明治政府が神仏分離令を出した本当の理由|石川真理子

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むすび大学チャンネル

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Күн бұрын

【目次】
1:55 日本仏教のはじまり
4:48 神と仏が共存する文化
21:42 神仏分離令を出した明治政府の思惑
ーーーーーーーーーー
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#神仏分離 #神仏習合 #泉涌寺

Пікірлер: 189
@user-hj9fz3zh9o
@user-hj9fz3zh9o Жыл бұрын
一人でも多くの人がこのお話を知るところとなりますように。
@user-rn2wn5vs2u
@user-rn2wn5vs2u Жыл бұрын
皇室と泉涌寺との関係を詳しく知ることができました。皇室の方々が本来の伝統文化や歴代天皇への祈りを取り戻せるように国民も認識を深め危機感を持つべきと感じました。皇室を守る新たな視点に気づかされました。有り難うございます。この動画がたくさんの方に拡散されることを希望いたします。
@subu3266
@subu3266 Жыл бұрын
それにしても、マスコミは、日本の敵ですね‼️ ゴミだ‼️🤧
@qr172
@qr172 Жыл бұрын
石川様、天皇あっての日本だということがよくわかるお話でした。 日本は今、大変な’変革の中にありますから(いや、世界中がそうなのですが、外国は置いといて)、まごまごしていれば日本文化は発展どころか衰退してしまうでしょう。 そういうときに、日本人は天皇様を常に中心に据えて、官民揃って日本を守っていかなければと強く感じた次第です。 ありがとうございました。
@user-ez4bw9ou2e
@user-ez4bw9ou2e Жыл бұрын
ありがとうございました.面白かったです。 わたくしごとですが、京都市東山区泉涌寺の隣に学校がありましてそこへ通っていました。運動場グランドには塀もフェンスもなく、境もなく泉涌寺、月輪陵です。毎日遊びに行っていました。 いつだつたか、沢山の御位牌を拝見し、歴代の天皇の御位牌と分かって子供ながらに大変な御寺と理解いたしました。 昭和30年代のことでしたが、今頃、動画によって意味が分かり感激しております。
@user-rq9px5rt8e
@user-rq9px5rt8e Жыл бұрын
石川先生ならではの柔らかな口調で語られる歴史に心洗われる思いですありがとうございました。
@user-or7hj4eb6s
@user-or7hj4eb6s Жыл бұрын
神仏習合と分離、そして今上天皇陛下のお考え等から、今の日本の姿を連想致しました。神仏習合からみる日本人の心が一つに繋がる思想的方法論があるのではないかと感じます。 とても勉強になりました。ありがとうございました。
@kanaloa.s4233
@kanaloa.s4233 Жыл бұрын
とても良いお話が聞けました ありがとうございます😊 我が家は仏教系の宗教に祖父母の代から入信してますが 私は去年から違和感を感じ そこからさまざまな神社仏閣へ参拝に行くようになり 小名木さんとの出逢いもあり色々な事を学び神道や天皇も大切だと気付きました 今回も良いお話が聞けました ありがとうございます❗️
@user-th7qu1lr1r
@user-th7qu1lr1r Жыл бұрын
保守とは何か?を考えさせられました。 やっぱり「改革!改革!」ばかりでは これまで大切にしてきたことを破壊しかねないですね。 廃仏毀釈、国家神道は高校の日本史でも出てきますが文化や生活にどういう影響があったか。という説明がなくよく分かりませんでした。 今回ので廃仏毀釈が日本にどういう影響を与えたかよく分かりました。
@goldkenbo
@goldkenbo Жыл бұрын
大変に貴重なお話で、他では聞くことの出来ない内容でした。素晴らしいお話です。
@ChanNATTAN
@ChanNATTAN Жыл бұрын
世のため人のために守ってくれる神様と仏様は同じように優しいのにどうして仲が悪いのだろうと小さい頃から疑問に思ってました。神様と仏様が本当は仲が良いことを知ること出来て嬉しいです☺️✨ ありがとうございました✨
@hm-kq6cg
@hm-kq6cg Жыл бұрын
石川先生貴重なお話しありがとうございます。
@user-km4cd5bb6h
@user-km4cd5bb6h Жыл бұрын
これは勉強になりました。ありがとうございます。ずっとモヤモヤしていたことが、スッキリしました。
@mighty2170
@mighty2170 Жыл бұрын
ありがとうございました、ずーっともやもやしてたものの一端が綻びました。前回の台湾のお話もそうですが、繰り返し聴いて、良く心に留めたいです。  まだまだ深掘りしたいと切に思いますので、出来ましたら、また宜しくお願いします🤲
@user-pt8eq4kt3i
@user-pt8eq4kt3i Жыл бұрын
石川真理子先生、凄くカワイイお声ですね!声が良く通って聴き取り易くすっと頭に入ってきます、大変わかりやすい解説ありがとうございます!
@KI-zg6uu
@KI-zg6uu Жыл бұрын
今上天皇は強いというか怖いって聞いた気がする。あと伯家神道を継いだ保江さんが明治天皇以降受けてなかった天皇を神たらしめる祝之神事(はふりのしんじ)を今上天皇にはなんとか受けてもらうことが出来たと言っていました。ギリギリのところで白川家途絶える前になんとか間に合ったと。つまり今上天皇は神が降りた天皇ということですよね。
@amoreluzepacienciaeusou1316
@amoreluzepacienciaeusou1316 Жыл бұрын
平田篤胤の影響で純真な日本人はいまだに代々と続いてきた信仰がねじ曲げられてて、その事に一番心を痛めたのは皇室の方々であるということが良く分かりました。 日蓮宗の僧侶は、着物の下に袴をはいてて神仏習合の歴史が残っていますね。袴をはくのは神官だけだと思ってました。
@user-xc6jx9eq6o
@user-xc6jx9eq6o 5 ай бұрын
平田篤胤って、今で言えば竹中平蔵なのでは?
