日本哲学と西洋哲学の大きな違い|浜崎洋介×川嶋政輝

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むすび大学チャンネル

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26 күн бұрын

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Пікірлер: 129
@HI-gr8jv
@HI-gr8jv 24 күн бұрын
左翼はもちろん戦後の保守論客も押並べておかしいとずっと思い続けて、肩身の狭い想いをしてきた自分にとっては、浜崎先生や茂木先生のようなニュートラルなスタンスの論客が出てきてくれたことが本当に嬉しいですよ。
@YM-ii8jq
@YM-ii8jq 5 күн бұрын
確かに、左派や保守の方に攻撃的で陰謀論的な印象を受けます。
@kotori7163
@kotori7163 24 күн бұрын
浜崎さんのお話を聞くといつもなんとなくあたまにあるけど意識していないし形もはっきりしなかった物の輪郭が見える気がします。とても不思議な感覚。学生の年齢ではないけれどこうやって浜崎さんの授業を受けられているようで嬉しいです!
@showken0429
@showken0429 17 күн бұрын
むすび大学の動画はかなり数を視聴しているはずですが、今回の対談は、特に感じ入る部分が多かったです。 昔の京大生や三高生も、吉田山や下鴨神社を歩きながら、このように哲学や宗教について語り合っていたことでしょう。 最期の「幸福論」の話にも繋がりますが、世知辛い世の中で魂の触れ合いが出来る友人などの存在が少しでも見つけられれば、 幸福な人生だと思います。浜崎さんと川嶋さんの対談を見ながら、清々しい気持ちになりました。
@user-xh2kj4ui4r
@user-xh2kj4ui4r 22 күн бұрын
たまたま「川嶋先生」のお話お聞きして「川嶋ファン」の一人になった91歳ポンコツ爺です。 「川嶋先生」を包みながら先生の周りに立ち込める、ひかえめな謙譲の美がとても眩しいです。 若い時、ある友人と偶然に保養所で一夜を共にしたことがありましたが「西田幾多郎」の最後のお弟子さんだったとか。 本、読んだ事ないし哲学を考えた事もない僕ででしたが某大学で授業なさってて「教育法?心理学?」ご担当の先生だった筈。 ご自分で授業に使う本を執筆なさってた様です。 「文書書くってむつかしいですね」が枕辺で交わした時の話題で、 その先生が「西田先生にイイ文章が書けないで困ってることを」お尋ねしたら、 「西田先生がイイ文章を読め」ってひと言おっしゃったそうです。 後年ある機会に鎌倉を散策してて、たまたま「建長寺?:駆け込み寺」だったと思う。 参詣がてら立ち止まって額づいた墓石に「西田幾多郎」って書いてあったのを懐かしく懐かしく想い出してます。 墓前に「安岡章太郎さん」の「名詞とコップ酒一杯」が墓石の上に献上させられていました。 全くの偶然でしたが未だにはっきり覚えています。 「浜崎先生」は畏れながらお名前存じませんでした御免なさい。立て板に水のような論説素晴らしかったです。 就中、お二人の談話のなかにあった「それ」の認識の仕方を勉強せて頂きました。 我々僕達も世間も「それ」に行き着く迄が心配で心配でショガナイ昨今を考えさせられています。 イイ番組でした。ド素人の僕的には畏れながら「それ」にならないようにの昨今です。
@user-pe5jn5wx7y
@user-pe5jn5wx7y 24 күн бұрын
今まで、直感に従っていた時はあまり失敗は無いけど、なんか人が言う理屈に従った時は失敗が多いと感じます。
@user-eb7jn4et8u
@user-eb7jn4et8u 15 сағат бұрын
日本人、其処はまだ枯れてない❤ 好い詞です。 共感し同感し頷きつつ樂しみました。
@user-rs6te7gf2x
@user-rs6te7gf2x 17 күн бұрын
非常に中身の濃い対談でした。ありがとうございます。
@user-lb6eq7hz6w
@user-lb6eq7hz6w 24 күн бұрын
いいねえ、浜崎さん。情熱もあるし思慮もある。衒いもない。聞きやすいです。 「整ってない身振り、似合ってない姿勢だったとすると逆効果になる。」まさに。まさに。浜崎さんの本、これから読ませていただきます。
@kyamamoto5510
@kyamamoto5510 24 күн бұрын
武士道に繋がる磨かれた言葉ですね。
@user-qr2te8jv9c
@user-qr2te8jv9c 8 күн бұрын
日本、そして東洋の哲学は、「絶対的な他者」というマジックワードに頼らずに、自己と関係性の中に終始してすべてを考えようとする真剣さが特色ですね。
@branco7043
@branco7043 24 күн бұрын
話の内容も素晴らしかったですが、川嶋さんのタートルネック&着物スタイルもいいですね。
@hitoshitakabayashi6759
@hitoshitakabayashi6759 23 күн бұрын
とても面白いお話しでした❤もっと聞きたいです。
@user-puddingwannaeat
@user-puddingwannaeat 14 күн бұрын
浜崎先生と川嶋さんの化学反応が起きています!本当に凄いな!! 「善の研究」は読みましたが、今日のお話を聞いて、「そういうことだったのか!」と繋がった感じがしました。 体感を伴った哲学者という点で、浜崎さんは本当にレアキャラですし、こういう思想を今まさに世界中が求めているんだと思います。 ただ哲学するんじゃない。人が幸せになる哲学をしてこそ価値がある。これは仕事でも同じだなと思います。人が幸せになる仕事を、私も体現できる人物になれるよう、日々学んでいきます。 ありがとうございました。
@user-vt1kd2cb3u
@user-vt1kd2cb3u 18 күн бұрын
面白い対談でした。川嶋さんていろんな知識があって、相手の方が乗って話していける様な雰囲気ですよね。聞く力があるんですね!
@daisukesuzuki9163
@daisukesuzuki9163 21 күн бұрын
京大の門前の今出川通り。二三十年前は古書店が賑わってましたが今は数件のみ。 そこで意味もわからず買っていた岩波文庫のタイトルが浜崎先生のお話ではいきいきと語られることに感動です 先生のオーラでまたあの時代がよみがえることを期待するものです。
@user-sj1zz9df9w
@user-sj1zz9df9w 24 күн бұрын
日本人の素晴らしい文化です。
@user-jx2wv9lh3z
@user-jx2wv9lh3z 17 күн бұрын
浜崎さんって声がいい❗️聞き取りやすい👂✨
@nakanomargaret9795
@nakanomargaret9795 24 күн бұрын
大変、面白かったです。私が知りたいことがわかった気がします。
@bintanglaut1467
@bintanglaut1467 24 күн бұрын
浜崎さんが自転車で鴨川の橋を渡るのを想像して嬉しくなりました 禊 直感 結界 色々と充実した話でした ところでいつか 禅宗から独立された大愚和尚さんと浜崎さん茂木さんとの対談を見てみたいです 大愚和尚のお話もすごく好きなんです
@user-bs2qz9pk1v
@user-bs2qz9pk1v 24 күн бұрын
面白かったです。 確かに桂川等の大きな河川も有りますが、鴨川は、ちょっと他とは、違いうと常々思ってました。 また哲学のお話、聞きたいです。
@user-bg2lg9jb8n
@user-bg2lg9jb8n 23 күн бұрын
個人の幸福と社会の規範って、必ず両立するものではないと思います。人間は"経験の奴隷"ですので、何を幸福と思うかは、子供頃の環境と経験に依存します(幸福論がまとまらないのは、それぞれの経験が違うからだと思います)。ですので、個人の幸福のあり方と社会の安定、発展が両立する様にしないといけないと思います。それ故、教育が大事と言う事になると思います。
@mefffallappllakl-kkka
@mefffallappllakl-kkka 24 күн бұрын
凄いな!
@yukihisainokuchi4279
@yukihisainokuchi4279 24 күн бұрын
一高・東大は体制派(官僚)を生み出し、三高・京大は優れた研究者を生み出す。そこには「自由な精神」があるからだとは思っていました。ただ、私は京都の地理を知らぬ者(九州です)、三高寮歌にある「吉田山」がそれ(結界)とは楽しい話でした。
@user-ky1ji1jy2q
@user-ky1ji1jy2q 24 күн бұрын
京都大谷大学教授鈴木大拙は 旧制高等学校を出ていないので ドイツ語フランス語が全く出来ませんでした。 英語だけの鈴木大拙でした。
@jackal7123
@jackal7123 23 күн бұрын
戦後、日本が復興を果たし先進国入りした時点で一高・東大といった体制派は守旧に成り下がって仕舞い、それでも官僚だけは輩出するので日本が迷走する根本原因になっていると云われます。戦後、先ず復興させるべきはエリート教育だったのだと思いますね。エリートとは知能や知識に秀でるのではなく「滅私奉公」する覚悟が出来る人材なのです。
@studiokazuyo
@studiokazuyo 11 күн бұрын
私は縁を信じてます。歳とってくると、ますます思ったように事が展開していく。信じているからだろうと思っている。
@user-fs7zl6hg5h
@user-fs7zl6hg5h 24 күн бұрын
有難うございます。哲学→実践…今最も求められる分野が政治…、台湾の次期頼政権の副首相は女性で…台湾大学・哲学科卒!…です。
@go-xx9pu
@go-xx9pu 24 күн бұрын
心地がいいもの・悪いもの。直感のようなものでしか表現できないもの 現在の日本人の多くは幸福になろうという意志が足りない。エゴイズムが足りない 繋がり。結びの中で幸せや心地よさを感じえる感覚は未だに枯れていないという言葉に希望を感じました。 結びを作るのはどうしても手間や面倒くささが生じる。手間があることが前提だから資本主義とどうしても食い違うところがあるのかと思いました 日本人本来の幸せの在り方と資本主義が語る効率・楽さは両立しえない。少なくとも日本人には古来からの幸せの感覚が残っているからこそ現代の資本主義が前提の社会では幸せを感じづらいのかと思いました
@user-nf7zs1dx9t
@user-nf7zs1dx9t 24 күн бұрын
本当に腑に落ちる。正に主客を一つにしてワレ、ソレなのですよね。私はなんちゃって神道の家に育ったのですが本居宣長先生はヒノカグツチの神様を悪い神様って定義しているのにめちゃくちゃ違和感を感じていたのです。全くの二元論。でも私はヒノカグツチの神様も私なのですよ。だってそうでないと気持ち悪い。これ人間関係でも同じように感じています。私も自分の幸せをバリバリに考えるエゴイストですが本当にそれであふれた幸せしか他人に伝播しないのですよね。私は今さして幸せじゃ無いからめちゃくちゃ考えさせられる。浜崎先生の言の葉にいつも救われている。大好き😻ちゃんと自分を生きねば。
@user-vp2cm8kr1e
@user-vp2cm8kr1e 24 күн бұрын
ゲストがオモロイとコメント欄もオモロイな。普段はどうしてもスピ系のコメントが多くなる
@taninouchiaki1157
@taninouchiaki1157 24 күн бұрын
自分以外の絶対たるものを実感させない限り、人は信用というものを手にいれることはできないよ。
@miracle_2194
@miracle_2194 22 күн бұрын
奇しくも?この動画が出される数日前から、茂木誠氏出演の動画で知った浜崎洋介さんと、西田幾多郎との2者を絡めてあれこれ考えていたけど、こりゃ面白い。 両者の関系も浜崎さんの京大学者就任もここで初めて知ったからなおのこと。
@Grace-jp7of
@Grace-jp7of 22 күн бұрын
生徒さんに宗教や神的なものの存在を思い出してもらうために必要なステップ、ありますね〜。
@studiokazuyo
@studiokazuyo 11 күн бұрын
小林秀雄が大好きなので、彼の小林の人生論の本を買いました。楽しみです。
@127tEmperorREYMEYNIKE
@127tEmperorREYMEYNIKE 24 күн бұрын
あと、ついでに、にびるもかいがいでかくにんされ、えいぞうがさつえいされてました😊
@SON99ify
@SON99ify 24 күн бұрын
そうですね、、 生活レベルに視点をおけば、 日本精神はむしろ進化してるかもしれません。 政治や経済に視点をおけば、 凄惨な在り様しかありませんが、、。 何かヒントがありそうです。
@rinao2522
@rinao2522 24 күн бұрын
なぜ京大がノーベル賞受賞者を多く輩出できるのか、の理由、おもしろいし案外真理なのかも。何かを超えるにはそういった目には見えていないけどそこにあるかもしれないものを受容し、直感を掴みとるセンス大切なんでしょうねー。科学も哲学もスピリット力が肝心ねー🤔。
@freeasabird-794uguis
@freeasabird-794uguis 24 күн бұрын
浜崎洋介先生はリアリティー重視。直感、リアリティーが基盤。観念ではない。西田幾多郎、日本人から既存西洋形而上学の違和感、別体系を産み出した。マルティン・ブーバー /我と汝、我それ。福田恆存/人間この劇的なるもの。 縁、偶然、活力、正直、真理、 価値とは何か。 幸福論。 他者とのカップリング。 エイリッヒ・フロム/自愛と他愛を分けるな。 無常。人生の目的は変化。
@user-pg8vt9yb4e
@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
・西田 幾多郎 (にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』(1911年)、『哲学の根本問題』(1933年)など。 東大哲学選科卒。参禅と深い思索の結実である『善の研究』で「西田哲学」を確立。「純粋経験」による「真実在」の探究は、西洋の哲学者にも大きな影響を与え、高く評価される。 経歴 加賀国河北郡森村[1](現在の石川県かほく市森)に、西田得登(やすのり)、寅三(とさ)の長男として生まれる。西田家は江戸時代、十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家だった。若い時は、肉親(姉・弟・娘2人・長男)の死、学歴での差別(帝大における選科〔聴講生に近い立場〕への待遇)、父の事業失敗で破産となり、妻との一度目の離縁など、多くの苦難を味わった。そのため、大学卒業後は故郷に戻り中学の教師となり、同時に思索に耽った。その頃の思索が結晶となった『善の研究』(弘道館、1911年1月)は、旧制高等学校の生徒らには代表的な必読書となった。 ・鈴木 大拙 (すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉[2][3][4]、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉[5] - 1966年〈昭和41年〉7月12日[5])は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。 名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した[6]。 生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している[7]。 来歴 鈴木大拙、ベアトリス夫妻の墓 金沢市野田山墓地 石川県金沢市本多町に[5]、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。 石川県専門学校に入学後、同校の後身第四高等中学校に進学するも退学し、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レイン(Beatrice Lane)と出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドのチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという[8]。
@user-pg8vt9yb4e
@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
エーリヒ・ゼーリヒマン・フロム (Erich Seligmann Fromm、1900年3月23日 - 1980年3月18日)は、ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者である。ユダヤ系。マルクス主義とジークムント・フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けた。新フロイト派、フロイト左派とされる。 フロム本人はエーリック・フロムと発音されることを望んでいたという[1]。 経歴 Erich Fromm (1974) エーリヒ・フロムは1900年、ユダヤ教正統派の両親の間に一人っ子としてフランクフルト・アム・マインに生まれた。フランクフルト大学に入学するが、1年でハイデルベルク大学に移り、ここで社会学・心理学・哲学を学び、1922年にアルフレート・ヴェーバー(マックス・ヴェーバーの弟)、カール・ヤスパース、ハインリヒ・リッケルトの指導の下に学位を取得。1926年にはフリーダ・ライヒマンと結婚する。 1931年にフランクフルト大学の精神分析研究所で講師となった。 ナチスが政権を掌握した後、スイス・ジュネーヴに移り、さらに1934年、フランクフルト学派の主要メンバーと共にアメリカへ移住する。まずコロンビア大学で教えた後、バーモント州のベニトン大学(英語版)などで教鞭をとった。1949年にメキシコシティに移り、1965年までメキシコ国立自治大学、次いで1974年までメキシコ心理分析研究所 (Instituto Mexicano de Psicoanálisis) で教えた。また並行して、1957年から1961年までミシガン州立大学、1962年から1974年までニューヨーク大学の精神分析学の教授を務めた。フランクフルト学派のメンバーとは、共同研究として『権威的な性格』を発表した。 1974年にスイス・ティチーノ州ムラルトに居を構え、1980年にムラルトの自宅で死去。80歳の誕生日を目前に控えての死であった。 思想 記念プレート フロムの思想の特徴は、フロイト以降の精神分析の知見を社会情勢全般に適応したところにある。フロムの代表作とも言える『自由からの逃走』ではファシズムの心理学的起源を明らかにし、デモクラシー社会が取るべき処方箋が明らかにされている。フロムによれば人は自分の有機体としての成長と自己実現が阻まれるとき、一種の危機に陥る。この危機は人に対する攻撃性やサディズムやマゾヒズム、および権威への従属と自己の自由を否定する権威主義に向かうことになる。自分自身の有機体としての生産性を実現する生活こそが、それらの危険な自由からの逃避を免れる手段だと説いた。フロムは、バールーフ・デ・スピノザと同じく「幸福は徳の証である」と考えていた。つまり生産的な生活と人間の幸福と成長を願う人道主義的倫理を信奉するとき、人は幸福になれるとした。 フロムによれば神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こるとし、これを倫理的な破綻だとした。[要出典] あらゆる神経症の核心は、人間の正常な成長と同じように、自由と独立を求める戦いにある。正常な人の多くは、この戦いを自己放棄によって終わらせ、うまく適応し正常であると認められようとする。神経症的人間はこの戦いを放棄することはできないが、依存性と自由を求めることの間の矛盾をとこうとすることの試みとして、成功していない試みとして理解することができるという。
