【通説とは違う】「豊臣秀吉は百姓出身ではない! 」新出史料が示す出生の秘密

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Japanese history path | Rekishi no hosomichi

Japanese history path | Rekishi no hosomichi

Күн бұрын

Пікірлер: 146
@建速素戔嗚尊
@建速素戔嗚尊 15 күн бұрын
この時代は百姓も刀や甲冑を持ち、足軽として戦に参加していました。地侍も百性も明確な区別など無かったのではないですか?
@mangakoji
@mangakoji 15 күн бұрын
兵農分離してないんだから、地方豪族は農民ですよね。 階級は馬持ちかどうかくらいで
@mysygisun3335
@mysygisun3335 10 күн бұрын
地侍=半農半侍・地方豪族、何よりも文字を読み書きが、出来たと言う事でしょ。 こればかりは、江戸前の農民では、有り得ないと言うことでは。
@永隈ゆうじ
@永隈ゆうじ 7 күн бұрын
百姓は年貢を多く出したら、戦奉公は免除される事も有りました。地侍だと戦事は必ず参加して領地も少しは持って耕した。
@イナバユウスケ-b7l
@イナバユウスケ-b7l 15 күн бұрын
下級武士・・・地侍・・・いや百姓じゃねーか。そもそも土地所有している百姓が武装しているのが地侍だぞ。
@masanoriyuasa8523
@masanoriyuasa8523 15 күн бұрын
下級武士と農民の違いってなんだろう。 江戸時代じゃないんだから。
@白吉-j4d
@白吉-j4d 14 күн бұрын
秀吉の家系については今までも紆余曲折がありますね 初め、父親は鉄砲足軽だったが負傷して地元で農民をやっていたとなっていましたが、秀吉の父は早くに亡くなって母親が養父と結婚したので、同父母兄弟は姉と秀吉だけ、秀長と妹は異父兄弟であるとなったり、秀長も同父母兄弟となったりしています 木下氏は秀吉の奥さんの実家杉原氏と通婚していた家柄で、秀吉と奥さんが結婚後秀吉がその木下を名乗りだし、父親の弥右衛門も秀吉にあやかって木下を名字と言われているとなっていますね
@kawasemibluebird8910
@kawasemibluebird8910 15 күн бұрын
そもそも、『百姓』イコール『農民』ではない。百の姓。
@otokko
@otokko 15 күн бұрын
戦国時代、下級武士・地侍と百姓に厳密な区別なんて出来ないんじゃないの?
@白吉-j4d
@白吉-j4d 14 күн бұрын
地侍を下級武士に入れることもおかしい 地侍の中には上級武士や武将もいる 江戸時代初期の家老、上級武士の中には家族や親族を地元から呼び寄せて知行取りの武士にしている例もある また、赤穂浪士の親族書の中には親しい親族が地元に残って農民をしていることが記載されてもいる 武士と農民、商人、職人の身分はそれこそ刀狩令などの法令の制定、江戸幕府の身分の厳格化で別れていったと考えていいでしょう
@bs5143
@bs5143 14 күн бұрын
三英傑の書画展に行った事が有ります。織田信長と徳川家康の直筆は漢字仮名交じり文でした。豊臣秀吉は残念ながら全て「平仮名」でした。※初等教育(読み書き算盤)等は受けていない、生活環境は厳しかったのでは、と思いました。
@高谷民動
@高谷民動 14 күн бұрын
秀吉の出身地である中村のあたりは、平安時代から日比津とか萱津とかいった川港を連想させる名前があります。また、鎌倉街道も通っている。貧しい田舎村ではないです。また、中村のあたりに東宿という地名も残っている。名古屋城下の西側で東宿という謎のエリア。多分、木曽川から庄内川までのデルタ地帯の東岸の宿場町だったと思われる。家康が名古屋を整備し美濃街道を作った。そのため中村あたりは寂れてしまった。秀吉は、そのあたりの出身ですから 豪商の倅だと思います。by地元民
@jalb777
@jalb777 14 күн бұрын
秀吉は足軽百姓だと教わりました。この頃の足軽は普段農民で戦のときだけ武器を持ち武士に変わりますので下級武士なら百姓から天下を取ったことに間違いないのでは。
@toki8606
@toki8606 15 күн бұрын
秀吉が刀狩をするまでは、兵農分離はされていなかったので、武装した農民という立場だったのかのしれないですね
@明石則実