@user-kf5br1bt8f
@user-kf5br1bt8f Жыл бұрын
真理子先生大切なお話を共有して下さってありがとうございます。今上天皇がこれからの日本の在り方に心をかけて下さっていることがありがたく涙が出ます。
@user-takechan9071
@user-takechan9071 Жыл бұрын
とても貴重なお話を聞かせて頂きました。ありがとございます。
@user-vq7yl1wy8g
@user-vq7yl1wy8g Жыл бұрын
皇室と佛教、今はもう異質の関係と考えていたが、そうでない事を知り驚いている。このことはもっと世に知らされるべきであり、天皇家と佛教の深い繋がりを我々日本人はもっと学ぶべきだろう。
@user-yy3ph9xu2z
@user-yy3ph9xu2z Жыл бұрын
知らないでは済まないような大切なお話を頂いてありがとうございます‼️せんにゅう寺必ず参拝します。スメラミコトと共なる故にこの国が悠久であるのは私たちの心が喜び知ることですね、凄くそう感じました。善きに戻りますように🍀*゜
@ShinyaNakano123
@ShinyaNakano123 Жыл бұрын
初めて知ったことばかりです。
@user-lc3zj5nu9w
@user-lc3zj5nu9w Жыл бұрын
たいへん勉強になりました。御位牌があったのは本当に知らなかったです。
@user-nz5js4og7b
@user-nz5js4og7b Жыл бұрын
ありがとうございます✨ そうだったのですね 今回は 神回ですね✨ いろんな宗教団体のある和が國です その根底には 神仏分離への なにかしらの 疑問点というか 違和感を垣間見える氣がします わたしは…。 本当に 《和の心》大事にと こころあらたに 思います✨ ありがとうございました❣️ 因みに 先生の お着物の 襟抜き具合 とっても素敵です💗 わたしの着付けのお手本です✨
@ikubota
@ikubota Жыл бұрын
素晴らしいご講義有難うございました。恥ずかしながら、神仏分離令の現実を始めて知ることができました。お話に関連した事がに少しでもマスコミ載れば皆さんの関心が払われる のでしょうが、おっしゃる通り全く出てきません。その意味で、石川先生のお話は本当に貴重だと思います。天皇あっての日本なので、正しい史実をお伝えいただくお仕事をこれか らもお願いいたします。
@user-hj3jj4qq2k
@user-hj3jj4qq2k Жыл бұрын
意識は正直したことないんです。だけど天皇陛下の存在、立ち居振る舞いは子供の頃から安心感を戴いてました。不思議です。
@k1n1z1w1
@k1n1z1w1 Жыл бұрын
なんでこういうことを教育(常識としての歴史)に組み入れないのだろうか。大人になって、趣味・興味で勉強するしかない。おもしろおかしく、都市伝説などと言われる。細かいことまでは覚えられないし、それこそ興味を持った者が詳しく調べればいいが、どんな流れで今があるのか。勝者(その時の治世者)の意向ではなく、事実としてこういう解釈もあるんだ、ということを知らしめて欲しい。私65歳ですが、もっと若くても今の子供たちは知識欲があると思う。ご講義、ありがとうございます。
@泥中之蓮
@泥中之蓮 Жыл бұрын
明治政府による神仏分離は政策として誤ったのだと思いますね。今も尚その影響が残っているとのことでしたので、今後は良い方向に修正されていく事を期待したいです。
@sylpheed9
@sylpheed9 Жыл бұрын
マスコミがよく使う天皇様ではなく、天皇陛下と表現された方がいいのではないかとおもいます。 様は庶民も使う敬称ですので、皇族には陛下や殿下が好ましいのではないかと思います。 内容はとても勉強になりました。ありがとうございました。
@user-bn4xp1ko7s
@user-bn4xp1ko7s Жыл бұрын
大変分かりやすく勉強になりました。有り難うございます。私も日頃両家のご先祖の供養をしています。父方母方です。法華経にです。機会が有りましたら是非泉涌寺に参拝さしていただきます。よろしくお願いいたします。
@akitsuno7531
@akitsuno7531 Жыл бұрын
大変参考になりました。ありがとうございます。 しかしながら、平成天皇、令和天皇というのは、おくり名ですから、勿論、わかっていてお使いになっているとは思いますが、聞いているものが誤解がなきように、崩御後という一言を入れていただきたく思いました。
@user-zi9cw2nl2m
@user-zi9cw2nl2m Жыл бұрын
気づくの遅くなっていま観ました!先生!手を振ってくれてありがとう🥰👍 あとで最初からまた観ます!
@user-oe2og5ro8l
@user-oe2og5ro8l Жыл бұрын
入浴後爆睡し、今朝(1:00起床)は早朝より素晴らしいお話を伺い感動致しました。(天皇あっての日本。)正に感涙。妖怪悪鬼ばかりが徘徊する令和の世に漸く一条の光が見えてきた感じ。(天皇あっての日本。)を取り戻すべし。破邪顕正の剣を保持すべし。
@user-dt8kq1zc7x
@user-dt8kq1zc7x Жыл бұрын
心地いいお声ですね~☺とても勉強になりました!ありがとうございます✍📚✨
@user-lq9jg1jy2v
@user-lq9jg1jy2v Жыл бұрын
田舎のお地蔵さんの首がなくなってることが不思議だったことを思い出します 無事残っているものがあると ぁ この地域の方々は残してくれたんだなって、今は考えてしまいます。
@user-vr6em6md4d
@user-vr6em6md4d Жыл бұрын
貴重なお話、ありがとうございました。皇室と仏教、そして泉涌寺との関係を全く知りませんでした。泉涌寺、必ず参拝させていただきます。
@kohji_cozy_koh-san
@kohji_cozy_koh-san Жыл бұрын
ありがとうございます...ありがとうございます...ありがとうございます... 真理子先生、引き続きお教えくださいまして、ありがとうございます...