@user-pg8vt9yb4e
@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
出口 王仁三郎 (でぐち おにさぶろう、1871年8月27日〈明治4年旧7月12日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月19日)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。 概要 出口王仁三郎は、大本において聖師と呼ばれる[1][注釈 1]。強烈な個性と魅力とカリスマを持っていたとされ、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた[2]。その一方で奔放な言動により敵対者から多くの非難も浴びる[3]。評価は現在でも定まっていない[4]。「国家神道」と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として政府の弾圧を受け、自身も7年近く拘束された[5]。太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも病により死去した。その思想と布教方法は戦後の新宗教に大きな影響を与えた[6]。 読み方について「わにさぶろう」とされることもあるが、正しくは「おにさぶろう」[注釈 2]。大本の開祖である出口なおのお筆先(自動書記)で、元の名前である「喜三郎(きさぶろう)」を「おにさぶろう(鬼三郎)」と書かれたことに対し、「鬼」の字を嫌って「王仁」の字を当てたことに由来する[8]。ただし「王」の歴史的仮名遣いは「わう」であり「わにさぶろう」とすること自体は不自然でなく、また実際に「わに」を使用した例もあり[9]、百済から日本に漢字と儒教を伝えた学者王仁(わに)との関連を指摘する研究者もいる[10][注釈 3]。またマスコミが挿絵中でワニの姿で表現した事例もあった[14]。 ・黒住教 (くろずみきょう)は、岡山県岡山市にある今村宮の神官、黒住宗忠が1814年(文化11年)11月11日に開いた教派神道で、神道十三派の一つである。 同じ江戸時代末期に開かれた天理教、金光教と共に幕末三大新宗教の1つに数えられる。但し、黒住教と天理教は開国前であり、厳密には幕末ではない。現在の教主は7代目の黒住宗道が務める。 歴史 黒住教の教祖である黒住宗忠は、安永9年(1780年)、備前国御野郡上中野村(現:岡山市北区上中野)で、今村宮に仕える禰宜の家に生まれた。青年期に、孝行として、生きながら神になる方法として、心に善いと思う事だけを行い、また悪い事はしないように立志して実践していた。しかし、流行り病で父母を相次いで亡くしていまい、その悲しみから病に伏し、危篤の状態まで陥った宗忠は、文化11年(1814年)11月11日、冬至の日の出を拝む(日拝)中で宇宙の親神である天照大神と自分が一体となるという体験をした[1]。黒住教ではこれを「天命直授」と呼び、この日を立教の日としている。 この宗教的体験により宗忠は、病気治しや日常の心がけを説くなどの宗教活動を始めた。以後、嘉永3年(1850年)に昇天するまで布教活動を行った。 宗忠の死後、安政3年(1856年)に吉田家より、「宗忠大明神」の神号を与えられ、文久2年に京都の神楽岡に宗忠神社が創建された。宗忠神社は慶応元年(1865年)、孝明天皇によって勅願所となり[2][3]、従四位下の神階を宣下され、民衆の宗教として広まり、一部では訴訟にも発展した[4]。 明治9年(1876年)、神道事務局から神道黒住派として独立した[5]。 昭和27年(1952年)、宗教法人として認証された[1]。 平成28年(2016年)、6代教主黒住宗晴が自身が満80歳を迎える平成29年(2017年)9月18日に教主を退く意向を表明、黒住教教議会に於いて承認され、その旨が発表された。7代教主には副教主であった長男・宗道が就任[6]。教主の生前継承は1814年の立教以来初めてのことで、宗晴は名誉教主に就いた[7]。 教団本部は岡山県岡山市北区尾上、神道山(しんとうざん)。(かつては同市同区大元の宗忠神社の隣接地に本部を構えていたが、市街地整備に伴い、昭和49年(1974年)10月27日に神道山へ遷座)。 思想・教え 江戸時代後期の神道では旧来の汎神論的神道とは異なる、林羅山の唱えた理当心地神道などに見られるような「全ての人の心に神が内在する」という近代的とも言える神の観念が広まっていた[8]。黒住宗忠は、自らが合一した天照大御神を記紀神話で語られる太陽神、農耕神としての存在である以上に、最高神であり、唯心論的に、全ての人の心に存在し、合一を果たすことで病気の治癒や魂の救済を可能にする究極存在として説いた[8][9]。 黒住教は天照大御神以外の神の神徳を説いていない。宗忠の説いた天照大御神は八百万の神の本体であり、他の神は天照大御神が枝葉のように分化した存在と説いている。そのため、黒住教は多神教でありながらも一神教的な特徴があるとされる[8]。また、天照大御神は外在的な物神ではないため、信者は太陽を拝む日拝を行うが太陽信仰とは異なる[8]。経典の中に存在する過去の神ではなく、各々の心のなかに生きて居る神であることから、宗忠は独自の教典も作らなかった。 黒住教の教えとして特に重要なものに「御七カ条」と呼ばれる日々の生活の上での7つの心得がある。また、日の出を拝む「ご日拝と御陽気修行」と呼ばれる実践修行がある[1]。
@user-pg8vt9yb4e
@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
大石凝 真素美 (おおいしごり ますみ、1832年〔天保3年〕11月(旧暦) - 1913年〔大正2年〕4月11日(新暦))は、日本の国学者。言霊学者。近江国甲賀郡油日村生出身[1]。 遠祖は大伴氏という。壬申の乱の後継者として、望月を姓として伊賀、近江にすまったという。父は登、医を業として、かたわら多賀神社の神札をくばっていた。真素美の幼名は春雄、元服して大輔広矛。 22歳のとき江戸にいたが、アメリカの艦船が浦賀に来て、これに憤慨、「我国は神国なり。今は神知に俟つ外なし、神風を促す底の大神人を求むるに如かず」と東奔西走し、大人物をもとめ、各地の志士とまじわった。美濃の山本秀道の教えを聞いて感激し、秀道に師事して古典を研究し、奥義に達したという。 明治3年(1870年)、「有名無実の神道を廃せよ」とさけび、激越な論調ゆえにとらえられ、投獄された。出所、帰郷し、明治6年(1873年)9月、大祖の姓に復し、大石凝真素美と改名した。 明治11年(1878年)、秀道宅で天津金木学、日本言霊学を大成した。神に通じて霊に感じて、明治24年(1891年)の国会議事堂焼失、明治31年(1898年)の神宮正殿焼失を予言、的中したという。明治40年(1907年)から名古屋の水野満年のもとで皇学を講じてまた執筆にしたがった。 著書 著書 「ノート:大石凝真素美」に一覧がでています。 大石凝真素美 著作検索 - 国立国会図書館(索引) ・川面 凡児 (かわつら ぼんじ、1862年4月29日(文久2年4月1日) - 1929年(昭和4年)2月23日)は、日本の宗教家、神道家。禊の行法を体系化し、組織的に行なった[1]。現在の神社神道における禊作法は、戦前に川面が行っていたものに基づいている。名は恒次(つねじ)、字は吉光。号は殿山(でんざん)[2]。 略歴 豊前国(現・大分県宇佐郡両川村小坂)に、酒造業を営む家の次男として生まれる[2]。神職をしていた父の義弟の溝口千秋に教育のため預けられる。千秋は宇佐神社に参詣する全国各地の神道家や勤王の志士と交流があり、川面はその中のひとり、豊前の儒者・恒遠翁に漢籍を学ぶ。13歳のときに近くの霊山・馬城山(まきさん)に籠り、童仙・蓮池貞澄から仙道を学ぶ。15歳のとき、入津(豊後高田市)にある 鴛海米岳(おしうみべいがく)の私塾「涵養(かんよう)舎」[3][4]で皇漢、仏教、法律、経済などを学ぶ。自由民権運動に傾斜し、板垣退助を尊敬していた[2]。 1882年(明治15年)、21歳で熊本県隈庄町に私塾「稚竜同盟谷」を開き、子供たちの教育に携わる。1885年(明治18年)には長崎市銀屋町の「行余学舎」に学び、また塾生に修身や歴史を教えもした。同年上京し、雑誌『日本政党』を創刊。政治家を目指したが、宗教家に転じ、新聞雑誌への投稿で糊口を凌ぎながら、井上哲次郎、杉浦重剛などの宗教家や思想家などと交流し、宗教学を学んだ。生活の困窮を見かねた増上寺の計らいで、雑読『仏教』の主筆となり、「蓮華宝印」のペンネームで雑誌『禅宗』などにも寄稿した。淑徳女学校で教師もした。1896年(明治29年)からは「鬼芙蓉」の名で『自由党報』にも寄稿し、これが縁で明治32年から33年まで「長野新聞」の主筆に、またそののちには和歌山県の自由党機関誌「熊野実業新聞」の主筆となる[2]。 1906年(明治39年)に下谷区三崎町に「全神教趣大日本世界教」を旗揚げし、稜威(みいつ)会を創立[5]、神道宣布に専念。1908年(明治41年)には機関誌『大日本世界教みいづ』を創刊、1908年(明治42年)から片瀬などで修禊を開始。1914年(大正3年)、男爵の高木兼寛を会長に、古典を通じて日本の神々を学ぶ古典考究会を設立、『古典講義録』を刊行。同会には秋山真之、八代六郎、平沼騏一郎、杉浦重剛、頭山満、筧克彦らが関わった[6]。 1917年(大正6年)から滝行など禊の行を会員とともに各地で始める。神宮奉斎会の会長で、大正期神道界の最高長老と言われた今泉定助が支持したことで[6]、各地の有力な神職の賛同を得て、海浜や滝水での禊行事が全国的に流行した[7]。1921年(大正10年)には団体が社団法人として認可され[5]、1926年(大正15年)には代表作『天照太神宮』を出版。1929年(昭和4年)正月に、片瀬で大寒禊の指導を行なったあと体調を崩し、2月23日に肺炎により68歳で死去[2][8]。特異な形のよく目立つ墓が多磨霊園にある。
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@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
・宮本 武蔵 (みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、大名家に仕えた兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名である。 後世には、演劇・小説・漫画・映画やアニメなど様々な映像作品の題材になり、現代では「剣豪」または「剣聖」と称されている[2]。特に吉川英治の小説『宮本武蔵』が有名であるが、史実と異なった創作が多い。 外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二十九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載[注釈 1]がある。 絵画や武具・馬具制作も頻繁にしていた過去があり、国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』といった水墨画や鞍、木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている。 島田美術館が所蔵する有名な肖像画は作者不詳[1]だが、身体を緩めている様は『五輪書』が説く極意に一致しており、自画像とする説もある[2]。 ・柳生 宗厳 (やぎゅう むねよし/むねとし/そうごん[2]、宗嚴)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。新陰流の兵法家。柳生家厳の子。百官名は但馬守。諱は宗厳。通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門。入道してからは石舟斎(せきしゅうさい)と号した。子に柳生厳勝(柳生利厳の父)、柳生宗矩、柳生宗章ほか。 概略 大和の国人柳生氏の当主。はじめ筒井順慶に仕え、後に松永久秀の家臣となって頭角を表すも松永氏が滅亡したこともあって武将としては不遇に終わる。一方で上泉信綱より伝授された新陰流の剣豪として名高く、徳川家康の師範に招かれ、息子宗矩を推挙したことで柳生家繁栄の切っ掛けを作った。宗厳本人は生涯自身の流派を新陰流と名乗ったが、柳生流(柳生新陰流)の流祖に位置づけられることもある[3]。 ・胤栄 (いんえい、大永元年〈1521年〉 - 慶長12年8月26日〈1607年10月16日〉[1][2])は、安土桃山時代の興福寺の僧、武術家。覚禅坊。奈良興福寺の子院・宝蔵院の院主。宝蔵院流槍術の祖。 生涯 興福寺衆徒・中御門胤永の次男として生まれ、宝蔵院へと入った[3][4][注釈 1]。 若い頃より刀槍の術を好み[6]、柳生宗厳とともに上泉信綱から剣(新陰流兵法[6])を、大膳大夫盛忠から槍を学び[1][2][3]、大西木春見から香取神道流を学んだという[3][6]。胤栄は柳生宗厳や穴沢浄見らとともに表15か条の形を作り[6]、これを宝蔵院流槍術の基本とした[2]。宝蔵院流は十文字鎌槍の利点を生かして多様な攻防を可能としており、当時としては画期的だったみられる[3]。門弟に中村尚政、高田又兵衛、可児才蔵らがおり[2][6]、中村尚政は後に将軍・徳川家光の前で三度にわたり技を披露した[2][6]。 晩年は僧侶が武事を扱うことを本意ではないとして、後住と決めた胤舜に院中で武芸を習うことを禁じ、全ての武具を高弟である中村尚政に与えたという[6][注釈 2]。慶長12年(1607年)8月26日、死去[2]。享年87[2]。 ・上泉 信綱 (かみいずみ のぶつな、あるいは、こういずみ のぶつな〈cf. 〉。永正5年〈1508年〉? - 天正5年1月16日〈1577年2月3日〉?)は、戦国時代の日本の兵法家。一時期の武家官位名を添えた「上泉 伊勢守( - いせのかみ)」の名でもよく知られる(cf. 武家官位としての伊勢守)。上泉氏の本貫地の出身で、出生地は上野国勢多郡桂萱郷上泉村(現・群馬県前橋市上泉町内)あるいはその近傍とされる (cf. )。生年は推測 (cf. )、没年は天正10年(1582年)など諸説ある (cf. )。 剣聖と讃えられる剣豪の一人で、新陰流の祖。
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@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
真里谷円四郎 (まりや えんしろう)は、江戸時代の剣客の武号、名跡。 1660年[1]、または1662年[2]に上総国真理谷(現・千葉県木更津市)の豪族上総武田氏の末裔で、野州駒場村の産まれ[1]。前名は山名勝之助[2]。義旭と名乗る[1]。 19歳のときに無住心剣流の二代目小田切一雲に弟子入りし門下に入る[1][2]。小田切が無住心剣流初代針ヶ谷夕雲と立ち合い、負かしたことで二代目となったように、真里谷も25歳のときに小田切と二度立ち合い、二度とも勝ったことで、免許皆伝と無住心剣流三代目となる[1][2]。このとき、円四郎の名と無為軒の号を送られた[1]。 以降、生涯千回を超える他流試合を行い、ただの一度も負けることがなかったといわれる[1][2][3]。門弟は1万人に及んだとも言われるが[1][3]、無住心剣流を継ぐ者は現れず、真里谷円四郎の代で途絶えることになった[1][2]。 寛保2年2月4日(1742年2月4日)死去享年82[3]。 無住心剣流は途絶えることになったが、真里谷円四郎の技は受け継がれ、幕末まで残った[1]。 初代 円四郎義旭 二代目 円四郎義品[1] 三代目 円四郎信栄[1] 四代目 新右衛門信興[1] ・小田切 一雲 (おだぎり いちうん、1630年〈寛永7年〉 - 1706年6月6日〈宝永3年4月26日〉)は、江戸時代前期の剣客。無住心剣流剣術の二代目。 生涯 会津の生まれで、越後高田藩の榊原式部太輔の家臣長谷川玄養の弟であった[1]。旧名、長谷川如庵[1]。若い頃は著名な幕医である半井驢庵が開く江戸の塾で学び、学頭まで務めた[1]。 幼い頃から十三の剣の流派を学んでおり、柳生宗矩の高弟、荘田教高にも弟子入りし剣を学び免許を得る。その後、28歳で無住心剣流の針ヶ谷夕雲に弟子入りし、33歳で三度夕雲と立ち合い三度とも「相抜け」の状態となり、印可を受け無住心剣流の二代目となる[1]。 二代目を継いでから暫くは全く弟子を取らなかったが、39歳から弟子を取り始める。60歳で出家し空鈍と号した。宝永3年4月26日(1706年6月6日)死去。享年77[1]。 白井亨は自著で一雲こそが日本剣術史上最高の名人としている[1]。
@user-eo5kk4oq4n
@user-eo5kk4oq4n 21 күн бұрын
『情けは人のためならず。』ですね笑。
@tomm187ab
@tomm187ab 24 күн бұрын
哲学って頭で考えれば世の中わかるという西洋の不完全な思想体系なのね。 東洋では、頭だけでなく、瞑想とか、禅とか、体を使った行が入ってくる。 いわば哲学は一人カラオケを聞いてるようなもので面白くない。 禅は、みんなでカラオケをしよう、という、全員の行動を伴っているの。 それがわからんとね。
@user-ol3yf4in7d
@user-ol3yf4in7d 24 күн бұрын
因縁化の法則じゃないですか?我だそれだとか言ってるから分からなく何るんです。割れではなく、我は因であるということです。
@ryuichioshima5654
@ryuichioshima5654 18 күн бұрын
西田哲学が軍政に利用されたのはどういうことなのか?
