Пікірлер
@110nari8
@110nari8 3 сағат бұрын
タケミナトネ神社はトネ呼称、つまり、宿祢などとおなじ敬称になっており、タケミナさん神社という事になります。最初に出来た長国と、後年に出来た阿波国に、諏方系の国司が赴任し、諏方化しました。この構図は松代の神社も同じで、唯一の玉依姫神社も同じく諏訪化して御柱が建てられています。 タケミナトネ神社はタケミナトミ神社に変えられ、延喜式の写本もいつの間にかトミになってしまいました。最古の写本の九条本にはトネと出ています。 同じく長国のヤホコ神社(自称ヤチホコ神社)も、諏方の御子神の八杵神社に変えられ、諏方化しています。 トネ神社の方は近くに諏方系の分社が出来、そっちの方が相当に流行ったらしく、その分社に対して元宮を名乗ったのが元諏訪の語源です。トネ神社は東の宮と呼ばれ、それに対応する西宮が現在でも阿波に存在するはずです。 これが自称諏方に分祀したとする年号が、諏訪大社が既にできているのに遅れた年号になっている理由です。 皮肉なことに、その分祀した時には阿波+長国は諏方化していたという事になるだけの話です。 お気の毒な事に地元の歴史を自分たちで上書きしているのが阿波説なのです。そもそもが長国エリアに忌部氏の神は一切存在しません。 出早の娘と村雲は実際には時期的には婚姻できません。あと、その出早(会津)の系図にきちんとタケミナさんが出てきますよ。 諏方界隈には蛇行剣は出ますが、銅鐸は出ません。松代の近くには銅鐸(畿内式)、銅戈(九州式と畿内式)が一緒に出た遺跡があります。 その銅鐸より新しい銅鐸が半数出るのが四国で、おそらく安部(ヌナガワワケ)と考えらえ、東海勢の勢力下にあった事が四国の隠された歴史であって、忌部氏は無関係な可能性が非常に高いです。 四国に影響した新しい銅鐸の勢力圏は和歌山と考えられ、古語拾遺にも忌部氏は和歌山から四国に入植したとあります。 四国は各豪族の植民地と考えられ、それゆえの加茂地籍や那賀川、吉野等の呼称に繋がっていると考えられます。 水銀も荻原墳墓は輸入の水銀になっており、採掘は四国由来以外の豪族の利権となっていたとしか判断できません。四国は後年に独立した忌部氏によって上書きされているエリアで、後発組であったので昔から歴史の改竄に余念のない地域だったのでしょう。 故に、記紀の改竄のされ方の説明の動画にも、書き込みに来るのだと思います。
@guitarradegato1799
@guitarradegato1799 10 сағат бұрын
五十猛=饒速日では?🤔
@どるふぃん-w9z
@どるふぃん-w9z 12 сағат бұрын
出雲王国直系の富氏に依る出雲口伝によると、徐福は最初に出雲王国に行き乗っ取りに失敗して二度目の遠征に物部氏達をつれて九州にやって来て物部王国を作りました。徐福はユダヤ人であり物部氏もユダヤ民族だったと言われています。その物部王国が大和に進出したのが神武東征となっています。
@akudaikan1127
@akudaikan1127 21 сағат бұрын
イイですねー。 古代史の中で、逆賊とはなっているものの、生き生きとした「抵抗っぷり」。 涙が出ます。 厚鹿文・迮鹿文・市乾鹿文(ふかや)・市鹿文(へかや)・取石鹿文。。。東北にも「鹿文」さん、いましたね。 「鹿文」とは、東北にまで拡がる王名。神名。 ロマンあるなぁー。 「かや」ってんだから、当然、伽耶の影響を受けている。 鬼神・天神信仰でしょう。 ところで、市乾鹿文(ふかや)さん。 埼玉の深谷と同音ですね。 埼玉といえば、兄多毛日さん。えっ? 大伴? また、「鹿」っていう字、「麁」っていう字に似てませーん。 また、「鹿」も「麁」も、「角」みたいな意味に。。。 更に、「荒」なんて、同音ですよね。荒田別。 丹波(たには)に、凡海麁鎌(おおあまあらかま)さんなんて、見つけちゃいました。 古代史の上で、九州資料は全滅させられちゃいましたので、残欠を紡いだ記紀・風土記頼みですが、神社も貴重な財産。 一大神世の國が、播磨であることが判明。 次は、丹波かなと思いまして。 この、凡海麁鎌さん、「あらかま」ですので、物部麁鹿火さんかなと。 凡海氏は、安曇氏。 場所的には、海部氏なんですけどね。 おまけに、麁鹿火さんと同一人物なら、物部氏ですが。 大体、「物部麁鹿火」さん自体を信用してないので。 「角」の意味では、都怒我阿羅斯等さん、俄然、出てきますねー。 倭王讃程度の時代じゃないと、都怒我阿羅斯等さん、整合性が欠けちゃいますね。 卑弥呼宗女・壹與と重複する時代でしょうかね。 以後、倭讃までの100数十年、混乱の時代ですから。 別の言い方をすれば、弁韓・辰韓の俗とは、「角」なのでしょうね。鬼神・天神信仰の表現として。 卑弥呼さん、大伽耶(金海加羅・金官加羅・狗邪韓国・任那)の出身みたいですね。 日本語、話せたのかな? だから、人に会わず、男の世話人とひっそりと暮らしていたのか。。。 よく、天皇家にもいますよね。「話せない人」。あれーっ。もしかして、お宅。あんにょん?
