【歴史講座8】中国の長江文明を作ったのは日本人だった|小名木善行

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Күн бұрын

Пікірлер: 136
@澤田柱
@澤田柱 Жыл бұрын
今年もありがとうございました。我ら日本国を格好良く! 良い新年をお迎えください。😊
@kikoushigen2996
@kikoushigen2996 4 ай бұрын
毎回感心します。小名木善行先生の洞察力、神がかり的です。すごい、凄すぎる。
@ネロは日本へ止まる
@ネロは日本へ止まる Жыл бұрын
古代日本の縄文人が関わった古代文明は中国だけじゃあなく世界中にありますよすね。
@稔山崎-l4u
@稔山崎-l4u Жыл бұрын
小名木善行先生ありがとうございます。
@aaa-d2e5f
@aaa-d2e5f Жыл бұрын
やはりカルデラ噴火を契機に高度な航海技術をもつ縄文人(ラピュタ人)が世界に散らばり、あらゆる文明の素を築いたわけですね。 揚子江流域の人々と日本人のDNAが近いのにも納得出来ます。
@アイキング-y5h
@アイキング-y5h Жыл бұрын
ラピュタ人?
@HA83Ken
@HA83Ken Жыл бұрын
学校は何だったのかと落胆した事があります。が、大人になってこんなに楽しく学べるのは既視感と新発見のおかげさまだと知りました。
@jamejame8131
@jamejame8131 Жыл бұрын
同感です。今迄の常識を見つめ直すきっかけになりました。
@fujisan1133
@fujisan1133 Жыл бұрын
LBGT法案成立で小学生低学年から同姓愛など倒錯した教育もされる恐ろしいことになってきました。
@HYZI5910
@HYZI5910 10 ай бұрын
雲南省の食べ物や生活調べてたら懐かしさを感じるし癒される😊
@fhasshin2851
@fhasshin2851 8 ай бұрын
衣装はカラフルで素晴らしいと思うし、何故か懐かしい記憶が蘇る。
@kobayashishigeru7402
@kobayashishigeru7402 Жыл бұрын
早く国際政治に影響されない教育になってほしいな。
@Chant-sv7yj
@Chant-sv7yj Жыл бұрын
今年はさまざまなテーマで配信ありがとうございました❤。 中国の少数民族と日本人は遺伝的に遠い親戚なのですね。 とっても綺麗な民族衣装。着物が上下になっていました。繊細な刺繍、紋様、色彩がカラフルで驚きました。
@フォーチュン帝国
@フォーチュン帝国 Жыл бұрын
くそー、うまいなぁ。 続きが気になるじゃないか。
@kevinkekevin8566
@kevinkekevin8566 Жыл бұрын
こういうのも見たかった
@観察者壁の
@観察者壁の 6 ай бұрын
小名木先生は私に常にインスピレーションを与えてくれています。戦後の団塊の世代の私の世界観を再編するすることに大変役立っています。これからもどんどん教えてください。
@一本下駄男
@一本下駄男 5 ай бұрын
『河口付近』がポイントですね。海に沐浴して清めることもできますしね。海水と人体の元素はほぼ同じで、塩は清めにも調味料にも使えますしね。
@HY-rj2ke
@HY-rj2ke 10 ай бұрын
すんなり納得でした。ありがとうございました。
@ラッキーハッピー-r4w
@ラッキーハッピー-r4w Жыл бұрын
大和魂、出して生きようよ🎉
@まっつん-w8y
@まっつん-w8y 4 ай бұрын
待ってました。長江以南の少数民族の日本人との類似性のさまざま、ありがとうございます。美しい棚田はどうですか?
@ルッコラショット
@ルッコラショット 8 ай бұрын
また一つ賢くなってしまった。 講談師顔負けの名調子、毎回楽しく学ばせて頂いています。 ありがとうございます。 こんな先生に教えてもらってたら人生違ってたんだろうなと思う事しきりです。 これからも時間の許す限り動画を拝見し、まともな日本の歴史を学ばせていただきたいと思います。
@そそ山そそ次郎
@そそ山そそ次郎 Жыл бұрын
縄文時代のファッションセンスが 素晴らしかったことは 最近、有名になってきたように思う。 服もカラフルで可愛いけど、髪型も皆んな違ってほんとに色んな髪型をしていたらしい。 我々現代日本人もオシャレ好きだから 共感するところがいっぱいあって やっぱ子孫だなって実感する。 (最近知った事だが意外と海外の人は服装に無頓着だし、日本人はオシャレだと感じる人が多い。 動画でも出た アクセサリーや、後バックなどの 小物にこだわる所なんかも びっくりする所なんだって、 あとは、海外の服飾デザイナーなんかは、まず日本の原宿にいる若者のファッションを見に来て日本の流行りをチェックし、そこから服のデザインをするそうだ。→最初知った時はびっくりした。)
@shuhsak
@shuhsak 8 ай бұрын
サングラスをした遮光器土偶も有名ですね
@희욱남
@희욱남 Жыл бұрын
ありがとうございました
@アオやん-n7m
@アオやん-n7m 2 ай бұрын
江南地域に日本人が移り住んだというのは充分に考えられる事です。ムキになって否定したがる人は、何としても漢人が上で偉大だと思いたいのでしょうね。
@こばやしあきら-o6p
@こばやしあきら-o6p 11 ай бұрын
日本人の古くからある先進性と受け入れて日本独自のものにしてしまう技術性と災害の多い国に住む人ならでは助け合って乗り越えていく自分だけ良ければなんて事がない協調性がどこから来てるのかスッキリ知ることができました。
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b Жыл бұрын
黄河流域には、犀、カバ、獅子、寅、ワニ、などが住んでいたそうですね。 文献は忘れましたが。アカホヤの大噴火というのは、民族移動期の契機になったかもしれませんね。 以下 縄文時代は中国北部も温暖だった アゴラ(2022年7月27日)に掲載 杉山 大志 杉山 大志 研究主幹 中国の研究グループの発表によると、約8000年から5000年前までは、北京付近は暖かかった。 推計によると、1月の平均気温は現在より7.7℃も高く、年平均気温も3.5℃も高かった。 分析されたのは白洋淀(Baiyangdian)という北京近くの湖の湖底の地層だ。花粉などの堆積物を調べることで、当時の気温が推計できる。 図は、同様の複数の分析から得られたミズワラビの分布図。黄色の点が8000年前から5000年前にかけて分布していた場所で、点線が北限。同様に、赤色の点は現在の分布場所で、点線が北限。 ミズワラビは、熱帯にある水生植物で、気温が10℃以下になると成長を停止する。昔は、現在の中国南部のような温暖な気候が、黄河を超えて北京より北まで広がっていたことが分かる。 ミズワラビ この時期は、縄文海進期とよばれ、日本も暖かかった。 黄河文明がはじまったころの気候も、いまの気候とはだいぶ違ったようだ。