@sho-odagiri
@sho-odagiri 24 күн бұрын
今の日本を見たら小林秀雄さんは、何を言われると思いますか? 小林秀雄さんと親交のあった執行草舟さんと、浜崎さんの小林秀雄対談を期待しています!!
@user-pg8vt9yb4e
@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
執行 草舟 (しぎょう そうしゅう、1950年(昭和25年6月26日- )は、日本の実業家、著述家。本名は祐輔。 生命の燃焼を軸とした生き方を実践・提唱している生命論・人間論研究者。菌酵素食品の研究・製造・販売の事業である(株)日本生物科学、(株)日本菌学研究所を経営[1]。 また独自の美術事業を展開しており、執行草舟コレクションを主宰、戸嶋靖昌記念館 館長を務める。草舟の蒐集する美術品には、安田靫彦、白隠、東郷平八郎、南天棒、山口長男、平野遼等がある。魂の画家・戸嶋靖昌とは深い親交を結び、画伯亡きあと全作品を譲り受け、戸嶋靖昌の遺志を継いで記念館を設立した[2]。その画業を保存・顕彰し、千代田区麹町の展示室で公開している。 日本菌学会終身会員。 人物・来歴 東京都生まれ。立教小学校から立教大学まで一貫教育を受ける。執行家は佐賀の鍋島藩[3] において家老職や奉行職を務める。祖父・執行弘道はパリ万博での日本の展示を担当、天皇家の美術御用掛として活躍、また日本美術普及の国策会社を経営した。建築家フランク・ロイド・ライトと深い交流があり、浮世絵蒐集の仲介役も務めた[4]。父・執行一平は旧制の東京商科大学を卒業してから三井物産に入社。その英語力を買われ三井財閥の窓口として、GHQの財閥解体にも助力。母・千鶴子は岐阜の大垣の大庄屋 早野家の末娘。千鶴子の父・小三樹は上海で日清汽船という海運会社を経営していたため、千鶴子は1930年代の幼少期を上海租界で過ごす[5]。また小三樹は剣術を剣豪・山田次朗吉に指南され相当の使い手であった。 学生時代 1957年、小学校入学前に、突然42度の高熱が出て呼吸困難に陥り、目白の開業医で執行家の掛かりつけ医であった、母里太兵衛の子孫の母里太一郎が国立第一病院へ運んだ。膿胸の石化現象を起こしており、第一病院にあった人工呼吸器「鉄の肺」と、また名医・山下九三夫の施術により一命をとりとめた。死病を克服して初めて手にとった『葉隠』が、人生すべての思想の根幹となる[6]。その後、体の症状を整体師の野口晴哉に見てもらうが、禅の「啐啄の機」という言葉を教わり、生命の神秘、禅的思想の根本を体得していく。 1966年、中学校三年の時に、知人の山荘で三島由紀夫に出会う[7]。 当時三島文学をすべて読んでいたため、自分なりの三島文学論を本人にぶつけた。また、雑誌「朝日ジャーナル」で連載されていた高橋和巳の『邪宗門』を読んだ直後だったため、『邪宗門』、『悲の器と三島由紀夫の『美しい星』、『金閣寺』、『鏡子の家』との比較文学論をぶつける[8]。三島との交流は高校三年まで続いた。 1970年、立教大学法学部に入学。刑法の所一彦、法哲学の神島二郎に指導を受け、また団藤重光の『刑法綱要』を研究する。神島教授により法哲学、政治思想史の専門として、ヘーゲルの『法の哲学』、丸山眞男の『日本政治思想史研究』を基礎研究とし、またオットー・フォン・ギールケの『ドイツ団体法論』等を原書で研究した[9]。また中世・ルネサンス音楽専門の教授・皆川達夫による「西洋音楽史」の講座をとる。執行の家には父の集めた戦前のSP・LPが1万枚以上ありレコードコンサートを開くようになる。レコードの貸し借りで交流のあった五味康祐から、コンサート用にとタンノイのスピーカーをもらう。また、レコードコンサートを機に小林秀雄と知り合いになり、ラモー、クープラン等のフランス音楽を中心にレコードの貸し借りをするようになる[10]。 大正海上・三崎船舶時代 1974年、大学卒業後、大正海上火災に入社[11]。その後、ほどなくして大正海上を辞め、再就職。神奈川県三浦市の三崎向ヶ崎にあった従業員350人の中規模造船会社、三﨑船舶工業㈱に勤め始める。旧制の四高(金沢)から東京帝国大学の機械工学科を出て、戦中は軍艦を造る技術将校だった平井顕が社長で戦後に起業した会社であった。 1981年、お見合いをし、妻となる充子と出会う。妻は学習院大学の国文科で『源氏物語』を研究、国語学者の大野晋の弟子に当たる[12]。妻との結婚生活は二年二ヶ月続いたが、妻はスキルス性の乳癌にかかり、闘病生活を余儀なくされる[13]。癌が発見された時に既に妊娠しており、抗癌治療をせずにお腹の子供を産む事を決意。整体の野口晴哉の一番弟子の臼井栄子や、漢方を扱い独特の食事療法を行う医師の重野哲寛にかかり、1983年5月に出産、娘が生まれる。その後、ほどなく妻は亡くなる。 バイオテック株式会社設立 この頃、ミクロサイエンス研究所の名称で、個人研究として発酵菌及び食物の関連について実地研究を開始する[14]。精神的確立において岩波書店が刊行し始めた『内村鑑三全集』全四十巻がすべての研究の根幹となり、「絶対負」という独自の思想を探求することになる。1984年、妻の死を機に、菌食・ミネラルによる酵素食品の会社であるバイオテック株式会社(現・株式会社 日本生物科学)を設立する[14]。バイオテック株式会社は創業時、中央区日本橋本町にあるビルの一室に事務所を構えた。単なる健康のためになる食品ではなく、「自己の生命の燃焼を補完し、自分らしくきちんと死ぬために開発」した製品である。この「絶対負」の思想を裏打ちする科学としては、カナダのC.Eドールマン博士の菌や腸内細菌の研究、ルイ・パストゥールの免疫学と細菌学、南方熊楠の粘菌学、サー・アレクサンダー・フレミングの細菌学実践を土台とした。また製品化にあたって、父の友人でもあった聖マリアンナ医科大学学長の戸栗栄三博士に助けられ、微生物学教室の施設や研究所を使わせてもらう。 1986年には、製造部門として、群馬県藤岡市に日本生物科学株式会社(現・㈱日本菌学研究所)を設立し、1988年にはバイオテック株式会社 本社が港区虎ノ門に移転する。以降、2011年まで虎ノ門で営業を続ける。1989年、日本生物科学株式会社 新館工場が完成。完全一貫生産体制となる。1990年代には、担子菌類菌糸体の培養及び、有効成分の分離抽出法をはじめ菌類の特許5件を取得[14]。また独自の生命燃焼論と思想・哲学を広めるための社内報の刊行が開始される。以降、10年間に亘って刊行される。
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@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
2001年、自身の名前を「草舟」と号す。号の由来は吉田松陰の「草莽崛起」から取られた。 美術・出版文化活動 2002年、画家・戸嶋靖昌と出会い、肖像画制作を依頼する。以後、執行草舟の肖像画は全部で6点、「巌の草舟」、「夜の草舟」、「春の草舟」、「夢の草舟」、「黒の草舟」、「魅せられたる魂―執行草舟の像―」。2004年、バイオテック株式会社 大阪支店を開設。2007年、戸嶋靖昌が亡くなり、800点に及ぶ作品と遺品、稲城市にある居宅兼アトリエを譲り受け保存することになる。戸嶋靖昌記念館を設立、戸嶋靖昌の長男が名誉館長となる[15]。 2008年、MIHO MUSEUMで開催された「大和し美し」展[16](9月2日-12月14日)、千葉市美術館にての同題展(2009年4月4日-5月10日)に執行草舟コレクションの安田靫彦作品を出品。2010年、最初の著作、実践哲学エッセイ『生くる』と詩歌随想集『友よ』が講談社より出版される[17]。この二冊は、1994年から10年に亘り刊行された社内報が講談社の目に留まり、出版の運びとなった。また2010年、ニューオータニ美術館「安田靫彦―花を愛でる心―」展、川崎市市民ミュージアム「安田靫彦―歴史画誕生の軌跡―」展[18](両展同時開催:3月13日‐4月18日)に、執行草舟コレクションの安田靫彦作品を出品。 2011年、バイオテック株式会社 新本社ビルを千代田区麹町に竣工ならびに本社移転。本社ビル内に執行草舟コレクション及び戸嶋靖昌記念館 常設展示場を開設する[19]。月刊オピニオン誌『正論』に、執行草舟の連載インタビュー「根源へ」[20] が掲載される。当時の『正論』編集長 桑原聡によるインタビューが二年間に亘って行なわれた。2013年、『正論』インタビューを元にした哲学・文学エッセイ『根源へ』が講談社より出版される[21]。 2015年、書店「読書のすすめ」の店長清水克衛との対談本『魂の燃焼へ』が、イースト・プレスより出版される。府中市美術館「武蔵府中 炎の油画家5人」展[22](5月16日-7月5日)に戸嶋靖昌の作品を出品。駐日スペイン大使館「孤高のリアリズム―戸嶋靖昌の芸術―」展(11月5日‐11月28日)に戸嶋靖昌の作品を出品、入場者数5,000人を超え、スペイン大使館史上最高の入場者数となる[23]。ワック株式会社の雑誌『歴史通』(隔月誌)に自身の半生を語ったインタビューが、二年に亘り連載される[24]。 2016年、『孤高のリアリズム―戸嶋靖昌の芸術―』が講談社エディトリアルより出版される[25]。戸嶋靖昌の生涯とその芸術が一冊になっており、また、國學院大學教授 小池寿子による論文が寄稿されている。執行草舟コレクションの真髄とその作品を紹介した『憂国の芸術』が講談社エディトリアルより、老いることを問うた一冊『耆に学ぶ』(共著:清水克衛、吉田晋彩、西田文郎、寺田一清)がエイチエスより出版される。 2017年、バイオテック株式会社ならびに日本生物科学株式会社の社名を変更。株式会社 日本生物科学(旧 バイオテック株式会社)、株式会社 日本菌学研究所(旧 日本生物科学株式会社)となる。㈱日本菌学研究所の本社工場竣工および本社移転。㈱日本菌学研究所は「かわさきマイコンシティ」に設立される[26]。また、雑誌『歴史通』に連載された自身の半生を語ったインタビューが『おゝポポイ!―その日々へ還らむ―』(PHP研究所)に纏められる。また、『「憧れ」の思想』(PHP研究所)が出版され、イエローハット創業者、鍵山秀三郎の目に留まり『すぐに結果を求めない生き方』(鍵山秀三郎著、PHP研究所)のまえがきで紹介される[27]。スペイン国営セルバンテス文化センターにて「戸嶋靖昌の見たスペイン」展[28](5月12日‐6月10日)を主催する。 2018年、日西外交樹立150周年記念、サラマンカ大学創立800周年記念として、『情熱の哲学―ウナムーノと「生」の闘い―』(佐々木孝著)を監修、またミゲール・デ・ウナムーノの長編宗教詩『ベラスケスのキリスト』(安倍三﨑訳)を監訳する。サラマンカ大学付属日西文化センター、皇后美智子さまホールにて「いま、ウナムーノを問う―日本人画家 戸嶋靖昌によるオマージュ―」展[29](5月17日- 6月15日)、駐日スペイン大使館にて「いま、ウナムーノを問う」展(9月12日-10月9日)を主催。また、臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師との対談が雑誌『衆知』[30] に掲載され、『対談 風の彼方へ―禅と武士道の生き方―』(PHP研究所刊)へと纏められた。また神戸大学医学部生 佐堀暢也との対談『対談 夏日烈烈―二つの魂の語らい―』が刊行される。
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@user-nf7zs1dx9t 24 күн бұрын
本当に見てみたいです✨
@user-ky1ji1jy2q
@user-ky1ji1jy2q 24 күн бұрын
小林秀雄は 英語だけの鈴木大地と違い フランス語の読解力がありました。
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@user-pg8vt9yb4e 23 күн бұрын
@@user-ky1ji1jy2q ・小林秀雄の「人生」論 (NHK出版新書 665) 新書 - 2021/11/10 浜崎 洋介 (著) “批評の神様”が生涯をかけて見出した「直観を信じ、充実した生を送る」ための知恵 誰もが小林秀雄を知っている。だが小林の最大の関心事が何であったかを知る人はいない――。本書はこの状況を打開しつつ、現代の日本人に向けて確かな「生きる指針」を与える。日本最高の知性と呼ばれた小林の活動を三期に分けて、小林自らの問い、「人生いかに生くべきか」への答えが深化し明確になってゆく過程をクリアに描き出すのだ。気鋭の批評家が懇切丁寧に語り下ろす、「小林秀雄・入門講義」にして真正な日本人論! 序 章 「人生の教師」という像 第一章 批評とはどんな営みなのか 第二章 自己を支えるものとは何か 第三章 直観を信じるということ 終 章 「栗の樹」はどこにあるのか ・小林 秀雄 (こばやし ひでお、1902年〈明治35年〉4月11日[注釈 1] - 1983年〈昭和58年〉3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家、美術・古美術収集鑑定家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 人物 日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。[要出典]アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。[要出典] 妹の高見沢潤子[注釈 2]は、作家・随筆家。夫は『のらくろ』で知られる漫画家の田河水泡。 長女・明子の夫は、白洲次郎・正子の次男・兼正。従弟は英文学者の西村孝次、西洋史学者の西村貞二。文藝評論家の平野謙は又従弟[注釈 3]。 経歴 1902年(明治35年)4月11日、東京市神田区(現在の東京都千代田区)猿楽町に小林豊造、精子の長男として生まれた。本籍地は兵庫県出石郡出石町鉄砲町。父豊造は[注釈 4]、ベルギーアントワープ市でダイヤモンド加工研磨の技術を学び、日本にその技術と機械とを持ち帰り、「洋風装身具製作」の先駆者となった[1]。また日本で最初に蓄音機用のルビー針を作るなど、数々の技術を開発している。1915年(大正4年)3月、白金尋常小学校を卒業。同年4月、東京府立第一中学校入学。同期に迫水久常、西竹一ら、一期上には富永太郎、蔵原惟人、河上徹太郎(神戸一中から編入)らが在学していた。1920年(大正9年)3月、府立一中卒業。第一高等学校受験、不合格。1921年(大正10年)3月、父豊造没。同年4月、第一高等学校文科丙類入学。 1925年(大正14年)4月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。同級生に今日出海、中島健蔵、三好達治らがいた。同月富永太郎を通じて中原中也を識る。同年11月、長谷川泰子と同棲。1928年(昭和3年)2月、富永の弟次郎を通じて大岡昇平を識る[注釈 5]。同年3月、東京帝国大学卒業。同年5月、単身家を出て大阪に行く。後に奈良に住み、志賀直哉家に出入する。長谷川泰子との同棲関係は解消。1929年(昭和4年)9月、『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論第二等入選作として発表された。なお一等は宮本顕治『「敗北」の文学』であった[注釈 6]。1930年(昭和5年)4月、『アシルと亀の子』を『文藝春秋』に発表、以後翌年3月まで文芸時評を連載、批評家としての地位を確立した。1932年(昭和7年)4月、明治大学に文芸科が創設され、講師に就任し、日本文化史、ドストエフスキー作品論などを講じた。 1933年(昭和8年)10月、文化公論社より宇野浩二、武田麟太郎、林房雄、川端康成らと『文學界』を創刊。1935年(昭和10年)1月、『文學界』の編輯責任者となり、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める。 1938年(昭和13年)3月、「文藝春秋」特派員として中国大陸に渡り、上海を経て27日、杭州で火野葦平に第六回芥川賞を渡す。小林秀雄は6月に明治大学文芸科教授に昇格した[3]。 1940年(昭和15年)4月、『文學界』の編輯委員を辞任する。 1946年(昭和21年)2月、 「近代文学」で座談会「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」[注釈 7]。同月『無常といふ事』を創元社より刊行。同年5月、母精子没。同年8月、明治大学教授辞任。同年12月、青山二郎・石原龍一と『創元』を編集、「第一輯 梅原龍三郎特集」で『モオツアルト』を、「第二輯 幸田露伴特集」で『「罪と罰」について』を発表。1948年(昭和23年)4月 - 創元社取締役就任。1951年(昭和26年)3月、第一次『小林秀雄全集』により日本芸術院賞受賞[4]。1953年(昭和28年)1月、『ゴッホの手紙』により読売文学賞受賞。1958年(昭和33年)12月、『近代絵画』により野間文芸賞受賞。1959年(昭和34年)12月、日本芸術院会員となる。1961年(昭和36年)10月、創元社取締役辞任。1963年(昭和38年)11月、文化功労者に顕彰。1965年(昭和40年)6月、『本居宣長』を「新潮」に連載開始(1976年(昭和51年)まで)。1967年(昭和42年)11月、文化勲章を受章。1978年(昭和53年)6月、『本居宣長』により日本文学大賞受賞。 1982年(昭和57年)3月、尿道痛と血尿のため川崎市立川崎病院に入院。膀胱腫瘍と診断される。7月、慶應義塾大学病院で膀胱全摘出手術を受ける。9月末、退院し自宅静養。1983年(昭和58年)1月、腎不全を起こしたと見られる。慶應義塾大学病院に再入院したが2月末に容体が悪化し、1983年(昭和58年)3月1日午前1時40分、腎不全による尿毒症と呼吸循環不全のため慶応義塾大学病院で死去[5]。
