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ヨナの叫び
神さまのみ言葉を伝えたい!
15:17
証の書朗読 祝福の山 ⑳ 律法の精神 11、12
9 сағат бұрын
6:30
聖書朗読 ヨハネによる福音書 第20章
16 сағат бұрын
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証の書朗読 祝福の山 ⑲ 律法の精神 10
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聖書朗読 ヨハネによる福音書 第19章
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聖書朗読 ヨハネによる福音書 第18章
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証の書朗読 祝福の山 ⑱ 律法の精神 9
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13:22
聖書朗読 ヨハネによる福音書第16・17章
14 күн бұрын
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証の書朗読 祝福の山 ⑰ 律法の精神 7 , 8
14 күн бұрын
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聖書朗読 ヨハネによる福音書 第14・15章
21 күн бұрын
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聖書朗読 ヨハネによる福音書 第13章
21 күн бұрын
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証の書朗読 祝福の山 ⑯ 律法の精神 4, 5, 6
21 күн бұрын
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聖書朗読 ヨハネによる福音書 第12章
21 күн бұрын
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証の書朗読 祝福の山 ⑮ 律法の精神 2,3
28 күн бұрын
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聖書朗読 ヨハネによる福音書 第11章
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聖書朗読 ヨハネによる福音書第 9章・10章
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聖書朗読 ヨハネによる福音書 第8章
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証の書朗読 祝福の山 ⑭ 律法の精神 1
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聖書朗読 ヨハネによる福音書 第7章
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証の書朗読 祝福の山 ⑬ 祝福 11
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聖書朗読 ヨハネによる福音書第6章
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聖書朗読 ヨハネによる福音書第5章
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証の書朗読 祝福の山 ⑫ 祝福 10
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聖書朗読 ヨハネによる福音書 第4章
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証の書朗読 祝福の山 ⑪ 祝福 9
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2人で賛美 讃美歌312番
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聖書朗読 ヨハネによる福音書第2・3章
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証の書朗読 祝福の山 ⑩ 祝福 8
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聖書朗読 ヨハネによる福音書 第1章
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証の書朗読 祝福の山 ⑨ 祝福 7
Ай бұрын
Пікірлер
@tt-cx9fk
Ай бұрын
朗読のご奉仕有り難うございます。❤ 落ち着いた口調で聞きやすいです🤗 毎日忙しいので家事をしながらヘッドフォーンで聞いています。
@ヨナの叫び
Ай бұрын
お忙しい中、朗読をお聴きくださりありがとうございます。 とても嬉しいです。 朗読は素人ですが、これからも出来る限り続けていきたいので どうぞよろしくお願いいたします。 コメントありがとうございました(^^♪
@roversstar8560
7 ай бұрын
