Пікірлер
@鹿糠孝徳
@鹿糠孝徳 24 күн бұрын
最高です。感無量。😅
@yujikawakami808
@yujikawakami808 Ай бұрын
一度アメリカを一叩きしたあと有利な状況で和平を結ぶ、このシーンよく出てくるよね、この諸悪の根源が米内か、この考えが終戦を遅らせた。成美が正解
@kenta-z3e
@kenta-z3e 2 ай бұрын
正直言って、1946年に蔣介石が根本中将を引き止めていたら、中華民国は国共内戦を制して中国大陸と台湾の両方を統治できていたんじゃない?
@ミヤBGM
@ミヤBGM 3 ай бұрын
素晴しい
@アリノママ
@アリノママ 4 ай бұрын
井上成美氏、カッコいい! 晩年の30年は、人間として最高の生き方であると考える。 ❤😂🎉
@岩崎昭彦-x8h
@岩崎昭彦-x8h 5 ай бұрын
😀🙏根本博将軍のTVドラマ、観たいです❓❗日本🇯🇵台湾🇹🇼友好親善の為🗾
@黒組一番
@黒組一番 5 ай бұрын
また朝日新聞の手先かそんなこと昔から知っとるわ、今さらほじくりかえすなよ、左翼の手口か手先です
@佐野田孝
@佐野田孝 6 ай бұрын
山本が名将か愚将かと問う前に、愛国者か売国者かを問うべきだ。 国力の圧倒的に違う米国に対して、やってはいけない宣戦布告のない真珠湾攻撃を敢行した。ルーズベルト政権とその背後で政権を操っていたユダヤ国際資本は日本との戦争を切望していた。しかし米国民世論の反対で出来なかった。これが日本海軍の真珠湾奇襲攻撃で世論は反転した。山本はルーズベルトたちが望んだ日米戦争の口火を切ってくれたのである。 しかし、自然と日本軍が開戦の契機を作ったのではなく、事前の対日工作で準備されていたのである。近衛政権の周辺や海軍中枢部に多くの裏切り者を育成しておいたのである。海軍ではいわゆる三羽烏と言われた、米内、山本、井上らを中心に日本売国集団が形成されていった。これらの人間たちが、真珠湾奇襲攻撃で開戦のきっかけをつくり、ミッドウェー海戦でわざと負け、日本敗戦を方向づけていったのである。 80年近く経ってもアメリカ軍の日本占領は続き、自衛隊はその指揮下にある。その軍事的強制力をてこに、アメリカは日本の政治・経済・文化を支配下に置いている。そのため歴代の自民党政権はアメリカの指示に従って政治を行ってきた。 経済的な面だけに絞ってみても、国民から徴収した税金の大部分が国民のために使わずに、大量の米国債の米国製の武器購入に使われている。このため、日本国民の貧困化はますますひどくなり、多くの若者は満足な仕事にもつけず結婚できない人間が激増している。 特に、最近の問題は日本人絶滅政策の浸透である。これらもアメリカの強制がうかがえる。コロナ毒ワクチンの強制接種で日本人を殺し、減少した人口の穴埋めに外国人の移民を増やしてきている。このように過去の米内、山本、井上たちの行動が、いかに現代日本を窮地に落とし込んでいるか、日本人は心に刻むべきである。
@リカを捨てた乙骨
@リカを捨てた乙骨 6 ай бұрын
楠本高子めちゃくちゃ塩顔美人で好きすぎるわガチで
@玉置清二
@玉置清二 8 ай бұрын
GHQと升田名人の話は、何度聞いてもスカッとする
@asaichban9842
@asaichban9842 8 ай бұрын
軍人の本分である戦には弱かった、本人も認めている この人は何もしてない 海軍評論家ですね まあ終戦と同時に自決でもしてりゃ評価も変わったと思う 終戦後のうのうと30年も生きてたとはね
@草莽-b6d
@草莽-b6d 5 ай бұрын