@明石則実 15 күн бұрын
で、新出の史料はいったいどこに?仮説だけなら何とでも言えるけど、推測ばかりでしたね。
@イトーヨーcard
@イトーヨーcard 14 күн бұрын
その通り👍 👏👏 ほんと つまらなかった😒 見て損した💢⚡
@cuibaruo
@cuibaruo 14 күн бұрын
確かに折角動画にするのでしたら史料は提示していただきたかったですね。ただ自分としては太閤殿下が国衆より下だったら天下人になる困難さは変わらなかったのではと思います。江戸時代と異なり戦国時代は厳密な身分の区別はなかったので。
@オインク-t2l
@オインク-t2l 13 күн бұрын
先祖の恨み晴らすマンな明智先生が農民以下出身扱いしてたなぁ
@joegillian6781
@joegillian6781 10 күн бұрын
2021年、たつの市内の旧家から新たに見つかった事を受けて、龍野歴史文化資料館に豊臣秀吉の書状2点が保管されました。 また、2024年、姫路市の県立歴史博物館は、およそ440年前に羽柴秀吉と織田信長の側近で交わされた書状の写しが新たに見つかったと発表しました。 県立歴史博物館などによりますと、新たに見つかった文書は東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授がおととしネットオークションで見つけたということです。 1578年の三木合戦や、1580年の鳥取城攻めなどについて羽柴秀吉が織田信長の側近にあてた書状など35通で、いずれも原本から3~4回ほど模写されたものとみられています。 内容は、戦況を報告するものが多く、秀吉が信長の耳に自らの功績が届くよう工作したことや、大量に送られる報告に信長の側近が困惑するようすなどが読み取れるということです。 ご参考までに。 www.sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2024/02/09/75665/
@tokiimai3381
@tokiimai3381 14 күн бұрын
彼が公卿や大名の出ならともかく地侍や下級武士の出身だから百姓の出とはどう違うのか?😅 下級武士や地侍はその立ち位置は場合により百姓と変わらないでしょう😅 村上水軍を大変教養があった...つまり海賊は教養ないと勝手に決めつけているなど 何を言いたいのかよく分からない😅
@hosomichi
@hosomichi 14 күн бұрын
確かに、当時の社会では様々な階層が存在し、線引きは難しいですね。
@謎の地下組織
@謎の地下組織 13 күн бұрын
解説ありがとうございます😊秀吉さんのお陰様で江戸やその後の我が國の繁栄が有った事は確かですね♪
@user-fjomikoto
@user-fjomikoto 14 күн бұрын
母親の大政所は刀鍛冶の娘だから純粋な百姓で有るはずは無いんですよね。 ただ文字はかなり下手だったから秀吉はひらがなしか書けないと言われていた。
@yasunori_suzuki
@yasunori_suzuki 15 күн бұрын
親族多いし流れ者ではないと思う。
@瀬戸山保司
@瀬戸山保司 14 күн бұрын
江戸時代でも下級武士は百姓農民と変わらないし、豪農や名主に当たる様な方々は区別はつかない。 戦国だから、栄枯盛衰で没落した家から百姓と変わらない家のでとしてもおかしくない。 なお、松下家に仕える身分だった事も確かです。
@discovery-defender
@discovery-defender 14 күн бұрын
え、武士って「一所懸命」のことばで解るように、己の土地を守る「自警団」から発生したのでしょう。そこに、百姓、地侍などの区別なんてなかったのでは。
@sohno
@sohno 14 күн бұрын
大政所の所縁で秀吉より取り立てられた諸将が百姓を出自としてないところに誰もフォーカスしないのはなぜなんだろう?
@ダーティハリー-o2y
@ダーティハリー-o2y 15 күн бұрын
逆に最近、ビジネスマン像を秀吉から奪いつつある藤堂高虎の出自は気になります。
@オルテガチマヨ
@オルテガチマヨ 15 күн бұрын
もし自分の履いた草履が生暖かったら「キモ!」と思うし、それが男が腹の中で温めていたと聞いたら「何してけつかるねん!」と怒りそう(笑)
@SMK皇帝ファントム陛下Japan
@SMK皇帝ファントム陛下Japan 15 күн бұрын
投稿お疲れ様です!
