【教科書にのらない古代史】6000年前から語り継がれてきた天皇以前の歴史│小名木善行

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Күн бұрын

Пікірлер: 254
@はぐみまま
@はぐみまま 2 жыл бұрын
動画配信ありがとうございます。 ✨✨✨✨✨✨ 日本人は、日本を知ることが大切ですね😊🌈✨✨✨
@ABCXYZ---
@ABCXYZ--- 2 жыл бұрын
焚書されて  いるもんなぁーー
@スメラ皇
@スメラ皇 2 жыл бұрын
何万年前の遺跡が日本に実存し、古代の文献も実存しているのは確かなことだから、私情は皆無として、誠心誠意を持って、フラットベースで繋げていけたら素晴らしい。それが出来てくると未来に道が開けるし、今現在の我々の【時代軸においての位置】もしっかり認識できてくる。
@esthermonai9024
@esthermonai9024 2 жыл бұрын
確かに、ペルーのチチカカ湖行った時、父と母の意味で日本語から来ているようだった。日本人ってこんなところまで来てたんだ〜!って思いました。
@SMNLWJF
@SMNLWJF 2 жыл бұрын
飛騨高山から日本が始まったという話はよく聞くし、竹内文書もそうなってるし、地名を見てもここが高天原じゃないかとずっと思っていた。
@ウエズナオヒト
@ウエズナオヒト 2 жыл бұрын
いつも楽しく拝聴させて頂いてます。 沖縄出身者です。石垣島の古名はイジャナギ島なので、日本神話とも深い関わりを感じます。石垣島の於茂登岳のオモトテラシ信仰は大元を照らす信仰とも考えられます。これからも応援しています。
@トワスト総研
@トワスト総研 2 жыл бұрын
イザナギ→イジャナギ→〇→イシガキって事ですか 凄いなあ
@らぶりん-l2h
@らぶりん-l2h 2 жыл бұрын
大本教もありますね。にてるわ。
@Amasato_Manami
@Amasato_Manami 2 жыл бұрын
イザナギ=誘なう男。イザナミ=誘なう女。 ギとミが男性と女性を表す古語という点を除けば、普通の日本語です。 淡路島とキチンと書いてあるのに、遥か沖縄まで行ってしまうのは不自然すぎますよね。 鉾で沼をかき混ぜる=鉄穴流しを行う喩えです。 つまり、イザナギとイザナミは、淡路島から発掘された鉄器工房の一族の人々。 ある時期を境に、製鉄施設は奈良盆地に移動して、吉野の鉱山は最盛期に2万人の労働者を抱えていたと推定されています。 大和朝廷は製鉄氏族から生まれたことを伝える物語と読めます。 そして、鉄穴流しを続けていくと大和川の川床が上昇して、奈良湖が埋まっていきます。河川の氾濫で奇稲田が川に呑まれていきます。治水事業によって奇稲田を救ったのが素戔嗚です。 出雲風土記には八岐大蛇を退治したエピソードが登場しません。出雲の出来事ではなく、大和盆地で起こったことなのです。 イザナギ&イザナミの物語と素戔嗚が神剣を得た物語は、製鉄氏族の神話と見るなら直結しています。 奇しくも=霊験あらたかな、蛇(なぎ)の剣。 奇蛇剣と書いてクシナギの剣→クサナギの剣と読みます。この転訛はウチの大学の教授陣も認めるところです。 奇蛇剣は古墳から蛇行剣として幾つも出土しています。 軍事産業を支配する製鉄氏族が大和朝廷を興し、そこから皇統が生まれたのですが、伊勢の内宮に祀られている“丹生の日女神”が皇統の誕生に深く関わっています。 応神王朝を産んだ神功皇后は息長帯姬。 息長=息が長いとは、製鉄に必要な炭火の火力を得るための鞴を指します。 継体天皇は、息長一族から選出されて皇位を継ぎました。 応神王朝も継体王朝も、製鉄氏族の息長氏から派生しています。 皇統のルーツは製鉄氏族の息長氏にあり、発掘されている淡路島の鉄器工房が日本神話の基点なのです。 とはいえ、 息長氏は日本の国姓の“姬”を世襲していますが、それはなんと中国大陸から来ています。 縄文系の息長氏と皇室が中国大陸とどう繋がるのかは、宇佐神宮の前身となった香春神社に残る、息長氏の動向に関する伝承のもとになった、中国大陸の情報や発掘結果を手繰らなければ、正確には見えてきません。 といったことを書いてるとキリがないので、この辺りできりあげますが、息長氏の正体=日の巫女の王の家の歴史は、七千年前に鬼界カルデラが破局噴火した事件まで遡れます。 もちろん、まともな文字がない時代なので、発掘結果とDNAによる追跡が頼りで、それに神話伝承が上手く合うかどうかが、古代史の謎解きの鍵となります。
@ウエズナオヒト
@ウエズナオヒト 2 жыл бұрын
@@Amasato_Manami とても勉強になります。ありがとうございます。私ももっと勉強させて頂きたいと思います。 神話は我々日本人からすると現代でもトキメキのある話だと思っています。淡路島をはじめ日本各地に沢山の神話が散りばめられているこの国に産まれてとても感謝してあます。イザナミの島も沖縄にあるので、きっとどこかのタイミングでその話が出てくると思います。だとしても、それは地元に残る伝承の一説です。それが全ての真実だとは思いません。 話は変わりますがアカホヤの大噴火の話は私も知った時は凄く驚きました。 我々の知る術もない古代の隠された事象が神話という形で隠されて散りばめられたいると思うと結び大学や皆様のコメントがとても楽しくてなりません。 これからも結び大学を応援していきたいと思います。日本をかっこ良く!
@sunsun2181
@sunsun2181 Жыл бұрын
@@ウエズナオヒト さん 沖縄独自の言い回しもあるのでしょうが、奈良時代や平安時代の都言葉が、東北や沖縄に残っています。距離が遠いので、伝わるのに何百年もかかるのです。沖縄方言は、平安時代の言葉のようです。研究している先生、いますよね。 一番簡単なのは、「XXX殿」→「XXXどん」になまったことなどです。
@nabekura4029
@nabekura4029 2 жыл бұрын
トゥーランブログで5000年ほど前諏訪らへんに黒曜石で交易していた都市が栄えていたって話をしてたの思い出しましました 土器とかもめっちゃ見つかるらしいし そのあたりに代々続いていた王朝でもあったんかな?
@いあ-y8v9m
@いあ-y8v9m 2 жыл бұрын
日本のルーツですね! 惜しみなく、お話し戴いているようで大変感謝致します。ありがとうございました。上方様ですね。。 ずっと何年も本質に触れることが出来なかった。 誰なの?分からない となっていました。 いよいよ知ることができると、信じています! 自分の使命と誰なのかを自ら探し見つける、これが人生の醍醐味なのだそうですが、私事ですが、未熟者がエゴをもって判断するは、私のゴールではないです。 そしてまだまだ未熟者で、 足らないばかりで、自分なりに、です。 そして、膨大過ぎて深すぎて、自分が寿命をまっとうできる間には、間に合いそうにないくらいです。 こうして、お話しを詳しくお聞きできる、お陰さまで、とても嬉しく思っています。 日本の、本当の歴史は、どんな状況においても、生かせる事ができるのでしょうね。。生かせるかどうかは、その人次第ですね。 次回も楽しみにしてます! ありがとうございました❗
@森内美佐子
@森内美佐子 2 жыл бұрын
ありがとうございます😊いつもありがとうございますございます😊感謝いたしております❣️
@上田桂歌
@上田桂歌 2 жыл бұрын
稗田阿礼(ひえだのあれ)の編纂の古事記のお話は信憑性が高いですね。 末子相続制は納得です。 また国境のない時代に船での長距離の移動も納得です。 6000年の240代も真実だと思います。 良いお話をありがとうございます。 魚と祖先の暮らしが密接であるのならば、 子孫の私たちは海を汚さないように真剣に考えて行く必要があります。 豆は豆として食べられるのですから、 電力を使って肉めいたものを作る食のあり方は不合理ですし、 その為に原子力発電所を稼働させ、 海洋の汚染の危機を招いていたりするのは愚かに思います。 原爆投下実験による海洋の汚染や 戦争もやはりそうですよね。 良い学びとなりました。 これからの電力はわりと世界各国で可能な、 都道府県で発電事業が可能な、 安全な設計に裏打ちされた揚水発電所なのでしょうね。 地球温暖化で、 雨量が増えることは、 水の奪い合いにならず好都合かもしれませんね。 まさに夜明けの到来と恵みを、 私たちは生きながら実感できるのかもしれません。 アダムとイブが日本を追われた説も納得ですよね。 世界中が幸せに包まれるかどうかは、 そこの住人ひとりひとりの心構えにかかって来そうですね。 2022/6/24 10:32
@madamehyotan9545
@madamehyotan9545 2 жыл бұрын
元ネタになっているのは福来出版の「日本のルーツ飛騨」かと思いますが、これによると、上方さまもイザナギ・イザナミやアマテラスも個人名ではなく役職名みたいなもので何代(何人)もいらっしゃって、それぞれの世代で状況に合わせ移動したりして日本中に親戚が広がっていった、ということのようです。ですので、高天原伝説が各地にあるのも、こっちが正しい!あっちはニセモノ!ではなく「どの説も本物」だと思います。そうゆう理解をすればそれぞれの意見の違いを争うことなく、日本人としてのつながりを感じ尊重し調和しながら歴史を学んでいけますよね。日本人であることを心から誇りに思えます(^^)
@tetsuyawakao201
@tetsuyawakao201 2 жыл бұрын
飛騨王朝、気になります! 気になり位山に、2回登りに行きました!w
@田中正之-s7l
@田中正之-s7l 2 жыл бұрын
良い、話が聞けました胸が楽になりました、ありがとうございます
@sukuna_bikona
@sukuna_bikona 2 жыл бұрын
出雲は東北と同じ方言や同じ文化があるそうですよね。 放浪していたから、列島中で同じような年代から土器などが出るわけですね。
@youtsubanokuroba
@youtsubanokuroba 2 жыл бұрын
それだけじゃなく、米などの栽培を安定化できる場所を求めて移動したのもありますね。勿論、日本の温暖化によって北上して行って。 「稗田」はそれの証明。 飛鳥時代の豪族の名前に食べ物の名前が多いのもそういう事。人々を飢えさせないために願いが込められた名?呼び名で別にあったんでしょうけど。 吉備真備ももしかしたら黍(きび)かも?w 中国大陸などから渡来してきたり、輸入して来た作物を如何に適した土地を探し、人を集めて栽培するか?を模索して来たのが、日本人のアイデンティティ。全てが学びで全てが神。今一度思い出したいもの。
@sumyoshi
@sumyoshi 2 жыл бұрын
皇室にはいまも門外不出の、もしくは口伝でのみの、物語があるんじゃないかな。
@レイライン-s6o
@レイライン-s6o 2 жыл бұрын
あえて申し上げますが、天皇家を守護する八咫烏によって、貴重な口伝を継いできた民族が抹殺されたという話もあります。カタカムナ文明の末裔とも言われる山の民、サンカです。日本國としては今の皇室のみが正嫡であるとしなければならないので、歴史の表には出せない命脈もあったのでしょう。 また、スメラミコトとしての天皇は本来、常人には近づくこともできない超次元の霊力を備えておられる。実はこの霊力を継ぐためのエッセンスを担っていた方が京都にいらしたのですが、宮内庁を通じては事が運ばない状況になっている。そこで、旧華族の方を通じて今上天皇へお継ぎする事が叶い、この方はようやくお役目が果たせたと安心して旅立たれました。 この秘宝伝授は明治天皇を最後に空白期が続き、令和の御世になってようやく正式に伝えられたというわけです。天皇といっても皆さん同様に日本国や世界の安寧を統べる霊力をお持ちであるのではない。この観点からも、皇位継承というテーマはじつに深く広く濃く重いもの。次代の天皇はやはり高潔な人格と高次の霊力を兼ね備え、臣民とともに誇り高い日本国の弥栄を守る意志をしっかり持つ方でなければ務まらない。臣民が眉をひそめるような後継者では国家が廃れます。真の愛国とは何か?誠実に考えを深めるべきでしょう。以上、長々と失礼しました。
@user-hs6oz7dn2g
@user-hs6oz7dn2g 2 жыл бұрын
ほえー、モンゴル人が馬で移動するみたいに、船で移動していたということか。頭がよさそうだな。その高い思考能力を手に入れることができるということは、慈しみの心によって安心して生活していたことが予想されるので、行っている方も焦燥感に駆られるような村八分とかはやはり大陸の方から流れてきた文化だろうな。
@ken-cw5cw
@ken-cw5cw 2 жыл бұрын
村八分とかは結局ボスがどうするかで決まるようなものですからね〜 大将がダサいと村八分みたいな事が起こる。 大将が弱い者の苦しむ姿が好きなら村八分とかイジメになるよね。 大きな災害があった時に大半の人が我が身可愛さではなく助け合おうとするのは、そういう大将がいるからですよね。 その大将はどうやって大将になったのか。 村八分というのは村の文化と言われてますが、いつもそこは海の文化とのせめぎ合いですよね〜。 確かに大陸は海が少ないから村の文化の方が根強いかも👍 日本は海に囲まれてますし。
@user-hs6oz7dn2g
@user-hs6oz7dn2g 2 жыл бұрын
@@ken-cw5cw ダサボスは騙されているだけのいい人の可能性はありますね。でもダサいことには変わりないか。
@のぶのぶ-w3g
@のぶのぶ-w3g 2 жыл бұрын
20,000年前から信仰されている神社が熊本県にある幣立神宮と静岡県にある不二阿蘇神社です。静岡県の方は、名前が若干違うかも知れません。これだけ古くからある信仰の社は、世界広しと言えども日本だけと思います。日本人に生まれた事に、大変な名誉を感じています。
@tomyinouye9384
@tomyinouye9384 2 жыл бұрын
先生の話はほんとに勉強になります。  残念なのはあまり東北の丸山遺跡や十三湖などの言及がありません。 このあたりの古代史も知りたいと思います。
@dutro76
@dutro76 2 жыл бұрын
三内丸山遺跡縄文遺跡と、Khufu Pyramidを繋ぐと、地球1/4周長です 途中には、バールベック神殿、Areni-1 cave(ワインの元祖と云われてるが、最奥部にETが子供を食人してた痕跡が発見されています)などを通り、十三湊古代遺跡近くの日本一小さな神宮を通っています、明けの明神の社は小さいが、極めて重要な拠点なのです
@アイキング-y5h
@アイキング-y5h 2 жыл бұрын
タカマガハラもそうですが、僕は、人類発祥がアフリカだけと言う事にも疑問を感じています。
@eduwardotan1879
@eduwardotan1879 Жыл бұрын
まったく私もそう思っています。ミトコンドリアイブより前に日本には打製石器の遺物が発見されています。
@宮本孝太郎
@宮本孝太郎 4 ай бұрын
タカマガハラではありません。 タカアマハラまたはタカマノハラと発音しましょう。 禍津神に繋がります。
@畑ラベンダー-x8m
@畑ラベンダー-x8m Жыл бұрын
ありがとうございます。あやとりなどの遊びは、環太平洋地域に共通していて面白いと思います。
@ダンバイン-x7y
@ダンバイン-x7y 2 жыл бұрын
私は日本が大好きです❤
@雪ダルマ-x6b
@雪ダルマ-x6b Ай бұрын
ありがとうございます、勉強に、頭に、のこします、😂
@JIN36air
@JIN36air 2 жыл бұрын
ありがとうございます。
@そらまめおとじろー
@そらまめおとじろー 2 жыл бұрын
