悟りの書(入門)~釈迦やラマナ・マハルシ等も強烈な行を経て、行の必要を説いた理由~

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Art Zero Channel - The Oasis of Zero -

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内容:アドヴァイタ(不二一元 ※非二元ではない)の心象表現。
すでに幾万年も続いている霊的暗黒時代の人類にとって、「悟り」と呼ばれている初期段階とはどのようなものか。
※共有済みの「虚空の独り言」シリーズ再編集完全版。混乱や誤解が起こりやすい「不二一元(アドヴァイタ)」が、本来どのようなもので、どのような導きであったのかを見直す機会とならん事を。
0 memo: (個人相談・質問への返答より抜粋・編集)
<内容>ラマナ・マハルシや釈迦が、熱烈な行を経ており、行の必要性を説いた理由について
「虚空の独り言」/「悟りの書(入門)」シリーズの内容は、アドヴァイタ(不二一元 ※非二元ではない)の心象表現。
すでに幾万年も続いている「霊的暗黒時代」(※古インドの宇宙周期では、カリ・ユガと言う)の人類にとって、「悟り」と呼ばれている初期段階とはどのようなものか伝えようとしている。
「不二一元(アドヴァイタ)」は、昔から混乱や誤解が起こりやすい。
本来どのようなもので、どのような導きであったのかを見直す必要があるでしょう。
 いわゆる「悟り」の階層としては初期の入門段階だ。
あのシリーズの内容は、シャンカラの教義を基にしたアドヴァイタ系の識者たち(ラマナ・マハルシは著名)や、バクティ系のラーマ・クリシュナなども勧めた古文献を基にしている。
<沈黙を観ながらも、なぜまだ語り伝えたのか>
 伝達者ら自身にとって必要な過程だったから。
 彼ら近現代で聖者とされている行者たちや、イエス、釈迦らというのは、例外なく強烈で集中的な行を経ており、また然るべき霊的段階を垣間見た後も、まだ完全でなかったためにその生涯を終えるまで、それぞれ行に人生を捧げた事はよく知られている。
 人にとっての「精神の沈黙」は本来、単に「通常状態」だが、霊的暗黒時代に生きる者たちにとっては、あまりに精神的・霊的な覆いが厚くこじれているため、彼らいわゆる「覚者や聖者と呼ばれている者たち」が真剣に取り組んだように「正しく、強烈に行をする事」すら、そもそもどういう事なのか理解できず、また行を進めたとしても「精神の沈黙」を維持する事自体がまれであるため、その「通常状態」でも信仰対象にすらなり得る。
しかしそこからさらに途方もないほどの「悟り」の階層があるため、そういった状態に至る者たちは、行と余生の活動を一つのものとして、より深く微細な解消を進めていくことになる。
 アドヴァイタ(不二一元 学派)は本来、ヴェーダ聖典を基にした悟りの「哲学・論説」であって、その方法の詳細や実際的な事は他の学派(ヨーガ学派など)に委ねていた。
(無論、形骸化・表面的な行は、彼らも時に強く批判したが、注意深く意図を汲み取る事を怠らず、また彼ら自身も一般から見れば並外れた強烈な行をしている事から、その必要性を否定しているわけではない事がわかる)
 その「知」に欠けている実践としての「行」が、「無意識層にある囚われをも完全に」明け渡すために是非とも必要となる事は、当時や彼らにとっては「あまりにも当たり前の事」であるがゆえに、ことさら強調されない。
アドヴァイタ系のシャンカラを始め、ラマナ・マハルシその他の識者の言葉や、聖典というのは、その「知と行が一つ」になった時に初めて「説」が「生きた真理」となる事は言うまでもない。
よって、情報に簡単に触れる事ができるようになった時代の者たちにとっては、誤解しないよう注意が必要だろう。
「絶えず精進・霊的努力し、怠ることなく歩んで行け」(釈迦[ブッダ]の弟子への最後の言葉の一つ)
<霊的盲目者らに誤解されがちな話題>
 「行」といっても、肉体・精神・霊性など階層も方法も数多ある実践だが、いずれも正しい知が伴わなければ霊的堕落に導く危険性がある。
 伝統的にこういった関連の事を伝える者たちは、この危険性を十分に知っており、注意を払っていたため、行については「奥義」となってしまう事が普通であり、明記/明言は避けられるか、適した状態にあるものには正しく伝わるような表現で伝えられる。
