生かされて~被爆79年目の決意~【ドキュメンタリー】

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Күн бұрын

Пікірлер: 39
@liebetomaten
@liebetomaten 4 ай бұрын
生存している被爆者から直接話を聞ける私達の時間も貴重だと思いました。その思いを引き継いでいくことが大事ですね。
@marooja
@marooja 4 ай бұрын
小学校の校長先生が被爆者でした。広島に修学旅行に行った際に、その体験を話してくれました。身近な人から聞かされるその体験談はショッキングで、40年近く経った今でも覚えています。
@とし-q6k
@とし-q6k 4 ай бұрын
私のおじいちゃんは被爆して7年前亡くなりましたが、おばあちゃんの話によると原爆資料館には行きたがりたくなくあの当時のことを話してもくれなかったそうです。
@ハッシュバグ
@ハッシュバグ 3 ай бұрын
思い出したくなかったのかね。つらい記憶だしトラウマだろうから。
@done4598
@done4598 3 ай бұрын
多くの方は思い出したくない過去だと思います。語り部とした何度も話してくださっている方々は辛い気持ちを抑えて話してくださっているのかと思うと胸がはりさけそうになる。
@ichou-c8r
@ichou-c8r 3 ай бұрын
貴重な映像ありがとうございます
@西村悠姫
@西村悠姫 3 ай бұрын
私の祖父も祖父の妹さんも被爆して酷い目に遭いました。何よりも若い子達が犠牲になって生き残った人達を苦しめるのは辛すぎます😢自分達がもっと伝えないときっとまたやらかすに決まってる。忘れない。
@yyyorikooo
@yyyorikooo 3 ай бұрын
92歳に見えないです。しゃんとして、声も素敵で是非お話を聞きたいです。言葉にできない辛い体験を、我々に語り継いでくださるということ。新しいことをはじめられたこと。素晴らしいです。
@おく-x6b
@おく-x6b 3 ай бұрын
92歳。たいへんにしっかりしていらっしゃる。尊敬。
@まーたん-y3t
@まーたん-y3t 3 ай бұрын
私の祖父は、戦地から帰ってきた人でした 兵隊ではなく、看護師みたいな役割で行ったそうですが、薬も無い、治療も満足に出来ない状態で負傷兵を看護していたそうです 見るからに助からない人を、ただ黙々と傷を拭いたり、包帯を巻いたりの繰り返しで毎日戦争に疑問を持つ日々であったそうです しかし当時は本音を言ってしまえば非国民とみなされる時代なので、自分がすべき事をひたすらやり続けていたそうです 犠牲になっていった故人がいて、今の私達がいます 当たり前の平凡な日々にも感謝しながら生活するようにしています
@ry9975
@ry9975 4 ай бұрын
当時の惨状を生で経験した人が、どんどんいなくなる現状に、ずっと封印してきた辛いという言葉では片付けられない記憶の蓋を開けて人生の終盤に立ち上がって語り部をはじめてくれたのは生半可な精神力じゃないなと。 小6の時兵庫県から修学旅行で行った時、リニューアル前で、たんたんと遺物が並んでる展示で、ふざけまくる同級生の男子生徒がいて、粛々と見てた自分にとってはなんだかなぁって感じでした。 それから成人してリニューアル後に見に行ったら、戦争を原爆を知らない世代にも何かを訴えてくるような展示に変わっていたので、身近にリアルに感じたのを覚えてます。 また機会を作って行きたいと思います。
@asa01053
@asa01053 3 ай бұрын
地獄だな😢90には見えない、しっかりとしている。やはり使命感があるのだろうか。
@いなこ-j7z
@いなこ-j7z 3 ай бұрын
私の旦那の祖父は胎児被爆者です。 今も元気でひ孫のお世話もしてくれています。 去年子供が産まれ、命を繋いでいく事の大切さを感じています。 生存者の皆様が守りたかったけど守れなかった命、そしてあの状況でも生きて今まで繋いだ命。全て私たちに繋がってることを忘れずに残りの人生感謝を忘れずに生きていきます。 結婚や子供を産むメリットはあるの?? などが大々的に話題になる現代。 自分自身に必死な現代。 そんな時代だけど、 私はこの方達が繋いでくれた命を ここで絶対終わらせたくないです。 後世が平和を伝えていかないといけないと思います。
@akemi7294
@akemi7294 3 ай бұрын
自分が産まれる50年弱前に まだ戦争してたっていうのが 信じられない
@まゆゆいただき-q8f
@まゆゆいただき-q8f 4 ай бұрын
