[ゆっくり解説]満蒙開拓団の食事

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ゆっくり歴史グルメ

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Күн бұрын

満蒙開拓団は「昭和の屯田兵」とも言われます。
これに大反対したのが高橋是清で、「可哀想だから」という珍しく感情的な理由からでした(ちなみに、高橋是清は犬養毅同様に満洲国の建国にも大反対で、それはちゃんと財政的理由からでした)。
本来は満洲は寒冷地のため日本人には向かない土地です。
ですので、始めは半島の人達を移住させるという計画でした。
これを嫌ったのが加藤完治という農学者で、この人間が自分が説き伏せた東宮鐵男と共に移民プランを推し進めていくことになります。
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参考文献
 ・日本陸軍 兵営の食事

Пікірлер: 159
@亜仁丸-k3j
@亜仁丸-k3j 2 жыл бұрын
満蒙開拓団の百姓はこんな食事はできなかったと思う。大半が小作人から開拓団に参加した人達だったので。 ウチのお爺さんも開拓団でしたが、大体米と野菜(煮付けや煮しめ)かすいとんだったらしいです。 とは言え当時の食事が現代とあまり変わりがない人がいたという事は大変参考になりました。 ありがとうございました。
@久保温彦
@久保温彦 3 жыл бұрын
小さい頃、大叔父に戦中飯食べさせて貰った。 コウリャンとモロコシ、味噌か塩。あとはようわからん煮物。 ただ逆に素朴でがっついて、大叔父はどんびきしてた
@トニー三谷
@トニー三谷 3 жыл бұрын
父方の祖父の弟が戦前に開拓団として満洲に渡ったそうです。 祖父の兄弟は貧しい農村の出身で、弟は開拓団として満洲に渡れば一旗挙げられるといった気持ちで渡っていったと祖父は言っています。祖父は自分は長男だったので渡りたくても渡れなかったとも言っていました。 月日は流れ、終戦を迎え、今となっては生きているかも定かではありませんが、もしかしたら大陸のどこかでまだしぶとく生きながらえているのかも。 そんなことを思い出しました。
@宇都宮秋人
@宇都宮秋人 3 жыл бұрын
今回もコアな話題ありがとうございます、思いの外肉類や炒め物が多くて驚きました。 中国ではありませんが、初めてトルコに大使館ができた時、そこの職員たちがどうしてもお汁粉が食べたくなった。 しかしトルコに小豆があるわけでもなく、仕方ないからできるだけ近しい豆を探し出し、食感を似せるのに靴下まで使ってそれっぽい物を作って食べた(しかも色落ちしたのか変に黒っぽくなったらしい)、って話を思い出しました。
@kappanouen
@kappanouen 3 жыл бұрын
カレーの次の日に残ったカレーでカレーうどんという今日でも使われる 鉄板コンボ
@滝沢優-y6l
@滝沢優-y6l 3 жыл бұрын
あっしがカレーうどん作って食う時は、まずうどん食って残った汁をご飯にかけて 食べてますが、満蒙開拓団のお方もやってたかな('ω')
@George-bt4sy
@George-bt4sy 3 жыл бұрын
カレーは沼にハマると、野外しか食べれなくなります……そして使用したスープジャーがカレー専用機になります。 で、ありまして、 私、香辛料だけは使うまいと自制しています。 採算が取れませぬ。 レシートは罪の味。 ( ´Д`)y━・~~
@石垣勝-k6r
@石垣勝-k6r 3 жыл бұрын
カレーの鍋もキレイになるし 旨いしで一石二鳥だよな。
@田所浩二-o7q
@田所浩二-o7q 3 жыл бұрын
一晩寝かせたカレー最高です
@鈴木理沙-s5e
@鈴木理沙-s5e 3 жыл бұрын
当時カレールウ発明されてないのにすごいよね
@いせりあ
@いせりあ 3 жыл бұрын
この人の動画基本的に好きなんだけど、ほぼすべての動画でのオーガニック推しとかこの動画の食品の化学汚染とかちょっとそっち系の人なんだな〜って気になってしまうことがある。
@前原明敏
@前原明敏 5 ай бұрын
こんだけメシに興味があって色々調べてりゃ嫌でも農薬汚染の話は耳に入るだろうしな
@user-SpiceChoco9Addiction
@user-SpiceChoco9Addiction 3 жыл бұрын
ありがとうございます、私の父方の一族はこの開拓団にいました 父が生まれた頃に何もかもを置いて一族は撤退しました、財産は失いましたが誰も欠けることなく帰還できたと聞きます (カレーうどん)ぬぅ・・・「飛び散る」ことで衣類に打撃を与える猛者が、すでに・・・!?
