Пікірлер
@大野長八おおのちょうはち
@大野長八おおのちょうはち 6 ай бұрын
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@takaobls3327
@takaobls3327 7 ай бұрын
同志社(1875年設立)の唯一の敵は、官吏養成の為に設立された国立東京大学(1877年設立)であると考え、国の良心と呼べる人材を養成する為の学校経営に尽力した偉大な教育者。
@小栗上野介-c8v
@小栗上野介-c8v Жыл бұрын
動画にある通り、新島襄は幕末にアメリカに密航していたが、アメリカ訪問中の岩倉使節団に加わっていた木戸孝允は、木戸専属の通訳として彼を使節団に参加させた。これが別の意味で彼の人生最大の転機だった。明治8年、新島は大阪で木戸孝允に会い、豪商磯野小右衛門から出資の約束を得て大阪での学校設立を目指したが、府知事渡辺昇のキリスト教反対のため断念し、木戸の勧めにより長州出身の槇村正直が府知事を務める京都を新たな候補地(なんと旧薩摩藩邸)と定めた。八重の桜では槇村は傲慢な人間として新島夫妻の前に立ちふさがったような描き方をされているが、新島襄の最大の支援者であり、仏教の牙城、京都でキリスト教の学校の設立に向けて精力的に動いたのです。後ねん、新島襄は同志社大学設立のため同じ長州出身の井上馨の自宅を訪れ陳情、結果、大隈重信、渋沢栄一、益田孝ら親しい事業家たちに募金を募り3万円近く集めたりもした。 ある日、槇村が襄に訊いてきた。「新島さん、あなたは、妻君を、日本人から迎えるのか、それとも外国人から迎えるつもりなのか」襄は、槇村に答えた。「外国人は生活の程度がちがいますから、やはり日本の婦人を娶りたいと思います。しかし、亭主が『東を向け』と命令すれば、3年でも東を向いているような東洋風の婦人はご免です」「それなら、ちょうど適当な婦人がいる。山本覚馬氏の妹で、いま、女紅場に奉職している。たびたび、わたしのところへ『女紅場に補助金をくれ』と陳情に来るのだ。学校の幹部たちはわたしを恐れて来ないが、あの婦人はそうじゃない。どうだ、その娘と結婚しないか。結婚するなら、わたしが仲人をしてあげよう」  新島襄と八重が結婚したのも、槇村による縁結びだったのだ。
@tosansakamoto
@tosansakamoto Жыл бұрын
音量が小さいので聞き取りが、耳鳴りが邪魔して聴こえ辛いもう少し大きく録音してください!  PCとメディアプレイヤーは100%で聴いてますが💦
@gunmapapa2023
@gunmapapa2023 Жыл бұрын
貴重なご意見ありがとうございます。これから録音する際は声のボリュームを上げて録音、動画編集するようにします。
@しぁんくれーる0823
@しぁんくれーる0823 Жыл бұрын
キリスト教を根幹に、情熱と信念に満ちた新島襄の人生をコンパクトにまとめたいい映像です……❤💛❤。
@gunmapapa2023
@gunmapapa2023 Жыл бұрын
そう言ってもらえると嬉しいです❗動画作るモチベーションになりました✨次の偉人も探し中です。