【ゆっくり解説】なぜ”桶狭間の戦い”は謎なのか?/”織田信長VS今川義元”という戦国時代の最大の謎を解説!

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いとをかし日本の歴史【ゆっくり解説】

いとをかし日本の歴史【ゆっくり解説】

Күн бұрын

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@otaru6042
@otaru6042 2 жыл бұрын
桶狭間山はここだったのではないかと歴史学者達から予想されている場所があるにはあるのですが、 その場所は山が整地されて工場の敷地になっているのが痛いんですよね。
@longbow421
@longbow421 Жыл бұрын
下の方のコメにもwikiにもありましたが、今川義元の居場所はわかっておらず、とりあえず戦ってたら偶然に今川本隊にぶち当たった説面白いですよね。しかも普通、合戦は明け方から午前中にかけて行うのが通例だったらしく、午後二時くらいはご飯食べた後で、大雨が降って来たから余計にゆっくりしていた所を襲われて、はからずも奇襲になってしまった、という感じも面白いです。
@netalou300nen7
@netalou300nen7 2 жыл бұрын
真実は謎だけど「羽林、乱世を翔ける」での考えも面白いと思った。今川本陣の場所をどうやって探るか?前もって今川旗本衆の領地の後家をたらし込んで入婿に入る。戦になればそういうのから戦場に送られるだろう。雑兵として本陣の移動に合わせて織田の忍びにだけ判る目印を残しておく。という案を私なりに考えてみた。
@秀男鄭
@秀男鄭 2 жыл бұрын
私の兄が大昔に桶狭間近くにある民族学校に行っていまして夏の合宿で学校に泊まり深夜に生徒の殆どが落ち武者らしき亡霊を見たと言う事です。兄の友人にも聞いたら皆、同じ心霊体験を話すから怖くなりましたね😅曰く付きの土地みたいです。
@仁志飯野
@仁志飯野 2 жыл бұрын
まず義元上洛説は、上杉謙信のように一時期上洛するだけなら可能かもしれないが 事前に伊勢または美濃等の領主と連携しないと兵糧の問題もあり京都を維持できない から無理があると思う。個人的には尾張平定ではなかったかと思う。 また、信長戦下手説については信長だけが”中入り”戦法を成功させており (川中島で武田が行ったが失敗し苦戦、小牧長久手で秀吉が失敗、信長は小谷城攻略の 際に越前に侵入し朝倉を攻め滅ぼしとって帰って小谷城を攻略)戦上手とはいわなくても 下手では無いと思う。
@BEKU02
@BEKU02 2 жыл бұрын
しかも当時は「天下大疫」という大飢饉の真っ只中だったために兵糧が十分にあるとは思えなかった。 兵糧の確保のために肥沃の地である尾張を攻めたって考えたらまぁ納得はするが、 果たしてそれ以上の事ができたか否か…? 上杉は立場上や越後国が経済国家で飢えとは無縁だったために上洛が可能だったと思われます。
@カモシカの仲間
@カモシカの仲間 2 жыл бұрын
個人的な解釈としては尾根伝いに接近できる山の上に義元本陣があってその麓が田楽間だったと思ってる。
@相川竜弥
@相川竜弥 2 жыл бұрын
実は義元本陣の場所はわかっていなくて、山中でヒット&アウェイを繰り返して今川軍の継戦能力を削いでいくつもりが最初のヒットでまさかの大将首を挙げてしまった説
@AA-pf4lv
@AA-pf4lv 2 жыл бұрын
いつも楽しく拝見しています。 参考文献を概要欄もしくは動画のどこかに記載していただけたら嬉しいです!
@川野岩魚-d1z
@川野岩魚-d1z 2 жыл бұрын
義元の船での移動を意図していたことは初めて知りました
@南々浦こんろ
@南々浦こんろ 2 жыл бұрын
とても興味深い考察でした。ただ、内容が優れているだけに音声面の入力ミスが目立ちます。動画制作の手間を知らない外野からの勝手なコメントで恐縮ですが、いつか音声が再編集された完全版を見てみたいです。 これからも頑張ってください。
@國立益美
@國立益美 2 жыл бұрын
義龍(ぎりゅう)とか信長公記(のぶなが)とか、基本語彙の読み間違いはいただけない
@しいたけ-h3p
@しいたけ-h3p Жыл бұрын
これはゆっくり音声だから仕方ない。こういう仕様なんだよ。うp主がミスしたわけじゃない。
@pochicancan55
@pochicancan55 2 жыл бұрын
厳島の戦いでは、陶軍は厳島に上陸しても日柄(ひがら)が悪いと2日間城を攻め ず、ぐずぐずしているうちに元就に逆上陸されて奇襲された。川越夜戦もしかりで、 結局、大軍を破った戦いでは、大軍が油断している場合が多いと思う。
@gogobasara
@gogobasara 2 жыл бұрын
いつも楽しく拝聴しております 冒頭の 信長が家督を継いだ年ですが 天文20年は西暦1551年 だと思いますー
@gzunda55
@gzunda55 2 жыл бұрын
この戦さで青年武将家康の登場、無事これ名馬というがその通りだと思う。信玄、謙信の道半ばでの病死、信長の横死、秀吉が寿命をまっとうして退場してゆくなか、大坂で豊臣を滅ぼすまで踏ん張った家康はいろんな意味で凄いと思う。
@yoyo48912
@yoyo48912 2 жыл бұрын
家康の趣味が健康維持のための薬の調合と鷹狩り、側室には子供を産んだ実績のある女性を選ぶなど生に対してとことん貪欲な人間。 自分が選ぶ世界の偉人それが神君徳川家康公です
@tatsuonishi
@tatsuonishi 2 жыл бұрын
謎多き戦い、興味深い❗️
@S春香
@S春香 2 жыл бұрын
今回もとっても面白い考察でした☺👍✨ 現代・・と言うか私が生まれた昭和の時代にもありましたが、日本人は自分の好きな歴史的偉人の物語に、勝手に続編とか外伝とか造っちゃったりする民族ですよね。ww 江戸時代に造られた歌舞伎や浄瑠璃なども、実在の人物を題材にしていても史実とはかなりかけ離れた物も多いので、昔からやっている事は同じだなと思います。だとすると歴史書として書かれた書物であっても、ある程度の脚色や憶測が混じっているのは想定して謎に挑まないといけないですね。
@AA-pf4lv
@AA-pf4lv 2 жыл бұрын
それはほとんどの民族に共通しているのではないでしょうか? なぜ“日本人”はと言うふうに、日本人だけがそのようなことをするとに解釈できる書き方をするんですか?
