【ゆっくり解説】古代吉備
21:17
Пікірлер
@jsdafkl80xc-i9mknjqwojxq
@jsdafkl80xc-i9mknjqwojxq 2 сағат бұрын
タンザニア出るのは弥助みたいに歴史改ざんの下準備かもしれないなぁ…
@Prsk102
@Prsk102 2 сағат бұрын
1:05史実であってたまるか (とか言ってほんとに太平記に記述があってみたいな事がざらにあるから困る)
@Lily-pe4id
@Lily-pe4id 4 сағат бұрын
今、逃げ若にハマってて色々資料とか動画とか見漁ってるけど、このチャンネルはまじで好き!!チャンネル登録しました!!これからも活動頑張ってください!!
@user-nq6ox7jr8n
@user-nq6ox7jr8n 5 сағат бұрын
奈良盆地の南... 考えるなら和歌山じゃなく吉野、熊野では
@Sendai_Kid
@Sendai_Kid 7 сағат бұрын
「馬庭の末に生首絶やすな」と言われるくらいだから多少はね
@giantszero6962
@giantszero6962 10 сағат бұрын
水行陸行2つで記される邪馬台国、投馬国への道は水行→陸行なのか。水行or陸行なのか。
@user-ch7kc1ft4r
@user-ch7kc1ft4r 10 сағат бұрын
mmt…結局れいわが躍進するしかないですな。
@giantszero6962
@giantszero6962 13 сағат бұрын
新羅本記の卑弥呼記述は魏志倭人伝(卑弥呼は高齢)との整合性がある! 新羅に侵攻していた倭国軍は邪馬台国でなくて出雲政権の軍隊だったりして。 中国側の史書の馬韓弁韓辰韓(PCで変換できたのに驚いた)の記述に倭国との関係に触れてるのはないのか気にかかるところ。
@user-lr3pw2sj1n
@user-lr3pw2sj1n 16 сағат бұрын
尊氏からは逃げられない、っていうのダイの大冒険のバーンの「知らなかったのか? 大魔王からは逃げられない」みたいで怖すごい
@user-ix1gy7sl1b
@user-ix1gy7sl1b 19 сағат бұрын
腐れ外道だから、新田義貞のような実直な人から見れば、いい顔はしないだろうな〜。過去の歴史で裏切り者、特にエグい騙し討ちをした者は、ろくな死に方はしないだろうな〜※源義朝の件とか…
@p1448
@p1448 23 сағат бұрын
ネタバレ…歴史だもん笑
@user-zv1hd9hy8k
@user-zv1hd9hy8k Күн бұрын
豊臣秀吉を悪者扱いキリスト教徒は可哀想みたいな教えられ方していたから最近はこうした角度で解説してくれるのは助かる。
@bobuGsan
@bobuGsan Күн бұрын
邪馬台国とありますが、元の記載では台ではなく壹という字が使われています。 壹(いち)と読みますがあしには豆という字があるので、当時はトウと読んだ可能性があります。 すなわちヤマトウ国ですね。 これが奈良の大和を指すと考えがちですが、そもそもヤマトは最初は山門だと言われてます。 山が門のように構えている地形を考えると中央構造線によって南北の山に囲まれた吉野川流域を思い描くのです。 これは私の個人的な考えです。 倭国大乱があったとされる時期に瀬戸内海周辺に高地生集落が増えました。 おそらく大乱の中心は山陽地方、四国地方だったのではないかと推察します。 中央構造線の先に奈良盆地が有り、そこが大和になったとはこじつけでしょうか。
@shou-sho
@shou-sho Күн бұрын
『太平記』では直前の巻19で北畠顕家の軍が「民家を襲い、神社仏閣を焼き~草木一本残らなかった」んですよね。 この辺りから、後醍醐天皇方の悪逆ぶりが目立ち始めます。 宗広の最後も南朝の凋落を示唆する物語的描写であって、歴史的事実かどうかは注意深く検討する必要があると思います。
@user-cx5fy4bj6d
@user-cx5fy4bj6d Күн бұрын
嫡男の親朝は後に北朝に転じている😅
@toku206
@toku206 Күн бұрын
むかし、キクドラというラジオドラマで王翦の老後の生き残りの処世術の話を聞きました。その王翦の態度に息子が怒ってたというもの、始皇帝から生き残るための行動を表現してました。・・・題名忘れちゃいました
@megmilk8114
@megmilk8114 Күн бұрын
子孫いるんだってなった…笑
@snack-gon
@snack-gon Күн бұрын
UP主さん、逃げ上手の若君を見てるんですか・・・。 意外でした。
@naoyatahara9208
@naoyatahara9208 Күн бұрын
「逃げ上手」で血や内臓ばらまくシーンはヤバかったな。
@user-um3xi2hh7d
@user-um3xi2hh7d Күн бұрын
お前らよりは遥かにはるかに信用できる。
@pokipokipon
@pokipokipon Күн бұрын
家の前を通る座頭を滅さないよう法度に記されるぐらいだから日本中そんなだったのでしょう。
@user-tf7hq3pg3v
@user-tf7hq3pg3v Күн бұрын
まあ太平記は勝者側に忖度した物語、高師直もボロクソに貶されているし(笑)作者に嫌われていたから2割くらい盛られたとかじゃないのかな?
