日本海軍将校・吉川潔の生き様からわかる、語り継がれるべき大和魂|小名木善行

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@masai5337
@masai5337 Жыл бұрын
頼もしいです。
@hajimeyamada932
@hajimeyamada932 2 жыл бұрын
太平洋戦争と言わずに、大東亜戦争と言って頂いただけで胸熱です。
@日本人ちゃんねる
@日本人ちゃんねる 2 жыл бұрын
どうにかして日本国の為に自分にできることをしたいという熱い氣持ちが伝わってきました。 愛国心の大切さを改めて痛感しました。
@家高卓-k8z
@家高卓-k8z 2 жыл бұрын
私は初代護衛艦ゆうだちの乗組員として自衛隊勤務を初めました、その後第1術科学校にて普通科射撃過程を終了、射撃員として護衛艦ながつき護衛艦あまつかぜと乗り組み退官いたしました。駆逐艦夕立の活躍は書物等で拝読しておりました。この度吉川艦長の活躍を拝見し投稿させていただきました。
@土田耕作
@土田耕作 Жыл бұрын
靖国神社に祀られた、先人の皆様に、感謝申し上げます。皆様のご活躍が有っての今現在です。  本当にありがとうございます。
@アントニオバンデラス-g4d
@アントニオバンデラス-g4d 2 жыл бұрын
感無量🙇
@sentaku-neko
@sentaku-neko 2 жыл бұрын
ただただ必死に日本を守ってくださった日本軍人に感謝をしたい。敵国捕虜にたいしても慈悲の心を忘れず、人として接してくださった。 尊敬せずにはいられない。涙があふれ出てきます。
@central162
@central162 2 жыл бұрын
@洗濯ねこ 歴史を見るに江戸末期を外いて日本を攻めてきた国は見当たりません。「守ってくださった」という事ですがどこの国が日本を攻めてきたのですか?
@central162
@central162 2 жыл бұрын
@wmwmwmmw  明治時代でもいいです、欧米という事ですが英国と米国ですか?その両国がどういう形で日本の植民地化を企てたというのですか。(もし説明するのでしたら願わくばも少し丁寧な文調でお願いします)
@日本人ちゃんねる
@日本人ちゃんねる 2 жыл бұрын
日本を守ったというよりアジアを守った感じですね。 当時の西欧諸国は植民地の考え方が当たり前で機会があればアジアを植民地にしようとしていました。 日本も含まれています。 武力戦争だけが植民地化するための手法とは限りません。 表面的にはわからないと思いますが、日本は現在アメリカの属国のような状態になっています。 大東亜戦争の敗戦によってGHQの占領政策が70年続き現在に至ります。 ネットで調べればGHQの政策がどんなものか知ることができるので一度調べてみてください。 マスコミを信じる人には信じ難いことかもしれませんが、調べれば出てきます。
@central162
@central162 2 жыл бұрын
@@日本人ちゃんねる 「アジアを守る」は事実無根です。そもそも日本にはアジアを守る義務も権利もその余裕もありませんでした。更に「守る」はずの日本が韓国を併合し満州傀儡国を作ったのもおかしな話です。確かに欧米にアジア植民地化の意図があったというのは事実ですがそれも20世紀初頭位迄です。28年の「パリ不戦条約」で「領土保全」「相互不可侵」「内政不干渉」がうたわれ国際的認識になりました。批准したのに関わらず日本は満州の権益深化と領土拡大を目的に中国侵略を展開したのです。GHQの政策を嫌悪していますが、戦後日本の平和と経済発展は全てその政策(農地改革、財閥解体、普通選挙etc)の結果です。「経済・軍事同盟」と「属国」を混同してはいけません。
@ichininmae
@ichininmae 2 жыл бұрын
目の前が霞んできました。なんと当時の日本人の誇り高いことか!今の日本人を見てどう思われるか?恥ずかしくない生き方をしたいと思います。
@もふ王
@もふ王 2 жыл бұрын
涙が出ました。 どの軍人さん達も日本の国民を守るために、自身の精神を強く保ち、自身が怖かろうと奮い立たせて日本の為に戦ってくれた事に感謝しますし、そういう方達のお陰で今私たちが平和で生きてられてると思うと、感謝でしかないです。 大和魂をしっかり伝えて頂きありがとうございます。😊
@central162
@central162 2 жыл бұрын
@もふ王  日本を「守るため」という事ですが、日本を攻めてきた国の名前を知りたいです。
@日本人ちゃんねる
@日本人ちゃんねる 2 жыл бұрын
国というより国際金融資本家たちですね。 金儲けのために戦争を起こします。 金儲けのために病氣を作り出します。 次は食糧を使って金儲けをしようとしています。 今現在、水面化で侵攻されているという事実を知ってください。 ご自身で調べてください。
@和江福本
@和江福本 2 жыл бұрын
@@central162 知らないのですか。嘘でしょう。
@central162
@central162 2 жыл бұрын
@@和江福本 知らないから聞いているのです。これ迄、的を得た回答を聞いた事がありません。知っているのならぜひ教えて下さい。(編集) 「日本人ちゃんねる」さんの様なトンチンカンな事はお書きにならぬ様お願いします。
@central162
@central162 2 жыл бұрын
@@和江福本  やはり返答なし。
@寅吉-l7l
@寅吉-l7l 2 жыл бұрын
激しく賛同できる締めでした。失われた教育を取り戻さなければなりません。個々人の受け身ではない、学び取る姿勢、発信力の必要性を痛感する昨今であります。
@火本正義
@火本正義 2 жыл бұрын
有難うございました。海軍士官、特に艦長に人間として立派な人が多かったと聞きますが 今の軍人、自衛隊の人々、そして日本人もそうであって貰いたいものです。
@信爺-s7u
@信爺-s7u 2 жыл бұрын
@火本正義 海上自衛隊で立派であって欲しいのは、トップ・幕僚長だろ!日本帝国海軍は、連合艦隊司令長官、海軍省大臣、海軍軍令部総長のトップがみんな無能だったと言う事実を、知ってていってるの?
@7772018
@7772018 2 жыл бұрын
その精神を個々の日本人、私もその勇敢で美しい魂の生きざまを自分もしていきたいと思う。
@MH-wi4gq
@MH-wi4gq 2 жыл бұрын
@@信爺-s7u 様 彼らは決して無能ではなかったと思います。 ただし、無責任な人が多かったようです。 有能な無責任者だからこそ、大きな負の力を発揮してしまったのでしょう。
@やっちん最強
@やっちん最強 2 жыл бұрын
ここにも美しい日本人がいた!!
@nekocat3999
@nekocat3999 Жыл бұрын
怖さを認めるのは素敵です
@diesel803
@diesel803 2 жыл бұрын
良き話を聞かせて頂きました とても感銘受けした。 本当に見て良かったです。
@新方敏幸
@新方敏幸 2 жыл бұрын
日本海軍に欠けていた戦略は「連合国軍の補給線の破壊」、 分厚い装甲を持つ軍艦攻撃ではなく、速度も遅く脆弱な給油艦や補給艦・輸送船への攻撃、特に潜水艦の活用。 どんなに分厚い装甲を持った軍艦も燃料が無ければ戦にならない。 どんなに精強な軍隊も「食料・弾薬」が無ければ戦うことが出来ない。 日本の敗因は軍艦攻撃に集中し、それに失敗して艦艇を失った。 米海軍は国際法で禁じられた無制限潜水艦作戦を行い、主に商船を撃沈させた。
@kumasan6216
@kumasan6216 2 жыл бұрын
私が国防や日本人の生き様に目覚めたのは、小名木先生の、ねずさんのひとりごと時代でした。 パラオのペリリュー島での戦いを教えて頂き、涙が溢れました。 日本人て凄いな。日本人に生まれてよかったなと誇りを感じました。 グローバル・スタンダードなるものが強調されますが、ジャパニーズ・スタンダードでいいんじゃないか?とすら思えます。 今日のお話、吉川艦長の捕虜への対応然り、武士道精神ですよね?日本をかっこよく!(^o^)/
@Kukita_
@Kukita_ 2 жыл бұрын
当時の日本の戦力や資本で優位をとれない中で、国を守らないといけない状況。いかに組織を鼓舞・統率し、勝利を呼び込めるのか、日本人の魂のあり方、生き方の輝きの中にあるように感じています!!当時の戦争は、実弾交わう人殺しが本戦であるから拒否感を示す人もいるとは思いますが、今の戦いの本戦は日常の情報・経済・組織運営といった戦火の起きる前に決まる戦いだから、今こそ先人の国を守る魂を引き継いで、血の流れる前の戦いで勝てる強さをもてるといいなと思います!!
@yoyokitchen
@yoyokitchen 2 жыл бұрын
また1人勇気のある立派な日本人をご紹介していただき、ありがとうございます。
@user-nnnoi88
@user-nnnoi88 2 жыл бұрын
涙が出ました。 1日1日、しっかり生きようと思いました。
@山田正隆
@山田正隆 2 жыл бұрын
いい話ありがとうございます。
@川村充昌
@川村充昌 2 жыл бұрын
ラストコメント 正に、陸上自衛隊元自衛官の自分は、有り難い一言 敬礼 以上
@jasmine-rl1py
@jasmine-rl1py 2 жыл бұрын
本日もまた素晴らしい地上の星をご紹介いただきありがとうございます😭 志は死なずー色褪せることのない感動をいただきました。
@鷲平潔
@鷲平潔 2 жыл бұрын
いい男が活躍していた、かっこい!敬礼!