 単に「想念が完全に無い状態」や、「世界との分離感が完全に無くなって一つにある状態」などは、まだ「通常状態」が維持できるようになった段階であり、ヴェーダ聖典で伝えようと試みられた「解脱・悟り・真我」は当然そのような浅い段階のものではない。
 真に深まっていくと、ある時点で突如として強烈な光が全てに広がり、その光しかない状態となった後、一度それは全て胸の深部一点に吸収される。(これに似た体験が、まだ浅い段階でよく起こるがそれとは別物である事に注意)
その時点では無論、すでに肉体や霊体はないが、種(種子しゅうじ/しゅし)が精神深層に残っている場合(行が甘く完了していない場合)、(精神的に変容するにせよ)必ず通常の意識に少しずつ戻される。
実はそれ以降の方が、それ以前よりも深く貫徹した行がより不可欠となってくる。
各々の霊的質によって、その段階以降に必要な行の種類は様々だが、利他行や菩薩道といった類のものがより重要となる事は共通する。・・・ここまで話せば勘の良い方はいろいろな事が繋がるだろう・・・ ゆえに結局、イエス、ムハンマド、釈迦、ラマナ・マハルシやラーマ・クリシュナなども、それぞれにとって必要な行(分類するならジュニャーナヨーガ[ラマナ]、バクティヨーガ[イエス、ラーマクリシュナ]、カルマヨーガ[釈迦]など)を一生をかけて肉体が滅ぶまで継続した。
それぞれ自身の辿った道を基として、自身の根深い種を完全燃焼させ次の段階へ進むために、慈愛・菩薩行・利他行・法布施を始めとする自分にとって必要な行に、全てを捧げた。
こういった活動をしたからこそ、彼らは世に知られ歴史に名を残すこととなった。(直で抜けていく者たちが歴史に名を残す事はほとんどない。)
 彼らの伝えた「極致」は、実際にはまだまだその先があるのだが、民衆の霊的段階を鑑みて、方便としての真理(とりあえずの所まで)を説いた。
種々の聖典・経典は、その記録や指南書、解釈などの記述。自我本位の受け取り方ではなく、その背景や想いを汲み取ってこそ、それら・彼らに敬意を払う事になる。
<「聖典や聖者」の言葉が、いつの間にか自我に利用されないために>
 ここで表現されているのは無想三昧(想念のない極致Asamprajnata-Samadhi)ではなく、
それを超えた無種子三昧(あらゆる種子「我執・世界の展開の因」を行を深め消滅した極致Nirbija-Samadhi)に迫る段階における心象を綴っている。
よって、ラマナ・マハルシも指摘しているように、
「根深く潜在するあらゆる囚われ」はもちろん、「明け渡している・ただ在る」という状態すらも完全に種を焼き尽くすためには、
「人によって長短はあるが、必要な行と日常の行に誠実・真剣に長期間取り組まなければならない」(ラマナ言)のであって、
自我の罠に取り込まれ、「感覚や頭だけの悦」に浸らせるための内容ではない事に注意。
あのシリーズ(※「虚空の独り言」「悟りの書(入門)」)でも、行や瞑想を終えると戻ってしまうことを指摘し注意を促す箇所がある。
要は、「種が残っている状態では、また戻る事になるため、結局同じ渦中」ということ。
無種子三昧でも垣間見る程度では、精神的な「変容」があるが戻ってくるため、それぞれに必要な行に取り組んでいくことになる。
 聖典・行・瞑想の放棄は、無想三昧のような霊的な段階としてはまだ早い段階ではなされない。中途の「早合点・勘違い」によって、「真我」ではなく「自我」の殻に閉じこもっていく道へ入って行けば「元の木阿弥」となる。
基礎がなってない状態で、軽率に導きもなく独学で瞑想で「精神/霊的に無防備状態」になると、想念(低級霊)が気付かず内に入り込んで囚われる事になる。
この時代(紀元前を含む)における真の救いや解脱とは、「自我や世界がない状態」になるだけではなく、さらにその源因・種に迫って完全に消滅する事を言う。
 しかしそれも、単に始まりの終わりに過ぎない・・・
(以上、個人相談や質問への0返答より抜粋・編集。)
 皆様のご健勝とご多幸を毎朝お祈り申し上げております。
全ての存在の不幸と無明の闇が私の魂に引き寄せられ、全ての私の幸と徳があらゆる存在の悟りの助けとして使われますように。- zero
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Пікірлер: 51
@greengreen1225
@greengreen1225 3 жыл бұрын
ありがとうございました✨ 今日も心の調律をさせていただきました✨ 明日もまた、現実の世界に誠意と意欲をもって立ち向かえます。🙏
@chuncyun.kotori.
