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薩摩半島南端にそびえる開聞岳(かいもんだけ)(標高924メートル、鹿児島県指宿市)は「薩摩富士」とも呼ばれ、円錐形の威風堂々たる姿が見る者を圧倒する。終戦間近の昭和20年3月に始まった沖縄戦で、連合軍の艦船に爆弾を積んだ戦闘機で体当たりしようと出撃した特攻機の多くは、知覧(鹿児島県南九州市)など九州南部の基地から飛び立った。特攻隊員が最後に見た本土の景色が開聞岳だった。
右の翼に250キロ爆弾、左翼には同量の燃料。特攻隊員は全国から集められ、10代の飛行士も多かった。遺書を残し、別れの杯を交わして離陸すれば約650キロ先の沖縄周辺までは2時間半。開聞岳を見ながら海岸線を越えると「もう戻れない、行くしかない」と、何度も何度も振り返りながら覚悟を決めたという。
知覧基地では20年3~4月の一時期、知覧高等女学校3年生で作る「なでしこ隊」が、出撃を控えた特攻隊員らの食事や洗濯など、身の回りの世話をした。整列し八重桜を振って出撃を見送りもしたが、15歳の女学生には酷だった。
なでしこ隊員だった桑代さんは「兵隊さんは日本を守る生き神様に見えました。飛び立った飛行機が翼を3回振って、さようならの合図をしたのが忘れられません。今でも胸が締め付けられる…」と明かす。なでしこ隊の活動は基地への攻撃危険が高まり23日間で終わった。
あれから70年。特攻隊員の遺書や資料など1万5000点を所有する南九州市では、ユネスコの世界記憶遺産に登録する申請の準備が進む。
よく晴れた日、ヘリコプターで特攻機と同じ経路を飛んだ。特攻隊員を見送り続けた美しい開聞岳を見ながら洋上に出ると、吸い込まれそうな真っ青な海が一面に広がった。