@とりきあきら
@とりきあきら 11 ай бұрын
この話しの続きが聞きたい。
@nexrei
@nexrei Жыл бұрын
先生、カッコ良いです。ツッコミたい気持ちも正直処処あるのですが、著名人レベルでいうと、全うなのは先生しかいないす。ありがと
@橋本哲夫-n6k
@橋本哲夫-n6k Жыл бұрын
縄文時代の自然は今のようにピカピかじゃないから着飾った若い女性はあこがれの的だたんじゃないかと思います。
@atmtm8431
@atmtm8431 4 ай бұрын
恐ろしく素晴らしコンテンツですな(ΦωΦ)
@kapua1971
@kapua1971 Жыл бұрын
中国とは中華民国あるいは中華人民共和国を短縮したものではないのですか。もしそうなら中国というより中国大陸に出現した 国家というべきではないでしょうか。だから中国は5千年の歴史があるという誤解が生まれるのではないかと。
@アイキング-y5h
@アイキング-y5h Жыл бұрын
小名木さんはいろんな動画の中で中国の事を「チャイナ」と呼んでいます。なぜなら、その度にいちいち説明するのが面倒だからです。
@lonlystranger
@lonlystranger 10 ай бұрын
勉強になりました。ミャオ族が餅つきをするが、漢人は餅を食べないというのを聞き、ミャオ族が日本に来たのかと思いましたが、逆なんですねえ。
@美範-b1h
@美範-b1h Жыл бұрын
現在でも文明が発達しょうが、変わらない深い部分が解った気がします。これだと政治は難しいね。
@chipmonkinpark
@chipmonkinpark Жыл бұрын
中国大陸が中国になる前の文明ですね。
@koichioyama3086
@koichioyama3086 11 ай бұрын
4000年の歴史ってwww 隋が初めて統一したんじゃなかったの?って突っ込みどころが多いですよねw。それまでは都市国家であちこちでドンパッチがw
@伊勢福ちゃん
@伊勢福ちゃん 3 ай бұрын
@@koichioyama3086 隋やその後の唐は紀元後に誕生した。笑う前に「自分の知識」を確かめてはどうか。
@嶋剛
@嶋剛 10 ай бұрын
その中国の少数民族の民族名を教えてください。目茶苦茶興味あります。その村に行ってみたい
@ワークスポラリス
@ワークスポラリス 11 ай бұрын
単語と単語を「てにをは」で繋ぐ「撞着語」は → 「膠着語」ではないでしょうか。
@koichioyama3086
@koichioyama3086 11 ай бұрын
うげwww抹茶ラテを吹いてしまいましたよwwwもし日本が縄文時代から続く文明のなかにあるということならば、皇室が消えたときに終わるってことかもしれないですね。
@kikoushigen2996
@kikoushigen2996 4 ай бұрын
初めにカムナガラの道がありき・・・・・ですね
@starfire531
@starfire531 11 ай бұрын
また「続きは~」が増えてきちゃったなぁ
@時田英夫-o5z
@時田英夫-o5z Жыл бұрын
基本的には異論はありません。日本文化の根底に縄文があるといことはその通りでしょう。ただ1点、その後中世を中心に日本文化の基礎には縄文の伝統をひく神道とならんで仏教があると考えます。縄文=神道を基盤としてその上に仏教が展開されたと考えます。どちらが主で一方が従という関係ではなかろうと思っています。そういう意味では仏教国ともいえると考えています。
@仁和右京
@仁和右京 4 ай бұрын
内陸部の狩猟採取民族は塩の接種はどうしていたのだろうか
@idm516
@idm516 Жыл бұрын
高天原四国説をろんぱしてください!
@とりきあきら
@とりきあきら Жыл бұрын
黄河文明と倭人の長江文明はコーカソイド対モンゴロイドの対立抗争へ。その後はどうなったかに興味がある。黄河文明の後の秦も実はユダヤやコーカソイドだったかも。
@JomonTheOldest
@JomonTheOldest 9 ай бұрын
始皇帝の目は青かったって話もありますね。😯
@JIRO-FX3150
@JIRO-FX3150 7 ай бұрын
黄河文明がコーカソイドが作ったというのはどこの文献、論文を引用されてますか?
@hironohara6753
@hironohara6753 Жыл бұрын
ん〜、長江下流の河姆渡遺跡の稲作の跡は古くて5千年前で、長江中流域の彭頭山遺跡だと古くて7千年前らしいのですが、そのころ日本に稲作があったのかしら・・ 3500 年前の籾が岡山県でみつかっているニュースは知っているんですけど・・
@北原英明-u2g
@北原英明-u2g Жыл бұрын
考古学の反中ですが、稲のプラントオパールが縄文時代中期の遺跡から見つかっています。当時、プラントオパールが見つかるほど沢山の稲を確保していたという事です。陸稲でしょうけど栽培していた可能性はあります。
@JomonTheOldest
@JomonTheOldest 9 ай бұрын
名前忘れましたが7〜8千年前のと(菜畑遺跡?)、鹿児島からは約12000前のプラントオパールが発見されてますが、なぜか該当する記事は削除との事。😂 縄文時代は思っている以上に色んな作物を作っていました。野菜果物他、麦や栗も。 これ等は遺跡から発見されています。 日本こそ、お米の国だと思いますけどねぇ。外米とは味も風味も全く違いますし。 外国産は外国産で良いと思いますが、通説は嘘も多いので、私は一旦全てを白紙にして考察しています。 まぁやはり…。🤭✨
@JomonTheOldest
@JomonTheOldest 9 ай бұрын
そもそも、長江文明は日本人が作ったなら、種籾は日本から持って行ったのでは?(日本のお米を食べたくて😋) 当時のチャイナの水事情は判らないけど、風味は違ったんだろうな。 今より良いと思うけど。
@mfujimoto2812
@mfujimoto2812 Жыл бұрын
7300年前 鬼界アカホヤ噴火の前に危険を感じ避難した縄文時代の日本人でしょうか?