@kykyuii
@kykyuii 2 жыл бұрын
花は桜木 人は武士 時代は移ろおうとも、かくありたいものです。
@星野文昭-d6u
@星野文昭-d6u 2 жыл бұрын
私の大叔父になるのかな? 亡くなったじーさんの一番下の弟さんなんだが兵学校出ではあったが駆逐艦乗りで砲術長でしたが今だにどの船に乗っていたかは不明なんです私も調べましたが第三次ソロモン海戦みたいなんです夕立ではないのですが私の生きている間に見つけてあげたいです
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
吉川 潔ー1 (きっかわ きよし、1900年(明治33年)11月3日 - 1943年(昭和18年)11月25日)は、日本海軍の軍人[2]。戦死後、二階級特進して海軍少将[3][4]。広島県広島市段原町出身。海兵50期[2]。 来歴 海軍士官として 父は漢学者[5]。七男四女のうち、四男[2]。旧制広陵中学(現・広陵高等学校)を卒業後、海軍兵学校を受験するが身長と胸囲不足で不合格[5]。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げた[5]。翌1919年(大正8年)兵学校(海兵50期)に合格[5]。兵学校時代は成績も下の方で「寡黙の吉川」といわれるほど目立たなかった[5]。「量も大切だが最後を決するのは質と精神だ」を口癖としていたという[5]。 1922年(大正11年)6月1日、海軍兵学校を卒業し、同日附で少尉候補生[6][7]。出雲型装甲巡洋艦1番艦「出雲」乗組[7]。 1923年(大正12年)9月20日附で海軍少尉任官[6]、同日附で研究のため長門型戦艦1番艦「長門」乗組みを命じられる[8]。12月7日、海軍砲術学校普通科入学[9]。 翌年1924年(大正13年)4月、海軍砲術学校普通科を卒業すると同時に、海軍水雷学校入学[10]。7月4日、海軍水雷学校普通科学生教程を卒業[11]。同日附で通報艦「満州」に配属される[11]。 12月1日、吉川は「満州」から峯風型駆逐艦8番艦「汐風」へ転任[12]。 1925年(大正14年)12月1日附で海軍中尉任官[6][13]。同日附で第3号掃海艇乗組を命じられる[13]。 1927年(昭和2年)12月1日附で海軍大尉に昇進[6][14]。同日附で第十一号駆逐艦砲術長となる[14]。この後、吉川は終生駆逐艦と共に過ごす。翌年1928年(昭和3年)8月1日附で、日本海軍は第十一号駆逐艦を神風型駆逐艦6番艦「追風」と改名した[15]。 1929年(昭和4年)2月1日附で、桃型駆逐艦「樫」配属[16]。同年11月より、吉川は海軍水雷学校高等科に進んだ。 1930年(昭和5年)12月1日附で、吉川は江風型駆逐艦1番艦「江風」水雷長に補職[17]。 1931年(昭和6年)11月1日、江風水雷長から睦月型駆逐艦8番艦「長月」水雷長へ転任[18]。 1934年(昭和9年)11月15日、吉川(長月水雷長)は樅型駆逐艦「菫」駆逐艦長に補職[19]。 1935年(昭和10年)11月15日、吉川は海軍少佐に進級[20]。同日附で高雄型重巡洋艦3番艦「鳥海」水雷長を命じられる[20]。 1936年(昭和11年)12月1日、鳥海水雷長から神風型駆逐艦3番艦「春風」駆逐艦長へ転任[21]。後任の鳥海水雷長は広瀬弘少佐となる(後日、広瀬は駆逐艦大潮沈没時艦長、島風型島風初代艦長等を歴任)[21]。 1937年(昭和12年)11月15日、当時の弥生駆逐艦長折田常雄少佐が吹雪型駆逐艦12番艦「敷波」駆逐艦長へ転任(後日、折田は陽炎型駆逐艦13番艦「浜風」初代艦長。秋月型駆逐艦2番艦「照月」初代駆逐艦長。照月艦長として第三次ソロモン海戦に参加)[22]。折田の後任として、吉川は睦月型駆逐艦3番艦「弥生」駆逐艦長に任命される[22]。 吉川は翌年1938年(昭和13年)9月15日まで弥生艦長を務め、同日附で第24駆逐隊附となった[23]。10月5日、白露型駆逐艦8番艦「山風」駆逐艦長に補職[24]。 1939年(昭和14年)10月15日附で、当時の江風駆逐艦長横井稔中佐が朝潮型駆逐艦1番艦朝潮駆逐艦長に転じる[25]。この人事異動により、吉川(山風艦長)は白露型2隻(山風、江風)艦長兼務を命じられる[25]。 11月15日、峯風型駆逐艦7番艦羽風駆逐艦長豊島俊一少佐が「山風」駆逐艦長に任命され、吉川は江風駆逐艦長に専念することになった[26]。 1940年(昭和15年)11月15日附で、海軍中佐に進級[27]。同日附で朝潮型2番艦「大潮」駆逐艦長を命じられる[28]。吉川の大潮着任により、「大潮」と姉妹艦「夏雲」駆逐艦長を兼務していた塚本守太郎中佐は兼務を解かれた(吉川と塚本は海軍兵学校同期)[28]。吉川は40歳で太平洋戦争に臨む[29]。前述のように、多数の駆逐艦長を歴任。豪胆さ、偉ぶらない人柄、部下達に対する思いやりで信望を集めた[30]。
@Xリベリオン
@Xリベリオン 2 жыл бұрын
最後の「司馬遼太郎が」の下りは良かったです。「司馬史観」って何なんでしょうね。 先日、小名木先生に倣って、ペリリュー島守備隊隊長の中川隊長のお墓参りをしてきました。お墓参りというか、二礼二拍手一礼にてお祈り申し上げました。
@kimik4676
@kimik4676 2 жыл бұрын
しかし、昔の人は凄い。ただその一言です。
@岡本和之-e5h
@岡本和之-e5h 2 жыл бұрын
先生、今日も素晴らしい動画をありがとうございます😊 機会があれば、樋口季一郎さんの解説もお願いします。
@kaseisuke
@kaseisuke 2 жыл бұрын
とても素晴らしい動画でした。感動しました。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
吉川潔ー3 10月15日、重巡2隻(鳥海、衣笠)によるヘンダーソン基地艦砲射撃が実施されるのを横目に、第四水雷戦隊(秋月型駆逐艦1番艦「秋月」《四水戦司令官高間少将旗艦》、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、第27駆逐隊《時雨、白露、有明》)は輸送船6隻を護衛してガダルカナル島揚陸作戦を実施した[47]。だが飛行場を完全に破壊することができず、日の出以降の空襲により輸送船3隻を喪失し、揚陸した物資も炎上させられた[48]。吉川艦長が指揮する第2駆逐隊第2小隊(夕立、春雨)は米軍機の離着陸のタイミングを見計らって飛行場砲撃と沖合退避を効果的に繰り返しており、目撃していた石塚(当時村雨水雷長)は「吉川艦長の戦機をつかむことのうまさは特別だった。1小隊(村雨、五月雨)も真似てみたが、うまくいかなかった」と脱帽している[41][47]。 詳細は「由良 (軽巡洋艦)」を参照 吉川の決断力は救援活動でも発揮された。10月25日、南太平洋海戦の前哨戦として第四水雷戦隊(秋月《高間少将旗艦》、軽巡「由良」、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》)はガダルカナル島ルンガ泊地突入を目指したが、米軍機の波状攻撃をうけ「秋月」が中破、「由良」は炎上して航行不能となった。誘爆の危険性があって他艦が「由良」に近づけず艦載艇を派遣する中、「夕立」は唯一「由良」に接舷し、多数の由良乗組員を救助した[49]。乗組員を救助後、第2小隊(夕立、春雨)は「由良」を砲雷撃で処分した。 詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照 11月中旬、吉川率いる「夕立」は、第三次ソロモン海戦で活躍した[50]。11月12日夜半、第四水雷戦隊のうち第2駆逐隊第2小隊(夕立、春雨)は、ガダルカナル島飛行場砲撃を企図して出撃した挺身攻撃隊主力部隊(指揮官阿部弘毅第十一戦隊司令官《戦艦比叡、霧島》、第十戦隊《長良、天津風、雪風、暁、雷、電、照月》)の右前方に位置していた[50]。ルンガ岬沖に待ち伏せしていたダニエル・J・キャラハン少将とノーマン・スコット少将の米艦隊(重巡2、軽巡3、駆逐艦8)を距離6000mに発見すると第2小隊(夕立、春雨)はそのまま突撃し、米艦隊の対応の不味さも手伝ってこれを大混乱に陥れた[51]。吉川は正念場にくると「宜候(今の針路を直進せよ)」を主義としており、夕立艦橋において敵艦との距離を測りながらも沈黙したままだったという[52]。このあと「春雨」は米艦隊から離れるような行動をとったが、「夕立」は反転して混乱した米艦隊に再突入し、砲戦・魚雷戦により相当数の命中弾を与えた[53]。米艦隊の隊列の中に紛れ込んでからの吉川の号令は「砲撃はじめ、ドンドン撃て」だった[54]。ただし、闇夜かつ乱戦であったこともあり、正確な戦果は判然としない。結局、「夕立」は乱戦中に敵味方からの多数の弾丸を受け航行不能となる[51]。吉川も弾片で負傷した。「夕立」は敵味方識別灯を点灯したものの被弾により吹き飛ばされ、この『敵艦』に対し夕立砲術長が射撃を命じ、吉川艦長が是認する場面もあった[55][56]。のちに石塚(村雨水雷長)は『夕立の行動は常識外(非論理的)だったために戦果をあげ、常識的に行動した春雨は先頭艦(夕立)と戦果を失った。真似できるものではなく、下手に真似れば大失敗となる』と回想している[51]。 戦闘が一段落したあと、第四水雷戦隊旗艦「朝雲」(司令官高間完少将)は大破した「夕立」に接近し、艦を放棄して乗組員はカッターボートでガダルカナル島へ上陸するよう指示した[57][58]。「朝雲」が去ったあとも吉川は「夕立」を救おうと応急修理を実施、さらに艦内の帆布やハンモックを艦上部に張り廻らして帆走によりガダルカナル島へ漂着しようとした[59]。だが復旧の見込みはなく日の出後の空襲も予想されるため、吉川艦長以下夕立乗組員(生存者207名、戦死39名)は救援にきた姉妹艦「五月雨」に移乗した[56][60]。放棄された「夕立」は「五月雨」によって雷撃処分されたとされるが[61]、実際には沈んでおらず、最終的に米重巡洋艦「ポートランド」に撃沈された。第四水雷戦隊は戦闘詳報で「夕立」の行動を以下のように評価している[62]。 『夕立は緒戦に於て大胆沈着、よく大敵の側背に肉薄急襲し、夜戦部隊の真面目を発揮して大なる戦果を収むると共に、全軍の戦局に至大の影響を与へて、まず敵を大混乱に陥れ、且つ爾後最も勇敢に戦機を看破して、混乱に陥れる敵中を縦横無尽に奮戦せるは、当夜の大勝の端緒を作為せるものと云ふべく、駆逐艦長以下乗員は数次の戦闘に練磨せる精神力、術力を遺憾なく発揮せり。その功績は抜群なるものと認む』(原文は片仮名)[62][63] 戦死 同月末、吉川は横須賀に帰還。12月1日附で制式に夕立駆逐艦長の職務を解かれた[64]。 負傷もあり兵学校教官の内命を受けたがこれを辞退し、前線勤務を強く希望した[65]。その望みは叶えられ12月20日、平山敏夫少佐の後任として竣工間近だった夕雲型駆逐艦7番艦「大波」の艤装員長に補され[66]、29日には大波駆逐艦長となる[67]。 1943年(昭和18年)1月20日附で「大波」は第二水雷戦隊・第31駆逐隊に編入[68]。2月12日附で、第31駆逐隊司令として香川清登大佐が着任[69]。第31駆逐隊(大波、清波、長波、巻波)は再びソロモン海域に出撃して輸送と護衛にあたった。 同年11月24日、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将の指揮下、第31駆逐隊司令香川清登大佐ひきいる日本軍駆逐艦部隊5隻は、輸送隊(指揮官山代勝守大佐:天霧、夕霧、卯月)、警戒隊(指揮官香川大佐:大波《司令駆逐艦》、巻波)という編制でブカ島への輸送作戦を実施する。これを迎撃すべく米艦隊が出現。ニューアイルランド島南端でのセントジョージ岬沖海戦にて、アーレイ・バーク大佐指揮の米駆逐艦隊の先制攻撃を受け、駆逐艦3隻(大波、巻波、夕霧)は一方的に撃沈された[65]。「大波」の生存者は一人も無かった[65]。吉川の戦死は、日米の技術格差を象徴するものとなった[70]。 吉川は戦死後、駆逐艦長としては異例の二階級進級の栄誉を受け海軍少将に列せられた[71][注釈 1]。
@ttttttt3-s3n
@ttttttt3-s3n Жыл бұрын
いいね100回押したいお話でした...
