Пікірлер
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e Күн бұрын
自治会活動をやっているのですが、最近防災問題への関心が高く特に「南海トラフ地震」の警報があってからは従来の「水害」だけではなく(利根川沿いの立地故)「地震」も勉強しています。メインのテーマは「海溝型地震」「内陸型地震」などですが付随してナウマンの発見したフォッサマグマや構造線のことなども知りました。糸魚川・静岡構造線及び中央構造線については、地磁気の変異、名だたる神社の存在、パワースポットとまた別の切り口もあってなかなか面白そうですね。そんな次第で付け焼刃ではありますが勉強の途次で「大谷石」というテーマに出くわした次第です。その生成は今から2000万年前日本列島が大陸から分離する過程で中央部分でポキッと折れてフォッサマグマが形成され、その際にできた地溝帯に海底火山が隆起し噴火、大量の噴石が大谷地区に降り注ぎ、その後該地区は沈下、隆起、寝食を繰り返し「大谷石」が形成されたと考えていいのでしょうか?先生! ライト設計の旧帝国ホテルとの関係も知り、今回も興味深く拝見しました。
@tasomai7430
@tasomai7430 2 күн бұрын
高千穂の動画、とってもよかったです! 行ったことないですが、本当に良い所ですね。 関東なので遠いのが残念。いつかは訪れたいです。 先生の自然体のトークが好きです。
@akihiroba
@akihiroba 2 күн бұрын
高千穂いいですよ!
@tasomai7430
@tasomai7430 2 күн бұрын
おもしろいので、また最初から見直しているのですが、やっぱり新たな気づきがありますね。先生の軽妙で分かりやすい解説と風景の美しさ、控えめで好ましいBGMにいつも癒されています。
@akihiroba
@akihiroba 2 күн бұрын
ありがとうございます!
@kazun90
@kazun90 2 күн бұрын
さいひバスですから、3Qパス使えますよ。
@akihiroba
@akihiroba 2 күн бұрын
そうなんですね!
@user-ud5mp4li7r
@user-ud5mp4li7r 2 күн бұрын
栃木の中心部からあまり離れていないような地区に、こんな歴史を感じられる場所があるとは知らなかったです。今回も面白い動画ありがとうございました😊😊
@akihiroba
@akihiroba 2 күн бұрын
私も最近まで全然知りませんでした💦
@user-dy7or4ec3s
@user-dy7or4ec3s 5 күн бұрын
自身の苗字である田尻の本家が知りたいんですけど、誰かご存知ですか? ひいおじいちゃんが田尻寅松、ひいひいおじいちゃんが田尻民五郎で、2人とも奈留島出身です。
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e 6 күн бұрын
小豆島は小学生の頃家族で旅行に行ったことがあります。今から60年以上も前のことです。ガマガエルのような島の形、オリーブ、ゴマ油で伸ばした手延べ素麺、寒霞渓の猿、大阪城の石垣切り出しなどに加え、映像で紹介された醤油蔵の匂いを思い出しました。素麺といえばもとは大陸からもたらされた食物だったと思いますが今のような油で長く伸ばす製法になった後の産地が播州や三輪などであることも面白いですね。  瀬戸内海沿岸は、四国山地、中国山地に挟まれ昔から水に苦労をした地域で、香川県には弘法大師が掘ったと伝えられる数多くの灌漑用のため池があり、小麦粉食や製塩業も盛んだったところです。 古いことも新しいこともどんどん忘れてしまう歳になりましたが、幼い頃の特定の情景や記憶は鮮明に蘇ります。島は記憶以上に大きいところでした。今回もありがとうございました。
@user-br2dy7ch5v
@user-br2dy7ch5v 6 күн бұрын
知覧資料館には3回行ったことがある。が、やはり特攻というものは非情な作戦であったと思う。また亡くなった乗組員を「軍神」「英霊」と神格化することで国民の批判を逸らしてることにも疑問を持っている。こんなことが現代の日本で起きたらたまらないよ。
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e 7 күн бұрын
高知は小学生の4年間だけですが暮らした第二の故郷みたいなところです。今回はドローンを駆使して立体感のある映像となっており、とても楽しく拝見しました。四万十川の持つ空気感が見るものに伝わってきます。能登の棚田と共に景観そのものが見るものに感動を与える内容です。 高知を含めた四国は成人してからも何度か旅行をして歩きましたが、高知市内もあまり変わらないところもあるように感じました(「御免」行の路面電車他)。 今では首都圏でも皿鉢料理を食べることが出来ますが、太陽の光、食、人の気質とも本土とは組腰異なる風土です。先生の映像記録は、徒にあざとさを求めるところのなくいつも心が癒されます。どうぞ今後ともご精進ください。
@yuyuuchan226
@yuyuuchan226 8 күн бұрын
貝津(がいづ)と言われてますが、「かいつ」と読みます。
@akihiroba
@akihiroba 7 күн бұрын
ご指摘ありがとうございます。
@user-dn5rb5qm8g
@user-dn5rb5qm8g 8 күн бұрын
2年前九州車中泊旅の時寄りましたが、これほど広範囲にあるとは、知りませんでした、知覧地区に入ると異様に感じ、戦争の恐ろしさを体感しました、とてもいい動画です、跳んで埼玉下級市民74歳、
@akihiroba
@akihiroba 8 күн бұрын
ありがとうございます!