@user-em7lw6yw2b
@user-em7lw6yw2b Күн бұрын
忖度というよりは作為的というかね。とにかくわかっててやってると思う。
@user-ol1us7xr6v
@user-ol1us7xr6v 20 сағат бұрын
太平記は、どちらかと言えば、南朝方に忖度してますけどね。やった事がやったことだけに、流石に庇いきれなかったとか?。
@user-ut8iv5qb8i
@user-ut8iv5qb8i Күн бұрын
護良親王 読み ⭕️「もりなが しんのう」 です ❌もりよし ではないです
@user-og8kx4ih7c
@user-og8kx4ih7c Күн бұрын
当時の武士なんてどこも軒先に首を掲げるのは当たり前なんだから、結城だけ色々言われるのは完全に作者が嫌いだっただけだろう。
@user-ld6ho8jn2d
@user-ld6ho8jn2d Күн бұрын
いや、当たり前じゃないよ。軒先に首を掲げるってのは最近のネットミームみたいなもん。元ネタは「男衾三郎絵詞」からで、絵詞とあるようにあくまでフィクション、敵役である男衾三郎の残虐性を強調する脚色だよ。
@user-ol1us7xr6v
@user-ol1us7xr6v 20 сағат бұрын
やってる事は、男衾三郎そのものなのに、シリアルキラー扱いされて草www
@user-qx7og5sz2i
@user-qx7og5sz2i Күн бұрын
護良親王の首級は現存しており……ミイラ化した状態で写真に撮られています💦 目と口の黒い穴がなんとも不気味………口を開いた状態で硬直していたわけで、モロに凶相ですよね💦
@user-xk2ol7hv4c
@user-xk2ol7hv4c Күн бұрын
邪馬台国は大和国じゃぼあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーか
@user-qb7hv2kr6x
@user-qb7hv2kr6x 2 күн бұрын
学者が畿内説でネットが九州説なのはなぜ?
@giantszero6962
@giantszero6962 2 күн бұрын
中国語で侏儒とは小人症の意味らしい。 倭人伝を素直に読めば邪馬台国は豊前豊後だし東に海を渡る倭種の国は豊後水道の向こう。 その国から南の侏儒国は土佐中村あたりになるけど高知県は弥生時代前期の遺跡ってあったっけ?