@KT-id4ol
@KT-id4ol 2 жыл бұрын
我が国の伝統で有る大和魂を思い出させる有意義な動画です! そして日清銭から大東亜戦までに日本陸・海軍軍人が己を顧みず後世に恥じ無い戦いを」された事を今の我々が決して忘れられない事を!
@MH-wi4gq
@MH-wi4gq 2 жыл бұрын
吉川潔艦長にしろ、工藤俊作艦長にしろ、駆逐艦乗りの豪胆さには物凄いものがあったのでしょうが、加えて、どなたも高潔で清廉で人格者が多かったと聞きます。 駆逐艦の艦長さんはハンモックナンバーでは下位であっても、どなたも人並外れた人格者であったのでしょうね。
@狛次郎
@狛次郎 2 жыл бұрын
いつもありがとうございます、自分たちの知らない事が多いです、
@thoru4367
@thoru4367 2 жыл бұрын
I am from Russia and i like to watch content aboutJapanese history ありがとうございました😚
@momota-1953
@momota-1953 2 жыл бұрын
吉川艦長は日本で唯一2階級特進して少将になった人物です。吉川艦長座乗の「大波」は 沈没全員死亡した。日本は軍縮会議の結果艦船トン数を制限され駆逐艦の数を増加させた。
@荒井誠-h2p
@荒井誠-h2p Жыл бұрын
日本が朝鮮北部で世界で初めて作った原爆を天皇は秘密にせよ破棄せよといいました。 米が原爆使用に至り戦争は泥沼化するのを避け有条件で戦争終結を決断したので世界は独立し発展期を迎え平和が訪れました。 天皇のご決断に感謝申し上げます・ 返信
@black_highlighter_1881
@black_highlighter_1881 2 жыл бұрын
海軍さんは名を残した方もそうでない方も立派な方たちばかり
@三太郎茨城
@三太郎茨城 2 жыл бұрын
駆逐艦や潜水艦は艦首に菊の御門はいただけなかったんだよね。
@doorientpaz3498
@doorientpaz3498 2 жыл бұрын
...............素晴らしい、講義です。ありがとうございました。
@lemonlemon5084
@lemonlemon5084 2 жыл бұрын
日本の真の歴史について、日本人として学びたいです。 誇りある日本人の先祖について是非学びたいです。 しかし、こちらには沢山の動画がアップされ、どれからどのような順番で見ればわかりやすいのかわりません。 学び始めた者がわかりやすい様な、動画を拝見する順番を教えていただけますでしょうか。 何卒宜しくお願いいたします。
@kenichiokochi1233
@kenichiokochi1233 Жыл бұрын
私はもう60歳をすぎてしまいましたが、ようやくタフな労働により家計を支えることから解放され、思う存分、好きな事をやれる様になりました。そして始めたのが歴史の勉強でした。高校生の使う参考書を日本史(吉川弘文館:概論 日本歴史)、世界史と一冊ずつ買い求め、一貫性を保つものとして、常に身近に置く様にし、あとは自分が、今日なんの話題に興味を一番そそられるか?といった、気まぐれ気分にあわせ、(逆らわず)、そのトピックを几帳面に記録する様にし、ノートの2/3 を使って行きました。最初は、残した1/3くらいの空白ペイジがもったいなく思えたんですが、実は、日が変わるごとに、同じ頃の年代に関する新しい情報が入ってきたり、時代の外観を大まかに書き添えるなどしたりするために、とても便利なスペースであることがわかってきました。参考書にも、どんどん書き込みを加えてゆくことにより、歴史の流れがブチギレにならなくなる様工夫をこらし、必要なグラフも、スクリーンにノートをあてがって、トレースし、カラーのハイライターは常時4色くらい使って人名、地名、年代、成果(結果)などをカラフルに示す様にしました。一冊が終わったところで、スティッカーに注目する人名、時代を書き込んで貼り付けることにより、例えば豊臣秀吉のことがバラバラに記されていても、簡単に探し出せる様にする作業も試みました。大変便利だとわかりました。自分が今何に関心があり、どの時代のものであるかに関わらず書き溜めていったものが、この様に整理することで繋がってきました。例えば西欧の植民地政策に関して興味を持って調べ始めスペイン、ポルトガルの大航海時代から記録して1840年の英国と清国とのオピアム戦争のあたりまで来た時、興味はモンゴル帝国の滅亡がペストによって引き起こされオスマントルコが、地中海の商業圏を支配し、ベニスの商人などは弾き出されてスペイン、ポルトガルに大航海への投資を委ねた、などということがどんどん後になって今日に深い話題として出てくるのですが、そうした芋蔓式に興味を持った事柄が繋がってくるようにもなってくるんです。小名木さんの動画は非常に楽しく拝聴できて、素晴らしいと思っています。自分の対して関心のないトピックを、無理に繋げて学んで行こうとすると、帰って面白みが半減してしまうとおもいます。自分の経験だけで物申して、申し訳ありませんでした。少しでもお役に立てれば幸いです。
@fuku7565
@fuku7565 2 жыл бұрын
サムネのタイトルが狂犬から猛将に変わった🤫
@Mickey-h2p
@Mickey-h2p 2 жыл бұрын
司馬遼太郎氏の才能を利用したと言う見方が斬新でした。
@コノとコメ
@コノとコメ 2 жыл бұрын
旧海軍は、大阪・岸和田で、何をつくっていたのですか? ご存じならば、教えてください。
@isaoyoshimi2457
@isaoyoshimi2457 2 жыл бұрын
昔の人の素晴らしさを語った後に現在の政治家の堕落振りを批判して欲しいです。
@L山猫
@L山猫 2 жыл бұрын
日本万歳!
