しながわのチカラ「 ブギウギ 服部良一 品川・音楽家の系譜 」

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2 ай бұрын

(1)プロローグ
日本のジャズ・ポップスのパイオニア 作曲家服部良一さん。
クラシック音楽を身につけ、ジャズのフィーリングやリズムに着目したモダンなポップスの創始者です。
今なお世代を超えて親しまれている名曲の数々。
服部良一さんは三代続く音楽一家の礎となっています。
*菊池清麿さん
菊池「服部さんはJポップの基本リズムの8ビートと同じ感覚を
持っていて、ビートルズの影響を受けたミュージシャンに多大 
な影響を与え大きな功績があった。」
*自宅の服部夫妻(昭和55年) ♪~「品川音頭」メロディー
昭和43年小山に家を建て終(つい)の棲家とした服部さん。
昭和53年、品川区政30周年を記念して作曲したのが「品川音頭」です。
*服部・小川名誉区民区役所掲示写真
 服部さんは昭和62年品川区の名誉区民となりました。
 そして服部さんの隣に掲示されているのが、愛弟子の名誉区民
*月光仮面譜面 
作曲家小川寛興さん。
テレビの草創期に「月光仮面は誰でしょう」などのヒーローもので名を馳せました。
*ミュージカル「しながわ物語」舞台
平成13年小川さんは区民参加のオリジナルミュージカルを生み出しました。
*小川さん「服部先生が『品川音頭』を作って、弟子の僕が
『しながわ物語』を手掛けた絆を持てたことは嬉しい。」
*服部さんから小川さんへと受け継がれてきた音楽の系譜。
ふたりの音楽家の絆を見つめます。
*「ブギウギ 服部良一 品川・音楽家の系譜」
(2)誕生~大阪修行時代 
*自伝「ぼくの音楽人生」
「『道頓堀周辺をニューオーリンズのようだと思った時期がある。』服部さんは自伝で大正の末(すえ)頃(ごろ)から昭和初期にかけて
大阪でジャズが大流行していたことに触れています。」
*大正3年家族写真
5人兄弟の唯(ただ)一人(ひとり)の男の子として、服部さんは明治40年
大坂で誕生しました。
*出雲屋少年音楽隊の頃 大正12年16歳の時姉の勧めで少年音楽隊に入り才能に目覚めます。
*書籍「評伝 服部良一」     
「評伝 服部良一」の著者である菊池清麿さんに、服部さんとジャズの出会いを伺いました。
*菊池清麿さん
菊池「当時はジャズ・エイジの時代で、服部さんはダンスホール
やカフェで演奏しジャズ感覚を磨いた。」
*大正14年ラジオ放送用のオーケストラから声がかかります。
*メッテル先生
このオーケストラで服部さんは指揮者エマヌエル・メッテルと運命的に出会います。
『およそ四年間にわたって、和声学、対位法、管弦楽法、それに指揮法をみっちり個人教授されることになる。』
(「ぼくの音楽人生」より)
菊池「(メッテル先生の指導により)クラシック音楽の基本が習得でき、服部さんが後に目指したシンフォニックジャズ
(ジャズ風表現を伴う交響曲)の土台が完成した。」
(3)雌伏の時代 
*タイヘイレコード時代の作品
昭和4年作曲家として初めてレコードの仕事をします。
しかし服部さんが大阪で手がけたのは焼き直しの作品ばかり。
昭和8年、服部さんは決意も新たに25歳で上京。
*ニットーレコード
マイナーのニットーレコードの音楽監督に抜擢されます。
記念写真   
*響友会第1回集会
同時に『教えることが学びになる』というメッテル先生の言葉を実践、無償で勉強会を開くなど仲間の指導に努めます。
(4)躍進の時代 
*結婚(昭和10年)
昭和10年人生のパートナー万里子さんと結婚。
翌年念願のコロムビアレコードに移籍、新たなステージに踏出します。同じ年服部家で新しい命が産声を上げます。
*長男克久さん「父親はこわもてする感じだが、本当は親ばか。父親に殴らたこともないし、声を荒げることが一切ない人。」
*息子の誕生は大きな喜びを与え、日本のブルース誕生の夜明け
となりました。
