こころのゆとり
8:48
6 сағат бұрын
夜の一叙情
3:19
8 сағат бұрын
豊潤な律動を求めて 2
6:27
11 сағат бұрын
休息のとき
2:10
16 сағат бұрын
シリウス舞曲集 6. 祭り Fêtes
1:17
多少やんちゃ
9:37
2 сағат бұрын
Bagatelle in F major
1:43
2 сағат бұрын
Petite Suite II 5. Allemanda
9:14
2 сағат бұрын
Petite Suite II 4. Sarabanda
4:47
2 сағат бұрын
Petite Suite II 3. Corrente
5:07
2 сағат бұрын
Petite Suite II 2. Allemande
2:59
2 сағат бұрын
Petite Suite II 1. Preludio
1:43
2 сағат бұрын
お抱えの闇
6:24
2 сағат бұрын
ダークネス Darkness
5:52
4 сағат бұрын
ライトネス Lightness
6:04
4 сағат бұрын
ホ短調の憂鬱 Melancholy in E minor
6:45
Пікірлер
@takutoP1202
@takutoP1202 47 минут бұрын
どことなく、クラシックな感じもするし、ポケモンな感じもするし、ジャズな感じもする。
@あやねる-1029
@あやねる-1029 Күн бұрын
なんかあつ森とかでかかりそう!妙に不思議な感じ
@takutoP1202
@takutoP1202 9 күн бұрын
ALTER EGOっていう、自分を見つめ直すためのゲームがあるんだけど、 そのゲームのbgmをさらに進化させた感じ。 こころの内側、奥底な感じ。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 9 күн бұрын
@@takutoP1202 ありがとうございます。 そのようなものがあったのですね。勉強になります。
@takutoP1202
@takutoP1202 8 күн бұрын
@@雨車ダークネスピアノとても引き込まれました
@takutoP1202
@takutoP1202 9 күн бұрын
浮遊感だけでできてますね、
@otonoameharuka
@otonoameharuka 11 күн бұрын
純粋な音色ですね。 癒される...
@otonoameharuka
@otonoameharuka 12 күн бұрын
ずっと聴いていたい。
@絶句-法律
@絶句-法律 14 күн бұрын
とても良い 💙
@emotionalsan
@emotionalsan 14 күн бұрын
好きです…
@浅野辰治
@浅野辰治 22 күн бұрын
いいですね~!
@theNerve_theAudacity
@theNerve_theAudacity 26 күн бұрын
These are all very good. Are they compositions or improvisations?
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 26 күн бұрын
@@theNerve_theAudacity Thanks for listing and your comment. It is improvisation.
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 26 күн бұрын
Oh, they are improvisations.
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 26 күн бұрын
@@theNerve_theAudacity My movies include improvisations, sometimes original compositions, and sometimes the covers of other artists. In addition, there are some things that should be called "half composition, half improvisation."
@tenten7373
@tenten7373 Ай бұрын
異多と同一の共存性、そして創造性の源としてのゼロの概念について、普段から感じているのでとても共感しました! こうして明確に言葉で表現された文章を初めて見て感動しました。貴重な洞察を共有してくださり本当にありがとうございます😊 雨車ダークネスピアノさんの演奏からも同じような感覚を受け取っており、その深い響きに心が揺さぶられることがあります。 私の感性はまだまだ未熟で、すべてを理解できているわけではありませんが、 もっと感性を磨いて、雨車ダークネスピアノさんの洗練された素晴らしい演奏をさらに深く楽しめるように頑張ります✨
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ Ай бұрын
同一があるなら、同多もある。世界が同一というなら、その世界は同時に同多なのである。同というよりも異と言った方が適当かもしれない。一とは、一なる方向に収斂し、そのゆえに一つの単語によって言い表すのがふさわしいが、同多などと言うとき、これは一つの単語によって言い表すのは適当でなく、無限の発展の活動そのものを指して言われるべきである。もっともその場合でも、結局は「一つであること」の理念に対してそう言われ概念的に括られるのであるから、尚不徹底である。このことを正当に考えるためには、同一という言葉を発せざるを得ないその発端となる、同一でないあり方、収斂すべき多様のあり方を正しく把握することが必要である。すなわち同一ということが語られるとき、同多なるものは常に無言として、意識されることなく、しかも確実にあるものとして論理的には考えられ、また非意識的とは言えど扱われていなければならない。非主題化のみによって可能な主題化というものを、この同多なるものにおいて言うことができる。ヘーゲル哲学が論理的に徹底していないと西田幾多郎に批判されたのは、この同多性というものの、非主題的にのみ措定可能である性というものが考えられておらず、そのゆえに、理念的には同多なるものも同一へ行くものとして考えられたためかと思われる。同多という主題化の仕方が、すでに、全一的包摂の論理の独断の上に立っているということになるのである。だがそれでも理念的には、異多なるものはすでに一なるものとして論理的には触れられてしまった以上、一なる方向への包摂さというものはすでに避けられなくなっている。異多として主題化すらされないという分かり方は、どうも東洋的なものの分かり方であるように思われる。それを表す言表はもとより体系を志向していないように思われ、現に少なくとも日本にはこのような論理に基づいた体系的哲学は発展しなかった。真の異多とは、などと問題にされる時点で、それはすでに異多ではないということであり、かといって異多の自覚がなければ異多なるあり方も存在せず、結果として同一ということすら存在しなくなるのである。同一というものは始めからあるが、論理的にこの始めなるものに先立つものとして、しかも同一というものが始めなるものとして立てられることによって、異多というものが存在すると規定しなければならない。これは、一というものが数の始まりであるが、しかも論理的にその前提としてゼロが考えられねばならないということと同様であり、しかもゼロの自覚的発見は、一なるものよりも後に来ると考えられ、その故に、このゼロの方向にあるものをより創造的に深い総体性の潜在態として見ようとする眼差しが生まれるのである。2進数における、1、10、100などというようにゼロを用いることによってより深い数の広がりを与えることができるという直観は、一なるものが常にゼロに回帰することによってより創造的に質的に大きくなるということを把握したものと考えられる。単位としては普通に使われていても、それのまさにそれ自身としての、すなわち根源的ゼロそのものの自覚が、各々の数の自覚に遅れて出現するというのは、創造性というものが一般には使われることのうちにあり、主語的に概念化されることのうちには、通常ない、ということから来るものと思われる。ゼロそれ自身を、「使われているところ」から切り離してあたかも製作物・表現物であるかのようにそれ自体として主題化するというのは、よほどの深い創造的歴史的局面を必要とする。それだけの機が熟してしなければそれは自覚化不可能なものと考えられる。ただ主語的なものが自己実現するための無意識的な媒介としてのみ意識されるものそれ自体を主題化するということは、理性の確定、人生というものの局限の確定を意味する。それは一面絶望であるかもしれないが、しかしそれは与えられた人生を一つの作品として公に共有する権利を与えられたということであり、生命そのものがゼロを超えて更なる質的飛躍のゼロへと至ることであるのではないか。今ここでゼロを超えたゼロとして言ったものは、観念的に、論理的にただ発想したものであり、それ自体が何であるということは、筆者自身もよくわかっていないが、ゼロの自覚というものは、あるいはゼロ的なものの自覚というものは、真のゼロがまた創造的裏まわりすること(意識に対して)と考えられる。意識がゼロであるにもかかわらず意識としてその根源性において主題化されるのは、真に創造的なものがその奥にあることが直観されているからである。本質直観の哲学において、つまるところ意識は意識として本質直観されているということになるのであるが、ここにおいて真に創造的なものは裏まわりすることになるのである。意識が意識として本質直観されているというレベルにおいて、意識の根源性が語られるならば、要するにそういうことが言われねばならない。意識概念は、常に対象をどのレベルにおいて見るかによって、それ自身の深さが測られねばならない。本質直観という概念からは、要するに根源的な意識概念として、そのまま本質直観的なあり方に行き着くのみであり、しかしそれが真に創造的でないように思われるならば、我々はすでに新たな立場に立っている。かといってそれを単に主題的に掴むときに、ヘーゲル哲学の行き止まり、論理的独断に陥ることになる。本質直観をあくまでも本質直観として、根源的なものは根源的なものとして譲らず、あえてより創造的なものを主題化しないところに、異多論の真の狙いに結びつくところがあり、私は本質直観の哲学に、そうしたどこまでも真の根源を探さない、まさしくエポケー(判断中止)という立場そしてそういう道があると考えている。現象学が現象学の基礎を保ったままに多様に発展するのには、それだけの哲学的含蓄があると考えられ、結果として主語的には未熟な対象概念の立場にとどまるとしても、真のゼロの創造的含蓄(これはどこまでも非主題的であるのだが)がその哲学的立場の創造性・可能性を保証している。このように、同一・統一と同時に異多・散多という方向が考えられるのである。もっとも異多というものを、それとして主題化して哲学そのものの基礎としてしまうならば、それはヘーゲル哲学の誤謬として西田にみなされた道に入ってしまう。西田においてゼロは自覚化されたが、常にそれは体系の根底と言うことができながらも、むしろそれは、脈として現れては消え、消えては現れるというようなものであり、すなわちそれは石造りの体系を前提したものではなかった。西田の論文において、定型的なフレーズが、多くの場所において、その時々にひらめくようにして繰り返されるのは、真のゼロの脈動性から理解され、そのようなあり方を見せることで、かえって主語的には定式化できないということを主語的な場所において、分裂的に示したものと考えられる。この分裂をおそらく矛盾的自己同一と言うのであろう。
@McShook
@McShook Ай бұрын
最高です
@otonoameharuka
@otonoameharuka Ай бұрын
美しい...まさに恵み
@otonoameharuka
@otonoameharuka Ай бұрын
夜に聴いております。素敵すぎて色々な感情が入り混じって初めての感覚。圧倒されました。UPしていただきありがとうございます。サブスク等で配信はしているのでしょうか。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ Ай бұрын
@@otonoameharuka ありがとうございます。サブスクというものが何のことなのかわからないくらいに、やっておりません。調べてみますね。演奏を楽しんでいただいて光栄でございます。
@otonoameharuka
@otonoameharuka Ай бұрын
衝撃を受けました。目が離せないではなく耳が離せません。こんな素晴らしい音楽家の方に私のチャンネルが登録されていると知りお恥ずかしいです。普段コンサート等は開いていますでしょうか。是非生で貴方様の演奏が聴きたいのですが...!
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ Ай бұрын
@@otonoameharuka ありがとうございます。過分のお褒めをいただき恐縮でございます。 音の雨さんは、演奏、トーク、作曲などから伝わってくる雰囲気が素敵で、視聴させていただいてます。恥ずかしいなどということは全くありません。 コンサートなどは全くやっていません。そのような機会は今までありませんでしたね。ただ自宅でモソモソと弾いてそっと上げているだけというのが現状です。そこまで言っていただいてありがとうございます。そんな機会もいつか訪れるものでしょうか。
@otonoameharuka
@otonoameharuka Ай бұрын
@@雨車ダークネスピアノ ご返信ありがとうございます。お褒めいただきとても嬉しいです。是非、コンサートの機会が訪れることを祈っております。これは私からの勝手なお願いなのですが、私のチャンネルの方で貴方様のことについて言及してもよろしいでしょうか。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ Ай бұрын
ありがとうございます。それはまことに嬉しい限りです。私でよければ、どうぞよろしくお願いします。
@otonoameharuka
@otonoameharuka Ай бұрын
美しい。コメントせずにはいられない。 恵みの水流、そのものでした。
@kykarok
@kykarok Ай бұрын
この傑作はできるだけ多くの人に聴いてもらう必要がある!!!
@kmswrn
@kmswrn Ай бұрын
すてきです
@kykarok
@kykarok Ай бұрын
とても美しい!