@kinnkojyu
@kinnkojyu Жыл бұрын
長い間 明治の神仏分離令ということの意味が分からずじまいで 今まで生きてきました。私の祖父は日清戦争で武勲があり 金鵄勲章を授与されていました。長い間宮内庁近衛兵として お勤めを果たし定年後は生まれ故郷の神主として神社の宮司を務めました。私の父は4男でしたので分家し 地方公務員として技術職に奉職し 他県に転勤し 転勤先で他界しました。父を荼毘に付し その報告を本家にしたら なぜ 土葬にしなかたのかときつくしかられました。本家では神仏分離令以来 仏壇はなく 神棚だけしかありません。いま ようやく 明治の神仏分離令の意味が 先生の講義で 納得がいきました。鬼籍に入った自己の年齢を自覚し よくわかりましたし また現在の天皇家でも 敗戦後の憲法との整合性に心を砕いている御姿に言及され 深く心の安らぎとなごみを得ることができました。まことに ありがとう ございました。
@user-lo5xe7ls1r
@user-lo5xe7ls1r Жыл бұрын
神仏分離令も、3大稲荷(諸説あり)の選択が面白いんですよ。 伏見稲荷大社は、神社へ 豊川稲荷は、お寺へ 最上寺稲荷は、神仏習合思想のまま。 お稲荷さんもイロイロです。 世界遺産の紀伊山地の霊場と参詣道では、神仏習合思想が色濃く残っていますよ。 神仏分離令も完璧ではなかったので、助かった文化財も沢山あったんですね。
@ShiroiTori
@ShiroiTori Жыл бұрын
本当に良いお話を聴けました。 ありがとうございます🙏 今上天皇を含め、歴代の天皇には感謝の氣持ちしかありません。 泉涌寺には、いつか必ず参拝させて頂きたいと思います🌟🌟
@earthcolor3053
@earthcolor3053 Жыл бұрын
これは貴重なお話を聞かせて頂きました!100回くらいいいねボタン押したい!!
@Bskyliner
@Bskyliner Жыл бұрын
素晴らしい解説、本当にありがとうございます。来月月輪綾に行く予定なので、必ず泉涌寺にも参拝に行きます。 この動画解説が本当に参考になりました。島田裕巳さんの本で天皇が仏教徒であったと知ってはいたものの、やはり音声動画で見てより深くわかりました。
@user-rm6qq8ur1t
@user-rm6qq8ur1t Жыл бұрын
声の大きい人に弱いというのは今も変わらず、、、 嫌々やった為か神道国教化の為の予算も職員の数も少なく、上手くコントロールできなかったのでしょうね。
@user-ie1gj7le5c
@user-ie1gj7le5c Жыл бұрын
神仏習合、神仏分離、廃仏毀釈、こんなことは一応教科書には出てくるけれども、極めて雑な説明でこれまで「何故?」という根本的な疑問の塊を抱き続けてきました。それが先生のこのお話で、頭の中の氷の塊が溶けるように理解できました。 それにしても、本来なら、ご公務ももっとゆったりとされるべきだと思っていますが、苛烈なご公務を押し付けるだけで、ご皇族の望まれることを無視する今の在り方に恐怖を覚えます。 このお話、どうして広く認識されないのでしょうか。どうして教科書に正しく記載されないのでしょうか。 今日このチャンネルに偶々遭遇して本当によかった。 先生のような方がいらっしゃることに、とても嬉しく思います。
@user-zf1bn1ub5c
@user-zf1bn1ub5c Жыл бұрын
廃仏毀釈ー2 奈良興福寺でも食堂が明治8年(1875年)に整理される他、興福寺の五重塔は再生用資材(当時価格の25円[11])で、行財政改革の対象となっていた。大阪住吉大社の塔は、明治6年(1873年)にはほとんどが整理となっている。また、内山永久寺も廃寺となり、安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持つ阿弥陀寺も廃されたが、これは現在は赤間神宮となっている。 明治維新の舵取りである薩摩藩の改革では、藩内寺院1616寺が対象、僧侶2964人すべてが還俗(当時としては僧侶特権からの分離)とされている。この廃仏毀釈の主たる目的は、寺院の撞鐘、仏像、什器などから得られる金属を再利用し、天保通宝の鋳造をもって近代化を目指した[12]。小西孝司によれば、2019年(令和元年)9月時点で鹿児島県内には『宗教年鑑』平成30年版の引用で481寺あるが、国宝や重要文化財の仏像は1点もないとしている[13]。なお、文藝春秋と小西の記事では廃仏毀釈時の寺院の数が異なっている(小西は1066としているが、いつの年月の時点かは記していない)。 美濃国(岐阜県)の苗木藩(東白川村)では、明治初期に廃仏毀釈が行われ、藩内寺院17の寺すべてが対象となっていた。東白川村では、現在でも仏教の信者はほとんど存在せず、葬式は神式(日本式)で実施されるのが通例である[14]。 一方の尾張国(愛知県西部)では、津島神社にあった宝寿院が、仏教に関わる物品を行政から買い取り、存続しているケースもある[15]。 対象となった社寺・神塔 廃仏毀釈による主な対象 平等寺(大神神社別当寺) 大御輪寺(大神神社神宮寺) 内山永久寺(石上神宮別当寺) 白雲寺(京都愛宕神社神宮寺) 中禅寺(筑波山神社関連寺院) 福昌寺(薩摩藩島津氏の菩提寺)[16] 永代寺(富岡八幡宮別当寺) 菩提山神宮寺(伊勢神宮内宮関連寺院)[17] 鵜戸山仁王護国寺(鵜戸神宮別当寺)[18] 神凰寺(大鳥神社神宮寺) 廃仏毀釈により破却された神塔 廃仏毀釈の対象になった鶴岡八幡宮の大塔(フェリーチェ・ベアト撮影) 與杼神社宝塔 上野東照宮本地塔 秋葉権現多宝塔 久能山東照宮五重塔 紀州東照宮三重塔 北野天満宮多宝塔 石清水八幡宮大塔 鶴岡八幡宮大塔、江島三重塔 諏訪大社五重塔(上社)、三重塔(下社) 吉備津神社三重塔 日御碕神社三重塔、多宝塔 足助八幡宮多宝塔 石清尾八幡宮多宝塔 金比羅大権現多宝塔 室明神社多宝塔 天野神社多宝塔 平野熊野神社多宝塔
