俺のひいじいさんが戦争中に書いた日記が歴史的価値高すぎて草【ゆっくり歴史解説】

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せいしょうなゴン【2chおもしろ歴史スレ】

せいしょうなゴン【2chおもしろ歴史スレ】

Күн бұрын

今回の動画はとあるひいおじいさんが遺した日記のはなし。
くだらないと思っていたひいおじいさんの日記の中身は、
実は戦争中の出来事を書いていました。
歴史的価値が高い貴重な神スレを最後までお楽しみに!
音楽:魔王魂
maou.audio/
甘茶の音楽工房
#歴史 #ゆっくり解説

Пікірлер: 430
@kinoko.328
@kinoko.328 Жыл бұрын
私の曾祖父さんは喘息持ちな上に僧侶で戦争に行ってないんだけど、戦時中の日記が残ってて「出兵していく若人へ経を読み、見送ることしかできぬ役立たず。命をかけて戦う事を讃える世に仏は何をしてくださるのか」って書いてあった。 大切なものは兵器になり、大切な人を弔う日々。 私の知ってる爺さんは明るくてダジャレ好きな人だと思ってたのに、当時の日記は苦悩と葛藤ばかりで想像を絶する時代だなと思った。
@user-vn2td9vd9h
@user-vn2td9vd9h Жыл бұрын
高校生の頃に電車通学だったんだけどある日いきなり声を掛けて来たお爺さんが戦時中ロシアに行った話を会う度にしてくれた 鼻水がすぐに氷柱のように凍ったとか上官が殴るつもりでポケットから手を出したのだが余りの寒さにポケットにすぐさまリターンしたが1度だけ本気で殴られて殴られた所が痛い痛いって泣いていたら翌日上官の手がポケットに入らないくらいプーっっと腫れ上がっていた話しとか 無事捕虜期間も数日のみで日本に帰って来れたとか… でも気が付いたら来なくなってしまって名前も分からない老人だったけど心配して忘れた頃に地元新聞に顔写真付きで死去の記事が載ってて悲しかった あんな風に戦時中の体験談を自由に語ってくれる人は貴重だよ
@user-nv7rc2rs1n
@user-nv7rc2rs1n Жыл бұрын
ひいおじいさんの文字が非常にきっちりした楷書で書かれていて読みやすい その点においても資料として、素晴らしい 解読に苦労することが無いから
@mouke1015
@mouke1015 Жыл бұрын
本当にそれですね、楷書でないと達筆すぎて親族にも読めないこともありますからね。
@ts7049
@ts7049 19 күн бұрын
方言や、みみずののたうったような字は、敵にばれないようにするため。その通りです。
@じんたん-s7v
@じんたん-s7v Жыл бұрын
米軍(敵)にとって日本兵の日記は貴重な情報源だった。 捕虜尋問など、あらゆる視点から日本兵を調査した米軍の評価に「日本兵(人)は識字率が米国人より遥かに高く、娯楽のない最前線の日本兵は文字に飢えていた。私物の本(小説など)を何十回・何百回と何度も読み返した形跡があり、日頃の出来事を日記に書く習性がある。」と評している。 動画冒頭にあった「水が合わない・草を食べた。」は米軍からすれば「日本軍は食料事情が悪く給水部隊ならび後方支援が貧弱。」と分析される。 数十〜数百の日本兵の死体から日記を回収すれば敵にとっては重要な情報源になる。 戦争当初、米国人から見た日本兵のイメージは「吊り目で出っ歯の日本兵は猿のようにキーキー叫び、野蛮で残虐非道、自身の死を恐れず息絶えるまで戦う。」と思っており、現在の言い方をすれば他の惑星から来たエーリアン的な存在だと本気で思っていた。 ガダルカナル島の戦いで日本兵の死体から回収された日記には故郷に残した妻や子、両親の行く末を心配したり、凄惨な戦場下で「死ぬ前にボタ餅が食べたい・雪が見たい」などと綴られ、中には「神よ我を守りたまえ。」と神頼みをする内容が記載されていた。 それらの情報・分析の結果、1943年発行のレポートでは「日本兵は我々米国人と変わらない生身の人間であり必要以上に恐れる存在にあらず。」と評価している。
@ねずみとねこ-z1c
@ねずみとねこ-z1c Жыл бұрын
​​​@@user-pq3xf6ox4t戦初期には「日本兵は死ぬことを恐れずこちらがどれだけ攻撃しても逃げずに攻めてくる」「日本兵は我々に理解できない格闘術を身に着けている」等の迷信が米兵達の間にまん延していて日本兵をお化けか何かのように恐れていたらしい。 米兵の士気を下げさせないためにも彼等もアメリカ人と変わらない普通の人間だからそんなに恐れる必要は無いと言っておく必要があったのかと。
@bakusounyanko
@bakusounyanko 23 күн бұрын
恐る存在にあらず。と公式に発表したにも関わらず、結局前線では命を投げ売って突撃してくる日本兵をゾンビのように恐れたんだよね。
@MAKIHARAINOTI
@MAKIHARAINOTI Жыл бұрын
うちのおじいちゃんは生前よく戦争は懲り懲りと話していたのをよく覚えてます。7人幼馴染で仲の良かった親友がいたけど、終戦後は2人しか生き残らなかったって、涙しながら語っていたので聞いてる側も本当に辛かった…でも貴重な話だったので本当に勉強になった。
@user-cw9jz4ls7s
@user-cw9jz4ls7s Жыл бұрын
どんな話を聞けるだけでもいいほうだよ。 うちはもう思い出したくも無いと、夏やっていた反戦ドラマですらダメだった。 やはり身近な人から学べることは素晴らしいこと。
@saki1987masa
@saki1987masa Жыл бұрын
​@@user-cw9jz4ls7s 😅
@user-wu6jh4iq9i
@user-wu6jh4iq9i 6 ай бұрын
@@saki1987masa 面白いと思ってんのそれ?
