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RE:戦国覇王【歴史解説】
このチャンネルでは、今はなきデル・プラド・ジャパンから発行された、週刊「戦国覇王~歴史を変えた名将たち~」の内容をもとに戦国時代の武将や合戦を紹介しています。
毎週1つ動画をお届けします。
戦国覇王は、毎週、武将のフィギュア1体と、次の3つがセットになって送られてきます。
「戦国百科」
戦国覇王メインの冊子で、15p~20pほどの内容になっています。
各地方の主要な合戦や、信長・秀吉・家康の戦い、武将たちの名言など、戦国時代にまつわる記事が書かれています。
「戦国武将データファイル」
毎週フィギュアが送られてきますが、その武将を解説した一枚のファイルです。
フィギュアとともに、紹介したいと思います。
「戦国150年ニュース」
応仁の乱(応仁一年・1467)から大阪夏の陣(元和元年・1615)までの約150年を戦国時代とし、1年毎にどのような事件が起きたのかを、簡単にまとめたファイルです。
全75巻。1年以上も続き、完結しました。
画像やアニメーションは多くありませんが、短時間でわかるように動画を作成できればと思っています。
このチャンネルを通して、戦国時代についてもう少し勉強したいと考えています。
なお、戦国覇王は2002年~2003年に発売されたもので、現在は主流でない古い説に基づいて解説されている部分があることにご注意ください。
情報の不足や間違い、読み間違いなどの指摘は大歓迎です。
ぜひともコメント欄で教えて下さい。
6:59
[歴史解説] 海の覇者 村上水軍 「瀬戸内海を支配し大敵と戦った海賊集団」 /RE:戦国覇王
16 сағат бұрын
8:29
[武将解説] 越前の文化人 朝倉義景 「好機を逃し一乗谷に滅んだ越前の名門」 /RE:戦国覇王
14 күн бұрын
5:57
戦国時代ニュース #47 善光寺の本尊が甲府へ移される、織田信長の上洛 /RE:戦国覇王
21 күн бұрын
7:06
[歴史解説] 闇の戦士 伊賀忍者衆 「伊賀の忍術組織は織田軍の大攻撃を受ける」 /RE:戦国覇王
28 күн бұрын
8:13
[歴史解説] 縦横無尽 雑賀鉄砲衆 「織田信長を苦しめた戦闘集団の戦略とは」 /RE:戦国覇王
Ай бұрын
7:17
[武将解説] 美濃のマムシ 斎藤道三 「一介の油売りから美濃一国を乗っ取る!?」 /RE:戦国覇王
Ай бұрын
6:57
戦国時代ニュース #46 斎藤道三が息子に敗れる、大内氏の滅亡、豊後で西洋式病院が完成 /RE:戦国覇王
Ай бұрын
11:08
[歴史解説] 亀姫 「父徳川家康の威を借りた悪女?宇都宮釣天井事件を起こした女性」 /RE:戦国覇王
Ай бұрын
6:55
[歴史解説] お市の方 「主体的に人生の幕を閉じた織田信長の妹」 /RE:戦国覇王
2 ай бұрын
7:55
[武将解説] 毛利元就の次男 吉川元春 「小早川隆景とともに毛利両川として宗家に尽くす」 /RE:戦国覇王
2 ай бұрын
9:01
戦国時代ニュース #45 証如・太原雪斎死去、乙卯の倭変 /RE:戦国覇王
2 ай бұрын
9:44
[歴史解説] 小松姫 「表裏比興の家に嫁いだ女の決断」 /RE:戦国覇王
2 ай бұрын
9:46
[歴史解説] 妙玖 「三矢の訓の要になった毛利元就の妻」 /RE:戦国覇王