@kazu-k1947
@kazu-k1947 2 жыл бұрын
現地に行くと義元の本陣は現在、桶狭間と呼ばれる所を含め、大高城までの各砦を見渡せる丘の中腹にありますね。 ただ、多くの軍勢を留めておける程広くて平らな所ではないので、本陣の周りにいたのは比較的少数の家来で、「護衛の部隊」は今の桶狭間古戦場公園の辺りにでも展開していて、それを織田軍が蹴散らして本陣へ攻め上り、壊走する今川軍を追って豊明市の「桶狭間古戦場」の辺りで今川義元を討ち取ったと見るのが自然ではないでしょうか。
@umiomamoru
@umiomamoru 2 жыл бұрын
桶狭間山の中を行軍中では長い縦隊だったろう。全軍を急に現れた信長に向かわせるのは、無線も無い当時は困難だ。縦隊を横から突く形になった信長軍に、周辺部隊を早く集められず、義元は敗れたのではないか。突いた場所が義元本陣だったとは、信長は幸運だ。
@たっちゃん-j4h
@たっちゃん-j4h Жыл бұрын
石高の低い駿河遠江三河三国より濃尾平野を擁し更に熱田神宮がある尾張のほうが石高が高かったって聞いたことがある。
@nekono_mimikon
@nekono_mimikon 2 жыл бұрын
桶狭間の戦いは桶狭間山での戦闘が全てだと思われがちですが、信長公記にあるように織田信長の正面からの奇襲により味方が崩れた(裏崩れ)ことにより今川義元も本陣を引き払い撤退、追いすがる織田信長と何度となく殿戦を行った結果、最終的に今川義元が討ち取られたものと考えて良いでしょう。 遭難した場合は山を登れと言われるように、不用意に山から下りてしまうと迷路のような谷津と低湿地に行く手を遮られ足を取られ、方向を見失って掃討される可能性が高くなってしまいます。 ましてやゲリラ豪雨の直後ですので今川方も織田方も苦労したでしょう。
@matukawatositane
@matukawatositane 2 жыл бұрын
信長自ら出陣して前線を押し戻すぞ!って突撃したらそこが今川本陣でした感ある
@通りすがりの赤い人
@通りすがりの赤い人 2 жыл бұрын
大高城の価値とその攻略の意味するところを取り違えている。 大高城は信長が家督を継いだころのゴタゴタで今川に下っており、それは尾張中央と知多半島の分断を意味し、更には織田家の力の淵源たる津島への脅威でもあった。 そのために丸根砦と鷲津砦を築き今川勢と大高城を遮断しようとしたのが桶狭間に先立つ一連の戦いに繋がっている。
@RT-qq3jj
@RT-qq3jj 2 жыл бұрын
九州では銃撃戦は田原坂があります。三砦の鉛玉、発見して下さい。スプリング8が産地特定します。奈良の大仏様は山口から献上されたとされていましたが、左の先生が学会で徹底的に非難、否定しました。すると、スプリング8で山口県産と証明されました。
@満典富永
@満典富永 Жыл бұрын
衛星写真を見ると桶狭間の地形は平地の中に丘が有り、大髙城、鷲津砦、丸根砦はそうですか。 桶狭間はどうですか? 今まで見てきた図のように小高い山がいくつもあり、その間を縫うようにとは。 当時の地形は実際、どうなっているのですか。 今まで、複雑な地形の山の中の戦いだと思っていたのですが。 三河と尾張の国境にある山々を越えてやって来る今川軍を、地形を利用して防御する。思い込みかもしれませんが、ドラマも、小説もそのように? しかし衛星写真を見ると。 そこかしこに小さな丘があり、平地での戦いとも? 思い込みですか? それとーーー桶狭間山に義元の馬印があればどのあたりからみえますか? 山地戦? 平押し戦のような感じも? そのあたり。 単なる思い込みだとおもうのですが。 よろしくおねがいします。
@マミマミ-t3m
@マミマミ-t3m 2 жыл бұрын
初見です。最近の研究により桶狭間の戦いも奇襲もなかった説が最有力とされましたね。 歴史の教科書等からも桶狭間や奇襲は消えると思います。
@上原好博
@上原好博 2 жыл бұрын
義元が尾張進行の延長に上洛を考えていたとは、到底思えません‼️(途上で語っていたかもしれないが、夢としてかったに)
@上原好博
@上原好博 2 жыл бұрын
戦国大名なら、誰しも夢として語ったかもしれないが、本人は真剣に想いを寄せていないはず。本気なら、色んな手を打っていなければならないはずです。第一隣の尾張でガチンコ勝負して、無事上洛迄こぎ着けますか?