@user-eg1vq6mn9b
@user-eg1vq6mn9b Жыл бұрын
先生のお声が美しく聞き取りやすいです。up感謝です。
@MrMabassman
@MrMabassman Жыл бұрын
明治政府の負の部分を知る事が出来ました。
@user-fb4bg7sq6l
@user-fb4bg7sq6l Жыл бұрын
いゃ〜ビックリしました。床に付き眼を瞑り聞いてましたが眼が覚めました。
@user-zf1bn1ub5c
@user-zf1bn1ub5c Жыл бұрын
真言院 (しんごんいん、宮中真言院/修法院/曼陀羅道場)は、平安京大内裏(平安宮)にあった院。現在の京都市上京区稲葉町付近にあたる。 概要 平安京大内裏(平安宮)のうちで、内裏の南西、中和院の西、豊楽院の北に位置する。修法を行う公的な密教道場で、毎年正月に後七日御修法が行われた。『続日本後紀』によれば承和元年(834年)12月に空海の上奏によって唐の内道場を擬して勘解由使の庁舎を充てて設置された[1][2]。文献上では「宮中真言院」・「修法院」・「曼陀羅道場」とも見える[1][2]。 院の周囲には築垣が巡らされており、東西南北に4門が開かれていた[1]。内部では壇所として身舎に2壇、東・西・北の各廂に聖天壇・息災壇・増益壇の3壇が配される[1]。また南庭には神供所の小壇が配され、東に長者坊、西に護摩堂、北に伴僧宿所・厨所・雑舎が配されていた[1]。 延長5年(927年)成立の『延喜式』では御修法の式日が規定されている[1]。その後、永祚元年(989年)に倒壊しているほか[2]、治承元年(1177年)4月に焼亡[1]。永享4年(1432年)6月には室町幕府6代将軍の足利義教によって再興され、長禄頃(1457-1460年)まで後七日御修法が行われていたが、寛正年間(1460-1466年)には里内裏の紫宸殿で行われるようになり荒廃したとされる[1]。しかしながら、内裏の荒廃後も東寺の支援および密教道場の聖性によって機能が続いたという点で、同様に室町期まで機能した神祇官・太政官庁・神泉苑とともに特異な施設とされる[3]。
@user-rm8nt4ze9x
@user-rm8nt4ze9x 9 ай бұрын
貴重なお話を 大変ありがとうございました。石井弘子
@user-yz5ey1py1t
@user-yz5ey1py1t Жыл бұрын
非常に勉強になりました。急激な変革は大きな歪みを残しますね。
@budaibaseball
@budaibaseball Жыл бұрын
礼拝を「れいはい」と読むのは主にキリスト教で、仏教では「らいはい」と読む方が相応しいと思われます。
@user-ul7xl7jq3w
@user-ul7xl7jq3w Жыл бұрын
泉涌寺には法華経への帰依をする時と思う。華厳時、阿含時の仏法に縛られずに法華時の今の末法法を進めて皇族供養すべきと思われますがいかがなものでしょうか。
@user-sj2fb2gj5n
@user-sj2fb2gj5n Жыл бұрын
仏様が色々と神様に変幻されるのは 八百万の神が生活に浸透していた当時の人たちのリテラシーに刺さるように変わっていったのでしょうね。
@spirithitoshi1397
@spirithitoshi1397 Жыл бұрын
知らなかったです。 天皇家は脈々と神道を伝承し仏教を軽んじてました。これは重大かつ貴重な情報でした。 泉涌寺行って見ます。
@tenscohiro
@tenscohiro Жыл бұрын
動画進行の上での便宜上なのだろうとは思いますが今上陛下を令和天皇とお呼びするのはやめていただきたいですね。
@ghostterran5302
@ghostterran5302 Жыл бұрын
大変重要なことが学べました。 ありがとうございます。 長い動画一つに沢山の情報を込めても最後まで見る人は少ないと思いますので、テーマを分割した方がいいと思いました。
@user-mj7qe7fd4q
@user-mj7qe7fd4q Жыл бұрын
この動画を観て 泉涌寺初めて知りました。 早速、お参りに行って来ました。
@amanominaka
@amanominaka Жыл бұрын
田舎侍の薩長が海外からお金やらをもろうて、「宗教的対立」を作ろうとした海外のお方と取引してもうたんやろな
@may-ky6jl
@may-ky6jl Жыл бұрын
泉涌寺では、天武天皇系統のご位牌は祀られていませんが何故でしょうか? 天智天皇のご位牌と天智天皇系統のご位牌は祀られています。御所から移されたようですが、元々御所には無かったのか、明治天皇の元で廃棄されたのか? また同時期に天智天皇の皇太子が天皇として、突然明治になり認知された理由はなんですか?