@akudaikan1127
@akudaikan1127 22 сағат бұрын
イイですねー。 熊襲と隼人って、南九州にいたかと思いますが、違う種族なのかな、と。 熊ってんだから、意味は「神」。 それをやっつけようってんだから、恐れ多い。 「くま」を韓国語でどんな漢字があるか調べました。 久万、久間、曲、熊、球磨、隅、阿、隈。。。 「阿」が「くま」とは! 「阿蘇」とは、「くまそ」。 襲は、難儀。「かさね」「しゅう」と読みますが。ほぼ、日本語。 かさねですと、「累」しか出てきません。 「しゅう」ですと、周、就、崇、星、柊、洲、秋、翔、萩、鷲とか。 「しゅう」は、記紀にとって銀座通りですね。「襲」に変えられる。 崇神、星川、天之冬衣、秋月、天之日鷲翔矢。 天之日鷲翔矢。阿波忌部氏の祖神。天之日襲襲矢になっちゃいますね。 天の日そそや、ですか。興味深い。 倭迹迹日百襲姫と似てるなー。 倭ー日ー迹迹ー百襲姫 天ー日ー鷲翔ー矢 「矢」だけじゃ寂しいですね。なんか付いてないのかね。 「そそ」って、しくじった、って意味ですよね。
@110nari8
@110nari8 Күн бұрын
記紀の内容の時期のずれがなくなるのはワカタケルの頃らしいですね。12動物とかが導入されて正確になったと。つまり、逆算すると春秋暦の範囲はワカタケルの頃まで。神武は前2世紀頃になろうかと。そうするとどこかの口伝に近いんですよね。
@110nari8
@110nari8 Күн бұрын
ふどきさんの考察面白いですね。 トヨウケが大年神になるのであれば、五十猛→大年彦→カゴヤマ。つまりスサノオですよね。日本書紀と古事記がツキヨミの役割が異なるのであれば、スサノオ=月となります。伊勢神宮にスサノオが居ることになり面白そうですね。 本来の出雲の初代大国主はスガノヤツミミ。須賀社の本殿には、月と太陽のシンボルが取り付けされています。出雲は日の神、火の神、アラハバキの信仰だけではなく、月の信仰も細々あった様です。
@110nari8
@110nari8 Күн бұрын
宇佐神宮は少なくとも崇神の系統の男系物部氏で、崇神を神武とする記紀服属の伝承を残しているといえましょう。それが応神が神武の・・の話だと思われます。
@110nari8
@110nari8 Күн бұрын
中央構造線を中心に那賀郡がおかれましたが、その両端に鹿島が存在ます。 九州朝倉とヤマトの地名の類似性も同じく何かを表していると思われます。 阿波説が大好きな人たちが好むアワウタも、その国は淡の国と名付けられました。現在では近江地方のことです。 大祓の中に本来の高天原が出ており、豊葦原の瑞穂の国の瑞穂は、単なる人麿が幼少期に住んでた石見の実家の近くの地籍名だったそうです。
@110nari8
@110nari8 Күн бұрын
記紀が同じことを繰り返し書いているのであれば、「ヤマトは我々が治めるべき」と考えたのは山幸彦=物部氏の考えだったかもしれませんね。 よく考えたらアマテラスは本当に女性の神であったのかどうか、本当の処は記紀が作られた段階では確定してない気さえする。
@akudaikan1127
@akudaikan1127 Күн бұрын
イイですねー。 蘇那曷叱知さん。 当然、韓国読みですよね。 で、ない頭を使いまして、韓国語=日本語の翻訳ソフトを使ってみたんですよ。 すると。。。 蘇那=「金」と出ました。あるある、あーあーです。 残るは、曷叱知。 伊叱夫礼智干岐さんなんてのもいるので、「叱知」「夫礼」「干岐」は、官名かと思いますので、「曷」が名前かと。 よって、蘇那曷叱知さんとは、金曷さん、もっといえば、中国系の金さん、かと。2文字ですので。 「出雲振根」さんも、この「夫礼」なのでは。 都怒我阿羅斯等さん、敦賀市界隈の日本語読みなのでしょうね。 帰ったことになっていますが、天日矛さんと同体なのでしょうね。 于斯岐阿利叱智干岐さんについて、バラしてみました。 于斯は、韓国語で、「〜さん」のような敬称。 岐阿利が、キモの部分。磯阿里さんとかの漢字が充てれます。 都怒我阿羅斯等さん、日本で言うところの「磯」姓にも取れます。 あとの「叱智」「干岐」は、官名かと。 特に、チンギスハーンとかあるじゃないですか。「干」はハーン。「干岐」ならば、それの分岐だから「皇子」が当たりますね。 ついでに、意富加羅國とかあるじゃないですか。 意冨は、「意識」みたいな漢字になるようです。 すると、ゐ=しき➡ゐ=磯城・志貴みたいになって、倭の磯城県主みたいになって、面白いですね。︎