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ Ай бұрын
限定三次元が四次元への入り口。それは常なる知覚の地平である。単純に意識の背後が四次元的なものと考えられる。無論四次元と局限しないでもよく、それは本来無限次元的なものである。しかし普通に三次元的と考えられる空間は何かと言うと、むしろそれは空間からというのではなく、諸個物の認識的・行為的レンジの形而上学的な限定として、宇宙のお偉いさんが操作し定めたものに過ぎないものとして、そこから捉えられるものである。それは主観を存在させてくれる宇宙のお偉いさんの、客観世界への主観性の適切な反映操作である。真に自由であってしまったら、空間はどれだけ自由に歪んでしまうものか、わからない。そういう領域に棲む個物も、居ることは居るのであろう。それで、三次元をどこまでも延長していった空間というものは、むしろ観念的に捉えられ、概念的に抽象的なユークリッド的空間として考えられるものであり、それが実体としての空間を覆っていると考えるのは、むしろ宇宙のお偉いさんによる有機体の認識・行為の先天的制約から来るのであって、この制約そのものを自覚できる観点はすでに、この次元よりも上の次元において存在している。実際に常に与えられている三次元とは常に局限されたもの、限定三次元として丸い空間であり、今から右を振り返ってその間に一貫してみられる客観的空間らしき三次元的あり方は、実際には諸有機体が先天的に与えられた制約による認識や行為レンジの、実は、「歪み」に過ぎないのである。真に歪まなければ、そこにあるのは無限次元的空間であり、このクオリア円というものは、実は本来そうしたものでしかない。主観性という限定されたカルマ的課題を、客観的領域において表現することを許されているがために、こうした制約は与えられている。この制約が客観性そのものの意義を持つのは、宇宙のお偉いさんがそういう次元として特別に定め、この制約を特別に許しているからである。ユークリッド的空間のようにかえって観念的に三次元が考えられるのは、この空間が本当にはただそういう三次元的なものではないから、無限次元的なものであるからである。三次元的なものの限定性は、右を振り返る前の、この目の前の三次元空間の限定性そのものにおいて表れている。三次元というもの自体が限定されたものなのだという直知が、ここから生じてくる。それは縁(ふち)として局限されたものであり、そしてその延長というものは、実はないのであり、しかし無限次元的なものとしての延長はそこにあるのである。三次元が抽象観念化するということは、つまり観念の体系の存在空間的に、無限次元の立場からそれがそこにおいてあると考えられるということである。それのその領域における限定性は、このクオリアにおける瞬間瞬間の三次元の限定性と一つのことであると言えないだろうか。 私がこのようにスマホの画面に釘付けになっているとき、私は二次元世界に存在している。紙の前に夢中になって文字を書き出しているときも、本を読んでいるときも、またそうである。しかし文字への集中は、むしろ一次元的現象であると考えられる。しかしそれが実現されるだけの次元的「しろ」が二次元なり三次元なりそれ以上なりと与えられているからこそ、こうしたことは現実の「現象」として成立することができる。この「しろ」というものが、意識と言われるものの背景にあるのだと考えられるなら、それが無限次元的なものと言い得るのだが、普通に意識と言われるのは唯心論的に還元されてしまう方面と三次元実体的に還元されてしまう方面の二方面に考えられるものであり、しかもいずれの立場の意識も非柔軟な実体化ということを避けられていないがために、私は意識という言葉を使うことには慎重になりたい。かといって意識は実体的なものでないのではない、それはあくまでも「柔軟」に実体的なのであり、我々の意識には本来の無限次元を思い出したり思い出さなかったり、そうした次元にまたがる感覚を思い出したり思い出さなかったり、ある局面のある質感に関してだけ思い出したり思い出さなかったりということがある。それに伴って、意識はいつでも自在球のように広がり縮み(と言うのは比喩的言い方である)することができ、我々は身体の有機体としての先天的なお偉いさんによる制約を常にはみ出し、柔軟に意識の置き所を、実は変えている。それが三次元的場所には直接表れないがために、または表れる過程で三次元的歪みの変換を受けているために、意識というものが閉じこもって自由を自称し実体化してしまうなどといったことが起こるのである。意識だけの自由を求めるのは、かえってこの制約された三次元空間において自らがあることを強く意識していて、この束縛から逃れられないと思っているためである。だから意識をただちに無限性永遠性から発想するのも、かえって意識なるものの非自由な実体化だと考えられる。信仰の道「によってのみ」自由が可能と考えられるわけも、三次元における無限次元の表現が、そのプロセスにおいて、この制約によって歪んでしまうからとして考えられるのである。真の意味で「によってのみ」とは、三次元的領域のなかのある道を進むことでなく、三次元的制約そのものに現実の事実として気づくことである。と言うと、私の発言は実体化し、そういう事実に気づくだけでよい、というお題目という三次元的制約が生じ、宗教家が古今東西抱えるカルマへの道へと導かれてしまうことになる。もっとも私の発言にはそうしたカルマへとなり得るだけの内実はないかもしれない。そのための論述のカオス性でもある。信じるな、考えよ、と私は言いたい。ともかく意識というものは、柔軟に実体化するのであり、実際には三次元的な表現において多次元的表現がうまく融和される道が存在する。我々が古典を辿ってゆく旅に出るならば、そのような仕方のまさしく古典的奥行きを目の当たりにするであろう。読まされる古典でなく、読みに行く古典というものが、本当に存在するのであるということは確言できる。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ Ай бұрын
1 中の人との関係について。 与えられた悪意を泣き寝入りして受け止める。なぜならそれについて書き出すことまでもが彼らの悪意を喜ばせるものとなるからである。つまり私にとっては、そのような悪意ははじめから存在しないものとして、これを扱わねばならない。私が哲学するとき、彼らは私を様々な仕方で妨げる。ではこのような仕方でそのことについて書くことは私にとって何らか慰みになるであろうか。事実は全くそうではない。なぜなら書き出すことによってそれが注目され、悪意の存在が存在として立てられることになってしまうからである。だから私にとっての唯一の救いは、それがはじめから存在しないものとして振る舞い、いかなる局面にも愛をもって対応することである。例えば、私はこうして文章を書き出すときに、その直前にこのような文を書こうと思っていたその思念を、彼らの悪意の働きによって阻害され、削除されてしまい、何を書きたかったのかわからなくなることがしばしばある。私はこれを、邪魔として認めるのでなく、創造的契機として利用するのでなければならない。実際彼らは私が私自身を素直に表現することに抵抗し、必死に阻害してくる。あの悪意のぬめぬめしたただ中にあるときには、悪意は馴れ馴れしさをもって実に陰湿に、マウントの笑いとともに私の心にへばりついてくる。しかしいよいよこの悪意をすり抜け私が素直に私自身を表現しようとすると、彼らの念は怒りと怒号に変じ、必死に私の表現を妨げようとしてくる。 私はそもそもなぜ、善なる声の聞こえない体質となってしまったのだろうか。聞こえるのはいつも悪意の声ばかりである。例えば「いいね」とか「これでいいじゃん」のような幻聴がある。悪意の声とはまさにこのような声のことを言う。「死ね」とか「消えろ」などは、生易しいものであり、悪意のレベルとしてはごく卑近なものであり、それでも続けられると精神的にはこたえるであろうが、しかしそれも精神的にこたえる、という実感があるだけ、まだ、それが結果として休養へのシグナルとなって、マシなのである。問題は、思考の中断、思考の妥協を促す声であり、彼らは自己の低い思想と同レベルに、私をとどめておきたいのであり、進歩への意思を持っていない。他人がそうなだけであれば、特に気にすることはない。問題はそれが私に、私のアイデンティティを実質的に否定する形で、干渉し続けてくるという形をとることであり、この悪意は、しかし表面的には邪魔だとか悪口だとかいったわかりやすい否定の形をとらない。表面的にはポジティブでさえある。精神医療の一般的見解としてもたぶんこのような形の内的悪意というものは認識されていないのではないか。しかし私と同様の体験をし続けるものは、この現象の「言葉にしにくさ」によって、泣き寝入りしつつ、確かにどこかに存在しているのではないかとも思う。彼らは、私が何か「肝心」のことを理解しようとするのを、恐れている。そして彼らはその恐れを恐れとして自覚していない。何か馴れ馴れしい低次元の思考状態が通用できるものと、内実ヒステリックに思っている。内実ヒステリックなのは、その言動の表面的なぬめぬめしさすなわちトゲだってないところからはわかりにくいが、私の場合は、それが突発的外的衝動的な叫び声として私の肉体において現れる。私は無表情のまま魂の底よりの拒否感嫌悪感を外的に表現する。私はこのとき、ただ映す鏡である。現象の荒ぶりのエネルギーは私から出たものでなく、彼らから出たものである。私はそのことを直知によって知ることができている。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ Ай бұрын
2 彼らは、私のこの文章を、哲学ブログに上げさせたがっている。その意図は何であろうか。このように主題化されることによって、彼らは自己の承認欲求を満たすことができ、すなわち彼らのなす悪行からどんなに離れてこんなことを書き出そうとしてみても、その離れという行為自体が彼らにとってのオナニーと化してしまうのである。私が困惑し、彼らの見たい枠によって混乱すればするほど、彼らは自己の低俗にしてこの上なく陳腐でまた悪質な欲求を満たすことになるというわけである。 いま「いい感じ」という声が聞こえてきた。悪意とはまさにこのような精神について言われるべきものである。私はこれをネタとして利用することができるのであるが、それでもなお問題となるのは、彼らがこのことについていかなる形の主題化を行おうとも、全て彼らの承認欲求、それも低質なそれを満たす結果になるということである。実際のところ、彼らは承認されていない。だがこの事実をいかに正確に記述してみせたとて、彼らは自分の置かれた可干渉性にあぐらをかき、私のなすことやること全てに干渉してくる。私においてある全てを陳腐化し、彼らのレベルの低い観念の表現箱としてしまうのであり、私が悩めば悩むほど、彼らは喜ぶ。もとより私はそのことについて悩む必要はもとからない。彼らに対して私が感じるのは、魂の底からの軽蔑の感であり、彼らはその存在の根底から劣等であるという事実を、いい加減直視しなければならないと思っている。 何度も言うが、私はこの事実を単に創造的契機として利用する。その契機はどこにでもあふれている。彼らがその契機である必要がないという点において、創造行為そのものの優位性というものがアプリオリに理解できる。私は自由なのである。対して彼らはそのことを認めようとせず、また彼ら自身実際陳腐な観念と感覚にしばられ、自由でない。彼らは、彼らの使う言葉を借りて言えば、底の底から「ダサい」のである。 私が訴えたいのは、悪意というものがどのようなものであるかということに関する一つの観点である。私は彼らの意思は結局はどうでもいい。伝わって欲しい人にこのことが伝わればよい。彼らは、「いいじゃん」などと言うという形をとることによって、その実私の書く内容に抵抗している。私にはこのような悪意の場しか、思考共感の場所が与えられていないと思いたいのが、彼らの態度であり、しかし私は創造性において、これをはみ出す。創造性などと大げさな言い方をしなくともよい。ただ単に私はこれに対して自由なのである。それはわかったのだが、やはり私に対して聞こえてくる、精神的な声でなく、即物的な声というものは、常に、ここに述べたようなそれにまみれている。そういうもので埋め尽くされている。そのことの原因は何であろうか。真なるものは語らずとでも言うことができようか。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ Ай бұрын