@pandan2022
@pandan2022 11 ай бұрын
濛渓河遺跡が七万年前にあったとの事ですが、その頃の倭人達はどうしてましたか?
@風の通る谷
@風の通る谷 Жыл бұрын
忽然として文明が現れた。シュメール文明を思い出しました。
@JomonTheOldest
@JomonTheOldest 9 ай бұрын
日本ととても共通点がありますね。 何処かの国の様に何でも起源説は言いませんが(笑)、非常に可能性が高いです。 そして、彼等のDNA情報は非公開との事。 あぁ、何となく…。😆✨🤯
@JomonTheOldest
@JomonTheOldest 9 ай бұрын
そして、忽然と消えてしまった。 つまり、故郷である日出る国ヘ帰ったのかなと。 渡来人として。🌅
@JomonTheOldest
@JomonTheOldest 9 ай бұрын
最初のコメ消えてる〜。 それとも誤作動? 簡単に。 ○ほんととても共通点がありますから、可能性は高いですね。 そして、でぃ○えぇ情報が非公開。 なるほど〜。😆✨😊
@JomonTheOldest
@JomonTheOldest 9 ай бұрын
○ほ○ととても共通点がありますね。可能性が高いです。 そして、でぃ○えぇは非公開。 なるほど〜。😊✨😆
@鈴木徹-t4j
@鈴木徹-t4j Жыл бұрын
和の精神は日本だけではないよ。
@user-lv10rs
@user-lv10rs 7 ай бұрын
大陸が先か列島が先かははっきりしないけど、明らかに大陸南部の少数民族と日本民族の繋がりはある。鳥居が出土するのもこの両者のみ
@user-mx1vh24
@user-mx1vh24 8 ай бұрын
「殷の国を作るこれまた倭人なり」 中国の文献にあった気がする 長江文明が縄文人が作ったの不思議じゃない。
@wouldhrough
@wouldhrough Жыл бұрын
別に差別しているわけではありませんが、明らかに大陸の人達って日本人に比べて荒っぽい人が多いなって感じます…😅 『黄河文明』と『長江文明』の争いの歴史は、エルディア人とマーレ人の争いみたいですね。
@エレミヤ-e3g
@エレミヤ-e3g 4 ай бұрын
長江文明の時代には、中国や日本という国家はなかったですからね。不毛な議論です。
@gedachtnis6274
@gedachtnis6274 2 ай бұрын
日本をかっこよくとは嘘をついたり起源を主張することではないよ
@nechanscatmansion2855
@nechanscatmansion2855 Жыл бұрын
歳の瀬に聞く極上の歴史✨️リズミカルで面白いです♫ホンマ続きが気になりました♥️イイネちゃん指がすべって登録解除してしまった😂冬の乾燥☝️要注意👍皆さん良いお歳を😊
@恙恙
@恙恙 Жыл бұрын
うーんコーカソイドが竪穴式住居となると縄文人もコーカソイドという事になってしまいますが縄文人は寧ろオーストロネシア人に近いんですよね?😅コーカソイドが入って来たのはその後では?彼等は麦作も持って来たみたいですし😊 全体的には一度舟を用いる様になったら大道ができるまでの期間には海岸沿い川沿いの人口伝播の方が陸路より早くてその時期に東アジアには主に沿海沿い川沿いに人口が伝播し旧石器人や縄文人を時に圧し退け時に混淆して長江文明も含めた農耕社会を築いて居たが天山路沿いから進入したコーカソイドに圧されて山岳に上がる者も有りそれらが既に山に上がって居た旧石器人や縄文人と更に混血したのが現在の少数民族に見えます。彼等の同族の内の農民が入らなかった例の一がナガランド州(色々長野と酷似しています!)では無いでしょうか?
@ryukyu1180
@ryukyu1180 8 ай бұрын
考古学は逆のルートを想定してます。
@115islandscompass6
@115islandscompass6 8 ай бұрын
九州地方を中心に鬼界カルデラの周辺地域に居住していた縄文人が、鬼界カルデラ大噴火をきっかけに災害の影響を受けない外縁地域に避難、移住したという説が、西から東への人の移動を特に否定するものではないと思いますがね。
@匿名-y1v7e
@匿名-y1v7e Жыл бұрын
ついに現実逃避から日本紀元説を唱えるほどに落ちぶれたのか、我が国は。
@コバヤシチヨジ
@コバヤシチヨジ Жыл бұрын
素晴らしい! ついでに世界五大文明は日本人がヒントを与えたと言ってみたらどうだろう。 実はダイナマイトを発明したのは日本人で、ノーベルが作り方をかっぱらった、と言っても面白いかもしれない。
@アイキング-y5h
@アイキング-y5h Жыл бұрын
この番組の過去の動画をどうぞ。小名木さんは「四大文明」と言う呼び方はウソだと言っています。
@コバヤシチヨジ
@コバヤシチヨジ Жыл бұрын
@@アイキング-y5h 貴方は私のコメの意図を理解していない。
@mandamnippon1
@mandamnippon1 8 ай бұрын
とはいえ4000年前の縄文時代の採集と狩猟と簡単な農業の集落共同体が点在していた日本と、既に大規模灌漑稲作が行われ巨大な国家が存在していた中国大陸との文明の格差ははっきりとしていますよね。個人的には当時の先進の中国国家文明よりも、日本の縄文文化のほうが断然に素晴らしいと思います。思いますが、6000年前から500年前くらいまでは文明としては大陸が先進的だったのは間違いないと思います。それを認めることで日本人としての尊厳が傷つくことは全くないし、逆に日本の方が進んでいたとゴリ押し主張するほうが日本人として恥ずかしくなります。
@玖睦寝co族
@玖睦寝co族 Жыл бұрын
in😊
@poponsingers
@poponsingers 2 ай бұрын
○○は我が国が作った…
@gedachtnis6274
@gedachtnis6274 2 ай бұрын
ここ10年くらいで隣国と精神構造が入れ替わった感が否めない。ほんと恥ずかしい日本人が増えた
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b Жыл бұрын