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
吉川元春ー2 最期 天正10年(1582年)末、家督を嫡男の元長に譲って隠居した。これは、秀吉に仕えることを嫌ってのことであるとされている。そして、吉川氏一族の石氏の治めていた地を譲り受け、隠居館の建設を開始した。この館は後に「吉川元春館」と呼ばれたが、元春の存命中に完成することはなかった。 その後、毛利氏は秀吉の天下取りに協力し、天正13年(1585年)に隆景は積極的に秀吉の四国征伐に参加したが、吉川軍は元長が総大将として出陣するにとどまり、元春は出陣しなかった。 天正14年(1586年)、天下人への道を突き進む豊臣秀吉の強い要請を受け、弟の隆景、甥の輝元らの説得により、隠居の身でありながら九州平定に参加した。しかしこの頃、元春は化膿性炎症(癌とも)に身体を蝕まれていた。 そのため、同年11月15日、出征先の豊前小倉城二の丸で死去した。享年57。 逸話 元春の嫁取り 元春は熊谷信直の娘(新庄局)を正室に娶り、生涯側室を置かず4男2女の子宝に恵まれた。 この正室の新庄局は不美人であったという逸話がある。宣阿の『陰徳太平記』巻十六「元春娶熊谷信直之女事」によると、児玉就忠が縁談を薦めた際に不美人と評判だった熊谷信直の娘を元春は自ら望み、驚いた就忠が確認すると、「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし元春が娶れば信直は喜び、元春のために命がけで尽くすだろう」と話したとある。この嫁取りは勇猛で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるための政略結婚であったと言われているが、その一方で自らを女色に溺れさせないように戒める意味もあったとされている。しかし、そのようなこととは無関係と思えるほどに夫婦仲は円満で、元春とその娘との間には吉川元長と毛利元氏、吉川広家他が生まれている。その吉川広家を度々諌めた際は、夫婦連名で書状を送るなど、新庄局は吉川家中では良妻賢母であったようである。 ただ、武田光和に嫁いだ信直の妹は絶世の美人ということであり[注釈 2]、叔母と姪で容色がそこまで違うのかという疑問もあり、本当に不器量であったかどうかは不明である。吉川広家が存命中に成立した可能性がある『安西軍策』には元春夫人(熊谷氏)の器量が悪かったとの記述はない。しかし香川正矩の『陰徳記』に「器量が悪い」との記述が現われ、『陰徳太平記』に継承されている。一説によると疱瘡を病んだせいで顔が醜くなり、信直はこれを理由に婚約を辞退しようとしたが、元春の側がそのような理由で約束を違えるのを潔しとせず、結婚したとも言う。 なお、あえて不美人を娶った逸話としては「諸葛孔明の嫁選び」がある。史料に容貌の記載が無く後年の作品で不細工とされたのは、龐統の例がある。病による容貌悪化を承知で娶った例としては、明智光秀や高橋紹運にも同様の逸話がある。以上のように歴史上において類似の逸話が多く、実情については不明である。 吉川本太平記 『太平記』は南北朝期の争乱を描いた軍記物語で、戦国時代の武人にも広く愛読された。 尼子氏討伐の陣中で元春は『太平記』40巻を書写し、これは現在に『吉川本』として伝わっている。吉川本太平記は元春自身が書写したもので、現在は財団法人吉川報效会の所有となっており、岩国市の吉川史料館が保管している。太平記本文はカタカナ交じりで、古い形式を良く伝えている。 奥書の朱筆によれば、吉川元春が第1冊を永禄6年(1563年)12月に筆を下し、その後各巻の書写を行って、永禄8年(1565年)7月に第39冊の書写を完成したとしている。別に自筆の太平記目録1冊もある。 太平記には多少の異本の存在が認められ、そのうち最も原作に近いと認められていたのは神田太平記であったが、神田本には14巻の欠失があった。吉川本は神田本に近い内容を有し、しかもほぼ全巻を完備していることから、古典文学研究上きわめて貴重な資料とされる。昭和34年(1959年)12月18日、国の重要文化財(書蹟)に指定された。 居館跡の調査 吉川元春館跡は居城・日野山城西南の麓に所在し、志路原川の河岸段丘上の緩斜面に築造されていた。川が堀の役割を果たしており、西側の山に菩提寺の海応寺跡がある。 これまで、石垣、土塁、掘立柱建物を中心とする屋敷、庭園を確認している。屋敷からは建物のほかトイレ遺構2基が検出されている。また、大溝からは金隠しと「蝿打たんが為これを造る者也」と墨書された木の札、遺構外からは「こほりさたう」と墨書され氷砂糖の容器と考えられる円形の木の蓋、「かかいさまへ(おかあ様へ)」と書かれていることから元春の妻に宛てられたであろうと考えられる木製の荷札などが出土している。 昭和61年(1986年)8月28日に吉川氏居館跡として小倉山城、駿河丸城、日野山城とともに国の史跡に指定された。屋敷や庭園は一部復元がなされている。
@sayaandmasa
@sayaandmasa 2 жыл бұрын
最後は相手が悪かった。後の海軍大将だからな。
@saym6884
@saym6884 2 жыл бұрын
いつも拝見しております。たいへんいいお話を毎回ありがとうございます。 どうも昭和の軍人は映画や小説で悪く書かれることばかりですね。まるで時代劇に出てくる代官とか大名が辻斬りと賄賂にまみれて、○○問屋のような商人は悪いことばかりしている人間ばかりのように知らず知らずのうちに洗脳されてきているように。 これからも是非昭和の軍人さんの誇るべき「事実」をご紹介いただけるとありがたいです。私が小学生のころ、「だいこんの花」というテレビドラマがあり、森繁久彌さんが元駆逐艦長の役、竹脇無我さんがその息子というキャストでしたがそのころはまだ日本が「まとも」だったような気がするのは私だけでしょうか?
@ねこやまじょーじ
@ねこやまじょーじ 2 жыл бұрын
何人も素晴らしい人いたのに、教科書にも載らず、映画やドラマにもならず、まだGHQの鎖に縛られてるのかと情けなくなります。
@cma46210
@cma46210 2 жыл бұрын
素晴らしい人から先に消耗するのが戦争だもんな 寮歌を教えてくれた二枚目の学生さんも近所の学生さんも帰ってこなかった、、、俺のお袋様がポツンと言ったよ。  そのくせ自分は短剣下げた海軍士官と結婚した 女は分からん
@ta6548
@ta6548 2 жыл бұрын
敵兵救助と言えば工藤俊作 雷艦長が有名ですが、むしろこの姿勢が普通だったんですよね。(この工藤艦長の行動を「レアケース」とコメントしたヤツがいて怒りを覚えたものです。) しかし残念ながら、今、戦後の間違った教育・マスコミによる吹聴のせいで日本人の国家観・歴史観・そして国防についての考え方はこの間違った方向で完成の域に達しつつある。 KZbin上でも、エンタメ系の動画では、大日本帝国を得体の知れない時代と見ていたり、うさぎの島の毒ガス施設を人道外れた旧日本軍の恥ずべき軍事施設、と認識していたりします。 私やあなたのように、(個々に批判することはあっても)こういった情報に注意を払っている人達は別ですが、圧倒的大多数の日本人は間違った国家観・歴史観を信じているのです。 「それは違うよ」程度のことは言いましょうよ。
@sj30ending
@sj30ending 2 жыл бұрын
生き様?この様はザマない、なんだそのザマは!の様です。
@あっきゃん-淀屋橋は夜の七時
@あっきゃん-淀屋橋は夜の七時 2 жыл бұрын
駆逐艦長が正解だよ
@w3580au
@w3580au 2 жыл бұрын
元巨人二岡とかの大先輩かよ
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
熊野水軍 (くまのすいぐん)は、紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とした水軍。熊野海賊とも。瀬戸内海の制海権を握り、平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍した事で知られる。 歴史 豊富な船材と良港に恵まれながらも、耕作地に乏しい熊野には海を舞台に活躍する水軍が早くから発達した。紀淡海峡など四国と紀伊半島の間に出没した南海海賊の多くは熊野の浦々を拠点とする海の領主で、彼らを熊野別当が統括していた。熊野別当には源氏とつながりを持つ新宮別当家と、平氏とつながりをもつ田辺別当家という二つの有力な家があり、源平双方と関わっていた。乱の最終決戦である壇ノ浦の戦いでは平氏方であった湛増が源氏方に付き、源氏を勝利に導いた。将のひとりに熊野の藤白鈴木氏があり、鈴木重家・重善は源平合戦で当水軍を率い源氏に貢献した。重家はその後も源義経に従って衣川で義経とともに討死した。 南北朝時代には北朝の幕府方についたり、南朝方についたり状況に応じて活動した[1]。南北朝時代の記録では、1347年(正平2年)に南朝方についた水軍衆が薩摩国で幕府方についた城を攻撃している[1]。一方で水軍衆の中には足利幕府から瀬戸内海で人や物を運ぶ権利を認められた者もいた[1]。 戦国時代には堀内氏が統治していた。 出典 ^ a b c “南北朝の動乱と紀伊国”. 和歌山県教育センター学びの丘. 2021年9月21日閲覧。 参考文献 阪本敏行、2011、「熊野水軍 ―中世前期を中心にして―」、谷川健一・三石学(編)『海の熊野』、森話社 ISBN 978-4-86405-025-8 pp. 119-130 高橋修(編)、2009、「熊野水軍のさと ―紀州安宅氏・小山氏の遺産―」、清文堂出版 ISBN 978-4-7924-0661-5 関連項目 平家物語 闘雞神社
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
吉川潔ー2 太平洋戦争 1942年(昭和17年)2月19日、バリ島沖海戦で吉川は最初の戦功を挙げた。ロンボック海峡を哨戒中に巡洋艦2、駆逐艦3からなるABDA艦隊(連合軍)と交戦し、第8駆逐隊司令駆逐艦(駆逐隊司令阿部俊雄大佐)の「大潮」は、僚艦3隻(朝潮、満潮、荒潮)と共同でオランダ駆逐艦「ビートハイン」を撃沈した他、巡洋艦3隻中破、駆逐艦3隻小破の戦果を挙げた。宇垣纏連合艦隊参謀長は『バンダ海峡における第八驅逐隊の海戦振りは誠に見事なり。蘭巡洋艦二、蘭米驅逐艦三撃沈其の他二に大損害を與へたり。之をバンダ海峡夜戦と銘打つて世に問ふべきなり。一驅逐隊を以て誠に立派なる夜戦なり。司令は阿部弘毅少将の弟なりと云ふ』と第8駆逐隊を賞賛した[31][32]。捕虜収容所でオランダ水兵の捕虜処刑話が出たときは、大潮乗組員をひきいて慰問に訪れたという話が伝えられる[33]。 後日、山本五十六連合艦隊司令長官はバリ島沖海戦における第8駆逐隊の活躍に感状を与えた[34]。 同年5月27日、吉川は白露型駆逐艦4番艦「夕立」駆逐艦長に着任した[35][36]。当時の「夕立」は第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦「由良」)の麾下で第2駆逐隊(駆逐隊司令橘正雄大佐。第1小隊《村雨、五月雨》、第2小隊《夕立、春雨》)を編制していた。 ミッドウェー海戦後の6月20日、西村少将は第四水雷戦隊司令官の職務を解かれる(6月25日附で第七戦隊司令官)[37][38]。後任の第四水雷戦隊司令官には金剛型戦艦3番艦榛名艦長の高間完少将が任命された[37]。 ガダルカナル島の戦いがはじまると、「夕立」は第2駆逐隊僚艦に先駆けて駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に参加した。 同年9月4日、ガダルカナル島に味方陸兵の揚陸任務を遂行した後、夜明けまで行動時間があると判断した吉川は、夕立以下駆逐艦3隻(夕立、初雪、叢雲)を率いてルンガ泊地に進入、飛行場砲撃を敢行した[39]。さらに潜水艦による奇襲砲撃と勘違いして迎撃にきた駆逐艦改造のマンリー級高速輸送艦「グレゴリー」と「リトル」と交戦した(夕立側は敷設巡洋艦、駆逐艦と判断)[40][41]。グレゴリーとリトルは多勢に無勢もあり、戦闘開始から20分後の大火災が発生し、グレゴリーが01時23分、リトルその2時間後には沈没した。[42] リトルの生存者の証言によれば、火災に負けて海に飛び込んだ人間は吉川艦隊の一隻の日本艦から執拗に探照灯で照射後に銃撃され[43]、あたりは「nightmare picture(=悪夢の絵・地獄絵図)」とかした。[44] 米軍の記録によれば吉川艦隊は2時過ぎに高速で北西方向へ逃走した。この銃撃事件で生き残った米艦の生存者は十数名で、米太平洋艦隊司令長官がコメントを出す事態にまで発展した。木俣滋郎の著作では、2隻は大破しながら離脱中に沈没(リトル戦死者22名・負傷44名、グレゴリー戦死者11名・負傷26名)[45]。銃撃については言及していない。 「夕立」の報告を受けた宇垣纏連合艦隊参謀長は陣中日記戦藻録で『昨夜驅逐艦夕立及二艦陸兵輸送に成功の歸途飛行場を砲撃(相當時間燃焼)中敵二艦を発見四十餘分に亘り砲撃戦の應砲少く之を撃沈せり。一艦は英敷設艦アベンチャ型にして後部上甲板に大爆發を誘起せり。夕立驅逐艦長は中佐にして彼の蘭印攻撃に於ける八驅逐隊大潮艦長として偉勲を奏せる士なるが今回又見事なる成果を収む。曩の二十四驅逐隊司令に比し霄壌の差あり。矢張り攻撃精神旺盛なるものよく勝を収む』と、吉川艦長を絶賛している[41][46]。
@白い鷹-j6c
@白い鷹-j6c 2 жыл бұрын
今の政財館の人々に このような人はどこにいるんだろうカ?もしかして全員日本人じゃ無いかもね?
