【近代史特別編】600機に1機で突撃した英雄の終焉の地

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怪奇な歴史研究室

怪奇な歴史研究室

Күн бұрын

Пікірлер: 258
@Kaito5327
@Kaito5327 9 ай бұрын
今回も貴重な動画をありがとうございます。 私の父の従兄も神風特攻隊員として、沖縄の空に散ったと聞いております。 気さくで面倒見のいい、良き兄貴分だそうで、父は今でも終戦の日には地元の護国神社へ参拝しています。 地元の帝国大学(旧制)の工学部の学生で、生きていればひとかどの人物として大成していたのではないかと、父も本家の伯父も悔やんでおります。 あの時代は、まさに弱肉強食の時代です。 (今でもそうです!) その非情なる時代に生命を顧みず戦い抜かれた英霊に、心から感謝と敬意を表したいと思います。
@たまこ-m4u
@たまこ-m4u 9 ай бұрын
素晴らしい動画をあげて頂きありがとうございました🙇 わたくしの伯父も特攻隊員で若くして散りました。 伯父は最期の日に母親に「母ちゃん俺が死んでも面倒は見るからね。死んだらトンボになって帰ってくるよ。」と言い残したそうです😢 今、当たり前の平和があるのは英霊達のお陰であることを決して忘れてはなりません。 他人事ではなかった動画をあげて頂き感謝致します🙇 合掌😢
@齋藤友一
@齋藤友一 9 ай бұрын
トンボ 涙が出てとまらんよ
@maxterhecht
@maxterhecht 9 ай бұрын
実は、私の叔父も、戦艦大和の沖縄海上特攻へ行きました。まだ、19歳でしたが、機関室勤務でたまにある休日は、甲板で一日中過ごしたそうです。彼が大和に乗り組んだのは、腹一杯銀シャリを食えたから…。おそらく本望だと思います。彼の遺影を見て感じました。
@masayafujiki8471
@masayafujiki8471 9 ай бұрын
国連に日本に対しての敵国条項が今でも残っていると聞きます。明石さんや緒方貞子さん「犬養毅、緒方竹虎の家系」など、世界に人材的にも、資金的にも貢献してきたにもかかわらず。残念です😮
@masakomasako382
@masakomasako382 9 ай бұрын
胸が締めつけられます泣           合掌
@maxterhecht
@maxterhecht 9 ай бұрын
@@masakomasako382 今では、未成年でしたが、当時は徴兵検査に通れば一人前だったとのことです。
@masayafujiki8471
@masayafujiki8471 9 ай бұрын
戦艦大和の情報は、中田整一氏の著書「トレイシー捕虜秘密尋問所」に詳しく書かれていますね。八木アンテナのレーダーやニコンの照準器を搭載。右舷側を集中攻撃され、横に傾斜し船体が半分沈んだ際に、爆発し、たくさんの兵隊さんが亡くなられたと聞きます。
@maxterhecht
@maxterhecht 9 ай бұрын
叔父は、若く機関室勤務だったので、おそらく溺死だったと思います。ボイラー担当だったので、高温地獄だったようです。テレビで流れる今流行りのサウナ風呂みたいなものですが、連日連夜ボイラーのお世話係でした。私も、おそらく、そうなっていたのかもしれません。但し、飲食には、不自由しなかったという事です。一番の娯楽は、日光浴出来る甲板以外なら、ハンモックでの就寝でした。年を重ねると、夜も昼も無い機関室勤務には、耐えられ無くなったそうです。
@staring919
@staring919 9 ай бұрын
上原中佐は、私の親戚筋です。鹿児島出身で騎兵科から航空に転身したと聞いています。上原中佐には娘さんがいます。今は老婆ですが、健在です。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
そうでしたか、ではこの英雄の血をひいておられる方が今の日本にいるのですね。
@ミヤマクワガタ-t3v
@ミヤマクワガタ-t3v 9 ай бұрын
上原重雄中佐を初めて知りました。自分だけ生き残ることに耐えられなかったのですね。仲間思いで責任感が非常に強い方だったのですね。
@ちゅん太-f2e
@ちゅん太-f2e 9 ай бұрын
今回はかなり熱が入っていますね。誠、おっしゃる通り、現在の日本を見たら英霊はなんと嘆くでしょうか。でも、そのお陰さまで、左翼も右翼も好きなことを勝手に言って言られるのです。私の亡き父もグラマンに銃撃されたと生前語っておのましたし、亡き母も動員されていたようです。今の私たちが、この日本で生を受けていられるのも、まさに英霊とご先祖の血と涙、努力の上に成り立っていることを思う時、この動画にも深く感銘を覚えざるを得ません。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
実は近代史が一番詳しいんですよね、笑。 日本軍の戦闘機とか多分、全部分かります。
@ちゅん太-f2e
@ちゅん太-f2e 9 ай бұрын
そうですか(喜) 私は幼稚園頃から、雑誌「丸」を見て育ちました(笑)
@周平金澤
@周平金澤 9 ай бұрын
上原隊長の心情を想像すると、涙が止まらなくなりました。 600機の米軍側にも自分達の正義があったのでしょうけども、やはり自分は日本人なんだと痛感しました。
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
数に驕り、勢いに驕ったヤンキー共に正義や道義があるなら軍事施設の無い場所や非戦闘員の生活圏を空爆したりしないでしょう!!婆は今の日本人がかつて侵略した半島や中国を憎みながら、アメリカを憎まず、飼い犬に甘んじているのが理解出来んダ
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