@bonousagi
@bonousagi Жыл бұрын
うちのじいちゃんは戦時中の日記は見つからなかったが 戦後おばあちゃんと出会ってからしたためたラブレターはなかなかに面白かった
@user-sd1hk3ly9g
@user-sd1hk3ly9g Жыл бұрын
曾祖父は戦闘機のパイロットだったけど戦争末期に配属された航空隊には戦闘機が一台も残っておらず隊の全員で空港の掃除や草むしりをするだけで終戦を迎えたそうです。当時は落ちぶれ隊に配属され不満だったそうですが後からあの部隊だったから悲惨な体験もせずに終戦を迎えられ結果的に良かったと曾祖父は良く言ってました。
@user-uc6ru2on8r
@user-uc6ru2on8r 26 күн бұрын
上野の科学博物館にあるゼロ戦もニコイチの複座偵察機型だし 戦闘機不足は苦労してるのよ
@メイ-z1y
@メイ-z1y Жыл бұрын
ひいじいさん、相当な文才あったんですね。これは、やはり出版するべき。戦地での体験を後世に残すのは、我々世代の役目でもある。
@ts7049
@ts7049 19 күн бұрын
動画で上げりゃいいだけだろ。
@maze5634
@maze5634 Жыл бұрын
私28、小学生の時にはよく、 戦争の話をお年寄りに聞いてきましょうっていうような宿題があったな〜。 当時80半ばくらいだったお爺ちゃんに聞いてみると、戦争中は満州に赴き、船を川?に並べてみんなが渡るための橋を作った、と教えてくれた。戦争は戦うイメージしか無かったけどおじいちゃんのような裏方もいたんだよな。亡くなった今でも家で気配を感じる。100過ぎて入った老人ホームの喫煙所で一緒にタバコ吸った仲だったね。長生きの秘訣はうどんを食べる事。だそうです。 日本の未来の為に恐ろしい戦争で戦ってくれて生き抜いてくれて、私がいる。ありがとう!ちゃんと繋いでいきます。
@ののの-p3e
@ののの-p3e Жыл бұрын
自分の曾祖父さんは203高地、お爺さんは憲兵と教えてくれたけど、小学生の時に『戦争は良くない事』と教えられ、ぼんやりと「戦争は悪い事だから聞かない方が良いんじゃないか?」とどんな活躍していたか若気の至りで聞かなかった。 なんて勿体ない事をしでかしたんだろう、 後悔しています…
@オニオ-b2p
@オニオ-b2p Жыл бұрын
うちの父方のじいちゃんの戦時日記も残ってたな。 戦車隊の隊長で、作戦前夜に部下たちと飲み明かしたとか、そういうこと書いてた気がする。 そのじいちゃんの弟は、特攻隊として出撃決まってたけど、出撃する直前に終戦が決まってなんとか生き長らえたとかの話も聞いた。 母方のじいちゃんは満州に行って、ロシア兵に捕まって、収容所で労働されられて、ハラ減ったときはその辺の草食ってたとか。なんとか日本に戻れたときに食べたカレーの美味さが忘れられないって言ってた。 あの時代の話を語れる人はもう少なくなってるけど、本当に貴重だと思う。
@freedomcat8987
@freedomcat8987 Жыл бұрын
この日記がリアルかフィクションかは分からないけど、これらの遺品が遺品整理等で可燃ごみになる事なく、史実として博物館等に寄贈され、大戦の愚かさと前線の苦悩とを後世に伝える重要文献となることを祈ります。
@ととあ-l5j
@ととあ-l5j Жыл бұрын
字もだけど文章も上手いな…最近のその辺の作家より普通に上手い
@leon6736
@leon6736 Жыл бұрын
私の祖父はほとんど戦争の話はしませんでしたが、決してご飯を残しませんでした。 出された物は全部きれいに食べていました。 私が子供の頃はよく「食べ物を残すと目が潰れる」と言われました。 祖父は食べ物がなくて辛い時代を生きてきたんだなぁと今でもその言葉を思いだします。
@user-wf1ne4vl8e
@user-wf1ne4vl8e Жыл бұрын
うちの祖父は戦友会の様な物に入っていて、当時戦争の思い出の様な本を仲間と自費出版して、祖父が死後に読んだけど、戦争怖いよりも、女性関係の思い出や食べ物の思い出を書かれている人が多かった。 その本で祖父が実はベトナムで現地の女の人と結婚していて子供が1人居た事実を知った。元々ベトナムで輸入関係の仕事をしていて、現地で徴兵されて中国人のふりをしてスパイ活動や現地食料調達係をしていたって聞いていたけど、結婚していた事は知らなかった。 下駄足と言われて、当時足を見れば日本人なのか分かると言われて居たらしく、終戦後見つかり、日本へ強制送還されて帰って来た。 祖母は祖父がベトナムに帰らない様に親族に無理矢理結婚させられたらしいです。 夫婦仲は最悪だったと父から聞いたけど、元々ベトナム人とは言え重婚になる人と祖母が結婚しても上手くいかなくて当たり前だな。と今なら思います。 戦争孤児の記事を熱心に読んでいた祖父はベトナムに残して来た息子を探していたんだな。と思います。
@user-xd8gw7dt4l
@user-xd8gw7dt4l Жыл бұрын
「果たせるかな」が深い
@user-dq2il6wx5w
@user-dq2il6wx5w Жыл бұрын
今よりもはるかに本を読んでいた世代の人たち。素晴らしい資料ですね。 ウチの母は終戦時小学生。お使いの帰りに焼夷弾に怯えて、暗くなるまで溝の中に隠れてて、家に帰ったら祖母から、あんた生きてたんだね、身体洗ってきな、ってこともなげに言われたって言ってた。それだけ死が身近だったんだと思って震えた。ほわっとした優しい祖母しか知らなかったから。
@shimazuzz
@shimazuzz Жыл бұрын
戦争に行ってた本人はもちろん、その妻や子供たちだって大変な思いをして生きてきたわけですもんね。 前に聞いたうちの祖母の話も、現代の平和な世の中で暮らす祖母からはとても想像できない話ばかりで、不思議な感覚でした。
@namenick3958
@namenick3958 Жыл бұрын
私の母の家は農家だったので、街から作物を買いに来る人が多かったらしく「ちょっと目を離すと、買ったもの以外の物を袋に入れるので気が気じゃなかった。まぁ言うに言えず見逃してやることも多かったけどね」と言ってました。農家と言えど、貴重な食糧なので。それから街(数十km離れてる)が空襲の時は空が真っ赤になってたと… あまり戦争の話しはしたがらない人でしたので、聞いた話はこのくらいですが。
@dn948673
@dn948673 Жыл бұрын
めっちゃ平和になった時代に曾孫が日記見てると思うと感慨深いな…
@dn948673
@dn948673 Жыл бұрын
@@cava2258 いいやん、戦争してるより。
@末端-i4f
@末端-i4f Жыл бұрын
@@cava2258 残念だねー😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂
@user-vy7oi9nr3x
@user-vy7oi9nr3x Жыл бұрын
タモリ:「新しい戦前」
@maradona10god