@110nari8
@110nari8 2 күн бұрын
製鉄は出来なかったにしても、鍛冶は出来ましたから、九州の青銅器は鏡と剣に鋳なおされたのだと思います。 オウ氏の居た伊予の国は、九州勢と居力してヤマトを攻めたように思えます。あそこからは殆ど銅鐸が出ません。
@110nari8
@110nari8 2 күн бұрын
不気味なのは、青銅器の普及ではなく、銅鐸の捨てられ方。たしか、銅鐸は古墳からは出ないんでしたっけ? つまり、我々が思うより素早いスピードで銅鐸の最後はほぼ全国同時に放棄されたような気がしてならないのです。
@110nari8
@110nari8 2 күн бұрын
出雲の国引きエリアより、大彦の関連の版図の方が大きい気がしますが、気のせいでしょうか?安東氏は青森まで。安閉臣は九州まで。 四道将軍が負けちゃった側の版図であれば、残ったのは筑紫と倭のみという事になると思います。
@110nari8
@110nari8 2 күн бұрын
諸系譜・・・これもしかしたら千家か北島家の物ですかね。 因果応報、自分のしたことが自分に返ってくる、で。千家は国造になりたいがために富家を自分の家の系図に組み込んでしまいました。それが能見宿祢です。 今でも出雲大社では上官家屋敷跡近くの位置で粗略に扱われています。上官家屋敷跡の看板には郷戸家も富家出てきません。要は乗っ取りですから。 二世紀以降関東国造家も、この形式を逆に利用される形になり。ホヒやタケヒナドリを関東国造家は取り入れ、主に物部勢力からの圧迫をかわそうとしたとの事です。 つまり、「千家シールドですね。」 吉田大洋、竜神よ我に来たれ、では、千家が矢面に立たざるを得なくなったこと、藤原氏に自分の先祖ツハヤムスビを差し出したことにより、系図のごまかしが必要になったそうです。 圧力をかわすために、この千家は系図の面でも苦心しており、天のホヒの命―天のヒナドリの命―イセツ彦を祖として、出雲国造家と同族のように見せかけたそうです。 この系図が引用され、島根県の例の大伴大滝が出てくる系図になったんじゃないですかね。 四国起源説はこの系図を利用して、千家は忌部氏の人間だ、出雲風土記は四国で作られ、出雲は四国にあったと言っています。 明治時代に千家は国に借用を申し出ています。千家は法務大臣を出した家なので、もしかしたら昔から使ってる系図を提出したのかもしれません。
@110nari8
@110nari8 2 күн бұрын
縄文時代の人口比率で行くと、本当に出雲と四国は人口がほとんどいなかったんですよね。 阿波説って、出雲ですらそうでないのに、どうやったら四国から我が国の歴史が始まるって言えるのか、本当に不思議でなりませんよね。 国引き神話の「意宇」と、ふどきさんでよく出される「意富」って本当は意味が違うのかな?って思ったりしています。 美穂関の神主さんは、港の使用料、つまり徴税の代官さんの家系で、その時から富家から神社の運営も任されたのだそうです。 山持遺跡(出雲口伝には出てきません)は交易を示す重要な遺跡で、確か壊れてない楽浪土器が出てたんじゃなかったでしたっけ? 能登とのつながりはもしかしたら小松式土器じゃないかと最近考えています。大彦との関係、臣の古墳とも言われる前方後方墳が出雲にあるのは能登方面との関係ではないかと思います。(古い前方後方墳は松本の弘法山とかになりますが)
@110nari8
@110nari8 3 күн бұрын