彼らも必死です。大戦後半でも、 時々、紫電改などの本土の強い残存航空隊が、 大軍にひるまず迎撃に上がってきましたから。
@eternalservant
@eternalservant 9 ай бұрын
涙でプロペラに合掌しました。 添乗員の時に知覧特攻会館にお客様と行きました。制服がずらっと並んでいる部屋には悲しくて入れませんでした。お茶は敬意を込めて知覧茶を飲むようにしています。 昨今年配の方々を軽んじる発言をする成田ら周辺がいますが、彼らは年配の方々の世代や特攻隊の方々が今の平和、豊かな国を築きあげた事実を無視して語るので残念でなりません。 いつか二宮の地に行ってみたいと思いました。🙏
@あか-l8q4d
@あか-l8q4d 9 ай бұрын
涙なくしては見れない動画でした。 先の大戦でお亡くなりになられた英霊に敬意を表します。 合掌
@trablitz911
@trablitz911 9 ай бұрын
たまには近代史もいいもんですね。プロペラの墓標が映るシーンは1974年の「砂の器」を彷彿させられました。きっと上原中佐の意地は二宮の人々の心をも強く打ったんでしょうね。欧米列強諸国の横暴に立ち上がった当時の人々の状況を探ろうとせず今の価値観で非難するほど道理をわきまえない事は無いと思います。
@トイレの紙様-p2f
@トイレの紙様-p2f 9 ай бұрын
鹿児島の先輩にこういう方が居たのは、自分自身勇気付けられました。ありがとうございました
@井上浩孝-d9p
@井上浩孝-d9p 9 ай бұрын
生まれた時代のせいで、28際の若さで命を散らした上原さん。もっと生きたかったろうやりたいこともあったろうと思うと悲しくなります。 どんなに時代が変わっても、日本のために命を散らしたたくさんの人達がいる、彼等の死を無駄にしないためにも必死に生きて日本を良くしていくことが何よりの供養だと思いました。 先祖から受け継いだ命を全うしようと思います。
@user-bbryO664
@user-bbryO664 9 ай бұрын
軍が回収する前にプロペラを回収してくれた地元の方々に感謝したい。彼の様な国を思い、その身を捧げて国民を、国を守ろうとしてくれた全ての方々。今自分達がこの日本で戦争を経験する事なく生きていられるのは、そんな偉大な英霊達のお陰だ。でもやはり悲しい...。
@goodraku
@goodraku 9 ай бұрын
毎回大変興味深い動画をあげていただきありがとうございます
@shinsaku_kihei
@shinsaku_kihei 9 ай бұрын
上原重雄中佐に敬礼🫡 合掌🙏 靖国にお参りさせていただきます😭
@ゲス沢直樹
@ゲス沢直樹 9 ай бұрын
戦争で散っていく人達の心情も様々あると思いますが、前線で戦う人達は最後は死ぬと分かっていてそれでも戦い抜くのは愛国心あってのものだと思います。 愛する家族の為、友の為、日本の為に戦ってくれた英霊には違いないのでその者達に恥ないよう生きていくのが今の辛いご時世には必要かと思います。
@mizushimahironori8118
@mizushimahironori8118 9 ай бұрын
上原重雄中佐、初めて知りました。 まさにもう一つの、永遠の0。 上原さんの胸の内はもちろん、大軍の敵にたった一機で突っ込んでいく機を、地上の人たちはどんな思いで見ていたのかな? 同僚や部下のみなさん、どんな思いだったのかな? 撃墜されて機体が落ちた所まで行って、プロペラを回収した人はどんな気持ちでいたんだろう? いろいろな視点で見ていくと、涙が止まりませんでした。 よくお手入れされている墓碑を見て、今でも、いかに地元の方が大事に思ってるか伝わってきて、また涙。 素晴らしい動画、ありがとうございます! 本当に、知れて良かったです 怪奇な歴史研究室さんの動画からは、再生数や撮れ高を稼ぐというよりも、当時を生きていた人々の思いや、心の熱さなんかが感じられて、胸の内迫ってきます。 大好きです。 これからも楽しみです✨
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
再生数は、そうですね、そこそこでいいかな、と思ってます。 ただ、多くの人に知ってもらうにはある程度のばさないととは思いますね。
@CALEN-x3r
@CALEN-x3r 9 ай бұрын
最近オススメに出てきたので試しに視聴してみたら…どハマリしました(笑) 新しい順から順番に見ています。どれも感慨深い動画でクォリティの高さを感じます。今後も頑張って下さい!微力ながら応援しています😊
@大楠昂
@大楠昂 9 ай бұрын
先の大戦の史実をアップされたので驚いております。英霊には敬意しかありません。静かに合掌致しました。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
実は個人的にも一番詳しいのがこの大戦なんです。。 ただ、怪奇な歴史という事でもないので、本当は別チャンネルでやりたい。。
@大楠昂
@大楠昂 9 ай бұрын
@@怪奇な歴史研究室 様 そうだったんですね。子供の時に、祖父の戦争体験を聞いて、歴史に興味をもちました。
@tru5FVILKJ
@tru5FVILKJ 9 ай бұрын
素晴らしい動画でした 涙が出ました ありがとうございます。
@いつきちゃん-l1m
@いつきちゃん-l1m 9 ай бұрын
うるっときました。 素晴らしい動画をありがとう
@グランマy
@グランマy 5 ай бұрын
本当はどれだけ怖かったか… 胸が痛みます。 英霊に感謝。
@伊藤麻沙人
@伊藤麻沙人 9 ай бұрын
全く知りませんでした さっそく現地に参りお線香を上げました 今は静かな空を眺めながめてきました 感謝の念でいっぱいです
@kumosukeponsuke