@kokoroni-uruoiwo
@kokoroni-uruoiwo Жыл бұрын
文明の享受と裏腹に薩長は欧米の誰かから闘争的善悪二元論な思想を植え付けられ焚きつけられたのかとも思えてしまう。
@user-eg1vq6mn9b
@user-eg1vq6mn9b Жыл бұрын
日本国憲法もおなじですが、皇室典範も明治のころの神仏分離を排除したものに改訂してしかるべきですね。早急にしていただきたい。
@user-rr3wx6pi6h
@user-rr3wx6pi6h Жыл бұрын
阪南市の善性寺日根宮を確認してください。
@user-ko9bm3lb9f
@user-ko9bm3lb9f Жыл бұрын
素晴らしい動画をありがとうございます。平泉は藤原氏が仏教を取り入れて作った小京都です。つまり聖徳太子は凄い人だと思います。仏教を取り入れて国を作ろうとしたのです。だから日本は1000年も京都が栄えたのです。しかしペリー来航が日本を変えたと思います。西郷隆盛が外国の文化を猿真似すればやがて外国人に支配されて日本は滅ぶと言っております。西郷隆盛は日本の文化を知り外国の良いところだけを取り入れて日本を作りたかったようです。令和の式典の時雨が止み虹🌈が見えました。令和はきっときっと良くなると思います
@iTa358
@iTa358 Жыл бұрын
「神仏分離」というよりは、「廃仏毀釈」という言葉の方が、   馴染んでいる気がします。   暴力的な「廃仏毀釈」がない「神仏分離」が平和的に行われていれば、   アジア諸国の独立に貢献した日本は、神・仏のご加護により、   敗戦による大きなダメージ(宮家の廃止・原爆の被災等)は避けられたのではという、   思いはあります。
@RS-ik7uv
@RS-ik7uv Жыл бұрын
ご健在の天皇陛下、上皇陛下に対して平成天皇、令和天皇なんて呼び方したらダメですよ。
@matuoke-sd7dw
@matuoke-sd7dw 7 ай бұрын
神道の宣教師とかの言葉遣いもおかしいよね
@rubysayo9392
@rubysayo9392 Жыл бұрын
京都に住む私達は、両親やお祖母様がいらした頃は、ごく普通に皇族の方々の話題が上っていました。 仰る通り、此れは無形資産で日本国と日本人を形作るもので、理屈では有りません‼️空気、血肉と同じだと思っております‼️今男系の問題で、訳の判らない有識者がいろいろ言っていますが、そもそも皇室典範に口を挟むものでは無いと個人的に思っております‼️皇籍離脱させられた直宮家が復籍をされて当然だと思っています‼️左翼や隣国の工作で、国体其の物が揺らいでいる中で、瓦解させようとする人々に強い怒りを覚えております‼️天皇あっての日本です‼️和の心、民度の高さは天皇制が育んだ賜物で、恩恵なのだと言う事に、国民は気付くべきだと認識しています‼️何時も貴重なお話、有難う御座います❣️🙇‍♀️🙋‍♀️
@user-pv2km7pi7y
@user-pv2km7pi7y Жыл бұрын
明治政府のある人物が皇室まで支配していたのかと思うと国民の一人として憤激に耐えない。皇室の希望する考えをしっかり理解することが必要だ。現在の政府に国民としてく要望する。
@user-zf1bn1ub5c
@user-zf1bn1ub5c Жыл бұрын
泉涌寺ー1 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。皇室の菩提寺(皇室香華院)として御寺(みてら)と呼ばれている。楊貴妃観音堂(本尊・楊貴妃観音)は洛陽三十三所観音霊場第20番札所。 平安時代に弘法大師空海が草創したと伝わるが、実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)で、天台、東密、禅、浄土の四宗兼学の道場として再興した[1]。東山の一峰である月輪山の麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至る天皇陵があり、霊明殿には歴代の天皇や皇后、皇族の尊牌(位牌)が奉安されている。 歴史 仁和寺や大覚寺などと共に皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。なお、『続日本後紀』によれば藤原緒嗣は承和10年(843年)に没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたということになる。 別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空海が天長年間(824年 - 834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。空海による草創年代を大同2年(807年)とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺(泉涌寺山内にあり、西国三十三所観音霊場の第15番札所)となったともいう。以上の伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと思われる。 月輪大師俊芿 鎌倉時代の建保6年(1218年)、宇都宮信房が荒廃していた仙遊寺を俊芿に寄進、俊芿は多くの人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営し、嘉禄2年(1226年)に主要伽藍を完成させた。その際に霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという(旧寺号の「仙遊寺」と音が通ずる点に注意)。宇都宮信房は源頼朝の家臣で、豊前守護に任じられた人物であり、俊芿に帰依していた。俊芿(1166年 - 1227年)は肥後国出身の学僧で、正治元年(1199年)宋に渡り、足かけ13年の滞在で天台と律を学び、建暦元年(1211年)日本へ帰国した。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍は全て宋風に造られた。 泉涌寺は律(北京律)を中心として天台、東密(真言宗)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えた。 