鋼と錬鉄は区別したほうが良いかもですね。昔は錬鉄が最終製品でした。 更には湖沼鉄を使えば弥生時期でも製鉄は可能であったとされています。また、諏訪大社下社のあたりの石には、磁鉄鉱が含まれるようです。 ベンガラ(800度)は昔から身近にあったはずですし、低温での溶出が可能で、鍛接可能な鉄であることは確認されています。 登り窯程度の仕組みでも鉄が生まれ、現在では3世紀の物と思われるような製鉄遺跡は結構あったはずです。 昔の鉄は直ぐにすり減ってしまうような品位の物ですが。黒曜石と違って矢じりの戦端に使うようなレベルであれば現地生産できるので結構やられてたみたいですね。 昔のたたらと我々が認識するたたらは違うのかもしれませんね。 中国の鋳物の技術の上に炭素量を自在に操れた可鍛鋳鉄と、朝鮮半島の磁鉄鉱を使った実用レベルの鉄製品は邪馬台国時代に急激に北部九州に輸入された様ですが、湖沼鉄は北部九州以外の氏族が持っていた技術で、九州においては阿多族が。あとは瀬戸内海から血の海と呼ばれた大阪辺りまではその技術はあったらしい。 故に、北九州は製鉄の技術が無かったエリアであった様で、それゆえの輸入だったのかもしれませんね。あまった鉄を転売しながら自分らの武器を作っていたのかもしれません。 青銅器の温度は1065度ですので、効率は非常に悪いですが、800度以上の焚火程度でも出来る湖沼鉄での製鉄はさらに容易であったはずです。 褐鉄鋼になるとさらに低い300~600度だそうです 六世紀に始まった国産製鉄(タタラ製鉄)は、七世紀の白村江の戦いで朝鮮半島の鉄利権を失って以降の急速な自給自足体制にすぎません。 この頃、各豪族の半島出身の豪族関係者が多量に里帰り帰国し、帰化人説が生まれることになったと思われます。 武内宿祢の系統である蘇我氏は半島説がありますよね。昔の氏素性、臣、連制度などを思うと、里帰り組を引けば、我が国の帰化人は思ったよりかなり少ないと思われます。 蘇我氏は確か、昔氏(せきし)と半島で呼ばれていたんじゃなかったかと記憶しています。
@110nari8
@110nari8 3 күн бұрын
古語拾遺のお話はタテミナカタやイソラと同じで記紀にぶら下がった後付けの設定に過ぎない訳で、どうしても内容はモリモリにしますよね。 土器は恐らく讃岐系で、四国の中でもごく一部の物じゃないですかね。土佐の方は倭国大乱期に打ち捨てられてそのままの大規模遺跡ならありますが、直接の徳島からの影響は独自性を感じさせるものは無いはずです。 出雲と安部の投影が忌部だからだと考えられます。
@からさん
@からさん 3 күн бұрын
流石、ふどきさん。 点と点が繋がって線になって来たように見えます。 ちなみに、とみとみと言われている氏族は、いずれ中臣氏に繋がっていくのでしょうか。夢が膨らみます。
@yasigoya740
@yasigoya740 3 күн бұрын
神武東征は古事記日本書紀でどうしてもあったことにしなければならない出来事,これがないとなぜ大和に天皇がいた❓の説明ができないからね😅安麻呂さんは過去の記憶から高句麗王大武神が漢の光武帝に敗れ、列島に渡り北九州の早良国を滅ぼして奴国王となり光武帝の薨去に合わせて朝貢して金印を得ている,神武の原型でしょう。大武神→神武😂
@guitarradegato1799
@guitarradegato1799 3 күн бұрын
「鬼」とされた海賊は出雲兵団の残党だったりして😅
@他力本願-s3g
@他力本願-s3g 3 күн бұрын
いつも「難しいなぁw」と思いながら鑑賞させていただいてます!正直富氏やおう氏の事は良く知りませんwwただあくまでも直感なんですが、饒速日命の設定 大国主とかぶってないすか?ナガスネヒコも大国主の息子で諏訪湖まで逃げた人になんとなくかぶっているように感じました、あくまでもパッと思いついただけなのでwただ大国主の命って三輪山に祀られてるよね!単なる直感ですwww
@110nari8
@110nari8 4 күн бұрын
村雲と物部氏の同族氏そのものが海幸彦、山幸彦ですよね
@110nari8
@110nari8 4 күн бұрын
記紀の設定で同一人物が二つの名を持ったり(ナガスネヒコと大彦)二人の人物が同一人物になったり(ヤマトトビモモソヒメ)する記紀ですが、海部と同格の分家である紀伊家は素戔嗚・五十猛(海部家で言えばカゴヤマ)を奉斎し、海部や尾張とは別の政祀一致の機構を作ったようですね。 武内宿祢の子孫は九州において水軍を率いたようですので、九州に居なかった五十猛を持ち込んだのは紀伊家勢力ではないでしょうか?
