわきまえられないから、苦しまぎれに教えをまげるように思われるのですが間違いでしょうか。
@user-ue3bi4yq3i
2 ай бұрын
失礼いたしました、無宿善は宿善うすくに変えさせていただきます。
@user-rl6jv9ob6j
2 ай бұрын
疑心往生説もいくつかありますので一概には言えませんが、親鸞のいう信心ということを正しく理解していないからというのが一番大きいと思います。
@user-ue3bi4yq3i
2 ай бұрын
@@user-rl6jv9ob6j 岡林先生、返信いただき感謝申し上げます。引き続きの動画配信、楽しみにしております。
@yoshi1038
2 ай бұрын
現代の韓国の仏教という視点は考えたことが無かったので良かったです。貴重なお話、有難うございます。 お釈迦様の教えられた初期仏教と今の浄土真宗はかなり違っていると思いますので、そのあたりの関係性もお聞きしたいです。
@user-bv7pl4bg2l
2 ай бұрын
岡林先生。 貴重な話を有難うございます。 韓国は結構キリスト教が盛んだと聞いた事があります。 そうした中で勢力を伸ばした一つが旧国際連合だと存じますが。 個人的な交流は大切ですね。 どうしても、韓国と言うと世代によっては半日教育がキツく染み込んで居てコミュニケーションが取り辛いとは思いますが、先生が交流を持たれた方はそうした事はなかったのでしょうか。
@jiyujizai
2 ай бұрын
あるとかないが問題なのかと…。🙄
@HiroyukiIto-Singonsyu-Hakuun
2 ай бұрын
南無阿弥陀仏🙏🪷 🔥🐉
@user-qi5he8vf8k
2 ай бұрын
南無阿弥陀仏🙏
@user-bv7pl4bg2l
2 ай бұрын
岡林先生。 貴重なお話を有難うございます。 さて、数多有る宗派の中で先生が浄土真宗に行き着いた契機は何だったのでしょうか。 お教え賜われば幸いです。
@yoshi1038
2 ай бұрын
タイトルに比べてゆるい雰囲気のお話で良かったです。ここから佳境に入りそうなところで終わった感じなので次回も楽しみにしております。某Uさんの様にグイグイ感情を押し込んで来るようなお話ではないので聞きやすいです。岡林先生独自の見解や仏教、真宗の蘊蓄とか聞きたいです。
@kagerou800
2 ай бұрын
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
@user-bv7pl4bg2l
2 ай бұрын
岡林先生のご説尤もだとは存じますが、わたくしに翻って見ますにそんなに確固たる揺らぎない信心を獲得しているか(出来るか)些か疑問があります。そして、其れは疑情胎偶故、仮に信心を得たとして化身土に生まれるのが精々かも知れないのですが。 浄土真宗では阿弥陀佛は全ての衆生を救うとされながら、一心一向に揺るぎない信心を獲得した者だけを救うとされること。尚且つ、岡林先生のご説明だと、阿弥陀如来は万能の絶対神ではないとの事ですが、他方で、他の神仏を拝むなとのこと神祇不拝をキツく仰られる僧侶様方が居られるのを見ますに、阿弥陀如来さまが絶対神的存在でなければあり得ない彌陀佛からの働き掛けではないのでしょうか。 お教え賜りたく、どうぞよろしくお願い申し上げます。
@user-mf9gb9ro2q
2 ай бұрын
レベルはちょっと低くて申し訳ないんですが、私も思うところがあります。 揺らぎない信心を獲得することは、自力で悟りを開かんとする事と同じか、それ以上の高い壁を感じ、私は肩を落としてしまいます。 疑念のあるお前をそのまま救うと声をかけていただいているのではなく、疑念のあるお前も変わっていけるよと教えは言っているのでしょうか。
@user-rl6jv9ob6j
2 ай бұрын
@@user-mf9gb9ro2q 浄土真宗の教えを聴聞していけば、ああそうであったかと頷けるようになります。私には真実がまったくなく、それを救うために如来が修行して南無阿弥陀仏になってくださったんだと。内容的には30秒で聞けます。しかし、それが自分のこととして聞けるかどうかが問題なのです。南無阿弥陀仏を聞きひらくということは、ずっと私を願続けていた如来の願心に気づくということですから、その心がそのまま私の信心となります。私の心でなく仏心だから、臨終まで続くのです。そして、如来さまの言葉がリアリティを持つようになり、聞くたびに喜べるようになります。
@user-mf9gb9ro2q
2 ай бұрын
たしかに30秒のお話を何度聞いても自分のこととして聞けないことが私の疑心です。信じられるものなら信じたいと思いながらも結局疑いのはれないままの私です。 自力の悟りが得られるかどうかを自分に問う事と同じように、私の疑心がなくなるのかどうかを自分に問うときに、導かれる答えはどちらもNOで、先生のお言葉は「答えが出るまでやってみろ」「疑心が無くなるまで聞いてみろ」といわれているようで、私が希望をもてるような言葉ではありません。 「疑心まみれの私がそのまま往生できる」 その事すらも疑心をもってしか受け止めることが出来ないながらも、疑心だらけの片隅にある「でも、もしや?」という私の心の内が、わずかな希望であり、信仰のようなものです。 教義に能わないと言われれば私の人生が終わってしまうので、やはり私は疑心まみれの私がそのまま救われるという説を支持する他にはありません。 ご回答くださいましてありがとうございました。
