These are all very good. Are they compositions or improvisations?
@雨車ダークネスピアノ26 күн бұрын
@@theNerve_theAudacity Thanks for listing and your comment. It is improvisation.
@雨車ダークネスピアノ26 күн бұрын
Oh, they are improvisations.
@雨車ダークネスピアノ26 күн бұрын
@@theNerve_theAudacity My movies include improvisations, sometimes original compositions, and sometimes the covers of other artists. In addition, there are some things that should be called "half composition, half improvisation."
1 ロゴスアプローチにおいては、形相と質料という概念が考えられる。エルゴンアプローチでは、一見同様に対比的な、潜在態と現実態という概念が考えられる。この二つのアプローチはいかに異なるか。 形相と言ったとき、そこには質料というものが含意されていない。個々の特定の形相ではなく、一つの概念枠としての「形相」というものは、確かに質料というものを含意しており、そこではそれは質料と同じ列に置かれ、これとの対比が常に念頭に置かれる。しかし実際にあるものとしての形相はただ形相としてあるのみであって、我々は物を抽象的に分析するとき、この概念の抽象を得る。形相は現実の形を言い表した物ではなく、あくまでも物において物から抽象されるものであり、抽象的な概念を受け取る人間の認識能力においてそれは感取される。現実の形の「うち」に形相はみられるのであり、現実の動的形そのものは形相ではない。それは、物の出来上がる過程が「完成」に至ったとしても同じことであり、たとえこの場合、完成と形相がいかに寸分違わぬ姿形をしていようと、この二者は、そもそも概念として区別される必要がある。形相はそれ自体の自己形成において質料を必要としない。しかし現実の事物は、自己自身の形成に質料というものを必要とする。そしてここで言われる質料というものも、やはり一つの抽象概念であり、現実に運用される質料というものは常に形相を必要としているが、質料というもの自体には形相という含蓄は存在しない。現実の製作的局面に入った事物において、質料的なものは常に形相を伴っている必要がある。しかし質料の質料としての区別は、その「状態」にあるのではなく、その「質料さ」にあるのであり、これもまた一つの抽象概念である。質料は形相を含意し、形相は質料を含意するといっても、それはあくまでも互いに異なるものとして、相互排除的に含意されるまでであり、それ自身の規定のうちに一つの持続する形成事物というものを考える必要はなく、ただそれらは取ったり付けたりすることの可能な、脱着可能なものとして、その意味で技術的なものとして存在するものなのである。無論一つの形成事物がここにあったとして、そこからこれを形相と質料に抽象することができるが、かといってこの形相や質料が、この形成事物の形成というあり方に依存して存在するのではない。ただ、形相という一つの形成事物があるのでもなく、形相というものはあくまでも概念的なものであり、形相が事物に内在すると言われるように、本来形相とはそこで行き止まりのものである。ただし概念的には取ったり付けたりすることが可能なものと言うことができるのだが、それは世界の意志を無視して何でもありだというわけではない。そういうわけで形相は事物に内在すると言われるのである。しかし事物のその動的様態をもって形相そのものと言うのではなく、あくまでもそれは概念的に抽象されるものである。そこに形相概念の取ったり付けたり性があるのではあるが、本当に取ったり付けたりできるものならば、それ自身も一つの形成事物であることになる。そこでもし形相という形成事物を考えるのなら、このとき概念としての形相はどこに行ってしまうのであろうか。形相は形相それ自体として、これとは別個に残るのであり、それは残留するものと進歩するものに、分け御霊のように分かれる。形相が形相それ自体として残るというのは、それはそれが概念として世界自体と同格のものである資格を与えられているからであり、しかし形相が事物に変容するある座に至れば、これはまた別の高次の形相の指し示す運動領域において事物として潜在態から現実態に行く自己完成運動を実行することになる。こう書けば何のことを言っているのかがわかりにくいが、要するにこれは例えば人間の思考活動における概念の進歩、思索の深まり、などといった現象を指すのである。思考というものがそれ自体一つの実体的空間であり、真の概念自体の領域、直知の領域は、そのさらに手前にそして奥に、自らを構えている。進歩する形相も、形相と言われるからは実はその段階のそれ自身もすでに永遠の命としてこの直知の領域に自らを持つのである。したがって、形相が、事物の現実態・完成ではなく、あくまでも概念的なものでなければならない所以もここにある。では質料とは何なのか。質料というものはそもそもなぜそのようなものとして感取されるのであるか。感取されるからには、これもまた一つの形相の感取と捉えることができないだろうか。実際、質料と考えられるものは、それ自身一つの完成であり、それは主語となることのできるものである。だが常にこれは形相というものとの対比において存在する。ある状態であるようなものを質料と言うのではなく、あくまでも概念として、形未満であるものを質料と呼ぶのであり((Oxford languages より、「質料」の項。「形をとって現れることにより初めて一定のものとなる、素材。」とある。))、形あるものについてもこれを別の形相との関係において捉えることで、形のない質料として捉えることができる。質料という「状態」があるのではなく、ある形が有ってしまった結果、そこにおいて抽出される形のないものとしての概念を質料と言うのである。