@110nari8
@110nari8 4 күн бұрын
攻め込んだ側と攻め込まれた側が逆転する為に敵味方を陣営に一緒にしているのが記紀。 その典型例が珍彦で、名草や・その地に残った五瀬の子孫側の伝承では、九州勢(神武)の敵は珍彦であったと伝わっています。 架空化された神武ですが、和歌山の方では二度あった東征のうち、磐余彦を神武として扱ってるようです。 確か出雲口伝の先代も同じく、磐余彦を神武として話をしていたはずです。 崇神を神武とする伝承を持ってるのが宇佐八幡です。故に、豊彦を神武の息子として伝えています。 架空化されているがゆえに、全てが真実で、全てが嘘ともいえる構図になっています。 村雲を神武とするのが現在の出雲口伝で、籠神社はその一部、ホアカリと饒速日が同一人物である。また国宝系図でムラクモが神武であるという事をほのめかしていますね。
@110nari8
@110nari8 4 күн бұрын
まあ、穂屋姫はホホデミの妹ですから、大和側海部尾張は九州勢が親戚であることは知っていたと思います。 考えてみたら九州勢は何をしにヤマトに行ったんでしょうなw。
@110nari8
@110nari8 4 күн бұрын
イソラは諏方の伝承と同じで、後年に記紀にぶら下がる形で架空の後付けの話を奉斎氏族が作ったとしか思えません。 諏訪の神は、ミナカタと戦ったのか、物部守屋と戦ったのか・・・。明らかに諏方の祭祀はミナカタに上書きされています。 出雲では物部が神魂神社で出雲の神を祀っています。奈良の村屋神社では物部氏が出雲のみほつ姫を祀っています。じゃあ、諏方においては物部氏がミナカタを・・と妄想が。 イソラは神功皇后の時代の人間ですが、この偽装が服属儀礼に繋がるのであれば、だれが身を守るためやったのかw 磐井の乱の後の息子が家名を偽装したとかならあり得なくもない気がします。 志賀島の隣は相島で、昔は閉倍臣の領域でした。大彦の系譜は琵琶湖を中心に北陸(膳出、道君、高橋)長野(布施)、東海ヌナガワワケ安部、関東から福島で合流。果ては青森の安東氏。畿内は岡山の布施神社、四国の布施神社。つまり全国に浸透しています。 九州宮地嶽古墳の社家も実はアベ。 つまり磐井の子孫は渡来系を偽装してイソラを作り、イソラ舞などで服属儀礼を作った・・・・知らんけどw(関西風) 安曇は古い段階での海部や尾張の分家らしく、同じく男系尾張の大彦は安曇を名乗れるわけです。
@どうく-p8u
@どうく-p8u 4 күн бұрын
神武東征はなかったと言っていますが、実際は神武東征とは3世紀の北九州邪馬台国の崇神天皇の畿内東征と4世紀の南九州狗奴国の武内宿禰の応神東征の事だと思われます。登美のナガスネ彦の話は3世紀の崇神東征の時の事であり、ナガスネ彦は崇神天皇に追い払われ登美氏は関東に移ったと思われます。だから登美氏は渡来系ではなく3世紀頃まで畿内を治めていた出雲系氏族ではないでしょうか。
@110nari8
@110nari8 4 күн бұрын
ウサツ姫に関しては宇佐八幡の伝承は入れなかったのですね。ウサツ姫が卑弥呼じゃね?みたいな伝承になっていたと思います。
@うめだ-w2g
@うめだ-w2g 4 күн бұрын
仏教から記紀を見ていると、通説に矛盾がありわけわからん状態でした。ふどきさんの考察はとても分かりやすくて助かっております。
@110nari8
@110nari8 4 күн бұрын
ミャオ族、出ましたね。鳥居と高床式倉庫の一族です。彼らが日本から噴火を避けて一度大陸に行き、そこで稲作を始めたという説があり、稲作は日本発ではないかと言う面白いうわさがあります。 言語体系も最近ではアルタイではなくオーストロネシアではないかという事が言われ始めています。
@110nari8
@110nari8 4 күн бұрын
スサノオの二度の来日は、出雲口伝でしか説明がないのが痛いところですね。一応徐福の投影という架空化された新造の神なので、徐福と同じく二度の来日の事が書かれたという事の様です。 つまり、スサノオは出雲の舅という事が最大の目的と言うか演出であって、間違っても大陸出身とは大陸に出す歴史書としては書けない訳です。 朝鮮を行き来し、出雲の女系の先祖です、男系の系譜は渡来人ではありませんと言うのが記紀の目的ではないでしょうかね。
@110nari8
@110nari8 4 күн бұрын
大年神は面白くて、元々大屋姫の系統の宗教で、五十猛は大屋姫の関係で、丹後に行ってカゴヤマを名乗る前に出雲では大年彦を名乗った時期があるそうです。 まあ、これは出雲口伝になってしまいますが。 つまりスサノオは息子の嫁さんを切ったという話になってる訳ですね。 カミムスビはそのまま出雲の大神を表すそうで、現在では物部氏の秋上氏が宮司をやっています。
@110nari8
@110nari8 4 күн бұрын
忌部氏は独立するまでば別の氏族名だったはずで、金鵄であるならばやっぱり出雲系の分家なんでしょうな。それが物部氏の視点から書かれているという点は大きい。 富家に関しては島根県の教育委員会でも編纂された富家文書という本もありますから、一応オフィシャルな存在かと思います。
