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5min動画
6:00
5分で伝えるキリスト教のヤバさ② 罪という概念の何がヤバいのか
4 жыл бұрын
5:43
5分で伝えるキリスト教のヤバさ① 聖書の何がヤバいのか
4 жыл бұрын
Пікірлер
@キャッスル-q2o
2 жыл бұрын
なんとなく動画の投稿者は成約の時代を生きていらっしゃる方だなと思いました。
@user-oe3py9px6p
3 жыл бұрын
素晴らしい動画をありがとうございます。
@hoshine1111
3 жыл бұрын
これはやばい…!!
@donsuke777
3 жыл бұрын
キリスト教を語ってる自己中心主義的宗教が世界には溢れてますね。 キリスト教とは名ばかりの悪魔教で溢れてて人間はほんとに愚かです
@にゃん太郎-c8m
3 жыл бұрын
ボランティアで聖書に関わる仕事をすることになり、聖書を読み始めましたが、読めば読むほど疑問だらけです 確かに、まず「言葉」の意味がわからない! 日本語なので読めるんですけど、意味がさっぱりわからない! 単語の意味を調べることから始めて、その行為が何を表しているのか、そのルーツは?と、いちいちネットで調べ・・・・・と言うことをやっていくうちに、疑問が次から次へとわき、今、最も興味を持っている書物です
@sakurahana8056
3 жыл бұрын
面白く分かりやすかったです。 私はアンチ・キリスト教なんですが、自分がキリスト教のどこを嫌だと感じるのか、改めて理解できました。 私が最も嫌うのは、キリスト教の言う「信仰が一番大切」という認識です。 信仰さえしていれば、人を奴隷にしてもいいし、他国を滅ぼしてもいいと認識し、実行してきたキリスト教。 罪を認めて神様に懺悔すれば、その人の罪は許される、など、信仰してるかぎり暴虐を繰り返すキリスト教が大嫌いです。 だいたい、違う神様に祈る人間はサタンだとか言って迫害するのを推奨するとかwww 傲慢さ、ここに極めたり!って感じです。 しかもそれを批判する人を、見下したり、哀れんだりするというwww どこまで選民主義なんだ!って話しですよwww まあ、キリスト教の教義は、人間として容認できないですが、それに伴った「キリスト教的芸術作品」は、とても素晴らしく感じています。聖書では、そういう偶像崇拝は否定されてますがw そんなわけで、この動画は面白かった!という感想ですw
@フランシスコ-t3c
3 жыл бұрын
全部見たよ。この動画をつくられたあなたに神の祝福がありますように。
@user-dz6wv7rr3n
3 жыл бұрын
うーん。トライはいいけれど、適当な内容。宗教的無知に起因しているので罪ではないけれど、もう少し理解を深めてから解釈を提示してほしい所です。2も3も。解決するのは自らの信仰から始まるのであってメシアそのものではないし。とか。
@マチカネストライク
3 жыл бұрын
自分がいかに罪深い存在なのか悟れました。回心して悔い改め、生まれ変わりたいです!
@具なし饅頭
3 жыл бұрын
良い意味のヤバイですね。
@user-zm1xo8je6k
3 жыл бұрын
で、どこがヤバいの? 全然ヤバくないんですけど。 ちなみにキリストの誕生年は不明です。 一説によると、あくまでも一説によるとですが紀元前4年頃です。
@sadamiyata6628
3 жыл бұрын
信じるか信じないかはあなた次第
@kf6654
3 жыл бұрын
自分の神になりたいって、よくわかる~~!やばい
@user-jc1lz8zk3c
3 жыл бұрын
あなたの働きに感謝を。 あなたのこれからの道行きに祝福を。 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたにありますように。
@栗田礼子-g7l
3 жыл бұрын
色々な考えがあるねー 死んだら分かるね、死んでからじゃ遅いか?信じたほうが気楽に生きれるなら、気楽なほうを選ぼうっと。
@junsm999
3 жыл бұрын
素晴らしいです!! 楽しみです! ありがとうございます!!