@maradona10god Жыл бұрын
当時は小説など文学が大きな娯楽だっただろうし、文章としての表現方や書き方への意識が今より大きかったのかも知れませんね。
@伊藤宏憲-f6t
@伊藤宏憲-f6t Жыл бұрын
日記が日本軍の弱点だったというのは本当だそうですが、そういえば、ドナルド・キーンさんがテレビ番組で戦争中に米軍にいたとき、日本兵のメモ帳に書かれた日記を解読したそうですね。崩し字で書かれた文字を解読できるアメリカ人がいるなんて、物凄い人なんだなあと思いましたっけ。
@to-fu436
@to-fu436 Жыл бұрын
うちのひいおばあちゃんは東北出身なんだが、若い時に行く必要がなかった立場のはずなのに興味本位で富岡製糸場に働きに行って、 「自分に合わなかった。つまらない。」という理由で1週間くらいで帰ってきたらしい。
@user-tq6ev1gz2y
@user-tq6ev1gz2y Жыл бұрын
ひいおばあちゃんロックすぎて面白い
@user-ext11w2
@user-ext11w2 Жыл бұрын
ひいばあちゃん強いな……
@to-fu436
@to-fu436 Жыл бұрын
ひいおばあちゃんの家系が地主らしく、お金があった故の暴挙も可能でだったらしいです。 もう10年近く前に亡くなってしまいましたが、この話を聞いた時には90近いひいおばあちゃんしか知らなかったので、その破天荒さぶりには驚かされました。
@user-jd2ff1ok8m
@user-jd2ff1ok8m Жыл бұрын
教科書に出てきた富岡製糸場 いまや群馬の観光資源
@hohohoicandy
@hohohoicandy Жыл бұрын
アラサーの私の祖母も東京大空襲の時に東京から逃げたと言っていたけど、東京の地主で各部屋に電話が置いてあって、お手伝いさんが数人常駐しているお屋敷住まいのお嬢様だった祖母でも、逃げる時はただの少女だったと言っていたなぁ。身分も何も、お金も、持っていても意味なかったと。芋は嫌い。疎開中に食べ飽きたからと。祖母の作るカレーには、ジャガイモが入っていなかった。
@yuhu.
@yuhu. Жыл бұрын
うちの母は疎開してるときに親戚が鶏を絞めてるときの悲鳴が耳に残ってて、いまだに鶏肉たべれません。
@楽一文字
@楽一文字 Жыл бұрын
うちのじいちゃんはシベリアに抑留されてたって聞いた。戦争時の話は当然のことながら悲惨なことが多かったせいかよほど機嫌良く酔っ払ったときしか話してはくれなかったそうだ。部下?同僚?と船で川を下っていたときに飛行機から銃撃を受けたそうで同僚の方たちがたくさん亡くなったということだけは親づてに聞いた話。厳しくても優しかったじいちゃんには幼い頃に本当にお世話になりました。
@t.tmitaka1676
@t.tmitaka1676 Жыл бұрын
凄い文章力。これは貴重だわ
@wellwell2155
@wellwell2155 Жыл бұрын
この間、友人が実家の物置の箪笥整理してたら引き出しに敷いてあった新聞がすごいってLINEで見せてくれた。川端康成氏のじさつが一面トップだった。
@user-mg3ht4lo5u
@user-mg3ht4lo5u Жыл бұрын
すごい…
@user-ic2to9nl4z
@user-ic2to9nl4z Жыл бұрын
70年代の新聞紙かぁ あれって服の下とかにあると保存状態いい感じなんだよね。茶色くなりにくい
@medama_yaki
@medama_yaki Жыл бұрын
スレの内容も凄いんだけど、それよりも日記のちょっとしたキーワードから「○○ってことは、それは○○だな」みたいに即座に理解してコメ返してるスレ住民なんなの? 知識量がえぐいんだけど。
@ch-dr3bo
@ch-dr3bo Жыл бұрын
どのスレも、本当スレ民たちの知識量すごくてマジでえぐいです…。
@user-sz7pt4hw9u
@user-sz7pt4hw9u Жыл бұрын
旧軍マニアですね。第○師団は○○で編成、○○年○月、○○に転進、○○にて終戦、とかを追っかけてる人たちです。
@Grace.B_from-Japan
@Grace.B_from-Japan 24 күн бұрын
私の友人で趣味で戦時中の歴史研究をしてる人がいるのですが本当にアマチュアかな?って位に知識ありますね。 好きな芸能人のプロフィールをいつの間にか覚えるのと似た感覚なのだと思います。 その位にスラスラ出て来るw
@cupbutter3437
@cupbutter3437 Жыл бұрын
鳥肌が立ちました。 描写が上手いからか、生々しく情景が浮かんでくる。 是非資料として後世に残してください。 上手く言えないけど、肉筆の持つリアルを伝えるべきと思います。 二度と戦争を起こさないように
@emoto0507
@emoto0507 Жыл бұрын
残念ながら実際に戦争を体験した人たちから直接話を聞ける機会はどんどん失われていくけれど、リアリティーのある戦時中の話が広げられる可能性があるのがSNSの力なんだなぁ、と感じました。
@user-zy6zc3lc5y
@user-zy6zc3lc5y Жыл бұрын
シベリアンハスキーの散歩してたら、「懐かしいなあ、ロシア犬じゃねえか。」と近づいて来たおじいちゃんに、戦争の話をしてもらった。 ウチのロシア犬を撫でながら、おじいちゃんは、 「戦争のことなんか、忘れちまいな。今じゃアメリカさんも中国さんも仲良くしてくれる。いい時代になったんだよ。」 っておっしゃった。
@Tina-wg5is
@Tina-wg5is Жыл бұрын
私のお爺ちゃんは戦争で南シに行ったと語っていました。 衛生兵として陸軍に所属、負傷兵や水や食料が合わず食あたりの兵士の介抱を行っていたそうです。 「薬が足りず、歯磨き粉を薬だと言い聞かせて舐めさせた。そうしたらヤツ等はたちまち元気になるんだ、人間てのは適当な生き物よな。」と語っていました。 懐かしい。
@ビオロンセロ
@ビオロンセロ Жыл бұрын
字がきれいで文字列も整っているので読みやすい。紙も筆も良いものを使っているのが分かる。 漢字が多く文章もとても分かりやすいので、物書きになりたかった(なっていた?)人かな。 本に汚れが無くて文字の乱れも見当たらないので、身なりをきれいにしてちゃんと机で書いたのが分かる。
@blanche4481
@blanche4481 Жыл бұрын
現代の人間にもよみやすい文字で驚いた しかも罫線もない紙にこれだけよくまっすぐ書けるなぁ 修正した跡もないし、相当集中力が高くて几帳面な方だったんだろう(私なんか、下書きしてもめちゃくちゃ間違えるからw)
@pahoopahoo
@pahoopahoo Жыл бұрын
自分の母方の爺さんは亡くなったが、物凄く陽気でおしゃべりな人だった。そのお爺さんはシベリア抑留経験者だったのだが、あれだけおしゃべりな人なのに戦争の話は一言も口にしないまま死んでいった。それが逆に戦争がどれだけ酷かったのかを想像させる。
@LoveMyCats.
