28年間自宅に眠っていた震災映像~兵庫県神戸市東灘区の阪神淡路大震災の記録映像が見つかる~

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suntv-news(Hyogo,JPN)

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Күн бұрын

Пікірлер: 202
@下唇を噛む癖
@下唇を噛む癖 Жыл бұрын
この映像を持ち込む先がサンテレビなのがいいよな 絶対大切にしてくれるもん
@tomatoma1255
@tomatoma1255 Жыл бұрын
2人の会話が入っているのがこの映像の価値を高めてる気がするよ 映像とあわせて凄く感情が伝わってくる
@tagomagotagomago
@tagomagotagomago Жыл бұрын
そっか、当時学生だった人がもう壮年になるくらい過去にはなってるのか…
@nishikihoko
@nishikihoko Жыл бұрын
岡本5丁目の自宅で被災しました。当時20歳の大学生で、この撮影された方と同じ歳くらいかと思います。これまで報道の残っている映像は、どれもセンセーショナルなものではありました。この記録映像は生まれ育った場所で自分が当時見たものそのままで、よりあの時のことが鮮明に思い出されます。とてもとても寒い日々を電気もガスもないところでしのいだのがついこの前のようです。貴重な映像を撮影していてくださってありがとうございます。
@hotaka3
@hotaka3 Жыл бұрын
4:07 「ミタケンちがボロボロに壊れています、気まずいです」のコメント。等身大の学生の姿が記録されとる貴重な映像っすね。
@YH-ow2oq
@YH-ow2oq Жыл бұрын
28年経って新しい映像が発見され、提供して貰えるというのは非常に貴重で意味のある事だと思います。 ありがとうございます。そして改めてご無事で良かった。…何処もこんなだったなあ。無事な建物は一軒も無かった。
@koronkoron-mt7dn
@koronkoron-mt7dn Жыл бұрын
東灘区で生まれ育ちました。 決して記憶が薄れた訳では無いのですが、時が流れ、風景がすっかり変わってしまい「あの日見た光景と底無しの不安は現実だったのか…」と思うことすらあります。 映像を見てあの時の臭いや埃、指先の冷たさまでくっきりと甦ってきました。 やっぱり忘れられないし、葬ってはいけない体験です。 貴重な映像のご提供ありがとうございます。
@PerfMed
@PerfMed Жыл бұрын
東灘区住民です。あの時私が目にした光景そのままです。記憶が蘇ってきました。貴重な映像ありがとうございます。
@うまおむすび
@うまおむすび 10 ай бұрын
えへへ
@カルボナーラ-s7i
@カルボナーラ-s7i 10 ай бұрын
撮影者の方の「明るくしゃべっているところがある、家族を失った方もいるのにカメラを構えられない、映像を出せなかった」というお気持ちはよくわかります。 それと同時に、今の災害で必ずスマホで撮影した映像が大量に出回ることが災害の状況を伝えられる、災害の研究に役立っているというのも事実なんですよね。 これは矛盾したことであって、一概に「撮った方が良い」「やめた方が良い」と決めつけられない複雑な話なんだと思います。
@Yukihuru
@Yukihuru Жыл бұрын
非常に貴重な映像です。 なぜならこの頃はまだ手軽に映像を残せるデバイスが現代のように溢れていませんでした。 この時代だと携帯電話にはカメラ機能やメールが無く音声通話のみ。それどころか携帯電話の普及がまだまだでポケベル全盛期の時代です。 ビデオカメラのバッテリーも今の様に高性能ではなく、撮影前には予め充電する必要がありますので普段特に用事の無い場合は電池残量が10%未満であるなども珍しくなかったかと。 当時の混乱にあって、市民目線の音声付きの映像が見つかるというのは奇跡ではないかと思います。
@tanakens7313
@tanakens7313 Жыл бұрын
住民目線、そして少し遠慮しながら撮影してる気持ちが伝わってくるとても貴重な映像ですね。当時の困難な街の状況に胸をえぐられました。 亡くなられた方々に改めてお悔やみを申し上げます。
@machi554
@machi554 Жыл бұрын
自衛隊の方々、あんな重い荷物や装備持って、駐屯地から歩いてそこで作業して、また歩いて帰るんだろうな…。飲食の補給なんか出来ないから自前。この時代は自衛隊に対する扱い酷かったから、メディアにも殆ど登場しなかった。 自衛隊の活動を讃える為にも貴重な映像です。
