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@user-uq4he1he5g
@user-uq4he1he5g 17 сағат бұрын
年代論ですが、庄内期の開始期と布留式の開始期(ホケノ山古墳築造期?)の鏡種、特に庄内期初期の鏡種はどう言う物がありますか? 北部九州との並行期との比較になるでしょうが。   ちなみに私はホケノ山古墳は4世紀の第一四半期の終わり頃の築造と考えています。  それは徳島県の萩原弥生墳丘墓から4、50年?後の築造と言われているからです。
@izumiyaroqji
@izumiyaroqji 22 сағат бұрын
【奈良】 ●高麗系の古墳が多い。 高松塚古墳、キトラ古墳 ●高麗系の武器が多い。 鉄や馬 ●北部九州の鏡の文化圏が見受けられる ●【奈良】 朝鮮語→国という意味 奈→願うという意味。良→良いの意味 ●高麗系の人と、北部九州の人で造った国の可能性あり。
@user-rl1tu5du3r
@user-rl1tu5du3r Күн бұрын
共立でも自生でも良いが 畿内説の支持者は 他の邪馬台国候補地の事に無知であることが多い。 長年、奈良県立橿原考古学研究所員であった関川氏もそう述べています。 纏向が最大の邪馬台国時代の遺跡でもないし 箸墓、あるいは仮に最大の古墳を含めても邪馬台時代最大の建造物でもない 何故か? 西暦240年±築年の鑑定がある 太宰府羅城は、 周囲50キロを超す版築の壁での総構えの城だからだ 戦国小田原城や、江戸城の縄張りより大きいのだ。 よく畿内説が、最大の古墳やら最大の遺跡が有るから畿内に列島最大の勢力があったいう論法をいうが、 その論法で言えば、邪馬台国時代、古墳や纏向とは比較にならない断トツの巨大建造物の太宰府羅城があった北部九州が 列島最大の勢力が居たと言うことになる。 そして、その時代、支那のテクノロジーである版築の壁による巨大建造物を建造するのは、それこそ、魏の使者の関与が強く疑われるのである。 当時の邪馬台国連合や倭だけで、 古代日本の歴史でも隔絶した巨大建造物で大要塞の太宰府羅城を、 支那のテクノロジーの版築工法で築造するのは、 経験もノウハウも無い可能性が極めて高いからです。 3世紀前半から中葉に、邪馬台国連合は狗奴国と戦争しており、そのため魏国の軍事顧問団が来訪しているので当然想定されうる。 そして、羅城の福岡平野側の水城から、反対側の宝満川まで、運河があったと考えられる。 それは、航空写真から見ても明らかだろう また、 大和朝廷の物部氏の祖先のニギハヤヒかニニギと目される人物なのが 魏志倭人伝に記述されている。 伊都國の官 爾支(ニギ・ニキ)である。 伊都国は一大率という機関で女王国以北の諸国を監察しており、 また航海の際は持衰が航海に随行し、厳しく監視されており、航海が失敗すれば殺されることもある宗教的・祭祀的価値観での掟もある。 そのように魏志に記述されている、 一大率の役割とは、警察権・検察権と、祭祀的神官としてのマージといえる。 それは、大和朝廷での物部氏の役割そのものである。 そのため、邪馬台国時代に既にそのプロトタイプがあった事が強く示唆されます。 魏や西晋が、未来の大和朝廷の物部氏や、その役割を知る筈が無いし、 大和朝廷の物部氏が祖先をニギハヤヒとしていることも、未来のことなので知る訳が無い。 そのため、魏志倭人伝でニギハヤヒかニニギ目される爾支と一大率が、 後の物部氏と同じ役割を果たしている事が記述されることは、 簡単なモデルで説明すると、 抽象概念となるが 極めて多い面を持つサイコロが2つあり、2個のサイコロ共に3回続けて任意の面(数)が出る確率と同じと言える。 ①爾支 ↔ニギハヤヒ(名前の一致)      AND ②一大率↔警察権・検察権(役割の一致 その1)      AND ③持衰から↔祭祀的・宗教的関わり(役割の一致 その2) つまり、事象の発生確率として 確率の最大値/上限値(必然に起こる事象)の数を1とするなら、 AND(〜で且つ)で、事象が3重であり、3回続けて 2つの超多面体(巨大数のサイコロ)の同じ任意の面(数)が出る事なので 1÷(①の確率 ✕ ②の確率 ✕ ③の確率) で表せる。 そして、その発生確率は極小となり 偶然の一致の確率は、極度にあり得ないと言えます。 つまり、それは逆説的に、 当事者にしか知り得ない秘密の暴露となっており、 それらの記述の客観的証明となってしまっています。 投馬國の官 彌彌も天忍穂耳尊と名前から同一人物の可能性が考えられるが、 事象の一致が、幾重になっていないので敢えて採用しませんでした。 何故なら、 共通の一致事象が3重のモノと、共通の一致が重ならない(一重)のモノでは、発生確率は3重の方が、少なく見積もっても1/10000以下であり、逆に言えば1万倍以上そのような偶然の一致はあり得ないとも言えるからです。 そして、それらから、 ニギハヤヒなりニニギは九州におり、そちらを本拠にしており、 畿内にはまだ移動していないと考えられる。 それより遅いと考えられる、神武東征もそうです。 そして東征の時期や事実も疑義が生じる。 それらの事や、邪馬台国時代の鉄器出土や人口分布から、畿内は後進国であり、そのような後進国が倭の代表に共立なり連立されて推挙されるなど問題外といえる。 そのような纏向なり奈良の後進国が先進地域の九州や丹後半島・高志に政治的影響力を行使するなど、あり得ない レベルだし、 先進地域がそのような後進国の言うことなど聞く訳が無いのである。 ちなみに、自分は九州説推しというわけではないし、九州説で決定的と言っている訳でもない。 ただ当たり前の事を言っているだけです。