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@user-ky1ji1jy2q 24 күн бұрын
私は 京都生まれの京都育ちの京都探索家の高齢者です。 結界の吉田神社から東の吉田神楽岡町に 私のヴァイオリンの先生のご自宅がありました。 京大の位置 即ち 吉田神社の西側より 東側の位置に 地霊的に遥かに魅力を感じ続けています。 和辻哲郎が 幽邃の地 若王子に住んだのは 必然でした。
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@user-pg8vt9yb4e 23 күн бұрын
・船岡山 (ふなおかやま)は、京都府京都市北区に所在する山。 概要 京都市北区紫野北舟岡町に位置する、標高111.7m、面積2万5000坪の小山である。船岡山城の遺構が建勲神社および船岡山公園として整備されている。 なお、船岡山公園は、京都市の都市計画公園第1号であるが、大徳寺所有地を借地している。 山頂には三等三角点が設置されている。五山の送り火の見晴らしが良く、当日は混雑する。山名の由来は『都名所図会』によると舟の形に似るところによるという。 船岡山の北側及び南側に断層があり、地学上、隆起した山とされている。 歴史 平安京の中軸線である朱雀大路の真北に位置しているところから、造都に際して船岡山は南北軸の測量基準点となったとの説があり、また頂上付近には露頭した岩が見られるため造都以前から磐座(いわくら)として信仰されていたとする説がある[1]が、いずれも歴史家村井康彦の言説を発端とするものであり、村井自身これらについて学問的に考察していない。したがって、これらの説は今のところ学問的な裏付けのない「俗説」の域を出ない。 古来、船岡山は景勝の地であった。その美観が尊ばれ、清少納言も『枕草子』231段にて「岡は船岡」と、思い浮かぶ岡の中では一番手として名前を挙げている。一方では都を代表する葬送地でもあり、兼好法師も『徒然草』137段にて「(都の死者を)鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と述べている。 また、四神相応説に言う「平安京四神(玄武、青龍、朱雀、白虎)」の玄武(=高山)に当てる説もあるが、「高山」とするには低すぎるため、なお検討を要する[2]。先に述べたように、船岡山は平安初期から葬送の地となっている。この点からも船岡山が神聖であるべき四神のひとつであるとの説は疑わしい。 ・巨椋池 (おぐらいけ)は、京都府の南部、現在の京都市伏見区・宇治市・久世郡久御山町にまたがる場所にかつて存在した池。規模からいえば池よりも「湖」と呼ぶ方がふさわしく、現在「池」と呼んでいる最大の池である湖山池よりも広かった。 形成されたのは縄文前期頃と比較的新しく、それより古い時代に存在した山城湖の名残でできたものではない[1]。 豊臣秀吉による伏見城築城期の築堤をはじめとする土木工事などにより時代によって姿を変え、最終的には1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた干拓事業によって634haの農地に姿を変えた[1]。干拓前の巨椋池は周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。 巨椋池の姿の変遷 巨椋池の形態に大きな変化を与えた事業によって、いくつかの段階に分けて考えることができる。 古代から秀吉の伏見築城期まで 宇治川が京都盆地に流れ込むところは、京都盆地の中でも最も低いところに位置しており、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川は、京都盆地へ流入する宇治から、京都盆地の西端にあった木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していた。これがこの時代の巨椋池である。 平安京と平城京の間に位置しており、古代、中世を通じて、水上交通の中継地として大きな役割を果たした。また陸上交通は、巨椋池を避けるように盆地の外縁部を通っていた。 巨椋池の東側には多くの島州が形成されていた。現在も残る槇島や向島や中書島などの地名はそれらが巨椋池の水面に浮かぶ島々だったことに由来する。またこれらを一望にする景勝地は貴族の別荘として、宇治には藤原頼通によって平等院が、指月の丘(現在の桃山丘陵南麓)には頼道の子・橘俊綱によって伏見山荘が営まれた。
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@user-pg8vt9yb4e 23 күн бұрын
・比叡山 (ひえいざん)は、都富士という有名な呼び名や、叡山、北嶺、天台山とも呼ばれ、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の両府県境に位置する大比叡(だいひえい 海抜848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ 海抜838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合もある[注釈 1]。大比叡の中腹に天台宗の総本山延暦寺がある。 古事記では比叡山は日枝山(ひえのやま)と表記され、大山咋神が近江国の日枝山に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。平安遷都後、最澄が堂塔を建て天台宗を開いて以来、王城の鬼門を抑える国家鎮護の寺地となった[1]。京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされた[1]。 延暦寺が日枝山に開かれて以降、大比叡を大物主神とし小比叡を大山咋神とし地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされ、大山咋神に対する山王信仰が広まった。また比叡山山頂の諸堂や山麓の日吉大社などを参拝して歩く回峰行も行われ信仰の山である。「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をぞいふ」と慈円が詠んだことでも知られる[3]。 1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により、老樹が多数倒木する被害を受ける[8]。 ・石清水八幡宮 (いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市八幡高坊にある神社。旧称は男山八幡宮。 二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。 概要 平安時代前期の貞観年間に大安寺僧の行教が宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請した神社で、京都の南南西の男山(鳩ヶ峰、標高143メートル)山上に鎮座された[1][2][3]。創建年については『元享釋書』や『石清水遷座縁起』などでは貞観元年(859年)、『類聚国史』などでは貞観2年(860年)としている[2]。行教は貞観元年に宇佐八幡宮で八幡大菩薩のお告げを受け、それを朝廷に報告し、清和天皇の命を受けて貞観2年に八幡造りの社殿が造営されたともいわれる[1]。 都の近くに創建されたことから朝廷の尊信を受けて、賀茂神社、松尾大社、春日大社などと同等の待遇を受けるようになった[2]。さらに平安末期には白河天皇の殊遇を受け、伊勢神宮とともに二所の宗廟として崇敬されるようになった[2]。 また、平安京においては北東側の鬼門を守護する延暦寺に対し、南西側の裏鬼門を守護する神社として位置づけられた[3]。八幡神を氏神とする源氏の崇敬を受け、特に源義家は当社で7歳の時に元服し「八幡太郎義家」を名乗った[1]。そのため武神として信仰され、源氏の広がりとともに壺井八幡宮・鶴岡八幡宮など、当社から各地に八幡宮が勧請された。
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@user-pg8vt9yb4e 23 күн бұрын
四神相応 (しじんそうおう)は、東アジア・中華文明圏において、大地の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。四地相応(しちそうおう)ともいう。なお四神の中央に黄竜や麒麟を加えたものが「五神」と呼ばれている。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、中国や朝鮮と日本では大きく異なっている。 日本 現代の日本では、東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武が四神(四禽)として考えられ、次表のように四神を「山川道澤」にそれぞれ、青龍を川、白虎を道、朱雀を池(沢)、玄武を山と対応させる解釈が一般に流布している。 方位 四神 地勢 色 季節 東 青龍 川/流水 青 春 西 白虎 道/大道 白 秋 南 朱雀 沢/湖沼 朱 夏 北 玄武 山/丘陵 玄 冬 この解釈が一般的となったのは、古く平城京・平安京は四神相応の都とされ、また、平安時代から江戸時代にかけての書物に、平安京をモデルとして四神のこと[3]や山川道澤のこと[4]が見え、さらには具体的地名に充てる説[5]が示されることによる。 これにより、近年、山川道澤説に従って具体的に地理的に比定する試みが近年盛んになっている。 四神(四禽)については、中国の天文学により、天空の四方に見える主な28の星を 二十八宿と名づけ、その星をつないだ形について、東が龍、南が鳥、西が虎、北が亀に見えるというところから起こった[6]。 四神思想は中国からもたらされたものであるが、四神に地形を相応させる思想は日本特有のもので、中国には見られないという説もある[7]。 平安京 平安京については、東・青龍を鴨川に、西・白虎を山陰道、南・朱雀を巨椋池、北・玄武を船岡山に、それぞれ充てる説が昭和50年ごろから村井康彦らにより広められ[8]、現在ではこれが定説になった感がある[9]。 これに対して足利健亮は、西白虎・大道を平安京西辺に沿って設けられたとする「木島大路(木嶋大路)」[10]、南朱雀・沢畔は下鳥羽付近の遊水池、あるいは横大路付近にある土地(字朱雀)[11]との説を提唱した[12]。別に、目崎茂和は、青龍=鴨川、白虎=双ヶ丘もしくは西山、山陰道、朱雀=巨椋池、玄武=船岡山・北山という説を述べた上で、「都を守る風水の目はいくつもあっていいし、多様に考えてみて」と話しており[13]、複数の四神と思しきポイントが学者や風水研究家から提出されている。 一方、四神を山川道澤に当てはめる説に対しては、異論も唱えられている。黄永融は、風水説である「天心十道」が当てはまると考えており、平安京は、船岡山・大文字山・西山・甘南備山(在 京田辺市)を四神として、その交差点に大極殿を建てたという説を立てた[14][15]が、中国哲学研究者で風水・易学についても著作のある三浦国雄はこの説に否定的な見解を述べている[16]。平安京の「四神=山川道澤」説に対する批判として、歴史考古学研究者である加藤繁生は、平安京四神相応説に疑問を呈しつつ、仮にそうであってもそれが山川道澤であったはずはなく中国起源の都市風水に則り「三閉南開」といえる地形であったとし、「三閉」を京都盆地の東、北、西の三方を囲む山(東山・北山・西山)ではないかとしている[8]。 また、四神相応によって京都が建都されたという思想は、福原遷都の際に遷都批判の理由付けとして成立したものとの指摘[17]や、平安京における四神と山川道澤との対応の典拠は建都から時代を下った平安後期成立の『作庭記』であり、また、『作庭記』は寝殿造を念頭においた理想の庭園作りの作法[18]を解説するものという性格上、平安京についての言及はなく、ましてや平安京のどこが山川道澤のどれと対応しているかといった具体的地名などが記されているわけではないことが指摘される[8]。 『作庭記』の「四神=山川道澤」による「宅地風水」とは別物である「都市風水」により平安京選地がなされただろうという説に立てば、平安京の四神が「山川道澤」を表象し、それぞれに具体的地形を当て嵌めていたという考え方は、当然相容れないことになる。 一方、『作庭記』よりも古い、1058年頃の成立といわれる『雲州消息』に、四神を山川道澤に対応させる考えが記されており四神相応思想は平安中期には成立していたとの指摘や[19]、また、天長5年(828年)の日付がある空海の「綜芸種智院式」に、綜芸種智院の立地について「兌白虎大道。離朱雀小澤。」との記載があることなどから、四神を山川道澤を対応させる考え方そのものは平安建都前後には成立していたとする見方もある[20]。 そもそも平安京について、選地の際に僧を伴っているから風水も選地理由のひとつであった可能性はあるものの、四神相応の地として選地されたことは、『日本紀略』に示される平安遷都の詔[21]において「云々」と略された部分に記されたかもしれないが、史書には現れない。 だが、古墳時代後期の高松塚古墳、キトラ古墳には四神図、星宿図があり、平安京に先立つ平城京では、その建都にあたっての詔勅[22]に「四禽図に叶い」と四神相応の地であると考えられていた。 平城京の立地は、平安京で説かれるような山川道澤にはあてはまらない[23]が、このような現在考えられる平安京での四神と山川道澤との対応とは場所によって異なる対応の「四神相応」が、平泉の毛越寺の古鐘銘の例[24]など[25]にみられるように、平安京建都や『作庭記』の成立以降の鎌倉時代においても存在したことを示している[20]。 このように日本における四神相応の解釈は古代から近世にかけて独自に変化し、現在のものとなったと考えられる。
@user-rz8bo4om3d
@user-rz8bo4om3d 22 күн бұрын
エゴイズムに幸せになろうとすると、お天道さまに生かされていると感じます。それがわかれば、頭と身体と魂で生きていけると思います。生きる理屈が必要なほど日本人は病んでいます。
@warauUSHI
@warauUSHI 24 күн бұрын
現代に向かえば向かうほど 哲学は劣化する
@user-nq6ve5vi9f
@user-nq6ve5vi9f 22 күн бұрын
中島義道、「日本人に哲学者はいない」らしいよ。
@ukei0003
@ukei0003 24 күн бұрын
直感とは、何かが問題である。 哲学は、直感のレトリック。 直感は、神即ち霊0祖霊からメッセージである。古神道のに教義はないのは、個人の教義はそれぞれ違う。祖霊、精霊からのメッセージが教義である。言葉はいらない。 ただ今をどう生きるか、 今の心地よさではなく。空になれるか、 中今を作れるかが問題である。
@user-eo5kk4oq4n
@user-eo5kk4oq4n 21 күн бұрын
京都学派の唯一の欠点は、創文社刊の『ハイデッガー全集』をこともあろうに仏教用語で訳出した事です。それでなくても難解なハイデッガー哲学を狭い世界でしか通用しない術語で訳されて、読者としては『読みにくいったらない。』『こんなことは同人誌で趣味でやれ。』(木田元さん)という傍迷惑な代物でした。
@ryuichioshima5654
@ryuichioshima5654 18 күн бұрын
新存在論のマルクスガブリエルさんもお釈迦さんに...