被爆体験者から聞いた話しを語り継ぐのが今の若者の使命!親から子、子からまた次の子へと語り継ぐ、それが永遠の平和だと思う
@JUN-vy9xv
@JUN-vy9xv 3 ай бұрын
高齢なのに、パソコン使いこなせてすごい
@こっとん-q5w
@こっとん-q5w 3 ай бұрын
現役自衛官の若い人にも見て貰いたいです。私の身内は自衛官で来年退官ですが、全員が災害派遣に行くわけではないです。私の主人は35年自衛隊に勤務していますが、一度も災害派遣に行った事はありません。敵国がミサイルを発射した時の為にアメリカで訓練などをしてきました。戦争をしたくなくても、相手の国から攻められた場合には自国民を守らなければなりません。戦争でお亡くなりなった方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
@くまけん-u3f
@くまけん-u3f 3 ай бұрын
心打たれました。 幸運に生き残っても、苦しみ続けるなんて辛すぎる。 ご兄妹で素晴らしい活動だと思います。 とても80代後半、90代とは思えないくらい理路整然としたお話ぶりで感服しました。 いつまでもお元気で頑張って頂きたい。 広島長崎に行った際は必ず資料館に立ち寄らせて頂きます。
@Yagurisu
@Yagurisu 3 ай бұрын
92って嘘だろ… 若々しい 70台くらいに見えるよ
@吉村尚子-p5z
@吉村尚子-p5z 2 ай бұрын
出来る限り長く元気で過ごされて、貴重な声を上げ続けていただきたいと願います
@岸上恵介-v4y
@岸上恵介-v4y 4 ай бұрын
比治山エリアというと、張本勲さん家族が住んでいたことで有名ですよね。亡き父は、昭和11年生まれ(中沢啓二さんと同年代)です。広島で言うと呉市・宮島のある廿日市市ぐらいの距離のある、自動車メーカー2社・北九州空港などがあるがある苅田町出身です。長崎のあの日あの時、小倉に原爆(福岡県北九州市)のあいかけました。毎年落とされた11:02には複雑な気持ちだったみたいです。母(昭和17年生まれ)は母で、高校生(昭和30年代初頭)の時に、亡きお爺様の仕事の都合で、長崎空港がある大村市に移住したある日、今のように家に風呂がなかったので、銭湯に行ったら、ケロイドが酷い人がたくさんいたそうです。聞いた自分は「???」と思って調査したら、当時、海軍大村病院があったからなんですって。
@user-nb6ck5ve6l
@user-nb6ck5ve6l 3 ай бұрын
92歳⁉️なんて若々しいお方なのかしら(*^^*) ハキハキとお話されて益々のご健康を祈っております。 幼い頃悲惨な経験をされた生き証人。 祖父は私が産まれて直ぐに病気で祖母は20年近く前に病気で亡くなってしまったので当時の事を聞くことも出来ない。なのでKZbinで色んな方のお話を聞いて学んでます。
@harw078
@harw078 3 ай бұрын
修学旅行で広島の語り部さんから 話を聞きました その方は在日コリアンでお弁当の中にキムチが入っていて、まわりの友達から「臭い!」と言われたと言うエピソードを語っておられました 正直そのエピソードしか覚えていなく 申し訳ない状態です その方のお名前もわからず、KZbinなどにその方のお話があれば…とたまに探したりします。 もう一度ちゃんと話を聞きたい 年齢のことを考えるとお亡くなりになっているかもしれませんが… この番組を見て、吉高由里子さんが号泣したらしく、見にきました 普通の人でも辛い記憶には蓋をしたい けど、この辛い記憶(原爆)を体験した方から聞けるのは もうカウントダウンに入っているほど短いのではないでしょうか
@康代川道
@康代川道 4 ай бұрын
私の父方のおじいちゃんが長崎原爆で亡くなりました😢
@done4598
@done4598 3 ай бұрын
辛い過去を話すことは体験者の方々にとっては大きな負担ですよね。私の父は当時奈良に住んでいたため大きな空襲はなかったですが米軍のB29はしょっちゅう上空を飛んでおり一度友達といる時に飛行機から機関銃を発射され追いかけ回されたそうです。当時小学生でまだ子供なのに酷い話です。それでも進駐軍がきてチョコレートを配っているとそれをもらい進駐軍のジープがかっこよかったとか恨む気持ちはなかったそうですをそれより当時の政府、特に東條英機を恨む人の方が多かったとか。でも当時のことはあまり語りたがらないです。覚えていることは子供の時はずっとお腹が空いていたということ。他にも聞きましたがこれからは伝え聞いた私が後世に伝えていこうと思います。
@ここみぃ-d2c
@ここみぃ-d2c 3 ай бұрын
才木幹夫さんの証言を聞くにはどうしたらいいのでしょうか?