@LoveMyCats. Жыл бұрын
爺「おぉ、懐かしいなー。これ、戦争で南方に行ってた時、食べたんだよ。凄く美味かったんだよあー。」 ワイ「ほーん」 爺「現地で食べられる物は何でも食べていたけど、これは本当に旨くてね(以下、詳細説明が続く)」 ワイ「ほな、買おか?」 爺「いや、いいんだ。もう一生分、食べたからね。」 当時はピタヤ、と呼ばれていたドラゴンフルーツにまつわる思い出。
@スカイフウ
@スカイフウ Жыл бұрын
俺のじいちゃんはシベリア抑留されてたらしい らしいってのも中学生くらいまで生きてたのに 一言も戦争の話してくれなかった 今になって凄い感謝してるって事を伝えたいのと 実際にその時のことを聞きたいと思ったのと同時に よっぽど話したくない記憶だったのかなとも思った
@bellta5782
@bellta5782 Жыл бұрын
自分の爺さんの兄?がシベリア抑留に合っていた、という話を聞いたことがあったなぁ、爺さん自身もも辛い経験が多かったらしく、「戦争なんかしちゃいかん」ってのはずっと言ってる
@tyler2087
@tyler2087 Жыл бұрын
昔の人の文章はもっと読みにくいもんだと思ってた。カタカナも使いこなして現代文そっくりだな…
@user-hanasaki
@user-hanasaki 19 күн бұрын
これは創作だから読みやすいだけです。東京の某区の戦前戦中資料館で民間から資料を募った時に沢山、山ほどこの手の後世作品😅見ました。書体やインク、紙質で一発でわかります。なぜか戦時中の偽日記作る人多いのですが、資料館の学芸員の方は「アンネの日記」の影響かも、と云ってました。
@rin.3sactor861
@rin.3sactor861 Жыл бұрын
誰も突っ込んでないけど爺さん達筆すぎんか…?
@tynar-w5923
@tynar-w5923 Жыл бұрын
昔の人って文字を習うとき今とは違うのかな?うちの婆さん漢字簡単なものしか書けなかったけど、とても似てる。爺さんに至っては全く同じに見える👀 でもカタカナが多かったと思うけど
@toitumentaiko
@toitumentaiko Жыл бұрын
自分もそれ思いました。 えらい現代文だなと。
@user_ootahara
@user_ootahara Жыл бұрын
誰も見ない日記なんてなぶり書きみたいでもいいのにとても綺麗にね。
@katoshinworks
@katoshinworks Жыл бұрын
うちの曾祖父さんも中国で戦ってた。毎日遺書だと思って日記つけてたとよ。 現代人の日記と同じ感覚では理解できんと思うけどね
@山羊-e7e
@山羊-e7e Жыл бұрын
@@katoshinworks まぁ携帯でポチポチTwitterに文字打ってる現代人には、綺麗な字で日記をつけるってもう出来ない事なんだろな
@ねこ吉-s3d
@ねこ吉-s3d Жыл бұрын
私が若い頃いっていた店の店番をしていた、おじいちゃんから戦争に行った時の話を聞いたことがあります。 そのおじいちゃんは小さな島にいたらしい。時々米軍の攻撃とか艦砲射撃があったそうですが、 それで死んだ人は、ほとんどいなかったそうです。 死因のほとんどは餓死と病気だったそうで、そのときに食べていたのが 現地の地面の中にある芋のような物だったそうです。それはとても灰汁が強く、普通に食べられるものではなかったが 塩水につけて何日かおいて、それを煮たのか焼いたのか、食べたそうです。 あとナマズのような生き物をとってたべたとか、そんな話を聞きました。 そのおじいちゃんはその環境から日本に帰ってきたのですから、凄い人だなぁと思いました。
@著著
@著著 Жыл бұрын
おじいちゃん、作家志望だったのかもなー 文章旨い!
