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名古屋・浄土真宗本願寺派西念寺住職の法話や感話
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凡夫の疑いはなくならないという説について②
11 ай бұрын
33:18
凡夫の疑いはなくならないという説について①
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創造的一瞬 〜感応道交〜 HD 720p
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念仏の中の生活 〜三つの善知識〜
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真宗僧が「犬に仏性はあるか」の公案に挑む
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陸奥さとしと語る 聖徳太子・蘇我馬子・親鸞 2
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陸奥さとしと語る 聖徳太子・蘇我馬子・親鸞 1
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やわらかい心をはぐくむー疫病の時代の処方箋
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Пікірлер
@norioazuma8245
18 сағат бұрын
カルトは瓜生崇氏に、と言う安易な考えは、捨てるべきですね。彼自身がカルトの教祖化に向かっています。本覚思想『溶け合う世界』を訂正する姿勢が見られないのは、非常に危険です。
@ながはま-n
Күн бұрын
易往而無人といわれているのに、すべての人が救われてるのか。疑情ひとつが苦悩の根源と言われておりますのに転倒しておりますね、どうしてこんな教えがひろがっていくのか、これはアカンと思いますね。
@HatamoyaRyu2
3 күн бұрын
「宗教体験」って、別に悪霊に取り憑かれ、祈祷を受けて光を見たとかでなく、人それぞれの仏教を知っていても、心の受け止め方かな?...とも、思います。 妙好人さんが、「フィッと...」と仰られたように、いままでの生活の中で、見方が変わる•善知識と見えるように思われ、「おかげさま」って思えたりするものではって思います。 そんな時、なるほど...そうだったと感謝し、手を合わせられるようなものと思います。 なんまんだぶ🪷🙏 それにしても、学徒が頭が良いのでしょう。 講師となり人に説く、そして、人間関係か脱会してしまう。 会が本願寺派を叩くばかりをしていたのが、おかしいと気づいたならば、お西の事を知ろうとしないのかなって思います。 親鸞会の考え方•講師の立場と言う快感でも覚えたのかお東の僧籍を得る。 なぜ、お西の僧侶にならなかったのか? 彼は、結局は脱会し切れていない•自説の為にお東の僧侶になったのではないかと、邪推をしてしまいます。 本願寺派に講師としてきても、違和感のある説法になっているのでは?って思います。 日本人的な考え方では無いようにも、思いました。 「もし、宗教が世界になかったら...」とか言うサムネでKZbinがありました。 そもそも、人の心のよりどころになるのが、宗教なんだと思います。 そして、その【解】は、人それぞれ。 なんまんだぶ🪷🙏
@gumonbou
Күн бұрын
仏教では唯識などでマナ織、アラヤ識などの深層心理を説いています。転識得智で悪業を智慧にかえなす構造があります。浄土真宗にも天親菩薩によりこの転成の教義が入っており親鸞聖人は「「転ず」というは、罪を消し失わずして善になすなり」といわれます。心はすべて虚仮で真理は一如の側にあってまじわらないという二元論はおかしいと思います。自己と法が常に交流し、縁起を知らせ懺悔と歓喜の法悦があり、それがご恩報謝、仏徳讃談によって利他教化になるというダイナミズムが信心の体験の全体です。
@HatamoyaRyu2
Күн бұрын
@@gumonbouさま。 「円融至徳嘉号 転悪成徳正智」からの「成徳」と法名をいただきました。 当時は、浄土真宗のイロハも分からず、法名の意を勘違いしていて、ご院家さまから帰りのバス内で「違います...徳とは賜るものです」と言われて、ずいぶんと考えさせられました。🤔 お西さんと言われる時から、代々、本願寺派ですが、所属寺さまとは距離があり、なかなか、お話をする機会もなかったですが、PC•スマホで調べたり、色々な方の法話をお聴聞させていただき、悩む時間は無駄ではありませんでした。 ただ、学がない為に仏教用語とか、検索したりとしたら何を探していたか、わからなくなってしまったりしまいました。😅 祖母の往生から、20年になろうとしてますが、「一歩」は進んだかなぁって思います。 父の自死も、なんとなくですが、当時のように苦しくはないようになって来たかなぁと、体調からしても、救われて来てる気がします。 なんまんだぶ🪷🙏