「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう」 (マタイ5:4) ここにみられる悲しみとは、罪のための真心からの悲しみである。イエスは、「わたしが、この地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせる」と言われた(ヨハネ12:32)。人が、十字架にあげられたイエスを見るように引きよせられる時、彼は人類の罪深さをはっきり知る。彼は栄光の主を嘲笑し、十字架につけたのは罪であることを悟る。彼は、今まで、言い表せないほどのやさしさをもって愛されてきたのに、自分の生涯は忘恩と反逆の場面の連続であったことを知る。彼は最良の友なるお方を捨て、天のもっとも尊い賜物を乱用した。彼は、神のみ子を自分で再びくぎづけにしたのである。そしてその傷つき痛められた心を、もう一度さし貫いたのである。彼は広く、暗く、深い罪の淵によって、神からへだてられた。彼は絶望感にうちひしがれて悲しむのである。 このような悲しみは「慰められるであろう」。神はわたしたちがキリストのうちに逃げこむために、彼によって罪の束縛から解放し、神の子らの自由を喜ぶために、わたしたちの罪をあらわしてくださる。真の悔いをいだいて、わたしたちは十字架のもとに来ることができる。そしてそこに、わたしたちの重荷をおけばよいのである。 救い主の言葉はまた、苦悩や失望に苦しむ者に慰めの言葉となる。わたしたちの悲しみは地からわきでるのではない。神は「心から人の子を苦しめ悩ますことをされない」(哀歌3:33)。神が試練と苦悩とをゆるされる時は、「わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるため」である(ヘブル12:10)。耐えがたく思われる試練も、信仰をもって受けるならば、祝福であることがわかる。この世の喜びを砕く残酷な一撃も、わたしたちの目を天に向ける手段となる。悲しみが彼らを、主にある慰めに導かなかった ならば、イエスを知らないでしまう人がどんなに多いことであろう。 生涯の試練は、わたしたちの品性から不純で粗野なものを取り去る、神の職人である。切り出され、角材とされ、削られ、刻まれ、磨かれるのは苦しい工程である、砥石車におしつけられるのはつらいことである。しかしこうして石は、天の神殿に置かれるように整えられるのである。主は無用の材料に対しては、こんな注意深い、行き届いた手間をかけられない。主の尊い石のみが、宮の型にならって磨かれるのである。 主は、ご自分にたよるすべての者のために働かれる。忠実な者は尊い勝利を得る。貴重な教訓を学び、すばらしい体験をすることができる。 わたしたちの天の父は、決して、悲しみに沈む者に無頓着ではおられない。ダビデがオリブ山を「登る時に泣き、その頭をおおい、はだしで行った」時、主は憐れみ深く彼を見守っておられた(サムエル下15:30)。ダビデは麻布を身にまとい、良心に責められていた。自分を低くしたその態度は、彼の悔いを立証していた。涙にむせび、自責にふるえる声で、彼は神に事情を訴えたのであった。主はそのしもべを、お捨てにならなかった。自分の息子の反逆に扇動された敵から、良心に責められたダビデが、命からがら逃げた時ほど、無限の愛のみ心にいとしく思われたことはなかった。「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」と主は言われる(黙示録3:19)。キリストは、悔いた心を引き上げ、悲しむ魂を洗練して、それを、ご自分の住居としてくださるのである。 しかし悩みが来る時、ヤコブのようになる人が何と多いことであろう。わたしたちはそれを、敵の手と思うのである。そして、暗やみの中で力が尽きるまで、めくらめっぽうに戦うのである。そして、慰めも救いも見いだせない。夜明けにヤコブに触れた神のみ手は、彼が格闘していたのは契約の天使であることを明らかにした。泣きながら力尽きたヤコブは、彼の魂が慕い求めていた祝福を受けるために、無限の愛の懐に倒れ伏した。わたしたちはまた、試練は益をもたらすことを学び、主のこらしめを軽んじることなく、主に責められる時、気落ちしないように学ぶ必要が 「見よ、神に戒められる人はさいわいだ。……彼は傷つけ、また包み、撃ち、またその手をもっていやされる。彼はあなたを6つの悩みから救い、7つのうちでも、災はあなたに触れることがない」(ヨブ5:17~19)。イエスはすべての打たれた者に、いやしのわざをもって来られる。失望、苦痛、苦難の生涯は、主の臨在の尊い啓示によって明るくされるのである。 MB 1128.5 神は、わたしたちが傷つき破れた心をもって、無言の悲しみに圧倒されるままに放置しておかれない。神はわたしたちに、目をあげて、愛のやさしいみ顔を見るように望まれる。聖なる救い主は、涙で目がくもって、主を見分けられない多くの者のそばに立たれる。主はわたしたちの手をにぎり、単純な信仰をもって主を見るようにと、また、わたしたちが主に導いていただきたいと願うようになることを望んでおられる。主のみ心は、わたしたちの苦しみ、悲しみ、試練にむかって開かれている。主は永遠の愛をもってわたしたちを愛し、わたしたちを慈愛をもって囲まれろ。わたしたちは主のことを心に思いつづけ、1日中、その慈愛をめい想することができる。主は魂を、日ごとの悲しみと困惑の上に引きあげ、平和の国に入れられるのである。 m.egwwritings.org/ja/folders/1024
@治子清沢
Жыл бұрын
こころに、響く。優しい声に、癒やされました。これ
@姫子松岡
Жыл бұрын
ギターの音色と讃美歌とても良い最高です!やさしく耳に響きます!
@田端英之
2 жыл бұрын
バプテスマを心よりお祝い申し上げます。タイムリーの礼拝説教で良かったですね!祝福ですね
@ヨナの叫び
2 жыл бұрын
田端さま、ありがとうございます。お聴き頂いて感謝です♪
@姫子松岡
2 жыл бұрын
やはり何度聞いても優しいおだやかな気持ちにさせられます感謝です。
@姫子松岡
2 жыл бұрын
今日も優しい気持ちになりました有難う!
@姫子松岡
2 жыл бұрын
ハーモニカの音色でどうして、こんなに優しい気持ちになれるの?