@0から叩き上げ英会話
@0から叩き上げ英会話 2 жыл бұрын
なかむらていじさんって、あの中村悌次さん?戦後海上幕僚長になった人ですね。うむむ。
@taichitezuka3501
@taichitezuka3501 2 жыл бұрын
森元総理が英国ではラグビーをやっていない人は将校にはなれないと発言されていたのですが一人一人体格個性がありそれを最大限に生かしてチームの力を強くする。試合が終わればノーサイド 負けてふて腐れたり勝ってはしゃぐような恥ずかしい事 足を引っかけた見たいなズルが出来るスポーツとは一線をかくしているのに吉川潔少将のお話とかぶりました。2008年にユニホームの規定変更で襟を付けなくても良い、付けるなら3.5cm以上で『襟を正す』がラグビー界で死語になりました。Tシャツで何でもok 『襟を正す』の意味を消されるのを恐れています。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
村上水軍の解体 来島村上氏は、早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏(その後、嗣子が無く断絶)、因島村上氏は毛利家の家臣となった。1588年(天正16年)に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。 因島村上氏は、そのまま毛利家の家臣となり、江戸時代には長州藩の船手組となって、周防国三田尻を根拠地とした。能島村上氏は毛利家から屋代島(周防大島)を与えられて臣従し、江戸時代には因島村上氏とともに長州藩船手組となった。来島村上氏は、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した結果、江戸幕府によって豊後国の内陸部にある玖珠郡に転封され(森藩)、一部の飛地藩領や海路による参勤交代を除いて、海から遠ざけられた。 その他 2015年(平成27年)3月13日、村上水軍の村上武吉が1581年(天正9年)に雑賀衆の向井弾右衛門尉に発行した海上通行証「過所船旗(かしょせんき)天正九年三月廿八日」が重要文化財に指定された[6][7][8][9]。なお通行証に書かれた『上』という文字は『村上』の『上』ではなく、「上(たてまつる)」と読む動詞であり、神への捧げ物という語義が含意されている[10]。 かつて本拠地であった能島を見渡せる大島 (愛媛県今治市)海岸部には今治市村上海賊ミュージアム(旧称 村上水軍博物館)[11] が開設されている。 広島県と愛媛県には村上水軍の末裔が多く存在し、一部地域では『村上』姓ばかりが居住している。サッカー選手の村上佑介[12]、芸能人でも村上信五、村上ショージ、村上文香などが村上水軍の末裔だという。しかし、村上水軍は3つの軍に分かれており、さらに陸上で活躍する軍に比べると戦い以外の理由(水害、事故等)で死亡する事が多く、武家には珍しく、姓が途絶える事を危惧し島の住民にも「村上」を名乗らせた。また、戦いに負けた船に乗っていた女・子供は殺害せず、妻や養子に迎えていた。実際、村上武吉は「村上海賊の娘」で有名な実の娘と言われている主人公・景以外にも養女がいた。そのため、実際には村上水軍のトップや参謀などの血の繋がりがあるかは資料も少ないため不明である。 船の進行方向を決める号令(面舵、取舵)は村上水軍の航海術の伝承を受け継いでいる[13]。
@tanakaan-v7e
@tanakaan-v7e 2 жыл бұрын
現、日本外相を魚雷艇に乗せたら、失禁して気絶しただろうな!!
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
九鬼水軍 (くきすいぐん)は、戦国時代の水軍。志摩国を本拠とし、九鬼氏に率いられた。強力な水軍であった毛利水軍を第二次木津川口の戦いで破り、織田信長方の水軍として近畿圏の制海権を奪取した[1]。志摩水軍(しますいぐん)[2] とも称する。九鬼嘉隆は鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)を建造した。 九鬼氏 九鬼嘉隆が造船した日本丸を中心に九鬼水軍の陣容を描いている 詳細は「九鬼氏」を参照 九鬼氏の祖は、熊野別当を務め、熊野水軍を率いた湛増にさかのぼるという説がある[3]。紀伊国牟婁郡九木浦(現在の三重県尾鷲市九鬼町)を根拠地とし、鎌倉時代には既に志摩国まで勢力を拡大していた[4]。南北朝時代に志摩国の波切へ進出して、付近の豪族と戦い、滅亡させた[5]。当代の九鬼隆良は波切の地頭であった川面氏の娘と結婚し、以来波切の地に留まることとなった[3]。この頃、越賀氏や和田氏らとともに海上交通を支配するようになった[6]。とは言え、当時の九鬼氏は地元領主らの連合である「嶋衆」(しましゅう)の一員に過ぎず、とりわけ勢力が強かったわけではなかった[7]。当時の志摩国では、地頭13人衆と呼ばれる13人の土豪たちが互いに勢力を競っていた。九鬼一族もその中の1つで波切城を設置していた[8]。九鬼嘉隆は戦国の国盗り物語を絵に描いたように、次々に隣の豪族を攻め滅ぼして、自分の配下にした。 九鬼嘉隆は最初伊勢国の北畠氏に属していたが、後に織田信長に仕えて、長島一向一揆攻めには九鬼水軍を率いて加わり、手柄を立て志摩国の支配を認められ、国主に任命された。その後の石山本願寺攻めでは、大砲をのせた鉄張りの船を製造して、毛利軍を打ち破った[9]。この時堺港で鉄張り船を見た南蛮人は大変驚いた。九鬼水軍は小田原城の北条氏攻めと豊臣秀吉の朝鮮出兵の時も活躍した。朝鮮出兵の時は伊勢国大湊で製造した日本丸と云う巨大船団を率いて九鬼水軍の長として戦った。日本の船団の中心となった日本丸は長さ33メートル・漕ぎ手100人だった。日本丸は豊臣秀吉が名づけた。 九鬼嘉隆は志摩国3万石の大名として鳥羽城を築城した。鳥羽城は海に向かって大手門を開いて建造されたため「浮き城」と呼ばれ、志摩国海賊(九鬼水軍)に似合った城だったと古文書で記述されている。関ヶ原の戦いでは父の九鬼嘉隆(西軍)と子の九鬼守隆(東軍)が東西に分かれて戦い、西軍が負けたため答志島で自害した[10]。 歴史 志摩国には静かな入江と入江を守るかのように突き出た岬がありごく自然に塞の形が形成された。九鬼嘉隆は天文11年(1542年)生まれ[11]。九鬼嘉隆18歳の時に、現在の鳥羽市岩倉町にあった城の田城の塞が答志軍の水軍に攻撃された。嘉隆は加勢に駆けつけた。長期戦のため長兄の九鬼浄隆が病に倒れて、その子の九鬼澄隆はまだ8歳だったので、新しい九鬼一族の棟梁に嘉隆が就任した。九鬼嘉隆の守りで田城は死守した[12]。5年後今度は英虞水軍によって九鬼水軍を2つに分割させる戦法で不意を襲われて九鬼一族はばらばらになった。嘉隆は、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長に対する尊敬の念から志摩から三河へ船で向かった[13]。永禄11年(1569年)に織田信長の大淀城攻めの際には織田軍の水軍の将となる。2年後の織田家の大河内城の攻略作戦の折には、九鬼水軍は伊勢の海岸をすべて封鎖して、伊勢湾からの援軍を寄せ付けなかった[14]。この作戦には新たに織田信長の味方についた志摩国の水軍も加勢して、志摩水軍は全部九鬼水軍の配下となったが、志摩水軍の反発があり、志摩の他の水軍と九鬼水軍が交戦した。信長から学んだ戦術と織田家の鉄砲戦術で勝利する自信があった。九鬼水軍は船の上からの鉄砲一斉射撃の戦法で田城砦をひとたまりもなく陥落させた[15]。志摩の水軍は降伏して、九鬼水軍は小浜・泊浦・安楽島を攻略して信長の援助で3年がかりで越賀・和具を攻略して志摩の海を平定した。この活躍により九鬼嘉隆は信長から信頼されて、長島一向一揆との戦いで伊勢湾からの海上攻略作戦に参加した。 嘉隆が建造した大型船の大きさは『多聞院日記』の天正6年(1578年)7月20日条に「横へ七間、堅へ十二、三間もこれ在り」とあることから、長さ十二、三間、幅七間(一間は約1.8メートル)であったと考えられているが、これでは幅に比べて長さが短かすぎる[16]。これに対して、『信長公記』の伝本のうち尊経閣文庫所蔵の一本(外題『安土日記』、江戸時代の写本)では、九鬼嘉隆が建造した六艘について、巻十一に「長さ十八間、横六間」と記載されていることから[17]、長さ十二、三間、幅七間という寸法は、長さ十八間、幅六間に訂正する必要があるのではないかと指摘されている[18]。 伊勢国における関ヶ原の戦いの最大の前哨戦である安濃津城の戦いでは、嘉隆は西軍方の将として海上を封鎖し、東軍方の援軍を寄せ付けず、安濃津城陥落に寄与している[19]。また隠居の身ながら紀伊国新宮城主の堀内氏善の援軍を得て、東軍方に付いた息子・守隆が留守にしていた鳥羽城を奪取した[20]。しかし関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、嘉隆は答志島へ逃れ、家臣の豊田五郎右衛門に勧められるまま、慶長5年10月12日(グレゴリオ暦:1600年11月17日)に自害した[21]。 嘉隆亡き後、守隆は水軍を率いて大坂の陣を戦い、江戸城の築城に当たっては木材や石材を海上輸送して幕府に貢献した[22]。しかし守隆没後家督争いが起き、九鬼氏は二分された上に内陸へ転封となり[23]、水軍としての歴史は終わりを迎えた。
@jimmy-qu7tj
@jimmy-qu7tj 2 жыл бұрын
狂犬は失礼だなぁ^^; 部下の水雷長は後に海自の幕僚長になるのに^^;
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