大胆なことを仰せになるなあ。と、常識的に感じますが、長江文明の特集はNHKで、あるいは、国立博物館での特集などで拝見した覚えがありますね。蚩尤と黄帝のきょ鹿の戦いでしたか、その辺りの実態も解ると、色々と面白いかもしれませんね^^ 小名木先生どうぞよいお年をお迎えください^^ 長江文明 (ちょうこうぶんめい)は、中国長江流域で起こった複数の古代文明の総称。黄河文明と共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年ごろまでが範囲に入る[注釈 1]。後の楚・呉・越などの祖になっていると考えられる。 発見まで 中国を横断する長江 20世紀前半に黄河文明の仰韶文化が発見されて以来、黄河流域で多くの遺跡が見つかったことで中国の文明の発祥は黄河流域であり、その後次第に長江流域といった周辺地域に広がっていったとの見方が支配的であった。 しかし1973年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余姚県の河姆渡遺跡(かぼといせき)により、この説は覆される。河姆渡遺跡は紀元前6000年から紀元前5000年ごろのものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床建物であった。 このように河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものであり、それまでの「中国文明すなわち黄河文明」という当時の定説を大きく覆す事になった[注釈 2]。 更に、東北の遼河周辺でも文明の痕跡が発見されるに至り、現在では遼河周辺、黄河上・中・下流域、長江上・中・下流域に分類し、それぞれが互いに影響しあい、かつ独自の発展を遂げていったと考えられている。 長江文明の特徴 初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。 中流域の屈家嶺文化(くつかりょうぶんか、紀元前3000年? - 紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年?)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果とも考えられている。 河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されており、また呉城文化(紀元前1400年? - 紀元前1000年?)からは磁器が発見されている。中国文化の重要な一翼を担うこれらの文物の源流がここから出たのではないかとする説もある。 これらが後の楚・呉・越に繋がったと考えられるが、どのような流れをたどって繋がるのかは未だ解らない。本格的な発掘が始まってから30年程度しか経っておらず、発見されたものの量に対して研究が追いついていないのが現状である。 四川盆地では長らく文明の発見が無かったが、1986年に四川省徳陽市広漢県の三星堆遺跡(さんせいたいいせき)から大量の青銅器などが見つかり、一気に注目されるようになった。 四川は地形的に他の地域と途絶しており、そこで発見された文明は黄河・長江とも異質な文明を発展させていた。そこで四川文明と分類されることもある。 三星堆の特徴として怪異な面が多数発掘されることがあり、青銅の人像の顔に被せられた黄金面も発掘された。古代にあったとされる蜀の国だと考えられる。この蜀国は『史記』ではほとんど登場せず、まだ中華文明の視野の外の地域であった。唯一、秦の恵文王の紀元前316年に司馬錯によって滅ぼされて、秦の版図に入ったことが記される。 なお、蜀地域の地域史書である『華陽国志』ではこの古代蜀についての詳しい記述があったが、黄河文明中心史観の時代にあってはこれらの文献は想像の産物だと思われていた。しかし、三星堆遺跡の発見で一躍現実味を帯びたものとなった。 2004年現在、長江文明・四川文明とも体系化された文字は見つかっていない。ただし、文字様の記号は見つかっており、その年代は紀元前2000年から紀元前600年とされている。現在出土している最古の甲骨文字が紀元前1300年くらい(武丁期)のものなので、これが文字だとすれば甲骨文字に先んじた文字ということになる。
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b Жыл бұрын
継承者 長江文明を築きそれを受け継いでいる正確な集団は判明していないが、楚・呉・越がそれに相当すると考えられ、また現在の四川省涼山イ族自治州に住む少数民族イ族がその末裔ではないかと考察する者もある。 イ族は元来涼山には定住しておらず、ピモと呼ばれる祭祀を務める者が死者を弔う際に唄を歌うが、これは魂が先祖の居た地へ戻る道程を表しており、唄われている地名や地理的特徴を遡ると長江周辺へと帰結する、この事から太古は長江流域に住んでいたが漢民族の侵入によって散り散りになりその末裔が現在の涼山へたどり着いたとされる。 その古い成り立ちから文化は古代に多く見られる儀式が主体で、家畜や民族の安泰を祈願し木で組んだ門を家畜に潜らせ魔を祓うものや、鶏を処しその結果で占いをするという日本の弥生初期に通ずるアニミズムが残っている。 一覧 「中国の新石器文化の一覧」も参照 長江文明 玉蟾岩遺跡(ぎょくせんがんいせき) 湖南省道県。紀元前14000年? - 紀元前12000年? のものとされる。稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。 仙人洞・吊桶環遺跡(せんにんどう・ちょうとうかんいせき) 江西省万年県。紀元前12000年? 栽培した稲が見つかっており、それまで他から伝播してきたと考えられていた中国の農耕が中国独自でかつ最も古いものの一つだと確かめられた。 彭頭山文化(ほうとざんぶんか) 湖南省澧県彭頭山遺跡を代表とする。紀元前7000年? - 紀元前5000年? 散播農法が行われており、中国に於ける最古の水稲とされる。 大渓文化(たいけいぶんか) 重慶市巫山県大渓遺跡を代表とする。紀元前4500年? - 紀元前3300年? 彩文紅陶(紋様を付けた紅い土器)が特徴で、後期には黒陶・灰陶が登場。灌漑農法が確立され、住居地が水の補給のための水辺から大規模に農耕を行う事の出来る平野部へ移動した。 屈家嶺文化(くつかりょうぶんか) 湖北省京山県屈家嶺遺跡。紀元前3000年? - 紀元前2500年? 大渓文化を引き継いで、轆轤(ろくろ)を使用した黒陶が特徴。河南地方の黄河文明にも影響を与えたと考えられる。 石家河文化(せつかがぶんか) 屈家嶺文化から発展し、湖北省天門県石家河に大規模な都城を作った紀元前2500年ごろを境として屈家嶺と区別する。この都城は南北1.3Km、東西1.1Kmという大きさで、上述の黄河流域の部族と抗争したのはこの頃と考えられる。 河姆渡文化(かぼとぶんか) 浙江省余姚県河姆渡遺跡。紀元前5000年? - 紀元前4000年? 下流域では最古の稲作。狩猟や漁労も併せて行われ、ブタの家畜化なども行われた。 馬家浜文化(ばかほうぶんか) 浙江省嘉興市馬家浜。紀元前5000年? - 紀元前3800年? 河姆渡文化を継承、発展させた。灌漑が行われ始め、紅陶が特徴。 崧沢文化(すうたくぶんか) 上海市青浦区崧沢村。紀元前3800年? - 紀元前3500年? 玉による腕輪など、装飾品が作られ始めた。 良渚文化(りょうしょぶんか) 浙江省余杭県良渚鎮。紀元前3500年? - 紀元前2200年? 馬家浜・崧沢を受け継いだ。多数の玉器の他に、絹が出土している。分業や階層化も行われたと見られ、殉死者を伴う墓が発見されている。