Пікірлер
@某子
@某子 14 сағат бұрын
世界最終戦争論でアメリカとは最終決戦で決着つけるって国力の違いを認識してた賢者 しかし武藤などの俗物軍人が石原のマネをして戦線拡大して泥沼に嵌った。凡人が 天才のマネをしてはいけない典型例。戦後の裁判でも戦勝国を圧倒した。しかし頭が 良過ぎて嫌われてる。特に東條に
@anewreturner1
@anewreturner1 15 сағат бұрын
ステッキガールとはうまい名前を付けたものです。パンパンという名称も興味深い。諸説あるようだけどどれが正しいのか今になっては分かりかねますね。
@kesemoi100
@kesemoi100 16 сағат бұрын
傷を負わせてバンドエイドを差し出す。
@kkk6924
@kkk6924 16 сағат бұрын
昔古本屋で戦前だかの文庫本見つけて買ったけど読めなかった
@松本悠佐
@松本悠佐 19 сағат бұрын
叔母の友達の家には缶詰がたくさんあり食べ物には困らなかったようです。 友達のお母さんは旦那さんが戦死しアメリカ人と付き合っていたようです。ただ近所ではパンパンと言われ大変だったようです。ただ祖父母や叔母はそんな話は気にせずお互い亡くなる迄友達でした。
@MrDogpapa
@MrDogpapa 23 сағат бұрын
この様式が残っているのは神奈川県内の基地に接続する基地内の居住施設ぐらいですかね、
@モコタウタコ
@モコタウタコ Күн бұрын
「日本の民家」という戦後すぐの日本のいろんな地域の民家を紹介する当時の映像があるけど、今では発展している地域でも割と電気すら通ってない場所が多い。
@kanam8624
@kanam8624 Күн бұрын
SKイヤでインハラベイビーさせてドロン!
@キングクラウン
@キングクラウン Күн бұрын
質素って言うのかと思ったらその通りだった
@松本悠佐
@松本悠佐 Күн бұрын
やってはならない…してはならない… 捕虜だから… 医学の発展があるのだから… 自分はそれを行う優秀な医学者なのだから…がこの垣根を越えさせる。
@Nakkan1220
@Nakkan1220 Күн бұрын
一長一短あるけど、日本人の強さを研究して、日本の食の破壊をしたのはアメリカであることは違いない。 昭和20年までは、病気が少なかったようだ。 それまで5分搗き3分搗きを食べてた日本人を研究して、日本人をヅタヅタにしたという事実はあるので、今こそ白い悪魔シリーズの砂糖、牛乳、小麦粉、精製塩、白米などはやめて食事を正していくことが大事かと思う。 日本人には牛乳や小麦粉を分解するのが苦手なので、腸内で炎症が広がって、花粉症や精神など落ち込むことが多いと思われる。
@ひむろいけうち
@ひむろいけうち Күн бұрын
肉類は缶詰か冷凍を運んできたんだろうな。......なんでアメリカってここまで物資豊富なんだろうなw農業大国+国土の割に人口少ないってのはあるのかwレンドリースとか見ると連合軍なんてアメリカにおんぶにだっこ状態。
@宮城和也-q6o
@宮城和也-q6o Күн бұрын
うちの父親、サンフランシスコ講和条約までチョコレートもチューインガムも食べなかった。 鬼畜の施しが受けられるかって。 当時は国民学校5年生から中学生。
@tsuyoshiyanagi7919
@tsuyoshiyanagi7919 Күн бұрын
人それぞれだと思いますが、袋メンや袋焼きそばは、自分が作ったことも思い出しますが、土曜の午後に母親に作ってもらったことや夜食に作ってもらったことなども懐かしいです。
@tsuyoshiyanagi7919
@tsuyoshiyanagi7919 Күн бұрын
昭和40年代というのは、大メーカーの袋メンも普通に食べられてましたが、それぞれの地方の町・市の小メーカーも独自に作って売っていた事も忘れられない。それらはもともとうどんやソバのメーカーがラーメン人気にあやかって、自前のラーメンを売り出したというものです。これらは昭和50年くらいまでには淘汰されたようです。
@toyokosss5140
@toyokosss5140 Күн бұрын
イルカの攻撃 侵略
@bernigunther5804
@bernigunther5804 Күн бұрын
ナポリタンは今も健在の横浜の洋食レストラン、センターグリルが発祥で間違いありません。戦前の同名の物は全く異なっています。当時、米軍病院でナースだった叔母によれば、夜食にはサミッチ。とくにBLTやターキーが多かったとの事でした。あとはハーシーの板チョコ、ミルキーウェイのチョコバー。クリームシチューも米軍物資で生まれた食べ物だった様な....貧しい日本で明るいラジオ放送、ダンスパーティー等も頻繁に開かれ、復興が早かった横浜だった事もあり大変楽しかったと聞きました。
@unithouse1
@unithouse1 Күн бұрын
前任(近衛文麿)に開戦責任を取らせないための人身御供だもんな