2 ай бұрын
7:13
[武将解説] 側室の子から当主へ 南部信直 「地の葛藤を克服した盛岡藩祖」 /RE:戦国覇王
3 ай бұрын
7:15
戦国時代ニュース #44 国内初のクリスマス、織田信長と斎藤道三の会見 /RE:戦国覇王
3 ай бұрын
10:18
[歴史解説] 慶誾尼 「鍋島藩を生んだ押しかけ女房」 /RE:戦国覇王
3 ай бұрын
7:11
[歴史解説] 山内千代 「台所から操縦した亭主の出世競争」 /RE:戦国覇王
3 ай бұрын
7:33
[武将解説] 補佐役から藩主へ 鍋島直茂 「主君に成り代わった佐賀の名臣」 /RE:戦国覇王
4 ай бұрын
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戦国時代ニュース #43 各地勢力に大きな動き、蠣崎氏がアイヌと和睦 /RE:戦国覇王
4 ай бұрын
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[武将解説] 友情を選び関ヶ原に散った武将 大谷吉継「敗北を承知で戦い自刃した武将魂」 /RE:戦国覇王
4 ай бұрын
11:25
[武将解説] 不覚を取った豪傑 森長可「鬼武蔵と恐れられた森長可の奮戦と死」 /RE:戦国覇王
4 ай бұрын
6:52
[武将解説] 藩祖は世に稀な律儀者 佐竹義宣 「関ヶ原の敗戦で移封され内政に尽力した有能」 /RE:戦国覇王
5 ай бұрын
7:53
戦国時代ニュース #42 織田氏と斎藤氏が講和、近江で楽市令 /RE:戦国覇王
5 ай бұрын
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[武将解説] 長篠城を救った豪傑 鳥居強右衛門「意地と勇気を貫いた三日間の戦い」 /RE:戦国覇王
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[武将解説] 姉川に散った豪傑 真柄直隆「大太刀を振り回し徳川軍と戦った豪勇無双の大男」 /RE:戦国覇王
5 ай бұрын
7:32
[武将解説] 北条氏五代の祖 北条早雲 「今川氏の家臣から関東の大名となる野心家の計略」 /RE:戦国覇王
5 ай бұрын
6:46
戦国時代ニュース #41 足利義藤(義輝)が新たな将軍に、『甲州法度次第』制定 /RE:戦国覇王
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7:52
[歴史解説] 豊臣秀頼 薩摩落ち伝説 「秀頼は大坂城落城寸前に城を脱出していた!?」 /RE:戦国覇王
6 ай бұрын
9:11
[歴史解説] 墨俣城・石垣山城の一夜城伝説を分析する 「築城名人の豊臣秀吉が一夜にして築いたというが……」 /RE:戦国覇王
6 ай бұрын
Пікірлер
@masao750
4 күн бұрын
上組の社旗
@逸廣嶋
13 күн бұрын
川中島の戦いで山本勘助が提唱した「キツツキ戦法」を 謙信に見破られた。 だから武田第二部隊が妻女山から下りてくるまでは上杉軍 が下山後は武田方が優勢と言われているが、では、武田方 がキツツキ~をとらなかったら最初から武田が優勢だった のでは? と思うのは私だけだろうか?