@しいたけ-h3p
@しいたけ-h3p Жыл бұрын
NHKの番組なんかでもよく出演される小和田先生の動画を最近見たんですが、小和田先生によれば今川義元がこの戦に際し、斎藤や六角、朝倉、浅井などと連携をした形跡が見られないという理由で、上洛を目的としていたわけではないとされていました。(今はこの説が主流だそうです) もし上洛を果たす目的ならば、織田軍を蹴散らしたあとのことも考えて、その通り道にある大名たちになにかしらの働きかけをしているだろうと。
@yoyo48912
@yoyo48912 2 жыл бұрын
朝倉宗滴が尾張織田信長は優秀な逸材と語っていたり父信秀が信長の家庭教師に今日から一流の人間をよんでいることから今川義元は油断ではなく普通に敗れたと考えるようなりました
@RT-qq3jj
@RT-qq3jj 2 жыл бұрын
武蔵は敗ける戰はしなかった。吉岡一門との決闘も田圃の畦道に引き入れれば、二人です。武蔵の号は「二天」だそうです。 参謀本部も負けない戰を考えていただきたい。日華事変でも南寧の戦いは如何ばかりでしょうか?
@kkyy3433
@kkyy3433 2 жыл бұрын
今は学説的には織田の奇襲的な意味合いより、普通に戦ったら普通に勝った説が有力だそうだ。織田軍団が強かったと。 父信秀は雪斎のいる今川軍に負けてるけどね。
@anntena5318
@anntena5318 2 жыл бұрын
確かなことは、今川方が信長精鋭軍の接近をギリギリまで気づかなかった。今川本陣を守る要の軍勢が連携し辛い配置になっていた上に、地形と天候によって機能するのに手間と時間を要する状況が起こって、信長精鋭部隊が一直線に今川の首の一点に殺到。楽勝ムードの今川本陣と崖っぷちの危機感にある信長精鋭部隊が、狭い戦場で揉み合い合戦になり、信長精鋭部隊はただただ今川の首だけに一点集中攻撃。たぶん、10回やって1回成功するかしないかの幸運が重なった奇跡的な戦果が実際に起こった。。
@RT-qq3jj
@RT-qq3jj 2 жыл бұрын
歯向かうことさえ眼中になかった。 秀吉が酒肴を贈答したとか??
@アゲモノ天国
@アゲモノ天国 2 жыл бұрын
戦記物だと戦術戦略の話ばかりだけど、1番重要なのは、評判なのよ。うつけ者に見せたのも評判。戦国時代も中期を越えると戦術マニュアルは誰もが知ってるから、逆に稚拙も武器になる。
@上原好博
@上原好博 2 жыл бұрын
小中規模の戦に置いて信長を戦上手、下手を論じるのは、相応しくない‼️信長は戦略家であり、当時として卓越した政治家であることを頭に置かないと、理解が進まない‼️
@masao750
@masao750 2 жыл бұрын
今川軍は2万以上だが進撃路は狭い道なので数百人単位の分散移動が自然。 大陸の様な平原の戦とは違う。 信長の偉大な所は桶狭間の戦いが幸運だったのを充分反省して、 以後の戦いでは兵站を整備して決戦場には相手を圧倒する兵を集めている。
@itachibori3
@itachibori3 2 жыл бұрын
1151ではないことはご愛嬌として楽しく見させていただきました。 静子がいたら違った展開になってだんだろうね。
@長谷川良行-w2e
@長谷川良行-w2e 2 жыл бұрын
お疲れ様です。 今年で462年前になりますね。 今川義元の本陣は桶狭間、または田楽狭間と言われる狭間にあったのではなく、桶狭間山と言う山にあった。 だから信長軍の動きは丸見えでした。 それを堂々と正面からぶつかって勝ってしまったから、あんな少しばかりの軍勢で義元の大軍に勝てるわけがない。 狭間に陣取った義元本陣へ崖の上から奇襲したから義元軍は大混乱に陥り、大勝利というわけですが、こんな話はそれより400年も前の源平合戦、義経の一の谷の逆落としをモデルにした劇画話である。 信長の大勝利はそれなりの作戦勝ちなのです。 衝動的ないちかばちかの特攻ではありません。
@キャプテンハーロック-c2j
@キャプテンハーロック-c2j 2 жыл бұрын
信長公記 (のぶながこうき)ではなく(しんちょうこうき)と読むので間違いないように
@タカタカ-e8m
@タカタカ-e8m 2 жыл бұрын
愚策は無いやろ! 信長は、勝てる戦いしかしない! 勝てる様にしてから戦うんよ!