@user-tg4kj5xt8f
@user-tg4kj5xt8f 12 күн бұрын
外国人は日本の思想は禅である考えていることが多い。 しかし、よく見ると日本の禅はアニミズムの変形である。 外国人には不思議な思想にしか見えないと思う。
@cosmos99
@cosmos99 24 күн бұрын
聖書だったですかねえz、人がイエスに”神は何処にいますか?”と聞いたときに。イエスは「神はあなた”がた”の”なか”にいます」と答えたそうでーーーここで、この、”がた”と”なか”が 問題という事、だと。何かで読んだことが有ります。要はあなたがたは各一人か?複数か?/なかは中なのか?仲なのか、?内という意味か?---ギリシャ語だったでしょうか、その、”なか”が曖昧な言葉だという人もいましたね。要は一つとして関係性を問い返したのではないかと思います。また、ブレヒトかなあ、{ガリレオの生涯}のなかで、ガリレオのある、弟子かな、聴くんです、”神は何処にいますか”と、ブレヒトはガリレオに”宇宙をみて(多分、当時設定で、望遠鏡で見てみ!っと)み、いなかったら、神は貴方のなかにいます”と答えさせていますね。---どうも、ヒエロニムス、ボスの絵の 天地創造の左上に描かれた髭の爺さんの神の像ではなさそうだという事だと思います。さあ、貴方はどう思いますか?
@user-ot4vx7cp4l
@user-ot4vx7cp4l 24 күн бұрын
ノーベル賞を主宰してる裏の人間は誰か知ってる⁉️🤭
@user-jy7bq3hq6l
@user-jy7bq3hq6l 24 күн бұрын
八百万いただきます。
@user-sd7rh4go1r
@user-sd7rh4go1r 24 күн бұрын
17:00自分用
@user-pg8vt9yb4e
@user-pg8vt9yb4e 23 күн бұрын
縁起 (えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ[2][3][1]。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す[2]。 仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる[2][3]。因縁生、縁起法、縁生、因縁法[2]、此縁性[3][注釈 1]ともいう。種々の縁起説は、〈煩悩(惑)→行為(業)→苦悩(苦)〉を骨格とするが、無明を根本原因とする12の項目からなる縁起説(十二因縁)が次第に定着した[3]。後世には、縁起の観念を分けて、業感縁起や頼耶縁起などの諸説が立てられた[2]。 初期仏教 初期仏教および部派仏教までの段階の縁起説は、迷いの世界(有為)のみを説明するものであり、悟りの世界(無為)は縁起の中に含まれなかった[3]。この段階までの縁起説においては、悟りは縁起を超越し縁起の滅した世界であるとされた[3]。 釈迦の発見 十二因縁 無明(無知) ↓ 行 ↓ 識 ↓ 名色 ↓ 六処 ↓ 触 ↓ 受 ↓ 愛 ↓ 取 ↓ 有(存在) ↓ 生(誕生) ↓ 老死(老いと死) 初期仏教時代の縁起説は、苦しみ悩む有情が主題であったため、老死という苦しみの原因を無明に求める十二支縁起(十二因縁)説が代表的なものであった[3]。 全てのものは原因から現れ、その原因とその止滅を如来は説かれた。偉大なるサマナはこのように説かれた。 -  律蔵大品,1.23.10 経典によれば、釈迦は縁起について、 (世間の)人々は、執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている。 そのような執着に歓喜し、執着を愛し、執着を好ましく思っている人にとって、此縁性、縁起の法という理論は受け入れがたいものである。 -  パーリ仏典, 経蔵中部 聖求経, Sri Lanka Tripitaka Project と述べた。またこの縁起の法は、 わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり と述べ、縁起はこの世の自然の法則の因縁生起の原理で原因と条件の結果の3つの構造で成立していて、[4]自らはそれを識知しただけであるという。 法を見る 象跡喩大経は、縁起を知ることと法を知ることを関連付けている[5][6]。 世尊(釈迦)は、このように言われている。縁起を見る者は、その法を見る。法を見る者は、縁起を見る、と。 五取蘊(pañcupādānakkhandhā)とは、この縁起したもの(Paṭiccasamuppannā)である。 -パーリ仏典, 中部 28.象跡喩大経, Sri Lanka Tripitaka Project
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@user-pg8vt9yb4e 23 күн бұрын
因縁 (いんねん)とは、サンスクリット語の Nidana に由来し「原因、動機づけ、機会」といった意味合いである[2]。この語はni (降下、内化)と da (束縛, dana)による熟語である[3]。リグ・ヴェーダにおいては節10.114.2[4]に登場し、また節 6.32.6 においては、馬などを別のものに繋げておくロープやバンドを指している[5](絆と同様の意味)。 また仏教において因(梵: hetu)と縁(梵: pratyaya)のこと[6][7]。縁因ともいう[8]。狭義には、結果(果)を生じさせる内的な直接の原因を因(内因)といい、外からそれを助ける間接の原因を縁(外縁)というが、広義では、その両方を合わせて因とも縁ともいう[6][9]。 仏教における因縁 「縁起」、「因果」、および「業」も参照 一切の存在は、因縁によって生じ、因縁によって滅する[6]。因縁によって生滅するという道理を因縁生滅の理といい、因縁によって生じることを因縁生、縁生、縁成、縁起などという[6]。因縁によって生滅する一切の法はそのまま空なる存在であるという道理を因縁即空の理という[6]。パーリ仏典では相応部因縁篇(Nidana-vagga)などで語られる。一切の現象は原因によって現れる、すなわち「偶然」「突然」「神による創造」などは否定される[10]。 初期の仏教では因(hetu)も縁(pratyaya)も、ともに原因を意味する言葉であり、後に区分が生じて因を原因、縁を条件、とみなした[要出典]。 パーリ経典に登場する沙門[11] (六師外道) (沙門果経より[12]) 沙門[11] 論(思想)[12] プーラナ・カッサパ 無道徳論、道徳否定論: 善行も悪行もなく、善悪いずれの報いも存在しない。 マッカリ・ゴーサーラ (アージーヴィカ教) 運命決定論 (宿命論): 自己の意志による行いはなく、一切はあらかじめ決定されており、定められた期間流転する定めである。 アジタ・ケーサカンバリン (順世派) 唯物論、感覚論、快楽主義: 人は四大からなり、死ぬと散じ何も残らない。善悪いずれの行いの報いもないとし、現世の快楽・享楽のみを説く。 パクダ・カッチャーヤナ (常住論者) 要素集合説:人は地・水・火・風の四元素と、苦・楽および命(霊魂)の七つの要素の集合にで構成され、それらは不変不動で相互の影響はない。 マハーヴィーラ (ジャイナ教) 相対主義、苦行主義、要素実在説: 霊魂は永遠不滅の実体であり、乞食・苦行生活で業の汚れを落とし涅槃を目指す。 サンジャヤ・ベーラッティプッタ 不可知論、懐疑論: 真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする。判断の留保。 表話編歴 仏教では、修行による成仏を前提としており、 宿作因説 - 因や果を固定したり、創造神の力を因としたり、外在的・宿命的な力を因とする説 無因有果説 - 因なく最初から果があったとする宿命論的な主張 無因縁説 - 原因は有り得ないという説 に対してきびしい批判を行った(六師外道)[要出典]。 龍樹は、『中論』観因縁品で、無自性空の立場からこれらの外部の説と、説一切有部の四縁六因説を批判し、四諦品で因縁によって生じる諸法は空であり、条件が変われば、変化すると説いている[要出典]。
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@user-pg8vt9yb4e 23 күн бұрын
小マールキヤ経[1] (しょうマールキヤきょう、巴: Cūḷamālukya-sutta, チューラマールキヤ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第63経。『摩羅迦小経』(まらかしょうきょう)[2]、『箭喩経』(せんゆきょう)[3]とも。 類似の伝統漢訳経典としては、『中阿含経』(大正蔵26)の第221経「箭喩経」や、『箭喩経』(大正蔵94)がある。 釈迦が、比丘マールキヤプッタに「毒矢のたとえ」で有名な説法をする。 マールキヤプッタの問い 釈迦が舎衛城の祇園精舎に滞在している際に、マールキヤプッタ尊者の中に、 世界(loka)は常住(sassato)であるのか 世界は無常(asassato)であるのか 世界は有限(antavā)であるのか 世界は無限(anantavā)であるのか 生命(jīvaṃ)と身体(sarīra)は同一か 生命と身体は別個か 修行完成者(如来)は死後存在するのか 修行完成者(如来)は死後存在しないのか 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか といった10の疑問が生じた(上記の通り、対になる選択肢を統一すれば、実際は4つの疑問である)。 マールキヤプッタ尊者は、これらの疑問に釈迦が答えてくれるなら修行を続けるが、答えてくれなければ修行を放棄しようと考えつつ、釈迦にこれらについて問う。 毒矢のたとえ それに対して釈迦は、「私の下で修行すればそれらについて説くと私は話したか、またマールキヤプッタはそのような期待でこの修行を始めたのか」と問い返す。マールキヤプッタ尊者はどちらも違うと否定する。 釈迦は「もし私にそうした疑問について説いてもらえない限り、私の下で修行しないと言う人がいたとすれば、その人は私にそれについて説いてもらう前に、死期(寿命)を迎えてしまうことになるだろう」 例えば、毒矢に射抜かれた人がいて、その友人同僚・血縁者たちが内科医・外科医にその手当てをさせようとしているところで、その当人が 『私を射た者が王族(クシャトリヤ)であるか、バラモンであるか、農商工業者(バイシャ)であるか、奴婢(シュードラ)であるかが、知られない内は、矢を抜くことはしない』 『私を射た者の名や姓が知られない内は…』 『私を射た者が長身か短身か中くらいかが知られない内は…』 『私を射た者の肌は黒いか褐色か金色か知られない内は…』 『私を射た者がどの村・町・市に住んでいるかが知られない内は…』 『私を射た弓が普通の弓か、弩(いしゆみ)であるかが知られない内は…』 『弓の弦はアッカ草で作ったものか、サンタ草で作ったものか、動物の筋繊維で作ったものか、マルヴァー麻で作ったものか、キーラバンニン樹で作ったものかが知られない内は…』 『矢の羽がワシの羽か、アオサギの羽か、タカの羽か、クジャクの羽か、シティラハヌ鳥の羽か、知られない内は…』 『矢幹に巻いてある筋繊維が牛のものであるか、水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるか知られない内は…』 『矢尻は普通の矢か、クラッパ矢か、ヴェーカンダ矢か、ナーラーチャ矢か、ヴァッチャダンタ矢か、カラヴィーラパッタ矢であるかが知られない内は…』 といったことを考えていたとしたら、その人はその答えを得る前に死んでしまう それと同様に、「それらの答えが与えられてはじめて、人は修行生活に留まるということはない」「それらがどうであろうと、生・老・死、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはあるし、現実にそれらを制圧する(すなわち、「毒矢の手当てをする」)ことを私は教えるのである」 「故に、私は説かないことは説かないし、説くことは説く」「先の疑問の内容は、目的にかなわず、修行のための基礎にもならず、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立たないので、説かない」 kasmā cetaṃ māluṅkyaputta mayā abyākataṃ na hetaṃ māluṅkyaputta atthasaṃhitaṃ, nādibrahmacariyakaṃ, netaṃ1 nibbidāya. Na virāgāya na nirodhāya na upasamāya na abhiññāya na sambodhāya. Na nibbānāya saṃvattati. Tasmā taṃ mayā abyākataṃ[4] マールキャプッタよ、何故これらについて、私(釈迦)は回答しないのか。 マールキャプッタよ、なぜならば、必要性が無く、梵行の導入とならず、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃につながらないからである。 そのため私は、これらに回答しないのである。 「逆に四聖諦は、目的にかない、修行のための基礎にもなり、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立つので、説く」「この説かないものと、説くものとの違いを、了解せよ」と諭される。 マールキヤプッタ尊者は歓喜し、釈迦の教説を信受した。
