Рет қаралды 34,951
自宅にあった昔のカセットテープを PC用にしてご紹介します。
TV番組かラジオ番組かは わかりませんが この番組の一部を
動画に アップされている方もいるようです。
この番組の詳細を御存知の方があれば 教えて頂ければ幸いです。
※ コメント欄に、情報を寄せて下さった方々に御礼を申し上げます。
「あゝ海軍ラッパ」鶴田浩二とネービーラッパ隊 というタイトルのLPレコード
或いはカセットテープだったそうです。
因みに 雑誌『丸』昭和59年1月号に「信号ラッパ」についての詳しい解説があります。
ただ長いので一部だけ下に載せることとします。
筆者は 兵器研究家の高橋昇氏です。
ご興味のある方はご覧ください。
参考文献:
・雑誌『丸』昭和59年1月号
(以下は主に写真)
昭和34年7月号
昭和61年1月号
昭和58年10月号
昭和54年3月号
昭和49年12月号
昭和54年12月号
昭和56年3月号
昭和54年7月号
昭和59年1月号
昭和56年8月号
他
『丸』昭和59年1月号 特集記事
「新兵さん泣かせの軍用ラッパ事始め」
兵器研究家 高橋昇
,●起床から消灯までラッパがかなでる音色に一喜一憂する兵士たちへの合図と命令伝達法の歩み!続日本陸戦兵器博物誌・・・信号ラッパ
文久三年から始まった英才教育
“新兵さんはかわいそうだねェー またねて泣くのかねェー”
とよくうたわれた陸軍の消灯ラッパの哀調おびた音色には、ひとしれず涙した人々も多かったに違いない。
陸軍のラッパ教科書である昭和9年に改正された「喇叭教程」には、軍用ラッパの目的と、その精神はつぎのようにするされている。
「第一、 喇叭教育の目的は喇叭長、喇叭手および喇叭修行者を訓練して喇叭に関する必要なる技能を習得せしむると同時に軍人精神を鍛え、風紀を練り以ってその任務を完全に遂行し得しむるにあり。
第二、 喇叭はその吹奏に依りて号令、命令を伝え志気を鼓舞し、または敬意を表す。故にその吹奏の正否は直に軍規、軍容に関するのみならず、戦闘の勝敗にも影響を及ぼすことにあるべきをもって、これが吹奏にあっては常にその厳正、確実、爽快を期するのみならず、熱烈なる全精神を傾注し、もって全軍を感動せしむるの慨なかるべからず」
わが国でラッパを採用したのは、維新前、ときの幕府が欧米の兵制をとりいれたのに伴い、ラッパ手の必要をみとめ、文久3年に定めた陸軍戒装式目(りくぐんじうそうしきもく)というのには、ラッパ手の服制が定めてあるが、この服装は予定だけで、実際にはラッパ手を採用したのは慶応3年のことである。
慶応2年、幕府はフランスより将校以下十余名を招き、横浜において歩兵、騎兵、砲兵の三兵軍事伝習を行ったが、これを始める時、信号ラッパの必要性から、この三兵の他、御料所歩兵卒(後の近衛兵)32名に信号ラッパの訓練をしたのが始まりといわれる。
この兵士たちは3年5月よりラッパ手を拝命し、苗字帯刀御免となり年俸二十五両をさずけられた。
ラッパ伝習兵32名が一通りの修業が終わって修業者の検閲が行われ、その結果、10名だけが技能上達を示すため、朱房をラッパにつけることを許され、教師としてのラッパ教導役を申しつけられることになる。
そののち、明治維新となり、新たに国軍の兵制が敷かれたが、ラッパ教育には新政府も力を入れ、明治5年にラッパ四百管を制作して各鎮台に配布し、その翌6年9月1日、陸軍戸山学校に第一期生が入校した。
この第一期生は各鎮台(師団)より派遣された21名のラッパ卒であり、こうして軍隊の中に信号ラッパはだんだんと比重を大きくしていくようになり、それ以来戸山学校も軍のラッパ教育に力をそそぐことになった。
