Пікірлер
@tatsuhat365
@tatsuhat365 23 сағат бұрын
素晴らしい考察に恐れ入ります 秀吉が出現する前の信長さんの活躍はとにかく面白い! 近親者を駆逐しないと、国の平定を成し遂げないという信長さんの想いが伝わりましたよ
@user-sh9ds6ql2u
@user-sh9ds6ql2u Күн бұрын
福島正則の画像と音声は常に亡き蟹江敬三氏で再生されてしまう。 あと『17年ぶり5度目の落城』が甲子園大会出場校みたいで吹いた。
@tommom1107
@tommom1107 2 күн бұрын
凄い情報量… これならトヨタ自動車の試験も受かるんじゃない?
@isobeferrero9778
@isobeferrero9778 2 күн бұрын
昔は歩いて合戦場まで行くのだから大変だよな。清州から鳴海までなんて絶対歩けないよ、俺なら。
@user-uz3fg4ux1x
@user-uz3fg4ux1x 3 күн бұрын
最上って小っちゃかったのね。
@sinji1341scarlet
@sinji1341scarlet 3 күн бұрын
ただの三河の土豪に過ぎない訳ではなかったと。 足利家の一門の今川家にもパシリにされるのが皮肉。
@mishimaensis2109
@mishimaensis2109 4 күн бұрын
倍以上の軍勢を用いて、戦力も余力を残していたのに包囲できずに徳川勢に戦線離脱をゆるしてしまった 信玄が用兵が優れていたとは思えけど。
@sunagitune4169
@sunagitune4169 4 күн бұрын
???「葦…名…」
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p 5 күн бұрын
面白かった。ありがとうございます😊
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p 5 күн бұрын
尾張平定と桶狭間とそれ以降では 戦い方が全然違う信長。判断力に優れた人らしく地勢や相手の実力を知ってる場合は速く大胆に。不確定要素が大きな時は慎重にと正しい戦術で合戦に臨んでますよね。どれくらい信用出来るかは置いておきますが若い信長は馬に乗って絶えず尾張を 見て回っていたらしいので勝手知ったる場所が多かったのではと考えます。
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p 5 күн бұрын
距離感の把握が出来るだけでも よしふじさんの方法は革命的は 戦闘解説だと思う。実際誰1人俯瞰して観戦していない以上当日夕刻から 立場ある武将が推測を重ねて互いに それとなくすり合わせてやっと ある程度の筋が見えてくるのが 当時の合戦の実相。大将がもし直接見て戦況を判断しようとしたら それは敵からも見られてしまうので 指揮官も良くて伝令や馬廻りから随時状況を聞く事が出来るだけ。そのあたりについてはリアリズム小説を完成させたトルストイがはっきり描いている。1814年で違う軍服を着たフランス軍とロシア軍でさえそうだったので16世紀の日本ならさらに戦場の混乱は 大きかったはず。
@user-qz3go1ft3p
@user-qz3go1ft3p 5 күн бұрын
カードの切り替えのせいでメンバーから外れてた。月謝をお納め下さい。
@masao750
@masao750 6 күн бұрын
天理図書館蔵の信長公記天理本。
@yamadatarosatoutaro
@yamadatarosatoutaro 6 күн бұрын
一番の謎はこの作戦は討ち取った後の撤退の方がが難しいからふつうはやらない、返り討ちに合うだけ。 なのにあっさり撤退している、歴史上ではこの後に織田と松平(徳川)と同盟しているのだが事前に密約で同盟してたのではないかと疑っている、それなら今川軍の配置が分かり退路の確保はできたので十分に勝算はある。
@user-pe1hk8xr7l
@user-pe1hk8xr7l 6 күн бұрын
三河の歴史ってあんま細かく残ってないので、楽しく見させていただきました。
@user-eb1zo7pd1s
@user-eb1zo7pd1s 6 күн бұрын
甘利勢6割
@t-nakahiro
@t-nakahiro 6 күн бұрын
最上の勢力も凄い。 石高でこそ伊達家に届かなかったと言われてるが、懐事情なんてその時の取れ高や飢饉で変わるし、 勢力では拮抗してたんだと思う。 当時の情報ではどちらが上などと考えて無くお互い脅威だったろうな。
@TIIIKEYATIU
@TIIIKEYATIU 7 күн бұрын
豪雨の中、一か八かで突っ込んだら、運よく本陣にぶつかっただけです。 信長の生前の動きを見る限り、統率力はありますが戦略性はないと思われます。 本当に運で勝っただけなんです。そんな奴に負けた義元も義元ですが。戦なんてそんなもんですよ。
@kenn8438
@kenn8438 7 күн бұрын
ものすごく勉強になりました!