高山は色んな場所がありますね、天孫降臨の山と呼ばれるとこもあります。 けど自分がこれは多分違うと思ったのは飛騨一宮水無神社。 ここは実際に行って思ったのですが神様がわからない。表向きにはホームページなどで書いてありますが多分違う。 宮司さんや巫女さんに尋ねようと思ったのですがやらしいと思いやめてしまいました。 知ってる方がいれば教えていただきたいです
@hidehide5282
@hidehide5282 2 жыл бұрын
コチラの動画に気づいて良かったー🍺😎
@yyxx9006
@yyxx9006 Жыл бұрын
人類の起源がアフリカだと聞いた時、幼い時から親しんできたドリフターズのいかりやさんを思い出し納得したことがあります。
@satoshitanaka7655
@satoshitanaka7655 2 жыл бұрын
「元々の日本が沖縄にあったことが科学的に証明できるものになっている」との話がありましたが興味があります。科学的な証明の内容をお聞きしたいです。
@00simaya40
@00simaya40 2 жыл бұрын
神道古神道は出雲族から国譲りを度返しした論評は如何なものか・・ 竹内文書・九鬼文書は出雲族口伝伝承が元だと思いますね。 大国主の家系ですが 蘇我氏は元々、武内宿禰の代から明日香村に島庄造営した蘇我馬子(司馬宿禰)=島大臣まで島氏とも名乗る一族。 ※斯摩、志摩、司馬は島と記す。の謂れは蘇我馬子の異名からです。 この島氏は武内宿禰と共に応神天皇の家臣だった斯摩(島)宿禰であり 斯摩宿禰=大国主直系の神門(現在読み:ゴウド)氏の末子、島津(志摩)国造家の島(直)氏の事。 (先住出雲族口伝伝承では武内宿禰は出雲族として伝えられているので竹内文書の土台は出雲族口伝伝承) その島氏の子が京丹後国の丹後国二宮社家嶋谷家と播磨国松浦氏武家島谷氏。 嶋谷家と島谷氏は元出雲最古の氏族で丹後国風土記の出雲国盗り合戦の大国主として新羅王子の天日槍と戦った一族。 武家島谷氏は海人族としてのルーツは熊野(志摩)水軍の嶋衆とも聞くので 志摩水軍→織田水軍(九鬼水軍)なので九鬼文書も出雲族口伝伝承が元だと思います。 先住出雲族口伝伝承では、4500年前にインド経由でエジプトから帰還した国常立(クナト)大神が伊弉諾神とし 東北の荒吐神を伊弉冉神として伝えていますので 国常立=伊弉諾以前の神々の系譜は出雲族の先祖でもあります(本来は出雲族の祖神の系譜)。 出雲族はエジプトファラオ系譜以前のシュメールの神々のエンキがルーツ。(クナト大神=イクナートン王でアテン教祖) 天皇家はエジプトのモーゼが率いたユダヤ人ルーツ。(アテン信仰信者=ユダヤ人) ジークムント・フロイトのユダヤ人のルーツはアテン信仰信者説に基づけば、こうなりますね。 そして、南米アンデスの黄金板に記された出雲文字の内容がユダヤ教典の理由と成る訳です。 因みにナスDの南米アマゾン特番の戦闘部族カンドシ=大国主直系先住出雲族神門(古代読み:カムド)氏(神度剣が氏の語源) ヤコブの子、神門シモン(シメオン)の孫→旧約聖書列王記の預言者で神の人シマヤ(シェマヤ)(ソロモンの子供たちの時代) ヘブライ語のシェマヤの意味は「ヤハウェ神は、聞かれる」となり シマヤ・シマヤと2度繰り返すと「ご静粛に・注目」と言う意味に成る。 エンキルーツだと言う裏付けに、トルコにはシェマヤと言う魚も居る。 追記 ギリシャの古い記録で2600年前の文献に「インスーラ・サクラ」聖なる島と その住人は「エレン種族」と記録されている・・。 (ブリテン島にケルト民が移住した時代2600年前は日本の神武天皇の健国年と一致する・・ 明治維新政府が意図的に改ざんしたのでは? そもそもの日本書紀の神武東征がアレクサンダー大王のお話のコピーの噂が・・) フィアナ騎士団(日本だと丹後国風土記の出雲国盗り合戦の大国主として戦った家の一族ですね)は イギリスの英雄フィンマックールが団長をしてた騎士団で クーフーリン(愛用の槍はスカアハから授けられた伝説の魔槍ゲイボルグ)や 先住民のアイルランド=エアル国(エリン又はエレン島)は、日本の先住出雲族にあたり ケルト民移住と英国王族のイギリス国(ブリテン島)は、天孫降臨・天津神族天皇家にあたるので イギリスと日本の比較は古代の歴史から話されるべき・・。
@00simaya40
@00simaya40 2 жыл бұрын
更に追記 ●先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜、大元出版の斎木雲州本参考。        菅之八耳(初代大穴持)             :        富家本家(事代主の八重波津身) 諏訪家健御名方富 ──│──磯城登美家─登美長髄彦 鳥鳴海 │           国押富           : 野見宿禰(富大田彦)            │        土師八嶋(南関東国造の大宮-氷川神社神主家) │ ∟______________________ 菅原道真  │ │ │          大江広元 │  │ │          毛利元就 │     │ 柳生十兵衛 毛利家・吉川家・小早川家 (最下段は私の調べと毛利家当主のお話を参考です。)      ※下記の神門氏の美良姫と富家の天日方奇日方の子が健飯勝(磯城登美家)と成ります。       (出雲建子(伊勢津彦)と兄の伊佐我(伊佐波)も系譜上に居る)             又、小野氏社家も始祖を富家7代:天之冬衣(八重波津身⁼事代主の実父)として居るので出雲族。       あと、富家と三島家の娘との子の踏鞴五十鈴姫と饒速日系譜の天村雲の間の子       嫡男、天御影の海部氏祖       次男、神八井耳の中臣(藤原)鎌足の祖       三男、沼川耳→八井耳が多氏祖に成ります。 ●先住出雲族二大王族の向(富)家口伝・伝承(出雲族酋長:富當雄)の系譜、大元出版の斎木雲州本参考。        菅之八耳(初代大穴持)             : 宗像家・宗像三女神─八束水臣津野 :        神門家本家(大国主・八代目大穴持の八千矛) │ 阿遅須枳高日子根─賀茂氏──役小角 │           塩冶彦           : 出雲(神門)振禰=倭健(=日本武)             │         伊賀曽熊 │ 健部家・二方国造家・島津(志摩)国造家の島(直)氏 (=斯摩宿禰は日本書紀の八幡神・応神天皇家臣) │ │ ∟__________________________________     神門家・日本武名代部 元出雲最古の氏族・島谷氏 │ │ │ 南関東国造家の島族(島田-島野-島崎-島村-島根-島津) │ │ 健部氏・武部氏   松浦氏武家島谷氏・丹後国二宮社家嶋谷家(下から三段列は私の調べた推定系譜)      ※百済経由渡来の南関東国造家の島族(島津)氏は、秦の始皇帝融通王=弓月君と一族郎党の帰化地名姓。 又、 産経新聞副編集長兼先住出雲族酋長だった故・富當雄さんの口伝・伝承の著者:斎木雲州の本でも 出雲族始祖の国常立(クナト)大神と古代アイヌが4500年前に北海道で合流時にアイヌと共に来たのがサンカで 出雲族の最古の工作部隊だったとされていますね。 後の出雲国譲り以降の関東平野から蝦夷の出雲系が作った三字以音(散自出雲)と言う秘密結社も出雲系工作部隊で 散自出雲で有名なのが歌舞伎の祖、出雲阿国だそうです。 出雲阿国の実家は島根・神門郡で鍛冶屋を営んでいた中村家だったとされていますね。 神戸に住む元秘密結社八咫烏幹部の坂本さんはルーツは武内宿禰ですから 富當雄さんの口伝・伝承では武内宿禰も出雲族として居ますね。 斯摩宿禰と武内宿禰・葛城襲津彦親子は応神天皇の同じ家臣で 応神天皇の命で新羅の脱解王に囚われた弓月君の一族郎党を救出していますから完全な敵対関係でも無いかと・・ とある研究では武内宿禰と斯摩宿禰は同一人物ともされていますしね。 武内宿禰の裔の蘇我馬子の別名も示唆してます。 蘇我馬子(司馬宿禰)=島大臣 蘇我馬子が島大臣を名乗り、明日香村に島庄を造営したのも島臣家の為とも思いますしね。 ※出雲忌部氏は、昔、調べた時のルーツは天若日子の子でしたので妃は出雲大国主の下照姫との子と成ります。  通説の天日鷲だと、高木(高御産巣日)神→天太玉神→天日鷲・・なので、ルーツ不明の天若日子は  高句麗渡来神と伝えられる高木神ルーツとなり  (天若日子=七夕の牽牛(彦星)天稚彦=天探女=天狗神(素戔嗚の子の天邪鬼)=  妖怪呼子(よぶこ→よびこ→山彦=山幸彦))  饒速日は一説では、天若日子の孫ともされて居ます。  物部開祖饒速日の子孫は饒速日こそ素戔嗚としているので  高句麗=高天原とも解釈できます。 また、丹後の宮津市に、かつて在った大山積神社の大江神主家に復古神道の家の社家の嶋谷家が官職として入り 同じ出雲族として大江氏に籍入れし大江氏と改姓した経緯もあった様ですね。 大江氏は大山積・大祓系神社の社家でルーツは事代主直系の富家になります。 因みに、神戸三宮にある生田神社さんによると、元々の生田神社の官職は出雲族の神門氏との事です。
@Naraaogaki
@Naraaogaki 2 жыл бұрын
何千年、何万年のスケールで連綿と歴史を語れる国なんて日本しかないですよね。凄い!
@cooljapan1827
@cooljapan1827 2 жыл бұрын
それが千代に八千代にということなんですね。
@咲良民都
@咲良民都 2 жыл бұрын
天皇の祖先である一族が九州を治めていた一族が他の地域に散っていた一族をまとめていった事が、古事記や日本書紀にまとめられたのかもしれません。有名な場所として、出雲や富士の麓や飛騨高山や十三湊があるのかもしれません。
@suzuki4192
@suzuki4192 2 жыл бұрын
いつもご講義拝聴いたしております。いろいろと勉強になり、日本の古代史の真相がだんだんと理解できてきました。さて、もうそろそろ古事記や日本書紀以外の所謂偽書と言われる古文書について、いつまでその真実を隠すつもりなのでしょうか?私も様々な古文書やいわゆる偽書の類をたくさん読んできましたが、この数年特に故・竹内睦泰氏の正統竹内文書を読み、また動画などを見るにつけ、真実の日本の歴史がおぼろげながら解りだしました。古代の最初の統一王はニギハヤヒ(スサノオの息子)ですが、それ以前の縄文時代にはナガスネヒコの祖先が統一していたのでしょう。が、超古代には日本は全世界を統一していたという言い伝え(真偽のほどはわかりません)があります。 とにかく、今後とも先生のご講義を楽しみにしています。
@おうちママ
@おうちママ 2 жыл бұрын
神武天皇さんの末裔の方が話しているのをネットで見ました。かぐや姫で出ると思います、目から鱗でした。
@Amasato_Manami
@Amasato_Manami 2 жыл бұрын
素戔嗚って、出雲大社では、ソガの社に祀られているんですよね。蘇我と書いても素戔と書いてもソガと読む。 さて、蘇我氏=「我は蘇り」さん達の出自は? もちろん素戔嗚直系の子孫です。 我は蘇り=神楽面を付けて、没後神格化して神社に祀っている故人になりきって、事績をなぞる劇を演じ、その精神を蘇らせて神託を下す。 皇室の祖霊祭祀の神事を指南する家だから、国記も天皇紀も蘇我本宗家が管理していたのです。 では、素戔嗚の正体は?牛頭天王?インド??? 素戔嗚は、嵐の轟音の名を持ち、トーテムは牛。武器は矛(別名が息長氏の祖先の天日矛) 畦道を破壊する風水害を引き起こし… 馬の皮膚を剥ぐ大怪我をさせて、興奮した馬が竪穴式住居の屋根を駆け上がって落下し、屋内にいた女性が死亡… 肥溜めに洪水の濁流が流れ込んで、その水が竪穴式住居にも流れ込むと、汚物で大切な衣類が台無しに… 素戔嗚の“若さ故の過ち”の大暴れは、すべて台風の風水害の描写です。 かと思うと、 素戔嗚は熊野や気比では食物神の名で祀られています。コレは、台風の慈雨によって、旱で枯れかけていた農作物が再生することもあるから。 さて、 以上のように見てきた素戔嗚の数々の特徴をすべて備えている神が、なんとシルクロードの西側に存在します。その名は、インド・イラン共通文明時代のルドラ・シヴァ。 嵐の轟音をその名にしたと言われ、トーテムは牛、武器は矛、破壊と再生を司り、その他諸々の要素もほぼ一致します。 牛頭天王は、後世くっつけたモノですね。 蘇我氏の聖徳太子は、渡来氏族秦氏の家臣団を持っていました。京都の御所は秦氏の統領の邸宅跡に建っています。 太秦とはローマのこと。つまり、秦氏はシルクロードの交易を制した西側の大商人で、皇室最大のスポンサー? ウガリット神話のバアル神はトーテムが牡牛で、七つの頭を持つ蛇を倒しているとか…八岐大蛇大蛇の頭が西側では一つ減ってますが…? 吉野ヶ里遺跡では、貝紫で染められた三眠蚕のシルクが出土していて…ウガリット=フェニキアの最も高価な交易品は貝紫のロイヤルパープルの染料。 素戔嗚の山東半島での呼び名は蚩尤&兵主で、臨淄遺跡からはシルクロードの西から来た2500年前の白人の人骨が…そして日本の貝塚でも同じ系統のDNAを持つ人骨が…掘ったら出てきちゃった。 ウガリット神話の主神バアルさんは素戔嗚で、大金持ちの渡来氏族秦氏の正体は、シルクロードを制した大商人!? フェニキアの大商人は、時代が下るとヴェネチアに移動して、やがて世界の戦争を経済的に支配する例の人たちに成長して… 幕末に日本を援助して、素戔嗚=天日矛の末裔とされる息長氏を代表する皇祖とされる女性=神功皇后=息長帯姬を、明治政府が発行した初の紙幣に印刷させ、さらに、最新鋭の戦艦などを提供して日本をロシアに勝たせてみたり… というワケで、 秦氏≒ロスチャイルドの全面的な支援を得て、日本だけが例外的に植民地化されなかった裏には、大昔からのお付き合いがあったから、ということに… 今ではイスラム教徒に駆逐されてフェニキア付近にY染色体ハプログループR1はあまり色濃く残っていませんが、ウガリットからインド・イラン辺りまで分布している素戔嗚の奉斎グループはこの人達と推測するのが妥当です。 素戔嗚=バアルを奉斎する秦氏がユダヤ人ではないことは、ユダヤ人達はバアルを蝿の悪魔と呼んで罵ってきたことからも分かります。自分達の祖先神を悪魔と罵る人はいません! さらに、秦氏が創建した京都伏見稲荷神社には、鏡餅に翼が生えて空を飛んだ=有翼日輪のシンボルに関する創建神話が残ります。 明らかに、ユダヤ教が成立する以前の、より古い時代のバアル神や有翼日輪の信仰が日本に入ってきています。 そして、 息長帯姬の巫女神道を母系継承する社家に妻問婚できる、筆頭とされる秦氏の男性グループのY染色体ハプログループはR1系統です。 「ウチは、天日矛の子孫を名乗った伊都国王室とかで、一時は太宰府の倭国を仕切ってたの。でも、秦氏も血が濃い奴はオレみたいに肌が白い外国人そのものだからさ。違和感あるよな。で、縄文系の現皇室の祖先に国譲りしたって聞いてるよ。その後、唐と新羅の連合軍に倭国が大敗して自然消滅さ。太宰府を唐の軍勢に占領されたら、身動き取れないからね。仕方がないから紀州の伊都郡に逃げたわけ。その辺りで倭国はもう捨てようってなって、大和の日本で列島統一。出雲大社も、もとはウチの神社で、今は親戚がやってるよ。真人のカバネの筆頭の息長氏だけど、本当は巫女神道の社家だってことは、内緒。アレって系図が断片的なのは、母系の家を無理矢理父系に仕立て直す偽装をしたからなんだよ。その他にも隠してることは山ほどある…」
@氷見修一
@氷見修一 2 жыл бұрын
ニギハヤヒとスサノオは同一人物だよ 誰だかわかるかな
@玉城徹-w3w
@玉城徹-w3w Жыл бұрын
、え
@sunsun2181
@sunsun2181 Жыл бұрын
申し訳ないけど、偽書のものは偽書ですわ。ただ、「入れたくなかったこと」はたまに参考になるのもありますね。 たとえば、「アマテル」などです。太陽神が男性だという話です。 遺跡や副葬品が出てこない限り、信じられませんので、そこはしっかりと理解すべきかなあと思います。 小説は書けますが、事実の証拠品はゆがめられません。まあ壊すことはできますが。
@雪ダルマ-x6b
@雪ダルマ-x6b Ай бұрын
本当に、🇯🇵勉強に,なります、ありがとうございます、恥じない、🇯🇵にしたい、国民がね?