@chuncyun.kotori. 3 жыл бұрын
本を読まなくても、出向いてお話を聴きに行かなくても、このようなお話を聴ける事に感謝いたします(合掌)
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 3 жыл бұрын
ご視聴・コメントありがとうございます。 しかし、自分で読む事と、話し手と同じ空間で聴く事と、ネットで聴く事とは、たとえ内容が全く同じであったとしても、それぞれ全く別物です。 一番精神の深い所に影響するのは、自分で繰り返し精読する事、そして独学の危険性(誤解に気付かず思い込む事)を考えて、人の話を生身で聴いたり話し合ったり議論してみたりする事、そして一番浅いのが、この私の動画やTVやネットで得られる、あらゆる全ての情報のようなものです。一つ残らず全てです。なぜなら、そういうものは心にとっては贅肉や塵に過ぎないものになるだけだからです。 真理は、知識や情報ではないという事です。 あくまで、「こんなようなお話もあるという事の紹介として」共有させていただいているので、そこで終わってしまわれないように私も注意や工夫をして投稿しております。 ただ楽しんで気楽にご視聴いただければ幸いです。
@chuncyun.kotori.
@chuncyun.kotori. 3 жыл бұрын
コメントありがとうございます。 ラマナ氏の本をまず一冊購入したいのですが、どれを選んだら良いのか迷っています。 是非、精読させて頂きます。
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 3 жыл бұрын
訳は好みになると思います。  私がラマナの講読シリーズで使用しているのは、『ラマナマハルシとの対話』(全三巻)ですが、結局彼も、聖典やシャンカラが伝えているある一面の部分以上の事は言っていないので、ラマナはどれか一冊で十分だと思います。 ジュニャーナやアドヴァイタ系の書籍は、1,2冊程度にしておいて、後は行や実践に意識と時間を費やした方が、よほど真理や彼らが言っている事自体に実際には即している事になります。  教学を本やネットなどで独学する場合、一度誤解するとどれだけ聴いても読んでも、全て誤解したまま解釈する事になってしまうので、いろいろ手を出すより、一冊を妄信せずどこまでも冷徹に鋭く限界や誤りを見据えて肥やしにしていった方が良いということです。
@user-yy7hf5dh1l
@user-yy7hf5dh1l 2 жыл бұрын
聴いてるだけで心が落ち着いていく...不眠症対策で聴いています こういう使い方は良くないのかもしれないけど
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 2 жыл бұрын
ご視聴・コメントありがとうございます。 寝つきが良くなるのなら、それは良くご活用いただいているという事だと思います。
@user-zd5jq1bo8e
@user-zd5jq1bo8e 3 жыл бұрын
透明感のある世界ですよね・・・読み方も素晴らしい!!!心に*ハートにしみわたりますよ・・・
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 3 жыл бұрын
@hiroo6101
@hiroo6101 3 жыл бұрын
溢れるほどの愛をありがとうございます。
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 3 жыл бұрын
@haruina4231
@haruina4231 3 жыл бұрын
学校や社会では教えてくれない大切な話だと思います。こういう話をすると頭がおかしいと思われてしまう世界で、本質を話してくれる方がいてありがたいです。ありがとうございます(-人-)
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 3 жыл бұрын
確かに、このような表現で直接的に教えられる事はまれかもしれませんが、実際には、学校や社会の中で気付き学ぶことができるものであるはずです。 真理というのは、何か特別な所にあるわけではないからです。 泥沼で花を咲かせるには、泥沼にしっかり根ざして、そこから養分(精髄・真理)を抽出する必要があるように、学校、社会、仕事、世界としっかり関わりながら一瞬一瞬を大切に生きて初めて、真理や話は生きたものになります。