黄河文明の山東龍山文化とは相互に関係があったと見られ、同時期に衰退したことは何らかの共通の原因があると見られている。 呉城文化(ごじょうぶんか) 江西省清江県(現在の樟樹市)呉城鎮。紀元前1400年? - 紀元前1000年? 黄河文明とは異質な青銅器を特徴とし、原始的な磁器なども出土している。 四川文明(古蜀文明) 宝墩文化(ほうとんぶんか) 成都市新津県龍馬郷宝墩村。紀元前2500年? - 紀元前1700年?(龍山文化) 新石器時代の城壁で囲まれた集落が成都平原の岷江扇状地に複数存在した。最大の遺跡である宝墩遺跡は1990年代に発見され、発掘が続いている。 三星堆文化(さんせいたいぶんか) 四川省徳陽市広漢県南興鎮の三星堆遺跡に代表される。紀元前1700年? - 紀元前1200年?(夏晩期~商後期) 大量の青銅器が出土し、前述の他に目が飛び出た仮面・縦目の仮面・黄金の杖などがあり、また子安貝や象牙なども集められており、権力の階層があったことがうかがい知れる。青銅器については原始的な部分が無いままに高度な青銅器を作っているため他の地域、おそらくは黄河流域からの[独自研究?]技術の流入と考えられる。長江文明と同じく文字は発見されていないが、「巴蜀文字(中国語版)」と呼ばれる文字らしきものがあり、一部にこれをインダス文字と結びつける説もある。 十二橋・金沙文化(紀元前1200年 - 紀元前500年、殷後期~春秋後期) 晩期蜀文化(紀元前500年 - 紀元前316年、春秋晩期~戦国期) 年表 注:年代には100年単位で誤差がある。同じ系統と見られるものは同じ色で示した。色が付いていない部分については他との関係が見つかっていない、まだ判明していないものである。数字は全て紀元前。黄河流域は参考のために上げただけでこれ以外にもたくさんある。 黄河流域 上流域 中流域 下流域 紀元前8000年以前 玉蟾岩遺跡 仙人洞・吊桶環遺跡 7000 | 6000 彭頭山文化 6000 | 5000 湯家崗文化 城背渓文化 5000 | 4000 仰韶文化 馬家浜文化 河姆渡文化 4000 | 3000 大渓文化 崧沢文化 良渚文化 3000 | 2000 龍山文化 宝墩遺跡(龍馬古城) 屈家嶺文化 三星堆遺跡 石家河文化 2000 | 1000 二里頭文化(夏?) 馬橋文化 二里頭文化 二里岡文化(殷遷都前) 二里岡文化 殷遷都後 殷 呉城文化 湖熟文化 周 周 楚 1000以降 巴蜀 呉越
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b Жыл бұрын
倭人 (わじん)は、狭義には中国の人々が名付けた、当時、西日本に住んでいた民族または住民の古い呼称。 広義には中国の歴史書に記述された、中国大陸から西日本の範囲の主に海上において活動していた民族集団。 一般に2. の集団の一部が西日本に定着して弥生人となり[1]、「倭人」の語が1. を指すようになったものと考えられている。 本項では、中国における派生的な差別語、蔑称についても扱う。 概要 「倭・倭人関連の中国文献」および「倭国」も参照 古くは戦国から秦漢期にかけて成立した『山海経』に、東方の海中に「黒歯国」とその北に扶桑国があると記され、倭人を指すとする説もある。また後漢代の1世紀ころに書かれた『論衡』に「倭」「倭人」についての記述がみられる。しかし、これらの記載と日本列島住民との関わりは不明である。また『論語』にも「九夷」があり、これを倭人の住む国とする説もある。 倭人についての確実な初出は75年から88年にかけて書かれた『漢書』地理志である。その後、280年から297年にかけて陳寿によって完成された『三国志』「魏書東夷伝倭人条」いわゆる『魏志倭人伝』では、倭人の生活習慣や社会の様態が比較的詳細に叙述され、生活様式や風俗・慣習・言語などの文化的共通性によって、「韓人」や「濊人」とは区別されたものとして書かれている。 5世紀南北朝時代の南朝宋の時代の432年(元嘉9年)に范曄が書いた『後漢書』列伝巻85(東夷列伝)には1世紀中葉の記述として「倭の奴国」「倭国の極南界」、2世紀初頭の記述として「倭国王帥升」「倭国大乱」とあり、小国分立の状態はつづきながらも、政治的には「倭国」と総称されるほどのまとまりを有していたことが知られる。また南朝の史書には沈約(441年 - 513年)によって書かれた『宋書』倭国伝には倭の五王について書かれている。 656年(顕慶元年)に完成した『隋書』東夷伝には「九夷」「倭奴国」という記載がある。 945年に書かれた『旧唐書』、1060年に書かれた『新唐書』にも倭人に関する記述がある。 呼称の由来 日本列島に住む人々が「倭人」と呼称されるに至った由来にはいくつかの説がある。魏の官人如淳は「人面に入れ墨する(委する)」習俗をもって倭の由来と論じたが、臣瓚や顔師古らから、倭と委の音が異なることなどを理由に否定されている[2]。平安時代初期の『弘仁私記』序はある人の説として、自称を「わ」(われ)としていたことから、中国側が倭の国と書きとめた、とする説を記している。 また、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、一条兼良が「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。 また、「倭」は「背丈の小さい人種」を意味したという説もある。 木下順庵も、小柄な人びと(矮人)だから、倭と呼ばれたと述べている。新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。また作家の井沢元彦は「大陸の人間が彼らの国家名を聞いた時に、当時未だ国家概念が存在しなかった彼らは、自身の帰属団体名を答えた、それが『輪』である」としている[3]。このように多くの説が立てられたが、定かなものはない。 「倭(委)奴国」を「倭の奴の国」と解釈することに異論もある。原文の「魏志倭人伝」を解釈した漢字の本家の学者の中には、古には「奴」という字に女性の蔑称の意味があり、女王国である倭を「倭奴国」と呼称し、中華思想による冊封国家、目下の国の倭国に対する蔑称のようなものと捉えるべきである、という説である。 ただ遣隋使、遣唐使が行われるようになって、後世の中華思想国でも、そういった蔑称は次第に使われなくなった、と捉える見方である。
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b Жыл бұрын