@guston008
@guston008 3 жыл бұрын
最初に移り住んだ人は元からいた住民との争いや、基本の住居や水、食料の確保などそれこそ生きるか死ぬかだったみたいですけどね。これはある程度生活基盤ができてからの食生活ですね。
@ワッフル-p6e
@ワッフル-p6e 3 жыл бұрын
それで中国軍閥による日本人の虐殺に耐えかねた満州軍が暴走すると...。
@幻影09
@幻影09 3 жыл бұрын
母方の祖父母が戦前満州に渡り、満州鉄道の職員をしていました。 当事、満州鉄道の職員は高級取りで、比較的良い生活をしていたそうです。 しかし、終戦。満州の人たちが日本人街に押し寄せ、あらゆる物を強奪していったそうです。 その時祖父は他界していましたので、祖母が女手一つで、子供たちを引き連れ、命からがら引き上げ船に乗り込んだそうです。 内地に帰ってから苦労に苦労を重ねて、生活しました。 ある時、母がNHKのドラマ「大地の子」をまじまじと見ていました。(満蒙開拓団での日本人孤児の話です) 終戦当事、1歳だった母は「もしかしたら、私も同じようになっていたかもしれない・・・」と語っておりました。
@sawakodouglas186
@sawakodouglas186 2 жыл бұрын
満州から、命からがら引き上げた人の中には、敗戦の大混乱に見切りをつけて、ブラジルと国交が回復後にブラジルへ再移住をした方もいます。地方では、差別も有ったようです。
@THE.Everestlist
@THE.Everestlist 7 ай бұрын
@@sawakodouglas186さん、はい、日本国内の開拓に来た人もいました。山口県美東町には甲府村と言われた山梨県出身の満蒙帰りがいました。
@sawakodouglas186
@sawakodouglas186 7 ай бұрын
お久しぶりです。2023年4月に、ブラジルサンパウロに有る、日系文化福祉協会の図書館で、古い文庫本「大地の子1~4」を、一括りにして売っていたので、購入しました。もう直ぐ一年になりますが、落ち着いて読みたいので、まだ読んでいません。日本語を読める人が減少しているので、古本でも、割と綺麗です。
@sawakodouglas186
@sawakodouglas186 7 ай бұрын
@@THE.Everestlist さん。私の母が、山梨県都留市(元南都留郡)出身で、子供の頃毎年夏休みを過ごしました。母は「甲府市」を何時も「国中」富士急を「山麓線」と呼んでいました。ちなみに電車がB17に狙われましたが、無事。その時伯母が、子供をおぶって近くのお店に飛び込み、2人共無事でした。祖父が教育委員会に居て、満州開拓団を薦めて送り出し、戦後命辛々で引き上げた人達に恨まれたそうです。でも当時はブラジル移住と同じく日本の「国策」だったのです。祖父の勧めは「満州の土地は大きいから、畑を耕やすのに往復すると、日が暮れる」だったそうで、まんま日本政府の口癖を伝えたものです。
@THE.Everestlist
@THE.Everestlist 7 ай бұрын
@@sawakodouglas186 さん、いまのウクライナと同じでまさかロシアが攻めてくるとはー!と思っていたでしょうし、、、 フィンランド🇫🇮からスターリンの作戦について話が来たのに黙殺したけど
@waspwild7808
@waspwild7808 3 жыл бұрын
貧しくて開拓団に志願して満洲に渡って戦争勃発で殺害されたり必死で生きた人たちの事を思うとすごくかわいそうです。
@knak8040
@knak8040 3 жыл бұрын
陸軍としては珍しく、この満州地域は物が凍りやすく米も調達しにくいゆえか(水も貴重)、”先づ成るべく凍結し難き食品を選ぶこと、食品中には其の性質凍結し難き物あり例えば、パン、穀類、乾魚菜、味噌、甘味品の如し”と「経理官陣中便覧」に書いてあり製パンも考慮していたようです。 製造マニュアルも残ってますね。ソ連はドイツ軍同様に被牽引式の製パントレーラーを持ってまして、ノモンハンで飢えた日本兵が製パン車を最前線で鹵獲しておなかを満たしたという話もあります。
@halmit
@halmit 3 жыл бұрын
私の故郷のすぐそばに内原訓練所がありました。加藤完治主導の元、わずか数か月の訓練を経て17歳前後の若者が不安定な大陸に渡って行ったと思うと複雑な心境です。今も内原訓練所跡には復元された日輪兵舎、渡満道路等の標識が残されています。食事に関する展示があったかどうかは覚えていなかったので大変参考になりました。
@kieyama9328
@kieyama9328 3 жыл бұрын