3 幻聴とともに幻「念」とでも言うべきあり方があり、むしろ幻聴よりもそれの私への、私にとっての、密度は濃い。幻テレパシーとでも言えるが、ここまでくればそれはもう幻想でもなんでもない。テレパシーというもの自体が普通には幻想として片付けられてしまうのであるから。テレパシーなるものが現実なのだと言うなら、そこからすると、すでにそうしたものは、テレパシーのなかでも特に「幻」と言うことは不自然であろう。幻想でないテレパシーがあるのであるか。だからテレパシーを現実と認識するならば、それはどんなものであれ現実であり、幻想でないことになる。とは言っても、単なる認識違いというようなことも、テレパシーの領域にも存在するとは言えよう。空耳のようなものが、テレパシーの内にも存在し得よう。だが私にとっての彼らのテレパシーは、単に観念的なものでなく、どこまでも感情的なものであり、感情的なものの感受の客観性はどう否定しようもない。それは原始的な直接感受なのであるから。念と言えば何か知的な情報の感受であるようにすぐに発想されるのは、社会そのものにミスリードの力が働いているからであると考えることもできる。主題から逸れるが、私はテレパシーの基本・根本は、感情的直受であると思っている。感情というものは、私が単に感じるものではなく、私と物との境目がこの事実において、無くなることである。実態は、それをあとから反省して「私の感情」と理解されるということに過ぎないのである。しかし感情が、即物的身体と異なって、特に「私」を決定づけるものと、むしろ考えられるのは、私というものの真の本体が、物に対立的に存在するのではなく、このような物と私とを包括するある何ものかであるのだと、どこかで直観されているためである。物そのものの物としての側面ではなく、むしろその本体的表現が、私の体を通して、一つのものとして感情を表現するのである。だから花は人間に見られることを望んでいる、などということを確かアウグスティヌスが述べているが、それはこのようなことから来ると考えることができる。知的な観点からは、諸物の区別はどこまでも存在し、感情的な観点も、それを否定するのではない。だからいかに永遠の表現があるといっても、それは知的客観的現象のうちに、具体的な座標をとるものとして、格納される。結果として感情は、単に個体であるもののうちのある種客観的現象として理解されることになる。話をもどすが、私にとって在る幻テレパシーというものは、感情的直受的なものであるから、言葉による表現以前に、私の執筆行為を引っ掛け引っ張ってくる。例えば、私がある観念を思い浮かべ何かを書こうとしているときに、次に来るべきフレーズが突然わからなくなるときがあるが、これは基本的に幻テレパシー的な作用によるものである。そして彼らはそのことに、極めて野蛮で陳腐な歪んだ喜びの感情を抱き、そのことがこの私において直接感情的に直受される。私の周りには常にジメジメとした、霊的な「空気」があり、私はざまざまな肉体的空気の空間領域においても、多くの場合、この個人的な霊的空気に引きずられて思念が働くことになる。私を取り囲むこの霊的空気を一言でいえば、常なる悪意、とでも言うべきものである。しかし私は自由である。こういうものをあくまでも創造的契機として捉えることができる。創造とは自由なものであるが、自他の境界の消滅を、しかし、しっかりこの私において表現できる。そこに知的世界の本当の意味での創造的意義があり、その本当の素晴らしさがある。事実は空間とともに消えず、必ず表現として確かに記録される。事実は自他を超えたものであるのに、それが表現であることによって、知的客観的空間においてあることによって、確かにここに固有の座を占める。あたかもそれは、しめ縄をされた磐座(いわくら)のようなものと考えられる。悪意の実体は個人的なものでなく、集合的なものであり、包作用的、包対象的であり、環境というものがそれ自体及ぼす影響もあり、単に個人的な意思や意志から出てきたものではないと考えられる。それ故に、それはまた超個的なものとしての愛によって変じられてゆくことのできるものとして、慈愛において捉えられる。妥協には、妥協の地平があり、彼らはこの地平にしたがって、この環境を保とうと働く。与えられた環境を絶対的なものと見る傾向は、愛の分霊の把知と考えることができ、その信念が破られることは、このような立場からは、耐え難いことなのである。自我とはそれぞれ、このような多層的な地平の複雑に折り重なった様相において、そのどこかに座を占め、いかなる自我も結局はその内実において集合的なものであり、単に個人的であることはできない。真の個人性とは、包括性の極限に至ることによってのみしか達成されないが、個人性を単に否定するという形では包括ということも不可能である、故に自己が自己の局限的身体を保ったままに大きくなれる「表現」「創造性」を通して、個人的領域を超える必要がある。個人性が深まることはそのまま個人が個人を深めることであるが、それが自動的に包括的存在となることであるということは、矛盾しているようであるが、もともと宇宙の自己拡張とは自己自身のうちへの歪みによって成り立ったものだと考えられるので、内への無限回転運動というものが宇宙の自己拡張現象の本質と考えられ、結果として全体性とは必ず尖端的となる方向において表現され、尖端とは全体性自身の歪みであると考えることができる。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ Ай бұрын
4 さて一般論にかまけているうちに、私にとってまた一つの悪質な思考妨害が始まり出した。普通の文章が、何度読んでも読めない、という、誰にでもありそうだが、たぶん私のような人間にしかない特別な現象である。私にとって文章を読むことの持続とは、その部分というものを適切に持続させることからくるということを悪用し、或る文章を何度読んでも読めないような理解状態を生じさせてくるのである。これを語るには、普通に文章を読むことのうちに具体的にはさまった非言語的なプロセス、しかし決して見逃され得ない、実体のあるそれについて、考える必要がある。文を読んで、これを頭の中に入れようとするとき、うーんと唸るような、全体を把捉し同時にそこに含まれたものを分析してゆくエネルギーフェイズがおそらく誰にでもあるだろう。私のこの妨害現象においては、このエネルギーフェイズがいじられ、思考の過程について、それを低次のものから高次に上げてゆくなかで低次のところにおいて、少し頭をもたげた観念のところで、思考をシャットして来るということが起こってくる。こういうときの彼らの決まり文句は「これでいいじゃん」「お前はこれでいい」など、妥協をうながす言葉であり、これは確かに幻聴として聞こえてくるものであり、同時に陳腐な情念が先ほど言ったように直接感受される。彼らは幼稚でありたいのであり、思考するという当たり前のプロセスそのものを、本能的に忌避する。私の思考は、その本来の目的や意義とは隔てられ、低次の即物的な観念段階に強制的に置かれる。私の情念は当然ながらそのことを承認しないので、このような思考妨害を避けながら、何度もうーんうーんとうなりながら、その短い簡単な文章に釘付けになる。このとき、それはそれでいい、今このときわからなくても、あとから考えればいいし、今はこのまま読み進めよう、という希望にあふれた態度を取ることは、誰にとっても推奨され得るものであるのだが、こと私においてはなかなかそういうわけにはいかない。彼らは、この一部分の読めなさを、途端に「一般化」しようとして来るのであり、ここが悪質なところである。だからそのまま読み進めようとすると、これは結びつけ方が意味不明であるが「お前はおかまだ」とか「おまんこだ」などとしつこくはやしたてて、その後に持続すべき思考として文章読解を、妨げてくる。その状態を正確に理解するにはここで与えられる感情的雰囲気的全体を知らねばならない。発言という形となっているものは、氷山の一角に過ぎない。この一連の流れに含まれた言語的もしくは非言語的全体が、彼らの、はっきり言って先天的な劣等性をどうしても意味してしまっている。私は彼らに関して弁護する言葉を持たない。頭の悪い人たちが、群れて過ごしている分にはかまわない。なぜ私を標的にして、わざわざ思考のプロセスを邪魔してまで、「自分たち」の枠に入れようとしなければ気がすまないのだろうか。私の、彼らには理解できない、この思考というものが、彼らにとって結局は有用であるかもしれないではないか。なぜ物事の創造的な側面を見ることができないのだろうか。そしてこの状況を是認している私を囲む霊的全体の拙劣さとは一体なんであろうか。それは私の本体に逆らうものである。もっとも真なる者は語らずであるから、私が言語化できる範囲で、そのことへの答えはないのかもしれない。 書けば書くほど、彼らにとっては自己承認のチャンスとなる。全て無駄である。だがこれを書いている最中にも、その都度その都度彼らは何らかのアクションを起こす。起こさざるを得ないということは、彼らが私の行為において影響を何がしか受けるということを意味していよう。ちょっとした言い淀みなどということが、文章からは伝わらないかもしれないが、随所にある。それを捉えてやたら肯定的な判断例えば「これでいいじゃん」のような態度を取ってくるということは、そういう反応をせざるを得ないなりの何かが、不安として彼らの内にあるということである。彼らは、私の言い淀みに、安心する。私が不能であることを、見ようとする。それも、妥協を勧誘する声によって、見かけ上だけ悪意でなくまずい飴を差し出すように。実際彼らの差し出すものには甘みが一切ない。鼻くそを食わされているような感じしか、私は受けない。彼らはそれをご馳走と思って食うものかと言えば、そうでなく、彼らは私にのみ、そのようなものを押し付けようとさえしているように思える、一応それは彼らにとっての常食らしい。だがどこかではこれはご馳走では全くないことを知っているために、彼らは私にこのようなものを押し付けようとしてくる。そして自分たちは、それよりも美味しいものを知っているとハッタリをかます。そのハッタリが実にかわいいものであるが、そのかわいいものが単に遠くで見るバカであればよい、私の、特に高くへ登ってゆこうとする思考のプロセスに忠実に、ひがんだ焦点を、当てて、狙い撃ちで妨害してくるのである。ひがみと言えば、彼らはシラを切る。実際彼らはそのことを自覚していないようである。だからこそ、こういうことを言っても、お前はその程度でいい、などと間抜けた上から目線をかますことができる。私にはそれがいかにも馬鹿馬鹿しく映る。ただそれだけならよい。問題は、具体的に意味の在る思考への忠実にひがんだ焦点を当てた妨害なのである。彼らは、しばしばこういうとき、私が本当にこの霧を乗り越えそうになったときに、本気でそのことを嫌がる。私はただ一般的な思考をしているだけであり、誰にとっても害となることをしていない。それは当然である。それがこのように受け止められるということは、彼らの心の拙劣さ自身の問題であることは明らかである。私を取り囲む悪意とはこのようなものである。
@dig-w1h
@dig-w1h Ай бұрын
実験の理論負荷性あるいは認識論にまつわる事象を説明されようとしたのではないでしょうか? ここで挙げられている“物”とは、現実世界に実在する物質としての“物”であり、それは“分断可能であ”り、さらに言えば“パート性の直感がそこにある”とあります。他にも“もし物体がパート化不可能である場合”からの文章を包括すると、我々は何らかの直感的理解をもとに“物”を認識し扱っており、それは“真の全体”ではなく、その“物”の一“部分”が“代理”しているに過ぎない、ということだと思われます。
@dig-w1h
@dig-w1h Ай бұрын
つまり、実在する“物”は、ある“因果律”つまり実在するミクロの物質の重ね合わせ(論理)によって構成されているが故に、“分断可能”、つまり部分として捉えることができる。それは私たちがその“物”を認識し、扱う際に自然になされている動作である(直感的理解によって部分でしか認識できないため)ということではないでしょうか? そして、その部分的認識の重複が、“奥行き”につながる、つまり様々な感性的理解を行うほどその“部分”の重複という“奥行き”は広がっていくため、“奥行き”には技術的含みを前提としたものでなければならない、と主張されているのだと考えます。
@dig-w1h
@dig-w1h Ай бұрын
以上から、「何故に、分断可能性というものが、その物のその空間における存在ということを言うための鍵となるのであろうか」というこの動画のタイトルへの私なりの返答としては、 現実世界に実在する“物”は、私たちが認識し扱う際にはその“部分”が“代理”となっているために、その“代理”という単位で“分断可能”であるという事実が、その“物”が存在する証左となる、という形で収めさせて頂こうかと思います。長々と失礼いたしました。
@dig-w1h
@dig-w1h Ай бұрын
ちなみに実験の理論負荷性というのは、自然科学における「実験」という行為は、あくまで「客観的」条件のもとで行われているとされていますが、実際はほとんどが主観によって判断されているというものです。例えばある実験を行い新たな科学的発見をし、論文を発表するとします。科学は誰がいつどこでやっても、同じ条件を満たしてさえいれば必ず結果が同じにならなければならないので、その論文には温度や明るさ、道具など、必ず満たさなければならない条件を明記する必要があります。しかし、そこには必ず条件として定められない主観による判断が必ず存在し、論文と全く同じ条件で別の人が実験を行い、全く同じ結果が出たとしても、実はその主観による判断が条件となる場合を考慮していないのです。例えば実験を行った部屋の構造や服の色、あるいは時間や息の仕方、もっといえば実験者の性別や性格など、確かに直感的に実験の結果には関係ないように思えますが、それが本当に全く関係していないのかどうかは、誰にも分かりません。にもかかわらず科学は、完全に客観的に公平な条件のもと行われたとするので、それを理論負荷性といいます。 ダークネスピアノさん(山中臨死境さん)の御文にも、自然科学を例にされている部分がありますが、ダークネスピアノさんが仰りたいことが上に挙げた私の考え通りなら、その例を通じて、そういった考慮のできない要素を無視して、公平条件を謳って事実の絶対性を主張する自然科学への軽い批判的な訴えも込められているのではないでしょうか。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ Ай бұрын
