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Great KZbin⛑Thank you Very Much⛑Muchísimas Gracias⛑ 参照『国史大辞典』より 池坊専慶・いけのぼうせんけい 生没年不詳 室町時代中期の京都頂法寺六角堂の僧。立花の技術にすぐれていた。 『碧山日録』によると、寛正三年(1462)二月二十五日、武将佐々木高秀が専慶を招いて金瓶に数十枝の草花を挿させたところ、それが見事であったため、洛中の好事の者が来り競って見物したという。 また同年十月二日、同じ高秀が亡き祖父を供養する施食会の際、専慶が菊を花瓶に挿したとあるように、立花に傑出していた。 したがって、このころ、池坊いけばなが確立したので、慶長四年(1599)、東福寺の月渓聖澄が書いた『百瓶華序』に、「名曰〓池坊〓、累代以〓立〓華於瓶裡〓為〓家業〓、其元祖曰〓専慶〓」とある。 このように立花が池坊の家業となり専慶が元祖となっている。 [参考文献]辻 善之助『日本文化と仏教』 (大井 ミノブ) 参照『日本人名大辞典』より 辻善之助・つじぜんのすけ 1877−1955 明治から昭和時代の日本史学者。 明治10年4月15日生まれ。明治35年に史料編纂掛にはいり、明治38年に史料編纂官となる。 大正12年に東京帝大教授,昭和4年から史料編纂所初代所長を兼任。 大正10年「日本仏教史之研究」で学士院恩賜賞。昭和27年に文化勲章受章。 昭和30年10月13日死去。78歳。兵庫県出身。東京帝大卒。 著作に「日本仏教史」「日本文化史」など。
@MIZUHOKAWASIMA Жыл бұрын
Great KZbin⛑Thank you Very Much⛑Muchísimas Gracias⛑ 参照『国史大辞典』より 池坊専慶・いけのぼうせんけい 生没年不詳 室町時代中期の京都頂法寺六角堂の僧。立花の技術にすぐれていた。 『碧山日録』によると、寛正三年(1462)二月二十五日、武将佐々木高秀が専慶を招いて金瓶に数十枝の草花を挿させたところ、それが見事であったため、洛中の好事の者が来り競って見物したという。 また同年十月二日、同じ高秀が亡き祖父を供養する施食会の際、専慶が菊を花瓶に挿したとあるように、立花に傑出していた。 したがって、このころ、池坊いけばなが確立したので、慶長四年(1599)、東福寺の月渓聖澄が書いた『百瓶華序』に、「名曰〓池坊〓、累代以〓立〓華於瓶裡〓為〓家業〓、其元祖曰〓専慶〓」とある。 このように立花が池坊の家業となり専慶が元祖となっている。 [参考文献]辻 善之助『日本文化と仏教』 (大井 ミノブ) 参照『日本人名大辞典』より 辻善之助・つじぜんのすけ 1877−1955 明治から昭和時代の日本史学者。 明治10年4月15日生まれ。明治35年に史料編纂掛にはいり、明治38年に史料編纂官となる。 大正12年に東京帝大教授,昭和4年から史料編纂所初代所長を兼任。 大正10年「日本仏教史之研究」で学士院恩賜賞。昭和27年に文化勲章受章。 昭和30年10月13日死去。78歳。兵庫県出身。東京帝大卒。 著作に「日本仏教史」「日本文化史」など。
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Great KZbin⛑Thank you Very Much⛑Muchísimas Gracias⛑ 参照『国史大辞典』より 池坊専慶・いけのぼうせんけい 生没年不詳 室町時代中期の京都頂法寺六角堂の僧。立花の技術にすぐれていた。 『碧山日録』によると、寛正三年(1462)二月二十五日、武将佐々木高秀が専慶を招いて金瓶に数十枝の草花を挿させたところ、それが見事であったため、洛中の好事の者が来り競って見物したという。 また同年十月二日、同じ高秀が亡き祖父を供養する施食会の際、専慶が菊を花瓶に挿したとあるように、立花に傑出していた。 