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今回は万葉歌人、大伴旅人が亡くなった妻のことを悲しんで詠んだ和歌をご紹介します。
大伴旅人は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した人物です。
大伴氏は、代々、天皇家直属の軍事氏族でした。720年には、九州南部に住む隼人が反乱を起こすと、征隼人持節大将軍に任命され乱の鎮圧の指揮をとります。
そして旅人64歳の時、728年には大宰帥(だざいのそち)として九州の大宰府に赴任します。
大宰府では山上憶良(やまのうえのおくら)などの歌人と交流を深め、「筑紫歌壇」と呼ばれるサロンを形成しました。
ところで、現在の元号「令和」は、旅人が大宰府赴任時代に旅人の自宅で開かれた「梅花の宴」が典拠となっています。
初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、
梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す
(巻五「梅花歌三十二首并序」)
この宴が開かれたのは730年のことですが、その2年前の728年、大宰府着任早々に妻に先立たれてしまします。長旅の疲れまたは慣れない環境のせいか、あっという間の死でした。
神亀五年(728年)、大宰帥大伴旅人卿が故人を思い偲んだ歌三首
愛(うつく)しき 人のまきてし しきたへの
我が手枕(たまくら)を まく人あらめや 438
この歌は、大伴旅人が妻と死別して数十日をたってから詠んだ歌です。
太宰府に来て、3年近くが過ぎ、いよいよ都へ戻ることになります。旅人66歳の時でした。
次の二首は、都に戻る前に亡き妻を思って最後に大宰府で作った歌です。
帰るべく 時はなりけり 都にて
誰(た)が手本(たもと)をか 我が枕(まくら)かむ 439
都なる 荒れたる家(いえ)に ひとり寝(ね)ば
旅にまさりて 苦しかるべし 440
次の三首は同年冬12月海路で帰京する途中、今の広島県福山市の鞆の浦(とものうら)で詠んだ歌です。旅人は奈良に戻るまでの間、妻の面影を求めともに過ごした道中での日々を思い、歌に残しています。
天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴の卿の京に向きて上道する時によみたまへる歌五首
我妹子(わぎもこ)が 見し鞆(とも)の浦の むろの木は
常世(とこよ)にあれど 見し人そなき 446
鞆(とも)の浦の 磯のむろの木 見むごとに
相見し妹(いも)は 忘らえめやも 447
磯の上に 根延(ねは)ふむろの木 見し人を
いづらと問はば 語り告げむか 448
次の二首は現在の神戸市灘区岩屋町の「敏馬(みぬめ)の崎」を通った時の歌です。
妹(いも)と来(こ)し 敏馬(みぬめ)の崎を 帰るさに
ひとりし見れば 涙(なみた)ぐましも 449
行くさには 二人(ふたり)我が見し この崎を
ひとり過ぐれば 心悲(こころがな)しも
〈一にいふ、見もさかず来ぬ〉 450
次の三首は、故郷の奈良の家に帰りついてすぐに作った歌です。
故郷の家に還入(かへ)りて即ちよみたまへる歌三首
人もなき 空(むな)しき家は 草まくら
旅にまさりて 苦しかりけり 451
妹(いも)として 二人(ふたり)作りし わが山斎(しま)は
木高(こだか)く繁く なりにけるかも 452
我妹子(わぎもこ)が 植ゑし梅の木 見るごとに
心むせつつ 涙し流る 453
夫婦の情愛を、こんなにもきめ細やかに詠った旅人の挽歌、亡き妻のための歌は、『万葉集』の中でも際立っています。しかし、悲しみのあまりか、大伴旅人は、帰京してから半年、天平三年(731年)七月にその生涯を閉じました。享年67歳でした。
#大伴旅人#万葉集#挽歌