@@dig-w1h わざわざご丁寧に読んで考え論述してくださり、ありがとうございます。勉強になります。 この文章は、あるアイデアから出てきたものですが、いざ言語化してみようとすると、どうも混沌とした非論理的な言葉の連なりが生じてしまい、しかしこうした表現は表現として置いておこうということで、どうにか書いた文章です。 以下、書いてくださったご丁寧な考察を受けて、さらにこの問題について考えてみたことを記していきます。 私は因果律というものを、多層的なもの、多次元的なもので、幾つの次元にもまたがってそれぞれの因果律が存在していると考えております。わかりやすいのは思考するときの思考内の観念の働きはみな思考的因果律に依って存在している、などと言ったことです。 技術的に扱えるというのは、その多層的なもののうち、ある一部分の空間性というものが取り出され、そこに「物」があてはまることによって生じるものだと理解しています。或る物が空間においてあるものであるということは、それが技術的に扱われることができ、あらかじめ無数の分断をこの空間性によって、有するものと考えます。このレベルの空間での技術性が実現され、このレベルにおいて配置され映されている物が形を変えて他の物となるとしても、この空間の独自の因果律は一定不変のものとして存在できます。それに対して具体的に「これこれの物が出来上がった」という意味づけをする立場は、すでにこの空間の因果律を超えた立場からです。例えば、金属製のものを普通の空間において技術的に作ろうとする場合、空間そのものの因果律はこの制作の過程においては一貫してびくともしませんが、「新たな物ができた」という局面の変化、その認識は、むしろ、この因果律に対してメタ的な立場からやってくるものです(しかもこの製作物「自身」がこのメタ的立場に片足を置いている)。このメタ的立場は、製作の因果律からは単なる全体性、というよりも自己を覆う何かとしてしか捉えることができませんが、この立場そのものもそれが対象化されるならば、そこにそれ自身のレベルの因果律が作用することになります。 自然科学に関して思うのは、そもそも次元の異なるミクロやマクロの領域に、それぞれの因果律を見出しているということは、それぞれの特有の技術的レンジが把握されているからで、そして技術とはその目的から言って主体的な製作行為にその原点を持つものであるので、もともとがその依って立つ立場が主観的であるものをある立場として固定しあたかも客観的なものそのものであるかのような顔をしているのだ、ということです。真に客観的なものとは、特定の立場に立つことすら不可能なものとして考えられねばならないということです。主観的な立場を離れないなかで、純粋に客観的なものを定義しようとするならば、主体の機能を徹底的に客体化し機械化することが必要になってくると思います。ですが、その機械化ということについても、物理学的対象をみる客観目と、生物学的対象をみる客観目とは、異なったものでなければなりません。主観的ということを、そもそも否定的に捉える必要はなく、主観的なものはむしろ客観的な立場の源泉であり、それは自己自身の体系を持った真に客観的な領域と考えることができます。それが故に、機械化した観測者機能と、純粋な理論的探究という論理的機能が、一つの思考という領域において共立するものと考えることができます。論理というのは純粋であればあるほど、真に主観的なものと言うことができ、そして真の客観性は自らをそこから汲んでくることしかできません。だから、原子的次元の認識からその固有の因果律において製作されたものを、あとから別次元で主観的に「こういう物ができた」と意味づけする作用も、実は真に客観的なものを表現する立場として考えられ、それならば原子的次元の因果律が客観的であることと、根本的には同源の立場であることになるのです。 結論を言うと、主観的なものこそが客観的であり、だから、空間とは固定して取り付けられた三次元的なものであるとして、はじめから決めてかかる必要はなく、むしろ主観的なものの自覚から、順々に降りてゆく多層的なものと考えられるということです。主観的なものの発端が全空間的なものを包んだものであり、その深いレベルでの空間という発想ができると、そのレベル特有の因果律が備わってきます。  しかし自覚的なあり方から降りていって、やがてほとんど疑い得ない三次元空間という固着に至るのは不思議で、普通には無限次元から0次元に至るまで、単純にグラデーションのように世界が存在してもよさそうだと思えてしまうのです。ただこのグラデーションは、意識の直接事実としては、実際に起こっている現象であり、それをもってクオリアと呼ぶことができましょう。しかしクオリアそのものがややもすれば三次元空間において経験する身体的存在の主観的質感と同義のように考えられもする、というのは、よっぽど三次元という枠組みが、人間の精神をも包み込むほどに根深いものだということである。さながら三という数字が同時に無限という意味を持っているかのようであり、よく考えれば三に創造性を見出すヘーゲル哲学の立場は、こういうところから発想されていることがひょっとしてあるのではないかと思われるのです。
@dig-w1h
@dig-w1h Ай бұрын
好きです!!
@thomasbach8522
@thomasbach8522 2 ай бұрын
いっぱいねー のとこですか?
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 2 ай бұрын
@@thomasbach8522 そうですね。ここで述べていること自体が間違っていたら、どなたかご指摘ください。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 2 ай бұрын
www.uguisumb.app/songs/38693
@大怪獣バトル
@大怪獣バトル 3 ай бұрын
どういった理論で作られたのでしょうか。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
理論ですか。正直ありません。ちなみにこれは即興で弾いています。 何となくの感覚で説明しますと、 ときどきおぼろげに感得される特定の和音の響きを掴むようにして、それを追いかけるように弾いて、あとは流れと勢いに任せます。 例えば、Eのルートに、B♭ドリアンのスケールを重ねた和音が、この位置でなんとなくしっくり来るなというおぼろげな直観が演奏中に生じて、それを指が追いかけて行きます。そうしているうちにまた別の和音の響きがおぼろげに見えてきて、という具合に理性と乱雑の中間のようなあり方で演奏は進んでいきます。 理論体系などというものはなく、そういうものはここでは完全に捨てられています。ただ演奏においてその時々合間にちょっとずつ挟まってくる「ここになんとなくこういう響きが欲しい」が目印になります。 しばしば何も考えずに、成り行きに任せる状態が存在します。 ではなんで、そんなインチキなものを上げるかと言えば、それは私自身のこの即興演奏の歴史に由来した部分があるのです。ある時期までは、理性で捉えられる和声をベースに、いつものように下手くそな即興演奏を繰り広げていました。ところがいつのまにかそれでは立ち行かなくなって、そこから徐々にこういう方向の演奏法へとシフトしてゆくことになりました。 それでも私はハーモニーを愛しています。長谷川白紙の音楽には私の胸の深いところに作用してくる何かがあります。この演奏を行った時点での長谷川白紙の音楽の私なりの消化の一つの結果としてこの演奏が行われたと思っています。他の演奏も、結局は同じことです。  本当は、きっちりと整理された理論に基づいて音楽が展開できたらなとも思っています。その調性的アイコンが、私にとって長谷川白紙の音楽であったのです。氏の音楽からは学ぶべきことが山ほどあります。 タイトルにも実はそこまで深い意味はありません。私にはこういうふうにしかできないけれど、ああいうふうになれたらなあ、という、それくらいの気持ちです。 ご期待されているような回答はできません。この点申し訳ありません。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
理論放棄などとも申しましたが、矛盾するようですが、きっちり和声的に弾いた演奏もよく試みています。ある一面として、理論への回帰ということも行なっております。ただいずれにせよ長谷川白紙のような微妙な境地には程遠いのです。 kzbin.info/www/bejne/l2GUq3SMmpaVoLMfeature=shared 私なりの和声的良識を示したつもりのものが、例えば上に貼った動画です。もしよろしければ、毎度下手くそで恐縮ですが、こちらの動画もご参考になさってください。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
そういえば思い出したのですが、これは冗談のように聞いてもらって構いません。私が72音音階と呼ぶ音階があります。どういうものかと言いますと、 ドレミファソラ シド♯レ♯ミファ♯ソ♯ ラ♯(シ♭)ドレミ♭ファソ ラシド♯レミファ♯ ソ♯(ラ♭)シ♭ドレ♭ミ♭ファ …… というもので、ペレアス和音にヒントを得た音階となっております。規則は、あるメジャースケールの第7音に達したときに、その第7音を起点に、そこからまたメジャースケールを並べ、それがまた第7音に達したとき同様にまたそこからメジャースケールを並べる、という手続きに依っています。結果として、6×12=72音音階が成り立つというわけです。 これによると、例えばB/Cなどといったコードが、Bメジャースケールによって弾かれることが可能です。この場合、Bメジャースケールの各音は、Cメジャースケール一音一音への倚音となっているとみなすことができます。要するに復調・多調的なものを、一つの巨大な音階のうちに内包しようという理念の音階です。
@大怪獣バトル
@大怪獣バトル 3 ай бұрын
@@雨車ダークネスピアノ そうなのですね。ありがとうございます。余も長谷川白紙大好きです。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
きっとどこか間違っているのですが、耳コピ譜です。 うぐいすオルゴールに演奏させました。 www.uguisumb.app/songs/37901
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
個人的には、この間違いの動画の蓄積は、単純な和音から複雑な和音にリハモナイズしてゆく過程に思われて、それはそれでたのしいです。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
【悲報】この楽譜もまた、間違ってました。のちのち更に訂正したものをあげます。大変失礼しました。本当にムズイです。いつになったら正解に辿り着けるのだろうか。
@user-bo5zv6ug9j
@user-bo5zv6ug9j 3 ай бұрын
このチャンネルを見つけることができて嬉しいです
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
と言っても、この新しいバージョンでも間違っているかもしれません。 前に上げたものは、部分的に聴こえてきた音から勝手に憶測して、美しい偽終止などと言ったわけであります。しかし実際に1音1音逐次聴いてみると、本当に単純な分析が困難であるような繊細なハーモニーが奏でられていることがわかります。各声部が和声法的というより、対位法的に、そして教会旋法的に処理された結果、こういうハーモニーが出来上がっているわけです。 本当に長谷川白紙氏の耳は不思議です。こんなポップに聴こえてくるのに、なかなか実体が見えない。すり抜けてゆくのです。難解というのともまた違う、ポップなのですから。 間違ってはいましたが、当該場所が、同主長調(のミクソリディアン)からの借用和音(VI9)としての偽終止として解釈できるという点は変わりありません。ただこの和音がそういう何か大きい主張を持ったものとして響くのではなく、音楽の全体的な流れのなかで、やわらかく自然に聴こえてくるための工夫が、当該和音の周辺でなされています。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
www.uguisumb.app/songs/37472
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
短調のIV9-V9から、同主長調(しかもミクソリディアン)のVI9へという偽終止。 ドレミで表せば、この部分は、 (F#,A,C#,E,G#)-(G#,B,D#,F#,A ♮) -(A#,C#,E#,G#,B ♮) となります。 さらにこれを一番わかりやすいイ短調(イ長調)に置き換えると (レ、ファ、ラ、ド、ミ) -(ミ、ソ、シ、レ、ファ) -(ファ#、ラ、ド#、ミ、ソ) となります。三つ目の和音が、特に何か白昼夢に誘う雰囲気を持っています。この進行が、しかもニュートラルに実行されていきます。2番のBメロに至っては、この偽終止を活かして万華鏡のような転調が見られます。私の好きなところです。 同じ類型の進行は、ネオソウルなどでよく見かけられるものではないかと思います。あるいは、私の好きなゲーム音楽、「三国志V」の「冬の群星」のなかに出てくる繰り返し記号直前の部分が想起されます。 kzbin.info/www/bejne/ZnWxla2AqrSml7cfeature=shared ただ、ここで紹介している曲が少し変わっているのは、三つ目の和音が短9度の和音だという点で、つまり長調からの借用和音が完全に長調的でなく、ミクソリディアンとして、教会旋法的である点です。これによって宇宙的な浮遊感が、しかもポップな形で実現されています。 ま、私の聴き取りが、合ってるかどうか、本当はわからないんですけど、聴き取った通りに、自分でこの箇所を弾いてみると、何とも言えない感情になります。やはり好きなんです。
@rogerprendergast5837
@rogerprendergast5837 3 ай бұрын
天才です!映像有りにして動画あげてください🙏🙏
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
1 物は空間的である限り、分断可能である。分断可能であるということは、その次元における空間においてそれはあるということである。分断可能ということは、分断できるそれぞれのパートの集合としてそれは考えられることができるということである。そこに技術的把捉可能範囲のような概念を考えることができる。その物はその次元のその空間における因果律にしたがってそこにあると言うことができる。この因果律が対象化されたればこそ、この物をこの空間において技術的に捉え、扱うことができる。故に資格としては、その物は、その空間において、分断可能と言われるのである。((ある角度からの眺めと、別の角度からの眺めというあり方も、すでに分断の一種と言ってよい。))その空間の次元においてあるということは、何らかの技術的眼差しを持って、この空間を可動域として見られるということである。分断という眼差しがそもそも出てき得ること自体が、その物がその空間その次元においてあることの証拠となる。こうした技術的眼差しが、その物のおいてある場所は如何という問いの答えに直接結びつく。その技術的眼差しの可動域がその空間であり次元である。この眼差しにおいては、物は分断されて見られても、その空間さを失わない。無論実際に技術的に分断されたのだとしてもこの空間はその空間さを全く失わない。そこにはこの分断行為を包摂した、一定の因果律が存在するからである。これを技術的レンジと言うこともできる。つまり空間とはあらかじめの無数の分断と考えることができる。 例えば空間の中を移動しながら、その物が私の観念領域のある場所に一定の角度でくっついたまま私の身体とともに移動するなら、その物はその空間の中に存在するものではないことは明らかである。そこでの見えとは、同じ角度のその物が私の思念の一定の場所にくっついてあり、しかし空間は私の身体の運動にしたがって変化してゆく、というようなものである。もっともこの物は、同時にこのような思念のうちにおいても、それ自身の領域において、分断可能であるが、そのような場合、それは今この想念というものの空間においてその固有の因果律にしたがって存在しているのだということになる。現実の認識がコピー的なものを内に含んだものであることについては前に述べた。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