同感。 のうのうと生きた上に、オノレの所業言動には口をつぐんでの、 「あいつが悪い。こいつがダメだ」 「陸軍軍人の失態は、陸軍だから悪い。海軍軍人の失態は、海軍の中にもヘンなのがいたのてそいつ個人が悪い」 のポジショントークのオンパレード。 ある人間を評価する場合、そいつ自身が触れて回っている実績よりも、そいつが隠そうとした事実にこそ 「そいつが何ものであるか」 がよく現れる、 ………と言うのは、史学の原則なんだそうだ。 ・強い政党敵視と軍部大臣現役武官制賛成 ・百一号作戦 ・航空本部長時の無策 ・第四艦隊司令官時代の無策 ・クェゼリン事件 ・海軍クーデター容認論 ・総理大臣暗殺計画への関与如何 等々等々オノレの所業と無作為について一切語らず、他者の批判にのみ終始している実績皆無な小役人なのだ。 勝つ役には立たぬが負けるのには積極的な軍服官吏がこうまで持て囃される御時世というのも下らぬものだと、いつも思っている。
@paul3251
@paul3251 9 ай бұрын
動画の中にあったように、役割=奇跡がいくつかありました。日本に帰国していた根本中将の元に台湾からの使者が辿り着いたこと、GHQの統治下に釣り船で台湾に辿り着いたこと、牢屋に入れられた根本中将に気付いたことなど、あまりにも奇跡が重なり過ぎて、事実は小説よりも…だと思います。最後に、羽田に降り立った根本中将が釣り竿を肩にタラップからおりてくる姿は映画を見ているようだ。家族には釣りに行ってくると言って数年も帰って来なかった根本中将の心境は如何に? また、瀬島龍三とは違い、多くの日本人を救ってくれた根本中将は正に軍神だと思います。
@九州男児-v4d
@九州男児-v4d 9 ай бұрын
陸軍で立派な軍人… ピンとくるのは、今村均くらいかなぁ
@cowboym941
@cowboym941 9 ай бұрын
金門戦役、この戦いには旧帝国海軍駆逐艦「雪風」が国民党海軍総旗艦として参加してたらしい
@yamatakehu
@yamatakehu 10 ай бұрын
堀 悌吉が残っていれば
@azu4688
@azu4688 10 ай бұрын
早期決戦早期講和という目論見がミッドウェー敗北で破綻して次の一手はどうすんの、てところで戦死するのはズルいと思う。
@七色屋平八郎
@七色屋平八郎 11 ай бұрын
この方達は、御英霊として敬い語り継ぎたい。
@user-puipui_tonkeys
@user-puipui_tonkeys 11 ай бұрын
昔は高く評価していたが、今では大東亜戦争を負けにおいこんだ最低の愚将だと断言します。唯一、航空きの優越性を証明した事が善行ですかね。単なるバクチ屋です。戦略的視眼が欠けていまた。特に真じゅわん攻撃はアメリカ参戦のきっかけを与えてしまった。
@user-puipui_tonkeys
@user-puipui_tonkeys 11 ай бұрын
再生回数が少ないのは、根本博の紹介動画サイトが他に沢山あるからだと思います。しかし私が見たところでは、このサイトが一番くわしく紹介されていたと思う。ゆっくりシリーズは史実に基ずいて再現されていて、とても参考になります。大本営のバカさかげんが現在の増税メガネとかぶります。
@芝鯖ロン
@芝鯖ロン 11 ай бұрын
自分には到底無理な話ではあるが男ならこういう生き方をしたいものだ。
@こんどうかずなり
@こんどうかずなり 11 ай бұрын
井上は言っていることは立派だがやっていることが低劣。つまり、言行不一致。そして日本を敗北に陥れた戦犯である。①戦域の拡大。陸海協定を無視して、ソロモン諸島、東ニューギニア、ギルバート諸島への進出を強硬に主張して行った。ガダルカナルで知られるように、これらの地域への進出は国力の限度を超えており、餓死病死者12万人におよび、海軍航空や艦艇を消耗し、船舶を多く失った。ガ島の敗北も井上が中間基地づくりを省いて進出したため。②中部太平洋の防備不備。マリアナ諸島やパラオ諸島など中部太平洋方面を担当したが、全く地上防備施設整備しなかった。このエリアの準備不足は致命的だった。井上は天皇への上奏では「完全に整備しました」と言っている。サイパンは陸軍からも施設整備要望があった。担任地域には陸兵を入れさせず海軍の楽園と化し、繁華街ばかりだった。③統帥一元化に反対。日本の統帥は陸海で二分されていて統制されていなかった。