@user-ob6nk9jh4h
@user-ob6nk9jh4h 10 күн бұрын
ここも対馬や与那国島と同じく国境の島でもある、海の向こうはもう外国で基地もある
@user-ed3pv8rh6h
@user-ed3pv8rh6h 10 күн бұрын
凄い、夢の島。ありがとうございます😊
@user-wx8oo9vo5v
@user-wx8oo9vo5v 13 күн бұрын
見島のスイカって有名だよ 山口県では😊
@akihiroba
@akihiroba 12 күн бұрын
そうなんですね!
@user-jt9xo3ht8v
@user-jt9xo3ht8v 6 күн бұрын
相島じゃね
@atelier_nemram
@atelier_nemram 13 күн бұрын
非常に稀有な教養深いチャンネルですね。
@akihiroba
@akihiroba 13 күн бұрын
ありがとうございます!
@SGI01
@SGI01 13 күн бұрын
銚子に行ったら 海のもの食べたいよね。 ....で 銚子港周辺の 飲食店は 海鮮産直なのに なぜか 価格が高い。 新豊洲の 千客万来ほどではないが プチぼったくり である。 それでもって 手際が悪いので とても待たされる。 食べると 味は控えめだ。 新宿や渋谷の 飲食店のランチのほうが 安くて旨い。 皆さん 銚子港周辺の 飲食店には 行かないように。
@StudioRAIN
@StudioRAIN 14 күн бұрын
素晴らしい動画だと思いますが、1つだけ気になった点。江戸時代の小笠原諸島は、「むじんとう」ではなく「むにんじま」と呼ばれていたそうです。田中弘之氏の中公新書の「幕末の小笠原」にもそう記載されていました。これ結構重要ポイントらしいので、差し出がましくてすいません。 参考:bonin-islands.world.coocan.jp/PlaceNames_all.html
@akihiroba
@akihiroba 13 күн бұрын
ご指摘ありがとうございます。
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e 15 күн бұрын
萩には学生時代旅行したことがありますが、その際は吉田松陰他維新の人物が目当てで島の存在さえ知りませんでした。当時の記憶をたどれば、松下村塾があまりにも質素であったこと、武家屋敷のたたずまい(妙に夏ミカンの色が焼き付いています)などが印象に残っていて、その時求めた萩焼は今も大事に使っています。 さて、拝見した映像から見島は狭い島乍らテーマ満載で、相互の関係性をどう理解したら良いのか、さしづめ数本の連立方程式を前に腕組みをしているところです。 まず、条里制が敷かれていたということは、日本国の中でも相当早い時期から米作りが行われ、古墳時代後期の積石墓は渡来人由来として、見島のこれが前期の積石墓とすれば更に時代を遡るものでしょうか。 観音堂は寺なのに堂々と多くの鳥居を擁し、神仏分離政策を実行した明治の元勲のお膝元とは思えぬほどに堂々と神仏習合を維持しています。 また、(古仏、取り分け観音像を中心の蒐集を道楽にしているのに「聖観音」という言葉は耳慣れない言葉でしたので)widipekiaを読んでみると、「十一面観音や千手観音など多面多臂観音像ではない一面二臂の観音像」で、かつ「本尊の阿弥陀如来の左持仏ではなく単独で本尊とする場合」を言うとの説明。これで類例が少ない理由が分かりました。 後の謎は現地に行ってみるしか解き様がないですね。
@user-co3xl6re4y