2 何故に、分断可能性というものが、その物のその空間における存在ということを言うための鍵となるのであろうか。それは、その物がその空間の因果律における何らかの要素によって成り立っている、内にも分割可能であるということを言うためであった。重要なのは、それがこの空間における諸物の因果律的関係から成り立っているということであり、それを言うためには、この一つの物が複数のものの集合であるとして捉えられる必要があった。ただその物に触れて動かすということにも、この物の内的接触性つまり分断さというものがすでに考えられなければならない。そしてその物に触れて動かすということはその物がその空間においてある、技術的にある、ということを直接物語っているのである。 その空間と次元が違うのならば、その物は、その空間との関係において分断可能でない。 その物を技術的に扱えなければ、その物は分断不可能である。その物のどこに手を触れればよいか、わからないからである。その物に手を触れることができる、ということが技術的にこれを捉えることであり、ある次元の空間においてこれを見るということである。ここで言う手とは、必ずしも直接的な手の接触を指すのでなくてもよく、間接的なプロセスというものが考えられ、そこにも技術というものの創意工夫性が考えられる。自然科学における実験装置における操作のあり方というのが、手の拡張という意味において捉えられることが可能である。 ある一つの物が分断された結果生じるこの二つのものが、同じ空間に存在するということが直ちに考えられる、これは一つだったその物のもともとの空間性を示している。この一つの物は、この二つの、空間においてあるものの、空間性を、あらかじめ担保していたものと考えられる。二つのものは、あらかじめ一つの物においてその空間における関係として関係付けられていたのだとみなすことができる。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
3 任意にパートを分けて捉えられるということが、その物に技術的に対することができるということである。そこに手を触れるためには、この物のパート性の直観がなければならない。全てのパートが、この物体(そしてそれがそこにあること)にまつわる因果律においてあるのだということが直観されていなければならない。部分は外との接触面であるが、部分は物体の外にある物体をくるむ因果律においてあることになるのである。部分は物体をくるむ因果律に直接するのである。それは部分が全体の代理をなすということである。だから私がこうして文章を書き進めてゆくにしても、全体の代理たる、直前の文章にぶち当たる必要がある。ここでは直前の文章というパートが、物体を技術的に包括していると言える因果律に直接しているのだと言える。もし物体がパート化不可能である場合、我々はここにいかなる技術的接点をも持たない。この場合我々の思考的身体あるいは生物的身体とそもそも次元の異なる対象がそこに存在するということである。故に我々はこれに触れて、またこれを対象として、他の物と並べて客観的にこれを扱うということができない。観念と言えど、何らかの意味で扱われるということは、それが触れられたということであり、パート性の直観がそこにあるということである。その物をどの角度で見ればこれを扱えるかということがすでに直観されているからである。全て技術的に運用されている限りのその物体は、部分というものをもって全体の代理とせねばならない。真の全体とはいつでも純粋経験的なものでなければならない。だが我々がある物を対象化するとき、この立場を離れて、その物はある角度を持つ。ある角度を持つ空間が、そこ固有の因果律を持つ空間であると考えられる。一つの物の一つの物としての直観は純粋経験的なものでなければならないが、しかし技術的に扱える一つの物という見方が出てくるところにおいては、すでにこの物はパート的に見られていなければならないことに、自動的になる。観念という現れそのものがすでにそのもののそのもの総体ではなく、部分的な現れに過ぎない。たとえそれが閃きによって掴まれた直知的な概念というべきものであろうと。それが何らかの意味で使われるということは、その物のパートが触れられたということであり、そのパートがその技術的場においてその物全体の代理をしているということを意味する。それが物体の「奥行き」の直観であり、観念的空間も延長を自己の性質として持つのだと言える。奥行きという性質は、本来技術的含みを持ったものとして考えられる必要があるのではないか。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
1 以前の議論において不明瞭であった、創造的因果律というものについて考えねばならない。 ・因果律の基本は物体で、その次元に物体がある、そのような単位がある、ということが、その次元における因果律の根拠となる。単なる観念は単なる観念ではなく、それ自身の環世界において動くため、そのレベルでの因果律が作用する。それは脳内の神経の動きといったようなものではない。それは物質的次元の環世界においてこれを見たものに過ぎない。因果律は常に多層的に存在しているものとみることができ、マクロの事象から得られる物理学をミクロの物理学のための手引きとできるということ自体が、すでにマクロそれ自身の環世界の因果律の存在と、これとは異なるレベルのミクロの環世界の因果律の存在とを物語っている。 ・目的観念も結局は同類のものどもとの兼ね合いのなかから形が決定される。そしてそれはレベルの異なる次元に降りてきて作用する。その間にも環境という、目的に対等なものとの兼ね合いにより、目的は、同一であるまま、形を変える。物理的次元の因果律そのものの流れによるのではなく、それのまとめというメタ的立場によって、目的は(つまり環境によって)動かされる。目的は物理的因果律を相手にせず、環境を相手にする。目的は目的自身のレベルにおける一つの物体である。これを物体となさしめているのも環境である。環境は全てのレベルに中立的であるため、どんな高次に目的的・精神的であるものをも、そのままの環世界を包括する形でこれを包む。環境は、そのおいてある個物自身の認識レベルに応じて、どんなレベルの映り方、対し方もする。そこに環境の無限変化性がある。石には石の環世界、人には人格的環世界が対応するのである。環境はこれらを包みしかも自らは意志的には何もしない。ただ、意志と意志と(それこそ石や人の)を全て平等に自己のうちに受け入れ、バランスさせるという働きをなすのみである。無論そこには深い高次の意志があると考えることができる。しかしそれはまたそこに、我々の普通には感知できない高次の意志主体があるということであり、意志という側面からみるならば、それはこの存在によって司られているものであることになる。環境はバランスさせるという意志すら持っていない。ただ、ある次元の意志からみて、環境はそのように作用しているとしか見えないだけである。全ての意志的なものを包括するのが環境であり、それは最上の意志よりも高く意志的なものであるにもかかわらず、自らは一切意志的なものを持たない。ただそれは何もない無であるというのではない。環境には感情がある。意志はないが意思はあるとでも言うべきである。正確に言えば、事物を直接動かす力を持たないが、それらに対する思いがあるということである。環境が常に像によって構成され、単なる空虚ではないわけも、環境が単なる無機的なものではないからであり、そもそも無機的なものが有機的以上のものを包むことはできないのである。事実は、無機的なものよりも無機的なものを自己のうちに包括できる、という無限の包括性ということなのである。 いま、目的観念というものが環境から離れてあって、そこにおいて他の目的と相互作用する、などというように言ったが、これはわかりやすく説明するための便宜上の言い方であって、我々の思念空間が一応身体的環境から切り離されて虚空のような場所に存在するものと考えられることから、ひとまずそのように言ったのみである。実際にはこのような想像空間というものも、環境において含まれるものであって、だから目的観念どうしがそこにおいて相互作用しあうことができる。そもそも作用のあるところには必ず因果律があり、因果律というのは、物と物とを世界の関係として一つの客観的事実として存在させるための条件である。どんなに因果律を否定したような観念を考えるとしても、それは例えばそういうことを考えようとする動機に基礎付けられている、などというように必ず因果律的な客観的事実界との接着面がある。我々の想念の世界というものが、そもそも客観的世界と断絶したものではない。といっても脳内の神経の運動ということによってその間の連続性が考えられるわけでもない。そのような連続性においては、想念界の想念界としての質がない。想念界は想念界としての質を保ったままで、客観的世界と我々の言うところとの連続性がそこには存在するのである。((物理的事実も、この想念界における妥当観念としてのみ考えられ得る。))これを結びつけるのが行為の立場であると考えることができる。((そして我々にとって現実とは行為的なものでしかない。))行為は目的が否応なくむき出しで吹きさらしになる場所である。だがもともと目的はある場所においてむき出しのものであったとも言える。それが我々の想念界と考えられる場所である。そしてここにも環境というものが存在し、他人の妄想も含めた想念界一般をそれそのもののレベルで統合している。ある想念がそもそもその想念として保たれること自体が因果律によるものであり、ただしそれは脳内の神経の運動におけるそれを意味するのではない。ここで言う因果律とは想念そのもののレベルで直知されるものであり、実際公理というものも、ここに基盤を持つのではないか。あるものはあるものであり、それでないものであるのではない、という原理は、想念界における因果律そのものをも言い表している。因果律というものが直知的なものとして内的であるという観点に着眼することでカント的な立場が生まれてくることが理解できよう。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
2 ・物質にとって物体は想念的なあり方である。物体の物理学が因果律の基礎付けとして考えられるなら、要するに想念的なあり方、想念作用の直知が、因果律という原理のもとだと考えることができるということである。 ・幼稚さなどは、心理的因果律のカテゴリーにおいてある。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
3 ・単純に物があるという理解の仕方は、因果律的なものではないか。時間が現在から次の現在に行くことも因果律的なことではないか。現在から次の現在に行くことは、なぜ直知されるか。なぜこの二つが同一世界であると信じることができるか。因果律を成立させる要素の「関係」(すなわちそれによって説明される因果律というあり方自体)を拾うその以前の前提自体が、因果律をすでに前提しているのであろう。物の同一性を言うにも、時間がその次の時間においてもそれが同一世界における時間進行なのだということが前提されていないといけない。風が吹けば桶屋が儲かるにしても、その風は、同一のものとしてあったのであり、その風が吹いたその時に風がそのように吹いたのであり、よく考えれば当たり前でないこの前提が、まさに前提として単純にクリアされてしまっている。この前提は因果律の直知と言えるのではないか。ある要素の観念が今とその次の今にも持続して存在する、とか、そもそもその今と次の今の属する世界の同一性といった前提とかいったものが、あらゆる、因果律について語る言明の前提となっている、すでなる因果律的何かであるのではないか。 ・因果律とは「触れている」ことではないか。それは外と外との関係である。目的というのは、むしろ内側からしかもそれ自身が質料に触れずに成長の力として支配的に作用する。目的が質料を形成する過程において触れられるという局面があるところには、実際には因果律が作用している。((例えば人間の手というものがそれにあたる。行為的直観とは因果律的立場と目的論的立場を統一した観点を有した概念であろう。目的自身が形相界ではなく現実に形を持つのが身体である。この身体における両界の連続性とはよくよく考えれば不可思議な現象である。))目的も、質料のどこかには触れていなければならないとなれば、それは質料自身の超次元性からであり、おそらく素粒子の場所というものがはじめからそのような超次元的なものとしてあるのである。高次の因果律が作用するところに、目的と質料との「触れられた」関係性がある。行為のあるところには、このような高次の因果律と低次の因果律との連続性が見られなければならない。((その統一というものがそもそも実在するものとしての物質であり、物質は己のうちに多層的に因果律を有していると考えることができる))物質はもともと低次の因果律と高次の因果律の統一として成り立っていると考えることができる。歴史的物質という概念は、おそらくそうした概念に基づいたものであるのでないかと考えられる。 目的というものが作用し、その実現の過程においては低次の因果律が実際には作用することになるのであるが、そうした働きのさなかにあっての、作用と作用とののり付けは高次の因果律が担う。((低次の因果律は、もともとそうした作用を受けるだけのシロがあり、隙があるとでも言うことができるか。この点については更なる熟考が必要である。))物質がもともと多層次元的と考えられねばそのことは不可能である。では低次の因果律と高次の因果律は「触れられた」ものであるのか。このレベルでは低次の因果律が、このレベルでは高次の因果律が働いているとして、観点を分けて考えることもできるが、この間の関係というものが考えられねば現実というものの現実的な統一性を理解することができない。物体が物体に作用するというのは厳密なミクロの物理学から考えれば、比喩のようなものであろうが、しかしこれは実際には単なる比喩ではなく、まごうことなき因果律的関係として認められる。それは認識の技術性からくる捉え方である。