それが重大な敗因。陸軍は一元化を海軍に提案したが、井上と米内が反対して実現しなかった。井上は打合せすら欠席し、天皇には「陸海が相争う方が成長します」と述べている。④敗因とは言えないところでも、徴兵年齢の引き下げや専門学校教育の短期化は井上の主張によるもの。モラル面でも、旗艦艦上で戦時に吹奏楽に演奏させて井上司令部は昼食を取っていた。風流なのか。トラック諸島では料亭「小松」に軍服ではなく絽の羽織で連日通っていた。女将は愛人であるというし、小松に支店をださせたのは井上だという。ガ島で餓死者続出の時期である。井上は口先は立派だが行動に誠実さがない。知識も現場の役に立たそうとしていない。現場軽視でエリートさえ良ければよい、というエゴイスティックさがある。陸軍大将は終戦時6人自決したが、海軍大将の終戦自決は0人である。軍人で0人はひどい。井上大将には重大な敗戦責任がある。
@草莽-b6d
@草莽-b6d 11 ай бұрын
全文同感。 結局、自分の不手際や過失には口を拭って、誇大な自賛と他者批判だけは達者な男。 頭が良くても、そのアタマが自己保身にしか向いていない男。 要するに典型的な小役人根性の持主。 そんな根性で海軍の省利省益を図っただけの男。 クェゼリン事件についても言及してほしかった。 部下でもあり教え子の父親でもある者を己の不作為で刑死に追いやり、かつ何も動こうとはしなかった。 言うことはご立派だが行動が低劣という一つの事例ではある。
@みかえら-p4h
@みかえら-p4h Жыл бұрын
ロサンゼルス五輪の、バロン西が参加した馬術競技の、他の参加者の状況など、 他の動画ではわからなかった情報が色々 語られていて、とても良かったです アスコット号の事もよくわかったし 私は、硫黄島で米軍が、バロン西に投稿勧告したと思っています 武子夫人と同じように…
@みかえら-p4h
@みかえら-p4h Жыл бұрын
竹一さんの母君が正妻ではないのは知っていましたが、女中さんでしたか… 父君は外交官で活躍なさってたとのことですが、 竹一を跡継ぎにすると決めて、実の母君を家から出すって… 昔の大家の男性は勝手だ… 成人してから、母君と再会できたのは良かったけど、涙を流す母君に対して、無感情な竹一… この人の出生から育ちの複雑さを感じ、なんだか切なくなります
@yamabiko8015
@yamabiko8015 Жыл бұрын
オランダが日本に牙を剥かなかったのは・・・やはり戦国時代の鉄砲王国っていうのが頭にあったのかもな。
@kaisermuto
@kaisermuto Жыл бұрын
たしか対馬にはイギリス艦隊、米国、オランダ艦も行ったはず。
@遠藤直樹-z3o
@遠藤直樹-z3o Жыл бұрын
全ての前提として大いなる勘違いがある(笑)。 実は西欧はその帝国主義最盛期でさえ大して強くなかったんだよ。 例えば清帝国やムガール帝国、オスマン帝国は老衰期、死にかけの老人国家だった。だから勝てたってだけ。いや、それでも勝ってなんかない(笑)。清もオスマンも結局は自壊しただけ。西欧の何処の国が清、オスマンを征服したの? ムガール帝国の場合も衰退分裂、藩王の内紛に巧みに付け込んだだけ。 イギリス・インド帝国はインド人藩王達の協力に支えられていた。 アジアでもアフリカにおいても、西欧帝国主義国は「点(都市)」と「線(交通路)」を押さえてただけ。しかもアジア人アフリカ人の協力で。当時のアジア、アフリカ人には民族主義の考え方は無かった。 だいたい、イギリスは海洋国。強大な陸上戦力を持たない。そんな国が強いワケない。薩摩の野蛮人(笑)どものほうが強いだろな。
@R.Sakurai
@R.Sakurai Жыл бұрын
少年の頃に、朝日新聞で舛田幸三の伝記を読んだ。 舛田さんは、毎日東南アジアの戦地で南十字星を仰ぎながら、誓った。 「生きて帰って、大山を倒して名人に」が悲願だった。 ※大山康晴は、大阪のうどん屋の師匠の下でともに修行した後輩。
@woyadgy