@刀禰元彦
@刀禰元彦 15 күн бұрын
文字とくに漢字を用いた書簡、和歌、漢詩等を習得するのは成人になって勉学しても上達するのは難しい。その点秀吉や秀長をみているととても貧農の出自とは考えにくいですね。同じような人物に山県有朋がいますが彼は足軽以下の中元の出自だが文才に秀でているから一概にはいえないですね。やっぱり今太閤といわれる人は一種のサバンなんでしょうかね。
@案山子かかし-h9e
@案山子かかし-h9e 14 күн бұрын
秀吉1人なら天才で済むが弟秀長の書状とか教養が垣間見れるので幼少から教育を受ける環境だったと想う 個人的には堺屋太一の茶坊主実父説を押します
@松井秀喜-h6j
@松井秀喜-h6j 14 күн бұрын
秀吉はひらがなを読み書きできたけど漢字は地名や人名以外はあまり読めなかったのでは。後醍醐天皇を後大ご天皇と書いたり、北政所や淀君にあてた手紙も大方ひらがなだった記憶があります。(相手が女性だから読みやすいようあえてひらがなで書いた説もあり)。また当時一般教養であった吾妻鑑や資治通鑑なども読めず(読まず)御伽集を通して耳学問として政治学や軍学や歴史や知識教養を蓄えてたとか(つまり記憶力が異常に良い)
@gentaza
@gentaza 13 күн бұрын
読み書き云々は農民出身を否定する根拠にはできないような・・・ フランシスコ・ザビエルの書いた書簡に、日本人の識字率の高さに驚いたとするものがあるので
@4zll.rk8
@4zll.rk8 14 күн бұрын
渡辺大門氏の著作では 宣教師の報告書などから 材木業者の可能性が 指摘されていました しかしその出自は 特定不能ということだったかと
@永隈ゆうじ
@永隈ゆうじ 7 күн бұрын
戦国時代は、下級武士や地侍は平時は田を起こし農業もしていた。合戦になると、百姓も借り出されて足軽として戦にでる、地侍も平時は農事をして戦には借り出されている。
@diamond-eye3670
@diamond-eye3670 13 күн бұрын
秀吉の出自を声聞師(民間の陰陽師)とする説もあり、個人的には、確度が高いと見ている。建築技術に造詣があり、建築に関わる様々な祭礼を執り行い、おまけにトレードマークは、ヒョウタンときている。木下家は代々織田家家臣であり、秀吉はそこへ養子に入ったのではあるまいか。非武家が武家に成れる一番の可能性は武家の養子になる事だ。今後様々な資料が出て来るのがタン染みだ。では Thanks a lot.
@雨宮雅人-h3o
@雨宮雅人-h3o 14 күн бұрын
地侍=有力農民だから農民には変わらない。
@soleil-rk2bi
@soleil-rk2bi 14 күн бұрын
秀吉は完全に農民だったかと言えば違うと思うが少なくとも士分ではなかったはず。信長は秀吉の女癖が悪いと愚痴るおねになだめる書状を送っているが婿養子(木下姓はおねの母方の姓)の秀吉が離縁されて士分を失うのを防ぐためだったと言われている。つまり秀吉には姓がなかったか地侍や土豪ではなかったのだと思う。
@yasunori_suzuki
@yasunori_suzuki 15 күн бұрын
松下之綱の所に居続けたら徳川の陪臣に納まって歴史には残ってないかも。もしくは出世し捲って家康の重臣に成ったかも。
@matthewszulik
@matthewszulik 13 күн бұрын
下級武士や地侍だとしても、貧乏藩だと家禄がろくに貰えず、地侍だと大きな土地や家臣も居ないも同然で、食糧確保のために小さな田畑で自ら鍬や鎌をもって作業してたり、帰農させられたり、最初から屯田兵的に普段は農作業を強いられたりしていた半農半士がいたと聞く。
@7011F
@7011F 14 күн бұрын
秀吉の母である大政所の妹(小出秀政妻・福島正則母・青木一矩母)・従兄弟(加藤清正母)の家も後の豊臣政権で優遇されて大名になるとはいえ、 資料が少ないまでも青木家は元々武士の家であるようで、下級でも武士出身じゃないとこの辺の話が合わないのではないかと思ってました
@英P
@英P 9 күн бұрын
「歴史は勝者によって作られる」の格言が有る通り、神と崇める家康が一時的にせよ秀吉の配下に有ったのは一番の汚辱、 徳川250年の歴史の中で秀吉の功績や氏素性は過少評価して流布した事は十分考えられる。
@穂田-z4x