@RT-qq3jj
@RT-qq3jj 2 жыл бұрын
1968年頃の大学は同じ気配を感じます。ただ、私はソ連の残虐と米兵の高射砲基地進駐で極右でした。本土決戦派も3000万人〇すれば戦意喪失するだろう。とソ連と同じでした。
@姥桜-o5x
@姥桜-o5x 2 жыл бұрын
若いうちの冷や汗ものの戦いがその後の戦いの勉強になるわけでね。乾坤一擲で運が強いからこそ今でも、そして外国人にも好かれる信長なのでしょう。 戦とは運も必要と思います。
@歴オタ介護士
@歴オタ介護士 2 жыл бұрын
うぽつです。この戦いでの義元の出兵は鳴海・大高城の後詰作戦。両城を封鎖している織田方の砦の排除が目的。 出兵時期が6月。この時期は農繁期であり、農兵を招集しても短期間しか活動できません。仮に桶狭間周辺を制圧して 鎌倉街道沿いに北上しても、途中に信長重臣佐久間氏の居城「御器所城」があるため、前もって内応工作をしていないと 進撃は無理だと思います。信長の軍勢と義元の軍勢では構成が異なっており、信長の居城清州城から桶狭間までは約25キロ この距離だと信長の軍勢は日帰りが可能なので、義元の軍勢5千は小荷駄を含めた人数出るのに対して、信長の軍勢2千は、 小荷駄を同伴させず戦闘員のみで編成した軍勢かもしれません。 古戦場周辺を歩いたことがありますが、義元が布陣した桶狭間山は桶狭間周辺では一番高い山です。 現在は宅地開発で山は削られ住宅地になっています。明治時代の地図ですが桶狭間山は麓の南西部は湿田になっており、 大高城方面には道が通っていますが、古伝では雨が降って湿田の水位が上がると道は水没していたそうです。 桶狭間の戦いは『信長公記』首巻に記載されていますが、作者太田牛一が若いころの記憶を基に記しているため (本人が桶狭間の戦いに従軍した可能性もあり)信憑性を疑う研究者もいます。
@通りすがりの赤い人
@通りすがりの赤い人 2 жыл бұрын
首巻は干支付きの年号を6つ記して、そのうち5つが間違っているという奇怪なことになっていますからね。特に桶狭間合戦の起きた年(永禄3年・1560年)を8年も間違っていて、しかも3か所に渡って干支をいれた日付(天文21年壬子・1552年)を記すというのは単なる間違いではなく何かの意図があったのかもとさえ思えてしまいます。
@matukawatositane
@matukawatositane 2 жыл бұрын
基本的には一級品の信長公記も首巻だけは…って言われますもんねー
@中山隆司-i3h
@中山隆司-i3h 2 жыл бұрын
15:17 たしかに信長は直接的、直線的だ。 政治的にも、頭がいいわりに、謀略をつかう感じもないし。 外交でたまに大ポカをやるのも、そういう直接的な性格のせいなのかもね。
@nanashi7777
@nanashi7777 2 жыл бұрын
最近の研究では織田軍はどこに義元がいるかをわかっていなかった。が、とりあえず今川方に出会ったら襲いかかると言うのをやろうとしたら最初の方に偶然、義元本隊に出会って、実は信長はそれが義元本隊だと思わす闘って勝った後から本隊だと気づいたと言う説が有力なようです。また義元が大軍を率いて尾張進行した理由は当時今川の城だった那古野城を信秀に取られた為に奪還に向かいついでに尾張を支配下に置くため大軍を率いて来たのであって上洛の意思はなかったと考えられています
@phoenixgold3593
@phoenixgold3593 2 жыл бұрын
いいとこついてますよ。まあかなり偶然が関与したようですな。ただ信長の戦略はそれなりに適正だったと思いますね。まあ一発勝負の世界ですし、個人的には、日本の戦国を終わらせるため秀吉や家康同様、神仏が選び守った?人物だったように思います。大坂夏の陣直後の城周辺は、敵味方関係なく一般庶民も巻き込んで斬殺、強姦、人身売買など、まさしく地獄絵図だったとか。それを見て残された秀忠はもう終わらさねばと思い、命懸けで太平の世を目指したようですね。日本は不思議な国です。
@my-eg8ge
@my-eg8ge 2 жыл бұрын
この戦いで一番忘れられているのが、この時期はすでに敵対関係にあった美濃の斎藤龍興がこの戦いにどう関わったのかという視点だと思う。龍興が義元と結んでいたにしろ、いなかったにしろ信長の軍勢のいくらかは美濃の抑えとして向けられていたはずで、それが信長の戦術決定に影響を与えたであろう事は間違いないと思う。
@RT-qq3jj
@RT-qq3jj 2 жыл бұрын
サンデー毎日に国盗り物語載っていました。
@しいたけ-h3p
@しいたけ-h3p Жыл бұрын
NHKの番組なんかでもよく出演される小和田先生の動画を最近見たんですが、小和田先生によれば今川義元がこの戦に際し、斎藤や六角、朝倉、浅井などと連携をした形跡が見られないという理由で、上洛を目的としていたわけではないとされていました。(今はこの説が主流だそうです) もし上洛を果たす目的ならば、織田軍を蹴散らしたあとのことも考えて、その通り道にある大名たちになにかしらの働きかけをしているだろうと。
@MUSASI40
@MUSASI40 2 жыл бұрын
想像以上に グダグダで乱戦だったんだね 義元の方がより大きなちょんぼをやらかしたので勝てた感じか
@長尾景虎-y7s
@長尾景虎-y7s 2 жыл бұрын
高坂をたかさかと言うてました
@00kumakuma
@00kumakuma 2 жыл бұрын
大将の首を取ろうなんて思ってなかったと思うよ。 攻められてる砦に後詰め出さないと、バタバタ調略されてしまうのでとりあえずカッコつけるぐらい。 砦が落ちて、攻城戦組はもう戦終わりモードで戦力外状態だが 本陣の先鋒衆は小競り合いが続いて後詰めの気配を察知して緊張状態 その後ろの予備兵力5000はしっかり配置についていた。 織田本体の攻撃はおそらく予定より突っ込んでしまって三方ヶ原状態になりそうだったが、竜巻並みの暴風雨で今川の予備兵力がマヒして 本陣迄すり抜けた。 ここで旗本衆おいてでもとっとと逃げるという判断が出来ずのろのろ下がっていたのを補足されてしまった。 ちなみに尾張は完全掌握できれば今川と国力は変わらない。
@murasaki9295
@murasaki9295 2 жыл бұрын
UP主に一つ言いたいです 日本の古来からの戦略は散兵戦の戦いであり、近代戦や現代の間違った解釈での戦いを当てはめるととんでもない間違えをします ベトコンが何故強かったか、それは大日本帝国陸軍の戦略を教本とし、散兵戦で師団を襲ったからであって、それはすなわち夜討ち朝駆け、側面奇襲など敵を翻弄したから強かっただけです 日本軍軍歌、明治に作られた軍歌(歩兵の本領)でも読み取れます 戦国時代の話でも川中島の戦いで、あの信玄が謙信の奇襲を読み間違えた事も、人数が多いから悟られるとは限りません 他にも歴史上、スピキオの戦いでも奇襲は想定外の所から攻めるのは常套手段であって、近代ではドイツ軍の電撃戦、日本軍のマレー戦は資料が多く勉強する所が多いです
@Negius616
@Negius616 Жыл бұрын
现在突然想到,难道把今川义元的情报流露给织田信长的,就是德川家康?
