Рет қаралды 4,027
天正三年、徳川家康は武田勝頼と長篠の戦いで勝頼を敗走させると、駿遠の地から武田氏の勢力を駆逐すべく諏訪ノ原へと陣をすすめた。そこには武田家に名ある武将が堅固に守り大井川を越えた駿河には後ろ備えとして幾多の城砦があった。家康本陣はその後ろ備えを叩こうと三隊の兵を分けてひそかに駿河へ侵入させた。鳥居元忠の手からは杉浦藤八郎と竹沢図書助が選まれて興福寺城の攻略に当った。その中に足軽の子であり幼馴染として安倍大七と加行小弥太がいた。大七が二歳年長であり気質のうえからも兄のような立場にいた。大七は積極的な性質で前へでることを好み戦陣でも功名を立てている、小弥太は幼い頃から挙措が鈍重で言葉つきもはきとせず凡々たる存在だった。
興福寺城は小城であるが深さ二丈、幅三十間の濠をめぐらした要害の地を占めていた。