@vg6335
3 жыл бұрын
聖書はそもそもヘブライ語の人々に書かれたものですからね。新約聖書にしても、当時の公用語で書かれたということで、基本的にはユダヤ人に対して書かれたものです。コリント第一の15章の冒頭の部分を、翻訳文を頼りにする全く異なった言語を理解する人々がどう受け入れるかということですね。キリストご自身の言葉というよりはパウロの書簡とされている部分を、自分のものとして受け入れるかどうかということにかかってきます。元々これら聖書の書かれた言語を理解できないばかりでなく、言語による概念の形成と社会的な背景によって形作られるマインド・セットも全く異なる民族が、どのようにしてキリストに導かれるかは、全く不可思議としか言いようがありません。
@user-lr1br2sz4c
3 жыл бұрын
おんもしろいですね笑!!! わかりやすい! 見る人は5分でも 作る方はかなりの時間と労力をかけているとお察しします。 その熱意と信仰の姿に励まされます( ¨̮ )! 祝福がありますように(◡‿◡ฺ✿)
@赤座伴番
3 жыл бұрын
キリストを信じ救われて天国に行った後は罪を犯しても十字架によって許され続けるのですか? それとも罪を犯さない様に作り替えられるのですか?
@user-oe3py9px6p
3 жыл бұрын
許され続ける、が正しい解釈だと思います。 救われても人間ですからまた罪を犯すことはあります。
@眠りから覚めたタヌキ
3 жыл бұрын
自然に感じて生きれば良いのにね。
@石宝金
3 жыл бұрын
ありがとうございました😊
@user-xz1wd9ii4m
3 жыл бұрын
本当にありがとうございます。さっぱりわかっていないどころをはっきりしてくれた映像です。韓国語に翻訳してみたいほどです。いつか正しい信仰というものについても映像を作ってもらったらとても助かると思います。信仰という言葉は汚れ、利用されているのではないかと考えたことがあります。応援しています。
@uedaterumi9038
3 жыл бұрын
私も罪深き人間です。人間ですから
@uedaterumi9038
3 жыл бұрын
面白い。私はクリスチャンなので読んでます
@ぽんた-u7g
3 жыл бұрын
キリスト教の死後の世界は、天国と地獄の二つの世界だけですか❓ 仏教は、生前の行いによって、 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、の六道があります。また、お寺も神社もお参りします。 日本の神は、八百万の神があり、大きな木や大きな岩、道路の交差点の中央にも道案内、馬などの家畜にも神としてお祀りしています。日本人は、罰を受けるのでしょうか⁉️
@Sorewaka
3 жыл бұрын
教派に寄るんじゃないかな、煉獄とかそういうの説いてるキリスト教もありますから。 基本は天国と地獄の二つです。 ただ、天国は人間の為に造られた場所で、 地獄は悪魔の為に造られた場所であるという事。 だから人間が地獄に行くには 「よし、地獄に行くぞ」ってな感じで悪い行いと悪い思考を持たなければ地獄に行く事はありません。 聖書にも「福音を知らぬ者はその行いによって裁かれる」と書かれているので何もキリスト教だけが天国に行くって事では無いんですよね。 そもそもローマが宗教として認める以前はキリスト教も教えがあるだけの存在だったわけですから。
@user-in3jq9uu3c
3 жыл бұрын
なぜ聖書がフィクションではないと分かるのかがあまり理解できません。説明してくださる方いませんか?