@user-co3xl6re4y 15 күн бұрын
特攻隊の遺書。 勇ましい?内容がほとんど😮当たり前の事と思う。当時の軍部は戦争を続行する事を 考えていたのに戦争を批判するような内容を残すはずがない、同期や友人に直接託され軍部に行かなかった遺書に本心が書かれていると思います。
@user-on4qs3yy7r
@user-on4qs3yy7r 15 күн бұрын
来月大阪から知覧へ行く予定です 予習ができました 見やすく、わかりやすかったです。 有難うございます
@akihiroba
@akihiroba 15 күн бұрын
ご覧いただきありがとうございます。 現地に行けばさまざまなことを感じたり考えたりできると思います。
@user-dg4hw5cr5k
@user-dg4hw5cr5k 16 күн бұрын
当り前だろ、内地感覚·日本軍目線で判断するってことは歴史を知らないってことだな。
@user-dg4hw5cr5k
@user-dg4hw5cr5k 16 күн бұрын
爆弾三勇士などという自爆攻撃や玉砕バンザイ突撃などという、無謀な攻撃は我が皇軍の得意とするところだが、結果戦局を変え戦況に利することもなく、敵に脅威を与えた以上に、日本の異常性と狂気に対するアメリカの攻撃がより激しくなっていった事を思えば、特攻は無駄な攻撃である。よく言われる国を守るためなどと言うのは全くの詭弁で、そもそも国を守るとは国体を護ることであり、国民を守ることではなかったのである。
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e 16 күн бұрын
先日コメントした後、関係する他のyou tubeを覗いていたら青ヶ島海底火山の麓部分の高品位金鉱脈(熱水鉱床)や鹿児島県馬毛島の自衛隊基地化など様々な視点の紹介映像がありました。私は北辺の領土問題については身近に感じて育ってきましたが、先生が足を踏み入れた小笠原、大東、沖縄・宮古・慶良間・八重山等の島嶼部が、我が国の防衛、領海・排他的経済水域に占める存在の大きさに改めて気づかされた次第です。私は先生の訪問対象地選定スタンスについては「敢えて辺境、歴史的過去から現代日本を見つめ直す」というようなものではないかと勝手に想像をめぐらしているのですが(恐らく幾分かは当たっていると思いますが)、海洋国家日本という観点は、当面は台湾有事を含む対china防衛、その後数十年先には海底資源開発というテーマに繋がる,日本の将来の主軸となる切り口のようです。日本人がその生真面目な資質を生かし、数十年先には世界有数の資源大国となっている姿を想像することは、目の前の社会の閉塞感と精神的劣化に対し絶望している老人にとって明るい希望です。 追伸 今の旅をつづけた後5年後位に、上記「辺境から・・・」というタイトルの本を書いていただけませんか?
@akihiroba
@akihiroba 16 күн бұрын
国境の島は島国の日本にとって地理的にも歴史的にも重要で、見ごたえのある場所でした。ただ、本にできるほど自分は崇高な思いをもって旅をしているわけではないですよ(笑)
@user-sg8jp5if6u
@user-sg8jp5if6u 16 күн бұрын
友人が年に一二度 見島に仕事で行き 赤崎旅館に宿泊するそうです。 私は釣りをするので 一度行ってみたいと思っています。
@akihiroba
@akihiroba 16 күн бұрын
見島は釣りスポットとしても有名ですね。 赤崎旅館は自分も泊まりましたが、お魚料理がすごいです!