@nihontaro9
@nihontaro9 4 күн бұрын
都市伝説大好き系人間ですw。③兄多毛比さんは、穂日親子の子孫なのですね。貴重な系図ですね。 情報ありがとうございます。5世紀以降の出雲臣氏は系図の様に、始祖天穂日から始まっている事が わかります。もし東国各地の国造家が出雲に入植し、意富氏系に改名した。ということなら、 パッとしない滅ぼされた後の出雲に何で?ということになりますが、恐らくその逆で、 それまでは各地の豪族がヤマト王権から国造家として認められ、地方を納めていましたが、 奈良時代になると、中央政府から各地に国司が派遣され、首長となる制度に変わったため、 未開拓とされた東国日高見国蝦夷に出雲臣家が国司として派遣されたことが見てとれると思います。 例え滅んだとは言っても、まだまだ出雲には王家に代わる有力な出雲臣の氏族が居たのでしょう。 出雲にも初めて国司として忌部小人が派遣され、国造家物部氏果安は出雲大領として 別格扱いとされたのは良いのですが、次回国司として指名されない場合には失業の可能性が出たため、 出雲東西二王家富家と郷戸家(神門臣家)に借金を申し出て、杵築大社現出雲大社を建て、 旧王家との共同運営により明治時代まで国造家として神社経営を行った様です。 旧武蔵国国造家兄多毛比ア(オ)タモヒさんは、見沼に武蔵国一之宮と呼ばれる大宮氷川神社を建て直し 始祖穂日さん親子が信仰した素戔嗚命を祭ったお方で、アラハバキと少名彦命が門客人神社と されたのも、天(海)村雲と菅原道真を祭る天神社が鳥居の外の境外社とされたのも、この頃だと思います。 まあ普通であれば、先代の神は封されて跡形もなく消されることも多いでしょうけど その名を残したのも日本人の奥の深い凄いところだと思います。 新撰姓氏録の登美首の記述も面白いですね。登美とは出雲から富家の半数を連れて天日方奇日方が 大和に移住した以降に名乗ったと思われるため、そこに元々の出雲の富家や西の郷戸家全体も 含まれるのかは、人それぞれの想像になると思います。
@ななこ白猫
@ななこ白猫 5 күн бұрын
私は、北関東出身なんですが、饒速日命をまつっている稲村神社があるんですが、ここは正面から饒速日を祀って、隠してません。 奈良か、どこか忘れたけど実は本当は、饒速日を祀っているんだと、密かに言い伝えがある神社があったはずです。 やっぱり饒速日は、東国出身なのかな?と感じるのですが。 神武天皇の前の神様なので、いつの時代かはわかりませんが。
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
三回繰り返される時代に出てくる人物は、だいたい共通して役職化されていると思います。神武、ヒボコ、ナガスネヒコ、ニギハヤヒ(ホアカリ)はヤマトに居た時代によって、2~3つの役割があると思います。 しかし、10世紀の人口マップ面白いですね。阿波起源説の人が涙目で反論してきそうw 日向は多臣(意富)が居た北部九州を除けば唯一西都原で三角縁神獣鏡が出ていたと記憶しています。九州では吉野ヶ里で銅鐸と鋳型が出ましたので、矢幅や別の青銅器に鋳なおされてしまった事により見えなくなってしまってるんじゃないかと推測します。物部(海幸彦・物部)はヤマトで大王家(海幸彦・海部)と一緒に銅鐸祭祀をしていたはずなので。 サノ神社の社殿は本当に面白いですね。磐余彦は倭国大乱期に奈良に向かいましたが、第五代の欠史の時代の天皇が祀ったと。これは時代が逆転していますよね。何かの意味が強いと感じますね。 武内文書では孝がつく時代が倭国大乱期とありますので、出雲口伝とちょっと時代解釈がずれています。しかし、四代のスキトモからの情報が多いのが武内文書で、たしかスキトモかその次は一度ヤマトから九州に政権が移ったとありますので、政権交代は実現しなかったが、東征があった事を匂わせます。 万世一系を利用するのであれば、九州勢が大和に攻め込めば、解釈の都合で政権が九州に移った事にもできますので。
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
確か、神功皇后は明治期までは天皇として扱われていたんじゃなかったでしたっけ。大陸に提出する日本書紀に出ているという事は、彼女に関する情報が大陸、若しくは朝鮮の何かに出ていると記紀編纂者が判断したから、魏書を引用してまで書いたんじゃないかと私は思います。
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
ヒボコとスサノオの同一視は、ヒボコ族が須佐族に食い込んで習合したからだと思います。更に後年の牛頭信仰が大陸の辰韓(秦国)と朝鮮の混同が進んだ要因になり、神道の変遷にもつながったと思われます。ヒボコは役職化され、景初の時代のタジマノモリまで架空化されていると思います。 播磨国風土記に神代に出てくるのであれば、村雲の王朝と時代が重なるので、正直ヒボコも神武と同じで居ない方が説明が楽になる側面もあると思いますw 継体天皇はどちらかと言えば仏教を好んだ天皇で、実家の蘇我家は武内宿祢の頃から仏教の呉の国と通じていた関係で神道の分類からすると異端ではないでしょうか?