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@user-pg8vt9yb4e 23 күн бұрын
三業 Cetanāhaṃ bhikkhave kammaṃ vadāmi, cetayitvā kammaṃ karoti kāyena vācāya manasā, 比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。 思って(cetanā)から、身体(kāya)・言語(vāk)・意(manas)によって業をなす[14]。 -パーリ仏典, 増支部六集 63.洞察経, Sri Lanka Tripitaka Project 業は一般に、身(しん)・口(く、もしくは語)・意(い)の三業(さんごう)に分けられる[2]。戒においても十悪業として、三業に分類して説かれる。 身業(しんごう, 梵: kāya-karman[15]、カーヤ・カルマン) - 身体に関わる行為[16]。身体的行為[15]。 説一切有部においては、身業とは、その行為・動作をする瞬間瞬間に身体が示す形状であるとする[17]。たとえば、人を打つという行為は、映画のフィルムの1こま1こまの画面の変化のように、こぶしを振り上げてそれを相手の頭上に振り下ろすという過程の瞬間瞬間に、身体の形状が少しずつ変化していくことによって完遂される[17]。その各瞬間の身体の形状、すなわち色法(眼識の対象)こそが身業であるとする[17]。 十悪業においては、身の三業は殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう;盗み)・邪淫(じゃいん;不倫、道に外れた性行為[18])となる[19]。 口業(くごう, 梵: vāk-karman[15]、ヴァーク・カルマン) - 言語に関わる行為[16]。言語表現[15]。語業(ごごう, 梵: vāk-karman[20]、ヴァーク・カルマン)ともいう[21]。 説一切有部においては、一瞬一瞬に発音される声音の積み重なりが言語をなすのだから、声法(耳識の対象)こそが口業であるとする[17]。 十悪業においては、口の四業は妄語(もうご; 嘘をつく)・両舌(りょうぜつ; 二枚舌を使う)・悪口(あっく; 悪口を言う)・綺語(きご; 無益なおしゃべり)となる[19]。 意業(いごう, 梵: manas-karman[15]、マナス・カルマン) - 意志に関わる行為[16]。心意作用[15]。 十悪業においては、意の三業は貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚痴(愚かさ)となる[19]。 思業と思已業 Manopubbaṅgamā dhammā manoseṭṭhā manomayā Manasā ce paduṭṭhena bhāsati vā karoti vā Tato naṃ dukkhamanveti cakkaṃ'va vahato padaṃ. ものごと(諸法)は、意(manas)が先行し、意が最大の原因であり、意をもとに作りだされる(=意業)。 もしも、けがれた意によって、話したり(=語業)、行動するならば(=身業)、苦しみがついてくる。 荷を運ぶ牛の足跡に車輪が従うように。 -パーリ仏典, 法句経 第一章 1, Sri Lanka Tripitaka Project 業は、意志の活動である思業(しごう, cetana kamma)と、思業が終わってからなされる思已業(しいごう, cetayitva kamma)との2つに分けられる[22][2]。 説一切有部の阿毘達磨大毘婆沙論では、第一段階を意業(思業)とし、第二段階は身業・口業のみ(思已業)とした[23][22]。 一方で阿含経では、行為が行われる場合は、第一段階:思(cetanā; 意志の発動)の心作用、第二段階:実際の行為(身業・口業・意業)があるとしている[17]。ここでは、(第二段階の意業だけでなく)、第一段階の思をも業のなかに含めて理解している[17]。そればかりでなく、第一段階こそが業の本質的なものだとして重要視している[24]。 なお、経量部や大乗仏教は、三業すべての本体を思(意志)であるとする[2][22]。
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@user-pg8vt9yb4e 23 күн бұрын
表業と無表業 説一切有部は、身業と語業には表(ひょう)と無表(むひょう; 梵: avijñapti[25]、アヴィジュニャプティ)とがあるとし、これらは表業(ひょうごう; 梵: vijñapti-karman[26]、ヴィジュニャプティ・カルマン)と無表業(むひょうごう; 梵: avijñapti-karman[25]、アヴィジュニャプティ・カルマン)ともいわれる[2]。表業は、「知らしめる行為」[27]、外に表現されて他人に示すことができるもの[2]、行為者の外面に現われ他から認知されるような行為[27]を意味する。無表業は、他人に示すことのできないもの[2]、善悪の業によって発得される悪と善を防止する功能(習性)[28]、行為者の内面に潜み他から認知されないような行為[27]を意味する。また、無表業は無表色(むひょうしき、梵: avijñapti-rūpa)[29]ともいう。 阿毘達磨倶舎論において、業を起こした時の心が善心ならそれと異なる不善あるいは無記の心を乱心といい、業を起こした時の心が不善心ならそれと異なる善あるいは無記の心を乱心という[30]。また、無想定や滅尽定に入って心の生起が全くなくなった状態を無心という[30]。この上で無表色は、 阿毘達磨倶舎論 の分別界品第一においては、これらの「乱心と無心等(この2つに不乱心および有心を含めた4つを四心という[31]。著者の世親はこれによって全ての心の状態を示し得たと考えている[32]。)の者にも随流(法が連続生起して絶えない流れをなすこと[30]。なお、随流は相続(梵: pravāha)ともいう[33]。)であって、浄や不浄にして、大種(四大種)によってあるもの」と定義されている[34]。分別界品第一の定義は四分随流ともいう[28]。なお、無表色は四大種の所造であるが極微の所成ではない[35]。また、法処、法界に属しながら色法であり[35]、五根の対象とはならず、ただ意根の対象である[35]。 無表業とは、説一切有部の伝統的解釈によれば「悪もしくは善の行為を妨げる習性」で、具体的には律儀、不律儀、非律儀不律儀の三種であり(これは阿毘達磨倶舎論の分別業品第四の所説であり、この所説が無表業全体を解明しているという考え方がある[28] 。)、いわゆる「戒体」と同じものである[28]。 また、無表色は身無表と語無表の二種に分けられ、殺生、偸盗、邪淫の三つの身業と妄語、綺語、離間語、悪口の四つの語業を合わせた七支に関わるものである[31]。明治大正期より、近代仏教学者によって経部の種子説との混同や[36]、大乗仏教の立場から有部の無表業を誤謬として規定したり[37]、「仏教元来の無表」を想定することによって、無表色を「業の結果を生ぜしめるもの」とする理解が流行したが、文献学的に論証されたものではなく、根拠に乏しい[37]。 身表と身無表、語表と語無表の四つに意業を加えて五業という[2]。 引業と満業 総体としての一生の果報を引く業を引業(牽引業、総報業、引因とも)という[2]。これは人間界とか畜生界などに生まれさせる強い力のある業のことを指す[2]。他方、人間界などに生まれたものに対して個々の区別を与えて個体を完成させる業を満業という[2]。引業と満業の2つを総別二業という[2]。 共業と不共業 山河大地(器世間)のような、多くの生物に共通する果報をひきおこす業を共業(ぐうごう)といい、個々の生物に固有な果報をひきおこす業を不共業(ふぐうごう)という[2]。無著「大乗阿毘達磨集論」においては、共業による影響は、これを結果に対する増上縁 (adhipati-pratyaya) と考え、直接的な結果、すなわち異熟 (vipāka) とは考えない[38]。 三性業 善心によって起こる善業(安穏業)と、悪心によって起こる不善業(悪業、不安穏業とも)と、善悪のいずれでもない無記心によって起こる無記業の3つがあり、この3つを三性業という[2]。 三時業 業によって果報を受ける時期に異なりがあるので、業を下記の3つに分ける[2]。この3つを三時業という[2]。三時業の各々は、この世で造った業の報いを受ける時期がそれぞれ異なる[2]。 順現業(順現法受業、じゅんげんぽうじゅごう[要出典]、dṛṣṭadharma-vedanīya-karman[39]) - この世で造った業の報いを、この世で受ける[2]。 順生業(順次生受業、じゅんじしょうじゅごう[要出典]、upapadya-vedanīya-karman[40]) - この世で造った業の報いを、次に生まれかわった世で受ける[2]。 順後業(順後次受業、じゅんごじじゅごう[要出典]、aparaparyāya-vedanīya-karman[41]) - この世で造った業の報いを、次の来世より先の世で受ける[2]。 三時業は報いを受ける時期が定まっているので定業といい、報いを受ける時期が定まらないものを不定業(順不定業、梵: aniyata-karman[42])という[2]。三時業に不定業を加えて四業という[2]。
@127tEmperorREYMEYNIKE
@127tEmperorREYMEYNIKE 24 күн бұрын
たいようふれあ、ほっかいどうや、かいがいでもかんそく、されたでしょう?😊 わたしは、うそいってませんからね
@kazuakisatou5760
@kazuakisatou5760 24 күн бұрын
宮沢先生と浜崎先生の交換かな、
@user-nr3zq8ie8l
@user-nr3zq8ie8l 5 күн бұрын
そもそも哲学や哲学者って何なんですか? 社会的価値ってあるんですか? 例えばですね ソクラテスみたいに 社会の不正や腐敗 支配層や権威の不正や腐敗に対して 殺されることになっても声をあげた哲学者であるなら 我々一般人も すごいと思うし 尊敬もできるし 社会的価値あると思うんですが 道徳倫理なんて口で言うだけなら誰でもできるでしょ それどころか今の大学内部の不正や腐敗にさえ 声あげようとしない哲学に何の価値あるわけですか? ただ たんに自分たちは こんな難しいこと考えているんだぞ お前達民衆と違って こんなに頭いいんだぞと承認欲求だけですか?  そんな哲学なんぞバカにしてこそ真の哲学というものなのではないでしょうか?