使えるということは、そこに因果的な法則があるということである。技術というものがそもそも成り立つ基盤、技術が技術というレベルで映される場所というものを考えねばならない。技術は単なるミクロ的物質の働きの比喩ではない。ミクロ的物質にそもそも「働き」というあり方そのものをあてはめることができるのは、こうしたマクロ的技術的次元での認識が先に疑うことなきものとして存在するからである。我々はミクロそれ自身の立場から思考することはできず、マクロとはむしろもともとミクロそのものなのである。であるのになぜマクロからミクロが分かれるかといえば、そこにそうさせるだけの技術的必然性があったからであろう。((マクロと一言に言っても、それ自身のレベルですでにこれは幾重にも多層的である。単に世界を「あっ」と感動によって包むこともすでに、マクロ的因果律的な関係がそこにあるわけである。同時に、この道具をどのように扱えばよいか、といったことがらもマクロ的因果律的な関係性についての問題である。さらに抽象的に、物体というものはいかなる物理的性質に基づき運動し、作用するかといった探究に至っても、同じくマクロの領域での出来事である。すでにマクロの領域の認識の多層性において、ミクロの探究の理念は与えられてしまっているのである。要するに我々はそこに新しいマクロを見出すことができるか、すなわち技術的レベルにそれらを昇華させることができるか、という大きな理念に向かっているのである。)) これに関して言えば、マクロなるもののうちのある物の物としての同一性は、これを因果律によるものとみるならば、どこまでも微細な方向へとも行くことができる。そこに因果律というものの新しいミクロ方向への展開というものが考えられる。物を何らかの意味で少しでも分けて考えられるという時点で、そこに同一性があるならば、すでに因果律というものが作用していることの証拠となる。例えばあるボールがボールとして奥行きを持つという場合、すでにこの奥行きという概念によって、この物は分断可能であるが、この物が一つのものという同一性を持つというのは、そこにこのような分断可能であるあり方とともに因果律を内に有しているからだと考えることができる。一つのものは常に複数の何かの「触れ」によって支えられていると言うことができる。分断可能とは、その物がある角度から見ることもできれば別の角度から見ることができるということからも考えることができ、この間の統一性、そこにある同一性というものが因果律的に支えられている。これは同一性というものを関係性として捉える視点である。内的関係性はそのまま外的関係性との関係でもある。物が因果律的にあるということは結局その物がそのもの自身のレベルで客観的に存在するということにほかならない。分断とは、その物を包むその物の外との客観的技術的関係において可能である。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
4 ・時間が今から次の今へと行くことも一つの作用と考えることができ、そのためそれは因果律的なものであることになると言える。因果律は対象化可能なため、それを技術的に扱う知識の立場が存在可能である。タイムトラベルといった現象はこうしたあり方に基盤を持つと考えられる。 ・なぜ脳の働きは見えないのだろうか。私は現にこれを書いているというのに、そのプロセスに必要な脳神経の運動などというものは全く見えないし、そういう流れを流れとして何らかの仕方で感じもしない。 ・私は物体の基本的な力である重力というものを考慮せずにこれらの論述を行ったが、重力とはいかなるものであるかが考えられねばならない。因果律を触れることと素朴に考えたのは、ドミノ倒しのように、何かと何かが衝突することでその物理的結果が自ずから波及してゆく、というような単純な図式のようなものによってそうしたのであった。言わば、圧力といった力しか私は考えていなかったのであった。「触れられた」ものとしての因果律から考えれば、重力とは、我々が物に作用するときの意志のような、観念的なものであるように思われる。重力とは一つの場のようなものであるのではないか。多数の離れたものがしかも一つに触れ合っているということは、場というような考え方からしか考えられ得ない。場とは隔離された(逆向きの)圧力のようなもので、物がその輪郭を超えて深く遠く真の輪郭を持っている有様と考えられ、そのことを考えれば、重力と圧力とは相対的な程度の差しかないことになる。((重力は、自らに向かわせる力であり、圧力は外へ出てゆく力であるから、その二つの力は明らかに違うものであるはずなのに、なぜ私はそのように考えたのか。再考が必要である。ただし重力という場が物体の真の輪郭の広がりを示唆している点はまた改めてよく考えられねばならないと思う。))にもかかわらず、物には輪郭があるのはなぜかと言うと、身体に輪郭があるからであり、主体というものが意識としてどこまでも世界に深く遠く広がっているにもかかわらず意志の機関たる身体が局限された形を持つということがこれに関連づけられて考えられねばならない。いわば物体の物体としての環世界を支えているのは、我々の生物学的身体というあり方、それの意識における位置付けによる規定なのだと考えることができる。主体の意識がどこまで広がっても個性があり、また他の個性が同時存在できるように、物体が宇宙大の重力場を持っていても、世界はその一つの物に還元されるのではない、あくまでも他の物というものが個性として相互作用しながら同時存在するのである。だからそこには環世界というものを考える必要があり、例えば、地球が一つの天体として固有の質量を持つということについては、これが地球を構成する素粒子の質量の総和のような捉え方によって還元的に捉えられるのが適当かどうかは疑わしい。((無論、一面にはそうであるにしても。))私はむしろ、地球という単位に固有の環世界があると捉えた方が妥当だと考える。地球を地球としてそもそも一つの「物」として認識できるというあり方自体がすでに物理学的ではないのである。そして天体の運行法則の探究からすでに明らかにされているように、そこには明らかに固有のレベルの法則が働いている。あたかも物理学的な物質が、人間に己を、別の次元で認識されることを始めから欲していたかのように、不思議な、天体運行という物理的運動の単位が存在する。と同時に、我々の日常的世界における事物、例えばボールなども、己が人間の認識の世界に発見されることを同様に欲しているかのようである。同時にまた、様々な芸術が固有の因果律によって、人間の内的世界を動かし続けているのである。それぞれの環世界に、固有の重力場のようなものがあると考えられないか。あるいはそれは深く見れば一つの法則として捉えることができないか。物理的な意味での重力場が不変・一定のものとして考えられるのは、表現というものの客観性の保持のために必要な、世界自身の持つ一面というところから考えられる。((しかしそれが観念的であるという点で、人間の表現あるいは意志などとの連続性・関連性を示唆している。))人間の創造的世界のうちでは、重力というのは上下次元自在に移りゆくものであると捉えることができ、さまざまな次元の重力を一つの物理的場に出力することによって表現することが可能となる。ミクロからマクロまでひとまとめに一つの表現に落とし込むことができるのが人間的存在の特性であろうと思う。歴史的存在とは全ての環世界を行き来することのできる存在と考えることができないか。 結論:再考せよ。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
1 因果律を技術的に使うならそれはある種創造的目的論的立場と言える。因果律に呑み込まれずこれをパターン化して認識できるというのは、目的論的眼差しのなせる業である。  単なる目的論というものを考えても、その中身における内的因果律に逆らうことはできない。もっといえばその目的はその目的ではない、と言うことは、因果律に反するため、できない。素朴に、目的というものがあってこれを実現する過程というものが考えられるが、過程というものが考えられる時点で、そこを支配する因果律というものがすでに認識されているということである。その因果律というものが素粒子レベルのそれでなくともよい、単なるある目的のその目的としての同一性というようなものであってもよい。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
2 思念の空間にも思念の空間なりの因果律があり、そこにおいて映された非現実的な情景についても、そこに現れた世界はコピーであるということであり、そういう意味において因果律にしたがっている。さらなる上位の秩序というものが考えられ、これの司る因果律によって、それらのものは現にあるものとして成り立っている。因果律に反するということは、実際には不可能であるのに、なぜそのような概念は存在可能かということが考えられねばならない。それはコピーという概念があるからである。((これは創造的原動力の端緒である。物を作ることは、物の因果律的矛盾から始まる。しかしその枠に「手」なるものを置けば、途端に矛盾は解消される。その故にこれを延長して目的論的世界観が、人間の世界をも支配するものとして考えられるのだが、創造というものは常に手というものを枠の外に置くことから始まる。手が枠の中に置かれるとき、それは発見と言われる。どんなにあらかじめ手を枠のなかに入れようと、創造は新たな手を作り出すまでである。))だがいかに因果律否定的な観念を抱こうと、それが何らかの観念である限り、それが成り立つことを可能にさせる何らかの因果律がそこになければならず、でなければその観念は観念として形をなすことすらできず、それは単なる矛盾概念としてただ概念的に、具体的な像や属性を持たず、存在することになる。((例えば四角い円というものがそれである。それの実在性を証しようとするなら、それはむしろ発明であり、製作の働きによるのであり、あらかじめ単なる観念として概念として、それらどもと同列のものとしてあったものではない。))目的観念がその目的観念自身であるということも、つまりその観念が過去から現在に同一のものとして移動するというのも、因果律の働きによる。その因果律とは物理的なものではなく、想像物理上の空間の因果律にしたがったものと考えることができる。ここに想像物理の空間と言うのは仮にそう言ったまでで、真の全体を司る因果律においては、おそらくこの区別は存在しない。((とともにおそらく無数の区別がある。))ある目的観念の像において、上部はこのようであるとか、下部はこのようであるとかいった一定の決定された規定は、矛盾概念によるのでなければ、動かし得ないものであり、その観念のその観念としての同一性を直接支えている。無論、ただ概念として、そのように一定でない同一性がある、などと言ってのけることはできるが、そういうものを称して矛盾と言うのである。そこに矛盾という概念を当てはめることができるのが、ここで言う意味での因果律というものである。例えば「概念」という言葉は、日本語においては、この通りでなければ、「概念という意味」を持つことはできない。それがそれとしてその通りであるということは、すでに同時的な上下関係のような因果律がそこにあるということであり、また時間を掛け渡す因果律がそこにあるということである。概念という概念は、我々の思念空間にコピーされても、その形を保つ。「あぬめのぺり」のような言葉が、「概念という意味」を持つことはない。あったとしても、概念という言葉の概念という意味が理解された上で、それを「個人方言」へ翻訳するという形をとらねばならない。そしてそこでできあがる個人方言の同一性と、旧概念というようなこの一つの関係性というものは、まさにそのようなものとしての因果律にしたがっている。このようなプロセス抜きにここにおける意味の「概念」や「あぬめのぺり」の存在を考えることはできない。現実は物理的現実と想像空間的現実に大まかに分かれるが、物理的現実が自己自身をそのコピーにおいて否定するというのが我々の一般に言う矛盾というあり方の正体であろう。因果律というものを物理的現実から抽象して対象化できるというのも、すでに物理的現実における矛盾であると言うことができる。そういった対象化が可能になってくる局面においては、因果律をコピーできる空間が必要であり、マクロな領域をミクロとして扱うということが(つまり古典物理学が形成されること自体が)すでにこのようなコピーの働きであり、物理的空間からすれば矛盾なのである。ところが想像的空間をまで包括した全体からみれば、物理学的営みもまた現実の内の非矛盾的事実である。コピーはコピーであるが、なぜコピーされた異質なものは、そのコピーされる対象であるものと同一物のコピーであると認識されることが可能なのか。((物の認識には、コピー性があるとは認識論的にいかなるものかと考えられもするが、因果律に反した働きを想像するには、物の認識のこのような想像的空間へのコピーというあり方が考えられねばならない。))それは現実がすでに製作的理念を内に含んだものだからだと考えることができる。そもそもコピーというものがあること自体が、そのような概念があること自体が、物理学的空間そのものの概念の分析的理解から言って、矛盾なのである。物理学者は論理を道具とし、五感を援用しながら、真理に迫ってゆくが、要するに論理というものの「肉」というものはそこでは考慮されていないが、ある幻想が論理的な持続性をなし、しかも現実世界のある物のコピーとして「みなせる」という結びつきが、すでに純粋な物理学的空間からみれば矛盾ではないか。現実の物理学的空間は、自己自身の内に自己否定的なコピー空間を持つのであり、それを考えることによって、はじめて化学的あり方以上の世界の有機的体系性というものが考えられるのである。概念というものは、概念上肉を持たぬ、純粋に論理的なものとして理解されるが、そして我々の思考は幻想として考えられるが、この幻想においてその論理性が直知されるのは、実際には論理というものの肉がそこにおいて直知されているからである。((正確に言えば肉の自己否定的先端にある肉を包括するものを論理の領域と言うべきか。))つまり幻想的領域も含めて、全ての物は論理的に成り立っているのだと考えることができる。しかし非論理的ということが考えられるのは、世界そのものの創造性からであると考えられる。論理において直知というあり方がそもそも非合理的である。しかもこの直知こそを基盤として成り立つのが論理である。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