@user-kn4pq8ib2c
@user-kn4pq8ib2c 8 күн бұрын
今川義元の領土って、本能寺の変の時の徳川家康の領地と一緒ですな。
@winmake1140
@winmake1140 9 күн бұрын
松平家が伊勢(後北条家)の家来だったんですね。
@user-pr1cd5no3q
@user-pr1cd5no3q 9 күн бұрын
川中島の第4次の激戦に似てませんか?暗中模索の中突然本陣同士が出くわして乱戦になったのに。義元公は信長の荒くれ馬廻隊と突然激突したらそりゃ負けますって。
@user-vi9vv2iu5z
@user-vi9vv2iu5z 10 күн бұрын
あの地域は小高い丘が散在していて、街道以外は沼田で足を取られるような悪地です。豪雨が無くても、丘を利用して密かに近づくことはできたでしょう。雨が降って効果的だったのは鉄砲を撃てない、狼煙を揚げられまいこと。鉄砲を撃つことができたら本陣に敵が迫っていることが前衛の松井、井伊隊に伝わったでしょう。
@mitoman32
@mitoman32 10 күн бұрын
この動画シリーズすごい。過去の地形図とかと照らし合わせて徹底的だ。
@user-ti9lk4zf9q
@user-ti9lk4zf9q 11 күн бұрын
非常に惜しい。音割れさえなければ!
@user-nm8uw2kg4c
@user-nm8uw2kg4c 12 күн бұрын
時代が大きく動く合戦の長篠の戦いで、特に大きな一手になった酒井忠次の鳶ヶ巣山への奇襲攻撃が それまでは突拍子もない奇抜な作戦かと思っていたんですが 酒井忠次からしたら勝ち筋の見えた作戦だったかもしれないんですね とても面白かったです
@mitoman32
@mitoman32 13 күн бұрын
泣くまで待とうのイメージ強いけどめちゃくちゃアグレッシブ家康
@user-dq4oh6zv9b
@user-dq4oh6zv9b 13 күн бұрын
本当に無能であれば、優秀な人は去っていく。斉藤龍興のように。 それだけ有能な家臣が付き従ったということは、男気があり、決して無能だった訳ではないだろう。 この時代、武家で生まれたらどんなに生きづらかったか計り知れない。
@dataunited7796
@dataunited7796 13 күн бұрын
氏真って、最後まで生き延びたわけだよ。戦国の勝者は、家康と毛利と今川って事だ。
@kingg-wc4lt
@kingg-wc4lt 14 күн бұрын
動画のQualityが高すぎるね…
@岡晴夫-g9g
@岡晴夫-g9g 15 күн бұрын
自分も歴史が大好きだがここまで深堀した動画は初めてみました。配信者様の探求心の凄さに脱帽します。ますます歴史が好きになりこのチャンネルも早速登録します。
@kazumasuishikawa2733
@kazumasuishikawa2733 16 күн бұрын
BGMの合わせ方銀英伝っぽいな
@akiosakata-cl4pu
@akiosakata-cl4pu 16 күн бұрын
50年前までは将軍からしたら陪臣の家柄が 天下を取って将軍にとって代わるの本当にすごい 秀吉でかすんで見えるけど十分家康も成り上がったよなぁ
@user-uk8xc4cq2y
@user-uk8xc4cq2y 16 күн бұрын
桶狭間の勝利で弱くなった今川領には侵攻せずに、美濃攻めを判断した信長は凄いな。 俺なら浮かれて三河に攻めて武田と衝突してジ・エンドになる筈。 桶狭間の勝利から美濃獲りまで7年かけて、忍耐の人でもある。
@user-wj6pi8wr6q
@user-wj6pi8wr6q 17 күн бұрын
桶狭間のことがなければ徳川幕府もなかった。本能寺のことも含めて。たらればの歴史観ながら日本史どころかクレオパトラが当時の絶世の美女でなければとかの世界史にも通じて。
@user-ql8bs5wn4t
@user-ql8bs5wn4t 18 күн бұрын
つくづく豪運やったんやな家康😨
@user-lx5rz2ml5u
@user-lx5rz2ml5u 18 күн бұрын
家康の末裔となる人々も慎重に松平領から周りに武士たちと親戚関係とか巧みに大武士となって行くんですね。足利氏の後ろ立てで、出したり退いたり時を考え見ている武士ですご先祖さまの生き残るすべを身に着けてます
@user-nk6pv4hi7p
@user-nk6pv4hi7p 19 күн бұрын
戦国時代の愛知県の武将のオールスター感!!