@nixone1435
@nixone1435 Жыл бұрын
当時小学生でまさにここで被災しました。 どの場面も「2国のマクド」「ヤマカンの水道橋か」とわかるぐらい鮮明に映っており、 貴重な映像を見せて頂きありがとうございます。
@user-yo3ip8wi3x
@user-yo3ip8wi3x Жыл бұрын
この日大阪北部住みで震度5強でした。結婚して関東から関西に引っ越して来てすぐの事でしたが初めて経験した大きな揺れでした。関西は地震が無いからええやろと義母に言われた事を思い出します。当時関西は地震に対する備えがほとんどされていなかったと思います。
@sadachan2008
@sadachan2008 Жыл бұрын
東灘の区役所で被災者ではありますが、ボランティアで約2週間お手伝いさせてもらいました。 住んでいたアパートは何とか無事でしたが、何か助けになればと避難していた大阪の友人宅から 戻る途中で東灘区役所へ。大阪の病院に勤務していた友達の看護師と連携して、 交代で三人来てもらい手伝ってもらいました。 バイクを所有していたので無数に点在していた非難しているグループへ支援物資を届けたり、 支援物資の集積所としても機能していたので、搬入や提供を繰り返す毎日でした。 映像を見ていると当時の状況や感情が思い出されてきました。 貴重な映像ありがとうございます。 深夜自衛隊の滋賀方面隊の隊員の方と仮設のお風呂で眺めた夜空は今も鮮明に覚えています。
@fritzn6296
@fritzn6296 10 ай бұрын
あの時は父を亡くしてもうダメかと思っていたけど、今はこの映像を観て、地震で神戸を離れるしかなかったけど御影高校生だった自分にとって「2号線沿いのマクドめっちゃ懐かしい」の気持ちしか湧いてこない。 時間が経つというのは残酷だけど、悲しみを癒してくれてありがたいことだなって思う。
@伊藤やよい-l6w
@伊藤やよい-l6w 10 ай бұрын
大変でしたね。もう29年もたっのですね。当日は、早朝の震災、家屋倒壊や、火災でお亡くりなった方々が、6000人、村山政権下で、自衛隊は単独では、行動できなかったそうです。今のように、スマホ📱など無かったの時代なので、8m映像は貴重な、記録ですね。こ高速でギリギリ止まっているさバスや、高層ビルの倒壊、、復興には長い時間がきりましたね。 我が家の、お隣さんは、神戸でそんなに被害は無かったのそうですが、当時は中学生だったそうです。東日本大震災も、13年目を迎えます。 お正月の、家族団欒を襲った、能登半島沖地震、地形上、まだ道路が寸断されている処や、インフラ、水道工事は数ヶ月かかるそうです。 自衛隊、消防、医療、警察関係者も、大阪からいち早く駆けつけたそうです。復興には、まだ、長い支援が必要ですね。2次避難も考えたほうが良いかと、、、そして、金沢や和倉温泉などの、観光支援もしていかなければいけませんね。 犠牲者の方のご冥福をお祈りします。😢
@tran19850707
@tran19850707 9 ай бұрын
今もあるよこのマクド🥹
@吉山典希-t5i
@吉山典希-t5i Жыл бұрын
当時甲南大学2回生で岡本に住んでました。見覚えのある光景もいくらかあり、思い出すこともあります。大変でしたねあの時は。
@MrAnkodaisuki
@MrAnkodaisuki Жыл бұрын
ミタケン、自分ちにおらんでよかったなぁ…潰されてたかもしれんやん…ミタケンさんとは逆に、大阪の子やのに震災のあった日だけ神戸に泊まりに来てて亡くなった子の話も聞いた。運命なんて言ってしまえば簡単やけど…自分もこの震災の被災者やったから思うけど、人の生き死にってほんまにちょっとの偶然でしかなくて、だからこそ今、自分が生きてることとか大切な人たちが生きてくれてること、感謝せんとあかん(つい忘れがちやけど)
@奈子-u9w
@奈子-u9w Жыл бұрын
あの日のことは忘れられません。 いつもはキッチンに立っている時間でしたが、その日に限ってまだ布団に入っていてドン!と突き上げた途端に飛び起きました。もしキッチンにいれば怪我では済まなかったと思います。 今思い出しても怖い経験でしたが、勇気を出して提供して下さった方そしてサンテレビさんにお礼を伝えたいです。とても貴重な映像をありがとうございました。
@abbey_aikawa4310
@abbey_aikawa4310 Жыл бұрын