@eiichiitoh9521
2 жыл бұрын
===カルヴィンの注解===ヤコブ書、1ノ22-23。(新教出版社刊の原本には平仮名が多く漢字は少ないのである、一応形だけは23節も含もうとするが、朗読では22節迄である!?) 22. そうして、御言を行なう人に成りなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人に成ってはいけない。 23. 凡そ御言を聞いても行なわない人は、鏡の中に生れ付きの顔を映して見る人のようなものである。 [20] 22 『そうして、御言(みことば)を行なう人に成りなさい』 此処で「行う人」と言うのは、ローマ、2ノ13. にある、神の律法の行い、律法を完璧(かんぺき)にやり遂げる人と言う意味ではなく、心から神の言を受け入れ、「御言(みことば)を聞いてこれを守る人は幸いである」(ルカ、11ノ28.)とのキリストの言葉に従い、真摯(しんし)な信仰を生活(せいかつ)によって証(あか)しする人、を示す、此処で著者は、先に述べた植え方あるいは接(つ)ぎ方が、どんな物であるかを、結実(けつじつ)によってハッキリ示(しめ)している。なお、ヤコブは信仰をも他の業と共に、と言うより他(ほか)のわざすべての上に置(お)いて考えている事に注目しよう。信仰は神から私たちに求められる主要な業だからである。要約(ようやく)すれば、彼の言おうとしているのは、主の言が私たちの中に根付き、そうして実(み)を結(むす)ぶようにと努力(どりょく)しなければならないと言うことである。 『23 鏡の中に映して見える人のようなものである。』 確かに神の教えはそれを通して神が私たちに現れ、見えるようになる鏡である。これは、パウロが第二コリント3ノ8. で言っているように、私たちが神の像に変えられるためである。処(ところ)が此処(こゝ)で語られているのは目の外的なまなざしであり、活(い)きた・力ある・心まで染み入る熟視(じゅくし)では無い。これは見事な喩(たと)えであり、教えと言うものは聞くだけで心から受け入れないならば間もなく消えて仕舞い、何の役にも立たないと言うことを数語(すうご)で現(あら)わしている。
@eiichiitoh9521
2 жыл бұрын
ヤコブの手紙 1ノ19-21. ===カルヴィンの注解===(新教出版社刊の原本は平仮名が多いので漢字は勝手に造って多くない物である) 1章~19-21. 節。とその次投稿の~22-23.節迄. 19. そこで愛する兄弟たちよ、凡ての人は聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきである。 20. 人の怒りは神の義を全うするものでは無いからである。 21. だから、凡ての汚れや、甚だしい悪を捨て、あなた方の中に植えられている御言[葉]を素直に受け入れなさい、御言はあなた方の魂を救うことが出来る。 『19. すべての人は聞くに早く』 もしこれが一般的な句であるなら、結論は遠くから引き出されることに成ろう。しかるにこの直後に、真理の御言に関する句が置かれて居り、それは前句と照合するので、著者がこの勧めを特に自分の意図に当て嵌(は)めて言っていることは疑い無い。神の慈愛を述べた著者は、神が私たちに為し給うた比類ない恩恵、即ち真に有益な教えを喜んで受け入れるべき事を示す。霊的再生は束の間の業では [18] 無いからである。私たちの中にはいつも古い人が残って居るので、私たちは絶えず、肉の朽ちるまで再創造されて行かなければならないのである。さて私たちの誇り、高慢、無頓着は神が私たちの内に働くのを妨げる大きな障害である。そこでヤコブは、『聞くのに早く』あれと、俊敏(しゅんびん)を進めている。言い換えれば、神がこのように寛大に自身が私たちに示して下さるのだから、あなた方の遅さ・怠惰(たいだ)が神の業を遅(おく)らせぬよう、神に対して従順であれと言うのである。また、自分をあまり賢いものだと思い込むと、神が私たちに語り掛けるのをじっと聞いていることが出来ず、(いわば)神の意図を私たちの性急さで壊(こわ)してしまうので、ヤコブは『語るに遅く』あれ、と命じているのである。実際、沈黙の内に神に聞くので無い限り、神の善い弟子となることは出来ない。けれども、著者はピュタゴラス1脚注([前580-前500頃]、ギリシャの哲学者、数学者。)が其の学園の中で行っていたような沈黙を命じて、知るに益ある事を私たちが学ぼうとする度(たび)に問い正すことは許されない、と言っているのでは無い。唯、私たちの誇りや傲慢(ごうまん)を直そうとしたのである。それは(しばしば起こることだが)私たちが神の言われることを途中で遮ったりしないように、また神が口を開いて居られる間、悟性(ごせい)と耳とを神(かみ)に向けて開いているように、そうして先走って語ることのないようにするためである。