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e 17 күн бұрын
青ヶ島編の動画を拝見し興味をそそられたので幾つか本を読んでみました。滝沢馬琴の「椿説弓張月」に記載のある島に関する「徐福」「為朝」伝説には随分盛が入っているようですが、執筆にあたっては同時代の戯作者式亭三馬の祖父武幾が八丈小島にある八郎大明神の八代神主であったことから、三馬から直接レクチャーを受けたこと、明治10年には米外交官アーネスト・サトウが八丈島にて青ヶ島の近藤富蔵(近藤重蔵の長男)と面談した記録があること、昭和33年の学術調査では、当時の島内に巫女14名、舎人7名がおり(僧籍は0)、巫女が南島のノロやユタのような役割を生活全般に果たしていたこと、島最大の祭りはデイラホンという仮面劇であり、南島の来訪神、アカマタ・クロマタの影響を強く受けた内容であること、また八丈島、青ヶ島固有の方言も記録されており古日本語との関連も指摘されていること、などの記述がありました。 江戸から三百数十kmも離れた絶海の孤島故、流人にまつわる資料もあり、研究対象としては随分と濃密で奥行きがありますが、小さい島の為話題にはしにくいところです。まだ歩けるうちに是非訪れてみたいですね。
@user-nk2ez1hc2w
@user-nk2ez1hc2w 17 күн бұрын
震災発生時は海外にいた上に、その後関西が長かった人間です(現在は首都圏在住)。先ほど、観光で松島に赴いた際に「津波到達地点」が自分の頭より上の位置であったことに改めてショックを受け、震災遺構に関心を持ち始めました。しっかり、予習します。
@user-qd5vj8zm4j
@user-qd5vj8zm4j 20 күн бұрын
会社員時代の沖縄出身同僚女性に知覧を訪れて欲しいよ、その女性にとっては沖縄戦終結の昭和20年6月23日以外の8月6日(広島原爆投下の日)、8月9日(長崎原爆投下の日)、8月15日(玉音放送の日)は自分に全く関係ないと言い切りましたよ、その終戦の日に向けて沖縄の為に鹿児島県の知覧やその他の特攻基地から多くの方々が十死零生で飛び立つたのにそれすら関係ないと言い切りましたよ。
@user-dg4hw5cr5k
@user-dg4hw5cr5k 16 күн бұрын
そりゃ当然だろ、沖縄は本土のための捨て石、犠牲になった住民がなんで特攻隊を慮らなきゃならないんだ。大和も特攻隊も沖縄を守るための出撃ではない、米軍の兵力を消耗させるための当て馬に過ぎないだろ。当時の住民は米軍から自分達を守ってくれると信じた日本軍に壕を追い出され食糧を強奪され、集団自決を強制されスパイ容疑で虐殺されたのを知らないのか。「日兵逆殺」という言葉を知らないのか。そもそも32軍がいたから住民の四人に一人が犠牲になったのである、本土防衛のために。沖縄住民が特攻隊を有難がる必要がいったいどこにあるのか、まして日本の兵隊さんが犠牲になって沖縄を守ってくれたなどという内地感覚·日本軍目線の感覚を、沖縄出身者に求める感覚は理解できないし、兵隊さんが命を犠牲にして守ってくれたから、今の平和な日本があるなどという、軍国主義の亡霊が彷徨ってること自体が異常である。
@user-ij1gi1bu7j
@user-ij1gi1bu7j Күн бұрын
自分の出身地を捨て石にされたんだから、本土の人間に対して憎しみを持つのも、仕方のないことではないでしょうか? 本土の人間が沖縄の人に対してやった事は、特攻隊の指揮官が「俺も後から逝く」と言っておきながら戦後生残つて、見つからないように名前変えて生きた人(名前忘れた)と同じですもん。
@user-gt1so8oe3p
@user-gt1so8oe3p 20 күн бұрын
カンノンビラといわんだろかんのんだいら
@user-un5nn7kl3h
@user-un5nn7kl3h 21 күн бұрын
平和会館入口に掲げられてる天女に抱きかかえられ昇天する隊員の絵画は名作です。
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e 21 күн бұрын