@user-dq3yq4lf3n
@user-dq3yq4lf3n 2 күн бұрын
まぁ邪馬台国が九州にあったらただのローカル政権だったって事だし畿内にあったら当時から日本列島にデカい政権があったってだけでしょ。日本人的には畿内がいいが九州説なら「大した話でもなかったな」で終わる話。
@master.t2910
@master.t2910 2 күн бұрын
大変面白く話し方も面白いです。そして説明も分かりやすいので気に入りました。 これからも楽しみにしてます。
@user-mx7ku4nd8c
@user-mx7ku4nd8c 6 күн бұрын
どこまで合ってるかは別として歴史の教科書より面白く視聴させて頂きました。優れモノだと思います。
@rosemary50650
@rosemary50650 8 күн бұрын
宮内庁が「天皇陵」の学術的調査を認めない理由は何であろうか。その答えを具体的に言えば、「天皇家の祖先」が「朝鮮半島から渡って来た証拠が出て来る恐れ」があるからだという。日本の歴代天皇の中で最も活躍した天皇の一人「桓武天皇」の母 高野新笠(たかのにいがさ)は、百済の名王 「武寧王の後裔」であることは日本史の常識になっている。ちなみに、「桓武天皇」は朝鮮系天皇「天智天皇」のひ孫である。 歴代天皇の中で最も活躍したとされる天皇「天智天皇」「天武天皇」の母「斉明天皇」は、「朝鮮人豪族 吉備王朝」の出である。吉備王朝は、朝鮮式山城を根城に、大和王朝以前 倭国最大の勢力をもっていたという。吉備には、大和王朝以前としては、日本最大の古墳があるという。従って、「天智・天武は朝鮮系の天皇」であるということになる。「白村江の戦い」で、百済救援のために、斉明天皇の後を追って、天智が3万人に近い兵を送ったということは、「百済と倭国は姻戚関係にあったからだ」と金達寿 佐々克明 洪思俊<扶余博物館館長>らは述べている。 西暦663年、「白村江の戦い」で新羅にやぶれた百済から五万人が渡来したという。このことに関して、司馬遼太郎は「百済 国ごとの引っ越し」と語っている。「日本書紀」によれば、天智天皇は、当時の亡命者を、近江の蒲生郡あたりに3000人近く住ませ、無償で農地を与え、官食を三年間も与えたという。百済の高官66名が政務次官なみに登用され、「法務大臣(法官大輔)」「文部科学大臣(学頭職)」になった人もいる。西暦667年、「天智天皇は都を近江」に移している。「額田王の父 鏡王は 近江の蒲生郡に住んでいた」と言われている。 額田王が天智の妃なったことと、くしくも、額田王が朝鮮人であったことは、天智による近江遷都には朝鮮の匂いをただよわせるものがある。額田の義母 斉明天皇が朝鮮人であり、斉明天皇の子供(天智)が朝鮮系の天皇であり、その妻が朝鮮人であることは、「近江」と「朝鮮」の関係の深さを彷彿とさせる。百済人が倭国へ亡命したのは、亡命以前から、倭国と百済には縁戚関係が成り立っていたからである。日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、「白村江の戦いの敗北で渡来した百済人」で、彼らによって「日本という国号」がつくられた。 「大化の改新」は、藤原鎌足(百済の渡来人)を筆頭に、安倍内麻呂 金春秋 高向玄理などの渡来人によって行われた。また、「藤原不比等」は鎌足の子で「大宝律令制定」の中心メンバーであった。不比等は「本妻の娘を文武天皇」「後妻の娘を聖武天皇」の妃とさせ、藤原氏の基盤を築いた大人物とされている。アジア古代歴史学会の会長 上田正昭らの対談集によれば、「日本書紀」は「百済人を主軸に書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されている」という。 「天皇家と藤原氏は、血縁的に見れば、また遺伝子的に見れば、区別がない」という。天皇と藤原氏の娘の子である天皇が、藤原氏の娘の子を次の天皇にしていくということを繰り返したので、天皇家固有の「血」などはなくなったのである。つまり、「天皇家と藤原家は一体」である。藤原氏は強大な政治力をもち、実質天皇とも言える実権をもっていた。梅原猛は「奈良の都の政治は不比等の独壇場であった。