こんばんは。 栄養に偏りのない食事、特に呉汁に興味を持ってしまいました。 UP主のお爺様の貴重なお話もありがとうございました。
@artbodyone4952
@artbodyone4952 3 жыл бұрын
家には現地人のお手伝いさんが居て良くしてくれたし外は寒かったけど家の中はペチカがあったので全館暖かかった 大連とか新京はびっくりするぐらいの都会でしたよ とばっちゃが言ってた
@Zakky-ye4nx
@Zakky-ye4nx Жыл бұрын
亡くなった父方の婆ちゃんが 大陸に行ってたみたいです 遊び(徒歩5分の近所)に行ったら やたら元気で次々に 料理を出してくる婆ちゃんで 料理出す合間にも洗濯行ったり 仏壇にも備えに行ったり 姉に『じっとしなよ(笑)』って 良く言われてましたw 最後80歳過ぎて病院に入るまで 毎日30分は山道歩いて畑に行ったり 痩せて小さな体ながら 常にパワフルな婆ちゃんでした(*´▽`*) 残念ながら紹介されたご飯は 出なかったです(笑) 因みにわちきも タイ、韓国に短期出張しましたが 海外で日本食は食べたくなかった (日本みたいに美味くない&高い)ので 敢えて食べなかったです その代わり 帰国後初の日本食(寮の朝食) ご飯、味噌汁、梅干し、沢庵が 死ぬほど美味かったです(*´▽`*) 海外じゃ 現地食、マックだけで過ごしてましたが 『ああ、俺やっぱり日本人だわ』 って改めて感じましたね(*´▽`*) あと、母方の爺ちゃんは 先生になるなど 出来が良かったけど そのせいで将校として徴兵され フィリピンに向かう途中、潜水艦に やられたらしいです 墓には フィリピンイザベラ州オリオン峠の戦闘で戦死って書かれてたから ずっとそう思ってたから こないだ亡くなった親父に聞くまで え⁉️だった。 (戦闘前に戦死した人は そういう記録にするとか。 弟が戦没者年鑑みたいなの発掘して そこにも同様の事が書かれてた)
@ponkotugc8550
@ponkotugc8550 3 жыл бұрын
爺様が満蒙開拓義勇軍で少年兵として出兵して、毎日豆腐を売っていた話しをよく聞いた。鶏肉がご馳走だったらしい。 本国にいるよりいいもの食べてたって言ってたなぁ。
@りか-d4h
@りか-d4h 3 жыл бұрын
義母は道に普通に翡翠がゴロゴロしてた、と言ってた。 拾ってお手玉の中身にしたそうです。
@まる2
@まる2 3 жыл бұрын
国内の貧しい農民が村中全員開拓団になったそうですね。後は農家の次男三男が少年満蒙開拓団と言うのもあったし、後日本から女性が大陸花嫁として渡ってと色々あったようです。引き揚げは筆舌に尽くしがたいほどで、昔、それこそ35 年前に一緒に仕事をした先輩は、引き揚げで命からがら、母を失い、幼い姉と彼女と二人で帰国したそうです。 満州の大地で収穫できる作物が立派で国内にいるより生活は楽な人が多かったみたいです。 タンパク質が豊富なのは国内よりお肉を食べるのが普通だった土地だったからでしょうかね?
@匿名希望-n1d
@匿名希望-n1d 2 жыл бұрын
本当ですか?
@abbtk14
@abbtk14 3 жыл бұрын
満州への移民は昭和31年までに実に500万人を送り込む計画だったそうで、日本中の農村から移民を募るというより割り当てていたんですよね。祖母の兄や親戚が何人も満州に渡り、手紙には冬は寒いけど食べ物に困らないとか景気の良い事が書いてあってうらやましかったそうですが、全員音信不通に…。
@hoshizoraclub_
@hoshizoraclub_ 3 жыл бұрын
背景画像は熊本阿蘇の草千里だね。 女房の伯母とその娘(従姉)が終戦後の満州禍で壮絶な人生を歩んでいます。 伯母は侵攻するソ連軍から逃げきれないと判断し満州人に娘を託して四肢を切って自決を図りました。 幸い現地人に救われて九死に一生を得ましたが娘とは生き別れのまま、日本に帰国するまでに必死で探し見付かったものの時が過ぎてその時は中国語しか話せないような状態だったとのこと。 私が女房と結婚してその伯母と初めて会った時は確かに四肢の力が弱くて加齢もあって伏せていることが多かったですが、そんな伯母を従姉は献身的に介護し、亡くなって随分と過ぎましたが従姉は『救い・探してくれた』ことを今でも感謝していますよ。
@ooutsuke1560
@ooutsuke1560 3 жыл бұрын
満州の主食はゆで卵です 趣味でプロ野球のピッチャーをやっていた芸人さんが言ってました
@滝沢優-y6l
@滝沢優-y6l 3 жыл бұрын
甲子園の奪三振記録を持っているあのお方が満州出身とは初めて知りました('ω') ゆで卵好きはその生活の影響でしょうかね('ω')
@saucool366
