No.631_城跡巡り 東端城址(愛知県安城市)

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2024年7月21日(日)
東端城(ひがしばたじょう)
所 在:愛知県安城市東端町中縄手
34.9020106, 137.0235259
駐車場:城山稲荷駐車場
34.9020254, 137.0234736
別 名:なし
⚫︎東端城は天正8年、大浜の長田重元が長子尚勝に築かせたものである。この尚勝の弟が永井伝八郎直勝で、永禄6年(1563)、大浜で生まれた。直勝は天正4年(1576)、岡崎の松平信康に仕えたが、信康の自刃後は大浜に蟄居した。その後家康に仕えた直勝は、同12年、長久手合戦において秀吉方の池田恒興を討ち取り、その行賞として、兄に代わって東端の地を与えられ、東端城城主となった。以降も家康に従い、関ヶ原合戦や大坂の役などでも戦功をたてた。元和2年(1616)、常陸国笠間城城主に任ぜられ、この時、東端城は廃城となった。
 城址は現在ぶとう畑となり、その周囲には土塁が残っている。
(日本城郭大系9 269ページ)
⚫︎この城は、天正8年(1580)大浜村長田久右衛門重之の長子尚勝が築いた。城の構造も居館城から郭内城へ移行する過渡期にある代表的な城郭である。
 天正12年(1584)城主尚勝の弟、伝八郎直勝が長久手合戦で敵将池田を倒した功賞として東端城をもらい、兄尚勝を大浜に返し、直勝を城主に任じた。
 このとき直勝は、幡豆郡寺津村の豪族、大河内金兵衛秀綱の娘由利をめとって妻としたが、戦国の武将の妻として年中戦線を奔走し、関ヶ原戦、大阪冬・夏などに出陣、大阪夏の役の戦功により、常陸国笠間城主に任ぜられて東端を去ったので、まもなく廃城になった。
 妻の由利は不憫にも、夫直勝の不在中に天正13年(1585)7月、根崎村西根で生命を絶った。現在根崎町西根に残る由利姫塚は、その遺骸を葬ったものである。
(日本城郭全集7 181ページより)
⚫︎築城年は不明ですが、文亀3年(1503)、松平信忠(安城松平家三代:1490-1531)は大浜称名寺に禁制を与えており、この前後に安城松平家が水上交通の拠点である大浜に関わりを持ち始めたといえます。安城と大浜の途次にあたる東端城は、両地を行き来した信忠のころに整備されたと考えられます。
 1576年(天正4)以降、碧南市羽城の長田重元の子、尚勝を城主としていました。しかし、1584年(天正12)に、小牧・長久手の戦いで功績のあった尚勝の弟直勝が、兄に代わり1,000石を加増されて城主となります。1590年(天正18)、徳川家康の関東移封に従って多くの家臣団が関東へ移住しますが、直勝はこの地に留まりました。その後、直勝は姓を永井に改めて永井伝八郎直勝と名乗り、1617年(元和3)の大阪冬の陣での活躍で、常陸国笠間城32,000石の城主となり転出しました。このとき東端城は廃城になりました。
 廃城後400年にわたり当時の曲輪の状況をよく残しています。主曲輪は、方形あるいは台形に近い形で高さ8~10mの土塁に囲まれています。北東から南の土塁の外側には幅10~15mの帯曲輪が取り付いています。また、土塁の東側と西側には、周囲より高くなった方形の平坦部があり、その場所は物見櫓的な機能を果たしていたと考えられます。
(安城市役所ホームページより)
www.city.anjo....

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