@kumosukeponsuke 9 ай бұрын
これは存じ上げませんでした。。昨夏亡くなった母が戦時中、疎開してた先に、ある日若い兵隊さんたちがやってきてとても優しくしてくれたそうです。その後、ピアノを弾ける兵隊さんの伴奏で同期の桜を歌ったそうです。皆さんとても若かったと…恐らく年を経て思い出す母には若い以上に幼く見えたのだろうと思います… 数日後でしょうか、上空に飛行機(機種は不明です)がやってきて、母たちの疎開先上空を、手がハンカチが届きそうな距離を旋回して遠くに去っていったそうです。みんなで手を振ったそうです。母の記憶をもとに調べてみたら、群馬の飛行場から飛び立った編隊のようです。この話は生前母とした最期の日常会話でもあります。 恐らく日本全国でこうした語り継がれているだけで記録に残らない話があろうと思います。動画のような記録は大変貴重であり、また意義深いものと思います。
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
美しい情景です😢
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
なるほど、いい話ですね。 当時の日本航空隊は世界最強で、 初期の頃、米軍は単機でゼロ戦を見たら逃げろ、と命令されていた、 米軍基地上空で、酒井三郎なんかはゼロ戦で見事な空中芸をして 米軍があっけにとられて撃てなかった、なんて話もあるようです。
@kouzouji-h2i
@kouzouji-h2i 11 күн бұрын
@@怪奇な歴史研究室 戦争初期は熟練パイロットが健在でしたのでゼロ戦に対しても苦戦したようで単機ではなく少なくとも三機編隊でドッグファイトするような指示が出ていたらしいが 何せゼロ戦は航続距離と飛翔性能を優先するあまり軽量化され防御板が薄くて当時既にある意味人命軽視の思想が働いていたきらいがある。
@おたくさ-g5z
@おたくさ-g5z 9 ай бұрын
良い動画をありがとうございます。 彼らも戦争なんてしたいわけが無い、でも、そうするしかなく、家族の身や先祖が大切にしてきたものを守るために、、だったと思います。 お若い主様が心を寄せておられることが嬉しいです。
@kurokamome26
@kurokamome26 9 ай бұрын
なんだろう…この手の動画は涙が出る。
@tanko2550
@tanko2550 9 ай бұрын
怪奇な歴史研究室様いい趣味ですね!!かっこいいです大和魂そのものこれも忘れてはならない歴史の断片プロペラが語る彼の人生の気品と尊厳日本人の生きざまをに深く頭を垂れ明日への希望に託したい!!素晴らしい動画でこの切り口も新しくてまたいいですね。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
ありがとうございます。
@davidcoldstar6333
@davidcoldstar6333 6 ай бұрын
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」 吉田松陰
@tanko2550
@tanko2550 6 ай бұрын
@@davidcoldstar6333 様 吉田松陰の言葉山口県萩市の松下村塾行きました とても感銘の言葉が並び石碑が立っておりました。彼の心情が痛いほど分かる。時代はいつもつらい試練を突きつけます生きてることが奇跡だった頃。
@みよし三吉
@みよし三吉 9 ай бұрын
コメント入れようと思ったけど 良い言葉が浮かばない ただ涙が溢れました。
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
わかる😢
@brcelona04
@brcelona04 9 ай бұрын
どうか、この素晴らしい動画がご子孫の方の目に止まりますように…
@令和玲
@令和玲 9 ай бұрын
本当に素晴らしい動画を有難うございます 涙目になりながら拝見させて頂きました。
@toto1632
@toto1632 9 ай бұрын
上原隊長の墓標に感謝の気持ちを強く強く込めて 合掌させていただきました 上原隊長そして歴史研究室様 ありがとうございます 弱ったな  涙が止まらないよ・・
@ネコ-c5j
@ネコ-c5j 9 ай бұрын
どんな思いがあっても、生き延びて、戦後の復興に尽くす事もできたのに。優れた人達が先に亡くなって、残念です。
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
同感😢
@チャパティー
@チャパティー 9 ай бұрын
いつも動画を観ています。二宮で機銃掃射があったのは知ってましたが、上原さんの事は知りませんでした。 ありがとうございます。
@れいじまる-d4h
@れいじまる-d4h 8 ай бұрын
そう、今では逆に日本軍が非戦闘民を必用に機銃掃射したことになってますけどね・・
@mr.chin-chyan
@mr.chin-chyan 9 ай бұрын
戦争遺跡って、意外と身近にあったりします。 古い港町などの寺社や公園などには、戦後に引き上げられた軍艦の錨や今回の動画のようなプロペラの一翼などが慰霊碑として建てられてたりしますね。 もう風化しつつある戦争の記憶ですが、しっかり受け止めるべきものだと思います。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
普通の公園の円形のコンクリが砲台跡だったり、実はけっこうあります。
@mr.chin-chyan
@mr.chin-chyan 9 ай бұрын
@@怪奇な歴史研究室 確かに、気付かぬだけで結構ありますね。 他にも当時の駅を補修してそのまま使用してるJRや京急線の駅などもあります。 機銃掃射の跡を見たりすると、過去が今に続く歴史を感じますね。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