「猿島」のところで書きそびれたのですが、7-8年前にある新聞社の募集する横須賀、猿島巡りのツアーに参加したことがあります。戦艦三笠の艦内での講演会の後フェリーで猿島に渡りガイド付きの戦跡巡り、その後船で横須賀港内(米軍、自衛隊基地等)を周遊してきました。猿島の港の上空には普段は単独で行動するトビが30羽位群れを成して旋回しており、BBQの焼き肉をかすめ取ることを渡世にしているとの説明、焼き肉のたれによるトビの成人病を心配したことは記憶しているのですが。肝心の猿島の戦跡についてはあまり覚えておりません。但し見学した戦艦三笠のブリッジには弾痕で幾つも穴の開いた分厚い鉄板の切り出しが展示されていて、東郷連合艦隊長官の立ち位置はかくも危険に満ちていたものかと、古武士然とした肖像画の長官の胆力に感銘を覚えたことを思い出します。 今回、先生の動画の中に日本海海戦に先立ち西表島の湾内に長官が立ち寄ったとの説明がありましたが、改めてgoogle earthで島の位置を見ますと、もしchinaの台湾進攻があれば我が国の最前線になることは間違いなく、また視点を変えgoogle earthの南北を逆にしてchina側から太平洋方向を望むと如何に我が国の列島弧が邪魔であるかが分かります。しかし仮に我が国が国難に襲われたとしても、恐らく壱岐の少弐資時のような軍人は現れることがないまま、残念ですが「日米安保条約があるんだから米国に助けてもらえば良いじゃないか」という世論が過半を占めるような気がします。 我が国は先の大戦では極東の非白人の小国が世界を相手によく戦ったと思いますが、むしろその戦後の思想戦において敗北したことは残念で、その相当部分は私のような団塊の世代に責任があるものと思っています。
@kamikaze-japon6142
@kamikaze-japon6142 21 күн бұрын
HQで くだらない民放見るより、100倍ためになる。ちなみに大島は、奈緒 松本若菜が出演してたドラマ ファーストペンギンの撮影場所だったような・・たぶん
@user-yb7mr3gr6c
@user-yb7mr3gr6c 22 күн бұрын
五島と佐世保、長崎間は30ノットの高速船と45ノットのジェットフォイルが航行している。どうなるんだろう。
@empuzz55quattorokyojuro
@empuzz55quattorokyojuro 22 күн бұрын
地元民ですが浦賀の「う」にアクセントを入れて話す言葉にどうしても違和感が・・・ どちらが正しいのは分かりませんが浦賀の「が」にアクセントを入れた話し方が9割方のスタンダードです。 細かい指摘ですみません🙇
@akihiroba
@akihiroba 19 күн бұрын
申し訳ないです。
@user-im8mj2dh8t
@user-im8mj2dh8t 22 күн бұрын
今後もしもの時の逃げ場所にもなりますよね
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e 22 күн бұрын
終戦の日の新聞には例年の如くこの日の意義を述べる記事が紙面を飾っていましたが、私には裏千家千玄室氏(特攻生残り、100歳)の、英霊への敬意を淡々と語る寄稿文あたりが一番しっくりする様に思いました。国家が若者と交わした約束を、事後さかしらの後講釈を以って反故にする行為を取りながら、現代の公共心の欠如をあげつらうことは矛盾しているように思います。この点なども戦後の精神世界が目をつぶってやり過ごしているところではないでしょうか。続いて8月16日付の産経新聞「竹島を考える」のコラムには拓大名誉教授の下條正男氏の文章が掲載されていましたが、中国海警船による尖閣海域の挑発行為が開始来215日目にして今回の台風の影響で中断したことを文永、弘安の役での神風になぞらえた解釈、またタイトルの竹島に関する記述では、李承晩が竹島を占有した際対馬の領有権をも主張していた事実なども紹介されておられました(本旨は、事大主義をキーにした朝鮮、中国との関係性から「竹島解決こそ中国に抗する道」というテーマ)。 さて、動画中のGHQでも破壊できなかった遺構を見て私が思い浮かんだのは、戦後占領下でGHQが行った焚書のことでした。対象図書は7000点以上に及び、国体を論じたものからハワイ島真珠湾爆撃に先立ち潜入した日本軍人の調べた港湾施設や戦艦の配置図、従軍した下級兵士の手記まで内容は多岐に及んでいますが、これら図書を選定するにあたって当時失職していた多くの日本知識人が雇用され、秘密裡に文部省通達により廃棄を指示していたというものです(民主主義国家はこのような行為を恥じていましたし、協力した日本人もその経歴を恥じ語ることが無かったため、西尾幹二氏が「GHQ焚書」シリーズ(全12巻)を発行するまで多くの人は知らなかった)。神田古書街のみならず地方の古書店にはこれら図書が驚くほど廉価で書棚に収められているのに出くわします。先生が今回紹介された破壊を免れた戦跡遺構、そして米国から焚書に指定されながら古書店の書棚に潜んで新たな発見者を求めている古書、どこか似た運命とは思われませんか。
@siriuscomp
@siriuscomp 23 күн бұрын
北大東島シリーズから拝見しましたが、とてもコンパクトで分かりやすい解説の動画が素晴らしいです。 もう現地に行った気分になりました。ありがとう!
@akihiroba
@akihiroba 23 күн бұрын
南北両方とも見ていただいてありがとうございます!