@BEKU02
@BEKU02 2 жыл бұрын
個人的には今川はやはり上洛は考えてなかったと思います。 『大舘記』所収「諸国庄々公用之事」によれば今川は足利将軍との連絡を絶ったとの事、 『今川仮名目録追加二十一条』を見ると朝廷及び将軍家からの独立を匂わす一節が見られます。
@白狐姫
@白狐姫 2 жыл бұрын
上洛は論理が飛躍し過ぎですね。この時代は兵站という概念がありません。秀吉の北条征伐の時ですら、補給困難から包囲側で反乱が起き掛かっています。兵站が当たり前に存在するという前提で論理を組むのは歴史小説の読み過ぎです。この時代は小荷駄で運んだ物資が尽きれば終わりです。ヨーロッパでも兵站の概念が出て来るのはナポレオン戦争の時代ですよ。今川軍は精々動けて精々3週間。上洛なんて到底無理ですよ。
@TOR-ORU
@TOR-ORU 2 жыл бұрын
朝鮮出兵の時はどうしてたんですか?
@かわら次郎
@かわら次郎 2 жыл бұрын
信長は奇襲戦を仕掛けようとは思っていなかったのではないか。その戦略は一点、今川方の旗本隊を殲滅する。これは兵数が劣るものが考える唯一の勝利の戦略だと思う。だから奇襲戦とか正攻法とか無意味なんじゃないかな。
@righthistory884
@righthistory884 2 жыл бұрын
1151年家督ついだは早すぎる
@菩薩びっくりちゃんねる
@菩薩びっくりちゃんねる 2 жыл бұрын
歴史はホント面白い😊 いつも勉強になるー(*´ω`*) 次も期待✨✨✨ 🙂
@ZappafansAchilles
@ZappafansAchilles 2 жыл бұрын
史実に目を向けるなら人物の成立ち、立ち姿、それまでの進軍行動を調べてみなさい。そうすれば何故”桶狭間”だったのか、 振る舞われた とされる鯉や酒がどこから出たのか、そうすれば愚策と片付けた進軍が愚策では無く、周到に用意された作戦と理解出来る筈。 前夜の雑談も敵を騙すにはまず味方から の定石通り、ですが?
@満典富永
@満典富永 Жыл бұрын
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか? その時の将軍は足利義輝ですか? もしそうならその後の織田との関係は? このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。 信長が上洛する際は伊勢を。 信玄が上洛する際は信濃を。 ということはーーーないですか。 勝手な思い込みです。 それとこれも思い込みですが。 "塗り輿"というのは防弾仕様ですか? 義元は大髙城へ向っていたようですが。 織田に横腹を突かれたーーーということですか?
@武田賞司
@武田賞司 2 жыл бұрын
ガンダムだとミサイル、ロンメルだと砲撃、信長だと雹で事前に出来るだけモビルスーツや戦車や武士を敵に接近させる「強襲」だったろうね。義元は軍事物資を本来の計画より前倒しで購入していますので、台頭する信長を早めに討とうとして上洛は考えていないと思いますよ。
@満典富永
@満典富永 2 жыл бұрын
今川義元は桶狭間にどれだけの兵を展開出来たのか? 2万5千全軍を展開できたのですか? おねがいします。 本隊は沓掛。 本陣は桶狭間ですか。 信長はあの辺りの地形は熟知していたのですか? 桶狭間に展開出来る兵はどのくらいですか? それと大髙は。 糧道を断つために4つか5つ、付城があったと何かの歴史雑誌で読んだような。 今川の大軍が来たため鷲津、丸根を残し兵を引いていたとか、 うろ覚えですが。 確認おねがいします。 それで家康は無血で兵糧入れが。 とか。
@卓司飯塚
@卓司飯塚 2 жыл бұрын
信長こうきではなくしんちょうこうきでは?
@かわら次郎
@かわら次郎 2 жыл бұрын
信長は十分戦上手だと思うけどね。運だけでは 語れない。家督を継いでから尾張を統一して本能寺で死ぬまで二十数年で日本の中心部二十数か国を征服したのだから。これは日本の歴史始まって以来のこと。近年過小評価がすぎる。
@RT-qq3jj
@RT-qq3jj 2 жыл бұрын
ですよねー!