@azusaiga7187
@azusaiga7187 Жыл бұрын
はじめまして。この動画を何度も聴きたく、毎回”聴こえてくる言葉”が違い、毎回鮮やかに感じております。このような動画をありがとうございます。
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero Жыл бұрын
こちらこそ、ご視聴コメントありがとうございます。
@mars839
@mars839 3 жыл бұрын
アマゾンのジャングルの中やインドの山奥で猛獣や蛇に襲われる可能性があるとき、 またシリアやアフガニスタンでいつ空爆されるか銃撃されるか分からないような環境の中で同じことが言えたなら、すごいことだと思います。 車にぶつかりそうなので咄嗟に避けるというようなことではなく、 何もしなければ次の瞬間死ぬかもしれないし、何も起きないかもしれないというような時です。 そのような時に静寂であるのなら本当にすごいことだと思います。
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 2 жыл бұрын
確かにそういう状況でも全く心が乱されないというのは、自我としては異常な反応でしょう。 しかしそういう状態と、悟りとは必ずしも関係ありませんね。 精神錯乱の状態やむしろ死を望んでいる人たちも、そういう反応になる事がありますから。
@mars839
@mars839 2 жыл бұрын
@@ArtOasisZero お返事ありがとうございます。 いやむしろ釈迦の時代そういう状況は普通であったと思います。 世界的、歴史的に見れば身体に危険が及ぶ恐れのない今の日本の環境が特異であるとも言えると思います。 私は決してZeroさんのおっしゃってることに反対しているわけではありません。 しかし本当に苦しんでいる人(例えば奴隷で毎日過酷な労働を強いられ何か失敗すれば、すぐ殺される立場の人)に対して、「全ての苦しみはあなたの心が作り出しているものだ」と言えるのか、 自分がその立場になったらそう思えるのか? と、疑問があるだけです。それよりも奴隷から解放される方を望むだろうと思います。 なので仏教にしろ他の教えや悟りにしろ、もし他者に教えを説くのなら、少なくとも自分が過酷環境にあったとしても全く動じないという自信が最低限必要だと考えるわけです。
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 2 жыл бұрын
@@mars839 もちろん、釈迦の生きた時代だけでなく、もっと言えば気づいていないだけで時代に関係なく、実際には毎瞬様々な危険と共に生きています。全ての存在は奇跡的な組み合わせや働きのバランスで毎瞬成立していますね。  「全ての苦しみはあなたの心が創り出している」という観念にしても、自信にしても、教えを説くという事にしても、自分や対象を観ている状態なので、それは結局我執を基にしていますから、本当の意味での悟りではありませんが、いわゆる一般的に想像されているような「概念としての悟り」についての話を聴く人の中には、おっしゃるような悟りに関するステレオタイプ的な状態にあるかどうか気にする方も多いようですね。 しかし、自我という波が静まっていようと激しく荒れて渦巻いていようとも、それに繋がってそこに居なければ、そこで起こっている波の状態がどのようなものなのかはどうでもいいことです。
@mars839
@mars839 2 жыл бұрын