@woyadgy Жыл бұрын
坂口安吾が観戦記を書いているが、そこでの「オトクサンカ!」なる奇声が意味不明で面白い。
@謎の地下組織
@謎の地下組織 Жыл бұрын
歴史の教科書に載せるべきです
@えのじ-t7d
@えのじ-t7d Жыл бұрын
光山文博さんを始めとする、朝鮮人特攻兵の皆さんのご冥福をお祈りします。 光山さんは亡き実母の遺言の「文博の体は国に捧げたのだから、充分にお役に立ちなさい」という言葉を父親から知らされて、自ら陸軍操縦見習士官試験を受けて見事に合格し、入隊されました。 けれども日本軍により、特攻隊に無理やり入隊させられ、拒否をすると入隊を受け入れるまで殴られたりして、仕方なく特攻隊員になったお方もみえるのも事実です。 日本人は忘れてはならない真実です。  いずれにせよ、かの祖国で墓碑すら受け入れてもらえないなら、どうか靖国で皆さんの御魂が鎮まられます様に。そう思わずにはいられません。
@ndsttube
@ndsttube Жыл бұрын
昭和と令和のトップ棋士、それぞれあまりにも雰囲気違いすぎ。そんだけ時代違ってたんだなと思った。でもそれぞれ時代を反映しつつ、光ってるのは同じ。
@ndsttube
@ndsttube Жыл бұрын
升田さんって、そんなに英語が堪能だったん?それだけ納得いかないですが。
@一陣の風-s2r
@一陣の風-s2r 10 ай бұрын
もちろん通訳者が付いていました。動画にもありますが升田が「おんどれ」と言ったときに意味が分からず「おんどれとは何か?」と升田に聞く始末。升田は即座に「おんどれとは大あなた、という意味でこれ以上はない最高の敬語だ。こんなことも知らずによく通訳が務まっとるな!」と一喝したそうな。通訳者、毛怪訝な顔して納得したとか。
@TheHitoshiueki
@TheHitoshiueki Жыл бұрын
升田先生の 勝負、 王手 、名人に香車うぃひいた男 を大笑いしながら読むと 人間がでかくなる 広島県出身 失礼しました
@ndsttube
@ndsttube Жыл бұрын
前にしか進めん香車引いたら反則負けやん。って、子供の時それ聞いて思ったけどな。でも何故香落って言わんかったの?
@R.Sakurai
@R.Sakurai Жыл бұрын
@@ndsttube ちょっと考えて、意味が分かった。「引く」という表現は、確かに誤解をまねく。
@FF-vk7mv
@FF-vk7mv Жыл бұрын
愚将です
@米山ともき-q6c
@米山ともき-q6c Жыл бұрын
ここまで井上成美の真実を語っていただき、たいへん感銘しました 新軍備計画論の内容は 1.基地航空隊 2.対潜護衛艦 3.潜水艦 の3つをこの順番で整備せよというものであり、現在の海軍は海上自衛隊も含めて、彼が予測したとおりの海軍となっています
@草莽-b6d
@草莽-b6d 10 ай бұрын
「予測」できるかどうかと 「実現」できたかどうかの差が、 結局有能無能の差なわけだ。 航空主兵論を唱えた男を航空本部長にしてみたが、ナンにもしなかった。 (「生産力が違うから負けた」等々高唱するが、そこを改善するのが航空本部長の任務である) 片桐英吉などの地味な印象のある前後歴代の航空本部長と比べてさえも、この男はナンにもしなかった。 基地航空隊の拡充を唱えた男を内南洋守備の第四艦隊の司令官としたら、これまたナンにもしなかった。 マキン島などはコマンドによる奇襲攻撃まで食らっているが、それでもナンにもしなかった。 (戦中当時には「兵備万全」を上奏し、戦後の回想では「色々苦労が多かった」とのみ記している) この男が、井上成美である。 そもそもこの「新軍備計画」にしても、元々私的な提案書として「作成」していたのを「周囲からの勧めで」公的文書としたものだ。 上から言われた通りにモノゴト処理しつつ「自分としてはこう考える」と責任の発生せぬ私的な文書(提案、日記、メモ、手紙等々)をアリバイとしてこしらえ、ヤバい事績やオノレの不手際には頬かむりを通すというのは、官界遊泳が上手な役人の常套手段だ。 