@北畑宏道-y6y
3 күн бұрын
岡林先生。 ご意見拝聴拝視致しました。 確かに、浄土真宗に於ける信心の考え方では疑心が残る信心を否定して居るかにわたくしの様な暗愚にも感じられます。 その上で、岡林先生にお尋ねしたいのですが、親鸞会の主張によれば、信心獲得したら、その信心は一切揺らぐことは無いと主張して居るかに受け止められ、その点、疑心往生を真っ向否定為される岡林先生のご意見と親鸞会の主張とは恰かも表裏の関係の如くだと感じた次第です。 と申しますのも、 ①情報獲得手段が乏しかった江戸期迄日本なら、特に村から一切出ること無く、特定のお寺の住職様の教説を聴く中で、その信心が揺らぐことは無かったと言って良いか、と存じます。其れに比して現今は簡単に多方面の情報が入手可能な故、自身が特定の意見をシャッタアウトしない限り様々な意見・主張に去られることになるかと存じます。 よって、自分が一旦得た信心を揺らぐこと無く持ち続ける方々も居られる一方で、自分の考えが揺らぐ方々も居られるのでは無いか、と感じる次第です。 その視点から視ますと、疑心往生を寧ろ許さない趣旨の岡林先生の論調では、一旦信心獲得したら生涯揺らぐことは無い、と仰られて居るに等しいか、と存じますが如何でしょうか。 ②①の如く信心獲得しても様々な情報に晒されて信心が揺らぐことがあり得るとすれば(其れは岡林先生流には否定為されることかとは存じますが)、その信心が揺らいだ者の、揺らいで居る間の救いは如何なるとお考えでしょうか。 ③浄土真宗、分けても本願寺派に在っては、上記の如く門を叩いて深く入ってみれば、信心獲得しないと救われないと知らされるのですが、その入り口は如何でしょうか。 『阿弥陀佛様を信じて念仏すれば救われる』と表(入り口)では説きながら入ってみると、信心獲得しないと救われないと知らされる。 此れは在る意味二枚舌ではないか、と感じるのですが、如何でしょうか。 ④此様に、信心獲得しないと救われないとすれば、疑心往生を徹底排除するなら、その信心が揺らいだ者は再び信心獲得する迄救われない、との論が成り立つと存じますが、その様に信心獲得が揺らいで居る者を排除する趣旨はどの様に解せられ、どの様に救いの手が差し伸べられるのか、或いは切り捨てられるのか、如何でしょうか。お教え願いたく存じます。 以上、岡林先生の論説を拝させて頂いて居て、上記の如く、信心獲得の狭間に陥った者はどうなるのだろう、との疑問より発した問いを幾つか並べました。 荒削り故、岡林先生などに取っては、簡単に、此れはこうだとご解題になられる程度・レベルかとは存じますが、お教え賜われば幸いです。 上記は瓜生崇氏の論説点とはズレるかとは存じますが、ご検証ご解題賜わればと存じます。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。
@gumonbou
2 күн бұрын
私は「疑いは絶対なくならない、信心を獲た、救われたという人は思い込みであつて、その確かさを得るために他人を批判する危険な人間になる」という説が、親鸞聖人の教義に合わないと言っているのです。 また、絶対ゆるがない信心という概念が宏道さまと親鸞聖人と異なっております。二種深信について、お聴聞されると疑問が解消すると思います。
@HatamoyaRyu2
5 күн бұрын
あぁ、あまり良い評判を聞かない方の「猫住職」ですね。 あの方って、脱会したと言う割に、いまだに「親鸞会学徒」みたいな考えですね。 「広仏」のカルトについての講師を、まだ、やってるんですよね...本願寺派には、「カルト」を話せる方が、いないのですかね?🤔 「全国を飛び回っておられる有名な方」って、法座を拝聴させていただく機会がありましたが、なんにも残っていませんね...普通、ご法座を拝聴させていただくと「日頃、心に積もった世俗の垢」を、落としていただくような気になり帰ってからも、味わせていただけるのに、モヤモヤ感しか残りませんでしたし、法座も中途半端でしたね。 確かに、頭が良いのでしょうけど、「法座」を勤められるほどなのですかね? 「本願寺派」批判みたいな事されてるのに、まだ、講師として呼ぶお寺さまがあるのですね。 あのアーカイブは、何度も観ても、腹が立つばかりですし、「本願寺派」でこそ、あのような配信をしておかなかったのかと...😮💨
@gumonbou
3 күн бұрын
少なくとも瓜生師個人のホームページから勧学和上や本願寺派の僧侶の動画は引き上げてもらいたいですね。登録者数や瓜生師の法話の視聴者数の増加に貢献してしまいますからね。
@HatamoyaRyu2
3 күн бұрын
@@gumonbouさま。 そうしてもらいたいです。 「領解文問題」は、特に削除してもらいたいですね。 出演されている方々、どうしてアレに出られたのでしょうね?😮💨 なんまんだぶ🪷🙏
@gumonbou