@yuichihanda3268
@yuichihanda3268 2 жыл бұрын
6000千年前というと、サハラ砂漠が大森林、湿地帯だったころの末期ですね。
@ie6731
@ie6731 2 жыл бұрын
たくさん話しが作られたみたい‼️
@yasupi6298
@yasupi6298 2 жыл бұрын
古代苦労せずに米を沢山作れる所と言えば、広大で平坦な土地かつ誘水しやすい土地だと思います。古代茨城県の筑波山から見下ろす一帯は米作りが容易なのでニニギノミコトがお宮を建てて稲作に尽くした言い伝えもうなずけます。莫大な財産をここで築き色々な地方に貴重な米を配っては力を見せつけ親戚関係を作りながら統合していったのではと想像します。稲の豊作にとって恵みである夏の雷は全国でも北関東が一番多いです。神社の白いギザギザの紙垂は稲妻を表したものらしいですが、神道と稲と稲妻の深い関係を感じます。
@jps4062
@jps4062 2 жыл бұрын
それに鹿島神宮や、香取など在るし、藤原、那須家発祥の地も近辺の茨城県寄りの栃木県に在るし。 茨城県って意外と面白いです。 宇宙飛行士の方が、宇宙から存在が分かった日立の御岩神社の裏手の山岩など。 御弟子さんが繋いでいる竹内文書の神社も磯原に。確か、元は新潟県?かな? 御弟子さんが繋いでも、見える方には見えるらしく、年に何回か?の(詳しくない)お祭りには龍がきてたと言ってたのを、そのまた、また聞きを聴いた事あります。 地元民はあんまり関心無いのに色々茨城県はあります。
@鈴木生-r5z
@鈴木生-r5z 2 жыл бұрын
おっしゃる通り、南半球のサモア諸島で縄文土器が発見されたとか DNA鑑定で日本人に一番近いのが南米のある国の人だとか、ありますよね。
@え同じ値段でステーキを
@え同じ値段でステーキを 2 жыл бұрын
当方3流高卒ですが、この手の動画は好物です。宜しくお願いします。
@user-nukoyama
@user-nukoyama 2 жыл бұрын
僕は大卒ですが、理系なので、高校で歴史をまともに勉強してませんでした。 実質、中卒です。 φ(゜゜)ノ゜
@rubysayo9392
@rubysayo9392 2 жыл бұрын
学歴なんか全然関係ないと思います‼️気になどしないで、日本人である事に誇りを持って歴史を真摯に学べば、素晴らしい日本人の精神を持つ事が出来ますよ‼️南米の貧しい国々を旅した時に先人の名も無い日本人の方の生き方で、現地の方々に何度も親切にして頂きました。日本人で良かったと嬉しく、感謝もし、世界を旅して日本国の天皇制の素晴らしさが日本人の精神に及ぼした影響を享受しました‼️自国の歴史を知る、学ぶ事に学歴も老若男女もないですよ‼️頑張りましょう‼️💪🙋‍♀️学ぶ仲間なのですから👍✌️
@え同じ値段でステーキを
@え同じ値段でステーキを 2 жыл бұрын
私の「さんすう」の成績は常に1でしたw 個人塾の先生に教わって、ようやく40点台(うちの中学は50点満点)まで到達できるようになりました。 宇宙論も好物ですが、文章では理解できても、その論理を数式で表現することはできませんので、数式を扱える方は尊敬します。 「おういつ聞いてもさすがじゃのう田沢の九九は」 ←このレベルですw
@冬の桜-m8x
@冬の桜-m8x 2 жыл бұрын
學校ではどの教程でもまともに歴史は 、地理は扱っていなかったと思える。ちゃんと教えることなく、歴史の勉強ですよ、地理の勉強ですよ。という具合。それも然り、GHQによる作られた歴史だから。 もう何処の高校出ようが大学を出ようが歴史を学ばないのと同じことを‼️ ここのお話もよし。林 千勝さんのはなしもよし、日本の本当の歴史は自分で学ぶべし。 文豪、菊池寛著 明治大衆誌 を是非読まれたし‼️
@eishin4601
@eishin4601 2 жыл бұрын
やりたいことや、やろうとしていることは、やらないようにしましょう。そうすると、自然に生きていけます。
@平唱尊
@平唱尊 2 жыл бұрын
過去から続いている今が大変な状態なわけです。 これからの未来について考えましょう。
@takeshimatsuo895
@takeshimatsuo895 2 жыл бұрын
大変興味深く日本人として誇らしいお話でした。証明する文献や資料は何でしょうか?
@kamesans.358
@kamesans.358 8 ай бұрын
また新しい神話にワクワクしました😊 小名木先生いつもありがとうございます🙏
@らっきー7-n5w
@らっきー7-n5w 2 жыл бұрын
「三種の神器」って誰も(天皇でさえ)現物見たことないというのに、教科書に写真が載ってる。ずいぶん写真家はオトクな職業。こういう場合、隅にちいさく「写真はイメージ」と入れておこう。
@Amasato_Manami
@Amasato_Manami 2 жыл бұрын
そのイメージ写真=偽物をTシャツに印刷して、あたかも皇祖母神・天照大神の御利益があるかのように宣伝して売り捌いて、宮内庁からお小言を貰った、某明治天皇の子孫がおられましたね… 偽写真で霊感商法をやっちゃう人が、今では神社本庁関連の某大学の講師に…
@unagi-nyoronosin
@unagi-nyoronosin 2 жыл бұрын
常世の国とニライカナイはともに海の向こうにある国とされていますから、その他の共通点はあってもおかしくはないですよね。
@bikonasukuna
@bikonasukuna 2 жыл бұрын
一定期間で何かの理由で文明のリセットされて、その記憶を掘り起こすことは同じことを繰り返す可能性があるので、封印されるのではないでしょうか。
@panjanoko4360
@panjanoko4360 2 жыл бұрын
小名木さんのお話はもっともらしく聞こえるし着想が面白い。
@s.justice385
@s.justice385 2 жыл бұрын
大変おもしろいお話、ありがとうございました。 あくまでお話であって、史実ではありませんね。
@MrZZRichie
@MrZZRichie 2 жыл бұрын
神武天皇の前に、飛騨の高山に稗田阿礼の先祖が240代,6000年に渡り日本の天皇制の基となる、上方様の歴史が、縄文時代から繋がっていると言うと言う伝説があったらしい。 沢山の民族豪族の諍いを無くす為に、長子から積極的に近隣の有力者との姻戚関係を結び嫁入り婿養子などの安寧策をとる事が当たり前と考えられた。故に末子相続の慣習が自然に行われていたと言う、中国古代にも地域により存在した相続制度が、日本列島にも存在したと言う。確かに末子は、上の兄姉を見習って、協調性や、言葉の習得が早く平和に社会を纏めるタレントと笑顔の交わりが得意である。(^^)
@地方都市住民Y.M
@地方都市住民Y.M 2 жыл бұрын
いつも興味深いお話を有難うございます。 しかし、日本書紀編纂に関わる焚書の内容は、当然その編纂時期以前になるので、天武天皇・持統天皇以前が対象になるものと思うのですが、いかがですか? それを「神武天皇以前」に限る前提で考察を始めると(勿論その時代の話も興味深いのですが)、考察の範囲がとても狭まってしまうように、私などは感じます。
@篠永進午
@篠永進午 2 күн бұрын
崇教眞光の上級研修で我々陽光子は宇宙最高のみ教えを許されました。日本の古代史、生きた神々の御活躍された歴史、自叙伝をご教授頂いております。
@ronosk4752
@ronosk4752 2 жыл бұрын
高天原とは、アブラハムの居住地‘タガマ・ハランですね。
@butaeri
@butaeri 2 жыл бұрын
アブラハムの出生地はウルです。
@mogurazz
@mogurazz 2 жыл бұрын
「稗田阿礼=飛え驒の阿礼」是も面白い。6000年も面白い。南九州の火山爆発から復活するまでだ。「尊(みこと)はえらいひと」国を治めることは「しらす」これは「すめる」と似ている。「すめらみこと:しらす・えらいひと」「すめらぎ:しらす木:ご神木?=海岸近くの目印になる木」「はしら:しゃれこうべを飾るために立てる木:神を数える言葉⇒ひとばしら:人間を神にする作業」。「すめらみこと」とは人に代わって、神になってくれる(ある意味しぬこと)人だと思うのだが、現在の皇室で是の理解できる人は、今上陛下と上皇陛下だけ?
@masayoshik2369
@masayoshik2369 Жыл бұрын
奈良の大和郡山市稗田の環濠集落に (めた神社)に稗田阿礼さん祀られています。
@佐藤秀-w4m
@佐藤秀-w4m 2 жыл бұрын
飛騨王朝説やサンカ族の存在に興味があります。73世竹内宿禰が天皇の御世は126代で終わると語っていますが、小名木先生の見解は如何ででしょうか🤗
@00simaya40
@00simaya40 2 жыл бұрын
今上天皇ですね。
@根本和彦-m1t
@根本和彦-m1t 2 жыл бұрын
最近この様な動画を見ています。 不思議な繋がりを感じております。 令和天皇陛下は特別なお力を授かられたとか、今の日本の状況と世界の情勢、アングロサクソンの衰退、日本の復興、日ユ同祖論等々興味深い話し、強ち夢物語では無いかも知れませんね? 日本の天皇陛下が世界を統べる日が来るかも知れませんね? この辛い時代夢を見ても良いですよね?
@jps4062
@jps4062 2 жыл бұрын
だから愛子様押しなのかな。 皇后さまの出や、親の所属らしき宗教の皆様が愛子様を望んでるからと思っていましたが、 それとも別の理由が、未だ何かあるのかな?
@karenmikan2315
@karenmikan2315 2 жыл бұрын
雅子皇后様は香淳皇后様の縁戚でご先祖も皇室にゆかりのある由緒正しいお家柄ですよ。宗教や思想、嘘偽りがある出自はお皿さんと宮妃のほうですよ。
@kanjiyamada33
@kanjiyamada33 Жыл бұрын
@1honshitsuka
@1honshitsuka 2 жыл бұрын
正体がすごくよくわかる動画ですね。
@priprianga
@priprianga 2 жыл бұрын
縄文の神様、クナト神とアラハバキ神もお願いします🙏🌄
@SEKAINODAIOUANUOU
@SEKAINODAIOUANUOU 2 жыл бұрын
本物本当の大日本国史・日本仏教歴史のマスター千田寛仁 高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺の母体大三輪寺遍照院三輪山平等寺を丸子孝法老師が復興した意味がお分かりいただけるかと思います。大和朝廷を開いた聖徳太子の三男の子孫丸子氏が復興したのは、三輪山そのものであり、その息子の私がこうして縁者の皆に歴史を伝えている事、この国の子孫に誇りある日本の姿を残すという事が大事であります。 あやふやになっているものの全てを、正しく整えること。 比叡山は日本の大学であり、ここから、鎌倉仏教各派が創出されています。大三輪寺遍照院即ち三輪の平等寺がその元であり、密教神道を通じて、歴史を教え伝えているのです。大神神社というのはカルト新興宗教です。寺院を破壊し寺領を横領しただけに止まらず、史実を都合いいように捏造し、神々の名も作り変えて眞名を伏せて商売をやっている訳です。結局参拝者は真の神の名を知らず、ただただお布施とお賽銭を取られている事を信仰だと勘違いして騙されているのです。「境内は本物、信仰内容は偽者」ここがポイントであり彼らの嘘は素人には見破れないのです。古代を教え伝える三輪神社たる三輪明神は明治維新以降現在はもうありません。そのため私は皆に日本史を教授しています。いずれの時にか目覚めた神官学徒が、この口伝を学習し、また私から学んで日本子孫が大日本国史を整えるであろうと思います。 国の運営を考えてみても、天皇の上に飛騨があり、その上最上部にあるのが日高見国という事です。天皇が江刺の米を食べて体裁を保っていたのは、日高見国が発祥の地だという認識だけはあるからです。 有史以前は「ラ」と呼び、岩手で皇命「スメラミコト」と呼び、岐阜で「天照大神」と呼び、熊本大伴氏が大王「大君」と呼び、飛鳥時代に天武が「天皇号」を使い始めました。これが我が国の「王」の呼び名の変遷です。秋津神「アキツカミ」という佐怒(後世に言う神武)以後の呼び名総称は、三輪山の神登美明国「アキラ」の下に集う意であり、アキラの権威を継承した事を示すものであります。「ラ」というのが最も古い王の呼び名だという事がわかります。 また、天皇と言うのは飛鳥時代天武からの造語です。作ったのはそもそも天武の65年前の豊聡耳皇子、即ち聖徳太子です。彼は『我が国の女王の慣例』に随い、叔母を推古天皇として立君させます。ですから初代天皇は読んで字の如く推古天皇なのです。そして、天皇の歴史は幕末で終わっているのが事実です。結局偽者を立てるがため明治維新以後、戦争,不況,疫病,災害,で現在今の今に至るまで国の人々が苦しんでいます。国を纏めようとする気力も無い者に求心力を求める事が間違いなのです。また、外郭団体である神社庁組織も、出鱈目な祭祀を止め、筋を通さなければ、この国は治まりません。それは謂えば筋を通せば治まるという事です。まず、象徴偽者は良くないです。天皇であるというならば大倭日高見国各本家が集い会議して我が国の血統たる者日本民族から代表者を擁立し親政を行わせるべきですね。何処の生まれとも訳のわからない人物を登用している今の日本の有り様を憂います。出自が日本ではない者李家韓国人を登用した結果、他人の家を汚すかの如くに始末に終えません。 我らが血統主義をとるのは、結局誇りある人物日本人に物事を任せる為です。何処の何とも解らないものは、結局私欲にはしったり、人々の生活を貧窮させ害するのです。彼ら韓国人に誇りなどありません。誇りとは、家に恥じない自分であるかという事です。 実際我が国は共和五王の制度を採っていたのであり、王であっても失政があれば退位させられます。
@ssannhiro3686
@ssannhiro3686 2 жыл бұрын
なるほどねえ。 要するに、C国みたいな自分勝手な国が誕生したことで、それまでの秩序が壊れてしまった、みたいな解釈もできるのか。
@レイライン-s6o
@レイライン-s6o 2 жыл бұрын
古代C国とかC国文明とかいう表現に何の疑問も抱かず使う方が日本にも大勢いらっしゃいますが、そもそもC国なる国家が成立したのはいつでしたっけ?要はC国なんてまだ100年の歴史さえない未熟な国。だからこそ、周囲への配慮や気遣いなど全くできぬまま、あれほど乱暴で身勝手極まりない言動を恥も外聞もなく続けられるのだと思います。図体ばかりデカくて神経のニブい子どもが周りに迷惑かけて嫌われてる、それと同じだと思って軽蔑するのみです。
@ssannhiro3686
@ssannhiro3686 2 жыл бұрын
@@レイライン-s6o 「C」と呼びたくなる気持ちもわからんではないんよ。 色んな民族が国を建ててきたけど、ほぼ似たような状況に陥り、似たような滅び方をしているからね。 もう王朝ではなくて、反知性の地域性を指して「C」と皮肉るしかないんじゃないのかと…。
@pagosu1469
@pagosu1469 2 жыл бұрын