@穂田-z4x 13 күн бұрын
秀吉は有得人出身というのは昔聞いた記憶がありますね。弟の秀長、加藤清正、福島正則等の親戚筋らしい連中も武将としている以上それなりの出自だったのではないかな〜と。  地侍含めた在地関係については、かなり複雑で理解するにが難しいですね・・・
@kazenoko5809
@kazenoko5809 13 күн бұрын
秀吉の出自おいて重要なのは家名だと思う。武家であるならば先祖代々の家名を捨てて あっさりと羽柴姓という創作名に兄弟揃って変えているのも疑問が残ります。
@shoutanh4275
@shoutanh4275 9 күн бұрын
豊(とよ)は、蘇我氏系であることの識別文字として採用されたものと考えられるそうですよ。 臣(おみ)は古代王家に近い身分であることを示す姓(かばね)です。蘇我氏は臣のカバネをもらっていました。 ということで秀吉は蘇我氏系だと思います。 ちなみに聖徳太子の幼名は厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子となってますね。 ※実在せずに蘇我馬子のことだったとも言われていますが。 メインストリームとなった鎌足以降の藤原系に対抗していたと思います。
@mikomikoto8300
@mikomikoto8300 14 күн бұрын
農民=教養のない貧困層ってイメージは多分海外ではそうなんだろうな。 でも、関白となって当時の最高の教育を受けてる皇族や公家と渡り合っていた事を考えると、貧しい農民の出身では無いことは想像出来ます。 庶民の夢の成り上がり物語としては逸材なのは確か。
@たま-r3f
@たま-r3f 14 күн бұрын
秀吉の様な戦国の英雄でも、字が書けなかったといいますが、城下に命令書を発行したり、城の築城や、野戦の命令などをどのように詳細に行ったのか、凄く不思議です。
@zatunen-t6v
@zatunen-t6v 8 күн бұрын
秀吉から長曾我部〇〇への感謝の書状は現代も保管されてます。30年位前の民放番組で紹介していた様な。仲々達筆であった記憶があります。
@Groundhoggie_
@Groundhoggie_ 14 күн бұрын
庶民が氏名を名乗ることを義務化されたのは明治時代。農民と武士を分けた兵農分離を行ったのは豊臣秀吉で、百姓の子供が木下藤吉郎という名前があったという話に疑問が残る。さらにその下級民に家系図などあったというのも疑問。さらに疑問は鎌倉から始まる武士の台頭と戦国時代の話。矛盾だらけでそもそも戦国時代なんてなかったのではないか?
@みたらし団子-q6n
@みたらし団子-q6n 12 күн бұрын
豊臣秀吉を「土木に精通した人物」として捉える視点は、彼の成功を理解する重要な鍵となります。信長のもとで重用された理由は、土木技術や人脈を活用できる能力を持ち、さらに高度な交渉術にも優れていたからではないでしょうか。特に、備中高松城や太田城、忍城で行った水攻めは、堤防を築き周辺の地形や水利を活用することで敵を追い詰めた典型例です。これらの戦術は、土木技術を戦略に応用した優れた実例といえます。戦国時代において、土木技術は軍事や経済基盤の強化に欠かせない要素であり、秀吉はその能力を最大限に発揮しました。また、彼は巧みな交渉術を駆使し、敵対勢力を戦わずして従わせることも多く、その柔軟かつ現実的な戦略が天下統一へとつながったのです。こうした視点から考えると、彼の出世は戦国時代の合理性と現実主義の象徴と言えるのではないでしょうか。
@ajikitano
@ajikitano 14 күн бұрын
ここで言う”百姓”とはヨーロッパで言うところの”農奴”のことでしょうか? 少なくとも秀吉が城下等に出入りできるのであれば、純然たる”農奴”には該当しないのかもしれませんね。 そして何より信長にとっては、このような者は情報収集の為の捨て駒の一人として使いやすかったのかもしれませんね。
@sidebeeinyoutube-gv8xu
@sidebeeinyoutube-gv8xu 14 күн бұрын