@user-pg8vt9yb4e
@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
哲学であれ、宗教であれ、なんであれ在り様を言うと、日本人が優れているというと優生学、国粋主義、水戸学、尊王攘夷にになる。結論は日本語が優れているのである。意志疎通において日本語が発生した原因は国土にあるので、当然のこと自らならざるして既に存在した日本語が原因であり、日本語が発生した原因は天地の意志とでも言えばよろしいか?理由は、古事記をベンベンと読み込んでも出てこない。 出てこないんだが、とりあえあず、哲学や宗教学、文学、数学、全てのベースにある日本語について。そんなこといってたら、動画や講義にならないんだろうが、そういうものなのである。そもそも日本語脳というのは統合型になっているので、子音優位言語の英語その他のように、二項大対立が生じない。 以下引用。 日本語を使うことによる脳構造 「日本人の脳」とニッポン人の〈原始のしっぽ〉 ありていに言えば、約束事にしばられずに、縦横に「日本人とは何だろうか」を問うてみたいのです。そしてそれは自分自身への問いでもあります。そういうごく個人的な探索ノートが、実はこの「ニッポン民俗学」に他なりません。あらかじめ、あるいは改めましてご承知おき願います。 ずっと以前に「右脳・左脳」ということがずいぶん話題に上った。同時に「日本人と脳」ということについても語られていたはずだ。本来なら、私もそのときにこの問題を「卒業」しておかねばならなかったのだろう。大人になってからの「はしか」は重篤になるという。しばらくはこのテーマが頭を離れそうにない。  その「禁断の書」とは、角田忠信氏の著作『日本人の脳』(正編1978年、続編1985年刊行)である。そこには何が書かれていたのか。日本人の脳の働き方が、欧米人とは愚か、ほとんどのアジア人とも異なるものであることが明証されていた。私たち日本人は他とは違う人間なのである。誇らしさが浮かびそうになるが、いやいや実は文字通り「日本の常識は世界の非常識」であることが運命づけられているのであり、相互理解のためには必ず「翻訳」が必須であることを自覚せねばならないのである。 (二)  人類とは種であり、ここにおいて民族の差はなく、脳を含めた身体的諸機能に差異はない。いかなる民族や国籍において生まれようと、どんな言語の習得も可能である。発声および聴覚機能自体は普遍的であり、生得的な差異はない。言わば、人間としてのハードウェアは同一である。興味深いことにコンピュータ同様に(人間がこれを作ったのだから、むしろ当然と言うべきかも知れないが)、ここでもソフトウェアが重要なのである。  いま、世界中のコンピュータの基盤ソフトウェア(OS:オペレーティング・システム;各アプリケーション・ソフト起動の前提となる基本ソフト)はほとんどがMS-Windows(DOS-V)である。これに対するのは少数派のMac-OSやLinuxである。人間にとってのOSとは何か。それは紛れもなく、思考の基盤となる言語である。そうである、日本人の言語が違うのである。  問題は日本語にある。日本語というOSが日本人を作るのである。日本人であることは生得的なものではなく、日本語を習得することによって、母国語とすることによって「日本人になる」のである。では、「日本人になる」とはどういうことか。脳の働かせ方を、日本人仕様にするということである。脳の働かせ方の日本人仕様とは何か。母音を左脳に取り込むということである。  何でもないことのように思えるだろう。ところがこれこそが人類学的に特異なことなのである。日本語は母音が必ず伴う言語である。よって、これが言語脳である左脳に取り込まれること自体は仕方がない。しかし、母音的特質(注)をもつ他の自然「音」も、母音的なものとしてすべて言語として左脳に受容されてしまうのだ。その例として最も有名なものは、虫の音である。ちなみに欧米人はこれを右脳で聞いている。 (注)母音的特質  二つ以上のフォルトマン構造をもち、その周波数比が倍数関係にないこと及び構成音の一つ以上がFM音であること(要は音韻・音波的な特徴である)。 (三)  右脳と左脳、それぞれの機能の特徴と一般的に言われていることを列挙してみよう(欧米人の脳モデル)。 【左脳】 言語脳、理性、デジタル的、ストレス脳。 顕在意識(意識)、理解・記憶を求める、段階的に少量ずつ受け入れる、低速で受け入れる、直列処理する、手動処理、意識処理。 言語、観念構成、算術処理などに適し、分析的、抽象的、論理的。 【右脳】 イメージ脳、感性、アナログ的、リラックス脳。 潜在意識(無意識)、理解・記憶を求めない、一度に大量を受け入れる、高速で受け入れる、並列処理する、自動処理、無意識処理。 音楽、図形感覚、絵画、幾何学処理などに適し、合成的、全体的、感覚的、直観的。 もちろん、右脳と左脳はバラバラに働いているのではなく、普通は協働的に機能している。ただし、「言語」が発せられたとき、言語脳である左脳が優位となる。例えば、楽器の音色を聴いているとき、右脳が受容処理の主体となっているが、言葉が聞こえてくると、その音楽を含めて左脳で処理され始めるのである。しかしこれは多数派のWindowsのOSで働く脳の場合である。  Mac-OSとでも言うべきOSで働く日本人の脳の場合は、最初から特殊である。洋楽器の音色こそ右脳受容であるが、三味線など邦楽器となれば初めから左脳で受容されるのである。前述したが、虫の音も左脳(欧米人は右脳)だし、言語は母音・子音とも左脳(欧米人は母音は右脳、子音は左脳)である。さらに、日本人は情動(感情、パトス)も左脳にその座がある。音関係について、まとめよう。 【日本人の脳】 〈左脳で受容〉  言語(母音・子音)、情動的な人声(喜怒哀楽の声、ハミング)、虫や動物の鳴き声、波や雨音、邦楽器音   〈右脳で受容〉 洋楽器音、機械音 【欧米人の脳】 〈左脳で受容〉 言語(子音)   〈右脳で受容〉 言語(母音)、情動的な人声(喜怒哀楽の声、ハミング)、虫や動物の鳴き声、波や雨音、邦楽器音、洋楽器音、機械音 それぞれ〈右脳で受容〉の音だけが聞こえている間は右脳優位となるが、〈左脳で受容〉の音が聞こえ始めた途端、左脳優位となり、〈右脳で受容〉の音も左脳経由で処理される。
@user-pg8vt9yb4e
@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
(四)  西欧思想を学ぶ者にとって、ロゴス(論理)とパトス(情念)というのは基本タームであり、この二項対立が西欧思想を形作っていることは常識である。例えば、理性と感情、霊魂と肉体、精神と身体などというのは、このヴァリエーションである。ここからデカルト的にさらに引き延ばせば、思惟と延長、精神と物体、人工と自然、人間と世界などの二元対立項も引き出せる。  欧米人のこの二元論思考には、実に生理学的根拠があったのだ。彼らのOSでは、 【左脳】  ロゴス(言葉)   【右脳】 パトス(言葉ではないもの)、人間以外の自然、もの(物体、延長) と脳は作動している。 ところが、日本語OSに従う日本人の脳の場合はどうか。 【左脳】  こころあるもの(ロゴス、パトス、自然)   【右脳】 こころがない、ただの「もの」(物体) と作動していたのだった。  価値づけは相対的なものだ。日本人が「もしかしたら自分たちは妙なOSを持っているのかも知れない」とようやく気づいたのは、明治以降、「西欧近代」の世界図式を「普遍」として受け容れてからのことである。それまでの日本人は、ことさら「不幸」ではなかった。別に、いまでも不幸がることはもちろんない。しかしながら、私たちのOSは世界標準から大きく外れたものであることは紛れのない事実である。  日本語を母国語とする限り、この脳という物質に依拠した「唯物論」(あるいは、脳機能という観点から言えば「唯脳論」)から私たちは逃れられない。日本人の自然と一体だと感じる呪術的心性もここに基盤があったわけだ。また、日本語に「情理」という言葉あるが、実に日本的な言葉であることに思い至る。「情理を尽す」とは、人情と道理を述べ、ものごとを説き明らかにすることである。この言葉には、ロゴスとパトスの隣接、いや同居が語られている。  思えば、オリンピック・シドニー大会で柔道の篠原選手が出場した決勝での判定を巡っての騒動は、実は日本人にとってだけの「騒動」で、日本的なるものと非日本的なるものとの葛藤であったのだろう。そのキイ・ワードは「気配り」である。気配りとは、ロゴスとパトスが隣接ないしは同居した「情理」を感じる心である。日本人はこの情理が「普遍的に」通じることを信じて「謙虚」であったのだ。しかし、ロゴスとパトスが別物であるOSを持った人間から見れば、そんな「短絡」は単なる愚かさにすぎない。これは、無媒介の「翻訳」は不可能であることを実証する「不幸」の一例である。 (五)  日本語OSの特異性に由来すると思われることをいくつか挙げよう。まず、英語に代表される外国語会話の習得が日本人はなぜ不得手なのか。これは彼我の脳の使い方を知れば一目瞭然であろう。非日本人は左右の脳を使って言語を使うのに対して、日本人は左脳優位で言語を使うのが自然であるから、外国語も左脳で理解・習得しようとしてしまうのだ。これは日本語の一語一語(一拍一拍)に母音が必ず伴うことに起因する。欧米人は母音を右脳で音楽音のように聞き話している。日本人はそれを左脳で言語音として聞こうとし話そうとするのだ(他に母音や子音の数の違いなどもあるが、ここでは割愛する)。  こういう日本人が西洋古典音楽に接するとき、はなはだ微妙な問題が惹起される。これを好んで聴けるのだとすると、天恵とでも言うべき救いである。なぜなら、日本人にとっては雑音以外で右脳受容できる唯一の美的対象音であるからだ。しかしその人にとり、もし聴き難いものであったとしたら、その日本人の脳はその音楽を右脳に侵入する雑音としてか、あるいは言語として左脳で解析するが理解できない音として受容し難いのだ。  これに関連して面白いことがある。クラシック・ファンの日本人が集うコンサートでは、言語的なマナーがたいへんよい。これはそれらの日本人にとってコンサート・ホールが「右脳空間」であることを無意識的に自覚しているからである。オーケストラが勢揃いし指揮者が棒を振り始めた瞬間から、そこは右脳だけを働かせる世界となる。日本人の左脳を刺激するもの、おしゃべりはもちろんのこと、しわぶき一つも許されない。  これは実際あった話だが、音楽評論家の吉田秀和氏が野外コンサートで演奏を聴いている最中に野鳥の声が聞こえ、その時まるで「音の空間に穴」が空いたと感じたと書いておられる(「音楽展望」『朝日新聞』1974.09.19)。野鳥の声は、日本人の脳活動に音楽脳から言語脳への転換をいきなり強いたのだった。演奏が終わっても、日本人は「ブラボー」なぞと言語的には反応せずに、非言語的手段すなわち長く強い拍手で演奏者たちを讃えるのが流儀である。  それから、日本語と言えば、漫画について語らねばならない。音声言語では左右の脳を使う欧米人だが、書かれたアルファベットは一義的で左脳認知の文字である。それに対して、日本語の中の漢字は多義的で多様な読み方を持つ。だから「ルビ」がある。ところが、ルビがある言語は日本語だけなのである(中国語の中の漢字は一音しかない)。日本人だけが漢字を視覚的には右脳で認知し、左脳でルビを読み意味解析する。なお、かな(カナ)・ローマ字・数字は左脳で認知されている。  漫画は日本人にとってのクラシック音楽に似ている。日本人が右脳をうまく働かせられる数少ない対象の一つなのである。日本人は漫画を左右の脳を使って読む。漫画の画は「漢字」、吹き出しは「ルビ」の役割だ。日本の漫画がなぜ優れているのか、また日本人がなぜあのように漫画を素早く読んだり、深く味わったりできるのかは、日本人の脳と日本語にその秘密があった。
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(六)  彼我の脳OSの差異から来る世界観や人間観、自然観の違いを述べよう。分かりやすいところから述べると、都市構造である。面白いことに、脳機能のあり方がそのまま都市構造に反映されている。ヨーロッパの都市は、人が住む所を城壁で囲い、その周囲に田畑を拓いた。さらにその向こうは森である。都市内は完全に人工的な造り物で満たされている。庭園すら自然のままのものはない。道は石で舗装され、人も着衣することが強いられる。田畑は半ば自然的な領域であるが、人が立ち回ることが許されるのはそこまでである。その外側の森は人が住む所ではない。魔女の棲み処である。童話に登場する魔物は森に棲む。つまり、都市とは欧米人の左脳であり理性的人間的な世界である。一方の森とは右脳であり感性的自然的な世界である。  日本の「都市」は都市ではない、と欧米学者がよく言うのは、それがふつう城壁を持たなかったためだ。日本人はヨーロッパ人とは逆に、「森」を排斥しない、むしろ「森」とともにある「都市」を築こうとしたと言えよう。人が住む所、田畑、「森」の共存が日本人の理想だ。家のあり方にもそれはよく表れていた。身近な自然そのものを借景とし、庭に小山を築き小川を流す。自然媒介的な縁側や障子も、人工世界と自然を分離しないようにしている仕組みである。日本人の左脳には、人間と自然が共存している。だが、これは普遍的には異常なことなのである。  次に「死体」についてである。実は「戒名」は日本的なものである。例えば、欧米人の墓には何と刻まれているか。生前の人間としての名である。欧米人は、死体は人間の肉体であり、死者の人格そのものとは思わない。それはもはや人間ではなく、自然的な物体である。しかし日本人はどうか。まず、戒名は死者が仏に成ったことを示す。死体は生前以上に神聖なものとなり、決しておろそかに扱ってはならないものとなる。自然的な物体なぞではもちろんなく、祭り上げるべき存在(神)でさえある。  欧米人が、左脳に精神を右脳に肉体を配し、死後にはそれぞれを葬り去ることができるのに対して、日本人は左脳で一体となった精神と肉体を分離できず、縁者に告げ知らせもせず去った場合なぞ、その死体(日本では「遺体」)に精神を求めさえする。それがいまも続く、縁者による戦没者の遺骨や航空機事故死亡者の遺品収拾である。日本人が生体間臓器移植を認め難いのは、もう言うまでもなくここに由来する。  とどめに、日本人の「虫好み」について述べよう。欧米人と日本人では、虫に対する感覚が大きく違う。日本では近ごろ、夏休みに昆虫採集が叶わなかった子どもたちにデパートで昆虫が高価で売られているということが、少し非難めいて報道されている。しかし欧米人にとっては、昆虫が子どもたちに好まれていること自体が何かぞっとすることなのである。  ご存知の「仮面ライダー」は人間と昆虫を合体した「改造人間」である。このキャラクターが日本の子どもたちにはたいへん人気があったわけだ。映画でも、巨大化した昆虫がたくさん登場する。日本人にとっては「人類の味方」であった「モスラ」もそうだ。大画面に映し出されたイモムシであった幼虫に喝采を送るというのは、なるほど言われてみれば異様、奇怪なことである。  もう少しキレイに言えば、池に蛙が飛び込む音に「わび」「さび」を感じるのは日本人の脳だけなのである。日本映画やテレビドラマの中で多用される効果音としての自然音、例えば小川のせせらぎや雨だれの音に、私たちなら「当然」感じるだろう「情理」(論理を抱き合わせた情感)を引き起こされる欧米人はいないのである。自然や虫の音に「理性的な感情移入」が自然にできるのは日本人だけなのである。これらもまた、日本人の脳OSが成せる業と言えよう。