不比等の下に集められたのは、智謀豊かな、法律、歴史に詳しい朝鮮人であった。」と述べている。 「高句麗」や「百済」にも天孫降臨の神話がある。これは「天皇家朝鮮起源説」を裏づけるものであるという。天皇の礼服の紋章には円形の中に「八咫烏」の刺繍が施されているという。「八咫烏」は「高句麗」のシンボルである。従って、「天皇の始祖は高句麗」にあるという説がある。「八咫烏」は日本古来の文化ではなく、直接的には朝鮮から渡来した文化である。 ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催された。アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開され、「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」との記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、日韓の天孫はいずれも山頂に降臨しており、共通点が多いと主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘している。日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。 京都産業大学文化学部国際学科の井上満郎教授は、韓国の檀君神話と伽耶の首露王は、日本神話に登場する天孫ニニギと同じような要素を持っている。「日本の天孫降臨神話が朝鮮半島系ということは疑う余地がない」と述べている。また、韓日天孫文化研究所所長のホン・ユンギ氏は、「日本の建国神話は、天孫が降臨する檀君神話を織り交ぜて作られたもの」であり、「三種の神器」も「三種の宝器」として「檀君神話」に登場すると述べている。日本の代表的な民族学者 東京都立大学の岡正雄教授も、1949年に、これを認める発表をしているという。 学者ならぬ凡人にでもわかることは、日本にも朝鮮にも、「仏教」以前からあった「神道」の存在である。「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れが日本にもあるということになる。弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道をもちこんだ」のはごく自然な流れでしょう。「天皇家が古代から現在に至るまで神道を一貫して信奉していることは、天皇家が朝鮮由来の姿を留めている現れ」である。 「天皇家のルーツが朝鮮半島」にあることを示すものの一つとして、志賀島の金印「漢倭奴国王」の時代から、志賀島周辺が朝鮮半島南部の国の支配下にあったのではないかというのがある。6~7世紀に新羅によって滅ぼされた百済から大量の渡来人が倭国に亡命してきたが、彼らが倭国への侵略者に転じなかったのも、すでに確立していた同胞国家である大和朝廷に迎え入れられたからであると言われている。百済からの渡来人にとって、倭国が本拠地になり、渡来人は新しい国づくりに邁進し始めたのである。 「蘇我氏(朝鮮渡来人)」は、六世紀後半には今の奈良県高市郡明日香近辺を勢力下においていた。飛鳥が政治の中心地であったことは、「蘇我氏が政治の実権を掌握」した時代以後、飛鳥に「集中的に天皇の宮がおかれるようになった」ことからもうかがわれる。朝鮮の渡来氏族がいかに大きな力で日本国を牛耳っていたかがわかる。「蘇我氏は皇室との姻戚関係を深めて政治的権力を強化」した。物部氏を滅ぼして国政の主導権を握った。「用明、推古などの蘇我系の天皇」を擁立した。渡来人によって「日本」という国号が作られ、「天智・天武・藤原氏などによる国家体制」がととのえられ、「大化の改新」「大宝律令」などによる新しい国造りが始められた。 実質天皇であった「蘇我氏」「藤原氏」が渡来人であったことは、彼らとの姻戚関係からしても、日本の天皇は朝鮮系の人であったことは明らかである。弥生時代以後、倭国の住民の90%以上が朝鮮渡来人であったことからしても、天皇の出自がどこにあるか自ずと知れるのである。大和朝廷の構成員は、トップスター「蘇我氏」「藤原氏」「秦氏」らがすべて渡来系氏族であるからして、職員は一人残らず渡来人であるとするのが自然であろう。その構成員の長たる天皇がいかなる存在にあったかは押して知るべしである。
@rosemary50650
@rosemary50650 8 күн бұрын
