いつも楽しく拝聴させて頂いております。初投稿です。 カルロス・クライバーは、このときが、コンサート指揮者としての初来日。初日(5月9日)の文化会館でAプロを聴きました。元々の予定では2曲目はモーツァルトではなく、VPOと録音したCDが発売されていたシューベルトの3番が予告されていました。購入したプログラムには、シューベルトの解説が書かれており、下記のような変更通知のチラシが配られていました。 《原文のまま引用》演奏曲目の変更について 本日予定されておりました「シューベルト作曲。交響曲第3番二長調」は、指揮者の希望により「モーツァルト作曲。交響曲第33番変口長調KV.319」 に変更になりました。したがいまして、本日は下記のとおり演奏されます。 何卒ご了承のほどお願い申しあげます。 記 カルル・マリア・フォン・ヴェーバー Carl Maria von Weber 歌劇「魔弾の射手」序曲 Overture From DER FREISCHUETZ ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart 交響曲第33番変口長調 KV.319 Symphony No.33 in B flat major KV.319 休 憩(20分) ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 交響曲第2番 二長調 作品73 Symphony No.2 in D major Op.73 財団法人 日本舞台芸術振興会 また、数日後の音楽評論家三宅幸夫さんによる新聞評は、次のような絶賛調でした。 《全国紙夕刊より、原文のまま引用》デモーニッンュな響き鋭く 稀有の指揮者クライバーとバイエルン国立管演奏会 かつてゲーテは、理性も感性も及びがたい異様な力が一人の人間をとらえ、突き動かし、途方もない仕事をさせることを「デモーニッシュ」と表現したが、この言葉はそのままカルロス・クライバーの音楽にもあてはまるだろう。 前回のミラノ・スカラ座来日公演で彼が振った強烈な「オテロ」はまだ記憶に新しいところだが、今回はコンサート指揮者としての日本デビューである。期待はいやがうえにも高まり、ポリーニや小沢征雨の姿も見えた超満員の会場は、すでに始まる前から過熱状態。この異様な雰囲気のなかで、まず最初にウェーバーの「魔弾の射手」序曲が演奏された。 なにしろクライバーのことだから、小手しらべなどという次元の演奏ではない。バイエルン国立管弦楽団を率いて、彼はオペラ「魔弾の射手」のすべてをこの序曲に凝縮してみせた。さまざまな動機がドラマのように絡みあい呼応しながら、奔流をなして終結部へとなだれこむ。「ここで幕が開いてくれたら」と思わずにはいられないほど熱のこもった盛り上がりであった。 この姿勢は、続く二曲のシンフォニーでも変わることがない。いや、むしろ独特のダイナミズムはさらに先鋭化されていったと言えるだろう。たとえばモーツァルトの「交響曲第三十三番」では、極端にするどいアクセントづけでメヌエット楽章をスケルツォのように読み換えていたし、ブラームスの「交響曲第二番」では、バイオリンの弓使いを一列ごとに逆にするなど、常識では考えられない方法で密度の高い旋律線を要求してゆく。 その結果として現れる音楽は、もはや我々が思い描いているようなモーツァルトでもブラームスでもない。おそらく作曲者ですら考えつかなかったデモーニッシュな響きが、そこに新しく生み出されているのである。 しかし、それは単に譜面の解釈といった問題にとどまるものではないだろう。クライバーは音楽の流れのなかで、エネルギーの高揚と減衰を心憎いまで巧みに操り、さらにバネを充分に利かせた体の動きで、このうねりを視党的に増幅する。その見事さは、彼が――メフィストフェレスのように――人間の心理と生理を知りつくしているのではないかと思わせるほど。まことに稀有(けう)の指揮者による稀有の体験であった。(九日、東京文化会館) 自分も、魔弾の射手の導入から引きずり込まれ、ブラームスなど弦の圧が尋常ではなく、熱狂した記憶があります。が、当時20代半ばだったので、ほんとうのところどうだったのかは分かりませんが……