@Joker-ub4ro
3 жыл бұрын
理解したいなら神学校に入って勉強しろ。そしたら己の知りたかった事がわかるようになる
@alisachrysler6153
3 жыл бұрын
聖書は実際にいきたい人物について書いてあるし、実際に生きた人物が書いたものです。聖書の中に出て来る場所も全て実際にある場所です。だから聖書はただの噂話でも頭おかしい人が書いたものでも物語でもありません。キリストのこともキリストの弟子もローマやギリシャなどの書物や記録に載っています。ですから聖書はフィクションなんて言えません。
@mesugaki072
2 жыл бұрын
土台はノンフィクションだけど、色々な空想的要素が絡み合った結果、訳の分からないフィクションみたいな話になってしまった。ちなみに聖書は宗教云々を抜きにして普通に面白いから是非読んでみてほしい。
@kotobakenkyukai65
3 жыл бұрын
受ける❣️ 超簡素化の試み、素晴らしいと思いました❣️ キリスト教の宗派によっては、 キリストの存在より神自身の存在を強調したり、最終目標が、 平和世界の樹立、到達だったり、 解釈が分かれるとは思いますが、 面白かったです( ´∀`)❣️ ありがとうございます😊
@user-ku6nh5yk8k
3 жыл бұрын
根拠がないことを信仰するか否か。 ヤバいですね。
@ああ-h4y4e
3 жыл бұрын
根拠が聖書だぞ。もしか仮に科学的根拠を求めているのなら,ちょっとどうかしてるぞ。
@hiroshi200901
3 жыл бұрын
しゃべっている内容をいちいちい一行づつ字幕にしけりゃいけない病的な頭の悪さ。アホを騙す連中がよくやっている広告によくにている。アホから養分むさぼる糞集団=宗教団体w
@5min913
3 жыл бұрын
KZbin動画のよくある手法として字幕を付けてみました。視聴者側にとって分かりやすい手法では、と個人的には思っています。 hiroshi200901さんは「聖書」と「宗教団体」をやや混同されているように思いました。私はこの二つを切り分けて考えています。「聖書」は物であり、「宗教団体」はそれを使う人です。 使う人には様々、そう、「糞」的な人もいるでしょう。しかしだからと言って、そのような人が使用した物も一緒に「糞」とは言い切れないのではないでしょうか。 銀行強盗が包丁を使った=包丁は悪。。という理論と似ています。
@HiyokoTKMT
3 жыл бұрын
@@5min913 hiroshi200901は先のコメントで聖書については発言していません。単にあなたがキリスト教を批判され、一人で怒っているだけです。見てて痛痛しい。
@phoebegrace6170
3 жыл бұрын
このような動画を作成してくださりありがとうございます!1から3まで拝見しました。友達に罪のことを説明するときに、使いたいと思います。 これからも、主にあるお働きが祝されますように😊✨
@hiroshi200901
3 жыл бұрын
病的な頭の悪さ。こんな動画をyoutubeで垂れ流ししかも、下のコメントみたらやばいwww こんな病的な頭の悪い動画を賞賛している頭のおかしなコメントだらけwwww
@5min913
3 жыл бұрын
率直なコメントをありがとうございます。 もし可能でしたら、参考までにどの表現が「病的な頭の悪さ」と感じられたのか、お教えいただければありがたいです。 それが「頭の悪さ」なのか、「信じているものの違い」なのか、興味があります。
@snow-ox2sb
3 жыл бұрын
ちょーやべぇな 宗教とか金儲けする胡散臭くて非科学的なものだと思ってる キリスト教も仏教もイスラム教も心の底からどうでもいい 特に一神教的な考えは日本人には受け入れられないし、正直目を爛々として教義を語る人は、洗脳とかマインドコントロールされてるんじゃないかと思ってしまう。
@5min913
3 жыл бұрын
洗脳・マインドコントロールというものは、自覚の無いものと聞きます。恐ろしいものですね。 私は全ての人が何かを信じていると思っています。「神は居る」と信じる人もいれば、「神は居ない」と信じる人もいます。 各々、与えられた情報や、置かれている環境に基づく「常識」を受け入れ、日々何かを信じたり、信じなかったりしているのではないでしょうか。 私も、私がなぜこの聖書を信じられると確信しているのか、いつも確認し続けたいと思いました。
@督戦隊に配属された人
3 жыл бұрын
聖書が何なのか知らないけど10億部くらい売れたことは知ってる