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
息石耳は役職化されたヒボコ族の象徴的に書かれた架空の人物と私は思っています。紀元後100年代にヒボコは渡来したんじゃないでしょうかね。記紀が書かれた年代を考えると、息長家にも配慮しないと書きづらかった気はします。
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
籠神社は先代旧事本紀と一緒で、ホアカリと饒速日を同一人物視しており、村雲の系譜を伝えていますので、設定上神武が村雲にならざるを得ないと思われます。不思議と出雲口伝のような展開に近いところが解釈の切り口にならざるを得ない処がどうしてもできちゃうんですよね。 しかし、これで加害者と被害者の設定が出来たわけで、神武が大和入りした際の長脛彦の政権の説明になります。誓約での同族を示す古事にもつながりますね。私は架空化された神武が風土記さんのおっしゃる通り同じ出来事が書かれている回数分、複数いる事と、皇族の系譜だけそのままの順番で書かれている事から上手く偽装されているのが記紀だという考えを持っています。
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
クニオシヒトが倭国スイショウと言う考えは、出雲口伝以外では一応、大正時代に流行った学説しか根拠がないんですよね。 ただし、淡海は物部関係者であり、遊びで分かりやすい諡号を付けた可能性は高いように思えます。 ただし、この設定を採用する場合、完全に卑弥呼は2人必要になってくると考えられるのと、神武の時代が紀元前ちょっと前から程度になると思われます。紀元前7世紀はいくら何でも間延びしすぎですよね。春秋暦で言ったら倍換算しても長大=35歳以上でも足りない。倭国大乱を収めた卑弥呼と景初の卑弥呼は別人。トヨと同じころに卑弥呼になったとしてもどうやっても計算が合わない
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
武内文書にある様に、三回繰り返される出来事は、時間の嘘、空間の嘘などがあると書かれていますが、神武の前に出雲の時代が来なければならないので、もう一段階、前に出雲を持ってこなければならないと考えられます。欠落史八代が生まれるのは、崇神が乗っ取った大王だからではありませんかね。神武は少なくとも二人居るという事にならなければどうしても認識が循環し、それでも結論が出なくなるような気がする
@kyomankyoso3175
@kyomankyoso3175 5 күн бұрын
さすが!ふどきさん! 出雲王国 神門臣、富、向 の謎が見えてきた!おもろい!
@松の葉-q2x
@松の葉-q2x 5 күн бұрын
楽しい古代史妄想を有り難うございます。 記紀は面白い程に事実関係も時代設定も自由自在でマトモな神経で読み進めても何が何だかさっぱりの日本正史ですよね。 ふどきさんの東国の深掘りはとても興味深く、 本拠地不明、 転居先不明、 消息不明になった古代氏族を追い続けるこの動画から目が離せません。 日本史は現存の皇室への配慮先行で、戦後何十年経ってもヤマト王権の成立も明らかにならないままです。 でも歴史学者、考古学者達の怠慢のおかげでこんなに楽しい古代史解釈に出会える!!