あの頃はまだポケベル時代でしたよね。携帯もまだ高価で持ってる人も少なくて、もちろんカメラなんて付いてなくて。 直後の映像は、ヘリからの画角しか記憶にありません。ですからこういう被災者目線の映像はとても貴重だと思います。
@junkosan154cm
@junkosan154cm 10 ай бұрын
記録に残してくださったこと。 劣化しないようデジタル化してくださったこと。 サンテレビに託してくださったこと。 解説をつけて、こうしてサンテレビの地域でない私たちも見られるようにしてくださったこと。 みなさんが素晴らしいと思いました。 ありがとうございます。 もう29年もたつんですよね。 涙なくしてみられない映像でしたが、みられてよかったです。
@tkbs18
@tkbs18 Жыл бұрын
僕はこの地震の一年後に神戸で生まれ、社会人になるまで二十数年ずっと神戸で暮らしていました。 映像にあった街並みは、まさに僕が幼い頃からずっと見てきた場所だったので「あそこがあんなことになってたのか…」と衝撃を受けました。 貴重な映像、ありがとうございます。
@ave5163
@ave5163 Жыл бұрын
芦屋郵便局近辺に住んでいた者です。 阪神高速が倒壊した場所の近所です。 ありがとうございます。
@KM-wc8rj
@KM-wc8rj Жыл бұрын
灘区に住んでました。当時の事は一生忘れません。
@jurian-
@jurian- Жыл бұрын
この方の「被災者の気持ちを考えて撮るのもはばかって、映像を表に出すのもためらっていた」気持ちはわかります 自分も東灘区でしたが、この時は写真を撮る気になれなかったです・・・あとになっては記録すれば良かったと思いますが・・。
@yumejiran
@yumejiran Жыл бұрын
当時テレビでは高架橋倒壊と火の手の上がる街の空撮の映像が繰り返されていた記憶しか無かったので、自衛隊の姿や倒壊した建物の近距離の映像に驚きました。 貴重な映像ありがとうございます。 もう28年経つんですね…。
@sA-nn4xb
@sA-nn4xb Жыл бұрын
あれは、テレビが視聴率稼ぎのためにインパクトのある映像を流し続けただけですね。まぁ、この映像も、かなりインパクトあるとは思いますが。
@130taisho
@130taisho Жыл бұрын
当日 堺市の自宅から宝塚市内の実家まで単車にて向かいました❗ で 両親を父のクルマにて弟夫妻宅(私は独身なので)に預け帰宅したら ニュースは  朝の高速道路が崩れた映像と長田の火事だけ 震災の事実を報道していない❗と 怒りを覚えました‼️ (新幹線が武庫川橋梁から全て橋桁落ちているのを隠したのでは)
@戦羽煙
@戦羽煙 Жыл бұрын
当時の自分の家が映ってたそうそうこんな感じだった
@おすし-s4m
@おすし-s4m Жыл бұрын
1995年ってつい最近のような気がしてたけどこんな昔風の映像になる時代なんやね。時間の流れを感じたわ。
@tomadaaa
@tomadaaa 2 ай бұрын
もう30年の時間が経とうとしてるんですよね……… この頃に生まれた赤ん坊ちゃんが、立派に家族を作って生きてても全く不思議でない程の時間が…
@jikai1984
@jikai1984 Ай бұрын
90年代と言うと未だ20年〜15年くらい前という感覚が抜けない。そこまで昔じゃないというかもっと身近な印象だったけど今となってはもう30年以上も前の話。時の流れって残酷だよ。
@まもちゃん-u3r
@まもちゃん-u3r Жыл бұрын
あれから間もなく29年てのが信じられない 何か涙出てきた
@takamura2
@takamura2 Жыл бұрын
貴重な映像ありがとうございます。
@KEIZOKU01
@KEIZOKU01 Жыл бұрын
当時は若手社員で大阪勤務でした。神戸の支店への応援で何日間か自分のバイクで通いましたが、途中の道路上はところどころ崩れた建物があって、荷物を抱えた人、水を入れるタンクを運ぶ人、ただ座ってうなだれてる人、この映像と同じでした。 むかし教科書で見た日本の戦時中の写真のようでした。 信号は止まってたけど不思議とどの車もお互い譲り合いをして走れてました。あおるとかあおられるとかどちらが優先とか、そんな余裕も考えもなかったです。
@イソ-h7s
@イソ-h7s Жыл бұрын
今なら遠慮なしに何でも撮影する人が多いのに…… この方達は撮影中も撮影後も色んな配慮があって優しさを感じました。
@ddipocket3
@ddipocket3 Жыл бұрын
んー、それは偏見じゃないかい?