高級官僚経歴のある者の「私の履歴書」の類に多く見られるパターンでもある。 (終戦工作云々について述べた「思い出の記」なんかもその類。あれとて元々内輪の私家本、他からの裏が取れない井上成美の自己申告なのだ) 陸軍の官僚軍人たる小磯国昭なんぞにも、この井上と実に似た風味の著作がある。 他人の言行にケチをつけるのには極めて饒舌というのも、こういう手合の特徴ではある。 他責思考で他者への批判をするだけなら、無能な者にも出来るのだ。 どうせ他人がやるのならと出来もしないことを「提案」して見せる(これまた官僚上がりのオピニオンリーダーに多い型)というのも小役人根性の発露だろうが、「潜水艦重視」を唱えつつも「海軍機雷学校」(後の海軍対潜学校)設立案をぶっ潰したのも井上成美軍務局長である。 海大教官時代に井上成美と対立した新見政一が発案者だったからという、いかにも小役人じみた確執が原因と言われる。 潜水艦重視を唱えたのに対潜学校(当初案では防備学校)の設立には反対? 言っていることとやっていることが違わんか? イヤイヤそこは一事が万事、批判と反対はできても建設的行動はデキないお役人たる井上成美閣下のお言葉ですからな(笑) こんな小役人根性(少なくとも軍人には不適)な者が大将となり、今に至るまで称賛?されているのである。 現場の勇戦敢闘には心からの敬意と感謝を表して憚らないオレだが、その分、いかに海軍上層部に(軍人としての)人材が乏しかったかということだと思っている。
@如月さん-l8b
@如月さん-l8b Жыл бұрын
この人のドラマやってほしいなー。 他にも名言たくさん残してるやん。
@n.m1029
@n.m1029 Жыл бұрын
大河に期待
@user-ct7wm6rf9ysnake
@user-ct7wm6rf9ysnake Жыл бұрын
ロシアは昔から何も変わってないな。
@taikisha315
@taikisha315 Жыл бұрын
めちゃくちゃ感情の起伏が激しい人でした。一度烈火の如く怒られたのが今では貴重な思い出です。
@JY0819
@JY0819 Жыл бұрын
日本が中立の方がよい…ルーズベルト某国大統領と同じね。
@黒猫タマ-z3z
@黒猫タマ-z3z Жыл бұрын
如何に将棋指しの棋士が世界でも通用する能力があるかを象徴する話です。将棋を好きな理由の一つですね!
@中野善行-h6t
@中野善行-h6t Жыл бұрын
愛しの霊夢嬢📣  コメントが少ないですね! 応援しております。  もう少しプロの歴史家に成長して下さいませ。 文久元治期に薩摩藩は大英帝国に繰綿棒を大量に輸出して莫大な利益を得ておりましたね😙 アメリカが南北戦争で、大英帝国の綿織物産業が綿花の原料不足に陥り其れを穴埋めする為に、薩摩藩が国内で綿花を買い集めて大阪で繰り綿を製造して上海経由で輸出✊  薩英戦争の間にも、薩英の国際貿易は冷徹なビジネスとして成立しておりました✌️
@greensky2449
@greensky2449 Жыл бұрын
もっと良く調べて!雑です。
@石塚大吾-s2g
@石塚大吾-s2g Жыл бұрын
薩摩武士の強さはそっちのけなのね
@nenu-nenu
@nenu-nenu Жыл бұрын
シーボルトの動画面白すぎて、他にどんな動画あるかワクワクして見てみたら一年前から更新止まってるー(ノД`)そんなぁー こんな良いチャンネルだからもっと知られてほしいー(ノД`)アップされてる動画を片っ端から見つつ、新しい動画を待ってます!!
@nenu-nenu
@nenu-nenu Жыл бұрын
なるほど!好奇心でついつい法的違反をしがちなのは学者あるあるな気もするwてか高橋景保って獄死してたのか(ノД`)知らなかった…聞きやすいしわかりやすくて面白いです!おすすめにでてきてなんとなく見てみて良かった!チャンネル登録しました!他動画もいっぱいみちゃいます!