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(七)  昔は「和魂漢才」と言い、今は「和魂洋才」と言うが、私たち日本人は本当にこの意味を理解しているのだろうか。答えは否である。私たちは根底を変えようとしていないのではなく、自ら変えようとしても変えられないのだ。戦国後期の、キリスト教を誤解しての広汎かつ急速な信仰の広がりに対して、解禁されて正当な教義が伝えられた明治以降の受容の少なさと浅さは何を物語るのだろうか。  故遠藤周作氏は、戦国後期のキリスト教外人宣教師の苦労を『沈黙』という小説で描いており、日本のことを「この国は沼地だ。(…)どんな苗も根が腐りはじめる。(…)我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」と語らしめている。同氏は、キリスト教の運命を述べているのではない。日本人の運命を語っているのだ。日本人は日本語を話す限り、異OSである「普遍」を受け容れられないだろう。  私たち日本人は、自らを誤解している。いかなる誤解であるか。日本人もまた「普遍人」だと思っているのである。いま、グローバル・スタンダードは欧米標準である。例えば、「民主主義」だ。日本人は民主主義をしているつもりである。しかしいつまで経っても民主主義にはならない。これだけ自民党主導政府批判が全国民的になされつつ、それを定立する選挙では別行動がまかり通ることは、まさに「沼地」だという証明でなくてなんであろうか。  頭では分かりながら、あるいは口ではそう言いながら、臓器移植が進まず、また欧米とはどうも歩調の合わない環境保護なども、日本語OSの成せる業のように思える。環境保護が典型であるが、同じテーマを根底では別のテーマとしてしか解せないのがOSの違いのように思う。言語化されないままだが、欧米人が考える環境保護と日本人が考えるそれはおそらく似て非なるテーマなのである。 (八)  渡部昇一氏は、角田忠信氏との対談(『続日本人の脳』に所収)の中で〈原始のしっぽ〉という絶妙の言葉を使われている。筆者もこれを拝借させてもらおう。渡部氏は、日本語こそ最古の「普遍」言語の姿を残すものではないかと提起されている。つまり、人間は初め皆、日本人的な脳の使い方をしていたのではないかということだ。それがいろいろあって、多くは固有言語を持った「宗教」の襲来だが、原始の言語(=脳の使い方)という〈しっぽ〉が断ち切られ、新言語(=いまの普遍脳OS)に切り替わっていった。日本人と日本語とは、その〈原始のしっぽ〉を残す稀有な民族であり言語ではないか。  天皇とは何か。古代には普遍的な存在であった「首長」である。部族の長であり「宗教」成立以前の宗教的な長である。特徴として、神の子孫だということが挙げられる。世界的には、こんな「首長」は克服・打倒され尽くしてしまっている(中世以降の「王」は神の子孫なぞではない)。しかしそんな存在が生き延び続けている国がある。日本という我が国がそれに他ならない。これに符合するように、古代普遍的な脳の使い方を続け、それに基づく世界観・人間観・自然観をもった民族がいる。日本人は、廃絶され尽くしてしまったはずの〈原始のしっぽ〉を持続する民族なのである。  日本人の思考は、放っておけば左脳偏向となる。これを是正してくれるのが、昔からの外国語学習である。外国語は日本人の右脳を刺激する。かつての中国語がそうであったはずだし、いまの英語学習もそうである。しかし、それはしばしば日本人の脳を痛めつけ、疲れさせる。そこで日本人は逃避する。それが「鎖国」である。その中で日本人は右脳志向した脳を、改めて左脳優位に振り戻す。  どういうふうに振り戻すかというと、「シンプル」にである。世界の一元認識、一元思考こそ日本的思考の究極である(言語の一元的受容構造に基づく。右脳的な「音」を左脳の「言葉」にする擬音語・オノマトペアもその一つ)。道元の「只管打坐」(しかんたざ:ひたすら座禅すること)や親鸞の「南無阿弥陀仏」などはその典型である。最澄や空海の複雑多様な仏教受容も四百年も経てば、極めてシンプルな教義に蒸留されてしまう。  では、私たち日本人は右脳を使っていないのか。もちろんそんなことはない。カンは右脳の所産であり、ノン・バーバル(非言語)は日本人の思考の特徴であるとすら言えるであろう。禅がノン・バーバルを大切にし、日本人がそれを受け容れてきたことは、日本人がそれを重視してきたことをむしろ物語っているだろう。そこ(右脳)は、日本人には人や生き物など一般存在者は棲めない、言わば「絶対者」の領域であり、神が坐す所なのだろう。  日本語と同様な母音構造を持った言語は、現在のところ、太平洋東南(ハワイ・ニュージーランド・イースター島を結ぶ三角海域)に広がるポリネシア民族にしか見出せない(彼らの脳OSは確かに日本人型の働き方をしているのだ)。もしかしたらであるが、太平洋戦争中の日本軍が占領した島嶼で、日本人が歓迎されたというのは、ここに通じるものがあったせいだろうか(ただし、日本の進軍はミクロネシア・メラネシアまででポリネシア領域には達していない)。  このポリネシア民族(注)に親近性があるという事実は案外重い。我がニッポン人の由来を示唆するかも知れないからだ。アメリカ大陸の先住民族たちはモンゴロイドだと言われるが、その移住路について、近ごろ、北方ベーリング海峡回りのルートばかりでなく、太平洋横断ルートもあったとする説がある。しかもこのルートの方が先行していたというのだ。我がニッポン人の少なくとも一部の先祖ともなった古代モンゴロイド人たちは、舟を漕ぎ出し東へ東へと向かったのかも知れない。 (注)ポリネシア民族  ポリネシア語派(ハワイ語、タヒチ語、サモア語など)は、インドネシア語派やメラネシア語派とともに、マライ・ポリネシア語族(オーストロネシア語族、南島語族とも言う)に属している。  ポリネシアには、相撲取りの出身地として有名になったトンガ諸島なども含まれる(ちなみに、角田氏の左右脳検査はこのトンガ出身の相撲取りの協力を得て行われ、その脳機能が日本人と同一だと実証された)。  マライ・ポリネシア語族はモンゴロイドで、東南アジア付近にいた古モンゴロイドの一派が東方海上へ向かったのがポリネシア人である。
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@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
(九)  日本語が変化したように、脳機能も変わる。今の日本人の脳機能は、日本語が今の様態になった平安初期に定式化されたものと思える。最近の変化は、歌に表れているように思う。歌は、歌詞の意味が分からない場合は右脳優位で、歌詞の意味が分かったら左脳優位で取り込まれているはずだ。いわゆる欧米の「ポップス」は、たいていの日本人には意味が分からないので右脳優位で聴いているのだろう。  サザン・オールスターズなどに代表される歌詞が不明瞭でよく分からないニッポンの歌は、ほとんど意味が分からない外国語曲と同様だ。つまり、右脳受容できる歌となる。これまでの歌詞明瞭な、すなわち左脳に取り込まれる歌とは違う日本人のための歌が生まれたのだ。これまでのクラシックや欧米ポップスにばかり頼らなくてもよい状態が整ってきたのである。  しかしながら、ニッポンの歌は生きている。英語交じりで歌われる歌とは何だろうか。右脳から左脳へ落ちる快感、あるいは言語から非言語へ飛び出す快楽は、日本語OSが前提となっていると言わざるを得ない。実は、リズムやメロディにもニッポンの歌は根強く生き残っている。演歌ばかりがニッポンの歌ではない。宇多田ヒカルにも「伝統」は生き残っているし、パフィーなぞは「拍」(言葉の一語一語の区切り)を明確に歌うニッポンの歌の典型である。「だんご三兄弟」も「拍」を明らかにした(一語一語が意味明瞭)歌の典型である。欧米風のものが並ぶヒット曲の中で、間歇泉のようにニッポンの典型歌が大ヒットするというのが我が国のヒット・チャートの周期である。 (十)  エンディングとして「日本人の脳」のその後を推察しておきたい。ただし、以下は筆者の直観による、実証的な根拠のないあくまで「妄想」であることをお断りしておく。  例えば筆者に、これだけのこだわりを喚起させたこの「日本人の脳」というテーマは、その後どういう扱いを受けることになったのだろう。書物自体は静かなロング・セラーとなり、いまでも版を重ねている。しかし「大脳生理学」と称される学問分野で、角田氏が定立された「日本人の脳」というテーマが、いま現在も継承されているようにはとても見えない。いま一般的に流通している内容は、日本人と欧米人を区別しない(ということは、欧米人型脳=普遍脳とする立場だ)「右脳・左脳論」だけと思われる。  続編発行(1985年)以降の、脳科学の進展(「進歩」とは言わない)がこのテーマを無効なものにしてしまったのだろうか。角田氏がもっぱら聴覚問題および聴覚検査を通じて本テーマを提起されたという限定条件も確かにあろう。それに、同氏の研究がやや「オカルト」とも受け取られかねないところへと傾いていったこともあろう(「四〇、六〇システム」という左右脳受容の普遍的転換スイッチ、脳の時空間処理における「40・60・80」の人類学的スイッチ、公転周期を刻む脳内年輪システムや月の満ち欠けによる左右脳受容の逆転などの発見)。  逸脱は、日本の学者の好むところではない。一時の関心も、欧米学会がリードする脳科学の普遍標準にしだいに引き寄せられ、角田説は異端視されていったのだろうか。いずれにせよ、学者受けはせず、後継を持たない学説へと追いやられたに違いない。時は80年代後半、日本はバブル景気に浮き立っていた。「日本人論」ブームが沸き起こり、日本人の特異性が誇りをもって語られもした時代であった。角田説はこのとき高揚し、その崩壊後、バブルとともに日本のケガレを祓うように遠く流されたのか。  いまの「右脳・左脳論」では、日本人は右脳の働きが強いとされている。これは角田説に似て非なるものだ。前提が違っている。いまの「右脳・左脳論」は、欧米人脳OS=普遍脳とし、パトスの部位を人類共通に「右脳」において、日本人は「パトス」的だとしているものだ。筆者にすればだが、これではニッポン人の秘密に何ら迫れるものではない。また、これほどの衝撃を受けもしなかっただろう。流竄された説こそを私は愛しく思う。 (蛇足)  断わるまでもなく、筆者は脳科学プロパーに対して何ら発言できる学識も資格もない。この論はあくまで、筆者が一連の書物たちに出逢ってしまい、そこから受けた「啓示」に基づいてニッポン人というものの基底部(「沼地」)について、筆者なりの示唆的な見取り図をラフ・スケッチしてみたものにすぎない。どうかそこを誤解せずにお受け取り願いたい。また、専門的なご質問を頂いてもここに記した以上にはお答えしようもないこともあらかじめお断わりしておく。 [主な典拠文献] 角田忠信『日本人の脳』大修館書店 角田忠信『』大修館書店 金田一春彦『日本語』岩波新書 新版 坂野登『しぐさでわかるあなたの「利き脳」』日本実業出版社 養老孟司・梅図かずお『やさしい「唯脳論」』メディアファクトリー 遠藤周作『沈黙』新潮文庫 佐藤良明『J-POP進化論』平凡社新書
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@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
ロゴス (logos)とは、古典ギリシア語の λόγος の音写で、 言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、意味、論理、命題、事実、説明、理由、定義、理論、思想、議論、論証、整合、言論、言表、発言、説教、教義、教説、演説、普遍、不変、構造、質問、伝達、文字、文、口、声、ダイモーン、イデア、名声、理法(法則)、原因、根拠、秩序、原理、自然、物質、本性、事柄そのもの、人間精神、思考内容、思考能力、知性、分別、弁別、神、熱意、計算、比例、尺度、比率、類比、算定、考慮などの意味[1][2][3]。 転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」または「言葉(言詮)を通じて表される恒常的真理もしくはそれに付随する言詮内容」という意味で用いられることもある。 万物の流転のあいだに存する、調和・統一ある理性法則。 「宗教(ミュトス)的位相」であるキリスト教では、神のことば、世界を構成するミュトスに基づく論理としてのイエス・キリストを意味する。 語彙、対比 ロゴスは、ミュトスと対比して用いられていた。 ミュトスは、最近では“神話”とワンパターンに翻訳されることも多いが、原義としては、人が語る“ものがたり”や“お話”等の虚構全般を指すのであり、ギリシャ悲劇や喜劇、アイソーポス(イソップ)の寓話の題材もミュトスである。 このミュトスに対して、ロゴスはある。「空想」に対して「理性」があり、「物語る言葉」に対して「論証する言葉」があるのである。 歴史 古代ギリシャ ロゴスを最初期に世界原理とした哲学者はヘラクレイトスである。ヘラクレイトスは世界の本性であるアルケー(根源原理。ただし、原子の意味ではない)は火また戦(戦争)にあると説いた。そのような絶えず流動する世界を根幹でつなぐのがロゴスであるとされた。ロゴスはここでは、世界を構成する言葉、論理として把握される。 紀元前5世紀にはソフィストが弁論術を教えた。そのなかには文法の知識もあったが、これは直接にはヘラクレイトスとの関係をもたなかった。ソクラテスは対話による「産婆術」を行い、また弟子であるプラトンはいくつかの言葉についての考察を行ったが、とくに中期以降は幾何学が重視されるようになる。 ヘレニズム、ストア派 詳細は「ストア哲学」を参照 ロゴスが哲学用語として注目されるのは、ヘレニズム期のストア哲学である。ゼノンをはじめとするストア派の哲学者は、神が定めた世界の神的な論理を「ロゴス」と呼び、ときにこれを神とも同一視した。このような神格化に伴い、ロゴス賛歌のような詩も作られた。 ストア派において、ロゴスは根幹となる概念であり、世界を定める理を意味する。ストア派のロゴスは「自然」(ピュシス、本性)や「運命」〔テュケー)とも表現され神とも同一視される。また人間は世界の一部であり「人間の自然本性」としてロゴスを持って生まれているとされる。こうした「人間の自然」としてのロゴスはダイモーンやヌースとも呼ばれ、これに従った生き方が賢者の生き方であるとされる。 ロゴスは中世哲学において言葉(verbum)と理性・理念・観念(ratio)等の二つの概念に分かたれた。それらを独自の仕方で関係づけ総合したのは13世紀のスコラ学者トマス・アクィナスであった。音声言語である「外なるロゴス」はそれを発する者の精神の「内なるロゴス」すなわち観念、イデアを表示しそれを明らかにする。他方キリスト教神学では神の第二のペルソナである御子はロゴス、すなわち「御言葉」そのものと理解された。 キリスト教 キリスト教の成立にあたり、このようなロゴス観は大きな影響を与えた。 『ヨハネによる福音書』の冒頭では以下のように述べられる。 Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος. はじめに言(ロゴス)があった。言は神と共在し、言は神であった - 『ヨハネによる福音書』1:1(Κατά Ιωάννην Ευαγγέλιο[4]) これはキリストについて述べたものと解され、三位一体の教説の成立に当たって重大な影響を及ぼした。ロゴスは「父」の言である「子」(=イエス)の本質とみなされた。これにより「ロゴス」はキリストの別称ともなった。 この箇所のλόγος(ロゴス)は、ラテン語版聖書(ウルガタ版)ヨハネによる福音書では verbum(ウェルブム) と訳された。 in principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum. - Biblia Sacra Vulgata (Stuttgartensia)/Ioannes[5] アウグスティヌスはこの一節を踏まえ、父なる神のロゴス(verbum、言)である子(=イエス)と、ロゴス(verbum、言)が担う愛としての聖霊についての説を展開し、父と子から聖霊が発出するというフィリオクェの教説を擁護した。 (キリスト理解としてのロゴス論については、イエス・キリストを参照) キリストとしての神の本性が、ロゴスすなわち論理と解されたことによって、西ヨーロッパにおける哲学のひとつの流れである、論理と思弁を重んじる風潮、さらには論理と言語によって神を把握しようとする積極神学の道が拓かれた。このような背景もあり、今日哲学の分野で「ロゴス」といわれるときには、程度の差はあれ、単なる構造としての論理ではなく、“語られる力ある言”という“人格的な、かつ神的なロゴス”理解の影響があることが一般的である。 論理学としての流れ その一方で、思考の論理としてのロゴスの学としての論理学の流れがある。アリストテレスによって綜合された古代のロゴスの学(ロギケー)は、ラテン語では logica と呼ばれた。これはヨーロッパの中世において神学の予備学である自由七科のひとつとされた。論理学は、幾何学など数学とともに教えられた。現代哲学において、あるいは数学において、論理学は重要な分野のひとつであり、ある種非認証の論理の厳密な追求が行われている。古代のロゴス理解とは同一ではないが、世界の構成原理としてのロゴスはこのような形でも追求されているのである。
@MS-fg9rt
@MS-fg9rt 19 күн бұрын
無明。いい加減なことを喋っていらっしゃるが、西田氏ら、哲学者に失礼、かと。
@user-rp3cg5yp1n
@user-rp3cg5yp1n 11 күн бұрын
生きている原動力は自己以前に与えられてる、その上を浄土として歩けば良いだけ。思考する哲学者はそのことに誰も気が付かない。何故他者が幸福に必要か、それは自己は自己で表現不可能で、自己は他者によってしか表現されないからだ。
@johnkusagaya9622
@johnkusagaya9622 24 күн бұрын
今は私は神と言う言い方は抵抗感があるのでですが、エネルギーの違いだと思っていますね。
@philosophydoubtfuljournalcom
@philosophydoubtfuljournalcom 24 күн бұрын
性について聞かれるとコンプレックスを刺激されるようで怒りがわいてくるのだと思うのですが、そうした個々人の聖域を守りつつ超えていくことにこそ、人類や人間としての繋がりそのものであると同時に、神や魂が繋がっていくということだと思うのですが、なぜ浜崎さんは結婚しないのですか?人口削減で国防の危機だとか言っている状態で何が正しいだの生き方だのって子供もいない人が語っても、リアリティや直感が働かないと思います。ムカつくかもしれませんが、論理的に発言と行動が矛盾しているように思えてなりませんので、今一度、その矛盾が自分のどこから来ているのかを摸索して見られてはいかがでしょうか?金銭的な問題だという場合には、私もただうなずくしかありません。
@user-pg8vt9yb4e
@user-pg8vt9yb4e 24 күн бұрын
浜崎さんは結婚してるし、子供もいるよ。 リアリティが感じられないのは貴方の問題です。 子供がいようがいまいが、金銭的な問題はあるのです。 そもそもあなたが思い描き想像するような神はいませんん。 論理は行動に裏打ちされるものです。別にうなづかなくてもいいのです。 自分で、行動して確かめてみた結果。 あなたの事実誤認が明らかになったと。 そういうことです。
@bintanglaut1467
@bintanglaut1467 24 күн бұрын
浜崎さん ご結婚もされてお子さんもおられますよね 確か 保育園にお迎えに行く話されてましたけど
@philosophydoubtfuljournalcom
@philosophydoubtfuljournalcom 24 күн бұрын
@@bintanglaut1467 なんだ。知らなんだ。若く見えるけど、意外とおっさんなのか?
@bintanglaut1467
@bintanglaut1467 24 күн бұрын
@@philosophydoubtfuljournalcom お若くしてご結婚されたような。色々動画辿ってるとコロナ前のもでてきますよ。 もともとエリートの脳内妄想ではなく、しっかりと紆余曲折の経験を経て、実体験を持たれている方なので話が具体的で聞く人にもわかりやすいのだと思います。
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