語りつがれる数々のエピソード
ラッパの戦記で有名なものに、戦前の小学校の教科書にも乗せられた”木口小平(きぐちこへい)のラッパ”がある。
日清戦争の際、成歓の安城渡しの戦闘で、ラッパを口から離さず吹き続け、「シンデモラッパヲクチカラ ハナシマセンデシタ」と戦死の状態となっても木口小平自身の意志によって、その精神力がなお生きつづけるような表現となり、国民的英雄として小学校の教材にも取り上げられたものであった。
一方、この成歓の戦いで、ラッパを吹き続けながら倒れたのは木口小平ではなく、白神源次郎(しらがみげんじろう)というラッパ手であるという話もあり、明治期の教科書には白神源次郎が大きく取り上げられている。
この白神・木口の両ラッパ手はともに実在した人物であり、同人異名でもなく、錦絵、軍歌などにもよく知られているが、いずれが正しいかは、はっきりしていない。
ともあれ、教科書、軍歌などで華やかに軍国日本の英雄として、またラッパ手の美談として国民に宣伝されたのである。
さて、続いてラッパの話だが、明治33年におこった「北清事変」、一般には義和団事変として、映画「北京の五十五日」などでもよく知られているものであるが、当時の中国はヨーロッパの資本主義の流入と在清外国人の横暴に反感が爆発、北京において各国人を殺害、また公使館も包囲したため、日本など十一カ国の在駐屯部隊が、共同防衛戦を行った事件で、北清事変と呼ばれるに至った。
後に清国自体が各国に宣戦したが、列国軍隊に抗し得ず、多額の償金を払って和平を講じたものであった。
この北清事件の後、天津へ移動して部隊が帰還した時のことである。
部隊が行進ラッパも勇ましく堂々として帰るのを出迎えた隣接連隊の将校たちは、ラッパがあまりにも上手なのに驚いた。きっと外国製のよく鳴るラッパを買ってきたのだ、と思い込んだ。
そこで早速、隣接部隊の中佐は、自分の連隊にもあんなによく鳴るラッパを購入したい、と帰還部隊に言って、「ラッパはどこ製だ、見せてくれ」と尋ねた。
ところがそのラッパはピカピカの外国製どころか、なんのかわりもしない打痕だらけの古いラッパであった。中佐はますます不思議に思い、その訳を訪ねて見ると、
「北京や天津には各国の軍隊も駐屯している。それらが毎日、実にラッパを上手に吹くので、なにくそ負けるものか、とそれから一生懸命になってラッパ教育に力を注ぎ、ラッパ手を激励した」ということだった。
中佐はよく鳴るラッパを求めて、この舞台に出掛けたのであったが、それよりも大きいエモノをえて、喜んで帰隊し、自隊のラッパ手を集めて、この話を大いにラッパ教育に力を注いだという。
銅壷屋(どうこや)から生まれたラッパ
さて、この信号ラッパの生まれたいきさつは、江戸・小石川の関口町に旧幕府の兵器製造所がおかれていた。
それが明治元年、新政府に明け渡されて軍事工場となり、明治8年の砲兵工廠条例で「造兵廠」と名称をも改められて生れかわり、外国製ラッパを参考にわが国の信号ラッパを作り始めた。
そのころ蔵前に宮本勝之助という一軒の「銅壷屋(どうこや)」があった。昔、長火鉢があって、その火鉢の中に鉄瓶と据え付けの銅壷の湯沸しがあり、これをふつう銅壷といい、これや、おでん屋の銅鍋や銅のヤカンなどをつくる業者を、銅壷屋とよんでいた時代である。
この銅壷屋の宮本が優れた銅細工をするというので評判が高まったところから、陸軍に呼ばれ造兵廠に採用された。
そして外国から輸入した一つ巻(ひとつまき)の軍隊ラッパを真似て作ることを命じられた。
当時陸軍では、他の兵器とちがって楽器であるラッパ作りには、随分と手を焼き、宮本銅壷屋に目をつけたものである。