@sakupon2917
@sakupon2917 2 күн бұрын
まぁ、逃げ上手なのは尊氏の方なんだけどな。
@dasu322
@dasu322 2 күн бұрын
副官であれ商人であれ、中華の人間が邪馬台国まで行っていれば、適当であっても里数で表現するだろう。つまり投馬国と邪馬台国については倭人に訊いただけの可能性が高い。 そしてその訊き方答え方によっては、邪馬台国から伊都国へ来たルートを答えている可能性もあるだろう。 また、神武東征においても美々津から水行したように、陸路で山岳地帯を抜けることはあまりしなかったようでもある。 仮に邪馬台国が熊本に在ったとしたら、白川~緑川の辺りから有明海を船で北上して筑後川河口あたりに行きそこから陸路で伊都国へ来ていた可能性はあるんじゃないだろうか。 ・・・というか、放射説・九州説を採る限り、地形的に考えてそれ以外に合理的なルートが見当たらない。
@user-mj7nh1cm2b
@user-mj7nh1cm2b 2 күн бұрын
「太平記」は軍記ものと、言いながら、太平記の記述を出す矛盾。
@user-jf5un8fy5e
@user-jf5un8fy5e 2 күн бұрын
邪馬台国は7万戸、これを無視して語る邪馬台国説は基本的に矛盾が大き過ぎですね。これを過大な数字とする事は簡単ですがあまりにもご都合主義的ですよ。大体奴国と投馬国も大きな国ですがどうするの? 同様に纏向遺跡が邪馬台国な訳がないのです。あくまでも語るなら纏向遺跡は邪馬台国のごく一部にしか過ぎませんよ。
@dasu322
@dasu322 2 күн бұрын
九州山地を境に北部が邪馬台国を中心とした連合国、南部が統一国家狗奴国であったと考えれば、狗奴国が北進した後に東征し大和王朝になったとしても筋は通る。 新興の統一国家は古今東西基本的にエネルギーを外へ向け、領土拡大を目指す。 南部統一後、最初は連合国の中心である西北部を目指し卑弥呼の時代に熊本から侵攻しようとしたが攻めきれず、今度は東に転じて大分攻略を始め、少なくとも福岡県東部の遠賀川周辺までは掌握し、おそらくそこから連合国を放置して東征していったのではないだろうか。 もちろん完全な想像だが、熊本攻略を諦め大分からの侵攻を行った経験から、強国と正面から争うより遠回りでも海路を使ってでも弱小国を併呑していった方が強大になれることを学んだと考えれば、その後の東征ルートにも納得のいく部分が多い。
@user-dh7uv7nb4w
@user-dh7uv7nb4w 3 күн бұрын
この時代好きです 足利義満の没くらいまで続けてほしいなあ
@Saukuu
@Saukuu 3 күн бұрын
逃げ若を最近よく聞くの嬉しい
@user-ys4go3ku7b
@user-ys4go3ku7b 3 күн бұрын
汚名が広がっていたとしても「五大院」の苗字が後の世まで残っていないのが気になりますね。 名を改める話もないのも気になります。そこには、仏教・儒教的な役回りが存在したんでしょうかね?
@niiza722
@niiza722 3 күн бұрын
第二次世界大戦で同盟がまだあったらインド以外のほぼアジア全域領土になりそう でも人権無さそうだから反対で
@yy-gq3pn
@yy-gq3pn 3 күн бұрын
李漂が生きてる説 漂は物語序盤に負った傷により瀕死となったが、命をとりとめる。嬴政は、弟から玉座を奪還した後にお抱えの医師団を遣い王都で治療させたため、漂はしだいに回復していく。 (ひそかに王都の衛兵とするため隠密とした) 政は漂の才覚に目をつけ、蔡沢の護衛とし、漂は各国を渡り成長していく。このころから六将きょうのように仮面をつけ偽名(李蔡)を名乗り、武将として戦場で徐々に名を馳せていく。 蔡沢からの縁で、斉の王建王に斉の将軍として登用される。(王建王は政との会談時に、秦の侵攻を静観する代わりに、漂を斉に連れていくことを取り付ける。) その後は、漂は斉の隣接国との戦の際、第一将として活躍する。 中華統一の終盤に、政は漂を秦の六代将軍に任命し、中華統一を信達と共に成し遂げる。 六将 李信 副将 謄 きょうかい 副将 きょうれい 李漂 蒙武 副将 あいせん 王せん 第一将 王ほん 楊端和 軍総司令 蒙てん
@user-kt3ke4ig7u
@user-kt3ke4ig7u 3 күн бұрын
全部聞き入ってしまった!わかりやすいです!
@user-du8ic5zr9k
@user-du8ic5zr9k 3 күн бұрын
女性天皇までは過去の例もあるし問題は感じないが、女系だけは絶対認められません! 日本の厳然たる歴史を破壊する気か! 何処かからの工作員が送り込まれたら即アウト!