@Maria-Bernadette_3725
3 жыл бұрын
3本とも観ました。 おもしろく分かりやすく良かったです。 ちなみにカトリックも聖公会も正教会も 同じ事を信じてますよー
@Maria-Bernadette_3725
3 жыл бұрын
大天使長時代は「ルシファー」ではなく「ルシフェル」 罪を犯したので「神(の)」といういみの「エル」が剥奪されたので ルシフェル→ルシファー となりました。 キリスト教大天使 ミカエル ラファエル ガブリエル ユダヤ教ではこれに ウリエル(もいるらしい) 全てに「エル」は着いているのはそのため。 に
@Maria-Bernadette_3725
3 жыл бұрын
最高‼️ 楽しみです‼️
@skskjiaiasas7857
3 жыл бұрын
マジ(≧∀≦)ヤバ杉ーーー感謝!とりあえず続編を期待♡
@SS.K
3 жыл бұрын
よく解らないことと言えば、キリスト教的にヴァチカンの存在は必要なんでしょうか?てのがあります。私は信仰者ではないので答えは必要ないです。
@SS.K
3 жыл бұрын
目からウロコの動画ありがとうございます。色んな人の解説は役に立ちます。
@zoomy111
4 жыл бұрын
素晴らしい動画ありがとうございます。私はクリスチャンになって4年目ですが、クリスチャンでない私の姉がこの動画を送ってきて、わかりやすかったと言ってシェアしてくれました。日本でさらに多くの救済があるように祈っています。
@user-io8nu7gb5n
3 жыл бұрын
私も18歳の時に洗礼を受けました。
@junnishio8390
4 жыл бұрын
私は仏教者ですが、たまに聖書を読みます。 「罪の身代わり」という概念が難解です。それがイエス本人の主張なのか、 はたまた後世のキリスト教徒が作り出した発想なのかが分かりません。 「地上人類の罪を減らすために良い教えを残した聖人」ということなら 理解しやすいわけです。しかし、「全人類の罪の身代わりに死んで復活した メシアで神の息子」となると、途端にわけが解らなくなるのです。 そこまで究極的で絶対的で完全な存在じゃなければいけないのでしょうか。 私はそこら辺に一種の強迫観念を感じます。ヤバいと思います。 仏教者はブッダを客観視したり相対化したりできます。一人の人間としての ブッダを「たくさんいる偉人のうちの一人に過ぎない」と見なせます。 しかし、クリスチャンのみなさんの信仰は絶対者への帰依ですね。 その強くて一途な信仰心は、場合によっては他の宗教への理解の妨げになる様な 「視野の狭さ」を招くのではないかと思います。 復活という発想も、肉体への極度の固執に見えます。 霊的な循環の中に永遠の命を見い出せば十分だと私は思いますが、どうして クリスチャンの方々は肉体にこだわるのでしょうか。そこが一番の謎です。
@5min913
4 жыл бұрын
丁寧な質問を頂きまして、ありがとうございます。 疑問を紐解く助けとなれましたら幸いです。長文になりますが、ご容赦ください。 ■「罪の身代わり」はどこから来る発想か 実はキリスト教の救いの方法は、旧約聖書(ユダヤ教に基づく)のある祭儀法に沿った方法になっています。 神は旧約聖書の中で、「罪」を実際に「贖う」(帳消しにする)方法について具体的に教えています。 それは、「動物を自分の身代わりのいけにえとして捧げる」という方法です。(レビ記 4-5章 参照) 人々は罪を犯す度に、自分の可愛がってきた大切な動物(傷や汚れの無い良いもの)を、自分のした罪の身代わりに捧げたことが旧約聖書に記されています。 何ともかわいそうで、痛々しい方法です。 しかしその光景を見て、「なんて事をしてしまったのだ」と自分の罪を悔い改め、罪の代価が支払われた(贖われた)、とされたのでした。 これがイエス誕生より遥か1000年以上前から行われていました。 そのような中、やがて来る救世主は「自分を」いけにえとし、人々の罪の身代わりとなるだろう、という預言がなされました。 それが、旧約聖書、イザヤ書53章(イエス誕生の5-600年前)の預言です。 「しかし、彼(救世主)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ書53:5) そのため、この預言を知った人々は、そのような救世主が来ることを待っていました。 それから5-600年後、諸々の預言条件(場所や時間など)を満たし、イエスが誕生します。 当時、イエスがその救世主であると感じた人はこのような事を言いました。 