長江流域の「倭族」 倭・倭人を日本列島に限定しないで広範囲にわたる地域を包括する民族概念として「倭族」がある。鳥越憲三郎の説[4]では倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」である[5]。鳥越は『論衡』から『旧唐書』にいたる史書における倭人の記述を読解し、長江(揚子江)上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、複数の倭人の王国があったと指摘した。その諸王国は例えば『史記』にある国名でいえば以下の諸国である。滇(てん)、夜郎(貴州省赫章県に比定され、現在はイ族ミャオ族ペー族回族などが居住)、昆明、且蘭(しょらん)、徙(し)、キョウ都(現在の揚州市邗江区に比定)、蜀、巴(重慶市)など[4][6][4]。鳥越は倭族の起源地を雲南省の湖滇池(滇池)に比定し、水稲の人工栽培に成功したとし、倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした[4]。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族[7])、タイ族、ワ族[8]、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある[9]。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている[4]。 この倭族論は長江文明を母体にした民族系統論といってよく、観点は異なるが環境考古学の安田喜憲の長江文明論などとも重なっている。 少数意見として、約7300年前の鬼界カルデラの噴火による災害で日本からの難民が朝鮮半島経由で各地に流れ着いたのが、倭人の源流であるとする説がある。この意見では、当時亜熱帯の気候であった九州で小規模に行われていた水田稲作が難民とともに朝鮮半島や大陸に渡り、大陸でより発展した後に移民として日本に戻ってきたのではないかとの見解もある。朝鮮半島の遺跡の空白期間が終わるのがこの頃でであり、長江周辺で水田稲作が盛んになるのもこのあたりの時代からである。その後、大陸での異民族との戦乱の結果として排斥され父祖の地である日本を目指して里帰りしたのが弥生期初期の移民であるという見方である。知らない土地を目指したのではなく、祖先が日本から来たことを知っていたから日本を目指したということになる。 「百越」としての倭人 「夷」「越人」としての倭人 諏訪春雄は倭族を百越の一部としている[10]。百越とは、長江・揚子江流域に住む諸々の種族の意で、春秋時代の呉・越も含む(呉は現在の江蘇省、越は現在の浙江省一帯)。 岡田英弘は、倭国の形成について、現在のシンガポールやマレーシアのような「中国系の移民(華僑)と、現地住民とのハイブリッド状態である、都市国家の連合体」であるとして、現在の中国人(漢人)自体も使用言語の共通があるだけで、起源はさまざまな民族がまじっていることから、「漢王朝末期の衰退がなければ、日本列島も『中国文明の一部』になった可能性が高い」とも述べている。岡田は中国古代王朝の夏やその後継といわれる河南省の禹県や杞県などを参照しながら、「夷(い)」とよばれた夏人が長江や淮河流域の東南アジア系の原住民であったこと、また禹の墓があると伝承される会稽山が越人の聖地でもあり、福建省、広東省、広西省からベトナムにかけて活動していた越人が夏人の末裔を自称していること、また周顕王36年(前333年、楚威王7年)越国が楚に滅ぼされ越人が四散した後秦始皇帝28年(前219年)に琅邪(ろうや)を出発したといわれる徐福の伝承などを示した上で、後燕人が朝鮮半島に進出する前にこれら越人が日本列島に到着したのだろうと推定する[11]。 呉人としての倭人 現在では、紀元前450年頃の、つまり春秋時代(「呉越同舟」で有名な呉越戦争の時代で、呉が滅亡した時期)の組織的な大規模な水田跡が九州で見つかっており、また、「倭人は周の子孫を自称した。」という記録もあることから、長江文明の象徴でもある水耕稲作文化の揚子江一帯の呉人が紀元前5世紀頃、呉王国滅亡とともに大挙して日本列島に漂着していたという説も有力になっている。春秋時代の呉人は百越のひとつでもある。 『宋書』楽志「白紵舞歌」というものがあり、その一節に「東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯曽城」(東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、昆崙に至りて曾城に戯る。[12])とある。この「(白)紵」というのは呉に産する織物であった。 近年、遺伝子分析技術の発達によって、筑紫地方(『日本書紀』の「国生み」)と、呉人は極めて関係が深いということが明らかになってきた(日本人#系統参照)。1999年3月18日、東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団(山口敏団長)によって「江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、 歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較した結果、春秋時代人と前漢時代人は弥生人と酷似していた。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県太宰府の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致したと発表された。 律令制度では越国(越後・越中・能登・加賀・越前)として画定された。「越」は「高志」「古志」とも表記された[13]。 「越人」も「呉人」も、どちらも「百越人」と呼ばれ長江文明の稲作水稲文明を日本にもたらした弥生人の一種といえ、春秋時代末期に「越」によって滅ぼされた「呉」の海岸沿いの住人たちには入れ墨の文化があり(荘子内篇第一逍遙遊篇)、これは魏志倭人伝などの倭人の風俗と類似したもので、呉人が海路、亡命して漂着したという説も有力である(安曇族も参照)。 崎谷満はY染色体ハプログループO1b1/O1b2系統を長江文明の担い手としている。長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方および北方へと渡り、山東半島、日本列島へ渡ったとしており[14]、このO1b2系統が呉や越に関連する倭人と考えられる。
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b Жыл бұрын