宋書に記された倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」と叙授された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武を指します。「倭の五王」の遣使(世修貢職)の記録が『古事記』、『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代からありました。「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇・・・倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されますが、このうち421年の倭王讃による遣使は東晋に対してですが、425年から477年までの倭王珍・倭王済・倭王興は、いずれも南宋に対するもので、479年倭王武の遣使は南斉対するものです。五王の朝貢年は中国史書からは明らかですが、記紀には(東晋・南宋・南斉の首都・建康(南京市の古称)への)朝獻記録がまったくありません。このため遣使年に在位していた天皇名を推定することで終わっています。具体的なきめてに欠けているのです。 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6。 佐伯有清 編『雄略天皇とその時代』吉川弘文館、1988年2月。ISBN 978-4-642-02145-6。 安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3。 安本美典『大和朝廷の起源』勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8。 直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0。 森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』山川出版社〈日本史リブレット 人 002〉、2010年4月。ISBN 978-4-634-54802-2。 上田正昭『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか−縄文から倭の五王まで』新潮社〈新潮選書〉、2012年12月。ISBN 978-4-106-03720-7。 河内春人『倭の五王−王位継承と五世紀の東アジア』中央公論社〈中公新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-121-02470-1。 瀧音能之『「日本書紀」と「宋書」で読み解く!謎の四世紀と倭の五王』青春出版社〈青春新書INTELLIGENCE〉、2018年8月。これらは今やみな骨董品 です。 私は梁書と三国史記を対比して、王名とその遣使年に一致があることを遂につきとめました。双方の資料に集中して分析してみました。 *[---]の中は日本書紀に出現する表記名。 宋書→梁書=百済の諱と王名=日本書紀の表記名 「賛」→須=(餘・須・第14代・近仇首王):[貴須王] 「珍」→余映=(餘映・第18代腆支王):[直支王] 「済」→餘慶=(餘慶・第21代・蓋鹵王):[加須利君] 「興」→牟都=(餘都・第22代・文周王):[汶洲王] 「武」→牟太=(牟大・第24代・東城王):[末多王] *第二章三部後小論に(「倭の五王の後裔」・稲荷山の鉄剣などに詳述) ・梁書では倭の五王の後の二代まで書かれている。これは何を意味するのだろうか。百済王系譜、その連続性と一致する。このことは倭の五王が百済王であることは如実に語っている。もはや否定できないといえよう。 「隆」→餘隆=(第25代・武寧王・(斯摩)(「嶋君しまぎみ・嶋郎」→億計天皇に比定、その状況、父を殺されたことや、また弟が先に天皇になった経緯が近似している。嶋郎は弘計天皇と同母、母は荑媛(はえひめ・書記、これは倭王武と倭王隆が同母であること。嶋郎が先に生まれていることを示します。)
@user-ke4wb2xn5q
@user-ke4wb2xn5q 10 күн бұрын
物を作らせ大陸との交易を拡大するさせる。師升の話もその頃のことだろう。当然鉄器製造のため大陸人も雇ってきます。 日本のことを知らない渡来人が渡るとすれば一番得をする国にでしょう。 当時なら北九州と出雲 どちらが目立つ存在だったか? 規模なら出雲でしょう。 更に偶然にも目立つ要素を持っていました。 それが出雲神殿 不気味なほど高い馬の様な塔でした。民間人は役人が日本を倭国と呼び始めたことは知りません。言葉も片言、発音も難しく、まだまだ理解しきれていません。 だから勝手に俗称をつけます。 それが邪馬台国です。 だから 日本に来たものの多くが 邪馬台国=出雲=日本の首都=日本 みたいな感覚があり 王、女王はそこに棲むと錯覚したのでしょう、。 現実的に 当時の日本はどの郷もシャーマニズムがインフラだったため あちこちに巫女が用意されていました。 だから奴国にも出雲にも葛城にも卑弥呼はいたわけです。 ただスサノオが郷長になってからは 占いに頼らない実力主義になり出し 大陸文化の習得、鉄器制作や米作の開発がされます。 国譲りがありました。 このとき大国主は出雲に不在でした。 何処にいたのでしょう。 答えは大和です。 尾張とつるむことが多くなる大国主は行き来をすることで奈良盆地をしります。 