したがって、このころ、池坊いけばなが確立したので、慶長四年(1599)、東福寺の月渓聖澄が書いた『百瓶華序』に、「名曰〓池坊〓、累代以〓立〓華於瓶裡〓為〓家業〓、其元祖曰〓専慶〓」とある。 このように立花が池坊の家業となり専慶が元祖となっている。 [参考文献]辻 善之助『日本文化と仏教』 (大井 ミノブ) 参照『日本人名大辞典』より 辻善之助・つじぜんのすけ 1877−1955 明治から昭和時代の日本史学者。 明治10年4月15日生まれ。明治35年に史料編纂掛にはいり、明治38年に史料編纂官となる。 大正12年に東京帝大教授,昭和4年から史料編纂所初代所長を兼任。 大正10年「日本仏教史之研究」で学士院恩賜賞。昭和27年に文化勲章受章。 昭和30年10月13日死去。78歳。兵庫県出身。東京帝大卒。 著作に「日本仏教史」「日本文化史」など。
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Great KZbin⛑Thank you Very Much⛑Muchísimas Gracias⛑ 『世界大百科事典』 六角堂・ろっかくどう 京都市中京区にある天台宗の寺。本堂が六角形なので六角堂と通称されるが、正称は紫雲山頂法(ちようほう)寺。西国三十三所観音霊場の第18番札所。寺伝では、平安遷都以前の開創で、聖徳太子が四天王寺建立のための用材を求めて当地に来たとき創建され、本尊如意輪観音は太子七生の守本尊であるという。平安中期、すでに太子信仰と観音の霊験で知られ、貴賤男女の参籠がつづき、洛陽七観音の一つとして栄えた。鎌倉初期、比叡山の堂僧だった青年時代の親鸞が当寺に100日間参籠し、聖徳太子の夢告を得て法然房源空の専修(せんじゆ)念仏門に帰した話は有名である。寺地が下京の中心だった関係上、室町中期からの当寺は〈町堂〉として、町衆の生活文化や自治活動の中心地となる役割も果たした。たとえば都市に流入した貧窮者への粥施行(かゆせぎよう)が門前の仮屋で行われたり、下京に危機が迫ると当寺の早鐘が鳴らされた。また京都に乱入する土一揆を防ぐため出陣する軍勢の集合所となったり、あるいは下京町組代表の集会の場になったりした。当寺は1125年(天治2)の火災以来、幕末までの間に確認できるだけで18回の罹災が知られるが、庶民信仰を集める寺としてそのつど復興された。近世には寺領はわずか1石だったが、観音霊場として、庶民の信仰の寺として栄えた。門前町が発達し、そこには巡礼者のための宿屋が多く建ち並んで、洛中でも有数の旅宿町となっていた。本堂の東に〈へそ石〉と称する礎石がある。寺伝では旧本堂の礎石というが、この異称が生じたのは、当寺が下京の中心だったことによると思われる。現本堂は明治の再建、ほかに太子堂や親鸞堂などがあり、参詣者が絶えない。 六角堂は寺内塔頭(たつちゆう)の池坊が執行として代々経営管理に当たったが、この池坊は花道家元として名高い。すなわち池坊専慶が東山時代に立花(たてはな)の名手として世に知られ、花道池坊を創始し、ついで天文年間(1532-1555)専応(せんおう)が池坊の流れにおける花道を大成して花書を著し、朝廷や幕府や諸門跡に重用された。また江戸前期に出た専好(2世)がこの流を確立し、やがて町人社会にも花道が広まり、江戸中期に入ると池坊住持は家元として池坊花道を率いるようになった。[藤井 学]
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Great KZbin⛑Thank you Very Much⛑Muchísimas Gracias⛑ 『世界大百科事典』 六角堂・ろっかくどう 京都市中京区にある天台宗の寺。本堂が六角形なので六角堂と通称されるが、正称は紫雲山頂法(ちようほう)寺。西国三十三所観音霊場の第18番札所。寺伝では、平安遷都以前の開創で、聖徳太子が四天王寺建立のための用材を求めて当地に来たとき創建され、本尊如意輪観音は太子七生の守本尊であるという。