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1960年、浩宮徳仁親王、現在の天皇陛下ご誕生の際の映像を公開します。
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深夜の宮内庁病院に明かりが煌々と灯ります。
入っていく車にフラッシュがたかれ、大勢の記者が集まります。
慌てた様子で本社への直通電話、いわゆる“ガラ電”をかける姿も。
1960年2月のことです。
車両の後部座席に座るのは美智子妃殿下、現在の上皇后さまの母・正田富美さんです。
美智子さまは予定日の3月1日より8日早く陣痛を訴え、
2月23日 午前1時50分、入院されたのです。
正田富美さんは車を降りると記者に一礼し、足早に病室に向かいました。
徹夜で美智子さまに付き添います。
2月の寒空の下、2人の記者が病室を見上げます。
宮内庁は美智子さまの経過は順調で、正田富美さんと女官長と一緒にいて、まだ分娩室には入っていないと発表しました。
長い夜が明けました。
皇居の前には大勢の人が集まり、美智子妃殿下の入院する病院の方向を見つめています。
熱心に祈る人の姿も。
入院からおよそ15時間後の午後5時25分、
宮内庁の橋本総務課長が会見で発表しました。
宮内庁 橋本健寿 総務課長:
「皇太子妃殿下は、本日午後4時15分、宮内庁病院でご出産、親王がご誕生になりました。
御母子ともにお健やかであります」
親王さま誕生の発表を聞き、頬を緩める記者の姿も。
記者らは走って宮内庁を後にします。
車やバイクも次々と走り出します。
午後5時55分、親王さま誕生の知らせをお聞きになった、皇太子殿下、現在の上皇さまは、渋谷の東宮仮御所から車で宮内庁病院へ向かわれます。
午後6時10分、大勢の記者に囲まれ、宮内庁病院に到着された皇太子さまは、美智子さまと親王さまがいらっしゃる、2階の静養室に向かわれました。
皇太子さまに続いて、祖父になった美智子さまの父、正田英三郎さんも病院に入ります。
正田英三郎さん:「どうか健やかに立派にご成長なさることをお祈りしておる次第でございます」
正田富美さん:「本当におめでとうございます。ただいま新宮さまにご面会を、お目通りさせていただきましたけれど、大変お元気で、こんな嬉しいことはございません」
有楽町にあった朝日新聞東京本社です。
1928年に日本で初めて電光掲示板が設置された場所で、親王の誕生もやはり電光掲示板で速報されました。
読売新聞からも号外が出されました。
我先にと手を伸ばす人たちに笑顔が見えます。
当時は読売新聞もすぐ近くの銀座三丁目、現在の「マロニエゲート銀座2」の位置にありました。
朝日新聞の号外には、美智子さまが午後4時15分、皇居内の宮内庁病院で、お子さまを予定日より8日早くご出産になり、母子ともにお健やかであることが記載されていました。
画面の正面奥に有楽町の日本劇場が見えます。
銀座4丁目付近で撮影された映像です。交差点を人々がせわしなく行き交います。
銀座のデパート、松屋には「祝 皇孫殿下ご誕生」と書かれたアドバルーンが上がりました。
日本橋三越本店は窓から大きな垂れ幕をゆっくりと、慎重におろします。
その様子を見上げる女性が売る新聞はまだ親王誕生を伝えていないようです。
垂れ幕を下げたヘリコプターも飛びました。
日本橋の白木屋は、夜の間に模様がえです。
店内にも、皇太子さまと美智子さまの大きなパネルが掲げられ飾りつけがほどこされました。
中央の階段の上にもお二人の写真。慌ただしく作業が進められます。
あやかろうということなのでしょうか。早速ベビー商戦です。
お宮参り用の産着も並べられています。
午後7時すぎ、提灯行列が練り歩き、夜更けまで奉祝の賑わいが続きました。
万歳の声が響きます。
深夜のバスの車庫です。それぞれの車両に日章旗を取り付けています。
親王誕生から一夜が明けました。
渋谷の東宮仮御所に紅白の幕がかかるテントが設けられました。
皇太子さまを乗せた車列が出ていきます。
その後、国旗を立て高級車が相次いで到着します。
各国の大使らがお祝いを述べにきたのです。
塀沿いに大勢の人が並んでいます。
皇太子さまを乗せた車が帰ってきました。
集まった人たちはその後、正門から次々に入り
設置されたテントに向かいます。お祝いの記帳をするのです。
皇居には大変な行列ができました。
午後0時半から4時までの間に宮内庁玄関前で一般国民の記帳を受け付ける予定でしたが
朝早くから坂下門の前に並ぶ人が多くいたため、予定を30分くりあげました。
門の外から宮内庁前の記帳所まで絶え間なく、整然と人が並びます。
正装の人もいます。
子どもや赤ちゃんを連れた人からお年寄りまで、順番にゆっくりと記帳の列は進みます。
紙に顔を近づけ、鉛筆で丁寧に名前を記します。
列は一向に途切れません。