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e 23 күн бұрын
私のサラリーマン生活の振出しは札幌でしたが、当時若手は市内の他に北海道内の地方を担当するのが習いで、私の場合は留萌、稚内地方を担当しました。月に1回の地方出張は当時自己運転で監視役もいないものですから、夏場はゴルフ場巡りをしたり、留萌から羽幌にかけての国道沿いに続く砂浜で、嵐のあと海中の昆布林から放り出され浜に打ち上げられたナマコを拾ったりと楽しい思いもしましたが、冬場は過酷な旅で殊に留萌、稚内間の海岸沿いの幹線国道は強風と吹雪による吹き溜まり形成で不通になることもあって厳しいものがありました。当時地元の人は冬場隣町行く際には車に食料と毛布を積んで出かけていたものです。この地方は冬季間の気温も低く、晴天では路面はつるつるのアイスバーン、これが吹雪になると道路と路肩の境が全く見えなくなり、主要道路の路肩には10m位おきに左右交互に設置されたポールの路肩の位置を示す矢印により路幅の見当をつけるようになっているのですが、吹雪が激しくなるとこれすら視認が難しくなり、時には車が路肩の雪の壁(除雪作業により垂直の壁になっている)をザザーと掠りながら走行したこともあります。こうなると自分で気づかない内におでこをフロントガラスにくっついてハンドルを握っていました。こうした事情から冬場の北海道における交通事故は、正面衝突など重大な結果になることが多く正に命がけです。  道民が融雪を待ち焦がれるのは、サクラやコブシが一斉に咲くこと、山菜取採りの楽しみなどもその一つですが(ヒグマも同じ)、路面のスリップや歩行時の転倒リスクから免れ、除雪作業をしなくともよいという喜びなども背景にあります。石炭の油煙にまみれた残雪が一部路面に残る季節ははた目にはいただけない景観でしょうが、春を待ち焦がれる人々には喜びに満ちた季節でもありました。 経由地の羽幌には仕事のお付き合いから、プライベートでも漁船をチャーターしての釣行(北海道の「タイ」に相当するソイ狙い)や、焼尻、天売島の観光などいろいろ楽しい思い出がありますが、今回映像で紹介されていた羽幌炭鉱には結局いかずしまいでした。出張の際定宿にしていた駅近くの旅館は田舎町にしては格式のある建物でしたが、これなどは羽幌炭鉱の経済力が背景にあったのかもしれません。 留萌、増毛、羽幌のゾーンはかってニシン漁が盛んだった場所で、番屋跡も残されており、北前船と身欠きニシン(京都のニシンそばの素材)、魚油を絞った後の魚かす(河内地方の綿花栽培に使用された)、そして昆布(沖縄のコンプ消費量は全国一)などもからめると色々お話したいこともあるのですが、またの機会に。
@user-ud5mp4li7r
@user-ud5mp4li7r 23 күн бұрын
さらりと「都道241号線~」って言っておられますが、私の想像する都道と全く違う風景…😂 しかしキレイな景色ですね😊
@akihiroba
@akihiroba 23 күн бұрын
独特の雰囲気や景色をもった島でした!
@user-de5cx4tb9i
@user-de5cx4tb9i 23 күн бұрын
どの動画でも思いますが、本当に健脚ですね。
@akihiroba
@akihiroba 23 күн бұрын
メタボってるんで、歩くペースは相当遅いですよ💧
@ru-to65ps-rock29
@ru-to65ps-rock29 24 күн бұрын
素晴らしい動画でした(^_-)-☆
@akihiroba
@akihiroba 24 күн бұрын
ありがとうございます!
@user-ey7eh9sp7k
@user-ey7eh9sp7k 24 күн бұрын
地元の者です。昨日数十年ぶりに行って来ました。戦死者の言葉で一番心に響いたのは「俺も今度は小鳥になるよ」でした。
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e 24 күн бұрын
沖縄を旅行者として尋ねると米軍基地の存在があまりにも大きく、また本土とは異なる食や景色、産物など異国風の印象につい心を奪われてしまい、わが身を振り返ってみると本来の沖縄の根っこの姿に眼を向ける機会が足りなかったように思います。しかしこの度の琉球王朝の遺跡を訪ねる旅を拝見し、その組み立て方からして流石先生らしい沖縄に対する視点と興味深く拝見しました。 「日本人が何処から来たか」とか日本に残る民俗風習との関係などの視点からは沖縄は外せない場所ですが、残念ながら私はこれまで、西郷隆盛を通じて近世における薩摩藩との関係や、柳田国男の古日本語との関連の考察くらいしか資料を読んだことがありません。  映像の中で、御嶽の箇所を拝見した時、ふと「倭国大乱」の頃の倭の諸国の祭政一致の政治体制ってこんな形態だったのかな、と思ったりしました。勿論、風土や仏教、稲作文化の移入時期、武士階級の台頭の有無など我彼の条件は大きく異なりますし、琉球の場合はChinaにも二重に朝貢していたようですからその文化的影響も大きく受けていると思いますが、映像を見ますと何処か日本人の精神の根底にあるアミニズム的精神や神社崇拝と通じるものを感じました。 余談になりますが、前職時代の同期生で今も親しくしている男が某大学に入学した1968年は本土復帰前で、彼は「琉球政府留学生」という身分で学生生活を送ったという話を聞いたことがあります。復帰後もう50年も達ったにもかかわらず米国との関係はほとんど変わることなく続いています。
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e 25 күн бұрын
独自の視点から日本を見つめ、体験する旅行記の制作に対し、一日本国民として深く感謝申し上げます。いつの日か国民が、この国土において先人たちが1万数千年の間弛まず育んできた民族の記憶に思いを致し栄華の夢から覚醒するその時まで、末永くご活躍されますことを祈念しております。
@user-yc6sg5wh8m
@user-yc6sg5wh8m 25 күн бұрын
わたしの実家、自動販売機の映った家 玉留屋といいます、兄が亡くなってからしばらく帰ってません😅
@mayu3128
@mayu3128 28 күн бұрын
父が横須賀で育ち、祖母は浦賀辺りの出身だったと記憶しています。現在の街並みや歴史建造物が見れて興味深かったです。登録しました😊これからも動画作成頑張ってください!