村上水軍 (むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海[1] で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれた。 彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されている。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は輸送、航行船の破壊・略奪や信書の開封・破棄等を通じた同盟関係の分断、それらを行わずに安全を保障する代わりに、芸予諸島の海峡を関所(札浦)に見立てた通航料の徴収である。平時は漁業にも従事した[2]。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている[3]。代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。 なお、2016年(平成28年)4月25日、日本遺産 第二期の19箇所の一つとして「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」として認定された。村上水軍が活躍した今治市本土と尾道市本土と芸予諸島に42項目の遺産対象がある[4]。 起源 これら三つの村上家の起源ははっきりしないが、もともとは一つの家であったという。その起源として最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。平安時代末期に活躍した村上為国の弟・村上定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の永暦元年(1160年)に越智大島[5] に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。 越智大島を始め伊予国(現在の愛媛県)各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの神社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。 また能島村上氏の系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としている。因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。また信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男源頼清が村上天皇の皇子為平親王の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとする、よく似た説が伝わっている。その他に、伊予越智氏の庶流との説もある。 この他、村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる城跡や舟隠し跡などが残されている。 村上水軍の活動 文献史料上、最も古い記録は南北朝時代である。1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていた。南北朝時代の村上水軍は、因島・弓削島を中心に、芸予諸島近辺の制海権を握っており、海上に関所を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行ったりしていた。 能島村上氏は能島城(能島)、因島村上氏は 長崎城 から 余崎城、その後 青木城 へと移り(長崎城と青木城は因島、余崎城は向島)、来島村上氏は来島城(来島)を本拠として活動した。 戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従した。来島村上氏は毛利氏の支援する河野氏に臣従し、村上通康は越智姓を名乗ることを許された。能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、1555年(弘治元年)の厳島の戦い、1561年(永禄4年)の豊前簑島合戦、1567年(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵、1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られる。しかし毛利氏と敵対する勢力に協力的な行動をとったために毛利氏から攻撃された時期もあった。 ただし、村上水軍の支配が実質的に及んだのは、斎灘や燧灘西部など芸予諸島近辺に限られ、瀬戸内海一円を支配した訳ではない。例えば瀬戸内海東部には塩飽諸島の塩飽衆、真鍋島の真鍋衆、日生諸島の日生衆が点在しており、大阪湾への遠征の際は、彼らに通行料を支払い安全を保証してもらっていたに過ぎず、塩飽衆などとの間に従属関係は存在しなかった。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
河野水軍ー2 河野氏遺臣の再興のための戦い 慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いに呼応して、安芸の毛利、村上勢(村上掃部頭元吉(村上武吉の長子)軍団)と、四国に残留した平岡勢が協同して、慶長5年8月28日に加藤嘉明の居城正木城に軍勢およそ2000余騎で攻め寄せるが、守将佃十成の計略にはまり、上陸地点である三津で散陣していたところに夜襲を受け、火を掛けられ混乱し激戦の末に少数の加藤勢に撃破された(三津浜夜襲)。翌日にも体制を立て直した残兵が伊予国内を荒らすが、久米付近で佃十成と遭遇し合戦の上撃退され退却を繰り返す。荏原城など各地で河野氏旧臣が呼応して蜂起し篭城するが、関ヶ原の戦いはすでに東軍勝利で終わったため、毛利勢は伊予国から退散。一揆勢も完全に鎮圧された。 「河野」の由来 越智玉興(伊予橘氏の祖)と越智玉澄の兄弟が699年(文武3年)に都落ちする際、瀬戸内海の備中沖で飲料水が無くなり、玉興が弓を海中に差し込み潮を掻き分けた所、真水が湧いてきて渇を癒す事ができた。これが水島の地名の由来となり、この故事に鑑みこの水の源は越智氏の領地である伊予国高縄山から流れてきたものであるとし、「この水の可なること、予が里よりす」と玉興が言った事から「水」「可」「予」「里」の4字を組み合わせて「河野」とし、居館の地域を「河野郷」と称し、養子となった玉澄が「河野」を苗字とした。 当時の「河野」の読み方 現代では一般的に、河野は「こうの」と読まれていることも多い。しかし、『平家物語』にも記されているように、往年、河野氏が台頭していた当時においては、河野氏はそのまま「かわの」と呼ばれていたことが窺える。 古くは延慶年間(1308~1311年)に書写が成されて、平家物語の諸本中で現状、最古の物とされる所謂、延慶本の中に於いて、河野氏を「川野」などと記述している事からも、その事実が読み取れる。 加えて、当時を知る竹崎季長が描かせた、鎌倉時代の絵詞にも、河野通有を「かはのゝ六らうみちあり」と記している他、 河野通忠を「かハのゝ八郎」、河野通信を「みちのぶ乃かはのゝ四郎」と記している。 また、江戸時代初期の元和年間(1615~1624年)中に出版された流布本などにも河野は、やはり「かはの」と記述されている。 この事などから、少なくとも延慶年間以降、或いは河野宗家が滅亡した戦国期以降、近世において次第に、「かはの(かわの)」が「かうの(こうの)」へと転訛して行き、河野氏の影響力の低下などにより、残った一部の苗裔の伝を除き、正統な呼称が世間から経年につれて忘れ去られ、現在に多く見られるような、「こうの」の読み方が一般的に広まっていったとも考えられる。 (名称などが転訛した例の一部としては、「神戸(かむべ、かんべ、等)」が、「こうべ」へと読みが変化していったことや、また単なる横訛りに留まらず、長野県に関する「筑摩(つかま)」の呼び方が、明治時代から「ちくま」へと変化、一般化したことなどが挙げられる。) 或いは、明治期における四民平等に際し、三民の姓の普及などによって、単に「かわの」を「こうの」と誤読した(または転訛した)ものが多く広まり、一般化したという様な推測の余地も生じる得るが、「かわの」から「こうの」読みへの変化は、いつ頃から、どのような経緯などによるものかは現在明らかになっていない。 何れにしても、明治時代から士分等に限らず、誰しもが姓を冠するようになってより、「河野(かわの)」を「こうの」と呼ぶ風潮に拍車が掛かったのであろうということを鑑みることができる。 なお、現在でも九州では、かつて豊後国、日向国などに移住などをした河野氏一族のために河野(かわの)姓が多く、その後裔が(また、後裔に限らず)、当時の河野の読みの古態を今に伝えている("伊予国以外の河野氏"の項目も参照)。 伊予国以外の河野氏 宮崎県と大分県奥豊後地方に河野(かわの)姓が多い。とくに宮崎県の河野氏は『都城市史』には南北朝時代に伊予より日向に上陸したとの記述がある。南北朝時代以前の絵詞等では河野氏は「かわの」と記されており、南北朝時代以降、時代が下るにつれ「こうの」という読み方に変化していったと考えられている。 (これに就いて、現在、かつての本拠であった愛媛の地に於てですら「かうの(こうの)」読みが一般的となってしまっているが、河野氏は戦国時代に敗れ、本拠であった伊予の地から立ち退かされる形となったのであり、それ以降、伊予では度々、他家の入封が行われ、結果、主に伊予の地域は松平家の領地となり以来、明治維新まで松山藩等の治める地となったのである。その更に後世である今の愛媛に、敗れ去って行った曾ての領主一族の正確な呼称が人伝えに残っていないのも当然であろうと考えられ得る。 加えて、九州の一部に「かわの」読みが多く残っていることについて、伊予に程近く、度々、河野一族の者が多く移住し、その寄る辺となっていた日向国(宮崎県)の沿岸地域、延いては九州地方の血族、その苗裔が河野宗家が存続していた当時からの正確な呼称であった、「かはの(かわの)」の読みを今に残していることは実情によく適っていると言える。) 『小林市史』には河野通貫の代の貞治5年(1366年)6月宮崎郡下着、その後数代を経て河野伊予守正弘の代に日向国三俣院高城の有水村に居住して長峯門を領し、長峯土佐守と称した。更にその後数代経て長峯玄蕃允通貴の代に真幸院三之山東方村赤木門を知行したので孫の通信の代に赤木氏を称するようになったとある。また『宮崎県史 史料編』では、室町時代の享禄4年真幸院の在地領主として河野四郎通安の名前を見ることができる。いずれも通字として河野氏の通字「通」を継承しており、中世よりつながりがあると伝わる。 『河野・川野一族』によれば、河野通信の子得能通俊の子孫が日向に移住、伊東氏に属した。児湯郡に河野姓が多いのは伊東氏に属し、土着したためとある。 戦国時代に武田信玄によって武田水軍が編成された際に、河野氏の一部が武田氏の傘下に入り、水軍の技術を伝えている。その子孫は山梨県や静岡県に見られる[要出典]。 越前国の河野村は、南北朝時代に京に上った河野氏の一族が戦に破れ、流浪の末に築いた村といわれる。現在も河野家と同じ家紋を瓦に残している[要出典]。
@月見の真治
@月見の真治 2 жыл бұрын
夕立の艦長。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