京急けっこうありますね、横浜のほうとか
@hiro.n2485
@hiro.n2485 9 ай бұрын
二宮にこんな英霊のエピソードがあったとは存じませんでした。富士と菜の花の絶景スポットがあるところですよね。上原隊長、安らかに。。
@リエル-t2x
@リエル-t2x 9 ай бұрын
胸に響く動画でした😢
@YuYNaN5253
@YuYNaN5253 9 ай бұрын
特別編の動画、ありがとうございました。ストーリーもリアルで、涙が止まりません。 いつもですが、音楽のチョイスも絶妙で、とても素晴らしいです。
@さくしょう-p3i
@さくしょう-p3i 9 ай бұрын
素晴らしい動画ありがとうございます。 私もあの時代背景や世界情勢を考えたら、あの世界は仕方なかったのかとも思います。 当然仕方なかったなどで片付けては良くありませんが… もしあの時、日本が戦っていなかったら今頃はこの日本は欧米の植民地になっていたかもしれませんし日本という国が存在していなかったかもしれません。 決して戦争を肯定するわけではありませんが、私達のために戦い命を落とした方々へは感謝してもしきれません。 軍は一般人を虐殺した、ひどいことをした。そのような文献や記事、それを声高らかに叫ぶジャーナリストや政治家もいます。 そのことが事実であったかどうかは分かりませんし、否定も肯定もしませんが、いつの時代のいつの国の戦争でも同じような事、酷い事は残念ながら起きています。それは戦争というものが、人を変えてしまったのだと思います。 久しぶりに胸が熱くなる動画を発見してしまったので長文になってしまいました… 最後に、私たちの為に命の投げうって戦って下さった英霊の方々、そして戦争に巻き込まれる形で命を落とした民間人の方々に感謝と供養の気持ちを持ってこれからも精一杯生きていきたいと思います。 このような素晴らしい動画を作成して頂き本当にありがとうございます。
@masakomasako382
@masakomasako382 9 ай бұрын
素晴らしいコメントです
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
ありがとうございます。そうですね、歴史にifはないですが、 日本が北とか中国みたいになっていた世界線もあるし、わかりません、マジで。
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
泣いちまったダねかっっ😭ディケアに勤務してた頃、立派な宮大工だったお爺さんが利用されていた。戦時中、特攻だったと言う。仲間とかねてから、俺が先に逝ったら、俺の形見を親に届けてくれと約束しあった。何故か、その人だけ生き残り、互いに誓った戦友の家に遺品を持って訪ねなければならない。それが本当に辛かったと語った。見事な神社の拝殿などを造った腕のいい宮大工さんで、穏やかな温厚な、そして、いかにも職人さんという印象の人だった。生き残り、敗残の故国を必死で建て直し、優れた仕事で評価を得た人だったが、戦友に先立たれ、悲嘆にくれる家族を訪ねた胸の傷みは戦後何十年経とうと忘れられるものでは無かったろう。動画を視ながらその人の事を思い出して新たな涙が流れた。哀しい目で語ったSさんが亡くなって随分経つ。神も仏も無い世の中だという事は十分分かっているし、あの世なんてありゃしないが、Sさんが、あちらで懐かしい仲間に出逢えて、笑顔で思い出話をしていて欲しいと結構、真剣に願ってしまっている。 時が来れば人は死ぬ。生きたい命をわけわからない大義名分の為に散らされる世の中は厭だ!戦争は断固反対だ!!史上最低最悪に穢い、無惨な戦争とも呼べない大虐殺を続けるネタニヤフに、この婆の怨嗟、呪詛が具現化して届けばいい!!神仏なんざ居ないが人に悲憤の心がある限り、豈、安穏におくべきや、ジェノサイダーネタニヤフ💀
@花田麗華
@花田麗華 9 ай бұрын
上原中佐のエピソードは初めて知りました。本当にまだまだ知らないことだらけだと痛感した次第です。 共感であふれたコメントの数々も泣きながら読みました。 私の祖父も戦死者ということもあり、興味深く視聴させていただきました。 こういったテーマを取り上げてくださる室長様に感謝します。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
ありがとうございます。
@wouldhrough963
@wouldhrough963 9 ай бұрын
自分も“うp主さん”と同じ意見です。相手にも正義や立場があるのは当たり前ですが、だからって黙って奪われるわけにはいかないですからね! 結局世の中は勝った方が正しくなって、歴史を創っていくだけの話ですよ…
@uz395
@uz395 9 ай бұрын
仲間や家族のために必死で戦った兵隊さんたちは、今の平和で裕福な日本(斜陽ではありますが…)の礎になったことは間違いないと思います。 中枢にいて判断を誤ったエライ人たちはちょっとアレですが…
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
現場にはすごいスキルのサムライがいたりするが、 上層部が判断をミスる、という、、これが日本的というか、大企業もそうですね。
@63hakaider20
@63hakaider20 9 ай бұрын
この当時の日本人は本当に凄かったから戦後のアメリカが日本を骨抜きにしたくなるのも良くわかるなぁ( ´△`)
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
目的は達成してるでしょう
@Ymaekku
@Ymaekku Ай бұрын