@user-gt2ep9ny8y
@user-gt2ep9ny8y Жыл бұрын
資料読んでると、汚くて読みづらい時も多いから読みやすいのに驚いた。是非とも残してほしい資料だね
@俺の血は電池式
@俺の血は電池式 Жыл бұрын
うちの爺さんは工業学校終わってメーカーに就職したんだけど、徴兵にとられたときに軍が水にあって職業軍人になったそうだ。別に好戦的という意味でなく、工兵隊だから自分の知識技術を活かせると考えたのだろう。当時は開戦前だし自衛隊に就職するような気分だったのだろう。最終階級は少尉。 話せば長くなるが、得撫島で終戦。ソ連軍に抑留。同島及び南樺太で強制労働、S23ダモイ。 エピソードとして、帰国後GHQに呼び出され、戦犯の心当たりはないが...とおもってたら、向こうの将校から、千島樺太におけるソ連軍の兵力、展開状況について情報提供を求められたそうだ。
@chluc7756
@chluc7756 Жыл бұрын
うちの祖父は戦地に行きたくないから理系(薬学)に進学したとか聞いた 頭のいい人だったから、戦争の意義や意味、戦地に行ったらどうなるかとかを分かってたんだと思う 一般国民も心の中ではそれぞれ違う考えを持ってたんだろうね 祖母は、戦争が終わったすぐに子どもたちだけどこだかに連れてかれて一列に並ばされ、シラミ駆除剤を頭からかけられたとか 実家が農家で家で取れた米を食ってたから食料にはそこまで困らなかった、近所の人が着物とかと物々交換で米をもらいにきたと言っていた ちなみに二人とも北海道の人
@lincoqie
@lincoqie 24 күн бұрын
うちの祖父も戦争避けて理系行った!初めは気象予報やりたかったらしいけど、それだと前線で役に立つ仕事だから死ぬ確率上がるかもと思って、電気工学に変えたらしい。
@ボン太郎-i4d
@ボン太郎-i4d Жыл бұрын
隣の爺さんが師団野砲兵だったが 操典(マニュアル)をまだ保管していて 中身を見せてもらったけど 中々合理的だったな。 砲兵の配置位置もメートではなく歩数で表記してあって 前線での分かりやすさとか工夫されていて感心した。
@ミジンコミンコ
@ミジンコミンコ 23 күн бұрын
うちの太平洋戦争に行って帰ってきた陸軍軍曹だった爺ちゃんの日記は「クーニャン」記載が多く出てくる。 かわいいクーニャンがどうのこうの。 一番あっ・・・となった記載は 戦地でご飯を食べて、自分の茶碗の飯で余ったものを下級兵に分け与える場面の記載。 「自分は初めから分け与える用に綺麗に3分の一の飯を残してあげるのだが、 同期の韓国籍の李は、初めから飯をぐちゃぐちゃに混ぜて食べ、それを下級にあげるものだから みな気持ち悪がって嫌々食べていた」という記載があって草生えた。
@hirokitakahashi7891
@hirokitakahashi7891 Жыл бұрын
最後まで視聴したけど…。 ずいぶんとリアル感を感じたわ。 単なる「人の生き死に」だけを描写してるんじゃなくて、ところどころに何気ない生活臭も感じる。 実物の日記は、超・一級品の資料じゃないですか!
@rsiteiussr
@rsiteiussr Жыл бұрын
お婆さんの気持ちも分かる。 辛い事は思い出したく無いだろうしそんな日記は捨てたいだろうね。 トラウマが蘇るんだろう
@shimazuzz
@shimazuzz Жыл бұрын
うちのじいちゃんも戦争行ってた時の話はしなかったそうな。 やはり思い出したくないのだろうと。
@めめ-m4e
@めめ-m4e Жыл бұрын
うちの母が台湾生まれ、父親が製糖工場やってたから一面のサトウキビ畑で当区の軍事飛行場の離着陸がよく見えた、帰国の時に前後の船が沈められたとかいう話から、庭にも普通に生えてるバナナがそのまんまだとおいしくなくて室といってた部屋で熟成させたとか、親戚にそのバナナ干して送るときこっそり間に砂糖忍ばせたとか。
@やまもん-u4b
@やまもん-u4b Жыл бұрын
なんでこの時代の方って、字が綺麗なんだろう。もちろん識字率は今の方が高いと思うけど、綺麗な人が多いイメージ
@user-hr2vx2cl7s
@user-hr2vx2cl7s Жыл бұрын
読めない字書いたらゲンコツ制裁が待ってますからね。 ダサいことなので、綺麗な字を書けるというのはステータス。
@yume-nao8147
@yume-nao8147 Жыл бұрын
全部日記を読んでほしかったな。いい動画有り難うございます。私の父方の祖父は、学生時に徴兵されて戻ってきたら神父さんになっちゃいました。自分がまだ小さかったので戦時中の話は全然聞けませんでした。残念。父と母は疎開で偉い苦労したらしいです。食べ物がなくて。
@伊藤雲黒斎
@伊藤雲黒斎 23 күн бұрын
老人健康保健施設で働いてた時、戦後生まれは間違いないのにインパール作戦の実態をリアルに語る人がいてご家族に「親族に兵隊行った人はいましたか?」と聞けばいないという。また「丸とか戦争関係の書物は読んでらしてましたか?」それも皆無。資料を基に色々尋ねると全て合致どころか資料の間違いまで指摘される。二言目には「ムタグチの馬鹿が」本人が称してる「生まれ変わり」というのは本当にあると確信した。
@hasa_eiri
@hasa_eiri Жыл бұрын
その場で日記として書いてるというより 昔を思い出して記録として書いてるのかなというふうに思う。 普通に考えたら海に飛び込んで泳いだらだめになっとるやろし(´・ω・`) 私のじいちゃんは私が赤ん坊のときになくなってるから直接聞いたことはないけど… 父親からまた聞ぎした話なんかはやっぱり壮絶やな。 死ぬか生きるかの戦場で沢山人殺して来たからこそ夢でうなされたりとかしょっちゅうあったらしいし。
@jk196177
@jk196177 Жыл бұрын
私の爺さんは、戦争に負けたのは悲しいけれど、ある意味で負けて良かったと言ってました。日本とドイツが勝ってたら、今でも軍国主義が続いていて、大変な世の中に成っていたと思うと言ってました。例えば学校の先生の前では、直立不動で口答えでもしたら、竹刀でぶっ叩かれたし、警察官に対しても生意気な口を聞いたら大変な目に合うし、国の批判でもしようものなら、憲兵隊に連れて行かれてリンチを受けて、終戦に成っても帰って来ずに、殺された人が沢山いたそうです。噂では無くて、爺さんの知り合いも何人か連行されて、それっきり帰って来なかったそうです。軍国主義を批判しただけで。戦後のどさくさ紛れで有耶無耶に成ったみたいです。
@hatimitudaisukii
@hatimitudaisukii Жыл бұрын
現在の価値観で昔の物事を測るのはナンセンスだよ
@rikeidakedosuujaku
@rikeidakedosuujaku Жыл бұрын
@@hatimitudaisukii 何を言ってるんww
@スミスケクロスケ
@スミスケクロスケ Жыл бұрын
@@hatimitudaisukii ?…どゆことや?