吉川 広家ー1 (きっかわ ひろいえ)は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将。周防国岩国領初代領主[注釈 1]。毛利家の家臣。関ヶ原の戦いにて毛利家存続のため、徳川方と内通したことで知られる。 生涯 生い立ち 永禄4年(1561年)11月1日、吉川元春と新庄局の三男として生まれ、元亀元年(1570年)、父と共に尼子勝久の討伐戦で初陣する。 幼少時は「うつけ」で父を嘆かせたという逸話があり、杯を受ける際の礼儀作法がなっていないことなどを注意された書状が残っている。また、当初相続していた吉川氏一族の宮庄氏の所領が少ないことを理由として、天正8年(1580年)から天正10年(1582年)にかけて石見小笠原氏側からの養子縁組要請に乗って小笠原長旌の養子になろうとしたが、毛利輝元の猛反対を受けて破談となっている。天正9年1月14日(1581年2月17日)、兄の元長から新たに仮名を与えられ、仮名を「次郎五郎」から「又次郎」と改める。 天正11年(1583年)9月、織田信長の死後に天下人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)の元へ、叔父・小早川元総(小早川隆景の養子)と共に森重政・高政兄弟との交換条件として人質として差し出された。当初、元春は隠居後の相手として広家を近くに置きたかったが、毛利家の安泰のためにと人質として大坂に向かわせた。同年10月3日(1583年11月17日)、大坂城において秀吉と謁見。小早川元総が秀吉に寵愛され豊臣家の大名として取立てられたのに対して、広家はすぐに大坂から毛利家に帰されており、同年11月には安芸へ帰国している。帰国した広家は、上洛の労をねぎらう輝元より隠岐国を与えられた。ただし、この措置は広家の石見小笠原氏入嗣問題の背景に、広家が自己の待遇に不満を抱いていることを輝元も認識していた上の対応策という側面もあった[2]。 吉川家当主 天正14年(1586年)11月に九州平定従軍中の(身分上は隠居の)父・元春が、次いで翌天正15年(1587年)6月に同じく従軍中で吉川家当主である長兄の元長が相次いで死去したため、吉川氏の家督を相続し居城日野山城などの所領も継承する。さらに同年9月2日に毛利輝元から、毛利氏の祖先・大江広元の諱から「広」の一字書出を与えられ、「経言」から「広家」と改名した。また同年に秀吉の命で肥後国人一揆鎮圧のため出陣している。 秀吉からも元春・元長死後の毛利氏を支えるその手腕を高く評価され、天正16年(1588年)7月25日、豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、豊臣広家として従五位下に叙され、侍従に任官。[3]同年8月2日には従四位下に昇叙し、侍従如元。 天正16年(1588年)10月には宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)で秀吉の養女となった容光院を正妻に迎え、形式上は秀吉の娘婿となった。しかし、僅か2年後の天正19年(1591年)春に容光院は病死し、以後、広家は正妻を迎えず側室を置くのみにとどめ、容光院の菩提を弔った。なお、人質として出された広家の娘は一度も秀吉に御目見えを許されていない。 天正19年(1591年)に秀吉の命により、末次元康の居城であった月山富田城に入るよう命じられ、出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国に及ぶ14万石を支配することとなった。 文禄・慶長の役にも出陣し、しばしば毛利家の別働隊を指揮し、碧蹄館の戦いなども参戦し功を挙げて、秀吉から日本槍柱七本の1人と賞讃された。第一次蔚山城の戦いでは籠城する加藤清正の救援に赴いて蔚山倭城を包囲した明将・楊鎬率いる明・朝鮮軍を撃退する功を立てた、この戦に広家が真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、続いて総勢が一度に突撃した、そして明軍の一隊の逃走先に進み退路を寸断すると、その方向へ明兵は逃げられなくなり、別方向に逃げた。この戦の奮戦ぶりも立花宗茂と共に清正からの賞讃も得た[4]。 慶長2年(1597年)に叔父の小早川隆景が亡くなると、毛利家当主の毛利輝元から毛利秀元と共に毛利氏を支えるよう要請されている。ところが、隆景の死に伴って返上される予定となっていた三原5万石など毛利家から与えられていた所領の扱いや輝元の嫡男秀就に後継者を譲る引き換えに独立した大名として遇されることになった秀元への所領配分が問題になった。黒田孝高に代わって豊臣政権の取次になった石田三成は秀元に広家の所領を与え、広家には隆景が毛利家に持っていた所領を継がせる案を出した。これに所領を奪われる広家だけではなく、長門国を望んでいた秀元、秀元を出雲国に移すことは賛同するものの広家には替地として備中国を与えることを考えていた輝元はそれぞれの思惑で反発した。豊臣秀吉が没した直後の慶長4年(1599年)1月に豊臣政権は広家へ与える替地を先送りしたまま、秀元には広家の所領14万石を与えることだけが決定されたが、この案を推進した石田三成が豊臣七将の襲撃で失脚すると、6月になって徳川家康によって見直しが図られて秀元には長門国が与えられ、広家の所領は変更なしとされた。この騒動は秀吉死後の毛利家に少なからぬ混乱をもたらして輝元・秀元・広家の間の足並みの乱れを露呈させただけでなく、広家の三成への反発と家康への接近を招いたとする見方もある[5][6]。 関ヶ原の戦い 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が大阪城の三奉行、安国寺恵瓊、石田三成らの提案に同意して西軍の総大将に就任した。外交に通じた恵瓊は広家を嫌っており[注釈 2]、主家に背いても東軍加担を主張する広家と、一たび事を起こした以上、西軍総大将の立場を貫くべきとする恵瓊は大坂城で激論を闘わせたとされる。しかし、あくまで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は、同じく毛利重臣である福原広俊と謀議を練り、恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領の安堵という密約を取り付ける[注釈 3]。一方で、安濃津城攻略戦では主力として奮戦し長政が一時顔色を失う局面もあった。 さらに9月14日、関ヶ原決戦前日にも広家は福原・粟屋就光の両重臣の身内2人を人質として送り、合わせて毛利の戦闘不参加を誓う書状を長政に送っている。同日付の本多忠勝と井伊直政が広家・福原広俊に宛てた連署起請文では、 輝元に対して、家康は疎かにする気持ちがないこと。 広家・広俊も家康に忠節を尽くしているので、同様に疎かにする気持ちのないこと。 輝元が家康に忠節を誓うのであれば、家康の判物を送ること。また、輝元の分国は相違なく安堵すること。 という内容が記されている[8]。また、同日付の福島正則・黒田長政の連署起請文では、先述の忠勝・直政の起請文に偽りがないことを重ねて証明している[9]。 関ヶ原の戦いの吉川広家陣跡(岐阜県不破郡垂井町) 9月15日の本戦には西軍として参加したものの、家康に内通していた広家は南宮山に布陣、総大将の毛利秀元らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを拘束した。あくまで西軍に加勢しようとする恵瓊や長宗我部盛親、長束正家の使者が来訪するが、広家は霧の濃さなどを理由に出撃を拒否、秀元にも「これから弁当を食べる」と言って要求を退けたと言われる。これを指して「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。 結果は家康率いる東軍勝利となり、毛利隊は戦わずに戦場を離脱せざるをえなくなった。合戦直後には長政に使者を立て書状を送っている。9月17日には長政と福島正則の連署で、「輝元は名目上の総大将に担ぎ上げられたに過ぎないから本領を安堵する」旨の書状が大坂城の輝元に送付され、広家としてはこれで輝元の内意と合って毛利家も安泰と考えていた。
@mfu6312
@mfu6312 2 жыл бұрын
岸田と亀男林に教えたㇾ
@シャーロックホームズ-b8t
@シャーロックホームズ-b8t 2 жыл бұрын
何センチだったのだろう
@user-sy9qd1ms6f
@user-sy9qd1ms6f 2 жыл бұрын
👍️
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
吉川 元春ー1 (きっかわ もとはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利元就の次男。母は吉川国経の娘・妙玖。同母の兄弟に兄の毛利隆元、弟の小早川隆景、その他異母の兄弟が多くいる。 父・元就によって藤原南家の流れを汲む安芸国の名門・吉川氏に養子として送り込まれ、家督を乗っ取る形で相続した。以後、毛利両川の一人として、弟の隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げ、主に山陰地方の司令官として貢献した。 生涯 幼少時 享禄3年(1530年)、毛利元就の次男として安芸吉田郡山城で生まれる。 天文9年(1540年)、出雲国の尼子晴久が侵攻した際に行なわれた吉田郡山城の戦いにおいて、元服前ながら父の反対を押し切って出陣し、見事に初陣を飾った。 天文12年(1543年)8月30日、兄・毛利隆元より「元」の偏諱を受けて元春と名乗った(異説あり[注釈 1])。 天文13年(1544年)12月20日、実子がいない元就の弟・北就勝と養子契約を行い、北就勝の死後に所領を譲り受ける契約を行った[1][2]。 天文16年(1547年)、自ら望んで熊谷信直の娘・新庄局と結婚する(後述)。 吉川家相続 天文16年(1547年)7月、母方の従兄の吉川興経の養子となる。これは興経と仲の悪かった叔父・経世を初めとする吉川家臣団の勧めもあって、興経がやむなく承服したものであるとされている。条件は興経の生命を保証すること、興経の子・千法師を元春の養子として、成長後に家督を相続させることであった。 同年閏7月22日、吉川経世、市川経好、今田経高が連署の血判起請文によって、元就、隆元、元春への忠誠を誓い[3]、閏7月25日に元就、隆元、元春は返答の連署起請文を送っている[4]。 天文19年(1550年)、元就は興経を強制的に隠居させると、元春に家督を継がせて吉川氏当主とした。そして熊谷信直らに命じて興経と千法師を殺害しており、これが毛利元就の調略であったといえる[5]。 以後、安芸国大朝の小倉山城に入った元春であったが、より要害の地である日野山城を築き、拠点を移動している。そして弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、山陰地方の政治・軍事を担当した。 大内・尼子との戦い 弘治元年(1555年)、厳島の戦いにおいては吉川軍を率いて小早川軍と協力し、陶晴賢率いる大内軍を撃滅した。弘治2年(1556年)からは石見国に遠征し、尼子晴久と何度か戦うも晴久に退けられる(忍原崩れ、降露坂の戦い)。弘治3年(1557年)に父が隠居すると、隆景と共に両川として毛利家を実質的に支えることとなった。 永禄5年(1562年)、元春は胸部や腹部の激痛を伴う積聚の病(いわゆる癪)にかかり、毛利元就は則阿や少林寺、楊井武盛といった専従医ではない、領内の医師を動員して元春の治療にあたらせ、さらに京都の医師・大和晴元を新荘火ノ山城へ往診に向かわせ元春の治療にあたらせた[6]。 永禄8年(1565年)、第二次月山富田城の戦いでは主力として参戦して武功を挙げ、永禄9年(1566年)に尼子義久を降伏せしめている。 しかし、永禄12年(1569年)からは尼子氏再興を願う尼子家旧臣の山中幸盛ら率いる尼子再興軍と戦うことになる。布部山の戦いで尼子再興軍を撃破するも、同年には毛利家と敵対する大友宗麟の下に寄食していた大内氏の一族・大内輝弘が周防国に侵攻してくる。