後鳥羽上皇や土御門上皇、順徳上皇、後高倉院の他、北条政子や北条泰時も俊芿の下で受戒するなどその勢いは強まり、貞応3年(1224年)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ、仁治3年(1242年)正月には四条天皇の葬儀を行うまでになっている。こうした関係から後堀河天皇と四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれた。 この頃から皇室との結び付きがより強まっていき、遂には南北朝時代から安土桃山時代までの歴代天皇の葬儀を一手に行うまでになっている。 応仁2年(1468年)には応仁の乱の兵火を受けて全山焼失してしまうが、間もなく復興された。天正13年(1585年)には豊臣秀吉に寺領494石を認められる。次いで、元和元年(1615年)には徳川家康により寺領601余石が認められた。 江戸時代に入ってからは皇室との関係はより密接となり、後水尾天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀を一貫して執り行ったほか、その陵墓も全て境内にあり、「月輪陵(つきのわのみさぎ)」、「後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)」、「後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)」として築かれて祀られている。月輪陵と後月輪陵には合計で25の陵と9つの墓があり[2]、後月輪東山陵は孝明天皇陵である[3]。 泉涌寺はこれらの皇室の陵墓や尊牌に対して香をたき、花を供える香華院となり、「御寺(みてら)」と尊称されている。明治政府の神仏判然令により、陵墓は全て宮内省諸陵寮(現・宮内庁書陵部)の管理下に置かれることとなり、以後は天皇・皇后の葬儀を行うこともなくなったが、明治天皇の勅旨により、堂宇の営繕修理は、全て宮内省において実施され、日常の経費も御尊牌奉護料として下賜されていた[4]。戦後、政教分離の原則を定めた日本国憲法施行により、国費を支出することができなくなったことから、1966年(昭和41年)に三笠宮崇仁親王を初代総裁とする「御寺泉涌寺を護る会」が有志により設立され[5]、現在は秋篠宮文仁親王が総裁を務めている[6]。また、天皇・皇后が京都に行幸啓する折りには、参拝するのが恒例となっているほか[7]、先帝四代の祥月命日には、天皇の代理として、宮内庁京都事務所の職員が代拝している[8]。 御座所 - 仏殿・舎利殿の背後に建つ。文化15年(1818年)に建立され、現在の建物は、明治天皇が使用していた旧御所の御里御殿を1884年(明治17年)に移築したもので、女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。玉座の間は、天皇・皇后が来寺した際に休息所として使用する部屋で、平成期(1989年 - 2019年)に入ってからは、即位報告(1990年)、平安建都1200年記念(1994年)、在位10年の報告(1999年)、譲位の報告(2019年)などの際に平成の天皇が泉涌寺を訪れ、この部屋を使用している。今上天皇の即位の報告(2019年)の際にも用いられた。 御座所庭園 海会堂(かいえどう) - 御座所に接して建つ土蔵造の仏堂。屋根は宝形造。元は宮中にあった「黒戸」(黒戸御所)を主体とした恭明宮を1868年(明治元年)の神仏判然令発布を機に、1873年(明治6年)3月に移築したものである。かつての天皇・皇后の念持仏(守り本尊)を安置している。 本坊表門 霊明殿 - 天智天皇と光仁天皇から昭和天皇に至る歴代天皇皇后(南北両朝の天皇も含む)の尊牌(位牌)を安置する。1882年(明治15年)に焼失し、現在の霊明殿は、1884年(明治17年)に明治天皇の勅命により再建された。入母屋造り桧皮葺きで、外観は宸殿風の建物である。 1871年(明治4年)に般舟院など京都府内の諸寺院にあった尊牌がここに集められている[9]。
@user-gw8cg5je3e
@user-gw8cg5je3e Жыл бұрын
日本人の誇りであり祖である天皇陛下に対する明治以降の日本政府と宮内庁の役人に腹立たし気持ちと物凄い違和感を覚えます❗️ 今上陛下を始めとする皇室の方々も一人の日本人🇯🇵 何故、悲しい思いにさせるのか? 許し難い気持ちでいっぱいです🥹🥹🥹
@budaibaseball
@budaibaseball Жыл бұрын
後光厳院は「こうげん」ではなく「こうごん」ですね。
@user-zf1bn1ub5c
@user-zf1bn1ub5c Жыл бұрын
十七条憲法ー2 要旨・分類 条 要旨 由来 1 和を尊重し、争わないことを宗旨(主義)としろ。人は皆、党派を作るし、(物事の)熟達者は(常に)少ない。そのため君主や父親に従わなかったり、近隣と考えが相違したりもする。しかし、上の者も和やかに、下の者も睦まじく、物事を議論して内容を整えていけば、自然と物事の道理に適うようになるし、何事も成し遂げられるようになる。【和/議論】 儒教[7] 2 仏教の三宝(仏・法・僧)を篤く敬え。仏法は四生(生物)が最終的に帰する処であり、万国にとっての究極の宗教である。いつの時代の誰であろうと仏法を尊べないような者はいない。世の中、極悪人は少なく、大抵は教えによって従えることができるが、三宝(仏教)に依らなければ、曲がった心を直すことはできない。【仏教(三宝)】 仏教 3 詔(君主の命令)は必ず謹んで承れ。君主は天、臣下は地である。万物(物事)は天に覆われ、地に載せられることで、四季が巡り、気が行き渡るようにうまくいくのであり、地が天を覆うこと(反乱・謀反・革命)を欲すれば、破滅に到るだけである。このように君主が言えば臣下は承り、上が行えば下が従うようにしなくてはならない。したがって、詔は必ず謹んで承なくてはならないし、そうしなければ自ら滅亡をまねくことになる。【詔/従】 儒教 4 群臣・百寮(上級・下級の諸役人)は、礼を基本としろ。人民を治める基本は必ず礼にある。上の者に礼がなければ下の者はまとまらないし、下の者に礼がなければ必ず犯罪者が出てくる。このように群臣たちに礼があれば秩序は乱れず、庶民に礼があれば国家は自然と治まる。【礼】 儒教 5 饗応を絶ち、財物への欲望を棄てて、公明に訴訟を処理しろ。庶民の訴えは1日に千件あり、歳月を過ぎる毎のその数の増え方は言うまでもない。