平安中期、すでに太子信仰と観音の霊験で知られ、貴賤男女の参籠がつづき、洛陽七観音の一つとして栄えた。鎌倉初期、比叡山の堂僧だった青年時代の親鸞が当寺に100日間参籠し、聖徳太子の夢告を得て法然房源空の専修(せんじゆ)念仏門に帰した話は有名である。寺地が下京の中心だった関係上、室町中期からの当寺は〈町堂〉として、町衆の生活文化や自治活動の中心地となる役割も果たした。たとえば都市に流入した貧窮者への粥施行(かゆせぎよう)が門前の仮屋で行われたり、下京に危機が迫ると当寺の早鐘が鳴らされた。また京都に乱入する土一揆を防ぐため出陣する軍勢の集合所となったり、あるいは下京町組代表の集会の場になったりした。当寺は1125年(天治2)の火災以来、幕末までの間に確認できるだけで18回の罹災が知られるが、庶民信仰を集める寺としてそのつど復興された。近世には寺領はわずか1石だったが、観音霊場として、庶民の信仰の寺として栄えた。門前町が発達し、そこには巡礼者のための宿屋が多く建ち並んで、洛中でも有数の旅宿町となっていた。本堂の東に〈へそ石〉と称する礎石がある。寺伝では旧本堂の礎石というが、この異称が生じたのは、当寺が下京の中心だったことによると思われる。現本堂は明治の再建、ほかに太子堂や親鸞堂などがあり、参詣者が絶えない。 六角堂は寺内塔頭(たつちゆう)の池坊が執行として代々経営管理に当たったが、この池坊は花道家元として名高い。すなわち池坊専慶が東山時代に立花(たてはな)の名手として世に知られ、花道池坊を創始し、ついで天文年間(1532-1555)専応(せんおう)が池坊の流れにおける花道を大成して花書を著し、朝廷や幕府や諸門跡に重用された。また江戸前期に出た専好(2世)がこの流を確立し、やがて町人社会にも花道が広まり、江戸中期に入ると池坊住持は家元として池坊花道を率いるようになった。[藤井 学]
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Great KZbin⛑Thank you Very Much⛑Muchísimas Gracias⛑ 『世界大百科事典』 六角堂・ろっかくどう 京都市中京区にある天台宗の寺。本堂が六角形なので六角堂と通称されるが、正称は紫雲山頂法(ちようほう)寺。西国三十三所観音霊場の第18番札所。寺伝では、平安遷都以前の開創で、聖徳太子が四天王寺建立のための用材を求めて当地に来たとき創建され、本尊如意輪観音は太子七生の守本尊であるという。平安中期、すでに太子信仰と観音の霊験で知られ、貴賤男女の参籠がつづき、洛陽七観音の一つとして栄えた。鎌倉初期、比叡山の堂僧だった青年時代の親鸞が当寺に100日間参籠し、聖徳太子の夢告を得て法然房源空の専修(せんじゆ)念仏門に帰した話は有名である。寺地が下京の中心だった関係上、室町中期からの当寺は〈町堂〉として、町衆の生活文化や自治活動の中心地となる役割も果たした。たとえば都市に流入した貧窮者への粥施行(かゆせぎよう)が門前の仮屋で行われたり、下京に危機が迫ると当寺の早鐘が鳴らされた。また京都に乱入する土一揆を防ぐため出陣する軍勢の集合所となったり、あるいは下京町組代表の集会の場になったりした。当寺は1125年(天治2)の火災以来、幕末までの間に確認できるだけで18回の罹災が知られるが、庶民信仰を集める寺としてそのつど復興された。近世には寺領はわずか1石だったが、観音霊場として、庶民の信仰の寺として栄えた。門前町が発達し、そこには巡礼者のための宿屋が多く建ち並んで、洛中でも有数の旅宿町となっていた。本堂の東に〈へそ石〉と称する礎石がある。寺伝では旧本堂の礎石というが、この異称が生じたのは、当寺が下京の中心だったことによると思われる。現本堂は明治の再建、ほかに太子堂や親鸞堂などがあり、参詣者が絶えない。 六角堂は寺内塔頭(たつちゆう)の池坊が執行として代々経営管理に当たったが、この池坊は花道家元として名高い。すなわち池坊専慶が東山時代に立花(たてはな)の名手として世に知られ、花道池坊を創始し、ついで天文年間(1532-1555)専応(せんおう)が池坊の流れにおける花道を大成して花書を著し、朝廷や幕府や諸門跡に重用された。また江戸前期に出た専好(2世)がこの流を確立し、やがて町人社会にも花道が広まり、江戸中期に入ると池坊住持は家元として池坊花道を率いるようになった。[藤井 学]