@@ArtOasisZero お返事ありがとうございます。 つまり自我がない、 あるいは自我につながっていなければ苦しみはないということですか。生まれたばかりの赤ん坊や1歳くらいの幼児、動物はどれだけ虐待されていても苦しみはないということですか。 私は動物にも苦しいという感情があると思っています。 哺乳類に限らず、例えば フォアグラの目的で強制的に食べ物を流し込まれるアヒルもとても苦しそうに見えます。爬虫類や昆虫に至るまで色々な生物に苦しいという感情があるかないかは誰にもわからないのではないでしょうか。他者の内面は絶対に自分には分からないのだから、 「全ての苦しみはあなたの心が創り出している」という観念には、実は非常に違和感をもっています。嫌悪感さえ抱きます。 全てではないだろうと思うわけです。 「全ての苦しみはあなたの心が創り出している」という言葉は広く伝えられている教えであることは知っています。 しかし全ての苦しみを自我と結びつけていいのでしょうか。 また、この観念はカースト制など上の階級の者が下の階級のものを隷属させるのには、とても都合がいい言葉です。「お前が苦しんでるのは私たちのせいではなく、お前自身の心のせいだ」と言えるからです。 飢餓で苦しんでいる人には、食べ物を与えればその苦しみから解放されます。 自我とは関係ないと思います。 釈迦とスジャータの逸話の通りです。 この逸話と「全ての苦しみはあなたの心が創り出している」は、矛盾するのではないでしょうか。 長文になり、申し訳ございません。
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 2 жыл бұрын
おそらく広まっている様々な情報に触れられて、心に余計な雲がかかっておられるようなので、そこを診ていきます。  私が言った言葉に「自我に繋がっていなければ苦しみはない」という意図はありません。苦しみは例として挙げてくださった赤ん坊や動物だけでなく、植物や鉱物にも人や動物とは違う形で確かにあります。 誤解されている方が非常に多いようですが、自我はたとえ解脱者であろうと聖者であろうとあります。つまり、痛み悲しみ苦しみもあれば、喜びも当然あります。 似非ではなく本当の解脱者というのは、では何が違うのかというと、そういった心の状態がどうあれ、そこから意識を切り離したり繋げたりする事が非常に根源的なレベルで自由にする事をマスターしているという事です。  だからこそ、聖者たちは余計なこだわりに囚われなく邪魔されず、他者の苦しみをストレートに深く感じる事ができ、それをまたストレートに緩和させたり解放させたりする事に死ぬまで専心する事ができたという事ですね。  そしてもう一点、一般に広まっている「全ての苦は心が創り出している」の解釈と、私のそれに関わるような見方には大きな違いがあります。 大方仏教の経典を頭だけで浅く読んでいて本来一組であったヨーガの行の実践がないから、この言葉から、お書きになってくださった一般に誤解されているような、自我の罠にはまっているだけの解釈が出てきてしまうのでしょう。 しかし、そもそも「苦」という訳を字面だけで意味を推測している事が問題です。 苦はドゥッカという言葉にこの漢字をあてていて、それには確かに「苦」という意味もありますが、さらに他に、「常に変化していて実体のないもの」というような意味もあります。 また、心と訳されている部分も、本来は「インド哲学やヨーガなどでいわれている思考器官と統覚器官」の事だと考えられます。 仏教の経典に書かれていたとすれば、それは当然ヴェーダやヨーガの知の影響が基盤となっているので、後者の意味で受け取られるべきものだったはずです。 つまり、「全ての苦は心が創り出している」という言葉は、「あらゆる存在は常に変化しており、それは精神深層にある働きに支えられている」という意味で捉えるなら、真理を伝えている言葉だと言えます。 しかし一般の解釈では、せいぜい表層の想念が落ち着く程度の事にしかならないでしょう。  カースト制は、本来は人々を隷属させるためではなく、人々の真の霊的な道のためにそれぞれの精神の深い所にある質や傾向に応じて、日常や個々に必要な行を進めていきやすいような社会的な共同体を理想として考えられたものだったのだと思いますが、早くからその解釈が歪んでしまい、もはや本来の意図は完全に消えて誰もそこを見抜けず、現在に至ります。  よって、「全ての苦は心が創り出している」という言葉は間違ってはいないにしても、解釈に注意が必要だという事ですね。  私がたまに繰り返し言っていることですが・・・  本当に「世界や全ての苦は心が創り出している」という事が真の意味でしっかりと観えているなら、利他行や自己を常に浄化・研鑽に日々喜びと共に専心することでしょう。世界の全ての苦しみは私一人の責任だからです。 間違っても「心が創り出しているのだから、どうでもいいのだ」という解釈を、全ての事に当てはめて伝える事はできないのです。
@user-ky4ct9rb1t