6 күн бұрын
瓜生崇さんに対する私の投稿と動画を貼っておきます。 瓜生崇師の如来は信・疑を差別せず救うという説についての問題提起(特に本願寺派の方へ) note.com/syunki1/n/n231e57f9d2da?sub_rt=share_pw 瓜生崇師の応答への返答 note.com/syunki1/n/nfe9644ac4c29?sub_rt=share_p 瓜生崇師の宗教論理の危うさ note.com/syunki1/n/nd10fc4c02e15?sub_rt=share_pw なりすましの疑いについて note.com/syunki1/n/ne1f6e7de2d63 凡夫の疑いはなくならないという説について① kzbin.info/www/bejne/oIHIfIl9iNqLfqcsi=sVjYIFAqtkSYLVFt 凡夫の疑いはなくらないという説について② kzbin.info/www/bejne/gnvalX2Qap2YpaMsi=nhmTGJr_S6qCEYio 疑心往生とは?(桜嵐坊の仏教部屋チャンネル)kzbin.info/www/bejne/eH-ViqmOaMSCfsksi=4IsmqRolu0s-P5Ru 瓜生崇のカルト問題の考え方と親鸞理解 kzbin.info/www/bejne/joO1hmeEo7Cnn7M
@basock10
7 күн бұрын
大谷派の人の異安心に文句をいう前に、ご自分の所の門主様の異安心を糾弾すべきではないでしょうか
@gumonbou
6 күн бұрын
多くの人が間違いに気づいていない点で、こちらの方が啓発が必要です。あちらの方は宗門の多くの人が取り組んでますので。
@gumonbou
8 күн бұрын
瓜生崇さんに対する私の投稿と動画を貼っておきます。 瓜生崇師の如来は信・疑を差別せず救うという説についての問題提起(特に本願寺派の方へ) note.com/syunki1/n/n231e57f9d2da?sub_rt=share_pw 瓜生崇師の応答への返答 note.com/syunki1/n/nfe9644ac4c29?sub_rt=share_p 瓜生崇師の宗教論理の危うさ note.com/syunki1/n/nd10fc4c02e15?sub_rt=share_pw 凡夫の疑いはなくならないという説について① kzbin.info/www/bejne/oIHIfIl9iNqLfqcsi=sVjYIFAqtkSYLVFt 凡夫の疑いはなくらないという説について② kzbin.info/www/bejne/gnvalX2Qap2YpaMsi=nhmTGJr_S6qCEYio 疑心往生とは?(桜嵐坊の仏教部屋チャンネル)kzbin.info/www/bejne/eH-ViqmOaMSCfsksi=4IsmqRolu0s-P5Ru
@ながはま-n
13 күн бұрын
すべての人は救われているということを伝えるために、法然上人、親鸞聖人はいのちがけの布教をされたのか、のところで吹き出してしまったのは私だけでしょうか。すべての人は自動的に救われている、大丈夫だよ、安心だよとは岡林先生の仰る通りまったく無責任です。そんな領解は仏教ではありませんよね。貴重なご法話ありがとうございました。
@booboo-ov3tj
17 күн бұрын
仏教の目的が「解脱」であるなら、「浄土に生まれる」というのは明らかな矛盾だと思いますが・・・。なんか、そういう、ヘンな感じ、違和感、をもちました。「そもそも論」になってしまいますが、850年前のお坊さん(親鸞)の狭い考え方(情報も足りませんでしたでしょうから)を、この、今の時代に、「何か意味のあるもの」として考えること自体が、とても、悲しいくらい、無益なことだと思います。
@gumonbou
15 күн бұрын
イエスキリストやマホメットがなぜ未だに世界を動かしているのかを考えればわかるよ。 解脱と浄土の違いを考えるくらいよく見てくれたんだね。ありがとね。
@gumonbou
19 күн бұрын
音声が最初は途切れ途切れになってしまい、お聞きぐるしくて失礼しました。最初のうちだけで、しばらくすると正常に戻ったようです。ご容赦ください。
@北畑宏道-y6y
19 күн бұрын