@山田栄子-b7r
@山田栄子-b7r Жыл бұрын
この桶狭間は当時3国同盟中の武田の策略に乗り信長は勝利出来ただよね。信玄は当時 越後の上杉と対峙中で3国同盟中の今川領付近に有力武将が配置して無く手薄だったが後に同盟破棄後に今川を侵略して天下統一の足がけにする為、今川の有力武将を既に参下に納めて居ただよね。 だがタイミングが悪く川中島方面に主力がいるし、同盟破棄擦るのは今では無いと考えた信玄は信長を使ったと現代の歴史学者は考えて居ますよ。信玄に寄って義元は桶狭間に誘導され又、主力と引き離されて義元の旗本と休息を取らされてる中武田に誘導されて来た信長に殺られた訳です。現に義元が打たれて直ぐに3国同盟は破棄されて氏家は桶川におい落とされ大名今川氏は終焉を迎えてます。
@redsnowangel123
@redsnowangel123 2 жыл бұрын
日本軍が無能みたいに言ってるけど 中国、アメリカ、ソ連と争いしつつ、南京・ハワイ・オーストラリア周辺まで進軍してたような…
@rokuemu114
@rokuemu114 Жыл бұрын
マダガスカル島
@saki0426
@saki0426 2 жыл бұрын
成功者の共通点だけを見てしまうと、みんな人間だ、といったような、明らかに意味の無いものまで含まれてしまう 成功者に共通し不成功者にないもの、でなければ意味が無い
@einsfia
@einsfia 2 жыл бұрын
一般論として、成功者から学ぼうとするのは不毛だと思う なぜなら成功者は成功者にしかない特殊な能力があったり、時として自分ですら成功の理由を履き違えていたり、ただの運や時勢だったりもするわけで 同じ状況は二度と訪れないし、同じ人間が同じような局面でまた成功するとも限らないし、過去の成功体験から離れられず最終的に失敗で終わるケースも多い 反対に失敗からは必ず教訓が得られる 本当に省みて参考にすべきは失敗からなんだよね
@吉夫原田-m4s
@吉夫原田-m4s 2 жыл бұрын
桶狭間の戦いの一番手柄を考えろ。 梁田政綱じゃね?。 私は信長はカナリ早い段階から準備して 居たのが勝因だったと考えて居る。
@suinco
@suinco 2 жыл бұрын
織田側が今川家の旗を持って義元本陣に近づいたから表に出すのが恥ずかしくて詳細が残ってない説もあるよね
@栄治西岡
@栄治西岡 2 жыл бұрын
雨☔を待ち状態です。あの名古屋の神様太刀に参拝して大将の陣を原におかせる。今川兵は分散する。陣構えかちちゆはきていない
@碌々
@碌々 Жыл бұрын
地名を付けるにはそれなりの理由があり、狭間とは、物と物との間の狭い所という意味らしいので、今川義元は桶狭間山に本陣を置いて、桶狭間山の後ろにも別の山があり、そこを攻められて桶狭間山と別の山との(桶)狭間に追い落とされて、そこで打ち取られたんじゃないですかね。 後、信長は今川義元の本陣の位置を知らなかったんじゃないかという説ですが、それは信長記で桶狭間(見えにくい狭間)に本陣を置いたから、見つけ難かったに違いないから探したに違いないという創作部分を、後の軍事的な常識からは司令部の場所なんて隠すに違いないという思い込みの所為じゃないですかね。 実際の戦国時代って、大名が出陣する時って、大将直々の出陣なるぞ。皆の者がんばれ!と、あえて本陣の場所は宣伝するものじゃないですか? それで味方は士気を高め、相手は敵は本気で攻めてくるぞと恐れて意気消沈する。それを狙ったものでしょう。 だからこそ、馬印なんてものもあるし、実際、今川義元も桶狭間山。という小高いところに本陣を置いて馬印も掲げていたはずで、 昔の人は現代人よりかなり視力も良かったらしいですから、探すまでもなくちょっと見渡しの良いところから見れば、一目で丸わかりだったんだと思います。 実際、信長公記には今川義元の本陣を探すなんて話は全くないのに、当たり前のように本陣に向かって攻め寄せてますし。
@九万聖
@九万聖 2 жыл бұрын
桶狭間周辺の地形は、丘陵地帯というだけでなく池や沼が多い地形だったりする。そのため、大軍を一箇所に展開出来ず、分散配置するしかない。 むしろ今川義元の行動の謎は、信長の倍以上の兵力を持ちながら、なぜ桶狭間の一点だけを進軍路としたのか。 一部の軍を守山方面から入れるという分進合撃もできたはずなのに、なぜかそれをしていない。
@matgll2460
@matgll2460 2 жыл бұрын
タイトル見て、イラッと来たけど。 新説でも新解釈でも無い、見た人が言い伝えたでもない。唯一無二の真実か?これ以前も、これ以後も、一切異論の有り得ない。 もうね。いいわ。
@TA-ci9wi
@TA-ci9wi 8 ай бұрын
ウチの先祖は家康と共に参戦していて当時の話が残ってるけど、今川方の詳しい思惑は書いて無かったな。 まぁ、当たり前か
@風魔忍者ぶきみ丸
@風魔忍者ぶきみ丸 2 жыл бұрын
戦で最も必要な物は、正確な情報である。
@満典富永
@満典富永 Жыл бұрын
海進、海退により海岸線がだいぶ変わっているようですね。 古地図と現在の地図を参考に この時代は海抜何メートルまで海が。 1500年代ですか。 そうなると関東は、関西は、中部地方は? ここまで海岸線が。 その時代の日本の姿はこうだった。 日本全土は海岸線がこうなっていた。 現代の地図に重ね合わせると。 こうなる。 江戸城周辺は。 大阪城周辺は。 桶狭間は。 そういう事を書いた資料はありませんか? 年代毎にそのような地図があれば。 もちろん人の手でーーーというのもあるでしょうが。 その地図をもとに。
@ロッカー-f8d
@ロッカー-f8d 2 жыл бұрын
そもそも義元には信玄や謙信のような用兵術は持ち合わせていなかったと思う。ただ今川は兵力がこの当時、最大だっただけ。太原雪斎が生きていたら違った結果になってたかもしれんが。
@上原好博
@上原好博 2 жыл бұрын
中小の戦で信長の戦いが上手、下手を論じるのは相応しくありません。信長は戦略家であり、当時として卓越大政治家であることを頭に置かないとなかなか論じるのは難しく思います。
@長尾景虎-y7s
@長尾景虎-y7s 2 жыл бұрын
斎藤義竜と言うてました
@長尾景虎-y7s
@長尾景虎-y7s 2 жыл бұрын
訂正 龍興と言うてました
@ky-ev2mz
@ky-ev2mz 2 жыл бұрын
降った雨は雹まじりと言われているのでミゾレと思います。
@niraiokiniha6475
@niraiokiniha6475 2 жыл бұрын
信長と斎藤を放置して上洛なんかしたら背後を突かれるだけなんだが
@しましま-w7z
@しましま-w7z 2 жыл бұрын
信長は間違いなく稀代の天才だったが部下達に地方の管領を任せられる程の武力を与えたのは大失敗だったと思う。
@ネコきつ
@ネコきつ 2 жыл бұрын
どうすれば良かったの?