@katumoku10
@katumoku10 3 күн бұрын
よい話題をありがとうございます。 纏向遺跡は卑弥呼が女王に共立された三世紀初頭に突然登場した祭祀・政治に特化した都市です。各地の首長クラスが集まって祈祷などを行っているのです。卑弥呼の倭国と対立する、下で説明する狗奴国(旧奴国)なのです。 纏向遺跡の外来土器に北部九州のものがありません。纏向が倭国ならば伊都国の一大率や部下などが纏向に頻繁に来ていないとおかしいんです。また、前方後円墳の重要な祭祀に北部九州の倭国の人々が参加していないのですから、倭国と対立する狗奴国とわかるのです。范曄後漢書倭伝にも「女王国より東へ渡海千里で狗奴国に至る」と明記されていますので、女王国は九州東部の周防灘に面する宇佐です。卑弥呼の巨大円墳「三柱山古墳」が見つかっています(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。 魏志倭人伝では狗奴国は女王国の南とありますが、政治的な事情で邪馬台国を呉の東方海上にあるとしたいので、嘘が書かれています。南九州に女王国と対立する大勢力など存在しません。邪馬台国への行程記事を帯方郡太守劉夏に書いて教えた人物は、107年に後漢安帝に朝貢した帥升(正しくは奴国宮廷楽師の師升、最後の奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った)の孫の難升米だったのですよ(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。お邪魔しました^_-)-☆
@user-sd7hh7px9m
@user-sd7hh7px9m 3 күн бұрын
逃げ若アニメから来ました。
@show_kazitani
@show_kazitani 3 күн бұрын
護良配下も親王の親政に期待してついていったのに、結局、後醍醐の親政になって なんじゃそりゃって感じでしょうね
@hoyadeno-ro6402
@hoyadeno-ro6402 3 күн бұрын
小説家になろうに護良親王が異世界転生して無双する投稿があって地味に楽しかった記憶。村上彦四郎義光が美少女になってた
@user-db8nm8eg2y
@user-db8nm8eg2y 4 күн бұрын
時行と邦時が安らかに眠れていますように。
@gc8zacc3
@gc8zacc3 4 күн бұрын
この回の動画だと、逃げ若よりもバンデットの方がどストライクですね。おすすめです。ちゃんと完結してほしかったです
@user-mo7ph7uz1y
@user-mo7ph7uz1y 4 күн бұрын
なんでこのゆっくり喋ってる時興奮してんの?
@user-xt3sw1fo5d
@user-xt3sw1fo5d 4 күн бұрын
覚園寺への行く途中にあったから鎌倉宮に何の知識もないまま行ったら、護良親王の土牢あってびっくりした記憶があります。
@user-cx4zg9qn6x
@user-cx4zg9qn6x 4 күн бұрын
子供の頃は”もりなが親王”と呼ばれていた。鶴岡八幡宮のそばに”鎌倉宮”という 所があり、護良親王が幽閉されていた土牢と中先代の変で殺された所がある。 護良と尊氏の不仲により、失脚した時に鎌倉に流したのはひどすぎる。 自分の子供でかつ初期から倒幕を助けた護良と最後の最後に裏切った尊氏 (武士の人気は尊氏だけど)護良を征夷大将軍などでなく、天皇の護衛に すべきだったと思う。それとも、阿野簾子の子供がかわいいせいもあったかも 知れないけど、護良と楠木正成のゲリラ戦を仕掛ければ建武政権はもっと もったけど。
@user-mj3jv4rx5d
@user-mj3jv4rx5d 4 күн бұрын
中国から日本に行く道順ではなく、 日本から中国への道順を魏の官吏が伝え聞いて、それを元に逆算したので、記述通りの道順がなったと思います。 壱岐からわざわざ平戸の方に行く理由がわからない。海流を考えると直接博多に行くと思う。平戸から壱岐に行く方が潮に乗れるので簡単だと思いますが、研究者の方、誰か調査願います。 それだと、出雲から奈良まで徒歩で1ヶ月で行けるのでは?