そこで米作りに適した地を知ります、 それまでは葦原になる様な湿地帯や 沼、浅い湖畔のような場所で水稲は栽培されていました。平地に作っても水を運ばなければいけないため、収穫が少なかった。 ただスサノオが鉄採掘で出た土砂を使い小川沿いに棚田を作ったことで 簡易湿地が出来、現地での食料需給が可能になったこと、平野部みたいに川面と地面に差があるところより 山間部の小川周辺の方が 水に苦労しないことが分かり 一気に米作りが内陸化、小川が流れる山際に移ります。 臼状の盆地はまさに米作りに最適だったわけです。 勢いをつける大国主。 諏訪まで勢力を伸ばしていますから、相応の場所、国の中心に居を構えたくなるでしょう。 そういう意味も有り 大和に遷都したと思います。 英雄色を好むで現地の巫女を現地妻にもするでしょう。 大国主の名も出雲の王という意味ではないはずです。 さてこの情報を50年後に聞いた大陸人はどう思うか。 邪馬台国が移ったように見えませんが? 当時は交易が少なくとも 大国主になって往来も少なからず増え朝貢の土産の鏡が大和からたくさん出る理由にもなります。 偶然にも大和に邪馬台国が重なったわけです。 大国主は崇神で討たれて大物主として祀られます。
@user-ke4wb2xn5q
@user-ke4wb2xn5q 10 күн бұрын
倭国王帥升は大国主でしょう ヤマタノオロチ征伐で東海まで統一したスサノオは九州にも勢力を伸ばす。それを奴国の卑弥呼、アマテラスが漢から金印をもらうことで、出雲の侵攻がなくなる。 ただアマテラスは死に次のシャーマンが決まらず、スサノオも歳を取る。スサノオの後を大国主がつくと更に出雲は勢力が拡大する。 国引き、各地から出雲に移住させ
@keeperofthe7keyspart
@keeperofthe7keyspart 11 күн бұрын
1:31:00 よく言われる「纒向遺跡から北部九州の土器が出てない」は「古い資料であり最新の研究成果が反映されてない」ということがもっと周知されるとよいですね。 きちんと参考文献を提示してのまともな畿内説の解説動画を久々に見ました。 というか歴史の解説動画は全般的にちゃんと参考文献を明示する人は少ないのですが… これまで見てきた畿内説で出色だったのはニコニコ動画でみたゆかりさんが語る日本古代史くらいかな。
@channel_gas_mania.
@channel_gas_mania. 13 күн бұрын
麻がよく生えるから千の葉で千葉かあ
@user-wk8ih7im7d
@user-wk8ih7im7d 20 күн бұрын
卑弥呼はいないと思う。
@user-jq4eb4se6g
@user-jq4eb4se6g 20 күн бұрын
福岡在住。 身近に遺跡があり、この 話しは、おもしろかった。 ありがとうございます。
@masakiu4666
@masakiu4666 20 күн бұрын
面白すぎワロタ
@user-sy8gb1kh2g
@user-sy8gb1kh2g 21 күн бұрын
昔は、邪馬台国は 大和国と読みが通じるので、近畿説が妥当だと思っていたが、 帯方郡から、狗邪韓国まで7,000里で、邪馬台国まで12,000里と有るから、九州説が妥当だと思う。
@masamasaict7312
@masamasaict7312 22 күн бұрын
是非とも東日本も検証して。よく考古学と文献資料を検証しているが、記紀に囚われるとどうしても西日本だけを見てしまう。極南界と言っているから鹿児島。長い。もっと小分けにして。ミステリー事件簿の日高見国説をどう思いますか?女王国、東日本説。私は常陸国説6割。
@user-gl4gr3lu1u
@user-gl4gr3lu1u 25 күн бұрын
とても 興味深い 良い動画だと 思います。 伊都.志摩 と 伊勢志摩 同じ地名が 沢山 あります。 八咫鏡が 何故 伊勢神宮に 奉納されているのか? その ヒントに なり得る 動画でした。
@majesty164
@majesty164 24 күн бұрын
史書上の伊勢神宮創祀伝承に該当する時期の王である崇神、垂仁や、倭迹迹日百襲姫の兄弟である吉備津彦に"五十"の名が見られることも示唆的ですね。 イト、シマが北部九州から畿内を経て伊勢、志摩にコピー的に遷された可能性は大いに有りそうです。
@user-lc7qr3yt3x
@user-lc7qr3yt3x 26 күн бұрын
奈良盆地は海がないから。
@user-rf7gw8ty6e
@user-rf7gw8ty6e 28 күн бұрын
阿波を中心とする四国の渡来人(ヤマト王権)が神武天皇東征の際、既に機内には別の渡来人の国があり、戦になったと記載されている…。一度は敗れたものの、南回りに熊野からの迂回進撃で勝利した後、まだ渡来人がいない未開の飛鳥地方に新たなヤマト王権を打ち立て現在に至る…。最新の縄文系と渡来系のDNA研究からも明らかである…。