それどころか、今も怯えて敵国の対象からはずしてもらえません。
@kunihiko690918
@kunihiko690918 9 ай бұрын
こんばんは。いつも興味深く視聴しています。まずは上原重雄中佐とあの戦争で亡くなられた方々の冥福をお祈りり致します。地元の話なので大変興味深いです。神奈川の特に自分の住むエリアには昔航空機の部品を作っていた工場や火薬廠があり、アメリカも集中的に神奈川の南西エリアの攻撃を強めていたのですよね。湘南平には海軍の陸戦隊の基地があって太平洋からくるB-29に対抗するために高射砲陣地があったのですが、B-29に爆撃され壊滅させられたようです。その名残が残っています。湘南地区の夏の祭りは空襲で亡くなったかたの供養の為に始まったそうですね。西湘地区にこのような戦闘機の第二次世界大戦の遺構があるとは知りませんでした。思想によって解釈の変わるようですがあの戦争はすべての人の心に傷を与えていますね。自分の母方の祖父は兵隊学校の試験で甲種合格して日中戦争で従軍して負傷兵となって帰ってきましたが頭に銃弾が残り、後遺症で感情のコントロールができず、酒を飲んではあばれて、祖母に離婚されて晩年は孤独に生活していたとか。自分が中学の頃に事件に巻き込まれて亡くなっていたとの事。その悲しみは一種の怨念となって後世の自分たちにも暗く受け継がれていると感じます。自分の祖父や上原中佐、多くの戦死された方々の御冥福をお祈りいたします。これからも活躍応援しています。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
平塚にも火薬庫があり、空襲うけていますね。 撃墜された米軍機が火をふいて西湘沖に墜落した記録とかも残っています。 湘南平の高射砲跡地は私も行ったことあります。今でも残っていますね。
@時雨北村
@時雨北村 9 ай бұрын
知見を深める。ありがとう御座います。
@SY-bf7ce
@SY-bf7ce 5 ай бұрын
GWに二宮の実家に帰って銃痕を見てきました。今度はプロペラを見に行きます!次回の動画も楽しみにしております🙇
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 5 ай бұрын
ありがとうございます!!!プロペラはけっこう遠いので車がオススメです! あのへん、鈴廣のかまぼこと梅干し、最高ですよね。
@スコビッチ
@スコビッチ 9 ай бұрын
素晴らしい動画ありがとう ございます。
@sabasironyanta
@sabasironyanta 9 ай бұрын
初めて聞いた。 語り継がなくちゃいけない話です
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
KZbinでも取り上げられてないマニアックめな話なので 私が残しておこうと思いました。
@marusy8
@marusy8 6 ай бұрын
かなりこのような話は好きだ。 しかし、悲しい思いが溢れてくる。
@高崎のエストレア
@高崎のエストレア 9 ай бұрын
心より哀悼の意を捧げます。 先代が命を賭して遺してくれたこの国を守る。 それには今の社会情勢、今まさに晒されている災害、日本経済。 これらを同時に守り抜く時代になってきたのかなと存じます。 英雄が守り抜いたこの日本国が未来永劫続きますように。
@みよし三吉
@みよし三吉 9 ай бұрын
福島第一原発 原発を造る前は飛行訓練所があったのだそうです。 現在の大熊町夫沢など、海に面する一帯に築かれた、 旧日本軍の「磐城飛行場」のことだそうで、そこには 「お国の為に捨て石になる」と誓って石を持って集めた 「捨て石塚」という場所がひっそりと残っています。 日本人は日本全土で国を護ろうとした証です。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
それは興味深いですね
@mi-na5391
@mi-na5391 25 күн бұрын
素晴らしい動画をありがとうございます。 涙が止まりませんでした😢 彼らが命懸けで守ってくれた日本、彼らに恥じないように生きていきたいと思います。
@まんまるあやちゃん
@まんまるあやちゃん 9 ай бұрын
横浜にもあるんです。 八景島から程近く、アウトレットモールのあるベイサイドマリーナの間近。富岡総合公園の桜に囲まれて。横浜航空隊の基地の跡です。 沢山の人がそごから飛び立ち、帰って来る事のなかった地です。 かつては崖下に戦闘機の格納庫がそのまま残されていましたが、今では自治体に依って埋められてしまいました。 それでも古い門柱は残されています。小さなお社と記念碑が残されています。 そごは今ではお花見の名所になっています。 もしも彼の地にお花見に行く事があったら、近くを通る事があったら、そこに航空隊が在り、征きて帰らぬ人がいる事を思い起こして頂けたら幸いです。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
けっこう海軍の遺構が残っているみたいですね。いつか行ってみたい。
@橘未央-b6e
@橘未央-b6e Ай бұрын
コメントが上手く出てこない。 けど、これだけは確か。 本当に身を呈して下さった事、絶対に忘れません。 ありがとうございます。
@92rei
@92rei 9 ай бұрын
「家に金も入れないろくでもない親父だったが、日本を守った苦労だけはりかいする」とうちの母親は戦争を生き残った爺様の介護をしました。 やり過ぎな面もありましたが、もし戦っていなかったら、今日の我々は奴隷だったかもしれないなと・・・。 改めて歴史とは多くの人々が泥を這い、手を血で汚し汚され生き抜いた結果なのだなと思います。
@孝貴
@孝貴 9 ай бұрын
上原隊長静かに眠って下さい。そして、現在の日本を見つめてくれてるのかな?