*レコードプレイヤー
『ぼくにはぼく自身の独自の個性がある。(中略)服部メロディ
ーを創造しなければ、この世界で抜きんでることはできない。』
*「別れのブルース」自筆譜・レコード盤 (「ぼくの音楽人生」より)
そんな想いから生まれたのが昭和を代表する日本のブルース曲。
菊池「服部良一が流行歌の世界で一流の作曲家として認められた
のがブルース歌謡。このヒットによりようやく古賀政男と肩を並べるきっかけとなったのが、『別れのブルース』です。」
*芸術慰問団
日中戦争から太平洋戦争の期間、服部さんは召集された中国で、
*「蘇州夜曲」楽譜表紙 甘いスイートなジャズと中国の抒情が融合した「東洋シンフォニックジャズ」を生み出していきます。
*昭和17年服部さん  また戦時中服部さんは密かにブギウギの楽譜を手に入れ、新しい音楽シーンを予感しました。
『今は戦時中で、敵国アメリカの新リズムとは言えない。しか
し、いつかは日本でも使える日がくるだろう。』
(「ぼくの音楽人生」より)
(5)花開く服部メロディー 
*昭和20年家族写真
終戦時中国で抑留生活の後(のち)日本に戻った服部さんは、自由に音楽を創造する喜びをかみしめ、ビートの効いたリズムで
*笠置とのレッスン風景 戦後の復興を後押しします。
菊池「笠置シヅ子の大胆な踊り、絶叫に近いボーカルをいかすために服部さんは躍動感溢れる歌唱を要求した。」
*「青い山脈」「銀座カンカン娘」「買物ブギ―」テロップ
戦後の日本を明るく変えた服部さんのメロディーは、
*昭和25年作曲風景  昭和28年には2000曲を数え
*二千曲記念ショー
作曲二千曲記念ショーではサプライズのプレゼントで、スター
ラインダンス 歌手がラインダンスを披露しました。
(6) 服部と品川 
*還暦記念コンサート
服部さんは昭和42年還暦コンサートを開催
*指揮をする服部さん
昭和43年に小山に夫婦のための家を建て終の棲家としました。
*小山邸の夫婦写真
この家で区民に親しまれている「品川音頭」を作曲します。
*大阪カンタータ舞台
服部さんの旺盛な活動は長年の夢であった交響組曲を発表するなど、晩年まで続けられます。
菊池「服部さんはJポップの基本リズムの8ビートと同じ感覚を
持っていた。多彩なリズムを加えながら、美しい旋律 豊かなハーモニーで、日本の近代音楽・大衆音楽に大きな功績があった。」
*笑顔の服部
(F.O.) Na.服部良一さんは3000曲にのぼる作品と数々の功績に包まれて、平成5年永眠しました。
(7)愛弟子 小川寛興さん 
*服部さんと長年にわたり師弟関係を結んでいたのが、小川寛興さん。小川さんの仕事部屋には服部さんから贈られた色紙が飾られています。
小川さんは昭和22年から服部さんの内弟子となり4年後デビューします。
*服部克久「真剣に弟子入りしてきた人には先ず仕事を与える。大変仕事が忙しく父は信頼して手伝わせるから作曲術が身についたと思う。」
*小川さんはテレビ映画やドラマの音楽、そして歌謡曲にも精力的に取り組み、作品は1万曲以上にのぼります。
*交響曲「日本の城」 また師匠にならい交響曲作品も発表しています。
*更地となった服部邸
平成24年小山にあった服部邸は取り壊されていました。
*旧服部邸前の小川さん
「更地となって寂しいです。服部先生は『品川音頭』を作って、
弟子の僕が『しながわ物語』を手掛ける絆を持てたことは嬉しい。」
(8)エピローグ 
*平成13年東海道400年祭を記念した区民参加オリジナルミュ
ージカル「しながわ物語」。小川さんは品川への想いを込め14曲の熱いメッセージを届けました。
*平成27年小川さんは師匠の服部さんに引き続き名誉区民とな
り、平成29年92歳で亡くなりました。
*品川ゆかり ふたりの音楽家のメロディー。その調べは今も私たちを魅了する音色で響きます。

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