豊臣秀吉という人物は日本史上かなり希有な存在であることは間違いないですが気味が悪いぐらいミステリアスな人物だと思います。その一つが出自ということになりますが、私も最下層の農民だとは思ってません。秀吉の親は山岡荘八「徳川家康」に登場する竹ノ内波太郎のような地方豪族、かつ織田信秀の時代からのスポンサーだったのではないかと。だからすんなり信長の家臣になれて出世も出来たと考えます。竹ノ内波太郎は武内宿禰の子孫という設定でしたが秀吉は藤原の系譜だったのかもしれませんね。だから関白にもなれたという。
@Syuichi-j8y
@Syuichi-j8y 14 күн бұрын
武士と農民の境界線は当時は曖昧で、普通に農民も武装してましたよ。 農民と言えども武士くずればかりです。
@matthewszulik
@matthewszulik 13 күн бұрын
秀吉が行った刀狩りをするまでの時代に百姓と下級武士を分ける意味は十分に低いよ
@怪三奈田
@怪三奈田 12 күн бұрын
秀吉だけでなく弟、秀長が兄同様非常に有能であるのは何故だろうと常々思っていました。 何らかの教育や知識なしでは戦国の世で天下人にはなれないと。下級の武家出身であれば 確かに百姓出身説より納得できます。
@mogeleo
@mogeleo 11 күн бұрын
うーん、どうでしょうね。 「地侍」というからには殿様から直々に土地の安堵状を貰える身分のはず。つまり、ちゃんとした地主であり、地主であるからには身一つで戦場に赴くのではなく親族や小作人一同を従者に取り立てて連れていくはずです。そういう連中が出世して豊臣政権のあっちこっちにしがみついて、江戸時代の記録に現れていてもおかしくはない。小身時代に取り立てた親戚が偉そうにしてるのが目障りなので粛清されたのであっても、その記録がどっかに残っているはず。 ところが、秀吉は秀長を除いてそういう地侍らしきふるまいを全然していないのです。姉ともの夫である三好吉房は侍としては無能だったようでほとんど何もしていないし、妹朝日の夫に至っては佐治日向守とか副田吉成とか名前すらはっきりせず、ましてや秀吉軍での事績など何一つわかっていません。それ以外の親族は影も形もありません。自分の下の世代の親族はゼロから育成して福島正則や加藤清正などの大当たりを引いていますが、自分の世代はまったく活用していません。 ですので、私は秀吉が地侍階層だったという説は極めて懐疑的です。土地持ちだったとしても小作人を雇えるような身分ではなく、せいぜい槍一本担いで戦場に行く程度だったんじゃないですかね。
@arax333
@arax333 11 күн бұрын
まぁどちらにしても! 下っぱからの頂点になったのには変わり無いって話ね🎵
@takataka-qm5yp
@takataka-qm5yp 14 күн бұрын
土地を持った農民は地侍。つまり武士。兵農分離前だから。江戸時代の感覚に引きずられている感。
@mu1me2mo1
@mu1me2mo1 14 күн бұрын
秀吉自身のプロパガンダ説に一票。世間が農民と誤解して盛り上がってたから、秀吉はそれに乗っかることにした。
@マッドハッター-r3b
@マッドハッター-r3b 13 күн бұрын
フィクションとノンフィクションがゴッチャになってるからたちが悪い。
@KawaiHiromi
@KawaiHiromi 12 күн бұрын
それよりも、なんで関白太政大臣を名乗ることを許されたか?の方が謎。
@伊東ー12e
@伊東ー12e 11 күн бұрын
本能寺の変の前日には、多くの公家たちが茶会にいた。恐らく、光秀は、彼らにそそのかさされた可能性が高い。彼らの常套手段。それが、秀吉にわかり、脅された! 藤原氏が、譲る!? 秀吉は、恐らく、出自はかなり底辺から。 父親の菩提寺がない!!? 二人の出来の悪い弟をころしている。きょうだいたちも異父きょうだいであろう。母親は、御器所で巫女をしていたという風説がある。 とにかく、中村には、なにも残していない!
@あーちゃ-s5l
@あーちゃ-s5l 8 күн бұрын
参考文献の所出の記載を求む
@macauktv
@macauktv 13 күн бұрын
もしも下級武士上がりならば、秀吉の元上司なる人が名乗り出てくるのでは?元々地侍に仕えていた経歴を持つ百姓上がりの足軽てのが一番しっくりくるような気がする
@SMK皇帝ファントム陛下Japan
@SMK皇帝ファントム陛下Japan 15 күн бұрын
秀吉は農民以下の身分だった説もあり ただ自身を美化にしようと秀吉は動き今現在のようなイメージを作った可能性は普通に有り得ますね!