@FreezeQueen-k4h
@FreezeQueen-k4h 8 ай бұрын
このような映像をみると私達には その若さで可哀想、もっと生きたかったはず、やりたいこともあっただろう などと感じたり、思ってしまうが 彼等は私達がお腹いっぱいご飯を食べれて、お金に困らず、家族と離れることがなく、自由に生きられる時代と社会になることを願い、命を賭けて戦ってくれただけだと思います。彼らの見つめていたのは平和な世の中にすること、自分達のような経験をしないように、それだけだと思います。今の時代を嘆いているとか怒っているなんて言う人もいますが私はこんな時代になったんだなと笑って安心していると思います。虐待、介護放棄、キラキラネーム、パパ活などにはドン引きしてるかもしれませんが 自分達の役目は果たした。と達観してるのではないかと感じています。
@媚びず厭わず囚われず
@媚びず厭わず囚われず 9 ай бұрын
感銘を受けました。
@ccosmod-5904
@ccosmod-5904 9 ай бұрын
不謹慎かもしれませんがプロペラが墓石になり名前と詩が刻まれるなんてまさに伝説のパイロットですね
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
古参で実力者だと思います。
@春夏秋冬-t3t
@春夏秋冬-t3t 9 ай бұрын
あなた様の個人的なご趣味こそ大好物です。
@山本猫-h3r
@山本猫-h3r 14 күн бұрын
素晴らしい軍人の情報をありがとうございます。自分もこうありたいです。人生の励みにします。またお墓参り出来たらいいと思います。
@W650kawasaki
@W650kawasaki 9 ай бұрын
私が子供の頃は偽かどうかわかりませんが、傷痍軍人が道端で募金活動してました。私にとって戦争はまだ身近です。故に今でも上層部にもっとやりようが無かったのか、海軍と陸軍の非効率な反目、日本人(民間人)を大量虐サツしたアメリカ、等に苛立ちを覚えます。今自分に出来る事は投票するくらいしかありませんが。
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
もはや戦後では無いと言われた年にあたしは生まれたが、子供の頃、神社やお寺の縁日には白衣の傷傷痍軍人が境内で、ハーモニカで哀愁漂う軍歌を奏でて参拝者が投げ入れて行くお金に頭を下げて居た。あたしの父は百姓の倅で野鍛冶だったが、2回兵隊にとられ、敗戦の時には伍長だった。軍事恩給は、父の死後も半額は母に支給され、そんなに少ない額でも無かったようだった。傷痍軍人になった人たちは五体満足で帰って来れた父より支給されたのではないか?寒風吹きすさぶ境内で物乞いせねばならぬ程窮乏の戦後だったのか?なんにせよ、ザマも無く負けたあの戦争が無かったら、彼等は手足を失わずに済んでいたのだ。
@W650kawasaki
@W650kawasaki 9 ай бұрын
そうでした。白い服だったと思います。 偽かどうかは、どうかな? 去年は知覧と鹿屋に行きました。 悲しくなりますね。命の無駄遣い。 死ななくても済んだのではと思います。 装甲を厚くする米軍機、パイロット犠牲が前提の日本軍機の行き着く先が自爆攻撃。
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
​@@W650kawasaki様 白い病衣のような和風の着物に軍帽。幼さの残る若い子も居ました。国に命を使い捨てされてはいけません! 今、現在、ガザで地獄の大殺戮を続ける悪鬼のようなネタニヤフを止めるものはいないのでしょうか
@masakomasako382
@masakomasako382 9 ай бұрын
@@言霊の幸う國のムソジニスト上野の高架下に沢山いらっしゃいました
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
​@@masakomasako382様傷ましい姿でした。
@ravenvein
@ravenvein 9 ай бұрын
私は瀬戸内海の近くに住んでます。近くの医院には零戦のプロペラが展示されてます。 こちらは紫電改の伝説が多いですが、今では米軍基地もあり、何だか不思議な気分です。 戦場に於いて死す機体と知りながらも空戦を突き詰めた軽量機を私は誇りに思います。 日本の総ては零戦と日本刀に尽きます。
@tarou_tanaka857
@tarou_tanaka857 9 ай бұрын
600機で1機をフルボッコとか容赦ねぇなぁ。
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
アメ公やユダ公に騎士道精神や武士の美徳を望むのは、漆の木に登って、河豚ちりの材料を求めるのと同じです
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
こうやって、婆はしばしばコメ欄24時間出禁にされる😢
@hayatokanekon6339
@hayatokanekon6339 9 ай бұрын
銃後の民間人の為に飛び立ったんだな。数では無く己の信念で立ち向かって散った英霊に🫡
@masakomasako382
@masakomasako382 9 ай бұрын
涙が止まりません 私の家族は、いつも靖国に参りました 父は、亡くなる前戦友が枕元に迎えに来たと何度も言っておりました 生き残った苦しみがあったのではないかと思います 涙が止まりません ありがとうございます
@ホネック
@ホネック 9 ай бұрын
感動した。ありがとう
@user-ru2nf6vg2w
@user-ru2nf6vg2w 9 ай бұрын
素晴らしい戦跡巡礼でした。全く右でもなく中道の考え方だと思います。私達がこうしていられるのは先の大戦で亡くなられた方々のおかげなのですから。
@ホヤぼーや-e8f
@ホヤぼーや-e8f 9 ай бұрын
日本にはこのように埋もれた戦史が各地にあると思いますが何かで紹介されて人の記憶に残れば、と願っています。 自分の地元は呉ですが、戦時中撃墜された米軍機パイロットの慰霊碑や戦跡などが多いので今も当時のことを振り返る機会は多いです。
@masayafujiki8471
@masayafujiki8471 9 ай бұрын
1945年8月15日の午前まで、出撃していたそうですね。 終戦まで、もっていくのが、たいへんで、江戸生まれの最後の首相、鈴木貫太郎も、緑十字機が不時着、宮城事件、苦労したようです。ソ連に立ち向かった樋口季一郎も立派でした。宮本常一の著書を読み直しています。個人的には、駆逐艦「イカズチ」の工藤俊作大佐が好きです。😮😮
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
終戦後、厚木基地のクーデターとかありましたからね。 彼らは戦争継続というビラを飛行機から撒きました。
@オラフオラフ-n8s
@オラフオラフ-n8s 9 ай бұрын
時代と共に殉死した映画壬生義士伝の吉村貫一郎を思い出しました。
@masayafujiki8471
@masayafujiki8471 9 ай бұрын
ご苦労さまです😮
@mg4259
@mg4259 9 ай бұрын
上原陸軍中佐を始め多くの方々が戦にその身を投じ、多くの流された血があったからこそ今の平穏で豊かな祖国日本があると確信しています。 戦にその身を捧げられた全ての方々に 着剣! 捧げ銃!