高天原は高千穂だよね。岩戸隠の神話は、日食ではないか?と言う説があるけど、私は昼と夜の事だと思いますね。 毎日、日はのぼり、夕方になると沈み夜が来る。人々が集まって夜が明ける為に祭りを催すとまた朝が来ると。その昼夜の自然の運航の事と、夜に祭りを催すことの意義の説話ですね。 日食が始まって終わるまでに、祭りを催す暇もない。日食は1時間くらいで終わる。そんな短い日食の事で祭りを開くとは思えない。
@宇宙伝書鳩
@宇宙伝書鳩 2 жыл бұрын
日本日本人とは、何者か? 中川八洋 著 『超先進国日本』 渡部昇一 著 『かくて歴史は始まる』 ボブ・フィックス 著 『時を超える聖伝説』 千賀一生 著 『ガイアの法則』シリーズ
@八雲-q4p
@八雲-q4p 2 жыл бұрын
古代史に興味のある方は一度、大元出版の本を読みましょう
@tokujimae
@tokujimae 11 ай бұрын
子供の創造力を養う為には全てを教科書に記載し専攻科目を柔軟に選ばせるべきですね 偏った教育方針は慎むべきです 民主主義は人権最優先で罰則の強化だけで自由と責任を一体だと教え込むべきです それ以上の法律規則も公にはいらない 明治以前の教育方針は凄く良かったように思えます 15歳で一般教育は終わり16歳から成人とし選考過程ですよね お寺さんが教育とか省務関係を請け負っていたのが素晴らしいですよ 身障者にも仕事を与えていた 民主主義の原点ですよ 現代は身障者の仕事を健常者が奪い取っている状態ですよ 特に市役所 窓口業務とか事務作業は身障者優先でも良いと思うのです 効率的にもね 皆で出来る仕事を振り分けこなす 円満で良いと思いますよ
@goodall5857
@goodall5857 2 жыл бұрын
以前聴講料を払いましたが、アーカイブを何処のアプリで見られるのか分からず見る事が出来ませんでした。悔しい気持ちでした‥。
@りーくん-q9l
@りーくん-q9l 2 жыл бұрын
小名木先生素敵(>
@rubysayo9392
@rubysayo9392 2 жыл бұрын
りーくん応援します‼️🙋‍♀️若い時から古代史が好きで、蒙古斑とデザインを調べる為にアメリカインディアン、マヤ、エスキモーを訪ねて旅しました。インカは内戦や麻薬カルテルの戦争で行けませんでしたが、多くを経験し見聞を広げる事ができました。神武東征の道も歩き、聖蹟顕彰碑を訪ねました。箸墓古墳の山の辺の道は20台からパンデミック以前迄はよく行ったものですw👍魏志倭人伝の国々も北九州から探ってみました。古史古伝は偽書だと決め付けられない物も多いです‼️神社に伝わる伝承や神話、逸話を軽んじてはいけないと思っています。アイヌ先住民は捏造だと北海道迄行き、縄文人の遺跡を訪ねて行きました。日本に世界有数のヒエログリフ、ペトログリフが有りますが、多くは神社が結界として何千年と人が入らなかった場所に有るそうです‼️九州の装飾古墳の不思議等、未だ研究がなされていません‼️政治は利権と税金を自由に使えるので、名目を作って助成金に群がる悪い奴らと結託して、日本歴史を貶めて平気でいます‼️自分の目で資料や歴史書を読み、足を運ぶ事が大切です‼️私は趣味ですが、歪められ、捏造された歴史には我慢がなりません‼️小名木先生や、茂木誠先生方の講義や本は本当に血肉になると思います‼️田中英道先生や長浜浩明さんもお薦めです‼️いろんな角度から俯瞰的に検証するのが良いと思います‼️頑張って下さいね‼️💪⛩🙏🇯🇵❣️
@りーくん-q9l
@りーくん-q9l 2 жыл бұрын
@@rubysayo9392 ありがとうございます‼️ 沢山他の先生の動画も拝見します‼️ 実は今度小名木先生の倭塾の公演で小名木先生にお会いしに行こうと思ってます‼️ 小名木先生の本も読ませていただいたので 小名木先生のサインも貰いたくて‼️ まだまだ分からない事ありますが、色んなことにチャレンジして頑張りたいと思います‼️
@Naraaogaki
@Naraaogaki 2 жыл бұрын
アツい!(*>∇<)ノ
@rubysayo9392
@rubysayo9392 2 жыл бұрын
@@りーくん-q9l 、お返事ありがとう。倭塾の講演に行ける距離で、良かったですね❣ 若者が、頑張って下さる事は本当に頼もしくうれしくなります。何時も応援していますよ‼
@りーくん-q9l
@りーくん-q9l 2 жыл бұрын
@@rubysayo9392 関西です😭関東まで足を運ぼうと思ってます‼️
@こばやしあきら-o6p
@こばやしあきら-o6p 2 жыл бұрын
天皇のご祖先が6000年も前からあってその頃から中国からの脅威があったなんて・・良く守り続けてきました。これからも日本人を繋げていかないとです。
@冬の桜-m8x
@冬の桜-m8x 2 жыл бұрын
ひだの高山には上さまと呼ばれるかたが住んでおり、ひの池を囲み神事をしていたと言う。 天皇の使うしゃくはひだの高山か位山の木だそうです。 九州からコオロギと言うりとが攻められて苦戦しているから助けてほしいと言われ、若宮を使わした、ということは知っています。 コオロギなんて変な名前の人が居るのかな、と思って居たら、最近テレビに出ていて、興梠という漢字であるのが判りビックリ‼️
@ピヨピヨひよこ-u9u
@ピヨピヨひよこ-u9u 2 жыл бұрын
宮崎高千穂辺りに興梠姓がいらっしゃいますね
@秋の七草-b3y
@秋の七草-b3y 2 жыл бұрын
感動しました泣けました~心の専門家、元熊本大学教授、高原あきこ候補は日本を救う ~水間条項tv 第684回参議院選挙全国比例トップを狙える、高原あきこが「女性宮家・夫婦別姓」反対を解説 第685回麻生太郎元首相も大絶賛〔高原あきこ〕全国比例候補が、「三浦春馬さん」以降真相究明を求める
@Jinyart
@Jinyart 2 жыл бұрын
歴史ロマン溢れる話ですが文字の無い時代の話が正確に伝承されてるとは???? 10人程度の伝言ゲームですら正確に伝わらないのに…。 しかし、フィクションとしても面白い‼
@jps4062
@jps4062 2 жыл бұрын
私は、却ってスピリチュアル系の偽者を判断するのに活用。 だって、自分達よりずっと遅れてる文化だと考えるのが普通だから。 私は逆で、今よりも自由に飛び移動が可能な超進んだ時代だったろうとおもってます。 だから普通に古代をおくれた未開の、近代とは違う時代と捉えてるスピリチュアル系は偽者。 そんな感じ。 初代天皇や、その前の支配者は、何か超人的な事が出来た筈。 だってTV、ラジオ、携帯、スマートホン、何も無い時代に私は神ダヨーンと言ったところで誰も民は認識しないです。 何かよほどの事が出来たから、地位を獲得可能だった筈。
@sjohn6480
@sjohn6480 2 жыл бұрын
日本の古代史の中で6000年なんて瞬き一つ
@さんさー-i8l
@さんさー-i8l 2 жыл бұрын
天皇家以前の日本の歴史は出雲族などがいますね!
@とほかみえみため山下白雨-h5g
@とほかみえみため山下白雨-h5g 2 жыл бұрын
神皇産霊神の正体  神皇産霊尊に関する伝承  神皇産霊神は皇居八神殿の第一殿に祭られている神である。皇祖神とされている高皇産霊神が第二殿であるから、神皇産霊神は皇祖神以上に重要な神とも云える。大和朝廷成立に関し非常に重要な関係がある神と思われるが、その正体は全く謎のままである。古代史の復元で判明したことをもとに、この神皇産霊神の正体を推定してみよう。  まず、神皇産霊神はその系統を見てみることにする。 出雲神話によく登場し少彦名命の父、と言われている。 賀茂氏系図では神皇産霊神→天神玉命→天櫛玉命→鴨建角耳命となっており、神皇産霊神もBC40年頃生誕の人物となる。天神玉命も天櫛玉命も饒速日尊の天孫降臨のメンバーである。  神皇産霊神は出雲の御祖神とされる神魂命と同神と言われている。『出雲国風土記』では、支佐加比賣命、八尋鉾長依日子命、宇奈加比賣命、天の御鳥命の親神となっている。 楯縫郡の条においては「天の下造らしし大神のために、柱は高く板は厚く、十分にととのった宮殿を造り奉れ」と詔し、天御鳥命を天降りさせる。 また、神魂命は大国主神の危難を救った神として、出雲大社本殿では客神として、境外社・神魂伊能知奴志神社(命主神社)では祭神として祀られているが、出雲の御祖神でありながらなぜか 現在の出雲において主祭神一、配祀八、境内(外)社三と祀られている社は意外に少ない。唯一主祭神として祀られているのが高宮神社(松江市宍道町)である。また、 佐太大神(猿田彦)の祖母が神皇産霊神であると伝えられている。 生馬神社伝承  八尋鉾長依日子の命は、神魂尊の御子にあらせられ、国土開発経営に際し、殊の外力をいれ拓殖の道を開き給う。 神魂命の子どもである私は、平明かに憤まず(怒らない)」と言ったのでこの土地を生馬(いくま)ということになった 法吉の地名説話 神魂命の御子である宇武加比賣命が法吉鳥(鶯といわれる)になって飛び渡り、ここに静かに坐したからホホキと名づけた。 古事記  ウムカヒは大蛤のことを表すといい、『古事記』には大己貴命が兄弟神に迫害され大火傷を負った時、神皇産霊神がこの神を遣し、 貝殻の粉を集め蛤の汁で溶いて塗り治療したと、古代火傷の民間治療法の説話を残す。  大国主神の国土経営の際、御子・少名毘古那神を派遣して 「神産巣日神の御子少名毘古那神なりと答白しき。故に爾に神産巣日御祖命に白し上げしかば、此は実に我が子なり。 子の中に、我が手俣よりくきし子なり。故れ汝葦原色許男命と兄弟と為りて、その国を作り堅めよとのたまひき」 出雲風土記 『神魂命が「所造天下大神(大穴持命)のために、高天原風の大きさ・構えで立派な宮殿を造れ」と詔し、子神の天の御鳥命を武器の楯を造る氏人として天降りさせ、大穴持命の宮におさめる調度品の楯を造り始め、今に至っても楯・木牟をつくって奉っているので楯縫という』。  これら伝承をまとめてみると、神皇産霊神は素盞嗚尊の影が色濃い。神皇産霊神=素盞嗚尊かとも思える。しかし、常世国から渡ってきた少彦名命が神皇産霊神の子である。また、母神(女神)であると伝わっていることや、佐太大神(猿田彦)の祖母であるので、素盞嗚尊と同世代の別人物とも考えられる。  神皇産霊尊から数多くの豪族が分かれている。その系図をまとめると下のようになる。
@RM250QYU04473
@RM250QYU04473 2 жыл бұрын
焚書された理由は、記紀が国防書類だったからではないでしょうか。日本書紀が対外的な書物であることは公知の事ですね。焚書の理由ですが、現在も問題になる「もともとこの土地は我々の」といった理屈は、過去を指しています。過去に和人が世界中に進出して血縁がると、海外から見て日本列島も我々の同族が住んでいたという理屈もあり得たわけです。なので、あえて神武天皇以前の存在を隠し。この土地は神から与えられたとする必要があったのではないでしょうか。
@manatomo-pp9th
@manatomo-pp9th 2 жыл бұрын
阿波の古代歴もあるよ。
@仁和右京
@仁和右京 10 ай бұрын
沖縄の付近なら氷河期でも温暖で過ごせていたので可能性がありますね 氷河期はあの付近国が発生していてもおかしくないですね あと世界にある洪水伝説は氷河期が終わり海水面が上昇したときの現象なのかなと思う
@赤い彗星-w2q
@赤い彗星-w2q 2 жыл бұрын
もうすぐしたら日本中心の世界になります。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
ウガヤ王朝の正体  飛騨王朝はBC1700年ごろに成立したと推定したが、その王の系統は飛騨口碑では35代の上方様(うわかたさま)と伝わっているが、古事記・日本書紀では全く伝わっていない。Y染色体のハプログループからこの飛騨王朝が神武天皇に直結していると思われるので、その系統が何かの形で伝わっているのではないかと考え、その伝承を探ってみよう。その候補として考えたのがウガヤ王朝である。  ウガヤ王朝とは  『上記』「竹内文献」『神伝上代天皇紀』などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の古代王朝でウガヤフキアエズの共通の王名を持つ王朝とされている。 鵜茅草葺不合尊は、『古事記』、『日本書紀』、神社伝承では、神武天皇の父とされているが、『上記』、「竹内文献」、『神伝上代天皇紀』などの中では神武以前に何代か続いた王朝の始祖とされている。これらの文書の中でも天皇の数や王朝の継続期間は一致していないので、架空の存在と考えられているが、その元となる王朝があったのではないかと古代史の復元では考える。  3系統のウガヤ王朝(wikiより) 具体的な内容は、『上記』「竹内文献」によるウガヤ朝、「富士宮下文書」によるウガヤ朝、『上代天皇紀』によるウガヤ朝と、大きく三系統にわかれる。 『上記』・「竹内文献」 『上記』によればウガヤ朝は74代、「竹内文献」によれば72代続いたが、兄弟相続等もあるので世代数でいうと62世代。神武天皇とその兄・五瀬命は第62世代である。ウガヤ朝には女帝が存在している。現皇室は男系継承であるが、ウガヤ朝は女系継承もある。ウガヤ朝の19人は女帝である。女帝の配偶者は「ヨサチヲ(世幸男)」。また男帝か女帝かを問わず、生涯独身だった天皇が何人かいる。ヨサチヲは、必ず皇胤(男帝の男系子孫)であるため、女帝が数代連続するケースがあるが、男系でのつながりは途切れていない。しかし配偶者の世代が一致しない点が多く、傍系は何代か欠落していると考えられる。 『上記』・「竹内文献」はよく似ているが相違点もある。『上記』では、第74代ウガヤフキアエズの命も存在する。その幼少期の名前は「カムヌナガワミミの命」と書かれており、綏靖天皇のことであろう。『上記』は54代の後半の記事から68代までの記事が散逸して失われてしまっているが、「竹内文献」は歴史内容の叙述は『上記』とまったく違っているのであるが、系図部分は『上記』と一致しており、『上記』の散逸部分を「竹内文献」で補うことができる。 「富士宮下文書」 「富士宮下文書」によれば、ウガヤ朝は51代続いたとするが、五瀬命は皇太子のまま薨去し即位はしてはいないことになっており代数に数えられていない。また歴代すべて男帝であって女帝は存在しない。また歴代すべて単純な父子相続になっているが「富士宮下文書」では皇統譜にかぎらずすべての系図にこの傾向があり、機械的につなげたにすぎないと思われる。ウガヤ朝の天皇はすべて「神皇」、皇后は「神后」という用語を使っている。  代数に大きな食い違いがあるように見えるが、『上記』「竹内文献」の第2代をとばして、第3代が「富士宮下文書」の第2代に当たるとして順次ずらしていくと、「富士宮下文書」の第50代(=『上記』「竹内文献」の第51代)までは名前や山陵地や治世中の事件などがよく一致する。『上記』「竹内文献」の第52代から第70代が「富士宮下文書」においては欠落していると判断できる。そのあと「富士宮下文書」の第51代が『上記』「竹内文献」の第71代にあたる。 『神伝上代天皇紀』 『上代天皇紀』のもので、これは代数が全部で72代であるという点が一致しているだけで他の内容(天皇の御名、宮都の場所、山陵地など)はまったく別である。女帝もわずか2名のみで、その代に相当する天皇は『上記』や「竹内文献」では男帝になっている。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