@伊東ー12e
@伊東ー12e 11 күн бұрын
秀吉は、針売りをしていたこてがあります。 特殊な職業です。
@SMK皇帝ファントム陛下Japan
@SMK皇帝ファントム陛下Japan 11 күн бұрын
それも信憑性が薄そうですな
@MR-ek7km
@MR-ek7km 15 күн бұрын
どんな身分であれ大名になって天下統一したんやから大したモン。
@dit-rj8vs
@dit-rj8vs 13 күн бұрын
あの徳川家康ですら松平家の8代目とされている。 そんな誰も知らない昔の話はわからない。
@ryusunryusun
@ryusunryusun 13 күн бұрын
秀吉の出自は歴史にとってほとんど意味がなく、調査するだけ時間の無駄である。それよりも日本の政治体制の変化において、秀吉の摂関政治は征夷大将軍になれない出自にあったということが重要でしょう。臣籍降下の出自でないと将軍になれないが、選択したのが新たな将軍を立てての執権政治ではなく自身による摂関政治だったのか。家康は源氏だったので直接征夷大将軍になれた。
@伊勢神宮-o4q
@伊勢神宮-o4q 14 күн бұрын
例え祖先は武士であろうとも家や主君(家)が没落すれば帰農することもあり、貧農は農地を持てず手間賃で糊塗を凌ぐこととなる。郷土の偉人である秀吉公が別に農民であろうが下級武士出身であろうが実力で這い上がったのは事実で彼自身は天下どり後に清和源氏の家系だと宣っているが後付けで意味はなさない。生誕の地には産湯を使った井戸も残っており日吉丸として花咲く人生の原点地である。
@satosin2660
@satosin2660 14 күн бұрын
豊臣秀吉だけなら被支配者階級出身だとしてもおかしくないけど、豊臣秀長まで被支配者階級出身とは思えない。 ろくに教育を受けていない被支配者階級の子が、あんなに優秀な訳が無い。 一人だけなら『稀代の天才』の一言で済ます事は可能だけど、兄弟そろってというのは無理が過ぎる。 これなら『連れ子として庶兄の地位にいた秀吉が出奔して信長に仕え、きちんとした教育を受けていた嫡男の秀長を呼び寄せた』という流れの方がしっくりくる。
@朗近藤
@朗近藤 7 күн бұрын
六めぞく
@大好き0721
@大好き0721 12 күн бұрын
蜂須賀の川並衆だの乱波だの言われていますね。
@経済オタク
@経済オタク 11 күн бұрын
私もずっと疑問でした。農民が戦国大名になれるわけがない。
@78hirohiro35
@78hirohiro35 14 күн бұрын
最下層ではないでしょうね。下層だが武士層の子供と考えるのが普通でしょう。何故なら戦国時代は現代より遙かに身分が尊重されたからです。後年、作られた創作で最下層から這い上がったとされただけで。人たらしというのもそうですね。実際には冷酷な戦国時代を制するに相応しい人格だったと思います。
@エド-r8x
@エド-r8x 11 күн бұрын
確かに秀吉は農民出身ではないと思う。ある程度の教育が無かったら関白まで登り詰める事は無かったと思う。
@thomas3fd6
@thomas3fd6 13 күн бұрын
江戸時代とは違い、戦国時代やそれ以前は、農民と武士がビシッと分けられていたわけじゃないので、この論議自体、あまり意味がないでしょうね。
@yomoda_yomokure
@yomoda_yomokure 14 күн бұрын
まずは百姓と農民を一緒くたにするのをやめるところから始めよう。
@ソフィア通りこころ
@ソフィア通りこころ 13 күн бұрын
秀吉は兄弟で優秀でそれなりの教養など身に着ける機会が無いとこうはならなそう。 そして織田軍団の中であまりにも出世が速過ぎると言う謎 出世の機会を得るにもそれなりの地位は必要な気がしますから。
@算段屋五平太
@算段屋五平太 12 күн бұрын
最初に聞いた情報をどうしても信じてしまいます。(自分の都合の良い情報はもっと/SNSも)
@구겸정
@구겸정 15 күн бұрын
良い発言ありがとうございます
@ichimoto-id6eq
@ichimoto-id6eq 12 күн бұрын
農民から天下人になった秀吉が、農民から朱元璋が興した明に攻め入るのは面白いと思ってたんですがね
@かつよし-v2y
@かつよし-v2y 14 күн бұрын
秀吉が百姓出身ではないというのは、20世紀の終わりことには聞いたことがあるとおもうんだけど。
@KENSUKE1121
@KENSUKE1121 14 күн бұрын
少なくとも10年は前から言われてるよ。
@右近-r8n
@右近-r8n 11 күн бұрын
秀吉は(商売)経済の基本を知っていたと言う事は・・・商人出 金は剣よりも強し ですね!
