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東日本大震災から10年、愛と祈りを込めて演奏させていただきました。
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「群青」(合唱曲)
南相馬市立小高(おだか)中学校は、福島県浜通り、南相馬市南部の小高区に位置した。2011年3月11日の東日本大震災で、津波により街が甚大な被害を受け、生徒も4名死亡した(うち、「群青」1期目の平成24年度卒業生の同級生が2名)。
この曲を作った、平成24年度卒業生は震災当時、中学1年生をもうじき修了する頃であった。この頃の1年生は106名在学していた。
2011年3月11日は、3年生の卒業式が行われ、午前中で学校は放課となった。その数時間後の14時46分、東日本大震災が発生、津波によって小高の街は甚大な被害を受け、後に小高中の生徒が4名死亡した。そのうち1年生は2名死亡した。
また、福島第一原発事故によって、小高区が半径20km圏内の警戒区域に指定されたことから、小高中学校も小高区外に避難することとなった。その際、津波で犠牲となった2名を除く104名の1年生も、大半の97名は小高中学校を離れ、北は北海道、南は長崎県まで、全国に散り散りとなった。
4月22日に新学期を迎え、南相馬市北部の鹿島区にある、南相馬市立鹿島中学校を間借り(およそ半年後、同じく鹿島区にある南相馬市立鹿島小学校に仮設校舎が完成し移転)して再開した小高中学校も、2年生に進級した生徒はわずか6・7名にとどまった。
友だちが全国に散り散りとなり、原発事故で小高に戻れないことなど、様々な不安が生徒たちにのしかかり、わずか6・7名の2年生も、心を痛め、音楽の授業では歌が歌えなくなっていた。音楽の授業を受け持っていた音楽教諭の小田美樹も歌うことができなかった。皆が歌うことの難しさを感じていた。
ある日、歌が歌えなくなった生徒たちの授業を受け持っていた小田が、小高中を離れた生徒がどこにいるのか把握するため、大きな日本地図に生徒の顔写真を貼り付けていたら、生徒たちが口々に「遠いね」「どうやったら行けるの」「〇〇さんはどうしているだろう」「〇〇市はどんなところなんだろう」「でも、この地図の上の空はつながってるね」など、気持ちを露わにした。そこから、歌うことができなくなった2年生の生徒たちと小田による詩づくりが始まった。そして、2年生の生徒たちが3年生に進級する。
小高中学校では毎年、卒業式の時に卒業生が希望や未来を語った歌を合唱することが、毎年の慣例となっている。
津波で2名の同級生を亡くしたり、遠い疎開先から今もなお戻ってこない同級生などを思ったりする3年生が、思いを綴った日記や作文、他愛もないおしゃべりから、3年生の思いを地道に小田は書き留めていき、それをつなぎあわせて、「群青」の大筋の歌詞が出来上がった。
この詩に、小田が作曲して、平成24年度卒業生のための卒業式の歌「群青 - 平成24年度 小高中学校卒業生に捧ぐ」が完成した。2013年2月のことであった。「群青」という題名は、小高中学校の校歌に「群青」という言葉があることのほか、小高中の野球クラブの「小高群青クラブ」、小高中の文化祭の「群青祭」といった、小高中を象徴する言葉であることから、「群青」と名づけた。
生徒たち自ら作詞したこの曲を練習するにつれて、長い間歌が歌えなくなっていた3年生の生徒たちも、徐々に歌声を取り戻し、卒業式ではできるかどうか危惧されていた学年合唱で、「群青」を合唱することを成功した。
それ以降、この曲は小高中学校の在校生たちに代々受け継がれている。
(Wikipediaより)