@通りすがりの赤い人
@通りすがりの赤い人 2 жыл бұрын
正答は無いね。距離と時間の制約を強く受ける近代以前では中央から離れた地方の将にどれほどの力を持たせるかというのは常に大きな命題だった。 地方の軍閥化を掣肘しうる中央の軍(近衛軍など)の整備は一つの答えなのだけど、それとても「暇を持て余した近衛はロクなことをしない」という歴史的事実があるので万能の解法ではない。
@mugakuninn
@mugakuninn 2 жыл бұрын
「日本万歳」 疑問なんですが・・・なんで信長の姿は優男なんですかね? 武将なんだから筋肉バリバリで書く方が当時の力強さと見えますよね? そこで信長は現代からの転生者説・・・ 桶狭間までは歴史を使い勢力増大。桶狭間で大雨が降る事は歴史の記憶・・・ でも日にちは10日早かった、予定が崩れて思考混乱、準備した家臣も混乱。 今後に知識は通用しないと覚悟、右往左往で兵を集め豪雨に期待し、やけっぱちの突撃。 勝てたけど・・・それ以後は知識を使えず慎重に慎重に・・・
@RT-qq3jj
@RT-qq3jj 2 жыл бұрын
1894年、英国イザベラバードが日本探索した。胆振までいきました。アイヌ人の家も訪れた。全ての家に「ヨシツネ」の神棚があったそうです。
@満典富永
@満典富永 Жыл бұрын
室町幕府は義元上洛の見返りに何を約束したのですか? 上洛の見返りに尾張の守護でも与えた。 それを大義名分に尾張侵攻を。 考えすぎですか。 尾張を取ったあと、上洛ーーーという運びですか。 上洛というのは道を開けてくれるようですし。 桶狭間のような武力侵攻の、ようなことは。 何もないのに上洛、上洛というのも。 尾張を切り取りにいっているようにもみえますし。 信長の時は伊勢。 信玄には信濃ですか、三河ですか。 まあ勝手な思い込みです。 その時の将軍は足利義輝ですか? もしそうならその後の織田との関係は? このあと、尾張の守護の斯波氏はどうなったのですか。 信長が上洛する際は伊勢を。 信玄が上洛する際は信濃を。 ということはーーーないですか。 勝手な思い込みです。 それとこれも思い込みですが。 "塗り輿"というのは防弾仕様ですか? 義元は大髙城へ向っていたようですが。 織田に横腹を突かれたーーーということですか?
@heiheiho-264
@heiheiho-264 2 жыл бұрын
日本だけじゃないでしょ1 ターニングポイントがたくさんあるところは! 適当なこと言うんじゃないの。
@大記吉本
@大記吉本 2 жыл бұрын
文化系の大学卒の歴史を見る目はメクラに近い。国立大学理科系卒はそんな見方はしない。 今川義元は織田信長の罠に見事にかかっただけ。今川義元は織田信長の人物を見誤った、調査不足であった、と思います。 合戦場になった桶狭間山には今川方の城があった、と思います。それを織田信長は攻略し廃城にしていた、と思います。今川義元はここで必ず昼食休憩をする。その食事時を織田信長は襲って勝った、と思います。
@RT-qq3jj
@RT-qq3jj 2 жыл бұрын
シルクロードはラクダでなかった。ジャンク船とダウ船の交易だったと1990年頃に打ち上げて、習近平から認められ、日本の進歩を妨害しています。イケメンです。
@matukawatositane
@matukawatositane 2 жыл бұрын
上洛…??したとして畿内を制し将軍を一応は擁している三好長慶をどうするん?? 桶狭間にしても戦国期の合戦は、後世のクリエイターと分かりやすさと面白さを求めた大衆によって色々創られすぎてよく分からん
@佐織の辰ちゃん
@佐織の辰ちゃん 2 жыл бұрын
現在の研究では今川は上洛ではなく尾張制圧のための出陣だったとされています。
@matukawatositane
@matukawatositane 2 жыл бұрын
@@佐織の辰ちゃん それしかないよねー
@通りすがりの赤い人
@通りすがりの赤い人 2 жыл бұрын
「戦国大名がみな天下取りを目指した戦国時代」という奇怪な先入観無しに考えれば足利傍流の今川が足利将軍を擁する三好に対決姿勢を見せるのはおかしいとなるし、桶狭間に関しても大高城の救援が主眼であるように思える。 ちなみに桶狭間の前哨戦で今川に落とされた丸根砦と鷲津砦は大高城と今川勢との連絡を絶つために築かれた砦で、5月18日の松平元康による大高城兵糧入れは大高城が危機的状況にあったことを示唆してもいる。
@うじうじ-f7k
@うじうじ-f7k 2 жыл бұрын
上洛するためには、将軍の足利か管領の細川を擁しないと機内の支持が得られませんよ
@matukawatositane
@matukawatositane 2 жыл бұрын
@@うじうじ-f7k その通りなんすよ…今川に室町秩序を破壊する意図があったとは思えない
@大吾少尉とポンコツ大佐物
@大吾少尉とポンコツ大佐物 Жыл бұрын
信長公記 しんちょうこうき ですよ。ごめんなさい。
@義将長野
@義将長野 2 жыл бұрын
しんちょうこうき、だからね❗️
@ShimizuNaotoOrigin
@ShimizuNaotoOrigin Жыл бұрын
信長公記は信用してませんね 秀吉に缶詰にされて書いたものをどれだけ信用できるものか… 結局、資料は資料、自分で踏査するのが一番
@上原好博
@上原好博 2 жыл бұрын
信長が取った作戦が愚策とは、到底思えません‼️戦は生き物故、途中不自然な行動があったやも知れませんが、結果的に最良の作だった筈です。例えば、①家来衆が籠城を主張していたのを蹴り、打って出た事。②おとりで義元の本体の兵を前線に誘き寄せ、信長は体をかわし、手薄になった義元本体を奇襲した。これ以上の、良策がありますか?良い判断。良い作だったと言えます。
@生天目なばためあおい
@生天目なばためあおい 2 жыл бұрын
海道一の弓取りが不利な地で休憩なんかしない。はい論破。
@リエ-l3f
@リエ-l3f Жыл бұрын
タカサカではなくて、コウサカと言うんじゃないの?コウサカ弾正、と。
@It-zf5du
@It-zf5du 2 жыл бұрын
愚策、だからこそ奇襲攻撃なのでは?