@chinyas5220
@chinyas5220 13 күн бұрын
秀吉が刀狩りするまで半農半士状態だったんじゃないの? 農民兵を無くしたいから刀狩りしたんじゃなかったかな
@細金春男
@細金春男 11 күн бұрын
時代によって呼びかたが、違うかも知れないが百性でいいと思う下級武士は武士と呼ばないでその他とよんで百性とよんでも、現に町人を百性と呼んでる古文書があるから。
@熊澤典子-h2v
@熊澤典子-h2v 15 күн бұрын
こんにちは😮
@松永剛-g1g
@松永剛-g1g 12 күн бұрын
当時の下級武士は農民みたいなものって何処かで見た気がする。
@よだきぼよだきぼ-s5b
@よだきぼよだきぼ-s5b 12 күн бұрын
穢多非人の出だと思う。 親交深かった竹中半兵衛の息子が秀吉は非人の出だと親父から聞いたとの記述がある 出生地とされる中村は当時農村と穢多非人の居住区との境目の穢多非人居住区。 もし農民なら土地を守らなければならないのに幼少期から自由に動いているなど。 全部受け売りです。最近読んだ本にそう書いてあり、個人的になるほどと納得してるだけですので参考までに。
@badboytv2006
@badboytv2006 12 күн бұрын
この時代だってかなり身分固定しているだろ 戦国がすべてにおいて逆転と混沌の時代であるわけじゃない なぜ武田や上杉、織田、徳川などが強かったか それは譜代が強固だったからだ その譜代がおらずスタートはほぼ全員が信長から与えられた秀吉の兵が なぜいつのまにか本物の秀吉軍へと変貌していったのか この点が重大だと思う あとは下級武士であっても在るはずのない教養力や理論がなぜ下地の無い秀吉にあったのか この点が不思議でならない 結論、秀吉は大卒であった それも早慶SMARTクラス以上だろう
@itsuka1650
@itsuka1650 14 күн бұрын
自分が知る限りで十年以上前から秀吉は半農半士の地侍出身といわれています。 戦国の当時に木下という名字を持つ者であったことから下級武士の地侍で 農民なら名字はないの一派的だったからです。 そのことからや信長の家臣になれたことは親が織田家の家臣の部下で 地侍だったことで容易に近づけたのが原因だと考えています。 信長自身も若い頃に市井に下りて色々見てきていたのでその時にも 見かけていたり或いは話しをしていた可能性もあるため取り立てが とてもスムーズだったと思います。
@giantszero6962
@giantszero6962 Күн бұрын
そもそも江戸時代みたいに身分がはっきり区別されていないんだからどちらでも問題なし。 庶民から天下人になったサクセスストーリーは揺るがない。
@バイク乗りたい-z8s
@バイク乗りたい-z8s 12 күн бұрын
同じ村出身だけど百姓じゃなくて足軽百姓な近くの村に組頭の子孫の方達が住んでてその郎党
@noii1
@noii1 4 күн бұрын
家康の外祖母、華陽院(青木氏)と、秀吉の母方の親戚である青木氏は同族で、その縁で青木一矩の娘である於梅が徳川家康の側室になったそうです。 当時の婚姻は大体同じクラスでおこなわれていたので、秀吉の母の身分は意外と高かったのではないでしょうか? 戦国武将 敗者の子孫たち (歴史新書) 高澤 等 (著) ‎ 洋泉社 (2012/10/6)
@猫田ひとみ
@猫田ひとみ 3 күн бұрын
秀吉はオグリキャップみたいな地方の突然変異種みたいな成り上がりだからまだ分かる。なぜ弟の秀長まで優秀だったのか?