@PCの前でチー牛とコメントするチー牛
@PCの前でチー牛とコメントするチー牛 Жыл бұрын
@@kargenrock なんかズレてて草
@xnnagi_no_kavayaki
@xnnagi_no_kavayaki Жыл бұрын
@@PCの前でチー牛とコメントするチー牛ずれてはない。
@mpjpdtdtmtwwt
@mpjpdtdtmtwwt 10 ай бұрын
そりゃ時代が違うだろーよ それだけビデオや写真撮影が身近になったってことや
@ぽち-p9j
@ぽち-p9j 10 ай бұрын
記者らしき人たちを見たら嫌な気分になったもんです。 こっちは生きるのもやっとなのに何しに来とんねんみたいな。 一眼レフを抱えた見るからに余所者という連中もいました。
@user-ksga
@user-ksga 10 ай бұрын
95年で画質も音質もいいしいいカメラだな
@野生のラッキーが現れた-c2b
@野生のラッキーが現れた-c2b Жыл бұрын
すげぇ、当時大学生の若者だった51歳の人が残してた、あの時の震災映像… この震災も、もう遥か昔の話ですよね
@miyabeey3968
@miyabeey3968 Жыл бұрын
自衛官のみなさんは歩いて来てくださってたんですね しかもその日の午前中にはもう被災地に到着している 私は灘区で被災しましたが 何があったのかとても人に伝えられないので 阪神淡路大震災を知らない人たちにこういう映像は見てもらいたいですね
@よっしー-d1b
@よっしー-d1b 10 ай бұрын
貴重な映像ありがとうございます この映像を学術的な研究をされている先生にも提供されているところにサンテレビや撮影者の誠実さを感じます
@破壊神夜神ほいぺた
@破壊神夜神ほいぺた Жыл бұрын
30年間交友関係続いてるのすげー
@one-person-lk6zv
@one-person-lk6zv Жыл бұрын
奥尻地震の津波があった事を聞いて、その数年後の阪神淡路の震災の被災映像に恐怖を感じたのに東日本大震災ではスマホでのあらゆる被災映像を見た事で更に恐さが増した。映像というのは忘れてはいけないと思わせるとても貴重なものだと思います。
@pipipu2918
@pipipu2918 Жыл бұрын
20年から40年間の間に大地震は起こる国日本。別に気兼ねなく提供していいと思う。これからまた起きるんだから。絶対100%。 世の中は「風化させてはいけない」と言っているのだから尚更。たとえ悲惨な映像でもはっきりと全員の目に焼き付ける 必要は充分にある。そういう国に我々は暮らしている。いずれくる大地震のときにできうるかぎりパニックにならないためにも 悲惨な映像こそ公開し保存するべき。 このような映像でパニック症状になるようなら今のうちになったほうがいい。 大緊急時にパニックになられるよりはるかにましだ。2070年までにはかならず大地震はくる。 しかもどこがおこっても何ら不思議はない。 阪神大震災の時、ニュース映像でいまでも目に焼き付いている映像がある。 自宅を掘り起こしてるご主人が、 途中まで掘り起こして、道具から手が離れて、その場に崩れるように座り込む場面があった。 もうすべてを表していた。 こんな国だが1つだけ救えることがある。この国は地球と戦ってる。 強ええと思うよ。日本。
@みそ-h2l
@みそ-h2l 10 ай бұрын
東日本大震災のとき5月ごろにボランティアに行ったけど、壁のように積み上がった瓦礫や崩壊した家屋がまだまだ残ってたけど、カメラを向けられなかったなぁ 惨状にカメラを向ける、記録するのって無神経な気がして そういう思いがあったからこの方も出さなかったんだろうね そういう思いも飲み込んで、ようやく提供できたんだろうな
@まっきゃん0406
@まっきゃん0406 Жыл бұрын
震災の前の日に伊丹→高知を飛行機で移動したのですが、次は神戸に遊びに行こうと友達と話てた次の日に。。 従兄弟が灘区に住んでて従兄弟の家は大丈夫だったのですが隣の家が従兄弟の家の方に傾いてて怖かったと話てました。 こんな状態だったのかと。 資料の提供ありがとうございました。 関東も直下型地震が来ればこんな感じになるんだろうなと。 耐震や備蓄を心掛けないとと思います。
@user-kr6vc6px5r05
@user-kr6vc6px5r05 Жыл бұрын
臭い物に蓋をしたり、 災害のあった地名を別の名前にかえたり。 そういうことをするからまた同じところで犠牲者が出る。 笑ってようがなにしようが、 映像は貴重。 ありがたい。
@jacobs7592
@jacobs7592 Жыл бұрын
何年か前、仕事で灘区に立ち寄った事がありましたが、昭和チックな建物が全く無く、全て新築の家だったので、ああ そういう事だったんだなと実感しました。