@ヨシヨシ-k5o
@ヨシヨシ-k5o Күн бұрын
1976年生まれの私。 そういえば、幼稚園位の頃(ギリギリ記憶のある頃)夏以外は髪の毛は2日に1回で洗髪しない日は よく絞ったタオルでワシワシ拭かれていた記憶がある。
@km7345
@km7345 Күн бұрын
小麦の消化酵素も持たず、米を食べてきた日本人に、自国で売れないレベルの小麦や脱脂粉乳を推奨し、GHQが行なった愚策が現代にも影響している事がよく分かる動画
@guillotinethegreat
@guillotinethegreat Күн бұрын
あの薬害エイズ事件の被告だった薬害企業 ミドリ十字社の創設者、国立予防衛生研の初代二代目三代目歴代所長たち、昭和基地南極観測越冬隊の幹部連…皆全部七三一部隊崩れ。 さらにコロ助の蔓延初期の日本で、“国策”としてPCR検査が異常に抑制・敵視・中傷されたのは記憶にあるかと。 アベ壺ウラ金脱税自民政権一味のみならず、ネットキモウヨまで総動員された誹謗・捏造・欺瞞が蔓延した。 これは、検査数が激増したら既得権益の利権を失う「感染症ムラ」の権益護持のための“国策”だった。 この利権ムラの中核こそ、上記の国立予防衛生研が母体の国立感染症研究所、そして厚労省、東大医科研、国立国際医療研究センター。予防衛生研→感染症研も、東大医科研も、軍部とズブズブベッタリだった汚がれた出自が、未だに根深く残っている。 七三一とは戦中戦後のみならず、たった今ここに直結する日本の医学界の闇そのものなのだ。
@0_0i13
@0_0i13 2 күн бұрын
Начало:куда я попал? Конец:ТЕННО ХЕЙКА БАНЗАЙ!
@ロドリゲスエルザリア
@ロドリゲスエルザリア 2 күн бұрын
教科書では教えてくれない知識をありがとうございます
@kmftrf
@kmftrf 2 күн бұрын
ユーミンの歌で 調布基地を追い越し には、すごい意味が込められて いたのですね (ユーミン自身は深く考えていなかったかもしれませんが)
@yagamon0121
@yagamon0121 2 күн бұрын
現代の小説などに出てくるお嬢様が「わたくし、〇〇でしてよ」のような喋り方をするかど、その話し方は生まれた当時は今で言うギャル語のような崩れた言葉遣いで大人には眉を顰められていたらしい
@ネロ帝-g3u
@ネロ帝-g3u 2 күн бұрын
あまり知られてないが新撰組隊士の池田七三郎は昭和まで生きていました 意外と大昔というわけではないですね
@mizamiyzk7504
@mizamiyzk7504 2 күн бұрын
三井鉱山 、炭鉱で働いていた方は、炭鉱長屋があって、高熱費無料、労災もしっかりしていたと。
@RinoK-cj5qt
@RinoK-cj5qt 2 күн бұрын
サムネどこですか
@anewreturner1
@anewreturner1 2 күн бұрын
HERSHEY'Sの板チョコは60年代前半には近所で50円で売られてたなあ。当時の50円が子供にとって如何に大金だったか、当然買えなかった。今でもスーパーで売ってるがもっと美味い物を売ってるし今の子供は見向きもしないね。とにかく日本は終戦直後だけではなくそれ以前も十分貧しかった。社会資本の殆どを軍備に回していたからね。おまけに食管法で国民は高いヤミ米に頼るしかなかった。ひどいものです。
@asaichban9842
@asaichban9842 2 күн бұрын
60年代半ばには 国産メーカーからいろんなのが出ましたね 50円と言えば CMでも有名になった「エールチョコレート」 自分は少し高かったが「ハイクラウンチョコレート」が好きでした ハーシーは後味に苦みが残り 好きじゃなかった
@anewreturner1
@anewreturner1 2 күн бұрын
@@asaichban9842 70年代に入るころには子供にも買える値段になりましたよね。ハイクラウンは美味かったのでよく買いました。
@watasi1923
@watasi1923 2 күн бұрын
水道の有り難さをしみじみ感じました。
@teruakishimada6660
@teruakishimada6660 2 күн бұрын
今でも在日米軍基地の住宅はそうですよ。母親がワンダラーでメイドでしたが帝大出よりも収入が多かったと。
@naoyukiclipper
@naoyukiclipper 2 күн бұрын
3:12 そら当然だろ、、何故にネガティブな伝え方、
@ryou9106
@ryou9106 2 күн бұрын
その衣食住に必要な駐留経費は、餓死者が出ている日本人支払っていたという事実。餓死者を毎日何百人も出している国で、その国民の金で食べるハンバーガーやビールはさぞかし美味だったろうな。😅 うp主もその話を知っているから、言葉の端々にトゲがかくせないのかも。😢
@naoyukiclipper