岡林先生。貴重なお話を有難う御座います。 その上で、どの道を選ぶか、個々人の機根に合った道を誤たずに選ぶ事が大切なのでしょうね。 浄土真宗では絶対他力をみ教えの中核に据えて、自力聖道門を対立する概念として排除しようと為されて居る面は有ろうかと存じます。 ①その自力聖道門の立場に視点を置くと、自力聖道門の各宗派は、例えば比叡山・天台宗の千日回峰行の如く、自分の精一杯を尽くして回峰行に挑んだとしても、最後はその頑張りに応えるかの如くに降りて来た神仏の力が合わさって初めて、結願成就出来るのだと、即ち自分の精一杯=自力=横棒ともう此れ以上は(無理だと)迄頑張った処に降りて来る救い=他力=神仏のご加護=縦棒が十字に組み合わさって願成就すると言う事は、千日回峰行を成就した天台宗大阿闍梨様は仰せですし、真言宗阿闍梨も、自分の精一杯を掛けての真言・胡麻祈祷などを為した処=自力に神仏の後押し=他力が合わさって成就する。即ち、神仏に受け取って貰えるとも仰せです。 よって、自力・聖道門が他力を排除しては居ないのだと言う事を前提に置いて、他力・浄土門の一定の完成型とも言える浄土真宗を見定める必要が在るのではないか、と感じた次第です。 ②そうした前提で新・領解文の問題を視させて頂きますと、『私の煩悩と佛のさとりは本来一つ』と言うのは、只々信心(獲得)して、阿弥陀如来様にお任せすると言う意味では、誤った言説では無いと感じるのですが、如何でしょうか。 ③岡林先生仰せの通り、『お念仏を中心にした生活』が大切だとの領解が成り立つとは存じますが、浄土真宗の其れは、信前の自力の念仏と、信後のお任せ・絶対他力(報恩謝徳)の念仏とが厳密に別けられるが如く、『全ての衆生を救う』から、始まりながら、信心獲得出来て居ない(絶対他力を自分の精神に出来て居ない)者は救済の対象から除外されるが如き帰結に至る法論が横様に柱が通って居ること。言い方を変えれば、極難信。難中の難。 であり、救われる者は極僅かだとすれば、依って立つ思想と救いの実態が乖離しては居ないのか、と言う点。 以上①,②,③についての岡林先生から見てのご解題を賜わりたく、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 そして、④『差別なく全ての衆生を救う』と言う事については、救われる者と救われない者とを分別する事はその限りに於いて、浄土真宗が批判する自力・聖道門の教えと差異が無い様にも感じるのですが、如何でしょうか。 また、⑤全ての人が救われると言うのは(本覚思想)、理想では在っても、善因善果、悪因苦果の考え方に比しても無理が在るのではと感じるのですが、如何でしょうか。 長々と書きました。ご教示どうぞ宜しくお願い申し上げます。 その上で『後生の一大事』について、果たして、現世に於ける様々な悩み、苦しみ迄もは解決し得ないはとも感じるのですが、併せて、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 日々、生きると言うことは明らかに、『死』に向かって居ること。その事だけは、宗派別がどう在れ、間違いない事実だと言うことに想いを馳せつつ。
@gumonbou
19 күн бұрын
コメントありがとうございます。聖道門と浄土門の比較についてですが、私はどの行を選ぶかということが大事だと思います。 極難信についてはまたお話ししたいと思います。端的に言えば自力の否定です。私の能力の問題ではなく、自力では不可能なのです。
@和田俊章
Ай бұрын
漁村には魚類供養塔があります。
@和田俊章
Ай бұрын
華光の法座にZoomで参加して聞き直します。
@gumonbou
15 күн бұрын
いいんじゃないですか!
@pisces220
Ай бұрын
有難うございました 南旡阿彌陀佛🙏
@gumonbou
Ай бұрын
タイトルの年が2024年になってました。2025年の間違いでした。失礼しました。
@北畑宏道-y6y
Ай бұрын
岡林先生。 明けましておめでとうございます。 蓮如さまと一休さん。 一休さんと言えば、様々、中々に辛辣な言葉が想い浮かびますが。 さて、 ①神祇不拝の話が出て居ましたね。 その事に関して、親鸞さまはシャーマニズムの一典型とも言える夢告は大切にされましたけれども万物崇拝(アニミズム)を核とする日本の神道を邪教だと排撃されて居ますが、神道に内在されるシャーマニズムは否定しつつ、夢告は肯定的に捉えるのは在る意味ダブルスタンダードではないのかな、と。 そして、万物崇拝が日本神道の核で在ることを考えると、親鸞浄土真宗の教義姿勢は、在る意味日本人の『和』と言う精神性を破壊するカルト的な要素を内在して居るのではないか、と、その危険性を感じるのですが、神祇不拝にしても上記の様な視点からは、岡林先生はどのようにお考えになられてらっしゃいますでしょうか。 ②現代の浄土真宗の主流は、親鸞教学と蓮如教学は全く同じものとして扱われて居ますが、果たしてそうなのか、人格的別は兎も角、どうなのかについては、岡林先生のお立場は如何でしょうか。 そうした疑問はさて置き、何時も丁寧にご教示して下さって居ることに感謝申し上げます。 今年が、岡林先生。そして、ご家族さまに取って、善き年であります様、祈念申し上げます。 其れにしても、16日で新領解文問題が生じて丸2年。推進派も反対派も領解文に各々ベクトルは違えど想いは在るのだと存じますが、一日も早く同問題が終息して、本山と末寺が取り組むべき喫緊の課題である末寺の衰退への対処などに注力頂ければ、と願う次第です。
@和田俊章
Ай бұрын
KZbinr聞法しか出来なくなりました。 比量がない一方通行ではご信心をいただけないでしょうか? それとご法話は聖教量になりますか?