@metabo850mm
@metabo850mm 29 күн бұрын
房総半島北西部には白山神社が多い。そして古墳と貝塚も多い。これは偶然では無いと思う。 縄文時代後期頃から河辺に定住する人達が増えたらしい。海から遠い集落に塩を届ける商業集団が現れたのだろう。ビニール袋も紙袋も無い時代に塩を運ぶのは困難だから、魚介類か海藻の塩干物だったと想像する。 貝塚はその産業廃棄物集積所でもあった。 この白山信仰は、縄文時代から富士山を目印に活動していた海人族に由来する独自の物か? 伊豆半島にも白山神社は多い。
@metabo850mm
@metabo850mm 29 күн бұрын
房総半島南部には、諏訪神社と浅間神社が多いんですよね。私はこの神社は黒曜石と関係があると想像しています。 神津島の黒曜石も房総半島に直接運ばれたかもしれません。神津島から伊豆半島へ運ぶより、房総本島の方が黒潮の流れに乗れば運び易かったでしょうね。
@user-uz2wn6zi8n
@user-uz2wn6zi8n Ай бұрын
畿内説支持者がそんなに多いのか? 10%くらいかと思った。 畿内のわけがないのに笑 まぁそもそもあったかどうかも怪しいけどね笑笑
@metabo850mm
@metabo850mm Ай бұрын
Q:なぜ奈良盆地が? A: 丹後半島では新羅に近すぎたから。
@user-ks8lw3fs7l
@user-ks8lw3fs7l Ай бұрын
素晴らしいけど長すぎるし、寝てた。 海沿いに住んでたら、海外からヤバイ人達がいっぱい来て殺されるか奴隷にされるから、内陸部の奈良盆地に逃げてきた。が正解じゃね。 茂木先生も、大航海時代のアメリカのような「北斗の拳」のような時代と表現するけど。 本国に居ずらくなった犯罪者、追放者、迫害されてる人、DQN、ド貧乏人、敵前逃亡兵士、王に殺されそうになった大商人、本国に戻ったら処刑される王族とか、あるいはフン族の大移動で押し出された人みたいな外国人がやってきて、原住民を虐殺・迫害・奴隷化し、都市国家を形成して神を自称する「北斗の拳」みたいな状況だったから、弥生・縄文の原住民は内陸部や山岳部に避難していったんじゃないかな。
@user-qb8gw8ko9q
@user-qb8gw8ko9q Ай бұрын
倭は、稲を作る人!元は 委で、わこくでなくイコク。
@user-bh9dn3tg9v
@user-bh9dn3tg9v Ай бұрын
47:30 この頃の倭というのは儒教精神上の徳の高い国として想像された存在が始まりで、初めは実際の国でも何でもなく想像上の物でしかなかったという説があります。それがいつの間にか実際に倭の国が出来上がります。自称だったのであればその得にあやかってつけた、大陸側の呼称なら徳の高い国から端を発しそれをそのまま九州勢力に当てはめたか。 朝鮮という呼称も同じで初めは特の高い国という設定上の物だったという同じ説があります。これは後に名は忘れましたが大陸から朝鮮半島に渡ったものがその得にあやかって名前を拝借し自称したのが現実に存在した朝鮮という国の始まりになります。もう読まれているかもしれませんが、詳しくは中島信文の「古代中国漢字が解く 日本古代史の虚偽と真実」という本にあります。
@user-rd2wg4cz6k
@user-rd2wg4cz6k Ай бұрын
そうなんですよね。 海外とのアクセスに手間の掛かる畿内では畿内在住の人々は百年一日の如きゆっくりのんびりこじんまりと暮らしていたのでしょう。 縄文期の太平洋沿岸部でさえ海の外から人が来る経験則を持っていたわけで、黒潮大蛇行時に大きく入り込む海域、薩摩大隅半島や四国足摺岬、室戸岬、紀伊半島南岸、房総半島東岸等は断続的に漂着民や海洋民族の補給地として"外人"と接触していたと推察できます。 が、近畿はと言えば、近畿に漂着する前に何処か他に漂着しそうな、極めてアクセスの悪い位置にあるのがポイントですよね。 そしてそのポイントこそが1番のアピールポイント。 九州北部で海外の国家と対峙しながら紀元前数世紀から勃興を繰り返ししていた先進地域九州北部の原始国家だからこそ国防の観点から更なる国家の発展には海外アクセス困難地域の畿内こそ最適地に見えたのでしょう。 多分それに気づいたのは丹波も出雲も同じ。 一族の緩慢な移動を開始したのは丹波出雲の方が早いように思います。 あらま、 主さんの面白い考察に乗せられて長文になりました〜どうぞお許しを〜
@GeorgePDancejr
@GeorgePDancejr Ай бұрын
出だしから間違ってますね。
@majesty164
@majesty164 Ай бұрын
最新の考古学的知見を全否定するとそうなるのですね。
@katumoku10
@katumoku10 Ай бұрын