@染谷昌行
@染谷昌行 Жыл бұрын
対馬からロシアを追い出した、これをやったのが、勝海舟。
@hirosiyosimura452
@hirosiyosimura452 Жыл бұрын
図を出さないと、わけわからんで。
@草莽-b6d
@草莽-b6d Жыл бұрын
生麦事件で斬られたリチャードソンは、態度が傲慢として横浜居留地でも、その前の上海でも、英国人社会ですらあまり評判は良くはなかったらしい。 評判が良かろうが悪かろうが国民の生命財産保護となれば政府が乗り出すのはある意味当然なんだろうが、事件発生の経緯(日本国内慣習法の蹂躪)からすれば、請求は相当過大だとは思う。 大名行列にしても、江戸時代も末になるとそれなりに現実的?な運用だった様で、凧揚げや遊びに夢中な子供が行列を横切ると、トンビを眺めるフリをして上を向いて見逃したと言われる。 リチャードソンらは馬に乗ったまま行列に紛れ込み、下馬せよとの声も無視した。 (直前に行列に遭遇した米国人は下馬し、道端に控えている) 行列先頭に当たってスグに斬られたわけでもなく、島津久光の乗る駕籠の付近に近づくまで薩摩側も相当抑制している印象がある。 カッとなって叩き斬ったのでもなく、殊更英国人を狙ったわけでもない。 斬られて当然だろうとさえ思う。 むしろ事件後当初に、英国側からの照会を受けた薩摩は 「浪人がフト立ち現れて英国人を斬って去った」 等と答えているのが、歯切れの悪い感じがする。 薩摩人の海音寺潮五郎は「まともに取り合ってられるか」との薩摩人の意気だと言わんばかりの書き方をしているが、祖法に従って処断したのだから犯罪人ではなく渡せない、くらいの回答を最初からしていれば、もっとスッキリしたと思う。 後には「藩の牢内の犯罪人を下手人に仕立てて突き出すのは容易だが、今回は犯罪ではないからそんなことはせん」とか、割に痛快な回答をしている。 幕府の対応を弱腰とする意見もあるが、少なくとも英国側に立って薩摩に処置を厳命する(イエミツだのツナヨシだのの頃なら「払え」ないし「払うな」との厳命があったろう)こともしなかったあたりに、幕威の衰退とともに 「あーもーやってられっか。薩摩に言え薩摩に」 的な感覚が見える感じで、それは面白い。 英国側が正当とみなしていれば、ああいった行動にはならないと思う。 なお、薩摩側が態度を硬化させたのは、英国側の要求の幕府翻訳を読み「生麦事件責任者の処罰」を島津久光と解釈したからだとも言われるが、この翻訳作成者は福沢諭吉らしい(笑) いずれにせよ、同時期のアヘン戦争に比べて際立った事件である。 億の人口を算する大陸に万にも至らぬ兵力で一方的に侵攻でき、住民には協力者さえ多かったアヘン戦争とは異なり、一地方政権との交戦(大英帝国 対 鹿児島県 である)に勝てなかった事実が、英国側に発生したのだ。 その後の対日政策にも相当な影響はあるはずで、薩摩と英国がその後は手を結びましたという様なレベルに矮小化される話でもあるまい。 受けた薩摩側のスジ論と気概は立派なもので、鹿児島県が日本に為した最大の歴史的功績と言っても過言ではなかろう。 元寇と並ぶ日本史重大事件ないかと思う。
@草莽-b6d
@草莽-b6d Жыл бұрын
戦略目的を達成した方が勝ちなのだから、薩摩の辛勝というべきだろう。 戦前の高等学校とは今なら大学くらいの権威があり、大学同様教師は教授と言われていた。 外国人講師もいた由だが、第七高等学校(造士館・鹿児島)の授業の最中、 「薩英戦争は英国の勝ちだ」 とする英国人講師に対して 「何を言うか。総大将が戦死、錨まで捨てて逃げたのだから、薩摩の勝ちだ」 と断固主張して譲らぬ地元生徒が何人もおり、 「師に対する態度が不遜」 として退学処分とされた事件まであったと聞く。 聞いて大いに感心した。
@権三郎平衛
@権三郎平衛 Жыл бұрын
日本の幕末や明治維新はラッキーなところがありました。不凍港等を求める「ロシアの南下政策」に対して、イギリスが「グレートゲーム」といって、これに対抗していたところもあります。 いずれも当時、植民地主義の国でしたが、西ヨーロッパ諸国の植民地では、あちこちで「反乱」がおきたり、「クリミヤ戦争」も起きることによって、これらに関係する西欧諸国やロシアは、他のことに国力を注力できなくなりました。 そこでイギリスは日本を植民地化するよりも、労力や費用のかからない通商や融和政策等で、対日政策を行うことを選択しました。 一方、アメリカは「南北戦争」で日本をかまっている余裕などありませんでした。ここに日本がある一定の安全性を確保できる空白が生まれました。この時期が、幕末や明治維新の頃です。坂の上に雲があったのではなく、日本の坂の上にだけ暗雲垂れ込める雲はなく、晴れ間が見えていたのです。