@Jjwhg
@Jjwhg Жыл бұрын
@@hatimitudaisukii 確かにそうやな。
@user-lh9qo1so2n
@user-lh9qo1so2n Жыл бұрын
@@hatimitudaisukii たしかに
@Yoshikun0945
@Yoshikun0945 Жыл бұрын
祖母がS14年生まれなので、戦争の話を聞くことがあります。 一般庶民は相当な食糧難だったそうです
@yukinos9922
@yukinos9922 Жыл бұрын
S16年生まれのパート先のおばあちゃんは、名古屋の空襲で逃げる中、誰が押してるかは記憶はないけど乳母車に載せられていた記憶くらいしかないそう。 お祖母様は2歳上になるので、もう少し記憶もありそうですね。
@Yoshikun0945
@Yoshikun0945 Жыл бұрын
@@yukinos9922 祖父も祖母もS14年生まれで、食べ物がないとよく聞かされました。
@user-eh1iv7gq9w
@user-eh1iv7gq9w Жыл бұрын
うちの祖母は当時お米の代わりに食べてたカボチャとイモが嫌いで晩年いっさい口にしなかったな。カボチャの煮物や大学芋まで大嫌いで白米とお菓子が大好きな祖母でした。海苔で稼いでた金持ちの家でお手伝いさんが5人もいて、そこそこ金持ちの令嬢だった祖母でさえ、食糧難になっていたらしいですよ。カボチャとイモがトラウマになるって相当辛かったんでしょうね。
@chluc7756
@chluc7756 Жыл бұрын
うちの祖母(今90代)の実家は戦時中北海道の田舎で農業してて 家でとれた米を食ってたからそんなに食料には困らなかった、近所の人は食糧不足の人もいて着物とかと物々交換で米をあげてたとか言ってたな 家業や土地によって食料事情は随分違ったんだろうなあ
@蓮奈-z7j
@蓮奈-z7j Жыл бұрын
@@user-eh1iv7gq9w私の祖母もイモ系嫌がってた。理由も同じ。
@misokatu029
@misokatu029 Жыл бұрын
達筆な日記だなと思ったけどそうか、明日死ぬかもしれないから記録だけは綺麗にって想いになるよな…
@日辻メイプル
@日辻メイプル Жыл бұрын
すごい!本当に出版してほしい日記ですね。
@にこ-e3l
@にこ-e3l Жыл бұрын
わたしの祖母は大阪から学童疎開で岡山にいました。 女学校では常に防空壕掘りをさせられたそうです。幸い田舎へ疎開できたため、大きな空襲に合うことは無かったようですし祖母は父親を早くに亡くしてひとりっ子だったため、家族が戦地に赴くこともありませんでした。 戦時中なにが1番辛かったかと聞いたら、「食べるものがなかったこと」と即答でした。これだけ食べ物がないんだから、兵隊さんたちもお腹すかせているんだろうと子供ながらに思っていたそうです。
@takokariudo
@takokariudo Жыл бұрын
昔中国へ出征していた爺様に一回の戦闘でどのくらい戦死しちゃうの?って聞いたら「多くて2~3人」って言ってた。何百人何千人って感じじゃないんだ?って聞いたら、南方だったらあったみたいって言ってた。南方戦線じゃなくて本当に良かったとも言ってた。
@user-yd7uk5jx3h
@user-yd7uk5jx3h Жыл бұрын
うちの爺さん(故人)は中国で戦ってたらしいけど、フグにあたって死にかけたとか盗んだコインを帽子の布を少し破ってそこに隠したとかニコニコしながら語ってた
@sp8700
@sp8700 Жыл бұрын
ここまでちゃんと書いてるって事は、誰かに読んで欲しいからだと思うな。
@ts7049
@ts7049 19 күн бұрын
ブー。違う。本物は内面を見つめる。外面だけの糞が多すぎになってる。屑だらけ。今はの。
@user-wu6jh4iq9i
@user-wu6jh4iq9i 6 ай бұрын
当時の人の喜怒哀楽、戦時中のリアル、しかも一兵士の立場の日記とか貴重すぎる まず写真の内容部分だけで文字がすごい読みやすく綺麗。さんざん言われてるが これ明らかに清書して戦後か落ち着いてから戦時中の日記をもとにひいおじいさんが 書き直したんだろうな…残したかったんだろうとしか思えん
@月光の調べ
@月光の調べ Жыл бұрын
ゲームなんかじゃなくて真実だから響く。これは本当に貴重な宝物です。
@dskrvn
@dskrvn Жыл бұрын
太平洋戦争の戦記はたくさん本になってるけど、戦後に当時を思い返して詳しく書けるもんなんだろうかと思ってたが だれもが日記書く習慣があったから、いろんな階級・部隊の人の戦記が本にできたんかな
@lululululu_u
@lululululu_u Жыл бұрын
凄く字が上手い。そして文章が素人の日記ではないレベルなんだが
@yoshi_9885
@yoshi_9885 Жыл бұрын
うちの親父もインドネシアのハルマヘラ従軍記を残してくれています。 徴兵、出兵から内地帰還までの3年弱です。 徴兵時の心境から戦闘時のリアルな状況、意外とのんびりとしていた生活などなど
@pumochan
@pumochan Жыл бұрын
うちの祖父も大陸に出征したんだけど、戦場の話はしなかったなあ。晩年になって「水が合わなくて腹を壊して、陸軍病院に送られて寝てばかりいた」と言ってた。もしかするとかなり辛い体験をして戦闘に関することは言いたくなかったのかもしれない。
@user-fuyunokuma
@user-fuyunokuma Жыл бұрын
私の祖父も多分晩年入院中に回顧録みたいなものをノートに書いてたみたい。カタカナ多くて読みにくいけど、なかなか衝撃的なことも書いてあった😮戦争行く前に友達の奥さんから友達に会えたら渡して欲しいと手紙を預かってたみたいだけど終戦まで会えず持って帰ってしまった手紙も残ってる😢その友達の奥さんを探してみようか、と数年前に家族で話したけど実行出来なくてまだ実家にあるみたい。
@rely5795
@rely5795 23 күн бұрын