「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見ていった。『見よ、世の罪を取り除く神の子羊。』」(ヨハネの福音書1:29) 子羊、という表現は、傷の無いいけにえの動物を意味しています。 イエス自身もこのように言っています。 「だれも、わたしから命を取った者はいません。わたしが自分から命を捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父(神)から受けたのです。」(ヨハネの福音書10:18) つまりイエスは、神から、「罪を購ういけにえの子羊」としてこの世に送られた事を自認していました。預言の通り命を捨て、預言の通り復活する事を知っていたのです。 そのようにしてイエスは十字架にかかりました。 これら十字架の出来事を以下のように聖書ではまとめています。 「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるもの(罪購われたもの)とされているのです。」(へブル人への手紙 10:10) ■視野の狭さについて そう感じさせる聖書箇所は、例えば以下のようなものではありませんか。 「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父(神)のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書 14:6) しかしもし、上記の「罪の身代わり」の話が本当であれば、イエスはこう言う他無かったのではと思います。その方法こそ、神が用意した道なのであれば、です。 逆に気休めとして「まあ、他の方法でも救いはあると思いますよ」と言うことは、実は愛ではないのでは無いでしょうか。 誰に嫌われようとも「この方法だけなのです」と切実に言うことの方が愛なのだと思います。 ということで、クリスチャンの態度としましては、他宗教を毛嫌いしているのではなく、理解した上でお断りしているのだと思います。 ■復活は肉体の固執となるか 肉体こそ、罪の性質を持つ元凶のようなものと聖書的には考えます。どちらかというと早く肉体を捨てたいくらいなのです。(こう書くと怖い文面に見えますね。。) さて、復活を通して得られる「肉体」とは、実は「新しい肉体」なのです。(今の肉体とは全く性質の違うものです) 新約聖書・コリント人への手紙第一の15章42節以降を参考にしますと、「新しい肉体」は以下のような性質です。 ・朽ちないもの ・栄光あるもの ・強いもの ・御霊に属するもの ・イエスに似たもの ということで、クリスチャンとしては最終的に上記のような「新しい肉体」を、復活を通して得られることに希望を置いています。
@junnishio8390
4 жыл бұрын
@@5min913 さんへ。長文の返信による詳細な説明、ありがとう御座いました。 確かに旧約聖書には動物犠牲の習慣の記述があちこちに見られますね。 牛と羊が燔祭で主なる神に焼き捧げられております。 出エジプト記においても、子羊の血によって災いを「過ぎ越す」という概念が登場 しております。過ぎ越し祭の起源ですが、視点を変えればイエスの十字架刑の予型 にも見えます。そしてご説明いただいたイザヤ書などの預言の記述も合わせると、 旧約聖書時代からメシアは罪の身代わりに殺されるものだと決まっていた様です。 復活後の肉体が新しいものだという話は、初耳です。 私のイメージでは、カトリックはゾンビ的な復活で考えているのかな、プロテスタントは もっと霊的な意味の復活で捉えているのかな、という感じでした。 新しい復活体は「新天新地」にふさわしい霊に与えられる贈り物なのかも、ですね。 それを信じて善行に努めるならば、クリスチャンは世の光となるはずです。
@わんぷらす
4 жыл бұрын
たいへん有益でした。ありがとうございました。#ufo7175
@ubuntujackson9133
4 жыл бұрын
この動画で使う「やばい」はいい意味のやばい、悪い意味のやばい、それとも、不思議な意味のやばいなんですか?この動画で伝えたいことはうまく分からないんです。
@sakurahana8056
3 жыл бұрын
たぶん、両方の意味でしょw 信者には良い意味で伝わり、アンチには悪い意味で納得できる。
@Ghost855
4 жыл бұрын
だから欧米人は日本での布教に苦心しているのか。 悪魔の国ってわけか。
@user-1827
4 жыл бұрын
私はクリスチャンです。反対の意見も聞かないと世界が狭くなると思って見てみました。 とてもおもしろかった!切り口が鮮やか!!