@saucool366 3 жыл бұрын
戦争終結後は本当に大変だったらしいが、戦中は本土よりも良い生活が出来てたってじいちゃんが言ってた。 家にお手伝いさんもいたし、ビリヤード台にカメラもたくさん置いてあったらしい。
@mochi9718
@mochi9718 3 жыл бұрын
母方祖父は徴兵(で良いのかな?)されるまでは満州鉄道で働いていたそうです。 (ちなみに母方祖父は祖母と結婚してすぐに満州に渡った) 祖父母が住んでいた場所は炊いたばかりのご飯が凍るしく雑炊かなんかにして食べていたとの事でご飯が凍るのは珍しくない。 ちなみに満州はお母さんが1歳になるまで(ちなみに長兄(故人)と次男が小学生で三男が5歳)住んでいて中国人のお手伝いさんを雇っていたから金銭的に余裕があったのではないでしょうかね。 祖母が子供4人(長兄(故人)と次男と三男とお母さん)を連れて日本に帰れたのは近所のおばちゃんが『あんたは子供4人もいるんだから早く日本に帰りなさい』と言われ引き上げ船のチケット(?)をくれたから。 あと祖母がしっかりしていた人だったのもあって路頭に迷わず佐賀へ帰れたんだと思う。 ちなみに祖母は当時35歳で4人の子供のお母さんだったけど派手な事もせず厳しくも竹を割ったような人だったとお母さんから聞いた事ある。 晩年は優しいおばちゃんだったから想像がつかない(笑)
@HT-hv1rc
@HT-hv1rc 3 жыл бұрын
私の祖父も満蒙開拓団でした。夜警でトラとの恐怖と戦ったり、引き上げ時はウズベック共和国(現ウズベキスタン)まで連れられてシベリア鉄道で~とか興味深い話をしてもらいましたよ。
@日本人日本人-z6p
@日本人日本人-z6p 3 жыл бұрын
いつも楽しい動画をありがとうございます 頑張ってください
@パインアメ-g4r
@パインアメ-g4r 3 жыл бұрын
終わりごろに行った人は大変だったらしいね。 宮尾登美子さんの小説(自伝) 読みました!
@こちゃちゃ-d2e
@こちゃちゃ-d2e 3 жыл бұрын
私の姑も一家で満州に渡ったそうです。苦労したのでしょうが 案外あっけらかんと当時のことを話していましたよ。強いなあ…
@mochi9718
@mochi9718 3 жыл бұрын
うちの母方祖父も祖母と結婚して満州に渡り満州鉄道で働いていました。 うちのお母さんは満州生まれで1歳まで満州に居たそうです。 戦火が悪化して被害が出る前に近所のおばちゃんから引き上げ船のチケット(?)を貰って家族五人(伯父三人とお母さん)で日本に帰還したと聞きました。
@こちゃちゃ-d2e
@こちゃちゃ-d2e 3 жыл бұрын
@@mochi9718 様。姑も7~3歳の弟妹達を連れての帰国だったそうです。中国残留孤児たちは他人事じゃないと言ってました。
@mochi9718
@mochi9718 3 жыл бұрын
@@こちゃちゃ-d2e 様。昔中国残留孤児の特集の番組を見ていた時にお母さんが『私も下手すりゃそうなってたかもしれんね』って言ってました。 よく考えたら当時一人でも連れて帰るの大変なのに4人の子供を連れて帰ってきたんだから祖母は色々と覚悟(自分が食べれなくても我が子だけは…って感じ)していたのだと思います。 引き上げ船で帰って来た人も田舎に行けばよそ者と罵られ村八分された方が居たそうです。 うちの祖母はそれもなく幼なじみやその奥さんと仲良かったし村八分どころか友達もたくさんいたからまだ環境が良かったんだと思います。 祖母は93歳(祖父は83歳)で亡くなったんですが私は母方祖父母が大好きだったから当時めちゃくちゃ悲しくてしばらくは立ち直れなかったですね。
@こちゃちゃ-d2e
@こちゃちゃ-d2e 3 жыл бұрын
@@mochi9718 様。戦争は本当に悲惨ですね。私の母も空襲の中 何度も逃げ回ったそうです。話がとてもリアルで怖い…でも こういう話はなんとか次世代に伝えていかないといけませんね。
@fukazu8812
@fukazu8812 2 жыл бұрын
自分の母方祖母も子供時代を満州で過ごしたと聞いています。当時としては珍しかったであろう水洗トイレ付きの家に住んでいたとか、学校ではロシア語の授業もあったなどなど…。広島に引き上げて来る時は荷物も現金も最低限で帰ってきたそうですが、特攻隊に取られる可能性もあった大叔父含めみんなで帰って来れたのはよかったと言ってます。
@高田健一-l7l
@高田健一-l7l 3 жыл бұрын
毎日肉や魚を食べられるというのは 当時としては相当豪華な部類になる。 当時の日本国内なら一般庶民が毎日肉や魚を食べることはあり得ない。
@単刺廻天
@単刺廻天 3 жыл бұрын