@なお-x1n8v
@なお-x1n8v 3 ай бұрын
吉高由里子さんのつぶやきから来ました
@orengepure5615
@orengepure5615 4 ай бұрын
最後に感想を聞いた子 生き残ってラッキー なんて思わないですよ 被爆されたのが14歳位でしょうか?それから80年近くもずっと心に重く抱えた 罪悪感の気持ち 今、やはり世界情勢を鑑みて自分の体験を語らなければならないと 92歳の方が思い立つ きっと思い出す事すら辛いと思います 兵庫県の子なら生き残ってしまった辛さを親族から聞く事出来ませんか? 兵庫県でも同じ時代に酷い空襲がありました。大きな震災もありました。 曾おじいさんお婆さん、お爺ちゃんお婆ちゃんが生き残ってお父さんお母さんが生まれて 今のあなたがいるんです その惨禍を経験して来ているはずですよ もう少し大人になったら調べて考えてみて欲しい
@yoko3739
@yoko3739 3 ай бұрын
ラッキーと言ったのではなく、亡くなるよりは生きている方が良い、というようなことを言ったのではないでしょうか。 仰る通りまだ小学生なので、これからじっくり時間をかけて、学んでいけば良いと思います。
@山県新之助-q7l
@山県新之助-q7l 4 ай бұрын
旧県立第1中は 今の県立広島国泰寺高ヘと 受け継がれる精神、 此が、国泰寺プライド
@三浦葵-j7p
@三浦葵-j7p 3 ай бұрын
私の祖父は、長崎県の被爆にあい、被爆者手帳を持ってました。本人若い頃で、当時は、身の危険を感じる事なく過ごしていましたが、結婚をして、子供を3人授かり自分の役目が終わったかのように大腸癌取り除いたが、全身に転移して、亡くなりました。 放射能と浴びた人々の癌の、因果関係を早く知りたいです。因みに福島県にも、身内がいるので…我が子達ひいおじいちゃんが眠っている、福島県には、放射能の、濃度が高めで、連れて行った事が、ありません。日本、どーにかならないものか?
@凡-w2m
@凡-w2m 3 ай бұрын
生きてくれてありがとうございます
@李坤昇-b5v
@李坤昇-b5v 4 ай бұрын
這是台灣唯一分享
@塩手美加沙
@塩手美加沙 3 ай бұрын
ウランちゃんとSarin様
@asa01053
@asa01053 3 ай бұрын
生き残ってる罪悪感😢、わたしも資料館行きたくないな😢お化け屋敷みたいで
@山県新之助-q7l
@山県新之助-q7l 4 ай бұрын
私が40年前の 小学校の時代、 修学旅行で平和資料館を 見学した思い出が有りました🎵
@秘蔵庫
@秘蔵庫 3 ай бұрын
ピ〜カッと光っ〜た原〜子〜の弾が〜〜♬ ブンチャカ、ブンチャカ〜♪
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