中国史書における倭人 『山海経』における記述 「黒歯国」および「扶桑」も参照 戦国から秦漢期にかけて成立した『山海経』の「海内北経」には倭人が中国東北部にあった燕国に属していたという記述があり、これは紀元前6世紀から紀元前4世紀頃のことと考えられている。しかし、同書は伝説集または神話集であり「架空国」が多く記述されており、詳細に乏しい。 黒歯国・扶桑 『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に扶桑が生える太陽が昇る国があるとされている。 この黒歯国については、他に『三国志』「魏書東夷伝倭人条」(『魏志倭人伝』)にも「去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」(女王卑弥呼の国から4000余里に裸国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く)と書かれている。『三国志』「魏書東夷伝倭人条」のこの記述は『山海経』の影響を受けていると考えられるが、黒歯国は女王の治める国の範囲外にあるとして記述されている。 また、黒歯国については、『梁書』にも記述[15]があり「其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至」(南に身長三四尺の民の国があって、その南に「黒歯国」がある。倭から4000余里。船で1年で着く)と書かれている。『梁書』も『山海経』の影響を受けていると考えられるが、「倭国」と「黒歯国」は異なる国という認識で書かれており、黒歯国の北の扶桑の生える国でないとは言ってない。なお、沖縄でも本島でも、既婚女性が歯を黒くする風習(お歯黒)は明治末まであった。 『論衡』における倭人 後漢代の1世紀ころに成立した王充著『論衡[16]』には「倭人」の名がみえる。以下に、本文を記す。 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八) 周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず 「成王時 越常獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八) 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず 「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六) 周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。 このように倭人が周王へ暢草(薬草)を献上したという記述があり、早ければ武王紀元前11世紀末頃、記述のある成王とすれば紀元前10世紀頃の出来事である可能性がある[17]。越裳(えつしょう)または越常(えつじょう)はベトナムあたりにあった国とされている[18]。 近年の倭人論ではこの鬯草(ちょうそう)をウコンではないかと推定し、ここで記述された倭人は日本列島の沿岸漁労民でなく、江南や華南の山人であったとする説もある[19]。
@とほかみえみため-d5b
@とほかみえみため-d5b Жыл бұрын
『論語』の「九夷」 孔子の論語にも倭ではないかともいわれる「九夷」について記載がある。 「子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰。君子居之。何陋之有。 」 子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰く、陋(ろう)なり。之を如何(いかん)と。子曰く、君子之に居す。何の陋か之あらんと。 孔子が(道義の廃れた国を厭うて)九夷に住みたいと言った。ある人が、九夷は陋(ろう)だがどうでしょうかと言うと、孔子は、君子が居て君子に従順な民の国なのだから、陋(ろう)として問題視するのは間違いと応えた。 - 論語子罕第九 また、つぎのような記載もある。 子曰。道不行。乘桴浮于海。從我者其由與。子路聞之喜。 子曰く、道行なわれず、桴(いかだ)に乗りて海に浮ばん。我に従う者は其れ由(ゆう)かと。子路之を聞きて喜ぶ。 孔子が、道義が行われない。いかだに乗って、海外に行ってしまいたいが、〈その時に〉私について来る者は由(=子路)ぐらいのものだな、と言った。子路がこれを聞いて(孔子が多くの弟子の中から特に自分の名を挙げてくれたことを)喜んだ。 - 『論語』公治長第五 ここでの海外は、当時、魯や呉など山東半島の南側地域から海に出て渡航できる国というのは当時としては『山海経』で紹介されている東の海(東シナ海)にある黒歯国やその北の扶桑の生える国つまり九夷とみられる。
@akki4436
@akki4436 Жыл бұрын
いつも興味深いお話、感謝申し上げるのですが、言語については恐縮ながらご指摘させていただきます。まず数える言葉は、本来の日本語ではよくご存じの「ひ、ふ、み…」(ひとつ、ふたつ、みっつ)であり、「いち、に、さん」はいわゆる漢語です。これだけを見ても、「なかなか変化しない」とは必ずしも言えないことがわかります。漢語は、漢音ならば唐代の長安の発音を日本人が聞き取ったのからきており、当然、現在の北京語と大きく違います。また、一般的には漢語の一つと言われている客家(はっか)語に一部似ているのは、古い音をそれぞれが部分的に残しているからです。(単語によっては当然ながら北京語の方が近いものもあります。) 中国(山岳部)の少数言語のほとんどが「主語-目的語-動詞」の語順で、膠着語というのは、本当なのでしょうか? 例えば話者の多い壮(チワン)語は両要素ともだいぶ違いますし、苗(ミャオ)語のように語順は同様でも膠着でない言語もあります。(あと細かいですが「新宿に行く」の場合の「新宿に」は目的語ではありません。典型的には「を」が付くものです。)そして、世界中の言語の数でいえば、基本語順が「主-目-動」の言語は約6割(「主-動-目」は3割)で、膠着語も、どちらかというと多数派なので、日本語と中国の少数言語が関係ある証拠にはなりません。これらを踏まえると、中国の少数言語と日本語を「同じ」と言うのはだいぶ無理があります。これらが日本とここの民族の関係を否定することにはなりませんが、少なくとも、おっしゃっている言語の側面が、証拠にはなりません。 また、「江」の字の意味は、手元の字典では、もとから「大きな川」であり、「入り江」という意味は、日本の方で独自に付けられたものとのことです。普段、漢字については字書で調べられているとのことなので、お持ちの字典でも確認していただきたいです。 先生のお話にはいつも多く学ばせていただいているのですが、根拠に明確な誤りが見当たってしまうと、全体の説の信憑性に瑕がついてしまうので、とても勿体ないです。今後のご考察のご参考にしていただけたら幸いです。
@TKNABE
@TKNABE Жыл бұрын
>「江」の字の意味は、手元の字典では、もとから「大きな川」であり、「入り江」という意味は、日本の方で独自に付けられたものとのことです。 漢字の成り立ちからすると、やはり小名木さんが述べている通り、江は海や湖沼の一部が入り込んだ場所という解釈が正しいように思います。 もとから「大きな川」の意はなく、「長江」という現物があるという事実から、"大きな川や湖全体をを指す場合もある" となっただけかと存じます。
@RomanBarkov-h3m
@RomanBarkov-h3m 7 ай бұрын
日本人が作ったではなく縄文人では?