宮本は、職人気質でもあり、その製品も丹念だったから、この作ったラッパはよく鳴るので評判が高まり、そののちは造兵廠からの注文で信号ラッパを製作するようになった。日本における信号ラッパ作りの元祖である。
この宮本ラッパ屋の初代が作ったのは、主に一つ巻の信号ラッパで、当時の諸外国軍も使っている、ひょろ長いタイプのもので、長さ一尺八寸(約54㎝)くらいであり、西南戦争などに使用したのがこれである。
だが、この長さの信号ラッパは、どうしても携帯に不便で使いにくかった。
陸軍では、次にこのラッパの改良を宮本に命じた。明治12年のことである。
宮本ラッパ屋では、二代目になっていて、早速この改良にあたった。この時の苦心の作が二つ巻ラッパとして完成し、小さく携帯にも便利だったので、各部隊のラッパ手に喜ばれたという。
この二つ巻信号ラッパは比較的長い期間用いられたが、中には細部の改良、または多少の型の変化があるが、基本的には大きな差はない。
このころ、陸軍戸山学校のラッパや各師団が用いている信号ラッパ製作は、この宮本ラッパ屋が一手に引き受けていたらしく、次のようなエピソードもある。
この宮本ラッパ屋に江川という弟子がいて、技術もしっかりしていたところから、戸山学校の担当官へ行き、
「私は宮本ラッパをやめて、自分でラッパ屋を始めますから、私にご注文頂きたい。私がいなくなれば、宮本では注文がこなせないと思うから、今後、自分あてに発注してほしい」
という言葉を述べた。
ところが、陸軍戸山学校の担当官は義理堅く、
「お前が辞めれば宮本では出来ないかもしれない。だが、今まで当校は宮本から購入していたのだから、無断で宮本の発注を君にまわすわけにはいかない。宮本から承諾書があったら買ってやろう」
とういうことで、そののち承諾書をもらった江川は、陸軍戸山学校の御用商人となったそうである。
これは明治37年頃の話であって、この江川が独立して日本管楽器をおこしたのが、後の日本管楽器と軍用ラッパの結びつきであるといわれる。無論、そののちも陸軍では宮本ラッパへも発注していた。
陸軍と海軍で使用されていた信号ラッパは、主に真鍮製(しんちゅうせい)であったが、そのころ警視庁でも信号ラッパを採用した時期があった。
このとき警視庁では軍部に遠慮したものか、真鍮製ではなく銅製のラッパを用いたということである。銅は真鍮より価格が高く、柔らかいものだったから
実用にはどうであろうか。
ちなみに日清事変で、木口小平が吹いた信号ラッパも、この宮本ラッパ屋で製作されたものと伝えられている。
手さぐりで完成した曲譜教程
陸軍創設期のラッパ卒については前述したとおりだが、本格的に取り組んだのは、明治12年に戸山学校にラッパ教官をおいて、全国の各部隊からくるラッパ長の養成に力を注ぎ、ラッパを普及させていたが、正式に陸海軍ラッパ及びラッパ譜が制定されたのは明治18年12月3日のことであった。
このラッパ譜は、陸軍卿大山巌の名で次のように定められている。
敬礼の部 5曲
諸名号の部 66曲
一般隊号の部 13曲
日課及譜号音の部 100曲
招呼の部 30曲
行進の部 7曲
計221曲が制定され、その中でも敬礼の部の各曲には、吹奏歌として歌詞も定め、それら曲譜の精神も示してある。
この明治18年に決められたものが、日本陸海軍ラッパ譜の基本となって、途中改正されたもののそれがながされていくことになる。
そののち、明治35年まで、毎年のごとく、ラッパ譜は改正追加制定されてきたが、この年になって、陸軍と海軍のラッパ譜は自然に分離され、おのおの独自のラッパ譜を持つようになった。
・・・ 以上