@spreano7039
4 жыл бұрын
悔い改めたところで何か罪を犯したっていう事実が消えるわけじゃないでしょ。そもそも罪を犯さない生き方なんてあると思うの?生まれた頃は何もかも真っ白な状態だけど、そこから段々罪を重ねていくってイメージかな。 それと 神に逆らって何が悪い。
@5min913
4 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 我汝汝我spreanoさんは「犯罪」の話をされているのでは、と感じました。聖書で言っている「罪」とは、「原罪」という人間が根本的に持っている自己中心的な性質を表すものであり、この動画で扱っている「罪」という言葉も、「原罪」を指したものです。 その前提をふまえて返答させていただきます。 悔い改めても、「犯罪」の事実は消えません。聖書でも、「犯罪」に対してその国の法律で裁かれることを善しとしています。 しかし「原罪」に関しては悔い改めによって無いものと「みなされる」ことができます。(原罪の性質は、クリスチャンであっても生きている間は皆持っています。死後、完全な姿(原罪の無い姿)で生き返ることを聖書は希望として主張しています。) 確かに、生まれた時は誰も「犯罪」を行っていませんね。しかし「原罪」の性質は持っている、と聖書は主張しています。 「神に逆らって何が悪い」という言葉こそ、自己中心的な原罪を表す見本のような言葉だと思います。それが全ての人間にそもそも入っているのです。 私にも入っています。 毎日の中で、自分中心で生きたい思いがやってきます。 しかし、神が私を愛してくれたため、関係回復の申し出を頂きました。それがイエスの十字架であり、聖書が人類に届いてほしいと願っている内容なのです。
@spreano7039
4 жыл бұрын
@@5min913 残念ながら犯罪の話ではないんですよね。あくまで小さい子供がやるような法律に触れない軽いもの(イタズラしたり、隠れてこっそりお菓子を食べたりなど)を言っています。 誰だって自己中心的な面はあります。しかしキリスト教徒ではない私からするとそれは罪にはならないのではと思います。 ちょっと話が変わりますが、私は、聖書のアダムとイブは神からの最初の解放者なのではと考えたことがあります。何も知らず楽園で暮らしていたらそれこそ神の思うツボ(アダムとイブ含む全ての生物がずっと神に従順)だから、見かねた蛇がアダムたちを助けてあげたんじゃないかと。楽園しか知らない井の中の蛙でいるより、苦しみを与えられても自分たちで考えて知恵や技を磨いたりする方がアダムたちの為になると蛇は思ったのでは?
@5min913
4 жыл бұрын
聖書原語の「ハーター」「ハマルティア」を日本語で「罪」と訳しています。原語の直訳をしますと「的外れ」です。 つまり、聖書で言う「罪」の話は、「的外れ」の話をしているのです。 「的」とは何かと言いますと、神が人を造った目的を行うこと、つまり、神が「善し」と思うことをすることであり、神が「悪し」と思うことをしないことなのです。 その「的」からすでに、性質として外れてしまっていますよ。(自己中心ですよ)と、聖書は説明しています。 神は子供が「遊ぶ」こと、「お菓子を食べる」ことを悪いとは言わないでしょう。しかし、「遊び」が「悪戯」になる時の心や、「お菓子」を「隠れて」食べる時の心を見て悲しむのだと思います。 アダムとイブのお話について、とても良い考察だと思いました。 そのお話はそのまま「蛇を主人公にした目線」だと言えます。 つまり、「サタンから見た聖書物語」です。 蛇(サタン)は、人が神から離れることを喜んでいます。 そして、蛇(サタン)こそ神になりたいのです。 人が自己中心になり、神を必要としなくなり、自分の下に来てほしいと願っている、というのが聖書の主張です。
@spreano7039
4 жыл бұрын
@@5min913 私は神が人と世界を造ったとは思いません。私は、自然や生態系に組み込まれている動植物たちは全て『おのずから成るもの』と考えているからです。多くの野生の動植物にとって神の存在は必要ないと思います。何故なら、このままでは生き残れないと悟った動植物は神に願うのではなく自ら今の状態から進化して生き残ろうとすると思うからです(特に植物) 心の拠り所が必要な動物は人間くらいのものかと。 人は昔から自分よりも強い存在や超人的な力を持ったモノに憧れますから、そうした昔の人々の願いから生まれたのが神々や天使だと考えています(この辺は結構曖昧ですが) それに、神が自ら『私が世界や獣、植物、人間を創った者だから、私を畏れ敬い、崇めて暮らしなさい』なんて言うとはとても思えないんです。 