これに対して軍権を与えられていた元春は、大友家の援軍が十分に集っていないうちに輝弘を攻めて自害に追い込んだ。(大内輝弘の乱) 元亀2年(1571年)には謀略を用いて尼子勝久の籠る末石城を攻撃。山中幸盛を捕虜とし、勝久を敗走させたのである(その後、幸盛は謀略を用いて脱走)。 織田信長との戦い 元亀2年(1571年)、父・元就が死去すると、その跡を継いだ甥・毛利輝元(隆元の嫡男)を弟の隆景と共に補佐する役目を担った。 しかし元春に敗れた尼子勝久らは、中央で勢力を拡大していた織田信長を頼り、その援助を背景にして抵抗を続けるようになる。また、天正4年(1576年)に最後の室町幕府将軍である足利義昭が毛利氏を頼って備後国鞆に下向すると、織田氏との対立は決定的となる。天正5年(1577年)からは織田信長の命を受けた織田氏の重臣・羽柴秀吉率いる中国遠征軍が播磨国に侵攻する。元春はこれを迎撃し、天正6年(1578年)には尼子勝久や山中幸盛が籠る上月城を攻撃し、尼子勝久らは降伏し自刃。宿敵・山中幸盛も処刑され、尼子再興軍の動きを止めた(上月城の戦い)。 その後も元春は織田軍と各地で戦い続けたが、天正8年(1580年)には三木城が落城し、城主の別所長治は自害。そして備前国の宇喜多直家や伯耆国の南条元続が織田家に与し、豊後国からは大友宗麟が織田信長と呼応して毛利領に侵攻。天正9年(1581年)には因幡鳥取城で吉川一族の吉川経家が自刃するなど、毛利家は次第に劣勢となる。 天正10年(1582年)、清水宗治らが立て籠る備中高松城が羽柴秀吉に攻撃されたため、元春は輝元・隆景らと共に救援に赴いた(備中高松城の戦い)。しかし、秀吉の水攻めによって積極的な行動に出ることができず、また秀吉も元春らと戦うことで被害が拡大することを恐れて迎撃しなかったため、戦線は膠着状態となる。 そのような中、6月2日に織田信長が明智光秀の謀反で死亡した(本能寺の変)。羽柴秀吉は本能寺の変を毛利側に隠しつつ、「毛利家の武将のほとんどが調略を受けている」と毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に知らせる。これで毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった[7]。結果、備中高松城は開城し、清水宗治らは切腹。織田軍は備中国から撤退した。なお本能寺の変を伝える報せが毛利方にもたらされたのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが、吉川広家の覚書(案文)から確認できる[8]。 『川角太閤記』によれば、元春はこの際追撃を主張したが、隆景に制止されたという。一方で、『吉川家文書』では、両名が追撃は無謀であり、失敗すれば毛利は次こそ滅ぼされると懸念し、光秀討伐に引き返してゆく秀吉を見逃したと記述されている。
@afterwuhan2768
@afterwuhan2768 2 жыл бұрын
勝手に真珠湾を攻撃した親米山本五十六は駄目でしょ。
@とほかみえみため江戸日本橋
@とほかみえみため江戸日本橋 2 жыл бұрын
河野水軍ー1 河野宗家は、代々湯築城を拠点としていたが、河野水軍の本拠地は松山市三津、港山の一帯であった。この地理的な距離が宗家と分家(水軍衆)との亀裂を生んでいたとも思われる。なお河野氏の菩提寺は旧・北条市の善応寺である。湯築城へ移転するまでは、善応寺の双子山城[要出典]を本丸として支城に恵良山城、鹿島城、大山寺城、高縄山城などを有していた。 一時的に河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた。これは、道後平野での稲作による豊富な食料確保が可能であったからであり[要出典]、島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな相違点でもある。有名な村上水軍は、形式的には河野氏の配下であるが、独自での活動も活発であり必ずしも従属関係にあったわけではない[要出典]。伊予の水軍は大三島の大山祇神社を崇拝し、祀りを執り行うことが習いであった。 歴史 平安・鎌倉時代 平安時代の末期は、平清盛率いる伊勢平氏の傘下にあったが、その後、源平合戦においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。 鎌倉時代になり承久の乱のとき、通信ら一族の大半が反幕府方の後鳥羽上皇に味方して処罰を受けたために一時的に衰退し、幕府方についた孫の河野通久と出家の身であったために参戦しなかったその庶兄の通広だけが残された。 元寇のときに勇将・河野通有(通久の孫)が活躍してその武名を馳せ(河野の後築地・"うしろついじ"として有名である)、河野氏の最盛期を築き上げた。ところが、通有の没後に家督を巡る内紛が発生した上、元弘の変では一族のほとんどが鎌倉幕府討幕に立ち上がる中で、惣領である河野通盛(通有の子)だけが最後まで幕府に従ったために建武政権成立後に逼塞を余儀なくされて、再び衰退した。 なお、河野通信の子に通広(別府通広とも)がいるが、承久の乱の際には既に出家して如仏と号し、西山上人・証空の下で仏道修行に励んでいた為に参戦していない(通広はのちに還俗する)。この河野通広の子(俗名は河野時氏。通尚、通秀とも)もまた出家して「随縁」と号し、太宰府にいた聖達に師事して十二年間浄土教学(西山義)を学んだ。その間に肥前清水にいた華台上人にも一年ほど師事し、その際「智真」と改めた。この智真が後の時宗の開祖となる一遍である。 南北朝・室町時代 南北朝時代には、四国へ進出し伊予へ侵攻した細川氏と争う。河野通盛は足利尊氏に従い伊予守護職を手にしたが、河野通朝は細川頼之の侵攻を受け世田山城で討ち死にした。子の通堯は九州に逃れ、南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を伺う。幕府管領となった細川頼之が1379年の康暦の政変で失脚すると、通堯は南朝から幕府に帰服し、斯波義将から伊予守護職に任じられ頼之追討令を受けて細川方と戦うが、頼之の奇襲に遭い戦死した。その後頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。 室町時代には度重なる細川氏の侵攻や予州家との内紛、有力国人の反乱に悩まされた。河野通久の時代に、河野通之の子通元の予州家との間に家督相続争いが起こった。この争いはその後も続き、管領職が代わる事に幕府の対応が変わるなど情勢が混迷を極めた。本家河野教通と予州家の河野通春の争いは瀬戸内を挟んだ細川氏、大内氏を巻き込んだものとなったが、応仁の乱のさなか、本家の教通が伊予守護職を確保し、通春没後に予州家は没落した。 戦国時代・安土桃山時代 戦国時代に入ると、予州家との抗争は終息したものの、有力国人の反乱や河野氏内部での家督争いが相次いで起こり、その国内支配を強固なものとすることはできなかった。16世紀前半の河野氏宗家の当主・河野通直(弾正少弼)のとき、家臣団や有力武将村上通康を巻き込む形で子の河野晴通・通宣兄弟と家督をめぐって争いが起こる。この争いは晴通の死と通直の失脚で収束したが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。この隙を突いて、周防の大内氏の攻撃が激化、芸予諸島は概ね大内方の制圧するところとなる。結果的に、来島村上氏や平岡氏、能島村上氏といった新たに台頭した有力国人勢力に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも毛利氏の支援に支えられるなど、強力な戦国大名への脱皮はかなわなかった。この頃の河野一族は、戦乱が絶えず、一族そろって無事に正月を迎えることが難しかったため、旧暦12月の、巳の日に先祖の墓前で一家よりそって餅を食す「みんま」という慣わしができた。これは、現在も愛媛県中予地方を中心に各家々で受け継がれている。 国内には喜多郡の宇都宮豊綱、大野直之、宇和郡の西園寺氏らの河野氏に属さない勢力が存在し、また、土佐の一条氏、豊後の大友氏、讃岐の三好氏との間に争いが続くが、同盟、縁戚関係を築いた安芸の毛利氏の支援を強く受けることとなった。その後も、長宗我部氏の侵攻や天正9年(1581年)の来島通総の離反など苦難は続いた。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐において、通直(伊予守)も小早川隆景の説得を受けて降伏し、通直は大名としての道を絶たれ、新たな伊予の支配者となった小早川隆景の元に庇護された。そして天正15年(1587年)、通直が竹原で嗣子無くして没したため、大名としての河野氏は57代をもって滅亡した。
@菅直人は何処行ったまだ税
@菅直人は何処行ったまだ税 2 жыл бұрын
しかし、今となっては、元首相を暗殺する者まで出てくるとは。機関砲も使わないのに配備してるし、練習でしか使わないのに誤射しちまってるしさ。先人のような大和魂があるとは思えん。残念
@小日向白朗-z6v
@小日向白朗-z6v 2 жыл бұрын
大和魂?日本人だけが「云々魂」があるわけではないよ。各国にあるよ。日本人を賛美するはいいが、大和魂云々はやめようよ!
@克年赤木-e8l
@克年赤木-e8l 2 жыл бұрын
日本軍を美化しすぎ。日本は負けたんやで。
@小島孝之-v2y
@小島孝之-v2y 2 жыл бұрын
くだらん
@jiropushkin3563
@jiropushkin3563 2 жыл бұрын
まったく、くだらん。
@河野良平-f2z
@河野良平-f2z 2 жыл бұрын
連合国が恐れるわけないじゃん。相変わらずの日本最強かよ?
@jiropushkin3563
@jiropushkin3563 2 жыл бұрын
講談が好きなんだね。
@zero2328
@zero2328 2 жыл бұрын
yamato tamashi{大和魂}です。
@ポン-o5w
@ポン-o5w 2 жыл бұрын
貴方の言うこの講談を聞いて、貴方は何を感じますか?
@zero2328
@zero2328 2 жыл бұрын
勿論日本人ならば誇りと思うのが当然です。
@卯晶岡田
@卯晶岡田 2 жыл бұрын
じゃ(笑)お前がやってみろ
@財テク侍
@財テク侍 2 жыл бұрын
所詮、戦争で人殺しをした人。こういう人を取り上げて、ヒーロー扱いするのは不快。最近、天皇や戦争に関する歴史解説が多くなってませんか?こんな話で日本がカッコよくなるんですかね…。ねずさんの邪馬台国の話等は面白かったけど、こういう戦争で活躍した話はちょっとね…。
@shootline2
@shootline2 2 жыл бұрын
国を護ることと人殺しの区別もつかないのか? もっと勉強してからこの動画を見ろ。 おまえみたいなのが日本を衰退させているんだよ。
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