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
会津は面白くて一番古い古墳時代の物は、確か纏向型のバチ型前方後円墳なんです。たしか箸墓とは20年から30年くらいしか違いがなく、設計の様式急速に波及しています。 会津は前方後方墳より、バチ型の前方後円墳の方が古いんです。
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
大伴氏は、島根県教育委員会の作った出雲臣系図にも出てきます。大伴大滝。実は元々神門臣家の人物で正確には神門臣大滝。 これが関東では海部化(解釈によっては物部化、もしくは意富化)します。 これが千葉の安房神社の旧社家になっており、千波宿祢が忌部氏系図に出てきます。 さて、四国阿波と、千葉の安房ですが、ホントにどっちがどっちなんでしょうねw 阿波国は長国の後に作られており、銅鐸は東海系の安部系の物が半分。そして阿府志には、かつて長国エリアには阿閉一族が居たという一文。 古語拾遺においては和歌山から四国に入植したとあります。 忌部氏は後年の独立でお家の系譜の改めの際に上手く立ち回って玉作の利権の一部を乗っ取ったと考えられますが、その力の源泉は日本海から関東への玉作りの道と、出雲と海部(大彦)の血筋の力関係のよるものではと思えてきますね。 豊彦が毛野部(もののべ)となったように、忌部氏も昔の名前は違ってたはずですよね。 この考え方であれば、忌部氏は四国の畿内式の青銅器の出土と無関係に説明できます。 一体、四国阿波説って何が根拠でそんなものが流れ始めたのか・・
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
秩父国造家も後年に物部化していると考えられ、まあヤマトタケル伝承の地域には何らかの物部の手が入っていると考えられます。 神奈備とされる武甲山の社家は守屋家。実は、諏方の神長官系の分家の様です。 重要なのは、神長菅家の分家が物部姓を名乗っているという事です。 これは他にもケースがあり、五官の次席の太夫ですが、小出家の断絶の後は、神長官家の所轄になりますが、その分家がおもっくそ物部姓を名乗っていて、江戸中期まで物部姓は諏訪で再興された状態になっています。 更に兄の系図である奈良の田原本町の村屋神社の宮司家も守屋家。 洩矢と守矢、守屋は実は区別が無いのではないかと思っています 更に決定的なのは杖突峠の物部守屋神社。2004年までは現在の神社額は隠され、村社片倉守屋社でしたが、その先祖である片倉部命は、何と物部氏です。 ミナカタの子供ではない訳です。つまり、神長官系図は物部氏の系図であって、ミシャクジの方が諏方の母系を表している可能性があります。 養子入りした系図をクローズアップして1本の系図にしたのが現在の神長官家の系図と思われ、諏訪神社は以前の謎の神様からミナカタに上書きされていると考えられます。 更に、物部氏はミナカタの子孫を偽装して家名を守ってきたと考えられます。
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
おおおおお、毛野部=物部。確かに凄いですね、コレw 確かに部民姓は、後年の物ですが、弩の口伝や歴史書も、遡ってナニ家の事を書くわけで、本当の発生時期なんて分からないですもんね。 海部は物部の親戚同士という事もアリ、神武の子供の八井耳が意富(多臣氏)を名乗ってる訳ですから、母系と父系の系図を利用すれば、海部、尾張、大彦系、ヌナガワ別系もいつでも物部氏のフリが出来るわけですもんね。 籠神社は、一時的に物部の神である彦ホホデミを取り入れて祀っていた時期がある筈です。 しかし、隠されてはいますが、本来は出雲の大神が祀られています。 下手をすると、四国の忌部は、千葉(千波宿祢)の忌部より後に四国入りしている可能性すら出てきます。千葉の忌部は元々は膳出が出て来ており、忌部氏が全く古い系図には出てこないんですよね。 忌部氏の正体はオウ氏の可能性があります。
@110nari8
@110nari8 5 күн бұрын
四道将軍の地図は面白くて、当初は東山道が未線引き地域になっています。 要点は、九州。四国。出雲。そして東山道。が未線引き地域。 四道将軍は負けちゃったはずの氏族が逃げ込んだ地域で、少なくとも吉備津彦のそれは8年もの戦闘になったはずなので、間違いないはずな訳です。 後年に東山道は、上毛野の管轄になります。 やられちゃった石上に近い物部氏は2世紀以降、倭人伝までの間に北陸から長野へ。故に、封土としての神戸が、不思議な事に石上のそれが50戸もある状態になっています。 それらの地域を軸に、物部氏の牧が発展していった下地になったと考えられます。もしかしたらですが、御射山信仰は物部氏が偽装している可能性があります。 会津と、松代の会津(会津姫)のエリアですが、銅鐸や銅戈以外は、前方後円墳、前方後方墳が300年代から400年代に渡って並立するという展開を見せております。 古墳の作られ方に共通性があるという事は、物部氏の支配が我々が思う以上に迅速に進んだという事ではないでしょうか。 前方後方墳は、出雲の親族を表す臣姓の古墳であるという説がありますが、正に大彦+物部のイメージに落とし込める気がしますね。 そういや、記紀って色々読むと、四国は全くかすりもしてないですよね。四国阿波説っていったい何なんだろうwww