とても深い内容で勉強になる動画をありがとうございます。 当時の出土品で最も重要なものは青銅鏡ではなく玉璧の破片です。これは周代の子爵の王標なのです。奴国王が呉王族だった証拠なのです。三雲南墳丘墓や朝倉市峯遺跡からも破片が出土していますので、奴国王族だったと推理できます。奴国王の初代三代は吉武高木遺跡の王墓に葬られています。 宋史 王年代紀 初代王天御中主、二代目王天村雲尊、三代目天八重雲尊とその王妃や王族たちの墓です。天村雲尊の墓から三種の神器が出土しています。四代目天聞彌尊(あめのににぎのみこと)が祖父から三種の神器を受け取り、周辺を平定して奴国の領域を広げたのです。天孫降臨神話のもとになった史実です。 奴国の王宮が春日市須玖岡本遺跡に遷り、比恵・那珂遺跡群に列島最大の交易センターを作り、奴国は隆盛になりました。シルクロードの東端の倭国の珍しい産品を求めてやって来る楽浪郡などの華僑に交易の権益を確保してもらうために後漢光武帝が奴国王に金印を与えたのです。第16代沫名杵尊の時です。その子伊弉諾尊と玉類を作って交易していた日本海沿岸の縄文海人ムナカタ族との婚姻によって、倭国の重要な輸出産品を奴国が抑え、ますます隆盛になっていきます。しかし、そこで落とし穴があったのです。十八代王スサノヲはムナカタ族と鉄の産地の半島南西部や玉の生産地丹後半島に出かけて、奴国の王宮を留守にすることが多く、たまに帰還したら奴国の伝統的な宮廷祭祀を任せていた師升らに、縄文式のバカでかい銅鐸を導入しろと命じたので、師升らは反乱を企ててスサノヲが戻ってきたところを捕らえて、倭国王になりすますために金印の在りかを白状させるためにスサノヲを拷問したようです。古事記にその様子があります。しかし、スサノヲの部下がいち早く金印を持ちだし逃亡の途中で志賀島に埋めたので、結局スサノヲは殺されます。 弟ニギハヤヒと王子イタケルらが出雲に逃亡します。 ニギハヤヒは裏切り者の吉備の勢力を討ち、奴国を再興しますので、第十九代天照大神尊とされ楯築王墓に葬られます。楯築神社のご神体が亀石と呼ばれる弧帯文石ですが人の顔があります。人面蛇体は中国(なかつくに)三皇五帝神話の筆頭天皇伏羲と同じなのですから伏羲の末裔だという物証なのです。天皇のルーツを発見しました(;^ω^) イタケルの子孫は出雲と丹後半島で鉄のネットワークを作り旧奴国(狗奴国勢)に供給して強勢になります。出雲・丹後王国(八束命・日高彦・大国主高野御子、魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗は王の襲名、豊岡市久久比神社祭神、記紀の武内宿禰、日向三代神話のモデル)です。 一方師升の倭国は半島の混乱で交易が廃れ衰退しますので、八束命と日高彦が倭国大乱で活躍しますが、日高彦が戦死して、王を喪ったムナカタ族の赤坂比古が倭国王難升米に懐柔されて狗奴国を裏切り、卑弥呼を外交上女王に立てて狗奴国と対立します。 鉄の供給を阻まれた狗奴国王卑弥弓呼(ニギハヤヒ大王の子孫)は吉備から纏向に王都を遷し、旧奴国勢力を集めて倭国追討軍を送ります。 ここから先に経緯がありますが、かいつまんで言うと卑弥呼の死後に大国主が外交上13歳の台与を女王に立て、魏を後ろ盾にして狗奴国と対立し、列島主要部を手に入れますので、後世大国主と呼ばれます。 そして狗奴国王は大国主を討って日本を統一しますが、大国主の神託によって大国主と台与の子をヤマトの祭祀王にします。初代応神天皇としてヤマト王権が成立するのが三世紀末です。台与と大国主の鎮魂のために箸墓と桜井茶臼山で立派な前方後円墳を築造し両親の鎮魂祭祀をします。 ざっとこのよう経緯で日本が建国されたと突き止めました。詳細は「刮目天の古代史」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
@user-in1zj1ry9f
@user-in1zj1ry9f Ай бұрын
コンピューターでもっといい音が出ないものか😂
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n Ай бұрын
卑弥呼以前と卑弥呼以後でガラリと国情が変わる。。。 それ以前は、圧倒的に北部九州の発展ぶりが際立っている。。。圧倒的にね それ以後は、いきなり「奈良盆地」が中心地になっていく。。。いきなりね 「卑弥呼の時代」に明らかに画期がある。一体そこで何があったのか? そこが正に「邪馬台国論争」の浪漫だろう。 主の様に、考古学的成果を時間的に空間的に丁寧に繋げて歴史を紡いでいくのが考古学のロマンでもある。 続きが楽しみだ。
@user-di2sd1tu6n
@user-di2sd1tu6n Ай бұрын
中々骨のある番組に行き着いた! 「邪馬台国」ものはキャッチ重視の妄想系が多いのに辟易していたが、 本稿はキチンと史実と考古学的成果を押さえているから見応えがある。 かつ論証に無理がなく蓋然性が高い。。。私自身の知識の不足分を補いながら時系列で整理できるからかありがたい!