字が綺麗ですね。昔の方は男性でも綺麗な字の方が多い。 私の叔母は満州から引き揚げてきた話をしてくれて(日本人の子供が誘拐される話とか)、義母からは空襲の話を聞きました。(空襲で焼け焦げて亡くなった子供の体を洗っているお母さんの話しとか)。平和な時代に生まれてこられて感謝したいと思いました。
@RENGAnoRENGA
@RENGAnoRENGA Жыл бұрын
そら自分より年下や子供みたいな敵兵を自分が生きる為にヤラないけんかったんやから… 戦争の事は喋りたく無い言うてたジジイも認知症になってんやけど忌の際に急に自責の念と謝罪の言葉を昔の口語でシャキッと言い出してその場に居たモンが目頭熱くしてたな…
@MJ-xj8hy
@MJ-xj8hy 24 күн бұрын
祖父の義兄はサイパン島の生き残りだった。 戦争話はよくしてくれていたけど、当時自分は子供で真剣に耳を傾けたことがなかった。 サイパンの生き残りは貴重だろうし、生きているうちにもっと色々と聞いておくべきだった。
@はろげんひーたー
@はろげんひーたー Жыл бұрын
これはupされてる画像だと紙質もあまり劣化してなさそうだし戦後清書した物かな?戦前戦中だと送り仮名とかはカタカナ書きが一般的だと思うけど
@むぎ-e4b
@むぎ-e4b Жыл бұрын
現代の文章に近すぎて違和感ある 書き写したのでなければ捏造なのかな この保存状態と綺麗な字で以降判読不能って起こりにくい
@大丸郎
@大丸郎 21 күн бұрын
推測すると多分このおじいさんはこのまま日記を出版しようとして綺麗に書き直したんじゃないかと思う。 うちの祖父も戦争体験の小説を出版しようとしてたからなんとなくわかる
@ルパン5世-m1o
@ルパン5世-m1o Жыл бұрын
インパールの生き残りかよ。良く生き残ったなあ。うぷ主が生きている 奇跡やで。
@wdrftgylp2468
@wdrftgylp2468 Жыл бұрын
ほんとだよな。牟田口め…
@割物注意
@割物注意 Жыл бұрын
爺ちゃんは天皇陛下の身内と同じ船に乗って隠れて二人で芋喰ったって言ってたな 文字板逆さで手書きの真っ黒い懐中時計貰ったって逝くまで神棚に飾ってたわ
@yama_yama_at
@yama_yama_at Ай бұрын
日記に残してこれだけの文章を書ける人だから、もしかしたら作家や出版業を目指していたのかも知れないな。そんな中徴兵されたもんだから、泣く泣く戦争に行ったとか。
@大丸郎
@大丸郎 21 күн бұрын
うちの祖父も戦争体験を元にした小説書いてた。 物凄く良い話だから、そのうち世に出したいな。 この動画に出てくるじぃさんの文章は読みやすくていいね、うちの祖父のは達筆すぎて読み進めるのに結構苦労するよ
@松本きよし-o1q
@松本きよし-o1q Жыл бұрын
日本兵は従軍中の日記を書く人が多いが、アメリカでは禁止されていた。捕虜になったり、拾われたりして敵に日記を読まれたら部隊の行動が敵にわかってしまうからな。そういった点は日本は無頓着だった。
@トシヤ-i2y
@トシヤ-i2y Жыл бұрын
おれのヒィヒィじぃさんの日記を見たことあるが、なかなか面白かった。 幕末頃で隣町の侍が切腹したとか、罪人が斬首されたのを見に行ったとか書かれていた。
@たなか角栄-n3r
@たなか角栄-n3r Жыл бұрын
軍刀は将校以上からだから持って居なくてもおかしくはない。ただ将校は帯刀は必須なので将校に昇進すると大変な出費だったと爺さんが言っていた。
@user-fc5qo4gw4d
@user-fc5qo4gw4d Жыл бұрын
軍刀って買わされるのね?
@たなか角栄-n3r
@たなか角栄-n3r Жыл бұрын
@@user-fc5qo4gw4d 軍刀は自分で用意するようです。先祖伝来の日本刀とか、ただ無い場合は買って済ませる人もいたようです。
@user-fc5qo4gw4d
@user-fc5qo4gw4d Жыл бұрын
物入りですね。将校になるには金持ち家系でないとダメですね(笑)
@たなか角栄-n3r
@たなか角栄-n3r Жыл бұрын
@@user-fc5qo4gw4d 将校には世間体があって外出着、食事や乗り物場所にも規制がかかり細々した出費の総額が2~3000万かかったと聞く。
@ok-gw3rj
@ok-gw3rj Жыл бұрын
@@たなか角栄-n3r 自衛隊でも将校相当の階級は制服なんかは自前購入で、曹兵階級は貸与ですね。食事も将校階級は有料ですが曹兵階級は支給です。まあ災害支援、演習、術科学校入学時、諸々の講習会、出張等は支給されますけど。これはヨーロッパの歴史的階級制度から来ていて、将校は貴族、地主等日本で言えば大名以下の武士にあたり、一方曹兵階級は傭兵や平民から徴用あるいは募集したので、衣食住は支給です。その制度をそのままもってきているんです。
@オットンガエル
@オットンガエル Жыл бұрын
インパール作戦にも参加してたのか。生き残りの話しだと死ぬのわかってても渇きを潤す為にガソリン飲んだりしてたらしい。酷い作戦だよ。
@kmkmkmkm5117
@kmkmkmkm5117 Жыл бұрын
すごい、なんとなくで見始めたけど、最後までとても興味深く見れました。画像の日記から想像するに、恐らく当時を思い出しながら平和になった時に書き起こしたものでしょうね。体験したことって頭の中というよりか、体が覚えているからいくつになっても書き起こせると思う。どこかの資料館に持っていった方がいいと思うな。
@user-nq5cu5xu9z
@user-nq5cu5xu9z Жыл бұрын
自分のひいおばあちゃんも今101歳でまだまだ元気っぽいけど話せる内に色々話したいなって思ったわ。好物のマックのポテトとテリヤキバーガー持っててあげよう。
@generatorasignment6707
@generatorasignment6707 Жыл бұрын
好物のポテトとバーガーでめっちゃ元気でほっこりした
@yuhu.