日本の食品の化学汚染が世界一酷い…?本当に聞いた事ありませんね? 詳しいソースとかあるならそちらも解説していただければ嬉しいですね
@あぼぼです
@あぼぼです 3 жыл бұрын
添加物のことを言っておられるんだろうけど、冷凍食品とかの消費が多い、欧米の方もかなり接種してしまっている。オーガニックも万能ではないんですけどね。栄養状態は間違いなく現代人の方がいいし。
@Koyo0623
@Koyo0623 3 жыл бұрын
食品添加物が体に悪いっていうのは実はかなり古い情報 健康被害の集団訴訟が企業や国にとって怖いことだって認知されてるからね 目先の利益だけ求めても、そんな時限爆弾を仕込むなんてリスキーすぎるよ。
@TheGureimon
@TheGureimon 3 жыл бұрын
この投稿者の動画は好きだが、いちいち過去age現代sageしていくオーガニック狂信者なところは好きくない
@くく-h2x8n
@くく-h2x8n 3 жыл бұрын
そんなもの昔から問題になってますよ、日本は貧困国家だから昔からくず肉とかしか買ってこれず、美味しく食べるための加工技術ばかり発展した、というわけです70年代には話題になってましたからね
@晒しびあん
@晒しびあん 3 жыл бұрын
はぁ… ところで1970年代の日本はいわゆる安定成長期の始まり頃でありましてその後のバブル崩壊まではニクソンショックだのオイルショックだのはあっても全体的に景気が良く物が溢れているとされた時代でした。少なくともこの頃に貧しいとかモノが手に入らないとかは考えづらいお話ですね。 古くは法の規制が緩くて営利に走って顧客の健康?なにそれ?と言うのはありましたし、現在でも危険性の疑われる添加物を使っていると言うのはもちろんありますが、それを持って世界一汚染されていると称するのはいかがなものかと… ぶっちゃけアメリカだけ肉だけに限定しても肥育剤塗れピンクスライムに加工とか有名ですし
@渡辺浩史-e5g
@渡辺浩史-e5g 3 жыл бұрын
死んだじいさんとばあさんの話を聞いたけど、貧しい人も居たらしいと聞いたけどな。 じいさんが、軍付きの獣医だったから、周りよりは少しは良かったらしいとは、言っていたな。 引き上げるときが、命からがらで、その後は開拓して、酪農しながら、苦労して子育てしたりしていたらしいです。
@ikawa-yoshihiro3193
@ikawa-yoshihiro3193 3 жыл бұрын
意外と現代と遜色のないご飯でびっくりでした。 それなりに落ち着いた頃のご飯でしょうか。 かなりマイナーな食事の解説ありがとうございました。
@yoshi-vq5co
@yoshi-vq5co 3 жыл бұрын
昭和20年の5月頃までは、この様な食事をしていました。5月に入ると根こそぎ動員が始まりました。男手が足りなくなったため簡単な食事になったぐらいで、ソ連が参戦し避難民となるまでは本当に食べ物には苦労しなかったそうです。都市部(ハルビンや新京)では配給が行われていたそうですがね
@rin2184
@rin2184 3 жыл бұрын
日本を飛び出したけど日本食食べたい人で1番面白いのが、ブラジルに渡った日系人の食文化です。今日はほぼ消えかけていますが、アマゾンに生息している魚や豆科のものや野菜で刺身や醤油、漬物を頑張って作ったそうです。 まだ、現地の魚を使った寿司屋さんも少なくとも一軒は残ってたはずです。(コロナでどうなったかは不明ですが、、)
@アルミニウス-r4z
@アルミニウス-r4z 3 жыл бұрын
北海道の開拓も厳しいと思う
@91フリークス
@91フリークス 3 жыл бұрын
あかん。めちゃくちゃ健康的でうらやましい。
@kitano_general
@kitano_general 2 жыл бұрын
呉汁は何故か学校給食でよく出てきたから知ってたけど 案外知らない人多いんだなぁって思った
@MickCorgi
@MickCorgi 3 жыл бұрын
満州ってアワヒエトーモロコシばっかりの印象がありましたが、結構いいものが食卓にあがつていたのですね。
@和泉一郎
@和泉一郎 3 жыл бұрын
満州への移民に関する動画、珍しい切り口、ありがとうございます。 紹介された開拓団は、一般の市町村から送り出された団ですか? 別に満蒙開拓義勇軍の少年達の存在も大きいと思われます。 そちらも別稿で紹介して頂ければ幸いです。 ちなみに、私の叔父は奉天の銀行で働いて、終戦前年に病気帰国していました。
@shibamofumofu4983
@shibamofumofu4983 3 жыл бұрын