@saori2061
@saori2061 Жыл бұрын
祖母の妹が阪神・淡路大震災で、倒壊した家屋の下敷きになりそこに火が来て亡くなりました 六甲道のところです。 三宮の所にも親戚がいました
@高橋せつ子-s8g
@高橋せつ子-s8g Жыл бұрын
ありがとうございます。 今まで残して頂いた事に感謝してます。
@てすと-k3x
@てすと-k3x Жыл бұрын
こんなにも鮮明で綺麗な状態で映像が残ってたことが素晴らしい… 28年前じゃ最悪DVDもないからテープと考えると、切れてダメになる可能性もあっただろうしな…
@牛沢友郎
@牛沢友郎 2 ай бұрын
テープだからこそ復元できるんだよ
@あーちゃん-e9t
@あーちゃん-e9t Жыл бұрын
東灘区民です。 あの日のことは忘れられません。 布団にしがみつきながら、ただただ揺れをおさまるのを待ってました。 怖かった…ほんまに怖かった…
@積喜
@積喜 Жыл бұрын
密集して隣り合った家でも柱が折れて上部の重さで圧縮され全壊しているところもあれば、なんとか持ち堪えて遠目には家として形を残している(住めなくても出入りはできそうな)ところ、様子が違うのがとてもよくわかる。 突然日常が奪われた絶望もそうだけれど、これは下敷きになった人が目の前で亡くなっていくのを見ていた人は本当に歯痒く悔しかったと思う。 ご冥福をお祈りします。
@寺野みち子-l5g
@寺野みち子-l5g Жыл бұрын
何年たっても忘れたくないです
@T_Kazahaya
@T_Kazahaya Жыл бұрын
こんな惨状の中、1月18日の学内掲示板への張り出しだけで1月20日から後期試験再開を告知した関西大学って今考えてもエゲツねぇなって気持ちしかないなあ。 このとき普段の移動手段にDT50という原付のオフロードバイクに乗ってたんですが、色々とオフロードバイクが便利でした。
@tossanf4
@tossanf4 Жыл бұрын
それはちょっとひどいですよね。 ただ大阪はそんな被害がなかったんだと思う。私は尼崎に住んでましたが、確かにうちも本棚など倒れまさたし、尼崎にも古い色は倒壊してましたが、神戸と比べると全然マシです。ただ尼崎も場所によってガスや水道が何日も止まってましたね。うちは1時間ほどで全てついたんですが。武庫之荘あたりは2週間近く何か止まってたかも。親戚の人がうちにお風呂にきてたので。
@T_Kazahaya
@T_Kazahaya Жыл бұрын
@@tossanf4 私も尼ですが阪神水道のポンプが壊れて3週間くらい水は停まりましたね。ガスと電気はOK。大阪は阪神大震災時、まぁまぁ露骨にこっちの被害のことを「対岸の火事」と見てたのはマジですが、京阪神の主要大学で後期試験を強行したのは関大だけだったというのは結構有名な話と思ってました。関大は昔から災害に対する認識が極めて甘い学校ではありますが。
@yasuhiro0782
@yasuhiro0782 8 ай бұрын
東灘区深江で被災してよく生きれた。 その後岡本の祖父に家で避難。 こんな感じだったなーと振り返れました。
@gotono5274
@gotono5274 Жыл бұрын
あの当時はまだsnsも普及していなくて TVにかじりつきで見てた 当時大学生という事は47-50年生まれぐらいの方いわゆる今の親世代 明け方の地震で目が覚めたのを今でもはっきり覚えてる 知人が高校のスキー修学旅行で1時間前にあの場所を通り何を逃れた 当時の事を深く知って良い動画だと思うよ
@山田太郎-t8u4u
@山田太郎-t8u4u 10 ай бұрын
後ろめたいという配慮もあるが、やはり歴史的に貴重な資料。 臨場感がある。
@atg2tat
@atg2tat Жыл бұрын
8ミリ? 当時でも貴重な媒体をよく持ってた
@山田緑-n2h
@山田緑-n2h 9 ай бұрын
大変貴重な映像を見せていただきありがとうございました。
@風船心臓
@風船心臓 10 ай бұрын
地震は卒業した翌年でした。私は十善寺の麓のボロアパートに住んでましたが今も改築されども残っています。位置的にボロアパートが壊滅被害を受けるような震災だったなら神戸大校舎や坂途中の家屋が崖崩れを起こす更に地獄だったでしょう。ビデオの街は私が過ごした大学時代の街並みです。神戸はco-opが発達してました。2号沿いのコープも行ったことあります。当時は銭湯もいっぱい残ってましたね。あの地震は私の未来も交友もズタズタにしてくれた。今も能登で同じような被災後の苦労してるの見てなんも変わらんのやなあと思う。
@ai-ys8wf
@ai-ys8wf Жыл бұрын