@kuramotomami0029
@kuramotomami0029 20 күн бұрын
私が住んでいる場所は知立から沓掛城の中間地点にあり、私や親戚の住んでいる土地には丁度鎌倉街道がありました 親戚も私の家も鎌倉街道の上に家屋敷があるのです 南方の台地まで知立から真っ直ぐに西に向かい新田という辺りで北に折れて坂を下り深い谷を渡り川を渡り親戚の家から又上り坂となり私の家を通り緩やかな坂を上り境川を渡り沓掛城に入るのです その向こうには連なる山がありそこは大府市豊明市、その向こうは名古屋市緑区になります 名古屋市緑区には大高城があり小高い山となっていますその南方は星崎といい昔は海だったと言われています 桶狭間の現地は確かに南も北も山に視界を奪われて細い一本道です
@user-lp8nx2rz9p
@user-lp8nx2rz9p 21 күн бұрын
この情報はどこの資料にあるのですか?
@AboshiAbeshi
@AboshiAbeshi 21 күн бұрын
松平氏と戸田氏が伊勢氏の家来としてコンビ的に活躍したとすると、応仁の乱の時期に知多郡や渥美郡に侵入した戸田氏も、伊勢氏の意向で一色氏の所領をふんだくりに入ったということになるのかね?
@羽賀菓子
@羽賀菓子 22 күн бұрын
政宗は、あと20年早く生まれていれば秀吉や家康に対抗できたと。
@shimayam7207
@shimayam7207 22 күн бұрын
やっぱ佐久間信盛って使えんよなぁ
@nn-ur6td
@nn-ur6td 23 күн бұрын
日本はスケールがなぁ。
@watanabesumioh
@watanabesumioh 24 күн бұрын
これは妥当な見解ですね。説得力があります。
@hiroto291
@hiroto291 27 күн бұрын
すばらしいです。感動🥹
@user-ge3ny7sx1r
@user-ge3ny7sx1r 28 күн бұрын
元は一介の地方領主なんで仕えた主人筋が在るのは当然で在る 主人筋を倒し成り上がるのが戦国時代 美濃の斎藤道三も仕えた名門家主人土岐氏を倒して成り上がった 鎌倉の北条氏も名門中の名門源氏を倒して政権を奪った 元は鎌倉幕府の執権であった 執権→鎌倉将軍源氏の代理で政治を取り仕切る役職 下剋上の見本で成る
@user-cf6jz1nk4e
@user-cf6jz1nk4e 29 күн бұрын
こうしてみると現代の街の名前って大名の名字が元になったところが多いんだな。実際山形には天童市や最上市とかあるし。
@rscim2033
@rscim2033 Ай бұрын
桶狭間の後、すぐに同盟みたいなイメージだけど、 けっこうやりあってんだよな。 それでも同盟が続いたのはすごい。 特に徳川側には、信長包囲網時によく寝返らなかったよ。
@rscim2033
@rscim2033 Ай бұрын
家康、指示内容が異なっていたら討ち取られていたか手負いになっていた可能性もあるな。