@akihiroba
@akihiroba 28 күн бұрын
ありがとうございます!
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e 28 күн бұрын
鋸山は20年ばかり前の釣行の際海岸から見上げたことがありましたが、今回の動画を拝見し、膨大な数の石造群と日本寺寺域の広さに改めて驚きました。 西暦660年百済が、同668年には高句麗が滅亡し統一新羅が成立した後、わが国には多くの朝鮮系渡来人が、養蚕、機織、土木、銅・鉄の精錬技術を携えて渡来したことが、日本書紀の天武朝、持統朝の条に記録されています。 日本寺の開祖とされる行基はこれら朝鮮系渡来人の内「秦氏」(京都・太秦が本貫)の末裔で、晩年は聖武天皇から東大寺建立の責任者に任ぜられた人物としても有名ですが、関東には高尾山の薬王院など行基が開いたとされる寺院が多く存在し、これら秦氏系渡来人の精神的支柱であったことが伺えます。また日本寺には聖徳太子信仰の痕跡が残されていますが、広隆寺を建立した秦一族の秦河勝は聖徳太子との縁が深いことから、これも秦氏系統の影響かもしれません。 千葉県には、今でも利根川の砂州には群馬県の磁鉄鉱鉱脈を源とする砂鉄が取れ、また数多くの製鉄遺構が存在しますが、これら金属の精錬技術は上記渡来人がもたらしたものとされています。房総には「金谷」「金山」「鍛冶谷」「金糞(草)」等の製鉄に関係する地名、祭神を製鉄神とする神社が多く残されており、古代では製鉄が盛んにおこなわれた地域であったことが分かります。鋸山との関係では登山口にあたる富津市浜金谷に、720年創建とされる金山神社があり、「鉄尊様」と呼ばれる古代の製塩窯が祭られていています。 上記のような日本寺・金山神社の創建時期の近似性、渡来系製鉄・鉱山技術者とのかかわり等から、日本寺創建には有力な鍛冶氏集団が関わっていたことが推測されます。 一方、製鐵には大量の木炭を消費するため、鍛冶氏は森林資源を求めて移住を繰り返していました。中世になるとこの地域の製鐵遺構は見られなくなり、日本寺は神仏習合の修験道が盛んにおこなわれるようになりますが、山伏と鍛冶師は密接な関係にあり、鍛冶師が鋸山を去った後もその一派がこの地に留まり、その鉱山技術を使って房総石の採掘に活躍したことが伺えます。近世に至る膨大な石造の宗教遺物はこれら技術者の寄進によるものではないでしょうか。 日本寺はその後衰微の道をたどり、第二次大戦中は軍の要塞になりますが、盛時の大伽藍には及ばないものの戦後は再建が進み現在に至っています。 以上、日本寺の辿った変遷の歴史、稲作・単一民族という日本の基調文化とは対立軸にある、山の神、山岳宗教、渡来人による金属精錬、鬼伝説、縄文的なるもの等日本文化のもう一つの極がこの地域に詰まっており、とても勉強になりました。 追伸 今回、ネット検索をしたところ千葉大学井上孝夫氏の「房総地域の山岳宗教に関する基礎的考察」「金谷神社大鏡鉄の由来について」の2論文を読むことが出来ました。金谷神社神宝の由来や里見氏と鍛冶師との関係についての記述もあり参考になりました。
@user-ud5mp4li7r
@user-ud5mp4li7r Ай бұрын
ちょうど高知に行こうと思っていて、主さんの動画を見てたら高知の旅のがあったので視聴しました。五色台の行き方、わかりやすくて嬉しいです。 そして主さんの動画では数少ない車の旅でちょっとびっくりしました😂いつも面白い動画ありがとうございます。
@akihiroba
@akihiroba 29 күн бұрын
ありがとうございます! ただ、動画に出てくる五台山の展望台は今は新しいものになっています。