@kareimaj.gen.5233
@kareimaj.gen.5233 2 жыл бұрын
桶狭間、奇襲じゃなくて騙し討ちだよ。
@tentaclealma3535
@tentaclealma3535 2 жыл бұрын
尾張の兵が弱かったと伝わるのは、信長の戦術の下手糞さだったのか……。
@つねつね-p9z
@つねつね-p9z Жыл бұрын
今川義元が酒宴を開いていたという話は甲陽軍鑑にあります
@リエ-l3f
@リエ-l3f Жыл бұрын
今川義元は、完全に織田信長をなめきっていたんじゃないかな?上にいても、下の家来達が討ち取るとか、かなりいい線行くと思って油断していて。だから最後の方でもしかしたら出て行って(行かなくてもそのまま勝って終わるとかも思っていたり)片を付けるだとかを思っていたんじゃあ?だから酒なんて飲んで、勢いつけて楽しんでいたとか、もう直ぐ勝ち戦だからと前祝いをしていただとか。
@savage1212
@savage1212 Жыл бұрын
相変わらず漢字の誤読が多い……「東海道一」を「とうかい みちかず」ウケ狙いですかね???……いやぁ手強い……
@zyko8623
@zyko8623 2 жыл бұрын
乙。生首解説お疲れ様です。
@Shinichiro_Higuchi
@Shinichiro_Higuchi 2 жыл бұрын
ゆっくり、多すぎる。飽きてきた。
@nobuw4656
@nobuw4656 2 жыл бұрын
地理調べた?😏
@KEIJIYAMAMOTO-y9z
@KEIJIYAMAMOTO-y9z 2 жыл бұрын
いまだに桶狭間の戦いを今川の上洛戦だと言っている動画見るとは驚愕です。 いまどの歴史学者がそんなことを言っているんですか。 がっかりです。
@正吾隈本
@正吾隈本 2 жыл бұрын
御意ッ! 何を今時…(ここのリソース小瀬甫庵著が第一次資料なん?呆れるわッ💨) 寧ろ、成程! 講釈師 観て来た様な 嘘を付き 『歴史家の加“来耕三“です』 m(_ _)m。
@しいたけ-h3p
@しいたけ-h3p Жыл бұрын
NHKの番組なんかでもよく出演される小和田先生の動画を最近見たんですが、小和田先生によれば今川義元がこの戦に際し、斎藤や六角、朝倉、浅井などと連携をした形跡が見られないという理由で、上洛を目的としていたわけではないとされていました。(今はこの説が主流だそうです) もし上洛を果たす目的ならば、織田軍を蹴散らしたあとのことも考えて、その通り道にある大名たちになにかしらの働きかけをしているだろうと。
@KEIJIYAMAMOTO-y9z
@KEIJIYAMAMOTO-y9z Жыл бұрын
@@しいたけ-h3p ですよね~~ 姉川の合戦で徳川が動員できた兵力がやっと5000前後と言われます。当然桶狭間で数万の大軍を引き連れるなんて不可能ですし、手勢も数千でしょう。 大高城と鳴海城を包囲され、それの後詰めで行っていたのは資料からも明らかで、それを上洛戦だなんて。。。
@pocketjangle8004
@pocketjangle8004 Жыл бұрын
ウクライナ戦争と同じように 見方がおかしい
@xinzhi54
@xinzhi54 2 жыл бұрын
史料が嘘な可能性もあるよな、誰も実際の現状を目の当たりにしていないんだから作り話であるとも考えられる
@満典富永
@満典富永 Жыл бұрын
衛星写真を見ると桶狭間の地形は平地の中に丘が有り、大髙城、鷲津砦、丸根砦はそうですか。 桶狭間はどうですか? 今まで見てきた図のように小高い山がいくつもあり、その間を縫うようにとは。 当時の地形は実際、どうなっているのですか。 今まで、複雑な地形の山の中の戦いだと思っていたのですが。 三河と尾張の国境にある山々を越えてやって来る今川軍を、地形を利用して防御する。思い込みかもしれませんが、ドラマも、小説もそのように? しかし衛星写真を見ると。 そこかしこに小さな丘があり、平地での戦いとも? 思い込みですか? それとーーー桶狭間山に義元の馬印があればどのあたりからみえますか? 山地戦? 平押し戦のような感じも? そのあたり。 単なる思い込みだとおもうのですが。 よろしくおねがいします。
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