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「建学の精神」である禅仏教による人格の陶冶をテーマに、「禅・仏教講座」として開設しています。
禅の世界をあらゆる角度から捉え感得するため総長、学長、仏教学科教員を中心に授業を展開し、その他、いす坐禅・読経など実践を行います。
「知識としての禅」から「感じとる禅」への転換をテーマとし、「自分だけにしかないいのちを生きる」ことを目標とした講義です。
なお、学生向けに配信している総長講義のみ、順次公開させていただきます。
禅僧の逸話に学ぶ 令和六年七月十六日 横田南嶺
宋代の禅僧の逸話に学ぶ
汾陽善昭(九四七~一〇二四)
石霜楚圓(九八七~一〇四〇)
古人刻苦光明必ず盛大なり。
楊岐方會(九九三~一〇四六)
白雲守端(一〇二五~一〇七二)
荼陵郁和尚投機の偈
「我に明珠一顆有り。久しく塵勞に關鎖せらる。
今朝塵盡きて光生じ、山河萬朶を照破す。」
五祖法演(?~一一〇四)
一箇の鉄酸餡を咬破す。直に得たり、百味具足することを。
花発く鶏冠、早秋に媚ぶ。誰人かよく染む、紫絲頭。
有る時風動きて頻りに相倚る。階前に向かって闘って休せざるに似たり。(『五祖法演禅師語録』)
(咲きほこる鶏頭の花は 初秋にうるわしく
誰が染めたわけでもなくその糸さきは鮮やかな紫に染まる
そこへふと風が吹き来たって 花どうしがさかんにふれあい
あたかも階の前 とめどなく争いつづけているかのごとくである)
(小川隆『中国禅宗史』より)
圜悟克勤(一〇六三~一一三五)
大慧宗杲(一〇八九~一一六三)
『無門関』第一則趙州狗子
「趙州和尚因みに僧問う。狗子に還って仏性有りや也た無しや。州云く、無。」
「趙州露刃劒。寒霜光焰焰。更に如何と問わんと擬すれば、身を分って兩段と作す。」(『五祖法演禅師語録』)
『大慧普覚禅師書』
五祖師翁、白雲に住する時、甞て靈源和尚に答うる書に云く、今夏諸莊の顆粒、收めざれども以ってと為ず。其の憂うべき者は、一堂数百の衲子、一夏に一人の箇の狗子無佛性話を透得するもの無きことなり。佛法の将に滅せんとするを恐るる耳と。
富枢密に答うるの書
ただ妄想顛倒の心、思量分別の心、生を好み死を悪む心、知見解会の心、静をねがい動をいとう心を、一度におさえつけ、そのおさえつけるところについて、話頭を参究なさい。(たとえば)ある僧が趙州に、「狗子にも仏性があるのでしょうか」とたずねる。趙州は、「無い」とこたえる。この「無」の一字こそ、いろんなねじけた知覚をくじく武器です。(この「無」を悟るのに)有無の意識をおこしてはいけません。理窟の意識をおこしてはいけません。意根によって思量し臆度してはいけません。眉をあげ目をまばたくところにじっとしていてはいけません。言句の上でその場しのぎをしてはいけません。無事そのものの中にとどまってはいけません。挙示されたことについて早合点をしてはいけません。文字にとらわれて証拠がためをしてはいけません。ただ朝から晩まで行住坐臥の中で、いつも工夫し、いつも気を引き立てなさい。「狗子にも仏性があるのでしょうか。」「無い」(と言った工合に。)
日常(の暮し)から離れないで、ためしにこんな風に工夫をしてみなさい。ひと月はおろか十日のうちにはじきに分るでしょう。一郡千里四方にわたる公務も、何らさまたげになりません。古人は、「わしの胸中ははつらつとした祖師の意だから、拘束するものは何もない」と言いました。(こうしたわけで) もし日常を離れて別にめあてがあるなら、波を離れて水を求め、器を離れて金を求めるようなもの。求めれば求めるほど遠ざかることとなります。
(筑摩書房『禅の語録17 大慧書』荒木見悟 より)
葉県帰省和尚は、厳格非情、修行僧たちの間で、敬まわれながらも恐れられ ていた。まだ修行僧であった頃の浮山法遠と天衣義懐は、わざわざそこに参問に行った。あたかも雪の降る厳寒の時期であったが、帰省は彼らを怒鳴りつけて追い払い、さらには旦過寮に水をまいて彼らの衣服をびしょ濡れにした。
他の行脚僧たちはカンカンになって立ち去ったが、法遠と義懐の二人だけは、黙って坐具を片づけ、衣を整え、ふたたび旦過寮内に坐した。
帰省はやって来て叱りつけた。「まだ去らぬ気なら、打つぞ!」法遠は前に進み出た。「それがしら両名、和尚さまの禅に参ずるべく、 数千里もの 道のりをはるばるまかりこしました。どうして 柄杓一杯の水ごときで去れましょう。打ち殺されたとて、立ち去るものではございませぬ! 」 帰省は笑って言った。「おぬしら二人、参禅したければ、あちらへ行って掛搭せよ」。
その後、法遠は 典座の職に充てられた。時に修行僧たちは、食の貧しさに苦しんでいた。ある時、たまたま、帰省が 寺の荘園に出かけたので、法遠は庫の鍵を盗み、油と小麦粉を取り出して、みなのために五味粥を作った。すると、ちょうど粥が出来あがったところへ、突如、帰省がもどって来た。みなが粥を食い終わったところで 、帰省は僧堂の外に坐り、典座を呼び出させた。
法遠は自ら罪を認める。「油と小麦粉を取って粥を煮たこと、相違ございませぬ。甘んじて処罰をお受けいたします」 。帰省は油と小麦粉の金額を計算させて 、 法遠に衣鉢を売って 弁償させ、さらに 拄杖で三十度打ちすえて寺から追い出し た。法遠は寺の外の街中に泊り、修行僧仲間にとりなしを頼んだ。しかし、帰省は許さない。そこで「 もどることが容れられぬなら、せめてみなの後について入室 だけでも」、そう乞うてみたが、これもやはりダメだった。
ある日、帰省が表通りに出たところ、法遠がひとりポツンと、宿屋の前に立っているのが眼に入った。「この家屋は寺のもの。こうも長う泊りおって、これまで一度でも宿賃を払うたことがあるのか?」かくてたまった宿賃を清算させ、遡って取り立てた。法遠は嫌な顔ひとつ見せず、市場で托鉢してその金を返済した。その後、またある日のこと、帰省は通りに出てふたたび法遠の托鉢姿を目にした。そこで大衆に言った 。「法遠には、まことの参禅の志がある」。そして、とうとう法遠を寺に呼びもどしたのであった。