Рет қаралды 13,336
1898年(明治31年)北海道京極農場の開拓民 藤村徳治は京極村ワッカタサップ川上流に鉄鉱石の露頭を発見した。
その鉱石は褐鉄鉱であり、試掘の結果推定鉱量1000万トンとされ、製鉄産業発展のための大きな支えとなると期待された。
国鉄胆振線の前身の1つである鉄道院京極軽便鉄道はこの脇方鉱山(倶知安鉱山)の鉄鉱石を運ぶため、1920年京極駅から脇方駅までの7.5kmが延伸さた。
その後、胆振線が全通し京極〜脇方は胆振線脇方支線として運用を続けました。
脇方集落には鉱山関係者ほか全盛期には5,000人を超えて人々が暮らしていましたが、鉄鉱石の枯渇により1969年に倶知安鉱山が閉山、翌1970年11月には胆振線脇方支線が廃止となります。
これにより脇方集落の過疎化は一気に進み、あっという間に無人の荒野となりました。
今回、倶知安鉱山の閉山から55年、脇方支線の廃止から54年が経過した脇方支線跡と脇方集落跡を巡ります。
閉山・廃線から50年以上が経過した脇方の今をどうぞお楽しみください😊
【撮影日】2024年4月28日
【サムネイル写真】国土地理院航空写真(1947年10月米軍撮影)より作成