漫画家のちばてつや先生と赤塚不二夫先生も満洲産まれですね。 赤塚先生のお父さんはかなりの破天荒で、大変だったそうです。 ちば先生のお父さんは中国語が少し話せたので、終戦後はしばらく中国に滞在して、落ち着いてから帰国したそうです。
@markfour2094
@markfour2094 3 жыл бұрын
やっぱ見ていて和食が一番腹が減る、夜中に見るもんじゃないなw
@t3233226
@t3233226 3 жыл бұрын
言われた通りチャンネル登録ボタンとグットボタンをそれぞれ2回づつ押しときましたw
@雷親父-f8g
@雷親父-f8g 3 жыл бұрын
内地だったこともあるんだろうけどやっぱ魚が全然ないよな きっと当時の日本人は魚が食べたかったろうなぁって勝手に想像した
@著超難問チャンネル著
@著超難問チャンネル著 3 жыл бұрын
ごじるは結構ボリュームある☆ 我が祖父もこう言うの食べてたんかなー。。ー
@George-bt4sy
@George-bt4sy 3 жыл бұрын
…マジでありがとな、うぷ主さん。 これ程学べる動画は無かった。 礼を言う。
@滝沢優-y6l
@滝沢優-y6l 3 жыл бұрын
寒い所ではお米は育たないと思うので、三食ライ麦パンかと思っていたのですが、 ちゃんとごはんは食べられたのですね('ω') 大豆を砕いたお味噌汁とか栄養がたんまりありそうですね('ω')
@マスター刑事
@マスター刑事 3 жыл бұрын
まぁ、多分お米は輸入物だったと思います。確かお米は国産100%になったのは戦後で、それまでは自給率は70%ぐらい、それでその残りは中国や朝鮮から輸入していたらしい。
@りか-d4h
@りか-d4h 3 жыл бұрын
線路の石にはメノウがゴロゴロしてたそうですよ。 満州育ちの義母が子供の頃拾って遊んだと言ってました。 おからを入れた味噌汁を呉汁と呼ぶ地域もありますよ。
@ericyujidurandal3094
@ericyujidurandal3094 3 жыл бұрын
ヨーロッパに住んでる日本人で和食をあまり恋しがらないのはイタリアに住んでる日本人
@astrorosegold0485
@astrorosegold0485 3 жыл бұрын
イタリアに長いこと住んでたけど、確かにイタリア料理はおいしいし、意外と日本の食べ物と似てるからね。今、ドイツにいるけど、週の半分は和食、そして半分がイタリアンだよ。一番辛いのは、魚がすごく高いこと!自分、肉より魚好きだから・・・
@どんやどん-r6d
@どんやどん-r6d 3 жыл бұрын
@@astrorosegold0485 ハンブルクに長期滞在したときに、ドイツにしては珍しくお魚がたくさん手に入りましたが、食べ方が全然違ってびっくりしました。
@polestarg6512
@polestarg6512 3 жыл бұрын
デンマークに居たとき日本人の団体から逃げまくってた。 シャッター押せと言われるのが嫌で。(笑)
@岐部善一郎
@岐部善一郎 3 жыл бұрын
結構贅沢な食事だなぁ
@unithouse1
@unithouse1 3 жыл бұрын
満州を獲った理由が資源開発では無くて食糧生産だったという。でも満州は農業生産に向かず、 結局は農業生産に適した南へ南へと進み、中国の領域を侵しついにはアメリカの権益と完全に対立することになる。
@sawakodouglas186
@sawakodouglas186 3 жыл бұрын
日本政府は、明治時代から「海外雄飛」の名の下に、余剰人口を国策として移民を海外へ送り出していました。北・南米が最初でしたが、北米の酷い人種差別と両政府の合意で、少数に留まりその後は南米が主流に。ブラジルへは、日本全国から移住をしたので、皆さんの地元の「郷土資料館」に有るでしょう。満蒙開拓団は、満州が関東軍によって作られてからなら12年程ですか?食事は戦前の然も、農村出身の方達ですから、和食以外は考えられないでしょうね。お得意の品種改良で、寒冷地用食料を作ったと思います。気候の良い、夏が長いブラジルでは、日本の野菜・果物・日本酒も作られていて、彼の国に普及させています。勿論初期の人達の苦労は、想像を絶します。
@と中村-k7k
@と中村-k7k 2 жыл бұрын
まったく関係ないと思いますが、現在は、少子化少子化といっていすが、人口が多すぎたために、このような悲劇もあったのですね
@sawakodouglas186
@sawakodouglas186 2 жыл бұрын