@W頭
@W頭 4 күн бұрын
秀吉は武士の出ではないので征夷大将軍の位を天皇からもらえなかったって聞いたことあるけどな?だから大閤って位を新たに作って朝廷から授かったって聞きましたよ。
@ぴょんぴょん-u2h
@ぴょんぴょん-u2h 12 күн бұрын
幼少期、父親が死んで寺に預けられていたとすれば百姓ではない。百姓なら労働に使われたはずだ。寺に預けるのはそれなりの資産が必要だ。寺にいたから親が無くとも読み書きが出来るようになった。木下と言う苗字は木(城)の下に住むと言う意味で侍の苗字だ。何処の馬の骨か分からない百姓の子倅を大名が小姓として雇う訳が無い。おかしいなぁと以前から思っていた。今でも百姓の子孫と高位の侍の子孫では考え方が全く違う。百姓は自分の田畑の農作物の出来を優先する個人主義に対し、侍は全体の利益やみえを優先する。秀吉の考え方は百姓的ではないから、家来がついて来た。と言う訳で木下藤吉郎は武士出身と言う説は納得できる。
@高橋靖史-u5i
@高橋靖史-u5i 10 күн бұрын
地侍とか下級武士でなく、忍ではないかと思う その方が辻褄が合う
@13foulball
@13foulball 11 күн бұрын
百姓出身ではなく下級武士や地侍😂 一緒ですよ
@杉本忠彦-n6o
@杉本忠彦-n6o 13 күн бұрын
ウソばかりつくな‼️
@春うらら-v6m
@春うらら-v6m 6 күн бұрын
仮に秀吉が下級武士だったとしても、大出世をした事に変わりはないのでさしたる問題では…ないかな?
@白亜-e7i
@白亜-e7i 14 күн бұрын
下級武士でも家来や仲間(同僚)のような古参の者が居ない
@KawaiHiromi
@KawaiHiromi 12 күн бұрын
秀吉は六本指の人やった話。
@松本悠佐
@松本悠佐 11 күн бұрын
半農士分のような扱いかな…。そしたら本業は農民ですからやはり農民…。
@響太郎-c1r
@響太郎-c1r 14 күн бұрын
伯父が中学の社会科教師なんで、中学の頃から伯父が言ってた話。それを言ったら家康の松平家だって松平郷の百姓だったわけで、しかも出自不明の放浪坊主が孕ませたのが家康と酒井家の祖。我先祖も日蓮と身延山まで共に来た信者が祖先で、当時の百姓に名字が無かった時代だから名字が有る時点で一般的な百姓では無い。こんな当たり前な事に研究費かけて研究して著書を売ってるだけの学者が居るから、仮説だらけに成るんだろ?
@KR-ci8cb
@KR-ci8cb 9 күн бұрын
そもそも百姓って農民を指す言葉ではないのでは?
@noii1
@noii1 4 күн бұрын
豊臣秀吉の系図学 近江、鉄、渡来人をめぐって 宝賀寿男, 蒲池明弘 (著) ‎ 桃山堂 (2014/7/10) 織豊興亡史: 三英傑家系譜考 早瀬 晴夫 (著) ‎ 今日の話題社 (2001/7/1)
@船橋浩樹
@船橋浩樹 12 күн бұрын
戦国時代は農民、百姓、武士の身分がはっきりしていない時代だから意味ないかも。
@jimanimojo006
@jimanimojo006 11 күн бұрын
いや、だとしたら毛利も伊達も、島津も、大名、生まれながら殿様でも天下とれませんでしたよ。
@miyazawakoji1048
@miyazawakoji1048 10 күн бұрын
単なる「if論」でしたね💦 新説の根拠になる資料の提示もないし… まぁ一般的に何百年も前の事を現代の人間がわかるはずもないしね😅 それこそ史実研究を専門にやってる人からの発信であれば信憑性も高まると思うけど… if論=エンタメ程度で良いんじゃないかな💨
@ラス牌の西
@ラス牌の西 12 күн бұрын
秀吉の天下の後はヨイショする為に色んな本当の逸話の資料は抹消された?とか噂に聞くから!逆にヨイショが百姓っての消してるんでないですか?
@moipa808
@moipa808 14 күн бұрын
誰かの日記とかに書いてないかね
@rousiitubisi5294
@rousiitubisi5294 14 күн бұрын
どの程度貧しかったかわからないが、秀吉は父親の墓も作っていないし、追贈も何らかの顕彰もなんもしていない。つまり父親はいない。
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