東灘区の青木に住んでました。玄関の扉が開かなくなって、父が体当たりしてようやく開き、しばらく扉がベコベコの状態で住んでました。自衛隊のお風呂に入ったり、水の供給場所まで行ったり、幼かったですがよく覚えています。
@hnanno
@hnanno Жыл бұрын
私も住吉駅前のシーアの行列の中にいました。貴重な映像ありがとうございます。
@0kz38f3b120038b
@0kz38f3b120038b Жыл бұрын
俺は当時小学5年生でたつの市に住んでましたが、あの頃はガタガタ揺れて被害はなかったのですがニュースで神戸が大変な目にあっていて、あの折れ曲がった状態の阪神高速が印象に残る
@Imo_teaいもてぃー
@Imo_teaいもてぃー Жыл бұрын
最寄り駅が神戸線だけど、大阪寄りだったから被害もまだましだった。それでもあの日、揺れている間は家が崩壊するのではないか?そしたら自分は死んでしまうのではないか?と思うほど恐ろしかったです。 今のようにネット社会でもなく携帯も普及してない時代、しばらく停電していたのが復旧してテレビを付けた瞬間、神戸がとんでもないことになっていることがわかった。あの震災は忘れられない。 寝ている時にいざ地震が起きたら、身動きできないことも身を持って体験した。
@claire-mm5xx
@claire-mm5xx 7 ай бұрын
映像に近い本山北町6の自宅で被災しました。周辺の古い木造家屋は倒壊し、塀が倒れ道が塞がっていました。震災直後の何もかもが静止した様な『シーンとした』静寂さを今も忘れられません。
@akikasa565
@akikasa565 7 ай бұрын
>『シーンとした』 ▼私も同じです。あの静けさは忘れませんね。マンションの屋上に上がり明るくなりかけたころ、ホント恐ろしくシーンとしていて(ほぼ無音)、見渡すと東西南から煙が何本も上がってました。本山中町の実家付近はほぼ壊滅状態(木造の家)で・・。▼灘神戸生協本部から火が出たのは震災後3日目?ぐらいでした。
@KAZU-kh1lb
@KAZU-kh1lb Жыл бұрын
とても貴重な映像と体験談ありがとうございます😮😮
@naolno
@naolno Жыл бұрын
あの日の朝 寝ていた自分の体が跳ね上がった・・・凄かった
@a_ru_R_0614
@a_ru_R_0614 Жыл бұрын
これは貴重な映像だ
@下杉一花
@下杉一花 7 ай бұрын
俺前ここ歩いたことあるぞ 大変だったことが分かりすぎるくらい分かる
@yoko0707-j1k
@yoko0707-j1k 10 ай бұрын
戦争の被災の後の様な景色。 私も当時高3でこの1か月後に 歩いてボランティアに向かいました。 やはりこの地震の後から色々な意味でいつ地震が起きてもおかしくないし、地震は怖いと思わされる 体験でした。 揺れに対して敏感になりましたね。 今又忘れかけてました💦
@SHIDENSUGI
@SHIDENSUGI 10 ай бұрын
「まさか自分らがこんな事になるとはなぁ」28年ぶりに同じ台詞を目にしたり、自ら口にするなどとは思いもしなかったわ
@北優作-o7n
@北優作-o7n Жыл бұрын
28年前神戸街壊滅してしまったけど今は復興して綺麗な街並みになっていますね。もう二度と神戸の街並み壊滅が起きないことを祈っています。
@T_Kazahaya
@T_Kazahaya Жыл бұрын
形だけは復興したんですよ、形だけは……色々がっつり空洞化しましたが
@tennennsui
@tennennsui 11 ай бұрын
次は南海トラフ可能性あるよね、、、、、
@jikai1984
@jikai1984 Ай бұрын
次は名古屋大阪辺りの街並みが消え去りますかね
@あみあみ-h7q
@あみあみ-h7q Жыл бұрын
近所の映像だぁ…。 まさに この中で生活…いや、生きてたんよなぁ~。 懐かしむってワケやないけど、 『あぁ~見たゎ~これ』て風景…。
@kamakiri009521
@kamakiri009521 Жыл бұрын
貴重な映像だな
@gorimandesu
@gorimandesu Жыл бұрын
震災の翌年に六甲周辺に下宿し始めたけど、周りはブルーシートだらけで、公園には仮設住宅、 駅周辺の商店街は更地だらけで店もほんど無くてスッカスカでしたね そこからの復興速度がエグくて、4年後の卒業する時の景色が別の街という感じで全然違ったのを覚えてます
@hasinomoto
@hasinomoto 10 ай бұрын
都心部は復興速度が速い。地方だとそのまま更地になることもあり得る。
@sho-td6uh
@sho-td6uh 3 ай бұрын
貴重な動画をありがとうございます、まだ子供ですがしっかり勉強したいと思います
@bob3yorkie
@bob3yorkie 7 ай бұрын