近頃、訴訟管理者は賄賂を貰うことが当たり前となり、賄賂を見てから審査する。したがって財産家の訴えは石を水の中に投げ入れるように容易に聞き入れられ、貧者の訴えは水を石に投げ入れるように拒絶される。このように貧民はどうしていいか分からずにいるのであり、これは役人としての道理も欠いている。【清廉/訴訟管理】 - 6 悪を懲らしめ善を勧めること(勧善懲悪)は、古来の良い規範である。このように人の善行は匿(かく)さず、悪行は匡(ただ)せ。諂(へつら)い詐(いつわ)る者は、国家を転覆させる鋭利な武器、人民を滅ぼす尖った剣となる。また佞(おもね)り媚びる者は、好んで上の者に下の者の過失を訴えるし、下の者に逢えば上の者の過失を誹謗する。このような人間は皆、君主に対する忠誠が無く、人民に対する仁愛も無いので、大乱の原因となる。【勧善懲悪】 儒教 7 人には各々に任務があるのであり、それを適切に担い、(権限を)濫用してはいけない。賢人・哲人を官職に任じれば讃える声が起こるし、奸者(悪人)が官職を有すれば災禍・戦乱が頻繁になる。世の中には生まれながらの知者は少ないのであり、努力によって聖人となる。事柄の大小に関わらず、適切な人材を得れば必ず治まるし、時代情勢の急緩に関わらず、賢人が現れれば自ずとのびやかな環境になる。このようにすれば、国家には永久に危険が無くなる。したがって古の聖王は、官職のために人を求めたのであって、人のために官職を求めたりはしなかった。【任務遂行/適材適所】 儒教 8 群臣・百寮(上級・下級の諸役人)は、朝早く出勤し遅く退勤しろ。公事はゆるがせにできないし、終日費やしても全部終わらせるのが難しい(ほど多い)。このように、朝遅く出勤しては急用に対処できないし、早く退勤しては仕事を処理し切れない。【早出遅退】 儒教[8] 9 信(誠実・信頼)は義の基本である。何事にも信がなくてはならないし、物事の善悪や成否は信の有無に掛かっている。群臣の間に信があれば何事も成し遂げられるし、信が無ければ何事もことごとく失敗する。【信】 儒教 10 忿怒を絶ち、瞋恚を棄て、人と考えが違うことを怒るな。人には皆心があり、各々のこだわり(執着)があるのだから、相手はよくても自分はよくないこともあれば、自分はよくても相手はよくないこともある。自分が必ず優れているわけでも、相手が必ず愚かなわけでもない。どちらも凡夫(凡人)なのであり、是非を決定できる優越性など無い。共に賢さと愚かさを併せ持っている(一体的である)のは、鐶(環)に端が無いのと同様である。このように、相手が怒ったとしても、かえって自分に過失が無かったか振り返り、また自分一人の考えがあったとしても人々の意見を聞き入れて協調して振る舞え。【不怒/相対性】 仏教 11 (官職の)功績と過失を明確に調べて、必ず賞と罰を与えなければならない。近頃は、賞が功績に基づいて、罰が罪に基づいて(適正に)与えられていない。政務を執行する群卿(高位役人)は、賞罰を適正明確に与えなければならない。【信賞必罰】 法家 12 国司・国造(地方官吏)は、(独自に)庶民に徴税してはならない。国にも民にも二人の君主はいない。国内の全ての民は王(天皇)を主とするのであり、任命された官吏は皆、王(天皇)の臣下である。どうして無理に公と並んで庶民から徴税するのか。【私的徴税禁止】 - 13 諸々の官職に任じられた者たちは、任務を把握しろ。病気や使役で業務が行えないことがあっても、復帰したら全て把握して協働できるようにし、聞いていないなどと公務を妨害しないようにしろ。【任務把握】 - 14 群臣・百寮(上級・下級の諸役人)は、嫉妬心を持ってはいけない。自分が他者を嫉妬するなら、他者もまた自分に嫉妬するようになる。嫉妬の患いには限度が無いので、自分より智や才が優れた者を悦ばずに嫉妬しさえする。そのような環境下では、五百年経っても賢人は現れないし、千年経っても聖人は現れないが、そうした賢人・聖人と呼べるような優れた人材が出てこなければ、国家は治めていくことができない。【不嫉妬】 - 15 私心を棄てて公益に努めるのが、臣下の道である。私心があれば必ず怨恨が生じ、共同しなくなり、公務を妨害し、制度に違反し、法律を侵害するようになる。それ故に初章(第一条)で上下が和諧する精神(の重要性)を説いたのだ。【滅私】 - 16 時宜に沿って民に賦役を課すことは、古来の良い規範である。冬季は間暇なので、民に賦役を課してもいいが、春から秋にかけては農業と養蚕の時期なので、賦役を課してはならない。そうでなければ、食料・衣服が尽きてしまう。【時宜賦役】 儒教 17 物事は独断で行ってはならない。必ず皆で適切に議論しなくてはならない。(とはいえ)些細な案件に関しては必ずしも皆で議論する必要は無いが、重大な案件については判断に過失・誤りが無いか疑い、慎重にならなくてはいけないので、皆で議論する必要があるし、そうしていれば(自ずと)道理に適った結論を得ることができる。【議論】
@user-cd6pu3bz4m
@user-cd6pu3bz4m Жыл бұрын
「令和天皇」および「平成天皇」という表現は不適切です。それぞれ今上天皇、上皇と申し上げるべきです。
@user-ec9li4ce7z
@user-ec9li4ce7z Жыл бұрын
細かいところですが、29:07のテロップで回帰ではなく開基ではないですか?どうですかね。
@user-bh4rh9gl3c
@user-bh4rh9gl3c Жыл бұрын
35:13 諡は避けて下さい。せっかくのお話も台無しではないですか。
@princeglobaljapan
@princeglobaljapan Жыл бұрын
二荒山神宮寺は、1229年建立、だとしたら、時代が違いますけどね⁉️😲 それとイントネーションが苦になるね。
@comyacchan1734
@comyacchan1734 3 ай бұрын
皇室が仏教徒であったことは知っていましたが、今でもお参りなされるとは知りませんでした。多分中国(道教)由来でしょうが故人の牌を拝むことはお墓にお参りすることより重要だと思います。今上天皇の御心の強さに大安心を覚えます。
@hiromaru2543
@hiromaru2543 Жыл бұрын
明治維新は本当に尊皇思想だったのか、何故、仏教が排斥されたのか。重要な問題です。泉涌寺は私も先日お詣りしました。京都駅からすぐのところにあります。東京からでも日帰りでOKです。