@tomopenfield3750
@tomopenfield3750 10 күн бұрын
日本人である事を誇りに思います。
@うぐ-j2t
@うぐ-j2t 9 ай бұрын
今回は…ほんっと悲しい…なんだかんだあるけど…やっぱり戦争はいかんよ😭…🐸
@言霊の幸う國のムソジニスト
@言霊の幸う國のムソジニスト 9 ай бұрын
戦争は絶対悪!!
@azukichan519
@azukichan519 5 ай бұрын
知りませんでした。 死ぬまでに行く場所がまた一つ増えました。 動画配信、ありがとうございます。 そしてプロペラを回収してくださった方達、ありがとうございます😭
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 5 ай бұрын
けっこう辺境の地にあるので、車で行かないときついですね。。
@ラーメンロドピス
@ラーメンロドピス 11 күн бұрын
ありがとうございます!
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 11 күн бұрын
ありがとうございます!!感謝でございます。
@buriburizaemon-w4x
@buriburizaemon-w4x 9 ай бұрын
右も左も関係ない、本当この国の将来を憂いているなら上原隊長手を合わせる筈。英霊たちお陰でこの国の今が有る事を忘れてはならない。 他にも多くの賛同コメントが有る事にかんげきしました。
@stephenohara7834
@stephenohara7834 9 ай бұрын
戦争は十二分に避けられたし、植民地もビルマやフィリピンのように独立の準備段階にあったのは確かだと思う
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
そういう見解もわかります。
@三上輝子-h1r
@三上輝子-h1r 8 ай бұрын
私の伯父も偵察機に乗って戦士してます。裸眼の視力が良かった為特攻では無かったのですが戦士しています。 亡き父がずっと気にしていたので記憶して居ます。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 8 ай бұрын
偵察機と言えば彩雲! 偵察にいったのに敵を見つけたもんだから、そのまま特攻した機もあった、たしか。
@三上輝子-h1r
@三上輝子-h1r 8 ай бұрын
ありがとうございます。知覧から出発したと記憶しています昭和19年12月8日だと思います。 父が亡くなって遺灰を海に散骨しました、兄弟で会えるように
@チェルシーお父さん-s8q
@チェルシーお父さん-s8q 3 ай бұрын
近代史特別編、8月にまたみたいです
@クーニン55
@クーニン55 2 ай бұрын
命懸けこの国を守ろうとした方々に感謝したいです
@zb2682
@zb2682 9 ай бұрын
趣味的に上原中佐を取り上げたのなら、是非「廣瀬治陸軍少尉」の動画も作成してくれると嬉しいです。山梨県上野原市です。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
ちょいちょい、第二次大戦は取り上げていきたいですね。
@todapon
@todapon 9 ай бұрын
隼部隊 (隼第一八九一三部隊)だから疾風ではなくて隼を使ったのかな。 いつも動画UP楽しみにしています。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
疾風か隼でしょうね、一応、記録では疾風てことになってます。
@マリアアントニア
@マリアアントニア 9 ай бұрын
たとえ無謀であっても、二宮の人々を守りたい一心で上原隊長は立ち向かったのでしょう。責任感が強い方だったのでしょう。靖国神社で仲間と再会出来たのだろうか…。
@tk-5712
@tk-5712 9 ай бұрын
東京大空襲の時も、B-29に体当たりして散って行った名もなきパイロットがいますからね。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
震天制空隊とかですね、何度も体当たりして脱出してを繰り返した猛者もいます。
@tk-5712
@tk-5712 9 ай бұрын
@@怪奇な歴史研究室 私の親父が昭和19年に召集されてフィリピンへ渡り、運よく半年後に帰国した直後に観たそうです。 東京上空でB-29に体当たりしたそうですが機体がバラバラになり、体当たりされたB-29は悠々と飛んで行った そうで、終戦間近だったのでその震天制空隊で使用されていた機体はもう一機も無い状態だったかもしれません。 それでやむなく戦闘機と言えないような旧式の飛行機で体当たりしたのかもしれませんね。
@源の浮雲
@源の浮雲 9 ай бұрын
🙏🙏🙏😭
@Yuel-l3f
@Yuel-l3f 8 ай бұрын
自分はどちらかと言うと左よりだと思うのですが、この動画を観て気づかされることがありました。 自分が今生きているこの国はこの国を守ろうとした勇敢な若者たちの意思と命によって存続しているのだと。左も右も関係なく、こうした若者がいたことを忘れてはならないと思いました。そして日本のさらなる発展を願います。 英霊に安らかなる眠りを。合掌
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 8 ай бұрын
右と左という善悪二元論みたいな考えが分断を生むとも私は考えますので、 個でなく宇宙全体でとらえた普遍的な生命としての心理、これを考えれればと思います。
@チェルシーお父さん-s8q
@チェルシーお父さん-s8q 3 ай бұрын
まさに同感です。ただ今は、ご冥福をお祈りしたいです。
@SY-bf7ce
@SY-bf7ce 6 ай бұрын
二宮出身ですが恥ずかしながらこの動画を見るまで全く知らなかったです。ありがとうございます!