神様ってもっと謙虚で、人間の世界にはあまり干渉せずそっと陰から見守っているイメージだったので、世界史や倫理の授業の資料で聖書やモーセの十戒などを見て、神様のイメージが根底から覆されました。同時にがっかりもしまして、『神様ってこんなに傲慢だったんだ』とも思いました。 子供が「後ろ暗い心」「やましい心」を持って行動することを悲しむってことですね。 それはわかりますが、蛇を悪魔(サタン)と言うのもちょっと違うと感じました。神様の視点では聖書に出てくる蛇はもしかしたらサタンの使い、もしくはサタンそのものなのかも知れませんが。 自分としては、サタンは神の座などどうでも良いのでは?と思います。 話術や妖しい術などで惑わせて楽しんでいる、と考えてます。もし自分が神の座についてしまったらそんな悪戯も出来なくなりますよね? サタンはそれを恐れているだけなのでは? アダムとイブをそそのかしたのも悪戯の一環で、2人が知恵の木の実(一説には善悪の木の実らしいです)を食べることを選択しなければ楽園を追われることもなかったのに、と思っているのではないかと。 これは持論ですが、私は神様がいっぱいいると思っています(八百万の神々) 小さいときからそうなので1人だけの神というのはちょっと実感が湧きません。親や教師にも神様はいっぱいいると教えられ、保育所でプール開きをする時も『水の神様に挨拶して入りましょう』と言われ、小学校の頃に校庭の花壇に芋を植えてそれが育ってたくさん採れた時に『土の神様にありがとうって言おうね』と言われ、至るところに神様がいるという考え方の人がたくさんいる地域で育ちました。長く大切に使われた物にも付喪神(九十九神)という神様が宿ると考えられています。
@5min913
3 жыл бұрын
様々な考察をお聞かせ頂きありがとうございます。 聖書や神というものに対し、感情的、論理的に納得のできる道を探っているようにも感じました。 「納得できる」という価値基準を進めていきますと、実は最後は自分が神になるしかないのでは、と私は思っています。 もし本当に神がいるのだとしたら、人が納得しようがしまいが、神は自由なのでは、とも。 実は私も、聖書の記述に納得のいかない点がいくつもあります。しかし、残された記述に対して「信頼」を置いています。それを「信仰」と呼ぶのだと思います。 「神は愛である」と明確に書かれている点も、信頼を置く理由の一つではありますが。 それにしても、私は神に比肩できる(納得できる)ほど大した存在ではないと自認しています。 色々な考察を受け、考えさせられる良い機会となりました。
@littlemoonlight5696
4 жыл бұрын
聖書初心者です。天使長ルシファーのことが書いてある聖書箇所を教えていただけますか。どうぞよろしくお願いいたします。
@5min913
4 жыл бұрын
イザヤ14:12-15、エゼキエル28:12-19などが代表的な箇所となります。 そこから始めて、「悪魔論」と言われるような体系的な聖書勉強を進めていくことをオススメします。
@littlemoonlight5696
4 жыл бұрын
5min動画 お返事ありがとうございます! イザヤの「明けの明星」というのはマリア様とは関係ないのでしょうか? 色々お聞きしてすみません。
@5min913
4 жыл бұрын
「明けの明星」という通称は、天使長以外にも(例えばイエス自身を表す時などにも)使われています。これは神による大きな栄光を持った者を表す通称だと考えられます。 イザヤ14ではその「明けの明星」(ここではルシファー)の堕天が書かれていますので、それを母マリアとしてしまうのは難しく思います。 また、イエスの母マリアを特別な栄光を持つ者として見るとしますと、傾向としてはカトリック的な信条のように感じました。
@littlemoonlight5696
4 жыл бұрын
5min動画 ご返信ありがとうございました。とても勉強になりました。カト女出身者なので、明けの明星イコールマリア様との思い込みがありました。視野が広がりました!
@user-qr1oz9bp6j
4 жыл бұрын
面白いですね。 動画作成主さん。あなたはキリスト教徒ですか?
@5min913
4 жыл бұрын
はい、キリスト教(プロテスタント)を信じる者です。
@Shoken-shoken
4 жыл бұрын
面白そう!聖書買います
@宗像善嗣宗像
4 жыл бұрын
信仰は、神を、信頼するです。