@@と中村-k7k さん はい、廃藩置県・農地改革と、人口の爆発的増加、日清・日露戦争で帰国した軍人6-700万人で混沌としていた様です。 しかも平均的農地は、猫の額程で農家の長男だけが跡を継いだので、移住をした人達は、次男以下。 東北以北では、不作の年続きも原因の様です。 日本が経済成長をする迄に、海外移住をした人達の事を知ると「近代化を目指した、明治」を鵜呑みに出来ません。農民や女工さんの涙で富国強兵でしたから。
@と中村-k7k
@と中村-k7k 2 жыл бұрын
@@sawakodouglas186 よく考えると、国の価値観がかわるようなことになると、また、今の少子化対策とかから、産児制限とかいったりするかも、、、。
@name-nc2sg
@name-nc2sg 3 жыл бұрын
ところどころでこのチャンネル主のヤバい所があらわになるな、陰謀論とか信じてそう
@くまちゃん-p4p
@くまちゃん-p4p 3 жыл бұрын
私の住んでる県は、かつて満蒙開拓団で 沢山の農民が満州に渡ったらしいので気になってました。 食べ物に関しては、日本にいる頃より良い物が食べれたんでしょうかね。
@hirofumihorio3471
@hirofumihorio3471 3 жыл бұрын
雰囲気的に、日本本土より豊かですよね。 中国の北部は貧しい土地で、南方は豊かと思ってたのですが、
@インパラ-i5c
@インパラ-i5c 2 жыл бұрын
婆さんが元気なうちに俺もお土産もって満州の話きかせてもらおうかな
@五十嵐広行-u7v
@五十嵐広行-u7v 3 жыл бұрын
日本の食品の化学汚染が酷いというのは同意です。更に原発事故後は周辺近県では基準値越えのアレまで入ってますからね。 全く恐ろしい時代になり、これからの子供が可哀想でなりません。
@チワワゆうくん
@チワワゆうくん 3 жыл бұрын
戦争がなければ、満州はどれ程発展しただろうか。 想像を掻き立てるな。
@りり-i7s6l
@りり-i7s6l 3 жыл бұрын
「津山三十人殺し」に記載されてる「農村の食事」と比べるとおそろしくいいもの食ってるなあ。
@daijikurihara6941
@daijikurihara6941 2 жыл бұрын
もやしは意外でしたが、考えてみれば満洲は大豆の大産地だったので、開拓団の共同施設で豆もやしが作られていたのでしょうかね。ただ、腐りやすいもやしの鮮度管理はどう行われていたのでしょうね。
@vuytskk
@vuytskk 3 жыл бұрын
それが本当なら本国よりずっと食糧事情がいい、結果的には悲惨な運命だったけど
@fukazu8812
@fukazu8812 2 жыл бұрын
うちの母方祖母も最低限の荷物とお金だけ持って引き上げの貨物船で広島に帰ってきたと言ってました。大叔父はあと少しタイミングが遅かったら特攻隊に取られていたという状況だったとか…
@太田文秀
@太田文秀 3 жыл бұрын
小学生の頃、読んだ本の中で。「僕らの出港」と言うのが有りますけれども。満洲にソビエト軍が攻め込んで頃の内容なのですけれども。食べ物の事も出てきますけども、コウリヤンなんか出てきますね。
@user-et6vx6gz4b
@user-et6vx6gz4b 3 жыл бұрын
「 6時に食べても、呉汁! 」 ・・・・・・・・戦死!
@take4591
@take4591 3 жыл бұрын
高橋是清が反対していたとは知りませんでした。   あっ、AmazonからDLしてみました。
@よよいのよい-e4j
@よよいのよい-e4j 3 жыл бұрын
清汁(きよじる❌→すましじる⭕)これが読めなくて笑われた。
@dearhunter8073
@dearhunter8073 3 жыл бұрын
父親が青少年義勇軍として行ってたけど、1941以降だからもう少し違っていたのかな。しかし現地人から餃子の作り方学んだりしてきたから、そんな例もあったんだよな。
@お食事券食券乱用
@お食事券食券乱用 3 жыл бұрын
あぁ〜11分7秒の時間を奪われてしまったw
@やまかわ荘闘争委員会
@やまかわ荘闘争委員会 2 жыл бұрын
小学校の給食で食べたことのないものについては、美味しかったとしても、大人になってあんまり食べないみたいです。
@polestarg6512
@polestarg6512 3 жыл бұрын
内地より良い飯食ってんだなぁ。 爺ちゃんも悩んだろうなぁ。 もしも、ターニングポイントで満蒙開拓団に参加してたら、親父は 残留孤児になってたかもな。
@後藤のりすけ
@後藤のりすけ 2 жыл бұрын
お腹空いてくる動画
@ジョセフヨシフ
@ジョセフヨシフ 3 жыл бұрын
活躍したアメリカの日系部隊…442歩兵部隊ですかね?