@ChianMindoSagi
@ChianMindoSagi Ай бұрын
次回見たすぎて発狂しそう😵‍💫
@ingdjr5573
@ingdjr5573 Ай бұрын
昔の動画消えた?
@user-li8tz6fs1t
@user-li8tz6fs1t Ай бұрын
大変参考になります。ありがとうございます。
@lungham5667
@lungham5667 Ай бұрын
金印は『漢が奴国王に委任した証し』にしか見えないです。勝手に属国扱いしやがって、って志賀島辺りに捨てたかも。
@user-sc2xl9do2c
@user-sc2xl9do2c Ай бұрын
今までこんなに発掘資料を詳しく解説してくれた動画はなかったです。 北部九州在住なので今まで装飾古墳しか見に行った事ないけどとりあえず糸島の歴史博物館行ってきます! それと、大分県の日田市から出土した鉄鏡について曖昧な説しか聞かないのですが、どう思われますか?奴国や伊都国との関係はあるのでしょうか?
@mhp4g
@mhp4g Ай бұрын
土地勘ないかもしれんが、この時代は四天王寺や夕陽丘の向こうは海や。今の地形じゃない 上町台地越えたら、法隆寺があってその向こうに奈良は案外すぐやで
@user-tk1kn4em6e
@user-tk1kn4em6e Ай бұрын
銅鐸が大型化したのは盗難防止のため?
@hoakarikusitama6573
@hoakarikusitama6573 Ай бұрын
美濃の養老町周辺は、出雲色が濃厚に漂います。
@hoakarikusitama6573
@hoakarikusitama6573 Ай бұрын
鉄遺物も豊富ですが、手賀沼、印旛沼の草根鉄で低温製鉄を行っていたのではないでしょうか?
@hoakarikusitama6573
@hoakarikusitama6573 Ай бұрын
「神門」古墳群はとても興味深いです。美濃に神戸、合渡という地名があり、また、出雲口伝が西出雲王家名を「神門」臣家と伝えていますから、銅鐸も出土しているし、それら相互の関係性を追求してみたいですね。
@tibon0218
@tibon0218 Ай бұрын
オモシロイいい内容でありがとうございます。非常に残念なのはナレーションが聞きにくくて
@user-tk1kn4em6e
@user-tk1kn4em6e Ай бұрын
出雲に八十神が集合して国の統合が始まっていたのを神武(スサノウ)がクーデターを起こして乗っ取ったから八十神達は安全な奈良に集合して統一国家が始まったのでしょう。
@user-ml8ri3np5k
@user-ml8ri3np5k Ай бұрын
古代奈良湖の東側に山野辺の道があり、そこに五世紀の前方後円墳が築造された。纏向遺跡は湖が干上がってから 箸墓古墳も干上がってからではナカロウカ
@clubgon
@clubgon Ай бұрын
動画更新助かります。ありがとうございます。
@user-sz6hl5tp9f
@user-sz6hl5tp9f Ай бұрын
最近近畿説に対してめちゃくちゃ風当たりつよいけど、わざわざ近畿説の動画作るの本当にすごい
@nubo520
@nubo520 Ай бұрын
凄いな・・・うp主の考古学・歴史学の知識は官製考古学者のそれを凌駕している。邪馬台国論争は「何処にあった。」と言う卑近かな結論に終始してしまいがちだが、うp主が描いている物は遠くは紀元前から3世紀以降までの日本の支配構造と半島・大陸まで含めた政治情勢まで考古学資料と金石・文献資料まで巻き込んでの東アジアの総合的デザインだ。おみごと。
@mastakos2400
@mastakos2400 Ай бұрын
これはすごく詳しいいい動画。次の動画も楽しみにしています。 個人的主観ですが魏志倭人伝の邪馬台国への最後の道程「水行十日陸行一か月」は神武東征での熊野までぐるっと回って水行十日、熊野から陸路で大和まで陸行一ヶ月を引用して書いたんじゃないかなと妄想しています。