@kobabim9903
14 күн бұрын
一乗谷の整備や文化の発展の度合いなどから察するに、時代が違えば名君だったかもしれませんよね。殺害した人数が多いほど英雄として崇められ、今でも人気があるのは武名を轟かせた侵略者たちですが、そういった中で、風流に生きることを選び、民政に尽くした歴史の「脇役」に評価が向けられるといいですね。
@BB-ke8zb
21 күн бұрын
東西本拠地に分割して、内部での待遇差をつけて内紛させて組織としての独立性をなくしていけばよかった気がするんだが。
@e09087459732
Ай бұрын
一山超えた伯耆になりますが南部町に「新宮谷」という地名があります そばにあるお寺は臨済宗妙心寺派 お武家さん御用達の宗派ですよね農村なのに まあ山中鹿之介のように子が後世 鴻池財閥・野村財閥・りそな銀行・・・の基盤を作る様な人は出てませんがね ハハハ
@HK-ml3kp
Ай бұрын
宗家ではなく新宮党と婚姻関係を結んでいる国人衆が多くてそのせいで晴久よりも国久の命令が優先される、なんて事例も多かったみたいだからなぁ 新宮党粛清及び中央集権化をしなかったらしなかったで毛利の調略で切り崩されていたと思う
@mietoro
Ай бұрын
三木城攻めで、秀吉を背後から仕留めてたらどんな現在だろうか。ロマンだな。
@phoenixgold3593
Ай бұрын
2万人も焼き殺すのはさすがにえぐいが、信仰は問わないが政治にかかわるなら覚悟しろ~といったところ。信長は、最後は大量虐殺で大掃除をします。さすが天下人。
@光幸神野
2 ай бұрын
上杉軍弱すぎでしょ
@チャカリー
2 ай бұрын
三方面同時侵攻とは・・・ 太平洋戦争末期に考えられていた、日本本土決戦に似ています。 アメリカ軍ではオリンピック作戦と呼ばれていました。 内容は九州鹿児島に上陸し南九州を占領するのが目的でした。 上陸地点は吹上浜沿岸・志布志湾・宮崎海岸とした。ちなみに、日本軍は上陸予想地点を当てていた。 ただし日本軍はこの3つのうちどれかに上陸すると読んでいたが、米軍の計画では3か所同時上陸を計画していた。
@おてらけい
2 ай бұрын
これ以前、島津に敗北をして日向を追われていた伊東。この頃には豊臣秀吉に仕えていました。もちろん根白坂の戦いにも旧臣を集めて参加しています。張り切っていたでしょうね。その後、旧領地の一部飫肥(宮崎県南部)に国を与えられ大名に返り咲いています。五万石程度の小藩ですが、秀吉とすれば、日向を追われるまでは、先祖代々島津と戦っていた伊東氏、ここ(島津の側)に置いておけば、島津の抑えになると踏んでいたのでしょうね。現に、江戸時代前期まで、飫肥藩は島津藩と仲が悪かった。 なお、今も飫肥に伝わる「泰平踊り」は、元禄のころ島津との仲直りをきっかけに踊られるようになったと云われています。
@1円顔
2 ай бұрын
お寺で孫に対面させた! 信之病で寝込んでる時に?【小松姫が息子達に叱咤した!】
@正木茂雄
2 ай бұрын
老いては麒麟も駑馬に劣る。
@くるみ-o2d
3 ай бұрын
大河ドラマでは、元就の調略で晴久の手で暗殺されましたね😅
@正典高井
3 ай бұрын
松寿丸をかくまったのは、 五明稲荷で、ですよ。 城にかくまっていたら直ぐばれます。 それに半兵衛の居城は、菩提山城で 岩手城ではありませんし・・・
@正典高井
3 ай бұрын
半兵衛が官兵衛の証紙を破ったのは二人だけの時であり、 その場に秀吉がいたわけではありません。 秀吉本人の目の前で 破ることなどおよそ半兵衛の所業ではありません。半兵衛という人物を全くわかっていないと言う他はない。
@正典高井
3 ай бұрын
岩手氏は、 「いわで」と発音します。
@正典高井
3 ай бұрын
三顧の礼の話は、太閤記などの秀吉宣伝物語による作り話。実際は、「信長様では無く秀吉殿になら仕えましょう」など、到底許される筈は無く作者が中国の話を真似て創作したもの。現実は、信長が秀吉を監視するために半兵衛を遣わせたとするのが妥当。 このように 竹中半兵衛 はいろいろ脚色されてしまいましたが、 確実な稲葉山城乗っ取りと、松寿丸の救命だけで充分伺える 戦国一の軍略家であることに間違いはありません。
@固茹で卵-d3q
4 ай бұрын
肥後ではなく肥前です。