『怒るに遅く』 怒りもまた非難されているが、それは神が静かに聞かれることを望んでおられるのに、怒りは騒(ざわ)めきのようにそれを中断したり妨げるからである。精神が安定し平穏にならなければ、神に聞くことは出来ない。そのために著者は付け加えて言う。憤りや怒りが満ちている時 神の義は働かない。つまり、争いの熱が冷めぬ限り(:どの場合でも決して憤ってはもイケナクは無いが怒りを重用して遅くしてよく言うべき言葉を考えて𠮟れと?売り言葉に買い言葉と成らぬようにと?)、著者が語った沈黙の節制を神に捧げることは決して出来ないのである。 『21 だからすべての汚れを………捨て』 此処で著者は、生命の言をどのように受け入れるべきかを結論している。先ず彼は、御言は私たちの中に接ぎ木され根付けされなければ、正しく受け入れたのではないと言う。『植えられている御言を受け入れなさい』と言う言い方は、そのように解するか、もしくはそれと同じ意味で「御言が真に植え付けられるように受け入れなさい」と言い換えることも出来る。著者は、屡々(しば〱)渇いた地に落ち、良い土に出会わないため、その水分に養い育てられることのない種子や、また地べたに捨てられたり、枯れた木の上で、朽ちて行くひこばえのことを引喩している。そこで著者は、御言を植え、または生きたまま接ぎ木するように命じている。それにより、御言が私たちの心にいわば接合され、合体されるためである。同時に彼は、御言の受け入れ方を示し、『素直に』と言っている。この言によって、イザヤの「わが霊が留まるのは、へりくだって従順な者の上である」(イザヤ、66ノ2)と言う言葉に述べられているような、進んで学ぼうとする謙遜、柔和な精神が示されている。主の学舎で成長する者が極めて少ない理由は此処にある。百人の内ようやく一人が、心から傲りを去り神に従順に仕える位で、ほとんど全ての者が、神に対して傲岸かつ強情なのである。私たちは、もし神の生きた植木となろうとするなら、自分の心を矯(たわ:正しくし)め、従順に向かわせるべく努めよう。それによって、子羊のように私たちの牧 [19] 者に飼って頂く為である。しかるに人は先ずよこしまな情を浄められてない限り、野蛮な本性を全く脱ぎ捨て、素直で従順な心を得ることは出来ない。そこで著者は、『凡ての汚れや甚だしい悪を捨て』よと命じる。ヤコブは工作の園芸から譬(たと)えを取っており、その為雑草を抜くことから始めるという順序を取っている。さて彼は人々皆に語り掛けているので、これらの悪が私たちの本性に根付けされ、私たち一人一人の内に張り付いてしまっているのだと結論しなければならない。更に彼は信者に語り掛け、私たちはこの世においてこれらの汚れからすっかり清められることはなく、何度となく汚れは芽を吹くのだと言っている。そこで彼は、絶えず入念にそれらを取り去るようにと要求している。先ず、神の言は聖なる、畏敬すべきものであるから、それを喜んで受け入れる為に、わたしたちの身を汚している汚れを取り除かなければならない。悪と言う語には、偽善や反逆、凡てのよこしまな欲望が含まれる。悪のすみかが人の魂の中にあると言うだけでは満足せず、著者は、余りにおびただしい 悪が其処にあって、溢れ出し、いわば大きな山となると言っている、実際、自己をよく点検できる者なら誰でも、悪(あく)の無限の淵(ふち)を自分の内に見出(みいだ)すであろう。 『御言はあなた方の魂を救うことが出来る』 此れは神の教えの荘厳(そうごん)な賛辞(さんじ)である。即ち、御言によって私たちは確実な救いを得るのである。さてこれ等が付け加えられているのは、私たちがこの御言を計り知れぬ宝として望み、愛し、たたえる為である。私たちがだらしなく耳を傾けるのに慣れてしまっているこの御言こそ、私たちの救いの根拠であると言われているのは、私たちの怠惰を直(なお)すことに痛(いた)く、強い痛棒(つうぼう)である。しかるに私たちを救う力が御言に帰せられるのは、この為では無い。まるで救いが御言の外的な響きに限られるとか、救いの職務が神から離れて他に移されるとか言うように、ヤコブは信仰によって心に染み入った御言について語り、私たちの救いの造り主なる神は福音によって救いを成(な)し、完成(かんせい:トリエント公会議の「成義の教令」のようにキリストの流血の贖いの修正主義から其処の聖寵からモーセの律法も全聖書をもキリストの指導により完成成就することが出来るように成ったのである!!聖寵の宗教が必要の無いと言うペラギウス主義でもは無いのである!!)させたもうことを示しているに他ならないのだ。
@治子清沢
2 жыл бұрын
幸せ・感じました。
@姫子松岡
2 жыл бұрын
素晴らしい音色でした
@yokohasegawa2445
2 жыл бұрын
It is beautiful! Thank you for your music