@北畑宏道-y6y
3 ай бұрын
岡林先生。貴重なお話を有難うございます。 その上で、親鸞さまが説かれる浄土真宗のみ教えでは、法蔵菩薩の第18本誓願に於ける『十悪・五逆、誹謗正法の者』を除くのではなく、それらをいましめつつ、全ての衆生を救う阿彌陀佛の大慈悲を説いて居られるのではなかったのでしょうか。 岡林先生の今回の発信の言い方によれば、第18願をそのままに受け止める(べき)だと言うことになり、全ての衆生を漏れなく救うと言うことと相矛盾するようにも感じられるのですが、正しい理解は如何でしょうか。 と、申しますのも、全ての衆生を救うとするのが浄土教の根幹だとすると、誹謗の者を切り捨てる選択をすることは当該浄土教、就中浄土真宗のみ教えを自ら否定することになりはしないのかと思う次第です。 勿論、岡林先生の仰せの通り、信心は帰命の肝要だとは存じますが、その信心にも『深い、浅い』は有り得るし、其れが凡夫だと言える所以ではないか、と思う次第ですので。
@北畑宏道-y6y
4 ай бұрын
岡林先生。 何時も、お教え有難うございます。 仏教が真理を含んで、人々の生きる指針となって居る面。否定し得ないと存じます。 そして、仏教も究極、『物語』ですね。 ならば、 そう言う意味では、日本のアニミズム(万物崇拝⇒後に神道)も又物語なのですが、何故、親鸞さまは、日本人の精神性の原点とも言える神道を邪教だと切り捨てられたのでしょうか。 神道は=迷信や呪いではないので、その辺りは以前から疑問が解消せずに居ます。 どうぞよろしく、ご教示の程、お願い申し上げます。
@北畑宏道-y6y
4 ай бұрын
岡林先生。 改めての「疑心往生」についての話。有難うございます。理解を深める為に繰り返しお聴聞させて頂きたいと存じます。 ①完全に「疑い心が無い」状態を強調し過ぎると信心獲得して居ない者は救われないとの浄土真宗のみ教えの核に在る部分との整合性は取れるとは存じますが、全ての衆生が救われる、とする論とは些かのズレが生じる様にも感じるのですが如何でしょうか。 と申しますのも、 ②全ての凡夫が、岡林先生の仰られる様な「全く疑いのない『信心一筋だけ』の衆生が如何程居るのでしょうか」(一定数居られるることは確かだとは存じますが)。 人の心は「コロコロ変わるから『心』」と言うとも言われますから、果たして、衆生の内に如何程の割合で揺るぎ無い信心の者が居るのか、実証は可能なのでしょうか。 お教え賜われば幸いです。
@gumonbou
4 ай бұрын
コメントありがとうございます。①については阿弥陀如来はどんな衆生も必ず信心を起こして救いとるといわれていますが、その時期については衆生の業によって違うというわけです。(宿縁・宿善)ですので、信心いただけないと今生では往生できませんが、いつの世かでは必ず往生できるので矛盾はありません。 ②についてですが、信心得ているか得てないかは自身が信心定まっているかどうかですので、本人しか知りえないことです。後生はどうかと問うた時に、おまかせできているという身になることが肝要です。また、人のことはどうでもいいことです。他の人はすべて還相の菩薩かもしれません。私1人に呼びかけている南無阿弥陀仏を聞かせていただくことが大事です。
@北畑宏道-y6y
4 ай бұрын
岡林先生。 こんにちは。 過去動画を視聴させて頂いて居ます。 有難うございます。 ふと、感じたのですが、例えば数年前経過する中で同じテーマで話して頂けると、発信者の思索の轍が分かり、尚、理解が進むのだろうな、と感じつつ。 わたくしも令和2年7月に友人を食道癌で亡くした際、コロナ由来で面会が叶わず、残念な思いを致しました。 先生仰せの通り、昔は医療技術も進んで居らず、感染症への防護も今より遥かに不十分でしたから、尚更死者も増えたでしょうし。
@くらげのおつかい
5 ай бұрын
なもあみだぶつ
@北畑宏道-y6y