@門亭栗数
4 ай бұрын
西軍はここで戦うべきだったな。せっかく織田秀信が西軍に属してくれたのに見殺しにしてしまった…というのが関ヶ原の戦いの西軍の敗因のひとつだな。 舞鶴の田辺城攻略とか、伊勢方面よりも岐阜城を守る方が優先だったのではないかな。
@tatatatsts
4 ай бұрын
戦国時代に自家を維持するのは大変だったろうな
@ki709
4 ай бұрын
簒奪した豊臣に味方せず、徳川に付くことを勧めなかった馬鹿家臣どもは駄目だな。
@よよよ-r4s
4 ай бұрын
四国統一を成し得た長宗我部三代はロマンの塊ですね〜 一度は大河ドラマで見たいものです😂
@ほるひす-h8v
4 ай бұрын
毛利で言えば井上一族と似ていますね タイミングが良ければ粛清もうまく行っていたのかなぁ
@Mrsasuke2002000
4 ай бұрын
質と言うが実質量だよな3方向同時に攻めてこられたらどんな武将も耐えられない。
@Choroki-u3y
5 ай бұрын
最近鳥居強右衛門の下の毛が肖像画にもなくなっているとかラジオで騒いでいるぞw (騒いでいるのはCBCラジオの「つボイノリオの聞けば聞くほど」だけどな)
@minorunaka-p8v
5 ай бұрын
鳥居強右衛門の武勇伝もすごいですし、長篠城に立てこもって持久戦を続けた、名もない侍たちの一人ひとりが、 長篠・設楽原の戦いの勝因ではないでしょうか? 長篠城の籠城戦は 2週間? 3週間? どのくらい続いたでしょうか? 武田川も800人が戦死するほど積極的に攻撃したとすれば、 城攻めする武田の鉄砲隊も 毎日まいにち銃撃したはず、 1日あたり10発? 20発? もし 1日あたり10発を撃ち 2週間も攻め続けたら 火縄銃の弾丸や火薬は140発分も 消耗したために、その後の決戦の設楽原の戦いの際に、火縄銃の弾丸と火薬が、早めに弾切れになり、織田の鉄砲隊に撃ち負けた。 そういう(弾丸や火薬などの)物量については、刀が得意、槍が得意、騎馬突撃が得意な武将は無関心だったのかな? 逆に、武田が長篠城への攻撃に800人が戦死するほど力攻めせずに、消耗を抑えて兵糧攻めして弾丸を温存していれば、 設楽原の戦いで、織田・徳川への銃撃戦も拮抗して、織田・徳川の指揮官クラスの戦死者も爆増していたかも?
@maronnkuririnn
5 ай бұрын
精鋭部隊と言いますけど。事ある戦で、負けてますよ。
@浩二西-h8u
5 ай бұрын
阿波を制圧したが、泡と消えたか。😮
@hiroshi-itou
2 ай бұрын
アワワ
@Kazuma_knight
6 ай бұрын
尼子政久が戦死せずに生きていたらちゃんと晴久に教育が出来ていてのに...
@Seaza_Sr1
6 ай бұрын
鈴木(雑賀)の鉄砲保有数を考えれば信長が武田との決戦に三千かそれ以上の火縄を持ち込んでもあんまり不思議はないと思う(正確な数なんか調べてたら武田の乱波衆として処刑されてしまわないかい? 三段構えも三段って意味ではなく複数(たくさん)って意味だと思う、三日天下みたいな例えじゃないかな 馬房柵も大小含めて千鳥に構えて何十にも敷いてたと思うし。 武田(甲州信濃)の強さって騎馬隊と工兵隊の強さだから平地での戦では少し分が悪かったかな?日本の在来馬は欧州のアラビア馬や大陸の蒙古馬と違って山谷に強い馬だし まぁこの戦いは同数近くいれば武田が勝ってたと思うけどね
@kikumimi123
6 ай бұрын
地理的に詳しくないのですが、 墨俣城は、思ったより、左側にあるので 不自然だと思います。😢 墨俣城と織田領のどこの城または支城がつながっているのか😊 そこも気になります。 最初から敵の城 だったという説が有力だと思いました。
@名無し-q6y5w
6 ай бұрын
尼子国久の娘が寺井氏なる武士に嫁いでて、子孫は庄屋になってます
@散策ぶらタカセ
6 ай бұрын
コンパクトに要点をまとめてありますね。見やすかったです。 ご承知と思いますが、浅野長政の子孫が広島藩、赤穂藩に繋がります。また、孫が尾張藩初代藩主義直の正室として嫁入しています。随分出世しましたね。
@ichica-uc3kk
7 ай бұрын
この動画のおかげで大河ドラマ葵徳川三代をより楽しむことができてます♪ 非常に勉強になりました!