@yuhu. Жыл бұрын
ハイカラなおばあちゃん、お元気で❤
@akaseyouichirou9117
@akaseyouichirou9117 Жыл бұрын
戦争を憎み忌避する気持ちは大事だけど、ただ目を背けるだけなのは良くない事かもなあ
@青-v4u
@青-v4u Жыл бұрын
お爺さんは頭のいい人だったんだろうな
@s.sugisawa9799
@s.sugisawa9799 Жыл бұрын
泣ける。良スレ。 わたしも出版希望します…
@ぴょんた072
@ぴょんた072 Жыл бұрын
じいちゃんの字がうまくてびっくり(・ω・`)
@Grace.B_from-Japan
@Grace.B_from-Japan 24 күн бұрын
うちの祖父母は当時の物は草書?行書?だから解読が難しい😅 2人の祖父の戦時中の物は棺に入れて欲しいとの遺言でもう手元にないけれど、ぶっちゃけ手元に残しておきたかった位に貴重。 そして、私達の時代では素人でこんなに素晴らしい文章を書く人は減っている。 SNSを見ても文章が支離滅裂な人をみかける事が多い。 アラフォーの私でさえ10代20代の会話を理解出来ない時がある。 江戸時代で既に「最近の若者の言葉遣いがなっていない」と言われていたけれど、現代はそれが著しい。 それを日本語の進化と捉えるか衰退と捉えるかは人それぞれだとは思うが、個人的には綺麗な日本語が減ってしまう様に感じてしまう。
@21颱風
@21颱風 Жыл бұрын
うちのじいさんは日中戦争に衛生兵で従軍。廬山てとこで小隊のうち祖父ともう1人しか助からなかった爆撃を受けたそう。その時に爆風で肺をやられたらしく、太平洋戦争の徴兵は不合格に。 他に親戚の爺さんで将校で馬に乗ってた爺さんがいて、当時の軍人としてはありえないんじゃないかと思うほど長髪で、革の長靴、白馬に跨った姿がめちゃんこイケメンな爺さんがいたなー。 モテただろうな〜笑
@mi-sg8zr
@mi-sg8zr Жыл бұрын
10:00 ドリアン≒腐ったアイスクリームすごいわかりみが深い
@iwaiwaiwaoo0309
@iwaiwaiwaoo0309 Жыл бұрын
老人ホームで働いてたときに色々と話してくれる人多かったな。認知度は高いけど、ドイツ語だけは理解してたり311のときは普段立てないひとが立ち上がってたり 曾祖父は骨すら帰ってきてないけど、原爆にあった利用者さんはなにも残らなかった。火事とかでなにもかも燃えたから、思い出だけあるよっていってる人もいた。
@シュガッ-d1i
@シュガッ-d1i Жыл бұрын
うちのひいじいさんも満州国の国づくりの携わった人で中々にすごい経験をした人だから話聞いててこういう話って良いなと思った
@n.__484
@n.__484 Жыл бұрын
愛媛の松山に住んでいた祖母。広島のキノコ雲を松山から見た時は驚いたと言っていたなぁ。
@bebe2139
@bebe2139 Жыл бұрын
先日祖父の従兄弟が沖縄で戦死したときの遺品が見つかったと連絡がきた 万年筆に名前と出身地を記入していたため同定できたらしく親せきが引き取っていった 祖父自身は特攻隊で召集されたけど出撃前に終戦したため無事だった あと一週間戦争してたら自分は産まれてなかったかも  戦禍を生きた人たちが少なくなってきているけど当時の悲喜交々をなるべく残していきたいな
@tetsumiyokoyama823
@tetsumiyokoyama823 Жыл бұрын
会社の先輩に爺さんが中国で兵隊やっていたという人がいたが、戦地でたまに阿片を吸っていたとの事。 日本兵が行軍すると現地人が隊列の後ろに付いて来て、タバコ・中国酒・豚まん・阿片を売って来たそうで、周辺に敵兵無しと判断されれば、即阿片を吸引していたそうですが、禁断症状は少なかったと話していた。 その後無事に復員して農業に従事したが、献血や病院で他の人への輸血は、過去に阿片を吸引した事があり不適格事項抵触となりました。
@MoyokoKure825
@MoyokoKure825 Жыл бұрын
こういう日記や手帳などを見つけたら、お手数ですが博物館もしくはそれに類似した施設(それこそ郷土資料館とか)へ一度ご連絡くださいね!学芸員になりたい俺との約束だ!
@アワビさん
@アワビさん 6 ай бұрын
昔見た珍百景で、放送年に90歳になるおじいちゃんが5歳の頃から書いてる絵日記が出てて印象的だった。 珍百景に選ばれたことがきっかけで書籍化されてたのは驚いたけど
@inu-dog-lover
@inu-dog-lover 24 күн бұрын
日記が一番歴史を知れるから下手な教科書よりずっと勉強になるし、ほんとそういうの集めて出版してほしい まぁ事実を隠したいやつはいっぱいいるだろうし無理だろうけど… こういう形で知れるのはありがたい
@wraikitune
@wraikitune Жыл бұрын
うちの曾祖父さんの話し。 ロシアと満州の国境に有った地下施設?地下要塞?におった。 トンネルが幾つもあって処々で大部屋になってる。 トンネルの各所には地上を隠れて監視するハッチがあって、顔だけ出してロシア側を見るんやと。 上官からの命令で『例え撃てば当たる距離を露軍が通過しても、絶対に撃つな。撃てばお前が開戦した事になるぞ』って言われてた。 実際に露軍の戦車や歩兵、機甲師団が通っても報告だけで特に何の動きもなく、終戦間際に露参戦で『はぁ!?』ってなった。 結局、戦争当時は一発も撃たず過ごし、敗戦間際?敗戦確定後?に、その地下施設に残った爆弾弾薬をギュウ詰めにしてふっ飛ばし『皆の散り散りに逃げろ!』と言われて、数人単位で逃走。 カムチャッカ経由で舞鶴へ、数年かけて帰って来たんやと。 ちな、家は大空襲に合った地域やけど、焼け野原にぽつんと一軒だけ無傷で残ってたんやって。 改修はしたけど周りに比べて古いんは、戦争時分に焼けて立て直してないからやと言っとたわ。 確かに二階の窓に、よく時代劇で遊女とかが寄りかかってるような、低い木冊があったり、裏手に昔の水路降り口の名残あったりしたわ。
@オヤカタサマ
@オヤカタサマ Жыл бұрын
私の夫の両親は満州で生まれたと聞いて最初驚きましたが、実家のご近所さんはそういう人ばかりで珍しくないらしい。
@ユウ-v4p
@ユウ-v4p Жыл бұрын
俺のじいさんも第二次世界大戦前あたりから日記書いてて、戦時中の様子とかが書いてあったなぁ 真珠湾攻撃のニュースはなかなかインパクトあったみたいで興奮した感じで書いてたな
@もっちりもちもち-j5e
@もっちりもちもち-j5e Жыл бұрын
真面目すぎるやつもいいんだけど、こういうノリで戦争を知ったりこう言う前線の事情とかサクッと知れるのもいいと思うの。
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