@nattousenbei
@nattousenbei 3 жыл бұрын
やっぱり高橋是清は有能やな
@滝沢優-y6l
@滝沢優-y6l 3 жыл бұрын
高橋是清さんは幼少時代に凄まじいほどの経験(奴隷)してますからね('ω') 政治家としては相当頑張ったと思うのですが、最期がカワイソス(´・ω・`)
@nattousenbei
@nattousenbei 3 жыл бұрын
@@滝沢優-y6l お遊びサークルの青年将校のせいでなぁ。
@田所浩二-o7q
@田所浩二-o7q 3 жыл бұрын
大慶油田があと20年早く発見されればね・・・。
@damchanwr125r3
@damchanwr125r3 3 жыл бұрын
ツングース系少数民族の食事が知りたい。
@自称皇帝
@自称皇帝 3 жыл бұрын
清朝の故地やもんな
@よっしーa
@よっしーa 3 жыл бұрын
オムライスは士官だったら普通に喰ってた。 兵士でも喰うことはあったんだとよ。
@HT-hv1rc
@HT-hv1rc 3 жыл бұрын
ごじるはよく地元で食べましたよ
@ayamasets
@ayamasets 3 жыл бұрын
俺より健康的な食事をしている可能性
@Choshu_samurai
@Choshu_samurai 2 жыл бұрын
走って逃げた…うちのおじさんも親に、いや満人に売られたけど、走って逃げたといってた。どこも同じや。
@田代まさし-b6l
@田代まさし-b6l 3 жыл бұрын
アップ主さんの身内の方も満州経験に反応してコメント書かせて頂きます。 私の祖母(母の母、現89歳)も満州にいた経験がありその事を聞きます。 中国の方を悪く言う事は一切ありませんが未だにロ助とロシアにはいい思いはないようです。 残虐非道だったと当時の事をよく聞かせて貰いました。
@tane-chan
@tane-chan 3 жыл бұрын
我が家より豪盛・・・
@しま-i7r7z
@しま-i7r7z 3 жыл бұрын
呉汁みんな食べないんですね…
@ジャック-d3g
@ジャック-d3g 3 жыл бұрын
このチャンネル 普通に広告取ってもいいと思える
@真紅の稲妻-b6c
@真紅の稲妻-b6c 3 жыл бұрын
あれ、これかなり贅沢でわ?貧民が移り住んだんですよね、そりゃいくわ
@sadamitukusatake1024
@sadamitukusatake1024 3 жыл бұрын
う〜む。現代の私より良いものを・・・・そして、食べ物の恨みは古今東西不変デスナ・・
@hirosetoshihiro6892
@hirosetoshihiro6892 2 жыл бұрын
4分24秒・・・粉吹き芋・・・「こなふき」ではなく、「こふき」です(^^)/
@kazuki2605
@kazuki2605 3 жыл бұрын
もっと毎秒時間を奪っていけ
@hidetsumuji9356
@hidetsumuji9356 3 жыл бұрын
戦後か戦中におから寿司という食べ物があって、シャリの代わりにおから、寿司ネタにクジラのベーコンという、当時は食料難で出来た食べ物だったらしいですが、今聞くと美味しそうだなぁって思うんですけど動画のネタになりませんかね。
@お米-i5f
@お米-i5f 2 жыл бұрын
ここのUP主、食品の化学汚染気にして体にいいオーガニック勧めてみたり、一方で 身体に異変が起きるほどの激辛料理食べて体調悪化させたり、健康気にしてるのかそうでないのか微妙w
@uidrane
@uidrane 3 жыл бұрын
台湾に行った私の祖父の体験もそうだけど 確実に日本人は現地人よりランクが上の扱いだったから 内地よりはいい生活をしていたと思う 内地の食事は貧相すぎて台湾は本当に最高だったとか言っていた位だから 満洲も同じでしょうね
@不知火-w2p
@不知火-w2p 3 жыл бұрын
食品の化学汚染ってプラスチップ米や段ボール肉まんのこと?(笑
@あぼぼです
@あぼぼです 3 жыл бұрын
たぶん添加物のことだと思います。オーガニック食品押しの方みたいなんで
@千鳥めんない
@千鳥めんない 2 жыл бұрын
呉汁は美味しんぼで知った。
@こじまみのる
@こじまみのる 3 жыл бұрын
満州開拓って言うと、筍が食いたくて竹林行って、大熊猫とエンカウント&バトル⁉
@ブステロイドハゲ1919
@ブステロイドハゲ1919 2 жыл бұрын
日本の食品の化学汚染がひどいってどういうこと???
@鈴木貞雄-g7m
@鈴木貞雄-g7m 2 жыл бұрын
マリサさん、茶碗蒸しの ほうが?
@user-boushiyouthou
@user-boushiyouthou 3 жыл бұрын
うぷぬしは秋田県人なのか?
@柊-t3y
@柊-t3y 3 жыл бұрын
肝心の量が気になる。
@freedom5065
@freedom5065 2 жыл бұрын
一貫して中華料理は食わないんだな そういうところでも現地の中国人と軋轢を生んでいたのかなぁ
@匿名希望-n1d
@匿名希望-n1d 2 жыл бұрын
こなふきいも、って、こふきいもじゃない?
@匿名希望-n1d
@匿名希望-n1d 2 жыл бұрын
呉汁って知らない人多いのか。はぁ。
@sake-c2w
@sake-c2w 3 жыл бұрын
戦争に勝ってさえいれば満州からミャンマーやインドネシア、ニューギニアから南洋諸島までパスポート無しで行ける多民族国家になっていたのに…
@George-bt4sy
@George-bt4sy 3 жыл бұрын
他国の家庭料理の有り難さを知る身としては、だ。 歴史…いや、文化かそれも学べる。 ……これがゆっくり音声じゃなかった場合。 ひどくヤバい上に深刻な話だぞ。 なぁ、中国、どこでも街つくるじゃん? 世界中にだ。 それ、コウモリですら食えるタフな国って意味じゃね……? 人口、うちら少ないけど、 そこはどう、なんだ?
@762forest_railway
@762forest_railway 3 жыл бұрын
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