当時は小3やったと思います。 確か地震の一週間ぐらい前に神戸に行ってました。 子供ながら、大阪との違いに不思議な気持ちを抱いていました。 大阪では地震の当初は混乱があったものの、段々と普段の生活に戻っていったので。 まるでリアルタイムで戦争の映像をテレビで見ているような印象でした。 ACジャパンの「水、持っててや。」は今でも覚えています。
@hoson21th
@hoson21th Жыл бұрын
よくぞ提供してくださいました。
@kobayashinoanickikorosita
@kobayashinoanickikorosita Жыл бұрын
不謹慎で申し訳ないけどミタケンちが倒壊してて気まづいで笑ってしまった
@うめとも-i9h
@うめとも-i9h Ай бұрын
西宮で被災しました。 突き上げられるような大きな揺れから、どんどん揺れが大きくなって、怖かった。すごく、すごく怖かった。 なんとか家から出たけれど、外の様子は変わり果て、もう自分の知ってる街ではなくなっていて涙しました。 それからは、祖父母や友人が生きているかを必死で確認したこと、倒壊した家屋、隆起した道、倒れた電柱、ガスの臭い、鳴り止まないサイレン、色んなことを思い出しました。 貴重な映像だと思います。
@coolsoulbybanbi
@coolsoulbybanbi 2 ай бұрын
地元の人が通る道の地元目線の映像。これが本当のリアルなんだと思います。 当時小学校中学年で遠い世界の話ぽっかったけど、旦那が同い年の神戸出身で震災経験者で、これを当時経験したのかと思うと、本当に怖いです。 報道映像はインパクトあるのしか映さないから、実感湧かないけど、この映像にはリアルがあって、被災したらこんな風になるんだなっていうのがリアルに伝わってきます。 近い内に来ると言われている南海トラフも心構えがいりますね。
@そらお-o3b
@そらお-o3b 10 ай бұрын
私は広島なんですが、広島でも揺れ方がただ事ではなかった テレビで兵庫県震度7って出た時はびっくりで、その年に神戸の短大に入学が決まっていて、三ノ宮をみたけど衝撃と絶句でした
@komachov7806
@komachov7806 Жыл бұрын
そうや、この感じ…
@4tissuesHokkaidoJPN
@4tissuesHokkaidoJPN Жыл бұрын
1995年1月17日は夜、京都会館で京大オーケストラの定期演奏会がありました。佐渡裕さんの指揮でしたが、「とんでもない日になりましたね」というあいさつから始まりました。阪神方面から通っている学生は来られなかった人もいるようでした。京阪は動いていたんじゃなかったかな。メインはマーラーの9番でした。もともとすごく重い曲なのですが、この曲を生で聴く都度にいつどこで聴いても重さが深まります。 1か月経って、東は阪神青木まで開通していたので、街を見に行きました。当時ハードコンタクトレンズを使っていましたが、ほこりっぽくて30分ほどぶらぶらして帰りました。電車の車窓もあちこちブルーシートの屋根や、まだがれきもありました。がれきを片付けたと思われる空き地もあちこちにありました。ボランティアという言葉が浸透したできごとでした。 地震があった早朝5時46分より1時間ほど前に目が覚めてゴミを出しに行ったのですが、若いあの頃なぜ目覚めたのか不思議です。ゴミを出しに行くと薄暗い中おばあちゃんが散歩していました。なぜかとても印象に残っています。わたしは北近畿出身で進学には多くの人が京阪神に出ます。京都のボロアパートの1階に住んでいましたが、神戸の可能性も十分ありました。人生って紙一重っていうか、はかないですし、ほどほどに細く長くしぶとく生きようと思います。結論弱いでしょうか。まあ、こんなもんでもいいと思いますけど。
@てっち-g5h
@てっち-g5h 3 ай бұрын
自分は名古屋に住んでいた 実家は芦屋市内にあり、両親とは震災翌日の朝にやっと連絡がつき、必要なものを買い込んで実家へ 阪神電車は甲子園までしか走っておらず、甲子園からは徒歩で実家に向かった その途中の光景がこんな感じだった 道のりの半分くらい行った所で回りの光景に気を取られて足元の陥没に気付かず足を挫いてしまい、痛みを堪えながら歩いたのを覚えてます
@KitaWard-OsakaCity
@KitaWard-OsakaCity Жыл бұрын
神戸は衰退都市ではなくて、 復興中の都市 がんばろう神戸✨
@朝日佐知子
@朝日佐知子 10 ай бұрын
1995年は、子のすぐ後に地下鉄サリン事件が起きて、この大地震の報道件数が減少しました。大きな事件が起こっても、それを上回る事件が起きると、前者の方が忘れられがちになることを何とか食い止めてほしいです。
@ネ申イ山
@ネ申イ山 Жыл бұрын
忘れてはいけない災害ですね!