飛騨口碑の人物名  飛騨の口碑に登場する人物名は記紀の人物名と共通である。これが、古代史の飛騨関連伝承の解明の最大の妨げとなり、飛騨の口碑と記紀伝承が大きく矛盾することになるのである。飛騨の口碑が正しくて、記紀伝承・神社伝承が誤りであるか、その逆であるかである。  古代史の復元は複数伝承の矛盾するところは複数の神社伝承で補ってきている。ところが、飛騨の口碑にはそれを裏付ける神社伝承がほとんど存在していない。忍穂耳・瓊々杵尊・天照大神等の活躍の場が飛騨中心であるならばその関連伝承が、飛騨にもっと残っていると思われる。また、飛騨から九州や大和に移動したのなら、その経路上に何か伝承が残っていてもよさそうなものであるが、そのような伝承は見当たらない。  以上のような状況から飛騨口碑の登場人物名は次のように推定する。 飛騨の口碑に登場する人物名は記紀関連や神社伝承のものである。飛騨の口碑の人物名は飛騨の上方様に固有名がなく、おそらく○○代目の上方様というように伝わっていたのであるが、個々の上方様の区別がつきにくく、記紀伝承の登場人物の名前をあてはめたものであると判断する。上記や竹内文献で該当の上方様の業績をもとに名前を創作したのが、ウガヤ王朝であろうと考える。ウガヤ王朝は父系・母系ともにウガヤ王の血筋ではあるが、夫婦でありながらその世代に数代の差がある場合が多い。これは現実的にはあり得ないことで、系図の改ざんが行われているためであろう。飛騨の口碑では上方様の系統の人物が地方の人々と交流をしているので、外部からの血を入れるということを頻繁にしていたと思われる。それを一つの系図に取り込んでしまったために世代の矛盾が生じたのであろう。  飛騨口碑の人物とウガヤ王との照合  飛騨口碑のヒルメムチ(天照大神)は女王である。ウガヤ王朝では67代春建日姫天皇がこれに該当する。その父が伊弉諾尊であるが、これが、66代豊柏木幸手男彦天皇であろう。伊弉冉尊は、天津豊日足媛となるが、飛騨口碑では伊弉冉尊は出雲から嫁入りしたことになっている。その父は豊葦原大彦という。豊葦原という名は九州・中国地方をさしており、出雲王朝の人物を思わせる。世代から判断してこの人物は出雲王朝第3代深淵之水夜禮花淤美豆神に該当する。その子が出雲朝4代淤美豆神である。飛騨口碑の伊弉冉尊は淤美豆神の妹ではないだろうか。淤美豆神は出雲国引きの神であり、北陸地方からも国引きをしており、飛騨王朝とのつながりがあったことがうかがわれる。  天照大神の夫は飛騨口碑では思兼神(高皇産霊神)である。ウガヤ王朝では高天原建彦となっており、高皇産霊神は高天原の主役であるために両者のイメージは重なる。高天原建彦の父は天浮船乗知であり、全国を巡回した人物のように思える。(記紀神話における国生み?)  天照大神の孫で天孫降臨した37代上方様の瓊々杵尊に該当するのが69代神足別豊鋤天皇であろう。飛騨王家の系統と考えられる賀茂氏の伝承によれば、鴨建角身命が九州日向に降臨している。行動が似通っているので69代神足別豊鋤天皇=鴨建角身命となる。同時に鴨建角身命は味耜高彦根命であり、賀茂大御神でもある。  飛騨口碑では天照大神の弟の素盞嗚尊が出雲国に派遣されたことになっているが、この素盞嗚尊に該当するのが味耜高彦根命であろう。素盞嗚尊は記紀伝承では「母の国に行きたい」と泣いていたそうであるが、味耜高彦根命も饒速日尊の養子として出雲に派遣され、幼少時よく泣いていたといわれており、両者はよく似ている。  そうすると、その父である天忍穂耳とされている第36代上方様は鴨建角身の父である大山祇命となる。ウガヤ王朝では第68代宗像彦天皇である。宗像彦という名は宗像氏を想像させるが、宗像氏の先祖は天日方奇日方命(賀茂別雷命)で、母活玉依姫の父が鴨建角身命なので、宗像彦が宗像氏の始祖といえる。  神武天皇は飛騨王朝39代上方様と伝えられている。では38代上方様(飛騨口碑の鵜茅草葺不合尊)は誰であろうか。37代上方様の子であれば、鴨建玉依彦か活玉依姫となる。しかし、飛騨口碑では瓊々杵尊の子とされている日子穂々出見尊は養子とされており、鵜茅草葺不合尊が瓊々杵尊の実子とされている。古代史の復元では瓊々杵尊、日子穂々出見尊、鵜茅草葺不合尊は兄弟であり、日子穂々出見尊は飛騨王家に養子になったと推定している。伝承の混乱が起こっているが、神武天皇が第39代上方様を引き継ぐには第38代上方様は重要な存在とならなければならない。ここで、上方様の位を子の玉依彦ではなく、孫の賀茂別雷命(天日方奇日方命)に譲ったのではないかと推定する。京都府の上賀茂神社では賀茂別雷命が神格化されており、この人物が特別な存在であることを示しているが、その行動事績はほとんど伝わっていない。これは、賀茂別雷命が特別な地位にいたことを示している。神武天皇が大和で五十鈴姫と結婚することにより賀茂別雷命より第39代上方様(飛騨王)の位を継承したことになる。  飛騨の口碑の系図では豊玉姫・玉依姫・伊須気依姫など重要な妃がほとんど出自不明(鹽土翁)である。別伝で飛騨国から三娘を九州に派遣したというのがあるので、瓊々杵尊、鵜茅草葺不合尊などの夫婦の出自を系図上で入れ替えるとウガヤ朝と神社伝承がほとんどきれいにつながる。  鴨建角身命の行動  鴨建角身命(味耜高彦根命)は幼少時、出雲で育っている。第68代ウガヤ王宗像彦(大山祇命)の子である。AD10年頃飛騨国で誕生していると思われる。AD15年頃饒速日尊が丹波国を統治している時、飛騨国を訪問したのであろう。この時、饒速日尊は当時のウガヤ王ヒルメムチ(第67代春日姫天皇)と日本列島統一の交渉を行ったと思われる。飛騨国口碑ではヒルメムチの弟素盞嗚尊を出雲に派遣したとなっているが、まだ幼少であった孫の味耜高彦根命を出雲に派遣したのであろう。  味耜高彦根命は王位継承資格のある人物であり、飛騨国としては重要な後継者である。その人物を出雲に預けるのはヒルメムチにとって大変勇気のいることだったに違いない。縄文人である飛騨国の人々にとって弥生人は侵入者である。平和裏に日本列島を統一したいという饒速日尊の申し出に対して、本当にそれが信頼できるかという確認を兼ねて、味耜高彦根命を出雲に預けたものであろう。幼少の味耜高彦根命は生活環境の激変から、泣いて暮らすようなことになり出雲風土記にあるような状況になったと思われる。出雲の人々は味耜高彦根命を大切に育て飛騨国に返した。ヒルメムチは弥生人を信頼し、日本列島統一に積極的に取り組むことになったのである。  鴨建角身命はAD30年頃、20歳程の時、丹波国神野の伊賀古夜姫命を娶り、茨木市の溝咋神社の地に拠点を構えている。おそらくAD15年頃から20年頃の5年間ほど出雲で過ごしたのであろう。その後、飛騨国に戻り、AD30年頃、父の大山祇命と共に溝咋神社の地に移ったものと考える。飛騨口碑には饒速日尊が飛騨から大和に派遣されたことになっているがウガヤ王朝とつなぐと、大山祇命(68代宗像彦天皇)が大和に降臨したことになる。  大山祇命は第68代ウガヤ王を継承し、拠点を飛騨から遷したものであろう。鴨建角身命はAD40年頃九州に派遣され、九州から戻ってきたAD50年頃第69代ウガヤ王を継承したと思われる。  ウガヤ朝(飛騨王朝)実在の可能性について  飛騨王朝は縄文王朝と推定している。縄文時代は狩猟・採取を中心とした時代であるが、人々は定住生活がなされていたようである。王朝が存在すれば、中心となる都市遺構が見つかってもよさそうであるが、そのようなものは全く発掘されていない。このような縄文時代に王朝が存在するとすれば、どのような王朝であろうか。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
考古学的状況から判断して、当然ながら、歴史時代に入ってからの王朝とは全く異なる王朝と思われる。権力で君臨するタイプの王朝は考古学的遺構を残すはずであり、考古学上そのようなものは、縄文時代の遺跡からは全く見つかっていない。後世で考えられるような王朝とは全く質の異なるものであろう。  飛騨に残る伝承から推察すると、この王朝は「上方様」と呼ばれる王が存在したようで、この王は、宗教の主催者というような感じである。縄文時代のものと思われるピラミッド遺構やストーンサークルが全国に存在しているが、これらを利用した宗教的なものが存在していたのは確かである。日本ピラミッド研究者酒井勝軍氏によると、「日本列島には三角形の自然の山を利用したピラミッドが各地に存在し、その山頂には太陽石と呼ばれる巨石を中心としたストーンサークルが置かれている。」とされている。  このピラミッドは宗教祭祀の一種であろうと思われるが、縄文時代から存在しているようである。その祭祀を指導した主宰者こそ飛騨王ではないかと考えている。  縄文時代、人々は縄文ネットワークを形成し、各地の縄文人たちは連携をとっていたと思われる。飛騨地方にピラミッド祭祀の主催者が存在し、全国各地に移動しながら各地で祭祀を継承していたと考えられないだろうか、その主宰者こそが飛騨王(ウガヤ王)となるのではあるまいか。  当然ながらこの仮説には裏付けがない。そのように考えると、伝承がつながるというだけである。古代史の復元は矛盾がない状態で伝承をつなぐのが目的である。反証が見つかるまではウガヤ王朝=飛騨王朝として考えていきたい。  竹内文献・上記にはウガヤ王朝の様子が詳細に記録されている。文字の存在しない縄文時代に口碑にて伝えられていたようであるが、ウガヤ王の王名では漢字が表意使用されており、その御陵の位置も記されているがその位置のほとんどは九州地方である。神武天皇以前の状況としてはこれは明らかに矛盾している。  竹内文献・上記は、大和朝廷成立に関して各地に残る伝承に、飛騨に残る「上方様」に関する伝承を取り込み、鵜茅草葺不合尊に重ねて創作を加えたものではあるまいか。飛騨の口碑も大和朝廷成立伝承を逆に取り込み現在のような状況になったのではないかと考えている。  そのため、実際の飛騨王朝がどこまでウガヤ王朝に取り込まれているかが全く分からない。そのままではないのは間違いがない。しかし、ウガヤ王朝末期に関してはかなり詳しい伝承が伝わっていたと解釈できるので、古代史の復元にできるだけそのまま採用していきたいと思う。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
出雲建 出雲建(いずもたける[1])は、『古事記』等に伝わる古代日本の人物。『日本書紀』に記載はない。 ヤマトタケル(倭建命/日本武尊)に征伐された出雲の豪族である。 記録 『古事記』景行天皇段によれば、倭建命(やまとたけるのみこと)は天皇の命で筑紫の熊曾建(くまそたける)を討伐したのち、帰途に出雲に入った。そしてそこにいる出雲建を殺そうと考え、まず出雲建と親しくなった。倭建命は密かに赤檮(イチイ)の木で木刀を作って偽の佩刀とし、出雲建と肥河(斐伊川)で水浴した際、先に川から上がって出雲建の刀を身に着けて刀の交換を提案した。果たして、遅れて川から上がった出雲建は偽の刀を身につけたが、刀を抜くことが出来ず、倭建命に討たれた[2][3]。そして倭建命は次の歌を詠んだという。 「 やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 黒葛(つづら)多纏(さはま)き さ身無しにあはれ[2] 」 『日本書紀』には出雲建に関する記述はないが、同工異曲の説話として、崇神天皇60年7月条において出雲振根による弟の飯入根の討伐伝承が記される[4][1][3]。その中では「八雲立つ 出雲武(いずもたける:飯入根を指す)が 佩ける太刀 黒葛多巻き さ身なしにあはれ」[5]という同様の歌も載せられる[4]。 そのほか『伊勢国風土記』逸文では、伊勢の国号由来の条において、出雲神の子の「出雲建子命」(別名を伊勢津彦神/天櫛玉命)という神名が見えるが、これを出雲建の子神と解釈する説がある[6]。 考証 名称の「イズモタケル」は、ヤマトタケル(倭建)やクマソタケル(熊曾建)と同様に、「(地名)+勇猛な人」の意になる[4][2]。地方首長を「タケル」とするのは熊襲・出雲のみで、いずれもヤマトタケルに征伐されることから、説話の形成時期のこれら辺境の2地域が、中央から見て「征服されるべき地域」に位置づけられていたとする説がある[2][7]。 脚注 [脚注の使い方] ^ a b 出雲建(日本人名大辞典). ^ a b c d 『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 221-223。 ^ a b 出雲建(古代氏族) & 2010年. ^ a b c 出雲建(国史). ^ 『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、pp. 291-292。 ^ 『新編日本古典文学全集 5 風土記』小学館、2003年(ジャパンナレッジ版)、pp. 448-449。 ^ 出雲建(朝日日本歴史人物事典).
@00simaya40
@00simaya40 2 жыл бұрын
出雲建命=出雲建子(伊勢津彦)命で先住出雲族富家の系譜上の 南関東国造 大宮・氷川神社神主家の兄多毛比命の祖でしょうね。 兄が伊佐我(伊佐波)命 最近では忌部・齋部氏の天日鷲命の系譜とも聞きますね。 神門(出雲)振根=倭健で 神門振根→神門伊賀曽熊→嫡子の健部(武部)氏が神門氏を継ぎ 日本武の名代部も健部氏で同一と伝わるので 神門(出雲)振根=倭健(日本武の本来のモデルの様ですね。日本武の逸話は後付けの通説通りフィクションか別人)
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
飛騨文明というのは、地殻変動と関係があったようです。また、各地の洪水伝説もその名残だそうです。公的には、事実より物語の方が有益だということでしょう。しかし、土着の神話や伝承をとやかくいうの非文化的な野蛮ということでしょう。細かい所は、自由解釈の余地を残したほうがよろしいでしょうね。神話知というは、事実関係より伝達する意志と内容のほうが肝要でしょう。加えれば、考古学的、解釈学的な認識として事実関係や、仮設も重要でしょうがね。
@松永和幸-d8t
@松永和幸-d8t 2 жыл бұрын
その謎古事記古今和歌集以前に日本の国歌、君が代、は存在してたらしい、1000年以上前からとか、、、?
@NightnDay402
@NightnDay402 2 жыл бұрын
Usodesho !!
@ピヨピヨひよこ-u9u
@ピヨピヨひよこ-u9u 2 жыл бұрын
福岡の志賀海神社に伝わる歌にとてもよく似ていてルーツともいわれています
@shiro7732
@shiro7732 2 жыл бұрын
長髄彦についてもお願いします(´・ω・`)
@長谷川良行-w2e
@長谷川良行-w2e 2 жыл бұрын
今回もお疲れ様です。 名解説を有難うございます。 正史、つまり学校の歴史教科書の内容なんてデタラメが多いですよね‼️ 今後も楽しみにしています。
@鈴木生-r5z
@鈴木生-r5z 2 жыл бұрын
フィリピンでは、いまだに、両親が亡くなってから末子が家を貰うという仕来たりがあります。家族や親戚や友達を大事にするのも、この話しに似ている。
@わら-i8q
@わら-i8q 2 жыл бұрын
何百年も長い間、氷河期で海洋は移動出来ないときはどうやっていたんですか?