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 6 ай бұрын
駅前にたしかガラスのうさぎのオブジェとかありますね。二宮
@南乃風
@南乃風 9 ай бұрын
素晴らしい動画をありがとうございました。だんだんと戦争の記憶が風化していきます。かく言う私も六十代半ば。私の父は海兵生徒の内に終戦を迎え、結果私が産まれたのだと思う。戦争を語ってくれた父も鬼籍に入って早くも二十七年が経過します。
@ピエロ-z6w
@ピエロ-z6w 9 ай бұрын
特攻隊で多くの若者が散って行ったんですね😢🙏ご冥福をお祈りいたします!泣けますね😂
@久保田拓磨-o9z
@久保田拓磨-o9z 9 ай бұрын
私も特攻隊については不思議な体験をしており、現在の日本があるのは彼らがいたからこそだと思います。
@東丈-u8r
@東丈-u8r 9 ай бұрын
the 『ラストサムライ』に、 合掌
@mademoiselle_mozart
@mademoiselle_mozart 2 ай бұрын
上原重雄中佐の事はこの動画ではじめて知りました。碑文を読むと涙が出ます。 祖母がまだ赤ちゃんだった父を背負って畑を耕してた時、米軍機が飛んできてパイロットと目があったそうです。「撃たれる!」と身をすくめたけどパイロットは機銃掃射ボタンを押すことなくそのまま飛んで行ったの、と今は亡き祖母がした体験を父が話してくれました。 カーチス・ルメイなど米国空軍首脳部は「空襲しても弾が残ってたら機体が重いから弾は(一般人でも撃って)捨てていけ」と命令してたとか。 だから米軍は面白半分で民間人を銃撃していたのでしょう。 祖母と目が合ったあのパイロットは赤ん坊を背負った若い母親を撃つのは忍びなかったのか弾切れだったのか…今となってはわかりません。 私が生まれて美味しいご飯を食べられてうp主さんの動画やアニメを見れて推しアーティストのコンサートに行けるのも全ては命を賭して日本を守ってくれた英霊たちのおかげです。 今回の動画で改めて思いました。 また近代史も取り上げてください。よろしくお願いします。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 2 ай бұрын
米兵も全員がわるい人間ではないのでしょうが、 けっこうひどい話はあります。 ただ、戦争だから普通の人間も狂気になる部分はあるでしょうね。
@ピン中親父
@ピン中親父 9 ай бұрын
無謀な作戦、もはや作戦とは言えない戦闘に、追いやった高級幹部、作戦司令部には怒りしか感じ得ない。
@imaimiko1529
@imaimiko1529 9 ай бұрын
私の祖父も戦死しています。そのせいか一時期、大戦のルポルタージュを読み漁っていた時期がありました。 以前、NHKで機銃掃射の映像を見て、戦時とは言え言葉になりませんでした。そのような中、上原重雄中佐のような方がいらしたのですね。プロペラの墓標、手を合わせました。涙。
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
大戦後半にこのような米軍機に立ち向かった紫電改の剣部隊はけっこう活躍しました。 菅野直とかですね、かれも何十機という米軍機を撃墜しましたが、あと数日で終戦の頃、 日本の空に散りました。
@imaimiko1529
@imaimiko1529 9 ай бұрын
@@怪奇な歴史研究室  菅野 直さんは事は何処かで目にした気が。遊就館で私物が展示されてますね。何度か見学しているので、きっと目にしています。また色々読んでみようと思います。
@yoakezeyo-ve6yl
@yoakezeyo-ve6yl 9 ай бұрын
ありがとうございます。
@shinz424
@shinz424 9 ай бұрын
昔は 人も歴史も偉かった。
@久保泰平
@久保泰平 9 ай бұрын
毎回興味深い動画をありがとうございます。もしかしたらもうご覧になったかもしれませんが、怪奇な歴史研究室さんは、上映中の「ゴジラ-1.0」とか好きなタイプかも、と勝手にこの動画を拝見して思いました。もしご覧になっていなければあの映画はこの動画をupする方なら、オススメです!!
@怪奇な歴史研究室
@怪奇な歴史研究室 9 ай бұрын
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