@user-mf9gb9ro2q
2 ай бұрын
私のコメントの付け方が悪かったのかもしれません。 岡林先生におかれてはどうぞ宏道さまのご質問にもご回答のほどよろしくお願いします。
@user-rl6jv9ob6j
2 ай бұрын
絶対神ではないというのは、動画の中でも説明していますように仏教では如来といえども因果を否定することはできないということです。真宗の聖典をみれば因果がたくさん説かれています。その中でもいちばん大事なものが信心正因ですね。 すべての衆生に本願念仏を聞かしめて信心を起こさしめて救うと阿弥陀如来は誓われています。しかし、それぞれの業が違うので救われる時期が違ってくるのです。 宏道さんは確固たるゆるぎなき信心とおっしゃりますが、自力の信心と誤解されておられるとおもいます。聞法して真実の心がまったくない、信ずるこころなんてありえない、と知らされた時に、他力の信心はめぐまれるのです。
@user-bv7pl4bg2l
2 ай бұрын
岡林先生の本願寺派をベースに置いてのご発進尤もだと思います。只、その反面、『闘う』と言う言葉をお使いですが、此れは自分は絶対に正しく、相手は絶対に間違っているとの意識が基盤になければ出て来ない発想かと感じた次第です。 些か、危険かな、と思われますが如何でしょうか。
@yoshi1038
3 ай бұрын
後半に仰っておられた岡林先生の生い立ち、心の変遷、映画やアニメの思想について、この辺りのお話は是非お聞きしたいのでyoutubeにアップして頂きたいです。もしくは桜嵐坊さまのLIVE配信で☆
@user-rl6jv9ob6j
3 ай бұрын
関連する文章や動画をアップしておきました。
@user-rl6jv9ob6j
3 ай бұрын
瓜生崇師の如来は信・疑を差別せず救うという説についての問題提起(特に本願寺派の方へ) note.com/syunki1/n/n231e57f9d2da?sub_rt=share_pw 岡林俊希さんの問題提起にお答えします nekojushoku.hatenablog.com/entry/2024/04/30/120133 疑心往生とは? (桜嵐坊の仏教部屋) kzbin.info/www/bejne/eH-ViqmOaMSCfsksi=3l2_dCWIWoszmImM なりすましの疑いについて note.com/syunki1/n/ne1f6e7de2d63?sub_rt=share_pw 瓜生崇師の応答への返答 note.com/syunki1/n/nfe9644ac4c29?sub_rt=share_pw
@user-zp8hs1qq8v
4 ай бұрын
たまたま知人から教えてもらいましたが、「G師」という、見る人によっては僕が主張したとも誤解されかねないイニシャルを「目眩まし」として用いられたことを残念に思います……。
@user-rl6jv9ob6j
4 ай бұрын
それは失礼しました。匿名にするという目的でイニシャルを使い、文字のことは考えていませんてした。目眩しの意図はありませんでした。柳衛師(ギエポン師)のことではないとここで明言させていただきます。
@sabaneko1948
4 ай бұрын
聴聞了 南無阿弥陀仏🙏
@sabaneko1948
4 ай бұрын
有り難うございます 南無阿弥陀仏🙏
@pisces220
7 ай бұрын
有難うございました。 南旡阿彌陀佛🙏
@UCyo9kpNb4IJ9llVzxwdkvEw
7 ай бұрын
本願寺派の教判で大谷派の布教を異義と訴えるのは破邪顕正の意義でしょうか。 先方の名前を伏せているのも意図が読めません。陰口のような形で法談してもよくないのではないでしょうか?
@user-rl6jv9ob6j
7 ай бұрын
G師の説は親鸞聖人の教えを大きく逸脱していると考えます。なぜ間違いなのかという論理と西本願寺教団では異義とされ厳しく否定されてきた事実を述べ、問題提起しています。 浄土真宗の僧俗、特に本願寺派の方がこの説に惑わされないようにまず注意喚起したいのです。それも単なる批判、排除ではなく正しい信心の理解につなげたいからです。 個人名を出さないのは個人の名誉に関わることなので慎重にしたいからです。この異説が拡まるのを防ぐためにどうすればいいのか、各所に相談して考えたいと思います。
@user-rl6jv9ob6j
4 жыл бұрын
法話原稿をNoteにアップしました。ご活用下さい。やわらかい心をはぐくむ〜疫病の時代の処方箋〜|岡林 俊希 #note note.com/syunki1/n/nb51231a4a711
@UCyo9kpNb4IJ9llVzxwdkvEw
4 жыл бұрын
時々、門前を車で通ります。
@user-rl6jv9ob6j
4 жыл бұрын
コロナ危機がおさまったら、ぜひお参り下さい。
@UCyo9kpNb4IJ9llVzxwdkvEw
4 жыл бұрын
そうですね。一度お参りさせて頂きます。@@user-rl6jv9ob6j