@30サスケ
@30サスケ 2 жыл бұрын
飛騨のたか…やま…😮‍💨 常陸、九州、沖縄…。 ここまで四国を避けられてると、 意図的に真実を曲げられてるのかなぁ…と 勘繰ってしまいますね。。
@狼男右回り-f1f
@狼男右回り-f1f 2 жыл бұрын
ISOはどこ行った? 前職の企業はISO取得にかなりの投資をしましたね…。 次はSDGSか… なんか15年に1度戦争を起こさなければいけない 軍需産業みたいでつね。
@ccc194311
@ccc194311 10 ай бұрын
非科学的空想ですね、 此れで楽しいとは幸せですね。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
飛騨王朝の成立  飛騨高天原  飛騨地方には飛騨高天原伝承がある。この高天原伝承は他地域の高天原伝承よりも古いもので、最初の高天原伝承を伝えられている。飛騨地方は縄文遺跡が非常に多い地域であり、バイカル湖周辺から移動した来た文化の南端にあたる。この周辺が西日本地域の縄文文化と東日本の縄文文化の接点にあたっている。  飛騨地方は現在でも縄文人の血が大変濃い地域で、弥生人の流入を阻止してきたと思われる。その地域にある高天原伝承であるから、縄文時代にこの飛騨地方に飛騨国が存在したと推定できる。  飛騨地方には飛騨から九州へニニギ命が天孫降臨したという伝承や、天照大神伝説などが豊富であり、また、それを裏付ける神代遺跡も多い。この伝説はいったい何に由来するのか、飛騨国の謎は深まるばかりである。まずは、飛騨高天原関連伝承・遺跡の実態を探ることにする。  飛騨高天原伝承  山本健造氏著「日本古代正史とその思想 国づくり編」より抜粋  乗鞍岳の麓に大昔から日本人類の祖先に当たる最初の人たちが住んでいて、その民族の総本家として敬われていた家には姓がなく、上方様と呼ばれていた。その分家が飛騨から日本全国に広がり日本人の元となった。  高天原は飛騨であり、その中心は丹生川村・宮村・久々野町・高山市であり、その一帯に古代の中央政府があった。上方様の一族が乗鞍岳の麓に住んでいた時代にいくつかに分家した。その中に国常立尊や伊邪那岐命もいたという。この一族が記紀のスメラミコトで後の天皇家につながる。この地の人々は乗鞍岳を「アワ山」と呼んでいた。  飛騨の丹生川の地で、森の中に水をためる池を作り、その池の周りに集まって座り、池の水に太陽を映してそれを見つめる御魂鎮めをしていた。この神事は「日抱の御魂鎮め」といって、今から130年前ぐらいまで行われていた。日を抱くように人々が輪になって座ったので日抱と言った。日抱の宮は乗鞍を中心として18社あるが、後に伊太祁曾神社と名を変えられている。この日抱が後に飛騨となった。この神社の場所は乗鞍岳がよく見える場所にあり、この神事を行った池は現在も残っている。  その中で最たるものは、乗鞍岳の峰のひとつである大丹生岳や四ッ岳山頂付近にある「大丹生池」へ上り、 修験者の皆で大丹生池を囲んで念仏を唱え、神々を崇め奉ていたという儀式だったようである。そして、この儀式の「日抱き」という名前がなまって、現在の「飛騨」と 言う地名になったらしい。  気候の変動と共に乗鞍の地から位山の地に移った。位山の頂上の磐座の周辺は国常立尊や天照大神など代々のスメラミコトを祀った神聖な場所である。天照大神の時代に九州地方が騒々しくなった。天照大神は三人の娘を九州に様子見に行かせた。また饒速日尊を大和や河内国を治めるために大勢のものを連れていかせた。九州ではコホロギという人たちが住んでいて、朝鮮や大陸から来た人たちに責められるかもしれないので助けてほしいという要請があった。天照大神は諸神と諮って、飛騨にいては対処できないので、若い強い者を九州に送ってそこを平定しようということになった。瓊瓊杵命以下、飛騨高天原の人々の大移動が行われて、九州の高千穂の地に行かれました。これが天孫降臨である。  出雲の国譲りの時、天若彦が殺された。妻の下照姫その兄の阿遅志貴命が、その遺骨を持って飛騨に入ろうとしたが、若彦の反逆の真相がわかり、飛騨での本葬をあきらめて飛騨路の入口の美濃で葬式を行った。美濃にその喪山や若彦と下照姫を祀った大矢田神社がある。その後下照姫と阿遅志貴命は美濃を開拓した。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
伊太祁曾神社推定18社 神社名 鎮座地 荒城川神社 大野郡丹生川村大字森部字中田保279番地o 伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字旗鉾字大西平17番地o 伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字日面字西ノ谷784番地の2o 伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字根方字乙保木577番地o 伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字瓜田字山越140番地の1o 伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字板殿字宮ケ洞327番地o 伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字池之俣字口川ばた6番地o 伊太祁曽神社 大野郡丹生川村大字日影字宮ノ西30番地o 伊太祁曽神社 吉城郡神岡町巣山460番地o 伊太祁曽神社 吉城郡上宝村大字鼠餅1085番地o 久手神社 大野郡丹生川村大字久手字大州巾249番地o 栗原神社 吉城郡古川町上町410番地o 栗原神社 吉城郡上宝村大字宮原350番地o 乗鞍神社 大野郡丹生川村大字岩井谷字山越704番地o 白山神社 高山市下林町2387番地o 白山神社 吉城郡河合村大字新名字かうず谷393番地o 白山神社 吉城郡上宝村大字荒原352番地の2o 日抱神社 大野郡丹生川村大字白井字大岩115番地  上の表は日抱神事が行われたと思われる伊太祁曾神社の推定18社である。いずれも五十猛大神が祭神となっている。これらの神社は乗鞍岳の北西方向に集中しており、冬至の日周辺に乗鞍山頂付近から昇った朝日で日抱神事を行ったことが推定される。祭神が五十猛大神となっているのはヒダキ→イタキ→イソタキ→イソタケの名前の類似から置き換えられたもので、素盞嗚尊の長子の五十猛命とは関係がないと思われる。  この伝承で、飛騨高天原のあらすじがよくわかるが、他地域の伝承と不整合な部分も多々存在している。  竹内古文書 富山市内に呉羽山があり、呉羽丘陵とも呼ばれている。富山平野にある丘陵である。「呉羽」は一帯の地名で、呉服部にちなむという。呉羽山は 呉羽丘陵の中の標高80mの山の名前であり、太古、御皇城山と呼ばれ皇祖皇大神宮があったという。この皇祖皇大神宮に伝わっている文献が竹内文献である。  伝承によれば、第25代・武烈天皇に仕えた大臣に、 武内宿禰の孫、平群真鳥がいた。日本書紀では、平群真鳥はクーデター計画が発覚し謀反人として殺されたと伝えられている。  しかし、ここに伝わる伝承ではかなり違っている。当時、武烈天皇は、新興の勢力から日本古来の伝承を伝える文献の引き渡しを強要されていた。天皇はこの文献を守るため、平群真鳥を殺したと見せて実は密かに越中へ落ちのびさせた。この密命が、越中富山の御皇城山にあった皇祖皇太神宮に伝わった古文献の守護だった。この平群真鳥の子孫が竹内家である。竹内文献には、神代文字で書かれた古文書と、これも奇妙な神宝類があった。この古文書をさして「竹内文書」といい、神宝類を「御神宝」 といい、この総称を「竹内文献」と呼ぶ。 「竹内文書」は元は神代文字で書かれていたが、平群真鳥が、漢字・カナ混じり文に書き改め、 竹内家ではこれを四代ごとに筆写し、代々、秘密裏に伝えてきた。  御神宝には、謎の金属「ヒヒイロカネ」で造られた皇室の三種の神器である鏡・刀剣、また、古代文字が彫り込まれた石や、天皇の骨で造ったという 神骨像など数千点にも上るおびただしい量の物だった。しかし、戦前不敬罪で裁判を受けることになり、皇祖皇太神宮から「神宮神祠不敬被告事件上告趣意書」が、 神宝を含む竹内文書約4,000点と史跡の現地調査の報告書などとともに、提出された。無罪判決となったが、提出物は裁判が終了してもすぐに返還がかなわず、 それら原本は太平洋戦争中の空襲により焼失したとされている。  第25代武烈天皇はこの行為により日本書紀で悪逆非道な天皇として記録されることになるのである。実際は仁愛に満ちた名君だったという。  竹内文献では、神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代・ 436世にわたる上古代があり、さらにその前にも天神7代の神の時代があったといい、過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていた。 竹内文献によれば、今から数十万年前の超古代の日本列島は世界の政治・文化の中心地であった。 そして、越の国、つまり、いまの富山県・神通川の御皇城山を中心に、飛弾・乗鞍にかけた一帯が神話で云うところの高天原であり、すべての人類の元宮として建立された「天神人祖一神宮」という壮大なパンテオンがあった。 世界の人々は、この元宮にお参りに来たという。ここに世界の統治本部があったといい、それがある場所を高天原と呼んだというのである。高天原とは首都、世界の首都の意味だと、 竹内文書はいう。  このような内容を伝えている竹内古文書はあまりに荒唐無稽であり、「でたらめである。」と断じてしまえば問題なく決着するが、なぜこのような文書が残されたのであろうか。古代史の復元では荒唐無稽な伝承は、その伝承を伝える素地があったと考えており、その素地を追及するようにしている。  当初竹内古文書の内容は荒唐無稽すぎて無視していたが、飛騨王朝の調査をするに至って、ウガヤ王朝が飛騨王朝につながることが分かり、竹内古文書も何か真実を伝える柱があるのではないかと考えるようになった。この度、縄文時代やペトログリフの調査をするに至って、超古代の日本列島が世界の中心であり、その天皇が世界各地を訪問していたのは、縄文人が世界各地に移動していた事実を伝えるものではないかと考えるようになった。
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飛騨の口碑  飛騨国には高天原伝承がある。その内容には様々なものがあり、一つにまとまらないところがある。大まかにまとめると次のようになる。 縄文時代と思われる口碑 天皇家は、神武天皇以前から上方様(うわかたさま)と呼ばれた時代が約6000年続いた。上方様の時代、天皇家は末子相続制だった。子だくさんの時代であり、兄弟姉妹は、民間に降りて婚姻し、多くの人々と血縁関係を結んだ。人口が増えてくると、人々の一部は、新しい土地を求めて、土地を去って行った。 そのときに、上方様の血族であるという証に、勾玉をもらっていった。勾玉は、湾曲した石で、その湾曲した部分には、皇室の魂が宿るとされた。去って行った人々は、それを我が身の係累の「証」として大事な折には身につけることを伝統とした。そうして何世代かが経つと、それぞれの土地に定着した人々が、はじめはひとりふたりだったものが、幾世代を経て、何百人かの集落となる。こうなると、同じ先祖を持つ親戚同士(村同士)でも、何百年も交流がなくなることがあり、そういう村同士が、ある日、なんらかのことでトラブルになる。村同士のイクサですから、これは村国家の一大事で、村長であるリーダーは、胸にご先祖伝来の勾玉を下げてイクサの場に赴き、相手の村国家の軍団と対峙してみると、相手の村長の胸にも、同じ勾玉が!そこで、 「やあやあ、あなたも上方様のご一統ですか」 「ハイ、私は何代の○○様の時代にこの土地に来た者です」 「そうですか。私は何代の□□様の時代ですよ」 「それなら、お互い親戚ではありませんか。ならばイクサなど辞めにして、一緒に酒でも酌み交わしましょう」 などとなって、流血事件が避けられたのみならず、互いの村国家同士の交流が深まり、互いに発展することができた。 そんな「証」が、勾玉であった、という。 弥生時代の直前と思われる口碑(山本健造著「明らかにされた神武以前」福来出版より要約) 飛騨は涼しくて、食べるものが豊富にあり、人々は大自然や先祖に感謝をして、”日抱御魂鎮”(ひだきのみたましずめ)をして平和で幸せな生活が長い長い間続いた。今から約2500年前のころ、大淡上方様(おおあわのうわかたさま)と申し上げる、賢くて、とてつもなく神通力を持ったお方が旗鉾(はたほこ)の奥の方に出られました。 大淡上方様は深く深く日抱御魂鎮をして、「先祖代々このかた、皆、平和で幸せで仲良く暮らしてきたが、これから将来海から上がって来た人たちが暴れたり、喧嘩したりする事が起きてくるだろう。  今までは、ただ仲良くしてきただけでよかったがこれからは団結して固まってゆかねば幸せを守ることはできない」と考えました。(いざと言うときに備えて国造りをせねば) 大淡上方様がのう、日本の国を、あのころは日本とは言わなかったのだが、日本の国を末永く立派に保つにはどうしたら良いか、外国に侵略されないようにするにはどうしたらよいか、いろいろとご心配下されたそうじゃ。 そして、国内のあちこちに使いをだされたのだ。・・・  口碑では、日抱御魂鎮を行って一番の大神通力者であり皆から敬わられた大淡上方様が、行く末を見通す神通力(未来の透視)によっていずれ海から上がって来た人達が暴れたり、喧嘩したりするとはっきりわかったのです。我々の先祖は本当に尊い方々であり、みんなが末永く幸せに暮らせるためにはどうしたらよいかと日抱御魂鎮を行って考えたと思います。日抱御魂鎮は「祈りの精神統一」であり大自然に感謝し先祖に感謝しみんなが幸せになるよう祈る。本家と分家という仕組みを作り国を護ろうとした。  大淡上方様の長男の直系の山麓住日高日抱奇力命(ヤマノフモトズミヒダカヒダキクシキチカラノミコト)や次男の山下住水分奇力命(ヤマシタスミミクマリクシキチカラノミコト)は飛騨の要所を固め、末っ子の直系命(マッスグノミコト)が直系を継がれた。  だんだん温度が下がるにつれて、西の方へもだんだんと広がって行った。大淡上方様は子供や孫や部下の者に、常に国を守って立派にすること、そのためにはまとめ役をする人によく仕えて団結すること、将来のことを見通して大きな希望を持ってやりぬくこと等々を教えられてのう。子は孫にまた孫にと子孫は受け継いたんじゃ。 大淡上方様には子が大勢おられてのう。一番賢くて一番神通力の強い末っ子の御方が大淡上方様の跡を継がれて、他の兄弟は、区別をするために姓をもらって分家(あぜち)をしたんじゃ。大淡上方様も生前は上方様と申し上げて、上方様の家は代々名字が無うて、分家をするときに苗字をもらったんじゃ。代々の上方様は一人一人名前をよう覚えておらんが、末っ子や女の人に賢い人がよく出られてのう。先代に分家した者、先々代に分家した者、兄や姉も皆、上方様上方様と敬い申し上げてのう。よくお仕えしてのう。また上方様は皆の者を可愛がって下されてのう。 総本家の上方様を中心にまとまっておったんじゃ。云々。」 弥生時代の初めごろと思われる口碑 15代淡上方様は都(本拠)を丹生川村から宮村に移し、後継者の孫 位山命(クライヤマノミコト)に皇統命(スメラミコト)の尊称を授けた。スメラミコトの称号はここに始まる。15代淡上方様一族を全国に派遣し、縄文連絡網を作った。 飛騨王朝誕生関連遺跡  飛騨伝承と考古学を用いて飛騨王朝成立過程を推定してみよう。  飛騨伝承をそのまま縄文時代の発掘状況に当てはめると、 ① 「飛騨は涼しく食べ物が豊富にあり最初の平和な時代が長く続いた」とされているのは、まさに縄文中期に当てはまる。そして、その時代が6000年続いたとあり、これは、縄文時代前期あたりからに当てはまるといえる。 ② 人口が増えて人が飛騨から去っていったというのは、縄文後期(4500年前)ごろより気温が下がり、西方の人口が増え始めた時期にあたる。 ③ 丹生川村に本拠地を構える ④ 大淡上方様の時代に海外からの流入が増えたとされているが、これは、中国が春秋戦国時代に入ったBC770年ごろを指すと考えられる。 ⑤ 縄文連絡網を作った15代淡上方様の時代は単純計算でBC400年ごろとなる。宮村に本拠を移す。  このように飛騨伝承は考古学から判明した縄文時代の状況とよく一致しているのであるが、詳細を見るとずれているようである。そのずれを修正しながら、飛騨王朝の成立過程を推定してみよう。  寒冷化によって、より効果的に食糧確保する必要が生じ、採取時期や作付時期を正確に知る目的でストーンサークルが日本列島(特に東日本)で盛んに作られるようになり、日の出・日の入りの位置とのかかわりで祭祀が始まった。飛騨地方での巨大ストーンサークルが垣内遺跡と思われる。
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@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