5 ай бұрын
岡林先生。 恐山でのご経験。イタコの霊卸しを経験為された訳ではないと存じますが、その地域に横たわる雰囲気を肌で感じられて如何でしたでしょうか。 霊魂を認めないとイタコは成り立ちませんが、岡林先生が依って立つ浄土真宗とは相容れない対極に在るようにも感じられるのですが、その点は直に恐山に足を踏み入れられてどのように考えられたでしょうか。 改めて、本講話では深くは突っ込まれて居ない様にもお伺いした故、もう一段掘り下げたお話をお聞かせ頂ければと感じた次第です。
@北畑宏道-y6y
5 ай бұрын
岡林先生。 今回もお話を有難うございます。 日本人特に若者は現代社会の反映で自己肯定感は低いですね。 なので、自己肯定感が高いとする本願寺派総局❓️研究所の認識は誤って居ますね。 現在の特に若者は将来不安も有って心が不安定ですから、浄土真宗本山は認識を改めることから始めないとならないのではと感じた次第です。 ①昭和の高度成長期はみんなが豊かになることで日本全体が高揚して居ましたが現在の低成長下では世代間でパイの取り合いが生じて居ますが、此をどうすればより善き方へと向かえるのででしょうか。 そこに浄土真宗はどのような答えを示せると岡林先生はお考えでしょうか。 ②よく世間ではコメンテーターが日本は内向きになってはならないとの議論がされて居ますね。確かに内向きは諸外国との関係性で問題かも知れないですが、日本の国内がある意味ガタガタな現在。国内をもっと固める(国民の将来不安を払拭する)必要があるのではないでしょうか。 その意味でも、仏教就中浄土真宗の果たす(果たせる)役割はどうなのでしょうか。 ③機の深信を説いて居られたと存じますが、『機の深信』とは阿弥陀仏から頂く『法の深信』に対応する言葉(定義)だと存じますが、先生が仰せの様な日本人の有り様にまで定義を拡げるのは正しい見方なのでしょうか。お教え下さいます様、お願い申し上げます。
@gumonbou
5 ай бұрын
最後は冗談で機の深信は自己肯定感ゼロだと申しましたが、自己肯定感を心理的機能とした場合、機の深信とは関係がないと言えると思います。 親鸞聖人は自己肯定感の高い方だったかどうかを考えればわかると思います。人倫のろう言を恥じずといわれているので、他人の評価は気にされない信仰であられました。 しかし、愛欲の広海に沈没し、名利の大船に迷惑すとおっしゃるように、煩悩の心は他人の評価を気にしてやまないという自覚をもっておられました。 信心は生死の問題に属し、わが心の状態は往生にはまったく関係がない、という自覚を生じます。 しかし、人間が生きていくには煩悩すなわち心理的欲求が満たされる必要があります。それは家族、職場、地域などの所属集団によってえられるものです。 本願寺教団が自己肯定感をあげるのに役立つとすれば、人間は煩悩具足の凡夫であるという機の深信にたったものが、相手の思いを受容し、相談にのってあげられる、お互いにありのままでいられる人間関係を作ってあげることだと思います。そこに、社会に役立つとか、社会的にいいことをしようなどという方向ずけは不要です。
@中川健司-r5m
6 ай бұрын
蓮如様は嘆いていました。信心頂いている方本当に少ないと。鉄下駄履いてでも、信心頂いている僧侶で、本当の教えを聞かせて頂ける僧侶必死で探せと。これが現実で、浄土真宗衰退の原因と考えます。岡林さん頑張られて下さい。
@中川健司-r5m
6 ай бұрын
凡夫の疑いはなくならないという説について・・・これでは信心出来ませんね。阿弥陀様入って頂けませんね。・・ありがたや・お任せします。ですね。
@2020レンケン
6 ай бұрын
岡林先生は、宗門の内外から批判が多い『桜嵐の仏教部屋』に出演された事で大分、ご自身の格を落とされたのではないでしょうか?宗教の多様性を認めず他宗批判を繰り返す桜庭氏の考えを支持されているのでしょうか?
