3番砲塔のレリーフにはカエサルの凱旋式の様子(特定の戦いのものではない)が彫られており、その下部にウェルギリウスのアエーネイスから引用した"Sit romana potens Itala virtute propago"(意訳:ローマの子孫にイタリアの勇気で力を与えよう)という文句が彫られています。1920年に艦のモットーを"Ad quamvis vim perferendam"(どれほどの力にも耐える※出典はガリア戦記)から"Caesar adest"(カエサルここに在り)に変えた際に追加されました。※1922年までは艦首飾りも月桂冠を掴んだ鷲(月桂冠のリボンに"Veni Vidi Vici"(来た、見た、勝った)の文句)という特別仕様でした。 またジュリオ・チェーザレは開戦時、イタリア初期艦長のイニーゴ・カンピオーニ提督の旗艦であり、カラブリア沖海戦時にイギリス艦隊を率いていたのはアンドリュー・カニンガム提督(イギリス戦艦艦長)でした。更にそのカニンガム提督が座乗していた戦艦ウォースパイトの副長はチャールズ・マッデン提督(イギリス戦艦艦長)の長男、チャールズ・マッデン2世中佐でした。 このカラブリア沖海戦時、イタリア空軍は雷撃機隊を出撃させますが、海軍との連携に失敗し、同士討ちを演じる部隊が発生しました。これを重く見たカンピオーニ提督は、イタリア空軍に海軍士官を派遣すると同時に、各艦艇に対空標識を施すことを指示し、これ以降イタリア海軍の艦艇の甲板には赤白のストライプが描かれる事になりました。 Wikipedia等ではカラブリア沖海戦後からイタリア海軍が消極的になり、イギリス海軍が積極的になったという説明がなされていますが、これはあまり正確ではなく、少なくとも1941年時まではイタリア海軍がイギリス海軍に対し優勢若しくは拮抗していました(カラブリア沖海戦はイタリア海軍が輸送船団を護衛した帰途であったのに対し、イギリス海軍はマルタ島到達を阻止された格好であったので、イタリア海軍内では勝利扱いでした)。地中海の戦いに関する日本語の解説は連合軍側に偏り過ぎな事が多いので、参考にされる際は注意して下さい。