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ウクライナの首都・キーウの学校からきた10歳から15歳の8人の生徒たちが祖国を離れ、福岡県那珂川市におよそ1か月間、滞在することになりました。
■引率の教員
「これを読んでください。」
■ウクライナの生徒
「私たちは日本が好きです。」
地元の小学校の空いている教室を借りて、引率の教員の授業を受けます。
子どもたちの学校は、ロシアによる軍事侵攻で去年2月、空爆で焼けました。それ以来、授業は焼け残った施設やオンラインで受けてきました。
■イリーナさん(15)
「最初の2か月ほど、キーウでは戦闘機が飛び、爆発音が常に聞こえて恐怖だった。こんな気持ちはもう味わいたくない。母親や弟が泣く姿はもう二度と見たくありません。」
15歳のイリーナさんは、自宅近くにミサイルが着弾し、父親を残しての避難を余儀なくされました。そんなイリーナさんを笑顔にしたのが、日本の子どもたちと一緒に受ける授業でした。
■イリーナさん
「ソフトボールってどうやるの?あやつり人形みたいなグローブ。」
ウクライナでは、サッカーやバレーボールが盛んで、イリーナさんにとって、ソフトボールは初めての体験です。
■イリーナさん
「ウクライナは今、危険だから、外でこんなことはできません。とてもおもしろかったです。」
■日本の小学生
「ウクライナで起きたことを忘れられるぐらい楽しいことをさせたいなと思っています。」
子どもたちを受け入れるために奔走したのが、福岡県那珂川市でカフェを営む結城辰輝さん夫婦です。
■結城さん夫婦
「食べ終わったら、ごちそうさまって言うんだよ。」
サポートをしていたウクライナ人留学生から「戦争で心に傷を負った子どもたちを1か月、受け入れてほしい」と相談を受け、市や地元企業の協力を得て実現にこぎつけました。
■結城さん
「1か月間だけでも戦争のことを忘れて、笑顔で帰ってもらえるように、家族の一員として受け入れたい。」
戦禍のウクライナからやってきた15歳の彼女たちが、日本で感じたことを話してくれました。
■イリーナさん
「日本の子どもたちを見て、幸せな気持ちになりました。なぜなら、戦争が何かを知らないからです。私たちは日常を失いました。けれど、自分の力で人生を変えることはできません」
この日、日本にいるイリーナさんたちが目にしたのは、捕虜となったウクライナ兵がロシア軍に殺害されたとされる動画です。
■イリーナさん
「彼はウクライナ人という理由でロシア軍に殺されました。ロシア軍は私たちを殺します。ウクライナ人だからです。私たちが何か悪いことをしたのでしょうか?」
■アリーナさん
「ただ普通の生活を送りたいだけなのに。」
子どもたちは、戦争で心に深い傷を負いました。その痛みは今も重くのしかかっています。
結城さんは、知り合いの家族に協力してもらい、一緒に過ごしてもらうようにしました。滞在先に地元の子どもたちが集まります。共通する言葉はありませんが、自然と笑い声が響きます。
■地元の小学生(12)
「これまでは、テレビでしか見なかったけれど、ウクライナの話や戦争の話を聞くから自分もひどい気持ちが共感できるから」
週末は、分散してホームステイします。10歳のアントンくんたちは、結城さん家族と呼子朝市(佐賀県唐津市)に向かいました。
■アントンさん
「あのイカが最高だね。」
回転するイカの一夜干しマシンに思わず笑みがこぼれます。殻付きのウニも初めて目にしました。結城さんから「食べてみる?」と聞かれ、眉をひそめます。
■結城さん
「味はどう?」
■アリーナさん
「大丈夫みたい!」
思いっきり遊んだり笑ったり。戦争が日常となったウクライナの子どもにとっては、当たり前のことではありません。
この日も、飛行機や爆発の音が聞こえない静かな夜でした。アントンくんは時折、悲しそうな表情を浮かべます。平和だったころのウクライナ、そして日本で過ごした時間を考えていたのです。
■アントン
「さよならを言うのはさみしいです。この場所が大好きだから。」
そして、出発の日を迎えました。
■結城さん
「ウダーチ、ウダーチ(=がんばれ)」
結城さんは、がんばれのことばを一人一人にかけます。
■アントンさん
「僕は男の子だから泣きません。」
アントンくんは、涙を見せないようにこらえます。ことばも通じず、わずか1か月の滞在でしたが、どれも温かい時間でした。
■結城さん
「さみしいです。早く戦争が終わって、みんなが普通に運動場で走れるようになってほしい。そしてまたいつか日本に来てもらいたい。」
別れから1か月がたち、ウクライナのキーウに戻ったイリーナさんに話を聞きました。
■イリーナさん
「時々、爆発の音を聞きます。帰国して2日後、ドローン攻撃があり、前ほどではありませんが今も戦禍にいることを実感しました。それでも日本で過ごした時間が私の心や体を癒やし、今はとても落ち着いています。きっとうまくいく、くよくよしていられないと思えるようになりました。」
子どもたちに刻まれた戦争の記憶が消えることはありません。それでも、遠く離れた福岡に思いをはせてくれる人たちがいることを胸に生き続けます。