垣内遺跡(縄文時代後期前葉の拠点)  垣内遺跡は通称「上野平(うわのだいら)」と呼ばれる高原にあり、面積360ヘクタール、標高652メートル、高山市街地沖積面との比高差は100メートルである。東に笠ヶ岳、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳、南に御岳、西に白山が眺望でき、大変見晴らしが良く、日照時間が長い。  この遺跡に昔からあった三ツ岩は、触れると祟(たた)られるという地元の伝承があった。江馬修は昭和9年、石の周辺を発掘調査し、土器を採取、また現存した3個の岩以外に7個以上の岩があったことを地元の土地所有者から聞き直径約30メートルの環状石垣として考察した。ストーンサークルであったと思われる。   平成元年から2年度、圃場整備事業に先立ち高山市教育委員会が約5,000平方メートルの発掘調査を行なった。その結果、縄文時代中期後半の住居址が48基、後期後半が20基、その他7基が発見された。それらの配置を概観すると、中期後半の住居址群は中央の土壙群を中心に環状に配置され、後期前半の住居址も径を小さくしてほぼ同位置に環状に配されていることが確認された。しかし、出土した土器の状況から推察して、中期後半から後期前半への集落の継続性はみられず、ある程度の空白期間があったと思われる。後期前半には全国的にストーンサークルが盛んに作られた時期であり、飛騨地方の縄文人はこの地にストーンサークルを作ったと思われる。この発掘状況から推察して、この地の立地条件が良かったために、中期後半にはこの地に集落があったが、ここに住んでいた人々が、寒冷化によりどこかに移動した後、残った人々がこの地にストーンサークルを作ったものと考えられる。この位置は乗鞍岳・位山を見ることができ、さらに冬至の日に六方山山頂から登る太陽を拝むことができる位置である。  ストーンサークルは、中央広場にある土壙群の外縁に沿って並んでいたことになる。岩の大部分は明治、あるいは昭和30年代に移動されてしまっているため、岩の裾付け状態は不明である。唯一移動されていない岩は、圃場整備区域から除外されて保存される事になり、裾付状況を知るための発掘は見合わせた。岩の南側近くからは棒状の自然磔と、軟質部がくぼんだ陽石が配石してあったのが注目される。配石の痕跡しかないのではっきりとしないが、その陽石を中心に放射状に配石がされていたとも思われる。これは他のストーンサークルと異なる点である。飛騨地方の日輪神社周辺の聖地が日輪神社を中心とする16方位の放射状に配置されていることから考えて、後の皇室の紋章(16弁菊花紋)につながる配置がなされていた可能性が考えられる。  この遺跡の形態を各地の類例に比較してみると秋田県大湯環状列石に時期的に近いものではないかと考えられる。本遺跡ではローム層の上に約30センチメートルの腐葉土(黒色土)を堆積しているが、原位置を保っているといわれる岩はローム層を大きく掘り込んだり、敷石の上に構築された様子はない。ローム層を掘り込んでいないということで時期が新しいということにはならない。  また、垣内遺跡の特色として、出土した土器は縄文中期後半と後期前半の時期ばかりで、他時期の土器が見られなかったことがあげられる。このストーンサークルは縄文後期前半(4300年前から4000年前頃)とおもわれる。この遺跡は大湯ストーンサークルと同じころ(3800年前ごろ)に消滅することになる。  この遺跡が全盛期であったころに、縄文人の間に身分差が生じていると思われる。巨大なストーンサークルを作るには遠くから岩を運んでくる必要があり、少人数ではできない。多くの人々を計画的に動かすためには指示をする人が必要となり、身分差が生じることになる。この指示をした人物が祭主となり、この遺跡の祭主が後の飛騨国王につながっているのではないだろうか。 ③ 飛騨王朝の成立時には丹生川村に本拠地があった  後期前半における垣内遺跡が飛騨地方の中心遺跡であると推定されるが、後期中頃にはこの遺跡は消滅する。この後の拠点集落はどこに移動したのであろうか。飛騨伝承を参考に考えてみると、その拠点地から乗鞍岳が眺望できる丹生川流域地域のはずである。その候補地は岩垣内遺跡である。  冬至の日に山頂から登る太陽の姿が次第に信仰の対象になったようである。冬至の日は日の出の位置が最も南になるときで、太陽の力が最も弱くなる時と認識されていた。冬至の日は太陽の復活の日であり、一年で最も神聖な日となりうるのである。高い山程信仰の対象になりやすく、飛騨地方の最高峰は乗鞍岳である。必然的に乗鞍岳が最も神聖な山となる。  乗鞍山頂から冬至の日に太陽が登る位置が最も神聖な位置となるのであるが、垣内遺跡の位置ではそれはできない。次第に山岳信仰が強くなるにつれて、本拠地の移動が考えられるようになった。その地が岩垣内遺跡の地である。  乗鞍岳  乗鞍岳(のりくらだけ)は、飛騨山脈(北アルプス)南部の剣ヶ峰(標高3,026m)を主峰とする山々の総称。古代においては「アワ山」と呼ばれ、 乗鞍の意は「祈り座」からきたものと伝えられている。山頂に乗鞍本宮があり、飛騨側に乗鞍本宮(鞍ヶ嶺神社)、信州側に朝日権現社が背中合わせで建っている。近くに高天原と呼ばれているところもあり、周辺には祭場が散在している。最初の神都があった処と言われ、飛騨高天原の中心となっている。  飛騨伝承では、飛騨国最初の神は乗鞍岳に降臨したとされている。乗鞍岳山頂から見て冬至の日の日の出の方向に高天原と呼ばれているなだらかな丘陵部が存在している。ここが降臨地とされているが、見たところ山頂部には何も存在していない。冬至の日に乗鞍山頂は厳しいと思われるので、これは、逆に考えれば高天原から見たとき夏至の日の日没方向が乗鞍山頂となるのである。  遺跡の配置から乗鞍岳が聖地として認識し始めたのは、縄文時代後期になってからと思われる。垣内遺跡の縄文後期前葉あたりから太陽が神としてあがめられるようになり、縄文人の中心的神が天照大神になったと思われる。  縄文人は神をスメルと読んでいたようである。これは、シュメール人を神と認識していたことを意味している。日本列島に上陸したシュメール人は当時の縄文人にとって信じられないような知識を持っており、それによって救われたことが多々あったと思われる。それによって、シュメール人を神と認識したのであろう。そして、そのシュメール人が周辺の地理を探るために乗鞍岳に登ったことが考えられる。そして、東の方を眺望した地が乗鞍岳近くの高天原と呼ばれている地であろう。なぜ、こんなところに高天原があるのか不思議であったが、このように考えると納得できる。そして、シュメール人が乗鞍岳から降りて来たのを神の降臨と認識して飛騨口碑ができたのであろう。
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日輪神社 高山市丹生川町大谷字漆洞562に日輪神社と呼ばれる神社がある。 日輪神社  日輪神社は創立年代不詳で、天照皇大御神を祭神とする。日輪神社・日輪宮という別称もある。本殿は宝暦4年(1754年)の建築で市指定文化財である。 社地は里から見ると鋭角的な三角形の山容をもち、比高差は約100m。1938年、陸軍大佐の上原清二が『飛騨神代遺跡』を発表。ここで日輪神社は太古「ピラミッド」「弥広殿」と呼ばれる太陽祭祀遺跡だったという説を披露した。上原『太古之日本』天之巻(1950年)・地之巻(1952年)の中では、日輪神社の社殿が建つ部分が平坦加工された拝殿部であり、背後の裏山には高さ約20mの円錐形の神殿部があり、この円錐形拝殿部はどこを掘ってみても川石が出てくることから、自然地形の尾根上に人工の山形を持ったものと述べている。また、円錐形神殿部の頂上には、酒井勝軍で言う複葉内宮式(内側に方形の列石が巡り、外側に環状の列石が巡るというもの)の磐境の一部が現存しているとのこと。外円の列石は残っていないが、内方形の列石の一部が現地に残っていたということ(同書の附図によると4個の岩石)。  磐境の中心に置かれていたとされる太陽石は、現在、本殿の傍にある約2mの岩石がそれであろうと推測している。これは現在も本殿脇に現存している。上原の聞き取りによると、この岩石はかつて裏山にあったもので、約40年前(1910年前後?)にここへ持ってきて、丸形の石であったがこれを割って土止めのために使用したとの話を紹介している。社殿向かって右隅に、尾根の南側を巻くように歩ける踏み跡があり、その先に「太陽石」がある。岩石の表面に金属で穿たれたであろう点線状の直線が2本残っている。石割りのための楔の跡と考えられる。上原の著作を読む限り、本殿脇の岩石が元々の太陽石の残骸であり、この楔跡の岩石は後発の太陽石だと思われる。  また、位山、洞山、日ノ御岳、拝殿山、立岩、御岳、乗鞍、槍ヶ岳、立山、天蓋山、数河の巨石群、須代山、見量山の平面ピラミッド、松倉山、水無神社など、飛騨に点在するピラミッド山は「日輪神社」を中心として16方位に等分している。  岩垣内遺跡を本拠地としていた時代にストーンサークル祭祀からピラミッド祭祀に代わっている。遺跡より西に4kmほどずれた位置に天照大神を祭神とする日輪神社が存在している。日輪神社の背後の山はピラミッドと思われ、三角形の山容である。そして、山頂部に祭祀跡と思われる巨石が存在している。  山そのものが御神体として崇敬の厚かった神社。祭神は天照皇大御神。太陽神“天照大神”を祀る。日本全国で日輪神社と稱するのは唯この一社のみ である。創立年代は不詳。日輪神社建立場所は太古のピラミッドであり、飛騨のピラミッドの中心位置にある神社、ここが飛騨の中心で、ここから エネルギーが放射状に流れているとも言われている。日輪神社の裏山は、どこを掘っても硅石まじりの川石が出てくるので、裏山は人工のピラミッドと思 われる。日輪神社を中心に放射状に巨石群や、ピラミッドが分布しており、乗鞍岳外16の飛騨の山々をピラミッドと見て、其の方位を線で 結ぶと線の中心が日輪神社であると言われている。神体石、太陽石(壊されかけている)が頂上部にある。太古のピラミッドとは日来神堂と書き、巨石を積み上げ、鏡岩を東向きに置き、祭壇石にお供えものを祀って太陽の光を反射させて神様に祈りを捧げる巨大祭祀施設である。  日輪神社を中心に分布しているピラミッドと思われる山は、位山、舟山、洞山、日ノ観岳、拝殿山、立岩、御岳、乗鞍、槍ヶ岳、立山、天蓋山、須代山、見量山、高屋山、金鞍山、松倉山(飛騨の里)である。  垣内遺跡のストーンサークルの配石も16弁菊花紋を思わせる配置がなされているので、この地方の縄文人は16弁菊花紋を神聖なものと認識していたようである。  飛騨王朝は太陽を神としてあがめるようになり、太陽神天照大神が信仰対象となった。乗鞍岳は今でいう奥宮で、その地を直接訪れて祭祀するのはかなり労力を必要とする。岩垣内遺跡の地は生活の地である。そこで、近くに直接祭祀のできる聖地を必要としたと思われる。その聖地として選ばれたのが日輪神社の地ではあるまいか。この位置から乗鞍岳を望むことはできないが、背後の山の山頂から16方位に近くの聖なる山を拝むことができ、まさに飛騨の中心ともいえる場所である。
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出雲国建国 八岐大蛇関連地図 出雲国建国関連地図 BC18年頃,土地の豪族ヤマタノオロチを倒した素盞嗚尊は,周りの人々に推されて出雲国を建国し,国王となった。大原郡大東町の須我神社の地で政務を司った。須我神社は日本初之宮と伝えられており、日本で最初の宮跡といわれる。その周辺で、市を開いたり近郷の豪族を集めて会議をしたりといった伝承が伝わっている。古代にしては珍しく合議制だったようである。素盞嗚尊は権力で勝ち取った国王の座ではなく、人々から推されて国王になったのであるから、人々のことを考える気持ちが強かったと推察される。そして,素盞嗚尊は出雲各地を巡回し,人々の生活に心を配ったらしく,島根県各地の神社にこの巡回の模様が伝えられている。素盞嗚尊はこのように民衆に心を配ったために,出雲国の人々の生活は潤い、彼は民衆から慕われた。そのうわさを聞いた周辺の集落も,出雲国に加入するようになり,出雲国は次第に大きくなっていった。 来阪神社 出雲市矢尾 背後の鼻高山に登った。本殿傍らの岩は素盞嗚尊の腰掛岩と云われている。 山狭神社 安来市広瀬町 素盞嗚尊がこの地を巡視した時、仮の宿を立てた処。熊野山を経由して、熊野との間を往復していたという。 都弁志呂神社 安来市広瀬町 素盞嗚尊が置き忘れて云った杖と腰かけた岩を奉祀した神社 多賀神社 松江市朝酌町 素盞嗚尊命が新羅国より埴土の舟に乗り出雲国に渡り、この地に船を留め宮を作った。  素盞嗚尊と稲田姫の子供たち  出雲国を建国した素盞嗚尊は稲田姫との間に子を設けた。その子供たちについて検討してみる。  第1子八島野命  素盞嗚尊の長男と言われている。この命に関してはいくつか謎がある。まずそれをまとめてみる。 ① 素盞嗚尊の長子と言われているが、行動伝承が全く存在しない。 ② 八島野命は出雲王朝始祖となっている。出雲王朝初代は大国主命より6世前であり、大国主命の推定没年AD45年頃を基準に1世平均28年として八島野命はの没年を推定してみるとBC100年頃となる。朝鮮半島で漢の武王が朝鮮を滅ぼした年(BC108年)の直後辺りである。 ③ 八島野命の誕生伝承地は2か所ある。雲南市大東町の須我神社と出雲市佐田町の須佐神社近くの誕生山である。共に素盞嗚尊、稲田姫の長子としての誕生伝説である。 ④ 素盞嗚尊は自分の子供たち五十猛命・大屋津姫・爪津姫を引き連れて朝鮮半島に行っているが、その中に長子である八島野命はいない。これはなぜであろうか。 ⑤ 古事記では大国主妻鳥耳命の父が八島牟遅命となっている。素盞嗚尊の長子である八島野命は八島士奴美と記載されており、両者はよく似た名である。  素盞嗚尊の長子となれば重要な人物のはずなのであるが、この扱いはどうしたことであろうか。多くの伝承を調べてみると、具体的行動を伴わずに名称のみ記されている神(人物)は、他の人物の陰(別名)であることが多い。この八島野命もそれに該当しているのではないかと思われる。  八島士奴美が始祖となっている出雲王朝とはなんであろうか、伝承通り直系と考えて年代を推定してみるとBC100年頃からAD300年頃までに存在したことになる。この出雲王朝の人物で行動伝承を持つのが第4代八束淤美豆神(国引伝承)、第5代天冬衣神、第6代大国主神である。誕生伝承を持つものが第1代八島士奴美神(須我神社、須佐神社)、第14代天日腹大科度美神で、それ以外の神は名前だけの存在である。吉田大洋著の「謎の出雲帝国」に富氏伝承が記載されているが、この伝承では素盞嗚尊以前に大国主命につながる古来からの出雲王朝があったことが伝えられている。  後の時代に起こった出雲を舞台とした倭国大乱でも出雲王朝の王は登場しない。大国主命より後は出雲地方の一豪族としての存在だったのではないだろうか。しかしながら、古事記にわざわざ記載されるということはその系統は古代において重要な地位を占めていたと言わざるを得ない。  最後の王遠津山岬多良斯は第12代景行天皇の時代に生きていた人物と思われるので、出雲王朝を廃止したのは景行天皇であろう。景行天皇以降第14代仲哀天皇までの天皇の和名にはいずれも「タラシ」がついており、第15代遠津山岬多良斯(トオツヤマサキタラシ)と共通である。これも出雲王朝が大和朝廷にとって重要な存在であったことを意味している。  そうなれば、その始祖である八島士奴美神は重要人物となるが、皇祖神とはなっていない。そこで、始祖の八島士奴美神を素盞嗚尊の系統に無理やり組み入れたのではあるまいか。そのために第6代大国主命と素盞嗚尊は同時代に生きていたはずなのであるが、年代が大きく開くという矛盾を生じてしまったと考える。  次に大国主命の妻である鳥耳命の父である八島牟遅命は何者であろうか、出雲王朝が直系でないとすれば、八島士奴美神と同一人物であると考えることもできるのであるが、直系であれば、明らかに年代が異なる。こちらが素盞嗚尊の長子と考えれば、BC18年頃の生誕でその子鳥耳命はAD1年頃の生誕となり、大国主命と年代的に会うのである。素盞嗚尊の長子は五十猛命なので、八島牟遅命は五十猛命と考えている。  八島野命の誕生伝説地は二つあるが、どちらも別人の誕生伝説地となる。素盞嗚尊の長子は五十猛命である。彼は、率先して最初から倭国統一に参加しており、まさに長子にふさわしい行動をとっているのである。須我神社における誕生伝説は五十猛命の誕生伝説とみて良いのではないだろうか。須佐神社の誕生伝説は大歳命の項で述べる。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
五十猛命  素盞嗚尊と共に朝鮮半島に渡り、大陸の新技術を学んで帰ってきた。帰国後は佐賀・長崎など北九州西部地方の統一に尽力し、素盞嗚尊と共に紀伊半島を統一し統一後は和歌山市近辺で紀伊半島を統治していた。紀伊国国譲り(AD47年頃)後、出雲に戻り、横田町の鬼神神社の地で世を去った。  須我神社で八島野命が誕生したという伝承は五十猛命のものと判断する。生誕はBC17年頃のことであろう。  大屋津姫・爪津姫  素盞嗚尊・五十猛命と共に朝鮮半島に渡り先進技術を輸入し、その後五十猛命と共に紀伊半島に移動し、大屋彦と結婚した。最後は和歌山市で亡くなったようである。常に二人セットで行動しており、具体的な行動伝承を伴わない。同一人物ではないかと思われる。もし別人であれば行動も別になるはずである。以降代表して大屋津姫と呼ぶこととする。素盞嗚尊第2子と推定する。生誕はBC15年頃のことであろう。  岩坂彦命   素盞嗚尊の第3子となる。島根県八束郡鹿島町南の恵曇神社に祭られており、出雲国風土記、秋鹿郡恵曇郷の由来に、「須作能乎の命の御子である磐坂日子の命が、国内をご巡行になった時に、ここにお着きになっておっしゃったことには、「ここは、地域が若々しく端正な美しさがある。土地の外見が絵鞆のようだな。わたしの宮は、この所に造り、祭り仕えよ」と仰せられた。」とある。島根県松江市八雲町西岩坂946 の磐坂神社の地が生誕地と伝わる。岩坂彦命は素盞嗚尊の子として出雲国を巡回していたことが分かる。生誕はBC14年頃と推定する。  出雲王朝との関係  素盞嗚尊は出雲国を建国したが、出雲王朝との関係はどうなったのであろうか。出雲王朝は飛騨国と関係を持ち、出雲地方の有力豪族であったが、木次の八岐大蛇の台頭に対してなすすべなく、いいようにあしらわれており、出雲の人々からの信頼をなくしていたのであろう。このような時によそ者の素盞嗚尊が八岐大蛇を退治することによって、人心は一挙に素盞嗚尊に流れて、素盞嗚尊の建国した出雲国は発展していったのである。  八岐大蛇退治の時の出雲王朝の王は第5代天冬衣神である。この人物は伝承上では素盞嗚尊の八岐大蛇退治の後、オロチの所持していた天村雲剣(草薙剣)を天照大神に献上した人物となっている。また、出雲王朝の総称名と思われるクナト大神は素盞嗚尊の道案内をした神として知られている。これらのことから、出雲王朝と素盞嗚尊の立場が逆転していることがうかがわれる。  素盞嗚尊の活躍により、出雲の人々は出雲王朝から素盞嗚尊に心を寄せるようになったのである。素盞嗚尊の出雲国に対する政策が功を奏し、出雲国が次第に巨大化してきた。
@トワスト総研
@トワスト総研 2 жыл бұрын
倭人の船乗りがアフリカとか大西洋に行っていた裏付けは?予想?