@user-ky4ct9rb1t 3 жыл бұрын
動画や解説、各コメントの掲載、ありがとうございます。 9:05  「・・・ただ、瞑想を修練にしてしまうために、束縛されてしまう・・・」とあります。 *修練ではない瞑想とはどのようなものでしょうか。 *瞑想その他、行への取り組み方として注意することは何でしょうか。 現在、極々僅かな時間しか行に割けていない状態なのですが・・・。 行がルーティーンワークのようではいけないとは思っていることですが、行を深めている方向に向いているかといえば違うかもしれません。これも実践していく中で見出していくべきことなのかもしれませんが、アドバイスいただけたら幸いです。
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 3 жыл бұрын
1.ここでの「修練ではない瞑想」はもちろん「瞑想を楽しんで行う」といった意味ではありません。 肉体が何をしていようとも、心が想念や感情で一杯であろうとも、「自我を離れている状態。自分の意識から離れて世界も見なくなっている状態」の事です。 それ以外は、「ただ在る」「無念無想」「全てと一つである感覚」といった類の思い込みも含め、結局我執を基にしている「行為」なので「瞑想」や「修練」と呼ばれ、潜在する囚われの解消が必要な全ての人のためのものです。 意識できる範囲でそういった状態を保っているだけでは不十分だからです。 2.行をする事に意味、目的、期待、結果などを求めず、ただその瞬間瞬間に精神誠意を尽くし全身全霊で、自我を捧げるように、神や真の自己に向けて供物として行う事を「行」と言います。 そのようになされる行為は全て、潜在する囚われの解消につながるのです。たとえ、それが小さな考えや行為であってもです。 これが、与えられた肉体や精神を使ってする「行為/行い」の本来の姿です。 このように、「自我を捧げていく事を練習したり習得するために行う」ということから、「行い」を「練る」「修める」という意味で、修練・修行と呼んだりします。 このポイントを押さえていれば、行が単なるルーティンにならず、深まっているかどうかも気にならなくなるでしょう。  修行・修練というのは、一般に誤解されているような、苦しんでやったり、自分のためにやるものではありません。 潜在的な重荷が解消されて精神が解放され、意識が深く拡張されていくので、本来は喜び勇んでただただやるというものです。 行が苦しいと感じるのは、自我を捧げながら行ができていないからです。それを拷問と言います。 また、自分のために何か目的や効果を期待して行・行為をなせば、意識の解放ではなく自我の拡張が進みます。これは、特別な行でも日常の全ての行為でも言えることです。  自省を深めていたり、あらゆる存在への深い感謝が高まるにつれて、自ずと本来的な意味での行をするようになっていきます。 それは人生経験を経たり、とにかく何か行を続けているうちに培われていきます。    このようにみてみると、行というものの量や時間を気にする必要はない事がおわかりでしょう。精神的な状態や状況に応じて、内から湧き上がるように、ただできる範囲で行うだけです。その勢いは人によって違います。そして、それでいいのです。
@user-ky4ct9rb1t
@user-ky4ct9rb1t 3 жыл бұрын
@@ArtOasisZero 返信ありがとうございます。 私が質問の中に盛り込めなかったことも含めてお答えくださって、大変ありがたく思います。 自分が行じていることについて何か違うと思いつつも何なのかが分からずにいました。 自我を捧げながらの行であるかどうかが最大の要点なのですね。 行というものの捉え方が、これまでより広い地平に出た感じがします。 頭の中が以前よりシンプルになりました。 ありがとうございました。
@ramaramana3812
@ramaramana3812 3 жыл бұрын
ありがとうございます。
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 3 жыл бұрын
@shuhom
@shuhom 3 жыл бұрын
“不二一元 ※非二元ではない” 不二一元論=非二元、とは言えないのは、どういう違いですか? ネオ・アドヴァイタ=非二元、という見解の、どこが問題なのですか?