@くらげのおつかい
6 ай бұрын
なもあみだぶつ
@namoamida人buddha
6 ай бұрын
仏願の生起本末、とても大事なところですね。尊いご説法ありがとうございます。南無阿弥陀仏
@聞者
7 ай бұрын
信心が乱れるではなく、やはりこの道しか無いことに何度も立ち帰り、気づかされ、都度念仏が口に出るのですよ。その繰り返しが一念が多念にあらわれるのですが。
@ながはま-n
7 ай бұрын
岡林先生、大変な学びとさせていただきました。ありがとうございます。疑心往生説とは、十劫安心の1種なのでしょうか。異義をとなえるひとは無宿善で因果の道理をわきまえられないから、苦しまぎれに教えをまげるように思われるのですが間違いでしょうか。
@ながはま-n
7 ай бұрын
失礼いたしました、無宿善は宿善うすくに変えさせていただきます。
@gumonbou
7 ай бұрын
疑心往生説もいくつかありますので一概には言えませんが、親鸞のいう信心ということを正しく理解していないからというのが一番大きいと思います。
@ながはま-n
7 ай бұрын
@@gumonbou 岡林先生、返信いただき感謝申し上げます。引き続きの動画配信、楽しみにしております。
@北畑宏道-y6y
7 ай бұрын
岡林先生。 貴重な話を有難うございます。 韓国は結構キリスト教が盛んだと聞いた事があります。 そうした中で勢力を伸ばした一つが旧国際連合だと存じますが。 個人的な交流は大切ですね。 どうしても、韓国と言うと世代によっては半日教育がキツく染み込んで居てコミュニケーションが取り辛いとは思いますが、先生が交流を持たれた方はそうした事はなかったのでしょうか。
@jiyujizai
7 ай бұрын
あるとかないが問題なのかと…。🙄
@HiroyukiIto-Singonsyu-Hakuun
7 ай бұрын
南無阿弥陀仏🙏🪷 🔥🐉
@雲の介
7 ай бұрын
南無阿弥陀仏🙏
@北畑宏道-y6y
7 ай бұрын
岡林先生。 貴重なお話を有難うございます。 さて、数多有る宗派の中で先生が浄土真宗に行き着いた契機は何だったのでしょうか。 お教え賜われば幸いです。
@kagerou800
8 ай бұрын
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
@北畑宏道-y6y
8 ай бұрын
岡林先生のご説尤もだとは存じますが、わたくしに翻って見ますにそんなに確固たる揺らぎない信心を獲得しているか(出来るか)些か疑問があります。そして、其れは疑情胎偶故、仮に信心を得たとして化身土に生まれるのが精々かも知れないのですが。 浄土真宗では阿弥陀佛は全ての衆生を救うとされながら、一心一向に揺るぎない信心を獲得した者だけを救うとされること。尚且つ、岡林先生のご説明だと、阿弥陀如来は万能の絶対神ではないとの事ですが、他方で、他の神仏を拝むなとのこと神祇不拝をキツく仰られる僧侶様方が居られるのを見ますに、阿弥陀如来さまが絶対神的存在でなければあり得ない彌陀佛からの働き掛けではないのでしょうか。 お教え賜りたく、どうぞよろしくお願い申し上げます。
@傘と雨
7 ай бұрын
レベルはちょっと低くて申し訳ないんですが、私も思うところがあります。 揺らぎない信心を獲得することは、自力で悟りを開かんとする事と同じか、それ以上の高い壁を感じ、私は肩を落としてしまいます。 疑念のあるお前をそのまま救うと声をかけていただいているのではなく、疑念のあるお前も変わっていけるよと教えは言っているのでしょうか。
@gumonbou
7 ай бұрын
@@傘と雨 浄土真宗の教えを聴聞していけば、ああそうであったかと頷けるようになります。私には真実がまったくなく、それを救うために如来が修行して南無阿弥陀仏になってくださったんだと。内容的には30秒で聞けます。しかし、それが自分のこととして聞けるかどうかが問題なのです。南無阿弥陀仏を聞きひらくということは、ずっと私を願続けていた如来の願心に気づくということですから、その心がそのまま私の信心となります。私の心でなく仏心だから、臨終まで続くのです。そして、如来さまの言葉がリアリティを持つようになり、聞くたびに喜べるようになります。
@傘と雨
7 ай бұрын
たしかに30秒のお話を何度聞いても自分のこととして聞けないことが私の疑心です。信じられるものなら信じたいと思いながらも結局疑いのはれないままの私です。 自力の悟りが得られるかどうかを自分に問う事と同じように、私の疑心がなくなるのかどうかを自分に問うときに、導かれる答えはどちらもNOで、先生のお言葉は「答えが出るまでやってみろ」「疑心が無くなるまで聞いてみろ」といわれているようで、私が希望をもてるような言葉ではありません。 「疑心まみれの私がそのまま往生できる」 その事すらも疑心をもってしか受け止めることが出来ないながらも、疑心だらけの片隅にある「でも、もしや?」という私の心の内が、わずかな希望であり、信仰のようなものです。 教義に能わないと言われれば私の人生が終わってしまうので、やはり私は疑心まみれの私がそのまま救われるという説を支持する他にはありません。 ご回答くださいましてありがとうございました。