記帳台はテントの外にも準備されましたが、まだまだ人が溢れています。
近くの工事現場から駆け付けたのでしょうか、
ヘルメットをかぶった男性のグループも記帳所を訪れました。
宮内庁病院です。
足場を組んでテレビカメラが据え置かれています。
望遠レンズは回転で切り替えます。
これは「スピグラ」の愛称で呼ばれた報道用のスチールカメラです。
美智子さまと親王さまの様子を伝えるための、万全の取材態勢がとられています。
何か動きがあるのを記者らはひたすら待ち続けます。
人の出入りで集まってくるカメラマン。ほぼ全員の手に「スピグラ」が。
親王誕生の2日後の2月25日、医師と看護師が整列して車列を迎えます。
天皇・皇后両陛下が宮内庁病院にお見えになったのです。
美智子さまを見舞い、親王さまと初めて対面され、天皇陛下はこの日、お守刀を贈られました。
夜には皇太子さまのきょうだい、義宮さまと、結婚を2週間後に控えた清宮さまが宮内庁病院にいらっしゃいました。
現在の常陸宮さまと、島津貴子さんです。
病院を出られる時には、皇太子さまと3人ご一緒に並んで写真撮影に応じました。
お七夜に当たる2月29日、命名に先立って宮内庁病院で行われる「浴湯の儀」です。
白い幕で仕切られた部屋の向こうで女官に抱かれた新宮さまが産湯をつかい、反対側では、衣冠単を着た、読書をつとめる坂本太郎氏が日本書紀を読み上げます。
鳴弦をつとめる前田利建氏と浅野長武氏は「おう」という掛け声とともに弓の弦を引きます。
文武、両方の運を祈る儀式で、映像は、予行演習の際のものです。
そして、いよいよ宮内庁・橋本総務課長がお名前と称号を発表します。
橋本総務課長:
「今月23日、ご誕生になった親王殿下は御名を徳仁と名ぜられ、浩宮と称されます。」
記者:
「浩宮、それに徳仁どういう意味?」
橋本総務課長:
「この中庸の第32章というのはですね、ちょっと出典を申し上げますと
『●●其仁(※●は肉月に屯)。淵淵其淵。浩浩其天。苟不固聡明聖知、達天徳者、其孰能知之。』
浩宮の浩は『浩々たる其の天』の浩。それから、徳仁の徳という字は『天徳』の徳という字をとっておられる。」
命名の儀が終わると、皇太子さまはお祝いの席へ。
各界の要人から祝意を受けられました。
岸信介総理があいさつし、乾杯。
宮内庁の宇佐美長官は、一般国民の戸籍簿にあたる、皇統譜に名を記入します。
祝賀の鼓笛隊によるパレードは雪がちらつく中で行われました。
3月12日の宮内庁病院です。
当時の宮内庁病院は関東大震災の後、倉庫として新築された建物にあり、今の皇宮警察本部の裏にありました。
そこに一台の車が止まります。
大勢の病院関係者の姿もあります。
午後2時半、退院された美智子妃殿下です。白地にしだれ桜を染め抜いた和服姿の美智子さまのうしろを、白羽二重のおくるみに包まれた徳仁さまの姿が。
車にお乗りになると、牧野東宮女官長から徳仁さまを大切そうに抱き取られます。
徳仁さまのお顔がよく見えるよう、車の窓を開け、おくるみを少し開いてくださいました。
初めて国民が目にする徳仁さまは美智子さまの腕の中でスヤスヤと眠っています。
当時の報道によりますと、お二人とも経過は順調で、この日の朝には、誕生当時より身長が4センチ、体重は506グラム増え、51センチ、3416グラムとなったということです。
渋谷の東宮仮御所からは、皇太子さまを乗せた車が出ていきます。
近所の人でしょうか、前の道に人が集まり始めました。
美智子さまにとっては18日ぶりのご帰宅、徳仁さまにとっては初めての我が家です。
警察官が出動し整理を始めました。お二人の帰りを待ちわびる人は、時間が経つにつれて増え、報道陣も正門前で待機します。
抱っこされた赤ちゃん、子どもからお年寄りまで、詰めかけた人はもう4列にも5列にも連なっています。
かっぽう着の人もいます。
報道陣がカメラを構えました。
お二人を乗せた車が東宮仮御所へ入ります。
後部座席に向けて、シャッターが切られます。
正門前のカメラの映像では、
美智子さまは車が東宮仮御所の門に入るまで、
徳仁さまを抱いていらしたことが分かります。
車列が門の中に入ると、お二人の姿を一目見ようと、報道陣や集まった人々が次々と門まで詰めかけます。
カメラは美智子さまより一足先に、初めて我が家に入る徳仁さまの姿を捉えていました。
この東宮仮御所は、現在の常陸宮邸である「常盤松御用邸」にあたります。
美智子さまは皇太子さまとご結婚後、ここで過ごされてきました。
皇太子さまを乗せた車が戻ってきました。
車は、東宮仮御所の車寄せに止まります。
帰りを待っていた美智子さまと、皇太子さまは互いに一礼し、中へと入られます。
この地で親子三人の生活が始まります。
[テレ朝news] news.tv-asahi....
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