@naoyukiclipper 2 күн бұрын
2:44は恵まれすぎたケースだろ、、
@ei2784
@ei2784 2 күн бұрын
20分毎に起こされるのは拷問
@coni-i7036
@coni-i7036 2 күн бұрын
私の母は生涯ハーシーチョコレートが好きでした
@藤本清隆-x3g
@藤本清隆-x3g 2 күн бұрын
字が違うよ‼️デタラメやめろ‼️
@saquita51
@saquita51 2 күн бұрын
私の母は幼少の頃横浜に住んでいて、アメリカ兵は頼まなくても勝手にチョコレートやガムをばらまいていたようです 。
@naoyukiclipper
@naoyukiclipper 2 күн бұрын
一部を除いた腐れ日本国体とは違いきちんと草の根のマーケティングまで理解してたんだからあの時点では資本主義の勝利が確定
@ryou9106
@ryou9106 2 күн бұрын
そのチョコレートは米兵によれば「不味くて食べたくない」ものだったようですが。😅
@みつる-r3w
@みつる-r3w 2 күн бұрын
おそらく当時の米軍用チョコレートバーはハーシーズ・トロピカルバーではないかと思います。 勿論現物を食べたことはないのですが、熱帯(トロピカル)でもドロドロに融けてしまわないよう調整されていたようで、食べても口のなかであまり融けず、ニチャニチャした何かになる感じで不味かったそうです。 その後、糖衣コーティングされたエムアンドエムズに置き換えられたとか。
@unithouse1
@unithouse1 2 күн бұрын
敗戦後にアメリカ式の食文化が入ってきて、それまでの洋食が(悪い方向に)変わってしまったと嘆く当時の文化人の言葉が残ったりしてますよね
@鈴木伸幸-l2c
@鈴木伸幸-l2c 2 күн бұрын
進駐軍は優しい
@ser-xg9bt5yy6n
@ser-xg9bt5yy6n 2 күн бұрын
そりゃーそうでしょう当然の話😊
@お茶まな
@お茶まな 3 күн бұрын
英米も赤化拡大の恐ろしさが分かっていれば, ドイツや日本をあれほど追い込むことはなかった・・ 防御壁を失った・・
@n1k4_a48
@n1k4_a48 3 күн бұрын
現代の日本人の自分にとって、パスタ、サンドイッチ、ハンバーガーなんて貧相に感じて羨ましいと思わない。 たまに食べることはあるけれど、やっぱり和食が良い。
@m19s1d
@m19s1d Күн бұрын
ワシは日本食より米軍の料理がいい。食あたりしない
@m19s1d
@m19s1d Күн бұрын
生魚とか煮た野菜やコメなんか重くて食えん
@2236qawsedr
@2236qawsedr 3 күн бұрын
便利な生活はプラスチック様々ですね
@arturendonov4245
@arturendonov4245 3 күн бұрын
給食が楽なので明治時代に日本海軍でパン食を導入したら「水兵からコメの飯でないと力が出ない。」と不評だったので米の飯が主食となったそうです。
@arturendonov4245
@arturendonov4245 3 күн бұрын
日本陸軍のレシピ本には洋食メニューもあって、コーンスープ、トマトスープなどもありました、カレーは兵役で作り方を覚えてきた人が自宅で作ったりして男性が作る料理だったそうです。
@ayhht1768
@ayhht1768 Күн бұрын
海軍のパン食、洋食は、元々は脚気対策でした。明治15年に脚気対策として洋食を実験的に採用し、明治19年には正式採用されました 鈴木梅太郎がオリザニン(ビタミンB1)を発見しても、脚気=病原菌説が根強かったので、これが脚気に効くと認識されるのには当面先の話です パン食に慣れない兵士からは不満も出ましたが、パン食を補う副食として米飯も提供されました。また、嗜好品として米を持ち込むことも禁じられていなかったので個人で買って持ち込んでいました。米食が復活するのは様々な実験や生糧品の提供が十分になってきた明治31年の頃です
@bernigunther5804
@bernigunther5804 3 күн бұрын
子供の頃の冷蔵庫ちっちゃかったな。焼魚は商店街で売ってたと思うけど、うちで網で焼いてた。糠漬けや梅干し、梅酒は自家製。庭の木は何らかの実がなる物。在ったのは飛出るトースター。乾物使用が多かった。個人スーパーが乱立していて畜肉のスタミナ漬けや、オーストラリアで退治したヌートリアのブンタッタソーセージには鉛の散弾が良く入っていました、猛毒です。かつお節し削り箱が楽しかった。祖父が暮らした官舎の一つでは近くの小川から細い水路を伸ばし、台所の土間に流し込んで、そこで取水や皿洗いをしたそうです、風流。
@asaichban9842
@asaichban9842 3 күн бұрын
ララ物資って 全部ではないが アメリカ在住の日系人が一生懸命になって集めてくれたものです GHQはそのことを言わなかったようですね