3 因果律を因果律として理解し、物の運動の成り行きを見てゆくことは、目的論的観点の密輸入であると考えられる。因果律を技術的に扱おうとする態度は、ある種目的論的なものである。機械が機械として成り立つには、当然ながら、その目的というものが考えられねばならない。機械論的には、この目的観念は恣意的なものであり、あくまでも人間の思念幻想の世界における観念と考えられ、純粋な数学と論理学そして物理学のほかに実在的なものは考えられない。だが現実に抽象された因果律というものは、その因果律の内側にあっては理解され得ないものである。またこれを利用して例えば何か機械を製作するということも、実験装置を製作するということも、そしてこの装置による行為遂行が物理学的な結果として「みなせる」ということも、すでに目的論的レベルの観点を抜きにして可能でないのである。マクロの物理学は究極にはミクロの物理学により実在的には基礎づけられるものであるが、なぜマクロの領域における結果がそもそも物理学的に意味のあることとしてみなされるのだろうか。それはマクロの領域それ自体における直知によるのであり、そこに純粋なミクロの世界における基礎づけは必要でない。ミクロの世界は我々にとって、観念である。ミクロの領域を観測するというのは、我々のマクロの感覚にまでそうしたものどもを引き上げることによって(例えば顕微鏡といった器具の使用ということがわかりやすい)可能になるのである。なるほど、ミクロの領域がそうして引き上げられるのも、そもそもミクロの領域がある仕方で存在するという論理的な推論から可能であると言われるかもしれない。しかしそれはマクロの領域における直知に根本的には基づいている。このような思考という幻想を幻想であると論理的に判じることのできる思考というのは、そもそもどのような立場に基づいているのであるか。そして思考の幻想性は、思考というものが我々の想像的空間においてコピーされるということを伴って始めて考えられることが可能である。判断のあるところにコピーはあるからである。((判断は裏に偽を含むため、単なる直接存在とはまた異なるあり方である。従来のコピー説?の認識論とは異なるところは、要するにそれらが実在として一即二であるところであり、コピーされる領域には因果律の積極的否定可能性などの特性が盛り込まれている。その全体が創造的プロセスなのである。))思考は真に論理的なものに触れ得るが、その思考自体は幻想であると考えることが、果たしてできようか。すなわちミクロなものも結局はマクロ「において」考えられるものであるために、その幻想と考えられるあり方のうちに真にメタ的なものが存在すると考えることができる。我々はどこまで行ってもマクロ的である立場を脱し得ない。本来それをメタ的に基礎付けるのが論理の立場であった。だが論理的思考は表現を欠いて存在することはできず、それは論理そのものがあらゆる表現抜きに存在可能であることと、ズレてしまっている。物理学は、論理そのものではなく、論理的思考という営みのなかで初めて成立するものであり、この営み抜きにそれ自体として存在している物理学は、理念としては存在するだろうが、理念とは観念である。そして観念とは、我々が現実に観念させることによってのみ存在可能であり、結局ここにマクロ的領域が残り、さらにそこにおける直知という論理的思考の武器が残るのみとなる。では物理的現実の物理的現実としての限定はどこからのものであろうか。この限定があればこそ、我々は物理的現実を、機械を製作使用するための対象界とみなすことができる。因果律を「使用」する視点とはいかなるものか。なぜ想念空間にまで延び広がる因果律の体系のなかに、因果律の否定と言えるようなあり方が存在できるのか。先ほどにも述べたが、物理的空間はそれ自身のうちに想像的空間を自己否定的に有する。我々の意識における因果律は、物理的現実における因果律とレベルの異なるものと考えることができる。((しかしその間に接続があり、そして高次からみればそこには連続性がある。))突き詰めると、その根底には創造的因果律なるものを考えることができないだろうか。それは理念が更なる理念へと内的につながってゆく概念である。それは創造の自動的な力が我々の精神に直接与える次なる概念、理念である。創造的なものも、因果律的にそれぞれ持続的なものとしてつながっていることになる。我々の創造的あり方すら、実のところはそのようなレベルのままで、因果律的なものなのである。カルマという概念はこのようなレベルにおける因果律というものをよく物語っている。((求めよ。さらば与えられん。という言葉がある。))そしてそれは高次から見れば、物理的現実における因果律と連続性を持った因果律的世界なのである。神の計画と言うと、それは高度に目的的な概念であるが、我々の創造的目的は高次の因果律的に生じてくるのである。因果律というのは、現在において、上は上、右は右、一つの身体の構成の必然性のようなものであり、そこに時間という方向が加わることによって、変化が因果律的に、しかも無限に等速直線運動のように停止したものとして存在するものとなる。((時間は1次元であるから。))思考の表現はこのような物理的現実の時間のなかに格納される。だが思考それ自体の自由は、時を駆けることができるという点にあり、これもまた高次の因果律におけるさらに高次の時の方向という概念によって理解される。((タイムリープとは、この次元間でねじれが起こって、高次の因果律が低次のそれに食い込んだものと考えられるのではないか。すなわち我々は過去に行くのに想起という物理的現実に事実上不干渉の方法に頼る必要が、普通にはあるが、何かに触発されて、この次元における体験のルールを飛び越して、他の次元のルールのなかに矛盾的にはいりこんでしまうということが起こり得る。それはかえって次元間が連続していることの証明となる。もっとも次元間にもまたそれ自体の因果律というものがある。時にはそれがねじれるというのは、その更に上位の次元というものを考えねばならないということだろう。今ここで次元という言葉を使ったのには、確かな術語的な意味があるのではなく、便宜上使用したまでで、こういうことを表す適切な用語が作り出される必要があるのではないかと思う。))
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
4 創造的なものが存在する領域にも、それ自身の因果律というものがなければならない。そこでもまた、個々の観念は物体として存在していると言うことができる。だから地域や文化ごとに、歴史的に見て異なる仕方での啓示が人間にもたらされるという現象が存在するのである。 目的論というのも突き詰めれば、ある種とある種との世界全体におけるバランス関係と言うことができ、そう理解するならば、そこには目的というレベルですでに因果律が存在することになる。目的というものを個々バラバラに考えるのでは、無論そういうことは言われないが、目的と目的が互いにバランスし有機的な体系を持つと考えられるとき、それらの個々の独立性の理由が考えられる必要がある。一つの大なる目的に包摂されるだけならば、個々の目的に意味はない。個々の目的に意味があるのは、一つ一つが直接最も大なる包摂的目的を自己自身のうちに表現しているからである。((大なるものは、その姿いや本体までもこれによって自己を変貌させるが、そうであって始めから不変の同一なのである。))とすると、ある目的が別の目的と隣り合って存在するわけは、そのレベルでの(物理的レベルに還元されない)因果律が働いたものとみることができる。目的から質料へという縦のつながりでなく、目的と目的という横のつながりについて考えることが重要である。個が全であるというのは、原子論的な機械論において考えることができる。すなわちそこにあるのは最小単位の物質の永遠の規則的運動のみであり、全ての個は、全体というものを内に直接宿している。必然性の範囲が個々の物質の持つ永遠の一定運動というあり方に限定されているという場合、その全体性に生命というものは存在することはできない。目的的なものは、すでに全体の有機的つながり、すなわち自己が自己否定的に外へと飛び出してゆくあり方が理解される。そこでは個々のものは全体に機械的にしたがうのではなく、全体的なものを内に映している。全体を包んだものがあくまでも個としてそこに存在する。我々の現にある行為的直観的現実において、あくまでも全体的なものを内に映し、全体における自己の位置の自覚を伴った上で行為が遂行されるということは、創造的因果律による要するに創造的目的どうしの兼ね合いにおいて可能である。目的論の底に因果律を考えることによって、全ての目的的形成は、創造的であることができる。目的は形を変えるのである。しかもそれによって全体の全体としての同一性は保たれる。物理的空間が「自己はみ出し」して、自己とは異なる因果律的次元を同時存在させていることから、任意の次元における因果律の抽出が可能となる。我々の意識にとって、身体の触れた世界はあくまでも対象となり、外からこれを見るものとなる。この意識の因果律と物質的世界の因果律は根本的には連続しているが、しかし同時に、これらは異なる秩序として成り立っている。双方向に干渉が可能であることがその連続性の証左である。だが干渉の仕方に緩衝があることがまた、その非連続性の証左である。真に自由な想念の世界においては、目的と実現の間に緩衝はない。我々は真に自由な想念の世界に片足を置いている。そのため物理的因果律を対象化することさえできる。この因果律は物理的現実における自由であると定義づけられないだろうか。我々はそれを把握することで、より発展的な製作を行うことができる。ミクロとはマクロの深化したものと捉えることができる。現実の物理的空間の本体はマクロにこそあるのである。そこが物理的空間が物理的空間自身であることを離れて想像的空間としても自己はみ出しする場所でもある。我々は本来それより広い空間を認識できるのに、身体的認識領域が局限されている。そして身体そのものが自己の意識の常なる場所だと考えられている。それゆえに身体の直接おいてあるマクロ的物理的空間の秩序を理解することが、我々の製作行為の始まりであると考えられる。マクロ的現実を因果律という概念に沿って深めてゆくと、ミクロの世界が我々の前に広がってくる。ミクロの世界の、マクロという領域における直観とはそもそもどのようなものか。この問いについてはまた機会を改めて考えたい。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
1 ロゴスアプローチにおいては、形相と質料という概念が考えられる。エルゴンアプローチでは、一見同様に対比的な、潜在態と現実態という概念が考えられる。この二つのアプローチはいかに異なるか。 形相と言ったとき、そこには質料というものが含意されていない。個々の特定の形相ではなく、一つの概念枠としての「形相」というものは、確かに質料というものを含意しており、そこではそれは質料と同じ列に置かれ、これとの対比が常に念頭に置かれる。しかし実際にあるものとしての形相はただ形相としてあるのみであって、我々は物を抽象的に分析するとき、この概念の抽象を得る。形相は現実の形を言い表した物ではなく、あくまでも物において物から抽象されるものであり、抽象的な概念を受け取る人間の認識能力においてそれは感取される。現実の形の「うち」に形相はみられるのであり、現実の動的形そのものは形相ではない。それは、物の出来上がる過程が「完成」に至ったとしても同じことであり、たとえこの場合、完成と形相がいかに寸分違わぬ姿形をしていようと、この二者は、そもそも概念として区別される必要がある。形相はそれ自体の自己形成において質料を必要としない。しかし現実の事物は、自己自身の形成に質料というものを必要とする。そしてここで言われる質料というものも、やはり一つの抽象概念であり、現実に運用される質料というものは常に形相を必要としているが、質料というもの自体には形相という含蓄は存在しない。現実の製作的局面に入った事物において、質料的なものは常に形相を伴っている必要がある。しかし質料の質料としての区別は、その「状態」にあるのではなく、その「質料さ」にあるのであり、これもまた一つの抽象概念である。質料は形相を含意し、形相は質料を含意するといっても、それはあくまでも互いに異なるものとして、相互排除的に含意されるまでであり、それ自身の規定のうちに一つの持続する形成事物というものを考える必要はなく、ただそれらは取ったり付けたりすることの可能な、脱着可能なものとして、その意味で技術的なものとして存在するものなのである。無論一つの形成事物がここにあったとして、そこからこれを形相と質料に抽象することができるが、かといってこの形相や質料が、この形成事物の形成というあり方に依存して存在するのではない。ただ、形相という一つの形成事物があるのでもなく、形相というものはあくまでも概念的なものであり、形相が事物に内在すると言われるように、本来形相とはそこで行き止まりのものである。ただし概念的には取ったり付けたりすることが可能なものと言うことができるのだが、それは世界の意志を無視して何でもありだというわけではない。そういうわけで形相は事物に内在すると言われるのである。しかし事物のその動的様態をもって形相そのものと言うのではなく、あくまでもそれは概念的に抽象されるものである。そこに形相概念の取ったり付けたり性があるのではあるが、本当に取ったり付けたりできるものならば、それ自身も一つの形成事物であることになる。そこでもし形相という形成事物を考えるのなら、このとき概念としての形相はどこに行ってしまうのであろうか。形相は形相それ自体として、これとは別個に残るのであり、それは残留するものと進歩するものに、分け御霊のように分かれる。形相が形相それ自体として残るというのは、それはそれが概念として世界自体と同格のものである資格を与えられているからであり、しかし形相が事物に変容するある座に至れば、これはまた別の高次の形相の指し示す運動領域において事物として潜在態から現実態に行く自己完成運動を実行することになる。こう書けば何のことを言っているのかがわかりにくいが、要するにこれは例えば人間の思考活動における概念の進歩、思索の深まり、などといった現象を指すのである。思考というものがそれ自体一つの実体的空間であり、真の概念自体の領域、直知の領域は、そのさらに手前にそして奥に、自らを構えている。進歩する形相も、形相と言われるからは実はその段階のそれ自身もすでに永遠の命としてこの直知の領域に自らを持つのである。したがって、形相が、事物の現実態・完成ではなく、あくまでも概念的なものでなければならない所以もここにある。では質料とは何なのか。質料というものはそもそもなぜそのようなものとして感取されるのであるか。感取されるからには、これもまた一つの形相の感取と捉えることができないだろうか。実際、質料と考えられるものは、それ自身一つの完成であり、それは主語となることのできるものである。だが常にこれは形相というものとの対比において存在する。ある状態であるようなものを質料と言うのではなく、あくまでも概念として、形未満であるものを質料と呼ぶのであり((Oxford languages より、「質料」の項。「形をとって現れることにより初めて一定のものとなる、素材。」とある。))、形あるものについてもこれを別の形相との関係において捉えることで、形のない質料として捉えることができる。質料という「状態」があるのではなく、ある形が有ってしまった結果、そこにおいて抽出される形のないものとしての概念を質料と言うのである。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