@re-sengokuhaou
7 ай бұрын
ありがとうございます!
@4番トランペット
7 ай бұрын
長篠の戦いでは武田方の有力武将が何人も戦死していますが、彼らの多くは討ち取られたのではありません。敵方の武将を討ち取っていたのなら、討ち取った織田方の侍は大いに自慢したでしょうが、その様な事例は少ないです。 つまり戦死した武田方の武将は討ち取られない距離にいたにも関わらず戦死した、ということは遠距離から銃撃されて死亡したと考えるのが妥当ではないでしょうか。 やはり長篠の戦いは織田方の銃撃が雌雄を決したと考えるほうが自然だと思います。
@大谷主水-l6t
7 ай бұрын
持ち場持ち場に鉄砲隊長がいましたよね。なにも不自然な立論をすることはないと考えたら、自然に「次! 次!」と鉄砲隊を入れ替えさせて撃てばいいので、小瀬甫庵はそれを三段撃ちと調子よく要っただけだと思います。専門家がムキになって否定する程のものだろうかと思うわけです。そういえば島津の鉄砲隊もいってみれば前進三段撃ちのような用兵です。泗川の戦いなど半開きの扉に殺到してくる敵兵をダムダム弾のような銃弾で前進三段撃ちによって敗走させましたから、あまり三段撃ちを厳密に考える必要はないと思います。
@minorunaka-p8v
7 ай бұрын
長篠の戦いを、冷静に、検討してみると学ぶことが多いですね。 三段撃ちのやり方の細かい分析も興味深いですが、 全体的に見ると、火縄銃以外の武器や戦術が 非常に大きな影響を与えた可能性も見えるのでは? まず火縄銃だけ見ると、 織田・徳川軍に3000挺の鉄砲があっても、武田軍1万が一度に攻撃すれば 生き残った7千兵が馬防柵を壊しにかかる。 動画中にも、武田軍も分割して攻撃とあり、仮に (1/10の)千人の部隊ごとに突撃して、織田鉄砲隊の(1/10の) 3百挺で射撃し 撃たれなかった武田の(騎馬&歩兵)7百人が 眼前の馬防柵を壊せるのでは? これが 長篠のあちこちで行われた。 つまり、 織田軍鉄砲三千挺では、防御に足りないし、織田・徳川軍の 2万ー3000=17000兵は鉄砲なしでサボってた? しかも長篠の戦いは、 6時間~8時間も続いたなら、鉄砲三千挺だけでは、決死の1万の武田軍に馬防柵は破られていた可能性も、 それを防いだのは、 織田・徳川軍の 鉄砲を持たない 17000人の兵士の努力と功績と、作戦・戦術では? 第一、 長篠の戦いの、前日まで雨で、偶然に合戦当日は晴れたが、雨が降れば 鉄砲三千挺は雨にしめって不発で役立たず、 決戦の前夜の雨が降っている夜の、織田・徳川軍の作戦会議では、決戦日には絶対に晴れる、とは考えずに、 雨で火縄銃が使えない場合の、作戦も、十分に検討されたはず、まして、決戦が数日間に伸びる事も 踏まえると、 (1)馬防柵の設置方法 小川の後ろに 馬防柵を設置して、 天然の小川を掘にみたてれば、敵は 小川の土手は身長差ほど高く 馬で突破しにくい。 馬防柵だけでなく、おそらく逆茂木も設置して馬を防いだりしたのでは? (2)鉄砲隊をアシストする兵士を十分に用意 火縄銃の部隊が射撃して、弾丸込めの空白時間に防戦するための、十分な弓隊を鉄砲隊の近くに配置し、敵の馬へ弓を連射、 槍兵や雑兵には、石を持たせて、弾丸込めの空白時間に 武田兵へ投げつけた。 