dan hayata 昔は個性が認められていた。ブサイクでも気持ち悪い顔でも、そういう個性であり、その作品に必要だと。 実写に限らず、マンガやアニメでもそうだった。昔は。 どうして今こうなってしまったのか、は我々に責任がある。メディアの発達に従って美男美女に見慣れ過ぎて、それ以外認めなくなってしまっているのではないか、と思う。 何かの選手を「美人過ぎる○○」とか「○○王子」とか、当たり前のようにニュース番組ですらテロップを出して盛り上げているが、やめたほうがいい。彼らの本分はそこにないのに失礼だ。
@CitronCoffee5 жыл бұрын
a gaganbo そうだなあ。若い頃に見れば感動するのに、年を取ってから見るとなんも感じない、ということはよくある。要注意だ。 しかし、今も昔も変わらないものだ、と達観するのは危険だ。あらゆる情報が溢れ、コンテンツに容易に、それも無料でアクセスできる現代は、消費の仕方がやはり昔とは違う。これにともなって、俳優女優の存在の仕方は昔とは違う部分がある。 映画でもアニメでも、とにかくメインキャラは美男美女という風潮がある。それはつまりそれ以外を認めないということだ。もちろん、美男美女を好むのは昔も同じだが、程度が大幅に違うと思う。この程度の違いを問題にしている。
kova man 役者さんというだけで無条件に応援するよ。元気がない日本や世界を面白くしていってくれる人たち。たまに演劇を観に行くけど、当たり外れ含めて楽しい。 さて、現代でも個性の塊のような俳優女優はいっぱいいるし、昔の方が良かったとは思わない。しかし違う点はある。現代は昔よりも「美男美女であること」が重視され過ぎている。その割合と程度を問題視している。 成し遂げた仕事で判断されるべきスポーツ選手や政治家がすぐに「美人すぎる◯◯」として消費される。声優もそう。「可愛いは正義」は反日無罪の韓国人の精神と同じ構造だ。(もちろんネタとして言っている人が多いことは承知しているが、言い続けると本当にそうなる。その人の中では) 役者の世界で、今も昔も見た目はもちろん最重要だと思う。ただ、一昔の方が、もう少し個性派の活躍の場は広く、表現は自由だったんじゃないかな、と言っている。美男美女しか主人公をやれない世界はよろしくない。そして我々は世界を変えられる。