@傘と雨
7 ай бұрын
私のコメントの付け方が悪かったのかもしれません。 岡林先生におかれてはどうぞ宏道さまのご質問にもご回答のほどよろしくお願いします。
@gumonbou
7 ай бұрын
絶対神ではないというのは、動画の中でも説明していますように仏教では如来といえども因果を否定することはできないということです。真宗の聖典をみれば因果がたくさん説かれています。その中でもいちばん大事なものが信心正因ですね。 すべての衆生に本願念仏を聞かしめて信心を起こさしめて救うと阿弥陀如来は誓われています。しかし、それぞれの業が違うので救われる時期が違ってくるのです。 宏道さんは確固たるゆるぎなき信心とおっしゃりますが、自力の信心と誤解されておられるとおもいます。聞法して真実の心がまったくない、信ずるこころなんてありえない、と知らされた時に、他力の信心はめぐまれるのです。
@北畑宏道-y6y
8 ай бұрын
岡林先生の本願寺派をベースに置いてのご発進尤もだと思います。只、その反面、『闘う』と言う言葉をお使いですが、此れは自分は絶対に正しく、相手は絶対に間違っているとの意識が基盤になければ出て来ない発想かと感じた次第です。 些か、危険かな、と思われますが如何でしょうか。
@gumonbou
8 ай бұрын
関連する文章や動画をアップしておきました。
@gumonbou
8 ай бұрын
瓜生崇師の如来は信・疑を差別せず救うという説についての問題提起(特に本願寺派の方へ) note.com/syunki1/n/n231e57f9d2da?sub_rt=share_pw 岡林俊希さんの問題提起にお答えします nekojushoku.hatenablog.com/entry/2024/04/30/120133 疑心往生とは? (桜嵐坊の仏教部屋) kzbin.info/www/bejne/eH-ViqmOaMSCfsksi=3l2_dCWIWoszmImM なりすましの疑いについて note.com/syunki1/n/ne1f6e7de2d63?sub_rt=share_pw 瓜生崇師の応答への返答 note.com/syunki1/n/nfe9644ac4c29?sub_rt=share_pw
@柳衛法舟
9 ай бұрын
たまたま知人から教えてもらいましたが、「G師」という、見る人によっては僕が主張したとも誤解されかねないイニシャルを「目眩まし」として用いられたことを残念に思います……。
@gumonbou
9 ай бұрын
それは失礼しました。匿名にするという目的でイニシャルを使い、文字のことは考えていませんてした。目眩しの意図はありませんでした。柳衛師(ギエポン師)のことではないとここで明言させていただきます。
@sabaneko1948
9 ай бұрын
聴聞了 南無阿弥陀仏🙏
@sabaneko1948
9 ай бұрын
有り難うございます 南無阿弥陀仏🙏
@pisces220
Жыл бұрын
有難うございました。 南旡阿彌陀佛🙏
@UCyo9kpNb4IJ9llVzxwdkvEw
Жыл бұрын
本願寺派の教判で大谷派の布教を異義と訴えるのは破邪顕正の意義でしょうか。 先方の名前を伏せているのも意図が読めません。陰口のような形で法談してもよくないのではないでしょうか?
@gumonbou
Жыл бұрын
G師の説は親鸞聖人の教えを大きく逸脱していると考えます。なぜ間違いなのかという論理と西本願寺教団では異義とされ厳しく否定されてきた事実を述べ、問題提起しています。 浄土真宗の僧俗、特に本願寺派の方がこの説に惑わされないようにまず注意喚起したいのです。それも単なる批判、排除ではなく正しい信心の理解につなげたいからです。 個人名を出さないのは個人の名誉に関わることなので慎重にしたいからです。この異説が拡まるのを防ぐためにどうすればいいのか、各所に相談して考えたいと思います。
@gumonbou
4 жыл бұрын
法話原稿をNoteにアップしました。ご活用下さい。やわらかい心をはぐくむ〜疫病の時代の処方箋〜|岡林 俊希 #note note.com/syunki1/n/nb51231a4a711
@UCyo9kpNb4IJ9llVzxwdkvEw
4 жыл бұрын
時々、門前を車で通ります。
@gumonbou
4 жыл бұрын
コロナ危機がおさまったら、ぜひお参り下さい。
@UCyo9kpNb4IJ9llVzxwdkvEw
4 жыл бұрын
そうですね。一度お参りさせて頂きます。@@gumonbou