@chonmi3995
@chonmi3995 Жыл бұрын
長江から日本に渡ったんじゃないの? 逆じゃない?
@天網-z1o
@天網-z1o 4 ай бұрын
日本人は何時どこに出てくるの?
@坂坂-j9x
@坂坂-j9x Жыл бұрын
ペンギンが空を飛ぶ・・と言うようなモノ、
@あ剛-l6q
@あ剛-l6q Жыл бұрын
本当だとしても、関わりたくないです。まっぴらゴメンです!!
@chonmi3995
@chonmi3995 Жыл бұрын
いやいやいや どう考えてもを本当じゃないだろ?(笑)
@嶋剛
@嶋剛 10 ай бұрын
なんで?古代日本人が中国に渡って高床式住居で稲作して少数民族として未だ伝統を護ってるとか面白すぎるんですけど
@TanTakaTan0214
@TanTakaTan0214 10 ай бұрын
​@@嶋剛確かにあなたの様な方を友達という名のピエロにするのは面白い🎉
@いーさん-z7i
@いーさん-z7i 3 ай бұрын
@@chonmi3995とりあえず、長江文明早期の遺跡を示してくれないか? その早期の遺跡が存在しないからですよ。 "突如として現れる,, とは、この事です。
@いーさん-z7i
@いーさん-z7i 3 ай бұрын
誰も反論出来ないのか
@tokujimae
@tokujimae 6 ай бұрын
過去には戻れないし資料も無い どう解釈しょうと好き放題ね wwwww
@卓也-m5u
@卓也-m5u Жыл бұрын
この言説はウリナリを想起させるもので、我田引水がすぎると思うよ 義行君
@鈴木徹-t4j
@鈴木徹-t4j Жыл бұрын
自民党代議士は今の日本人の代表、今だけ金だけ自分だけ😊
@saburoutanba581
@saburoutanba581 Жыл бұрын
いや、流石にそれはちょっと。長江文明を築いた中国大陸の先住民族の人達が、その文化である稲作技術や高床式住居、太陽信仰、南方(インド)系の製鉄・金属加工技術と共に、 東シナ海を北上して日本に移民して来たと言う事では。たとえば蕎麦はインドとASEAN諸国との中間辺りが原産地ですが、北海道で1万年前の地層から ソバの花粉が見つかっていますし、エジプト・インド・日本を繋ぐ南方(インド洋経由)系シルクロードに長江文明も乗っかっていると言う事ではないしょうか。 ただ、戦後の歴史研究は「日本は海で孤立していたから、世界の文明は先ず朝鮮半島に集まってそれから日本にやって来た」みたいな、変な大前提が有るんですね。
@恙恙
@恙恙 Жыл бұрын
大日本帝国期に日本が朝鮮を併合する際に正当性を誇示する為に日本民族の祖の勢力範囲の辺境は対馬海峡では無かったとの説が唱えられたのですがこれにあやかる朝鮮学者が当時から居ました。戦後には更に悪用されて酷い有様になって居ます😅
@chonmi3995
@chonmi3995 Жыл бұрын
大陸から日本へ渡るのに 朝鮮半島を通るのは間違いないと思いますが 日本でいうと 東京から大阪に行くには名古屋を通るみたいな感覚では?
@恙恙
@恙恙 Жыл бұрын
@@chonmi3995 舟便を操って居たのは南から入って来た「ウーバー」ですよね?😊黄海沿岸にだけ張り付いた「海の民」学説の如き不自然極まるカルトを信じて居なければその様に考えるのが自然でしょう😊
@saburoutanba581
@saburoutanba581 Жыл бұрын
@@chonmi3995 日本へ到達する交通路としては1)シベリア→樺太→北海道ルート、2)日本海横断(縄文人による黒曜石交易)ルート、3)朝鮮半島ルート、 4)上海(揚子江河口)→東シナ海横断ルート、5)東南アジア→南シナ海北上ルート、6)ニュージーランド→マリアナ諸島経由太平洋北上ルート、の六つ。 ポリネシア人は星座と太陽の動きだけでニュージーランドから日本の太平洋沿岸まで到達する実力を持っていますよ。 縄文人は海洋民族であり、日本は海で孤立しているのではなく海で世界と繋がっている。つまり朝鮮半島が無くても日本は何も困らないのです。 江波教授の騎馬民族仮説も朝鮮半島を通った形跡が無いので否定されてるんですが、シベリアから日本海を横断するルートなら可能性は高いと思います。
@chonmi3995
@chonmi3995 Жыл бұрын
@@saburoutanba581 当時にそんなルートがあるのか疑問ですが 野菜の発祥を見ると色々見えてきますよ
@倭国王
@倭国王 4 ай бұрын
文明という単語をありがたがる考えを、いい加減に止めませんか?文という漢字は文字という意味です。縄文時代に文字による記録はありません。神代文字とか仮説に依拠するのは危険と思います。縄文時代はあくまでも考古学の研究対象だと思います。そもそも文明ってChinaを見ればそんなにありがたいとも思わない。
@MrMusashi0634
@MrMusashi0634 4 ай бұрын
漢字は、文字の中の一種類文字の意味ではありません。
@山田国雄-s4m
@山田国雄-s4m Жыл бұрын
漢民族に喧嘩を売るなよ。
@恙恙
@恙恙 Жыл бұрын
中共はロシアでは契丹扱いされて居ますね😅
@W頭
@W頭 8 ай бұрын
この人、学者じゃないだよな❗ 学会では相手にもされない人だよ
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