@茱萸-z9q
@茱萸-z9q Жыл бұрын
この当時 私はまだ生まれてません。 母はこの日産気づいたけど執刀医が 震災の現地に行ってたから産ませてもらえ無かったそうです。 何度も頭が出ては子宮に戻すをしつつ 耐えること約3日目にしてようやく執刀医が帰ってきて私が生まれました。 離れた九州では阪神より最悪な現状でした全壊、半壊 火柱が立ち込めるわ津波が来るわの大惨事 だけど当時はそんなこと言ってられません って当時を経験した祖父母や親が言ってた 阪神がとても大変で一大事だからです 父の弟家族が全壊と共に下敷きになったけどタンスのおかげで救助がすぐできたと 言ってた 今住んでる家(九州)もこの震災により 半壊しました。さらに熊本地震で津波に襲われつつも高台にある方なので半壊でした。 熊本地震では熊本が津波が来た県よりも 一大事という理由で他の候補名もあったけど熊本地震になりました。 とはいえもう地震は嫌です
@zizizuma5834
@zizizuma5834 Жыл бұрын
これは都市直下型地震の被害を写した貴重な映像
@murasondayo
@murasondayo Жыл бұрын
大学卒業して建設会社に就職し年明けての1月でした。配属が大阪で半年滋賀県大津市で研修をしていました。宿泊先の栗東にあるビジネスホテル🏨の5階で震度5を体験。テレビをつけたら神戸が震源だと。
@patch33
@patch33 Жыл бұрын
政府の要請で日清とマルちゃんのカップ麺を救援物資として当日の夜に送り届けて帰りにカメラ撮影して地元の仲間に見せたらそんな写真撮ってくるなと批判されたから一定数そう言う偏見人が居るのは事実なのでこの提供者の心情は理解出来る。
@たまごかけごはん-i5b
@たまごかけごはん-i5b 9 ай бұрын
なんかこんな惨状でも、今朝と変わらず雀やカラスの声、青空、原付の音が聞こえるのが何だか感慨深い。変わらない日常やったんやなと思う
@saskiyoshiaki
@saskiyoshiaki Жыл бұрын
5:50 「コープみらい」の本部だと思いました。
@やこまく
@やこまく 10 ай бұрын
阪神淡路大震災の話題になると、父が出張で東京から新幹線で岡山に向かう当日に震災が起こり、急遽飛行機に変更したという話を思い出します。
@macomaco-y2x
@macomaco-y2x 3 ай бұрын
当時芦屋市三条町で被災しました。父が実家周辺の写真やビデオを撮ってましたが、提供すれば何か役立つんですかね?
@jikai1984
@jikai1984 Ай бұрын
凄いじゃないですか。ぜひ提供してみるのも良いと思いますよ
@masa6986
@masa6986 Жыл бұрын
貴重な映像有難う御座います。 前日に須磨に行ってた事を思い出します。
@ヒロみつ-u6i
@ヒロみつ-u6i Жыл бұрын
京都も人生で経験したことない揺れがきました!当時工場で仕事中!ドロドロに溶けた金属が横揺れで溢れまくったのを覚えてます
@frantic1987
@frantic1987 10 ай бұрын
もう29年経つんだな... 麻衣、屏風浦に連絡ありがとうな、うれしかったよ
@油食林間
@油食林間 2 ай бұрын
我が家にも震災直後の川西から宝塚、西宮、芦屋、三宮、長田まで徒歩で往復した時の写真ネガが数百枚倉庫のどこかにありますよ。
@動画無しで1000万人
@動画無しで1000万人 Ай бұрын
川西出身なんで見たいです
@NnoYONsama
@NnoYONsama 10 ай бұрын
去年からこのそばに引っ越しました。 毎日のように通っているところがこんなにひどかったなんて絶句です。 南海トラフでまたこうなるかもしれないので食料備蓄や寒さへの備えはちゃんとしないとな
@YokoKawabata
@YokoKawabata 10 ай бұрын
Lembro essa tragédia como se fosse ontem,morava em sendai ,paracia coisa de outro mundo .É interessante que terremoto acontece e aconteceu srmpre no inverno.
@hiroki7504
@hiroki7504 3 ай бұрын
貴重な映像ですね。
@ohmasa_sukesan
@ohmasa_sukesan 10 ай бұрын
同じ年 当時は今より産近甲龍は難関大学だった
Кто круче, как думаешь?
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