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明治9年 1876年 制作された13番曳山 鯱 水主町 た組 水主(かこ)とはいわゆる水夫・船舶労働者のことで、水手とも書く。た組の水主町は 寺沢氏領分の時代に、御船宮を設けて常備水軍の拠点として整備し、船奉行が支配する御手水主を集住させたのが町の起こりという。寺沢氏改易の折に常備的な御手水主の編成が解かれ、日雇的な日高水主役が領内沿海漁村に賦課(ふか)されるようになり船奉行から代官所へ支配が移された。そのため町奉行支配の町方には属せず村方(郷方)に属した。
松浦川は、藩政期を通じて領内経済の動脈ともいえるほど重要なものであり、その沿岸に位置する水主町には、川を上下する荷船の船頭が多く住んでいた。藩政時代後期、領内では石炭が産出され藩の専売的なもので、実務は水主町の米屋吉井家と松本屋松本家の二軒の御用石炭問屋が請け負っていた。町内には船問屋や御用焼石問屋を勤めた横浜屋田中家、藩の仕法方役所の蝋や紙方役所の和紙、石炭の船舶運搬を請け負った富田屋宮島家がある。
また、藩政期に苗字を許された家に中道屋築山家、塩屋坂本家などがある。水主町は、藩政期を通じて町方の惣町には数えられず、また大石権現社の氏子であったために唐津神祭御神幸の際は大石権現社の役務を受け持ち、惣町二ヵ町が年番で受け持つ惣行司役務は免除された。現在もそのしきたりが守られている。 外観は 鯱(しゃち)は そもそも空想上の海獣である。
姿は魚で背筋に鋭い棘(背ビレ)を並べ、胴体左右に胸鰭(大ビレ)と腹鰭(小ビレ)があり、天に高く聳(そび)える尾鰭を持つ。頭部は虎で、口には鋭い歯牙を並べ、鼻の左右には波打つヒゲがある。全体が本朱色塗りで、頭部はゴツゴツと凹凸のある変り塗りを施し、棘や鱗模様などを金箔で飾ってある。ちなみに鯱にも阿形吽形があり、水主町の鯱は口を開いた阿形である。躯体(鯱)内部の中心を支点にして頭尾を互いに大きく上下可動する仕掛けになっている。
当初は隣町の大石町の「鳳凰丸」と対をなし、御水主衆の町にちなみ船形曳山「竜(龍)王丸」を造ろうと考えていたが、江川町が「七宝丸」制作中との報せと、尾張名古屋城の金鯱を見た水主町惣代の気転や、富野淇園への相談などにより、海と水に所縁ある町名に因み「鯱」へ変更となったと伝わる。
第1回総塗替(新造)第一回総塗替え昭和三~五年(1928~1930) 明治九年(1876)の制作から約50年を経て初の総塗替えに着手したが、当初の作製時に完成を急いだため紙貼りや漆塗りが薄く、また他の曳山と比べ全体的に大きく家屋の軒先などに接触することも多く、あまりに傷みが著しかったため、総塗替えを諦め昭和三年から造替え(新造)することとなった。
原型制作に着手するまでに原型師候補5人に見本雛形を作らせ、その出来栄えから原型制作者として船宮(水主町の東隣で現在の東町)在住の中島嘉七郎氏(瓦屋)が選ばれたと伝わる。制作期間として内部書きに記録があり、原型制作に昭和三年三月から約1ヵ月、本体紙貼りに昭和三年六月から約1年10ヵ月、漆塗りに昭和五年四月から約4ヵ月を要し、塗師を石川県輪島から、箔師を京都からそれぞれ招請していることがわかる。
明治九年制作のものに比べ全体的にひと回り小さく造り、三分割に開閉していた尾鰭を開閉しない一体形状とした。また頭頂部の棘を無くし、頭部側面に耳を付加した。なお、躯体内部に架かる梯子は明治九年制作のものの移設である。ちなみに、原型制作を請け負った中島嘉七郎氏は、水主町が造替え費用捻出に困窮していることを内聞し、毎年の唐津神祭の折に居宅前までの鯱の曳行を望み、その報酬に代えたと伝わる。今日、中島嘉七郎氏も逝去され中島家も居を移しているが、かつての中島家(跡地)への曳行のしきたりは現在も守り続けられている。
また、中島家の隣保であり、この造替えにおいて多大な援助をおこなった水主町所縁の宮島家(本家・醤油醸造)と宮島家(新屋・酒造)への御礼曳行も兼ねているといわれる。#唐津くんち #唐津 #曳山#ユネスコ無形文化遺産#鯱#エンヤー