槍兵も 馬防柵の後ろから槍で突いた。 (3)一日で決着がつかない場合を想定 織田軍にしてみれば、しょせんは、徳川軍の助っ人なので、不利になったら、敵を削りつつ、組織的に、少しづつ後退も視野に。 (4)決戦当日の前に武田軍は弾丸を消耗していたのがラッキー 武田軍は、長篠城など徳川の城を攻め続けていた時に、鉄砲を発射して、火薬をかなり消耗していたために、 長篠の戦いの当日には、残りの火薬と弾丸を使い尽くして、仕方なく、騎馬攻撃や歩兵攻撃を実施した。 一方で、織田軍は、長篠の戦いが初日であり、鉄砲の火薬や弾丸は(武田軍相手には)消耗していなくて、余裕があった、 もし、長篠の戦いが1日で終わらなくても、織田軍には、翌日分も、翌々日の分も 鉄砲の火薬と弾丸が残っていた。
@逸廣嶋
7 ай бұрын
嵐の中を厳島に渡るという奇襲。 誰がやっても同じ結果にはならないと 思う。元就の知略と感性があったからこそ 奏功したと思う。 つくづく信長がもう少し早く生まれていたら、 毛利×織田の戦いが見られたかと思うと残念だ。
@osakakawachi
7 ай бұрын
尼子晴久による新宮党粛清があったために、毛利元就が陶晴賢との厳島の戦いに後顧の憂い無く専念出来たのも事実ですからね~。 新宮党粛清の要因に元就による謀略があったのかは不明ですが、新宮党粛清の報を聞いて元就が陶晴賢との決戦を決意した可能性は大いにあると思います。
@HiDE_310-3
7 ай бұрын
まぁ色んな事が積り積もった結果なんだろが、もし最後の一押しが元就の謀略だったら流石だね
@六本脚のジャイアンS
7 ай бұрын
毛利元就の歴史と尼子晴久との鍔迫り合いの話は面白いですね 尼子氏における新宮党は、毛利氏における井上一族と同じ立ち位置で同じ悲惨な最後になってしまったのかな?と
@tatearukinokani
7 ай бұрын
単純に毛利は井上、尼子は国久を粛正して領地を没収しないと部下に配っていく領地がなくなりほかの部下のモチベーションあげられないんだと思います
@友之森田
7 ай бұрын
追伸、何かと、新宮党は新宮党で、内訌は、有ったらしいし、尼子家内部での、そこかしこでやらされてた、一族内の内攻なのと、当主が、アレでも、保てて行けるだけの家政組織の再編が、出来て無かった様だね。そんな所を元就君に、上手い事利用され、自滅って感じなのね。
@友之森田
7 ай бұрын
毛利の元就君の、調略って、御話しは、伝わってますが、
@鈴木崇弘-z8j
7 ай бұрын
塩冶の乱と、新宮党粛清は、尼子の黒歴史に
@sideforest36
7 ай бұрын
新宮党を潰して尼子は滅んだ
@筑波快急
8 ай бұрын
尼子政久と毛利隆元と武田義信と徳川信康は似ている やっぱり嫡男の早世は痛い
@周-t4i
8 ай бұрын
李牧を処刑した趙王のようです。
@老清智
8 ай бұрын
尼子氏って言うと、八ッ墓村を思い出す。