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e Ай бұрын
今から50数年前の夏休み、高校の同級生5人で1週間利尻島、礼文島を歩きました。当時小樽・利尻島沓形間は小型の貨客船(第1宗谷丸の前。1993年廃止)が就航しており、夜小樽港を出発、増毛、留萌沖ではイカ釣り船の漁火を望みながら翌朝沓形港着、波もなく快適な船旅を楽しむことが出来ました。沓形では蝦夷バフンウニを胸が気持ち悪くなるほど食べ、礼文島では高山植物が咲き乱れる桃岩を経て、元地にキャンプの準備をしていたところ漁師の好意で番屋に泊めていただき、浜でメノウ拾いを体験しました。 この度、映像で桃岩や元地海岸の変わりない景色を拝見し、当時帰宅後縞メノウをペンダントに加工して同行した女子にプレゼントしたことなどひと夏の青春のほろ苦い記憶を思い起しました。
@user-nb6yt4ny5e
@user-nb6yt4ny5e Ай бұрын
1950年小樽生まれで20歳過ぎ迄小樽で生活、現在は首都圏に生活しています。 小樽市の現在の人口は10.8万人前後。私が中学生だった60年代半ばには20万人を超え小樽のピークの時期でしたので凡そ当時の半分、過去を遡ると大正9年の水準にほぼ見合うまで減少したことになります。石川啄木が故郷渋民村を追われるように出村し、函館そして実姉の夫、山本某が駅長をしていた関係で小樽日報の記者の職を得て小樽に来たのは1907年(明治40年)。「悲しきは小樽の町よ 歌うことなき人々の声の荒さよ」とうたったのはこの時期の小樽です。 1960年代はまだエネルギー源は石炭の時代、ビデオでも紹介されていましたが道央の炭鉱で採掘された石炭が小樽港から国内各地に輸送されていたため、港には鉄道貨車の荷台部分をひっくり返して貨物船に直接積み替える「トランスポーター」という巨大な機構が港の中央部分にあって美術の時間写生のモデルともなっていました。またこの頃の各家庭の冬季間の暖房燃料は石炭で、秋口になると馬喰が2輪の馬車にカマスに入れた5t前後の石炭を積み、各家庭の石炭小屋に運ぶ様子が、季節が冬に向かう景色となっていました(馬糞風も懐かしい―風が吹くと乾燥した馬糞が舞い上がった)。石炭は灯油に比べると油煙成分が多く、この時期根雪になっても町は薄く黒く汚れていました。運河の埋め立て論争が起こったのもこの頃です。整備前の運河は船舶関係の商社、漁具などの問屋が少数残っていましたが、水面にはメタンガスがぷくぷくと湧き出し、時には死体が浮いていたこともあり、夜子供は近づいてはいけない治安の悪い地区でした。 にしん御殿青山別邸の所有者青山家の5代目をはじめ、高校の同級生には地元経済人の跡取りが大勢いましたが、ほぼ全員親の後は継がずサラリーマンの道を選びました。 世の中がスクラップアンドビルトで旧跡を葬り去り、その上に新たな繁栄を築いた時代にあって、二周遅れで社会から取り残され、今盛時の歴史遺産を見世物にして唯一の産業としている小樽の町には、やや屈折した心情が沈殿しています。 それでも、昔親と共に山に入ったころのことが忘れられず、GW明けのころには山菜採りの為だけに帰省するのを習いにしています(熊には用心しながら)。 因みに私の母は戦前になりますが尋常小学校奉職時代、以下投稿にある石原家の次男裕次郎の担任でした。我が家には兄弟の記念の品が残っています。
@ru-to65ps-rock29
@ru-to65ps-rock29 Ай бұрын
最近の島の様子見れて、良かった(^^♪随分道が整備されたのだな~と感慨深いね~up有難うございます。(^^)/
@akihiroba
@akihiroba Ай бұрын
ご覧いただきありがとうございます!