2 そもそも全ての「有るもの」は、形相的なものであるのではないか。単純に考えれば形相を持たないものは我々にとっていかなる意味においても存在し得ない。質料のようにみなされるものについても、その実際の現れとしては何がしかの姿形を持たねばならない。しかし、そのような質料的なものは有るのだと「考えられる」ことができる。また永遠の姿というものもまた有るのだと概念的に「考えられる」ことが可能である。((「不動の動者」という概念があるが、私は全ての形相はこの不動の動者の分け御霊であるとして説明可能と考えている。))そして現にそう考えねばならない。そう考えられなければ、現実の物というものは論理的に存在不可能である。現実に唯一存在する形相的なものどもというのは、また唯一背景としてある質料とともに、純粋経験を構成している。そこには論理的規定が何段にも重なって同時存在する。これを束ねて「一つ」の現実となさしめるのは、行為というあり方であり、すなわち現実は行為的直観的なものでもある。行為というのは、複数の論理的図式を一つに統合するところに現れる。((現実世界というものがそのままそういう構造になっており、それがしかも直知されるというのは、我々の身体がもともとこういう現実そのものを包括できるものとして作られているからである。))だからそれは複数であって一つのものと言うことができる。一つの執筆という行為が、何段もの論理的規定を包括することができる。全体は、身体がそうであるように、脈動によって統合されたものとなる。この「複数のものの一つ性」のうち、一つという方向に注目するのが、形相が質料を形成するという働きを考える概念である。多くの働きも、この一つというモデルケースによって考えられる諸運動となる。だが、行為こそ常に最高の形相である。行為の一つ性が事物どもに波及することで、事物の形成というあり方の根底に実体というものが考えられたのだと私は考える。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
3 ロゴスアプローチがこのように事物の形成の永遠面を見るものとするなら、エルゴンアプローチはその行為面・作用面を見たものだと考えることができる。現実に現実的に存在するものは、必ずある過程にあるものであり、完成というあり方も必ず何らかの過程概念によって、感取される必要がある。このアプローチにおいては、形相的なものが質料的なものと分かれない、常に一体のものとして理解される必要がある。分かれないということは、形相的なものも質料的なものも、それ自身絶対的なものではないことになる。例えば、概念の働きによって、この完成なるものをまた質料と呼ぶことができる。それは概念というものの非時間性によって可能である。潜在態と現実態という概念は、形相と質料のある種の同一性、現実面における不可分性を表現したものとして考えられる。形相と質料がある種同一なのであれば、形相と呼ばれるべきようなあり方を質料と捉えることが可能になる。無論実際には形相というものは、完成というあり方そのものを指して言われるのではなく、そのうちに抽象的に取り出されるものを指して言われるのであるが。だから、一体であるような形相・質料的なものと、あくまで独立的である概念として捉えられる形相・質料的なものとを区別して理解する、独立の二つのアプローチが必要であることになる。このうち、後者は、形相・質料の永遠面(それは永遠の急峻であるとともに永遠の深谷である)を表現するすなわち一つの物というものの「実在性」を担保するための重要な概念アプローチであり、前者は、実在というものの不可思議な統一性を示す概念アプローチであると考えることができる。潜在態から完成へと至る過程、その現実の「質感」のうちには、絶対的な質料というものは見出されないが、概念上これを質料とみなす、というようなものならばそこに事物として存在する。また絶対的な形相もそこには見出されないが、概念上これをもって形相とみなされるようなものはやはり事物としてそこに存在する。しかしそれはあくまでも仮の呼称であるため、それをより適切に言い表す方法があり、これを潜在態とか現実態とか言うのである。この二つは過程であるため、この二つの間には絶対的な断絶はない。ただ任意の過程を周辺から切り離して、そこにある暫定的な自己同一性・自己形成性に対してそのように名付けたまでである。しかしそもそもなぜこうしたものが任意にではあっても、周辺から「切り離される」ことが可能かと言うと、そこにも実際には永遠なるものの自己表現が見られるからである。形相という抽象化によって、個物的実体の実体性が明らかにされる。しかし形相は形相というレベルで進歩する。このような場合、進歩する概念の側と、永遠に自己のうちに留まる概念の二つに分かれて、これらが己の座を保ち存在するのである。実際の行為的現実においては、形相も質料も、正確にはそうとされるものどもは、互に入れ替わり移り変わりしながら存在するものであり、あるアイデアは常に別のアイデアのための素材となり得、素材は事情によれば代替のもので代わりに用意されたりするのである。アイデアは素材であり、素材は作られたものであるとも言える。((詭弁のようであるのは、考えがまだ浅いためである。))
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
4 そこで、素材もまた作られたものであるということが注目される。ただしそこには自然が作ったということと人間が積極的に加工したということの違いがある。素材の素材としての完成という着眼点から、現実の事物の形成という問題についてより深く考えてゆく必要があろう。自然の事物というものだけを考えるから、その素材というものが自己の形を持たないものとして考えられてしまうのである。だが動物の身体を構成する素材も、すでに高度に有機的なものでなければならない。そしてそれは質料のうちに、さらにこの質料を形相として持つ質料があり、それが何段にも連なる、といった様態がなければならない。ただこういう過程を飛ばして、単純に身体の、物質の組成というものを考えて(例えば人体は60パーセントが水で占められるとか)、これを質料として理解するならば、確かに身体というものは形を持たぬものを質料としていると言える。そしてそう考えたときに、その上に生じてくる形相というのは、それ自身が、やはり幾重にも複雑に重なった有機的体系であることになり、そうすると、結局は形相が質料で質料が形相であるようなあり方が体系的に重なったありさまとなることになるのである。こう考えたときに、形相は単なる固有の「形」なのではなく、形自身が脈動する生命であるということが言われねばならない。形は自己自身のうちに質料を持つのであり(それはどこまでも弾んでゆく素材である)、概念としては形というものが形相として抽出されるとしても、実際真の意味で形相と呼ばれるにふさわしいものは、形相が質料そのものを自己のうちに包みいや脈動的にこれを統一するものでなければならない。 電子機器のようなものに至っては、明らかに、素材はそれぞれ細かく作られており、それぞれ複雑に形相が配置されている。ところで形相という結果が出力される領域が我々の社会的空間(例えばインターネット)のような高度に観念的なものである場合、この概念はいかに考えられるであろうか。そのような場合も、単純にこれに形相・質料もしくは潜在態・現実態という概念を当てはめればよい。何かしら「一つの働き」がある限り、我々はこういった図式を当てはめることができるのである。どこが、例えば質料と形相といった概念を区別するための、「軸」になるかというと、それは行為的直観というところから考えられると私は考える。永遠性と暫定性の含みを、そこにおいてはともに感じることが可能である。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
5 以上の考えは、本来の哲学的思考を極度に単純化したところもあると思うが、現時点での私の考えを記してみたものである。形というものに実在性があるというのは、そうしたものが本当に永遠のものとして理解されているということを理解する必要があるということであり、しかしその暫定性もまた同時に理解する必要が、私のおかれた視座環境においては、あるのだと言える。ロゴスアプローチからは、静的永遠性のような概念が、エルゴンアプローチからは、形相質料概念の相対性(そしてそこから理解される無限の理念的拡がり)が理解される。形相と質料とが連続的であるということは、それが世界全体にその根拠を持つということであり、すなわち真の「キリ」がないことであり、それが行為的直観的に現実であるということである。全世界というものを、ただそれだけから考えてもわからない、世界というものを単純に対象化するのみでは、単に日常語における世界というものが想起されるばかりである。が、世界というものはあくまでも行為というこの場において始まりここに終わるものだと理解されるならば、これを軸に、いかなる偉大な形相についても、その創造的働きを自己のうちに感じ取ることが可能となる。現にこの場が軸になっていればこそ、客観的現象も、死の海としてでなく、現実に生命が自己形成する世界として理解されることが可能なのである。 メモ: ・作られた素材は、所期の目的に「比べて」形がないというだけであり、質料とはそのことを概念化して捉えたものと理解することができる。 ・猫にとっての形相というのはどんなものだろうか。猫の環世界という概念。それを考えるならば、我々が形相と呼ぶものの暫定性が理解されてくる。そして同時にそれがまた創造的なものであることも。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
#長谷川白紙 この部分は、どうも付点八分音符✖️4➕四分音符✖️1のリズムパターンから抽象する形で成り立ったリズムのようです。個人的に印象的だったのでメモのため。 直感的には二拍三連符✖️2が二つ出てきたように一見思われるところがミソだと思います。
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
同様のリズムなら「砂漠で」にもみられます。それを始めて聴いたときは、何かの連符かと思ったのですが違いました。 また、「怖いところ」のサビでは、連続する付点八分音符をリズムのなかに挿入して独特の浮遊感を出していて、ここで見たリズムと同様の類型に当てはまると思われます。 個人的に好きなところでもあるのでメモ。 野暮ですか?
@MALPENASTOEVAMOUMDJIEV
@MALPENASTOEVAMOUMDJIEV 3 ай бұрын
Hi There, Dear Rain Car! by the way if you want listening my music on You Tube, so ... Malpéna Stoéva-McMallama deux poèmes d'OSCAR WILDE ETC...
@MALPENASTOEVAMOUMDJIEV
@MALPENASTOEVAMOUMDJIEV 3 ай бұрын
Good morning, Rain car! Very very Good, hear you have a friend (?) or it's always you on the bass I think so... With kindly regards... McMallama
@雨車ダークネスピアノ
@雨車ダークネスピアノ 3 ай бұрын
Thank you for listening and your comment! There is only me on playing this.
@aviothic3896
@aviothic3896 3 ай бұрын
Wow love it
@MALPENASTOEVAMOUMDJIEV
@MALPENASTOEVAMOUMDJIEV 4 ай бұрын
GOOD MORNING, RAIN CAR! Very good, I thunk so. With kindly regards, mcMALLAMA
@MALPENASTOEVAMOUMDJIEV
@MALPENASTOEVAMOUMDJIEV 4 ай бұрын
....So good, RAIN CAR! I'll looking for your new piece. With kindly regards! McMallama
@emotionalsan
@emotionalsan 4 ай бұрын
すきです…
@emotionalsan
@emotionalsan 4 ай бұрын
あまりにも素敵なワルツです( ; ; )
@浅野辰治
@浅野辰治 4 ай бұрын
こういうとき手癖は強力ですよね
@emotionalsan
@emotionalsan 4 ай бұрын
どきどきする…
@emotionalsan
@emotionalsan 4 ай бұрын
大好きです
@MALPENASTOEVAMOUMDJIEV
@MALPENASTOEVAMOUMDJIEV 4 ай бұрын
BRAVISSIMO, Rain Car! With kindly regards... McMallama