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 3 жыл бұрын
実際にはヴェーダの本来的な意図を理解しているのなら、そこから出てきた説の内、同じ一つのものを不二一元、非二元、ノンデュアリティ、アドヴァイタなど、どのように呼ぼうと自分自身の内では問題はないでしょう。 しかし、それを人に伝えたり話し合う時には注意が必要だと思います。用語の解釈や意味は、一つの用語に一つではないからです。ものによっては、かなり差があるものを同じ呼び方や用語を使っている事もあります。  秀峰さんがどう解釈なさっているのかはわかりませんが、昨今の状況に限定すると、非二元(ノン・デュアリティ/ネオ・アドヴァイタ)と分類されている言説は、シャンカラの不二一元やウパニシャッドの言説とは別物と言っていいくらい後退し表面的な解釈に留まっているため、それを「同じもの」という事はできなくなっています。それを受けて、説明欄で軽く注意を促しました。 少し前に欧米で流行り(ネオ・アドヴァイタ)、それを基に最近の日本でもはまっている人が出てきている非二元/ノンデュアリティと呼ばれているものの言説を簡単に言うと、「私、意識、世界、神、全てが実際には分離しているのではなく一つ」だから「ただそのままでいい。悟ろうとする想いを捨てるだけでよい、行は必要ない」というただ単に「見事に自我の罠にはまっているだけ」というものではないでしょうか。「意識」や「観照者」に戻る事を言葉の上では盛んに標榜しながら、実際にはそれらの本来の意味から程遠い「自我」に逆戻りする事になってしまっている事に気付かなければなりません。 それを言っている人も聞いている人も、その説を頭でわかったり、感覚でこれを感じるだけで終わって悦に入っているのです。以上を対話でまとめるとこうなります。 A:意識に留まりなさい。真我を見出し、そこに留まりなさい。 B:留まりました。私も世界も幻想です。全てと一つだと感じるし解ります。 C:あんたら二人ともずっと自我に留まって何も変わってないよ。 これは意識できている範囲しか対象としていないからです。氷山の一角だけを見てそこだけの話をしているだけです。全身泥まみれになった人が、鏡に映って見える前の部分だけを綺麗にして満足してニコニコしながら歩いているようなものです。 自分でも気づけない領域に、厚い層になっている根深いとらわれがあるという現実に、屁理屈で覆いをかけ目をそらしているだけです。見て見ぬふりをしているから意識する事もなく、気分はよくなるかもしれませんが、実際にはとんでもない量の執着がどっぷりそこにあり続けている事は何も変わらないのです。 これでは、表層のところで押しつぶされそうになって精神的に辛くてしょうがない人をとりあえず一時的に楽にする効果はあるかもしれませんが、根本的な無明の解消には全く寄与していません。  しかし、本来アドヴァイタや不二一元というのは、そのような浅い領域を対象としておらず、行の必要性も否定していません。 表面を焼き払ってスッキリ見せるだけでは、条件がそろえばまたうっそうとした森になってしまうのです。根こそぎにし尽くさねばなりません。ですから、シャンカラの不二一元論も表層のところをどうこうしても根本的な解決にならないので、その根源の話をしているわけです。実際にどうするのか具体的な事は他の学派(ヨーガ学派など)に任せ、知の部分だけ担当しています。 例えば、空間認識(上や下)、顔には目が二つあるなど、当たり前のように見ていますが、別にそうである必要もなくもっと自由に表現や感受が可能なのに、まるで当たり前のように決まりきった事のように飽きもせず繰り返して表現して観ているのは、潜在意識にある根深い囚われがあるからです。これらはほんの一例ですが、本当に真我に留まったり神と合一する/解脱するためには完全に解消されねばならない囚われの一種です。 つまり、何かを感じたり見たりしているという事は、それ自体が根深い囚われが無意識の領域であることの動かぬ証拠です。その辺りの捉われの解消を対象としているのが、本来のヨーガの行法の実践であり、ヴェーダなど天啓聖典を基にした言葉による知的な導きです。  これほど違いがあったとしても、「まぁ言ってることは似たようなもんじゃないか」とまとめたい人はそうすればいいと思います。 そもそもシャンカラの不二一元論、ウパニシャッドや聖者の言葉というのは、結局のところ机上の空論に過ぎないので、どうでもいいことです。あまり知に走り過ぎると、荷物や余計なほこりや塵が増えるだけです。 落ち着いてみれば、別に大した事を言っているわけでもなく、実はごく当たり前の事ばかりだと気付くはずです。 そして、それを意識的に実践する必要があり、さらには気づけていない精神深層でも実践する必要があるという事も、当たり前の事として見えてくると思います。 論は論、説は説でしかなく、それ以上でも以下でもありませんよね。 それを知っているだけでは、無意識に無数にある囚われは根こそぎに解消される事はないのですから。 気が済むまで他人と議論して深め合ったり、自分自身の中で追及する事を出来る限りやったら、潜在意識にある囚われを解消するために伝えられている行をしていった方が、それら聖典や聖者が言っている事を本当の意味で活かしていく事ができるでしょう。