@NightnDay402
@NightnDay402 2 жыл бұрын
Impossible Theory!! No such technology at that time. This person is not Scholar. He is just story writer and little too much.
@sunsun2181
@sunsun2181 Жыл бұрын
九州北部に三種の神器がたくさんでています。ぜひ、原田大六先生の遺跡の話をしてください。
@ササヤン1155
@ササヤン1155 2 жыл бұрын
いつもありがとうございます。古代の日本を想像しながら歴史を紐解くことができ楽しく視聴させていただいております。 ただ、一点誤っている個所を指摘させてください。 温暖化によって、氷が解けて海面が上昇することは在りません。水と氷の比重は凡そ1:0.9、つまり、氷が解けると水としての体積は減ることを意味しています。 従って、海面は上昇しません。
@吉田容子-q2e
@吉田容子-q2e 2 жыл бұрын
海の氷が溶けた場合は、海面は上昇しないのは理解できます。 ただ 陸地の氷が溶けて、海に流れ込んだら 海面は上昇すると思うのですが? 素人考えですみません😣💦⤵️
@sinnnosuke1005
@sinnnosuke1005 2 жыл бұрын
『縄文海進』という物は考古学的事実としてあります。 よく調べましょう。
@すぎやけんじ
@すぎやけんじ 2 жыл бұрын
おっしゃる通りですね。温暖化騒動は、先進国の資本を途上国へ強制移動させ、途上国に投資した国際資本家が儲けるための仕掛けです。
@yutakamiyagi4688
@yutakamiyagi4688 2 жыл бұрын
コップ内の氷が溶けてもそのままだが、外にある氷を溶かした水をコップに加えたら、コップの水は増える。 現在、氷河やグリーンランド、南極の陸にある氷が溶けていて、海面も上昇しているデータがあるとググると出てくる。
@johnfujiwara1322
@johnfujiwara1322 2 жыл бұрын
1)皇室の御三器に八咫鏡が在りますがその裏にヘブライ語で「I am 」の文字が表示されてます、モーゼの十戒で神が応えて言われました 『I am 』我有りて❗️古代の祭祀(天皇の前)が神さまに導かれ日本の地に来られた時に携えて来られましたー。 2) 日本最古の埋蔵地に1/2白人の女の壁画が在り、又埴輪も同じ様に1/2白人女が見られます、 🌼私の父方は七位で戸籍有り御先祖様は中大兄皇子へ繋がります、多くの天皇の方々の望みで先祖の古代式供養を行いました、皆様方は大霊で一般人の十倍くらいでした、(私自身は大祭司です) 現在は天智天皇などが守護霊となって居ます、御先祖様からのお告げで知らされました、天皇の以前に付いて【BC 600ごろBabylonの塔崩壊時に 先祖が神に導かれ東方へその途中の中近東で妻を得て日本の地に来られました、】告られた事を記しました。
@方舟Ark
@方舟Ark 2 жыл бұрын
神は有史以前から日本に居る。西洋の神は聖書で語られるが見たことも無い登場人物ばかりらしい。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
飛騨王朝と出雲国の接近  BC50年頃の状況  BC472年、呉の太白の子孫「忌」が九州有明海沿岸に上陸し狗奴国を建国、BC208年、秦徐福が同じく有明海沿岸に上陸し高良国を建国、国としての体制固めを徐々に行ってきた。BC100年頃には、出雲に朝鮮半島北部から八島命が上陸して出雲王朝を建てた。  神戸市新方遺跡で石鏃が多数撃ち込まれた縄文系の人骨が出土した。弥生前期末(BC200年頃)のものと推定されている。それまでの縄文遺跡には戦闘の痕跡はほとんど見られなかったのであるが、この頃より戦いの痕跡が見つかるようになる。水田稲作が広がるようになり、それぞれの集団が財産(米)を持つようになる。その結果貧富の差が生じ、持たざる者が持つものを襲撃するということが起こり始めたのである。襲撃される側も防衛のために環濠を作るようになった。  このような状況は九州から瀬戸内海沿岸地方・近畿地方まで広がった。飛騨王朝としてはこれは大変な出来事である。国の存亡がかかった事態である。BC2000年頃シュメール人がこのような状態を予言しており、これを防ぐために飛騨王朝が成立しているのであった。飛騨王朝としても色々と対策は練ったが、弥生文化の浸透の勢いは止まらず、同時に戦乱地帯も広がっていった。  この状態が続けば何れ飛騨を中心とした縄文情報網は破壊され、戦乱の末に最も力を持った国が日本列島を統一し、その勢力が弱まった時に別の勢力が王朝交替をするという状況が繰り返され、未来永劫平和は訪れないことが予想された。飛騨王朝は滅亡するのは明らかである。BC2000年頃シュメール人がこのような状態になることを予想していたのである。  出雲王朝の巨大化  このような状況の中で最も気になるのは出雲王朝であった。出雲王朝初代八島士奴美はBC100年頃の活躍年代から推定して、おそらく漢武帝に滅ぼされた衛氏朝鮮最期の王右渠の関係者(子?)であろうと思われる。八島士奴美は朝鮮半島から出雲に流れ着いて、出雲に住んでいた縄文人大山津見の娘木花知流姫と結婚した。大山津見が飛騨から派遣されていた縄文人だったのであろう。  八島士奴美は飛騨王朝関係者の木花知流姫と結婚したので、飛騨王朝としては安心していたが、みるみる周辺を併合して巨大な国を作った。当時の出雲地方の遺跡の状況から判断して、戦闘で周辺地域を併合したのではなく、新技術を用い、平和的に併合していったようである。飛騨王朝としては戦乱地帯の対応に追われており、落ち着いていた出雲地方は全くの無警戒であり、縄文連絡網もあまり機能していなかったと思われる。出雲地方の住民としては、寒冷期で生活が苦しい中、出雲王朝の新技術で救われ、次第に出雲王朝支配下に入っていったと思われる。   九州から近畿にかけての戦乱地帯では小国家が乱立し、勢力争いを行っていたことや、東日本や日本海側は戦乱もなく落ち着いていたが、出雲王朝が成立し、出雲地方を統治していたことなど、現在日本列島がどういった状態になっているかを34代上方様(ウガヤ朝66代豊柏木幸手男彦天皇)は、縄文連絡網によって知っていた。その中で最も気になるのが出雲王朝であった。戦乱であればすぐに警戒したのであるが、出雲王朝は平和的に統一を進めていたので、気が付いた時にはすでに巨大化していたのである。このままでは、出雲王朝が飛騨王朝を倒して日本列島を統一するということも考えられた。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
飛騨王朝と出雲王朝の政略結婚  飛騨口碑では、第34代上方様(伊弉諾尊)は出雲国から伊弉冉尊を迎えたと伝えられている。この状況を推理してみよう。                               布都御魂━━━━素盞嗚尊━━━━須勢理姫┓                              (布流国関係者?)            ┣子なし 大山津見━木花知流比賣┓                 ┏淤美豆神━━━━天之冬衣神━━━大己貴命┛ (縄文人)      ┣布波能母遅久奴須奴━深淵之水夜禮花┫(出雲朝4代) (出雲朝5代) (出雲朝6代)       八島士奴美┛ (出雲朝2代)   (出雲朝3代)┗伊弉冉尊┓     (衛氏朝鮮関係者?出雲朝初代)    (豊葦原大彦)    ┣67代春建日姫天皇                        66代豊柏木幸手男彦天皇┛(天照大神)                         (伊弉諾尊)  出雲王朝と飛騨国とのかかわり  出雲王朝3代深淵之水夜禮花の時代になると、出雲王朝の経営はかなり安定したものとなっていた。出雲王朝は富家伝承によるクナト大神である。出雲大社の周辺を都とし、その支配領域はほぼ島根県全域及び伯耆国にわたっていたと思われる。  飛騨国の縄文連絡網により、出雲王朝が巨大化していることは逐次飛騨王朝に伝えられていた。飛騨王朝としては渡来人国家出雲王朝が気になって仕方なかったことであろう。  出雲王朝の巨大化のスピードが速く、このまま放置していたのでは、いずれ飛騨王朝と衝突することになるのは間違いないことであろう。しかし、飛騨王朝には出雲王朝と戦って勝てるだけの力は持っていないし、多くの人々が亡くなるのは望まない。  飛騨王朝としては出雲王朝との関係をどうすべきかは大きな課題であったことは間違いない。出雲王朝初代八島士奴美は縄文人を妻としているので出雲王朝には縄文人の血が流れている。第二代布波能母遅久奴須奴の妻は淤迦美の娘日河比賣であるが、淤迦美は名から判断して闇龗神、高龗神につながり、縄文系である。おそらく日河比賣も縄文系と思われる。出雲王朝3代深淵之水夜禮花の妻は布怒豆怒の娘天之都度閇知泥神であるが、「天之」とあることから、この妻も縄文系である可能性が高い。  出雲王朝は安定統治を目指して現地の縄文人を代々妻としていたのではないだろうか。実際出雲王朝初代八島士奴美が日本列島に上陸したとき、同行した人物は数人程度しかいなく、渡来人だけで国を作ることは難しかったのではないだろうか。現地の縄文人の協力を得ることにより出雲王朝は巨大化したのであろう。  八島士奴美が流れ着いたころ、出雲地域には渡来人もいたであろうが、それぞれの渡来人はばらばらの状態で生活をしていたと思われる。それに対して縄文人は飛騨国の縄文連絡網を形成しており、隅々まで連携を持っていた。そのために八島士奴美は縄文人を妻にすることにより、縄文人集団の協力を得ることができ、出雲王朝を大きくすることができたのである。  出雲王朝は王の系統こそ渡来人であるが、その実際の経営は縄文人が行っていたと考えられる。このような状況にあったからこそ、飛騨国は出雲王朝との政略結婚を考えることができたのであろう。  出雲王朝の娘飛騨国に嫁入り  飛騨口碑によると第34代上方様(伊弉諾尊)は、出雲から妻(伊弉冉尊)を迎えたとされている。この該当人物を探ってみよう。飛騨口碑の伊弉諾尊の娘がヒルメムチ(天照大神)でその同世代が素盞嗚尊である。素盞嗚尊と出雲朝5代天冬衣神が同世代なので、伊弉冉尊は出雲朝4代淤美豆神と同世代となる。飛騨国に嫁入りするのは王家の系統以外考えられないので、おそらく淤美豆神の妹であろう。よって、伊弉冉尊は出雲朝3代深淵之水夜禮花の娘となる。  これをウガヤ朝の系図に当てはめてみると、第34代上方様(伊弉諾尊)がウガヤ朝第66代豊柏木幸手男彦天皇に該当し、伊弉冉尊がその皇后天津豊日足媛が該当する。そして、その父の豊葦原大彦が出雲朝3代深淵之水夜禮花に該当することになる。ちなみに豊葦原というのは中四国九州地方を指す言葉なので、豊葦原大彦という名は、その地方にいた人物という意味になるのではないだろうか。豊葦原大彦はウガヤ王朝の系図に組み込まれているが、これは、同系統にするために、改ざんしたものであろう。  出雲王朝初代八島士奴美は他の渡来人集団と違い、縄文人を妻とした。出雲王朝はその後も代々縄文人を妻にしており、王朝の経営はうまくいっていた。このことが飛騨王朝と出雲王朝を近づける原動力となったのであろう。飛騨国も渡来人の侵入に対して頭を痛めており、どうすればよいかの妥協点を見いだせないでいた。このままでは間違いなく飛騨王朝の滅亡につながるのである。  飛騨王朝は出雲王朝の経営方法を見て、渡来人と縄文人とが共存する世界を夢見ることができたのであろう。渡来人と縄文人が共存できれば、飛騨王朝としてはこれほど望ましいことはないのである。この時点で出雲王朝と縄文一般人とが結婚しているが、互いの王家につながる者同士が結婚できれば、互いの国の共存が実現できるのではないかと考えた。  第66代ウガヤ王豊柏木幸手男彦天皇(飛騨口碑における第34代上方様=伊弉諾尊)は、政略結婚によって渡来人(弥生人)と縄文人が結婚し、混血することによってこそ、縄文人集団の生活を守ることができる唯一の方法と考えたのであろう。
@segawatakayoshi9074
@segawatakayoshi9074 2 жыл бұрын
魏志倭人伝に書かれている倭人はどこにいったのであろうか?
@志織-y2i
@志織-y2i 2 жыл бұрын
白山王朝って ありましたか?
@sbarukanusu3167
@sbarukanusu3167 2 жыл бұрын
神武天皇はエフライム、オヤジがヨセフ、爺ちゃんが、ヤコブです。
@user-nukoyama
@user-nukoyama 2 жыл бұрын
神武はガド族だと思ってた。
@sbarukanusu3167
@sbarukanusu3167 2 жыл бұрын
祟神天皇からガド族になり継体天皇からレビ族になったと言う説もありますね、
@masasumi4248
@masasumi4248 2 жыл бұрын
日本は陸続きの時代もありますね。 昔話のように話を聞けば良いのですね。
@butaeri
@butaeri 2 жыл бұрын
計算間違えてませんか?
@sophietwilight3183
@sophietwilight3183 2 жыл бұрын
6000年÷240代=1代あたり25年
@ジグジグ-y4w
@ジグジグ-y4w 2 жыл бұрын
あざっす!
@NOKEYCTR
@NOKEYCTR 2 жыл бұрын
世界の縮図が日本であり日本の縮図が沖縄である。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
岩垣内遺跡(飛騨王朝の拠点)・・・飛騨王朝の成立  この遺跡は岐阜県大野郡丹生川村板敷の高台にあり、岩垣内遺跡のほか西畑遺跡・白石遺跡・栃下遺跡などが連続して存在しており、一大縄文遺跡の地域である。乗鞍岳を望むことができ、冬至の日には乗鞍山頂から登る太陽を見ることができる。  すぐそばに飛騨の日抱神事伝承を受け継ぐ日抱宮が存在している。この遺跡からの出土土器は北陸系・関西系・信州系と他地域の土器が頻出しており、縄文後期から晩期にかけての拠点集落であったことが類推される。垣内遺跡で誕生した飛騨国王はこの地を拠点としていたものと考えられる。  この垣内遺跡から岩垣内遺跡に拠点が移ったのは大湯ストーンサークルの祭祀が黒又山に移動した時期と同じではないだろうか。飛騨地方では垣内遺跡のストーンサークルが乗鞍岳を中心とする祭祀に代わったのである。3700年前(BC1700年頃)と思われる。飛騨伝承における始まりが乗鞍岳なので、このBC1700年ごろが飛騨王朝の成立時期と考えてよいのではないだろうか。ここからの飛騨王朝の伝承がウガヤ王朝として伝えられているのではないだろうか。  ウエツフミや竹内古文書ではウガヤ王朝は72代62世である。BC1700年ごろに王朝が成立してその伝承がそのまま伝わっているとすれば、AD60年ごろまで1760年となるので、1世当たり28.3年となり、ほぼ妥当と考えられる。  垣内神社の地でストーンサークルを用いた祭祀が次第に盛大になるにつれ、日の出・日の入り及び乗鞍岳が聖なるものとして次第に意識されてきた。垣内神社の地で乗鞍岳から日の出が見られるのは8月22日ごろである。この頃は一年で最も重要な日は冬至の日であった。垣内遺跡の祭主は、冬至の日に乗鞍山頂から太陽が昇る姿を見ることのできる位置に移動しなければならないと思うようになってきた。  そこで、冬至の日に乗鞍山頂からの日の出を見ることのできる位置を探すと、まさに岩垣遺跡の位置であった。この位置にはすでに集落があったが、この地に祭主が移動してきて、拠点を構えた。この時が乗鞍岳を聖なる山とした祭祀の開始となる。この祭祀の祭主が飛騨王朝の王となるのである。この時を飛騨王朝の誕生と考えることができる。BC1700年頃のことである。
@airvelvet1968
@airvelvet1968 Жыл бұрын
中東のイスラエルの北北東では? 倭国なんて縄文人の国では無いし、 日本国という名の王国が東日本に、 偉人倭人伝に明記されている。
@高下連
@高下連 4 ай бұрын
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