@hirofumiitou251
@hirofumiitou251 Жыл бұрын
綺麗事で語られてた明治維新 明治政府が焚書とかw
@user-vr7yt6np4m
@user-vr7yt6np4m Жыл бұрын
釈尊の本懐(目的)は、人々を幸せに導く為に法華経を顕しました。聖徳太子や最澄(伝教大使)は、法華経と既存の神道との併存の形を取りました。日本の神は法華経を守護する善神(垂迹神)として表れたとの解釈をした様です。 キリスト教は一神教の為、 日本には定着しませんでした。しかし島原等では、マリア観音として隠れ切支丹達が細々と護り通しました。 「天皇は国民の象徴で有り。アイデンティティの基いに成って居ると云うのが、現代日本人の心情では無いでしょうか。」 其れ以上でも以下でも有りませんね。
@user-om9tz5wr8v
@user-om9tz5wr8v Жыл бұрын
ちょっと難しい内容でした…。
@user-en9kr7zv4f
@user-en9kr7zv4f Жыл бұрын
ようやく神仏分離廃仏毀釈に感心が集まることは、日本の歴史を学んでほしい。
@user-tb9co5xt8h
@user-tb9co5xt8h 4 ай бұрын
ちょっと気になったのが明治天皇とか大正天皇と言う呼び方は、諡だから 平成天皇ではなく上皇陛下、令和天皇ではなく、今上陛下とお呼びするべきでは ないでしょうか。
@user-or4lx3nh7m
@user-or4lx3nh7m Жыл бұрын
天皇があって今の日本があると言うことがわかる人は。少ない、わかる人が多ければこんな日本になっていない。南無阿弥陀仏。
@user-py7qu2cl9x
@user-py7qu2cl9x Жыл бұрын
三経義疏は大きいですね。神仏習合の観点からの説明は初めて聞きました。本地垂迹説もよく説明されるべきです。天照大神と大日如来。興味深いです。神仏融合と和の精神、廃仏毀釈、皇室の仏教追放など歴史教育はありませんね。明治維新の神仏への影響もよく知らないです。平田国学が強かった。キリスト教も日本に力を入れましたね。泉涌寺?知らないことばかりです。考えることが多いです。天皇は大神主だと知ったかぶりする話もあります。
@user-io3cg8vc8g
@user-io3cg8vc8g Жыл бұрын
貴重な発信を有り難うございます。 自分でもよく勉強して、近々護る会に入会しようと思います。 上皇陛下のご参拝のお話、胸が痛みます。 臣民が臣民の義務を果たせていない。 このことが胸を締め付けます。 相変わらず宮内庁にはpersona non grataが跳梁跋扈している様子。 上皇陛下ご健在のうちに皇室祭祀令を秋篠宮殿下のご意志に沿う形に変えねば。
@budaibaseball
@budaibaseball Жыл бұрын
天智天皇を「てんちてんのう」と読まれたのがとても残念です。
@budaibaseball
@budaibaseball Жыл бұрын
「回帰」ではなく「開基」ですね。
@yukijewel3190
@yukijewel3190 Жыл бұрын
廃仏毀釈と同じくらい神社の統廃合が残念です 今でも神社の御祭神を確認するとズラーッと無関係に多くの神様が纏められていたりすると残念に思います 御祭神もすり替えられたり名前を変えられたり 南方熊楠が怒りまくっていたのも分かります
@YANAGITAtokinori
@YANAGITAtokinori Жыл бұрын
獅子舞は仏教系呪術だけど今は神事として残っている。政府をだましたのかな?
@user-vy4ug8ru4c
@user-vy4ug8ru4c Жыл бұрын
日本はもともと外来のものを同化吸収する文化ですよね。 【仏教】も【儒教】も同化吸収したんですよね!
@biancasol1060
@biancasol1060 Жыл бұрын
歴史上仏教を受け入れ仏門に下った事実があるので、拝ませるべきだろう!
@hitoshitakabayashi6759
@hitoshitakabayashi6759 Жыл бұрын
明治9年が1867年という記述と発言があったようですが、誤りですよね?
@user-uh5jh9ev8g
@user-uh5jh9ev8g 5 күн бұрын
素晴らしい眼力を持つ大先生。素晴らしい。
@LandMark291
@LandMark291 Жыл бұрын
こらこら、いくら説明のためとはいえ 平成○○とか令和○○ とか(○○=天皇)などと存命中の陛下を諡号で呼ぶのはどうかと思うぞ。 元号を使って説明するなら、平成の天皇陛下である上皇陛下や令和の今上天皇陛下云々と言わないと結び大学は皇室への礼を失することでも平気で言うのか?と言う思いになりました。 とても、とても残念です。
@mina-n_n2343
@mina-n_n2343 Жыл бұрын
明治維新の機会に、神仏の在り方も維新だけに、一新された訳でしょうか
@user-xr5pm8xb8s
@user-xr5pm8xb8s Жыл бұрын
これはすごいな
@nationalistpatriot
@nationalistpatriot Жыл бұрын
予想以上に色々と凄い法令だったんだ。 俺の曾々祖父、祖父は神社に仕えてるけど。それどころか江戸時代前から我が家は神社に仕えてきてたんだけどね。
@user-hj7hi6dp7k
@user-hj7hi6dp7k Жыл бұрын
わかりやすい。 しかし、なぜ明治政府がそうしたのか?その理由は国学だけでない。 薩摩藩は、仏教を禁止していたらしい。 だから、薩摩藩の人にとっては、神仏分離がおかしいことに気づかなかった。 たしか、平田篤胤は奥さんの死後、晩年オカルト研究にハマっていたらしい。 平田篤胤の若い頃の文章が、明治政府に利用されたのだろう。
@budaibaseball
@budaibaseball Жыл бұрын
「祭司」を行うは正しくは「祭祀」ですね。
@biancasol1060
@biancasol1060 Жыл бұрын
仏教が入る前に変える必要があったのだろう! 薩摩藩も長州藩も江戸幕府が嫌いなので江戸幕府が行ってきた事すべて変えたかったのだろう!
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