@berrydemy4177
@berrydemy4177 11 ай бұрын
真理 これは大もとからの情報ですよね? 分離された元の親に言われているような気になって聞いています。
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 11 ай бұрын
実際には聖典だけではなく、全てが真理です。
@berrydemy4177
@berrydemy4177 11 ай бұрын
全てが真理 心に刻んで生きてみます。 今は、そうですよね!と表層でわかったような、わからないような・・ そのうち、まさにまさしくと心底感じていけるよう生きてみます。
@berrydemy4177
@berrydemy4177 11 ай бұрын
質問です 悟った人は 「一つのことを別のことに対立させることはない」と、ありますが 具体的に解説いただけましたら有難いです。
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 11 ай бұрын
二元性、二項対立によって世界を捉えないという事です。 しかしそのように表現している事自体が二元性を基にしなければできない事なので、これはあくまでも表現、知識です。実際に真我実現しなければ、この話も何の役にも立ちません。
@berrydemy4177
@berrydemy4177 11 ай бұрын
何も考えずに 単々と行を行い日常を送ればいいのでしょうか?
@user-kd1xe9yg2w
@user-kd1xe9yg2w 2 жыл бұрын
情報遮断(isolation) 根本命題 苦を濃縮する 魂の闇夜(The dark night of the soul)
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 2 жыл бұрын
あくまで中途の段階までについての座学で使われがちな用語ですが、意識を内に振り向けていく事を知の面から熟考する時に使える概念ですね。 実際に体現するには、肉体行や日常生活における精神修養を微細に深めていく必要がありますね。
@user-kd1xe9yg2w
@user-kd1xe9yg2w 2 жыл бұрын
@@ArtOasisZero 勿論、これは結果論で 実際にはMasterのovershadowが不可欠です
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 2 жыл бұрын
そうですね。その"Master"の意味は個としての存在ではなく、実際には全ての存在の深奥にあるものが真の"Guru/Master"ですから、徹底した行の末に、最終的にそこに潜在意識も無意識も含めて全身全霊完全に明け渡し、あちらから迫り来て合一することになりますね。
@user-bz8rz7dr8g
@user-bz8rz7dr8g 2 жыл бұрын
朗読 ラマナマハリシの語りと同じ方でしょうか
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 2 жыл бұрын
どの動画の事でしょうか。私はこのチャンネル一つのみですから、朗読動画もこのチャンネルから投稿しているものだけです。(ただし2つ程の別のアカウントが、どなたか存じませんが過去の私の動画を無断で、なりすまし投稿や転載している動画もありますが)
@user-bz8rz7dr8g
@user-bz8rz7dr8g 2 жыл бұрын
Larry Wilkins とゆう方の 私は誰か とゆう朗読です
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 2 жыл бұрын
そのアカウントはなりすましで、無断で投稿されている私の過去の朗読動画です。 また別のアカウントでも、ラマナ、ニサルガダッタ、ラーマクリシュナ関連の過去の抜粋朗読音声が無断で投稿されております。  このチャンネルでは、同じ内容のものを再度朗読し直し、ラマナ僧院に許可を得た音声を共有しておりますので、ネット上における情報窃盗と二次利用という規定違反や犯罪の幇助をしないためにも、再生する前に投稿者名をご確認いただき、こちらのチャンネルのものをご視聴頂くことをお勧め致します。 kzbin.info/www/bejne/jnfZo6lunMaSa5Y
@user-pr1hq6ys7i
@user-pr1hq6ys7i 5 ай бұрын
もう少し 棒読みして下さい😓
@ArtOasisZero
@ArtOasisZero 5 ай бұрын
好みは色々ですね。😅
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