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Great KZbin⛑Thank you Very Much⛑Muchísimas Gracias⛑ 『世界大百科事典』 六角堂・ろっかくどう 京都市中京区にある天台宗の寺。本堂が六角形なので六角堂と通称されるが、正称は紫雲山頂法(ちようほう)寺。西国三十三所観音霊場の第18番札所。寺伝では、平安遷都以前の開創で、聖徳太子が四天王寺建立のための用材を求めて当地に来たとき創建され、本尊如意輪観音は太子七生の守本尊であるという。平安中期、すでに太子信仰と観音の霊験で知られ、貴賤男女の参籠がつづき、洛陽七観音の一つとして栄えた。鎌倉初期、比叡山の堂僧だった青年時代の親鸞が当寺に100日間参籠し、聖徳太子の夢告を得て法然房源空の専修(せんじゆ)念仏門に帰した話は有名である。寺地が下京の中心だった関係上、室町中期からの当寺は〈町堂〉として、町衆の生活文化や自治活動の中心地となる役割も果たした。たとえば都市に流入した貧窮者への粥施行(かゆせぎよう)が門前の仮屋で行われたり、下京に危機が迫ると当寺の早鐘が鳴らされた。また京都に乱入する土一揆を防ぐため出陣する軍勢の集合所となったり、あるいは下京町組代表の集会の場になったりした。当寺は1125年(天治2)の火災以来、幕末までの間に確認できるだけで18回の罹災が知られるが、庶民信仰を集める寺としてそのつど復興された。近世には寺領はわずか1石だったが、観音霊場として、庶民の信仰の寺として栄えた。門前町が発達し、そこには巡礼者のための宿屋が多く建ち並んで、洛中でも有数の旅宿町となっていた。本堂の東に〈へそ石〉と称する礎石がある。寺伝では旧本堂の礎石というが、この異称が生じたのは、当寺が下京の中心だったことによると思われる。現本堂は明治の再建、ほかに太子堂や親鸞堂などがあり、参詣者が絶えない。 六角堂は寺内塔頭(たつちゆう)の池坊が執行として代々経営管理に当たったが、この池坊は花道家元として名高い。すなわち池坊専慶が東山時代に立花(たてはな)の名手として世に知られ、花道池坊を創始し、ついで天文年間(1532-1555)専応(せんおう)が池坊の流れにおける花道を大成して花書を著し、朝廷や幕府や諸門跡に重用された。また江戸前期に出た専好(2世)がこの流を確立し、やがて町人社会にも花道が広まり、江戸中期に入ると池坊住持は家元として池坊花道を率いるようになった。[藤井 学]
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Great KZbin⛑Thank you Very Much⛑Muchísimas Gracias⛑ 『世界大百科事典』 六角堂・ろっかくどう 京都市中京区にある天台宗の寺。本堂が六角形なので六角堂と通称されるが、正称は紫雲山頂法(ちようほう)寺。西国三十三所観音霊場の第18番札所。寺伝では、平安遷都以前の開創で、聖徳太子が四天王寺建立のための用材を求めて当地に来たとき創建され、本尊如意輪観音は太子七生の守本尊であるという。平安中期、すでに太子信仰と観音の霊験で知られ、貴賤男女の参籠がつづき、洛陽七観音の一つとして栄えた。鎌倉初期、比叡山の堂僧だった青年時代の親鸞が当寺に100日間参籠し、聖徳太子の夢告を得て法然房源空の専修(せんじゆ)念仏門に帰した話は有名である。寺地が下京の中心だった関係上、室町中期からの当寺は〈町堂〉として、町衆の生活文化や自治活動の中心地となる役割も果たした。たとえば都市に流入した貧窮者への粥施行(かゆせぎよう)が門前の仮屋で行われたり、下京に危機が迫ると当寺の早鐘が鳴らされた。また京都に乱入する土一揆を防ぐため出陣する軍勢の集合所となったり、あるいは下京町組代表の集会の場になったりした。当寺は1125年(天治2)の火災以来、幕末までの間に確認できるだけで18回の罹災が知られるが、庶民信仰を集める寺としてそのつど復興された。近世には寺領はわずか1石だったが、観音霊場として、庶民の信仰の寺として栄えた。門前町が発達し、そこには巡礼者のための宿屋が多く建ち並んで、洛中でも有数の旅宿町となっていた。本堂の東に〈へそ石〉と称する礎石がある。寺伝では旧本堂の礎石というが、この異称が生じたのは、当寺が下京の中心だったことによると思われる。現本堂は明治の再建、ほかに太子堂や親鸞堂などがあり、参詣者が絶えない。 六角堂は寺内塔頭(たつちゆう)の池坊が執行として代々経営管理に当たったが、この池坊は花道家元として名高い。すなわち池坊専慶が東山時代に立花(たてはな)の名手として世に知られ、花道池坊を創始し、ついで天文年間(1532-1555)専応(せんおう)が池坊の流れにおける花道を大成して花書を著し、朝廷や幕府や諸門跡に重用された。また江戸前期に出た専好(2世)がこの流を確立し、やがて町人社会にも花道が広まり、江戸中期に入ると池坊住持は家元として池坊花道を率いるようになった。[藤井 学]
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Great KZbin⛑Thank you Very Much⛑Muchísimas Gracias⛑ 『世界大百科事典』 六角堂・ろっかくどう 京都市中京区にある天台宗の寺。本堂が六角形なので六角堂と通称されるが、正称は紫雲山頂法(ちようほう)寺。西国三十三所観音霊場の第18番札所。寺伝では、平安遷都以前の開創で、聖徳太子が四天王寺建立のための用材を求めて当地に来たとき創建され、本尊如意輪観音は太子七生の守本尊であるという。平安中期、すでに太子信仰と観音の霊験で知られ、貴賤男女の参籠がつづき、洛陽七観音の一つとして栄えた。鎌倉初期、比叡山の堂僧だった青年時代の親鸞が当寺に100日間参籠し、聖徳太子の夢告を得て法然房源空の専修(せんじゆ)念仏門に帰した話は有名である。寺地が下京の中心だった関係上、室町中期からの当寺は〈町堂〉として、町衆の生活文化や自治活動の中心地となる役割も果たした。たとえば都市に流入した貧窮者への粥施行(かゆせぎよう)が門前の仮屋で行われたり、下京に危機が迫ると当寺の早鐘が鳴らされた。また京都に乱入する土一揆を防ぐため出陣する軍勢の集合所となったり、あるいは下京町組代表の集会の場になったりした。当寺は1125年(天治2)の火災以来、幕末までの間に確認できるだけで18回の罹災が知られるが、庶民信仰を集める寺としてそのつど復興された。近世には寺領はわずか1石だったが、観音霊場として、庶民の信仰の寺として栄えた。門前町が発達し、そこには巡礼者のための宿屋が多く建ち並んで、洛中でも有数の旅宿町となっていた。本堂の東に〈へそ石〉と称する礎石がある。寺伝では旧本堂の礎石というが、この異称が生じたのは、当寺が下京の中心だったことによると思われる。現本堂は明治の再建、ほかに太子堂や親鸞堂などがあり、参詣者が絶えない。 六角堂は寺内塔頭(たつちゆう)の池坊が執行として代々経営管理に当たったが、この池坊は花道家元として名高い。すなわち池坊専慶が東山時代に立花(たてはな)の名手として世に知られ、花道池坊を創始し、ついで天文年間(1532-1555)専応(せんおう)が池坊の流れにおける花道を大成して花書を著し、朝廷や幕府や諸門跡に重用された。また江戸前期に出た専好(2世)がこの流を確立し、やがて町人社会にも花道が広まり、江戸中期に入ると池坊住持は家元として池坊花道を率いるようになった。[藤井 学]
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