悲惨というイメージを覆す江戸時代の農民の生活とは?

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参考資料
「百姓の江戸時代」(田中圭一、ちくま学芸文庫)
amzn.to/45qTebv
「百姓の力 江戸時代から見える日本」(渡辺尚志、柏書房)
amzn.to/45fR1zk
「鉄砲を手放さなかった百姓たち 刀狩りから幕末まで」(武井弘一、朝日新聞出版)
#日本史の謎 #歴史
シナリオ執筆担当:suzuran888az
編者:飛鳥

Пікірлер: 584
@jjudy6666
@jjudy6666 10 ай бұрын
とても興味深そして信頼性のある説だと思います。 私の親世代が代々数百年は続く東北の出身の農家ですが、 家は大きく文化も季節ごとに食などの豊かで人々も穏やかです。 着物文化や針仕事などもとても丁寧な文化も受け継がれていますので 時間があったと思います。 納豆など伝統の発酵食品の文化も多々受け継がれていて豊かさを感じます。 数百年前からの口伝で受け継がれた名字に対する伝説もあります。 一方、嫁いだ先の家は、元々武士の家系だと一族で自慢していましたが 食事に対する豊かさや礼節を知らず、住まいに対しても貧しい感覚を持ち 着る物こそブランドを意識したり、学歴ばかりを重視する気質は 何か人間の豊かな暮らしからかけ離れたような心の貧しさを感じて 農家が貧しいというイメージにずっと疑問を持っていました。 明治政府のプロパガンダとその後の日教組の刷り込みだと思います。 田布施システムなど日本は日本人で無い人達から支配されてきたのでしょう。 そして戦争の時は東北などは南方へ行かされて帰らぬ伯父達が何人もいたり、 計画的搾取を感じます。「おしん」は非常に悪意を持った洗脳を感じます。 本当の歴史を知って、日本人の尊厳と誇りを取り戻したいですね。
@spikef7602
@spikef7602 10 ай бұрын
途中から急に左翼史観で笑った。
@WearstFaker
@WearstFaker Жыл бұрын
うちは江戸時代は「天領」出身だ。 かなり裕福だったが、明治維新とその後の日本で貧しくなった。 教科書とか先生の話だと、まるで江戸時代では「農民は奴隷」で、明治維新で「解放」されたかのような話を聞かされたが、爺さんのじいさんが実際に聞いていた話と違くておかしいと思っていた。 教科書や教員の話では、農家をグループにして密告させあったり逃げないようにしたり、食料は粟とヒエだけにしたり。武器の所持を認めなかったり、無理な年貢で餓死したり・・・・。 でも実際聞いた話は、楽しく農作業してワナで魚をとって、たまにお酒やそばを食べて、豪華な結婚式して、火縄銃で獲物をとって日本刀や掛け軸をかなり所有して・・・。 これが「 奴隷 」か・・・?って疑問だった。
@黒田大全
@黒田大全 11 ай бұрын
そうですよね、我々の戦後教育って、多くが間違ってましたよね。
@azumam2427
@azumam2427 11 ай бұрын
我が家は平安末期以来の武家でその後百姓に。古い墓地(古らんばと言っている)は江戸初期から明治時代までものがあり、墓石は個人毎にあり、あるいは夫婦の戒名併記の墓石になっており、墓石の脇には建立した先祖の姓名が彫られている。その中に大きく立派な墓石があるが、それは日露戦争に従軍して戦死した先祖の墓石である。思うに名誉の戦死なので国からお金が出たから立派なお墓になったと思っている。ところがです、大正時代以降の墓は土饅頭になっている。これから分かることは近代に近づくにつれて貧しくなっているってことでしょうか。因みに我が家は江戸時代では集落60戸中の5戸の自作農でした。それを「いっちょ前」と亡き父が言っていたっけ。
@へーデルヨッシャーブッハ
@へーデルヨッシャーブッハ 11 ай бұрын
産業革命と帝国主義への対応策「富国強兵」で、従来型の農村産業はキビシくなったのだろう。それを胡麻化す為に、江戸時代の奴隷同然の農民を開放した明治維新!てなプロパガンダをやったと言う事らしい。江戸時代は、実は中々にリッチだったようだが、そのままでは列強に侵略されたかもなので、農村が犠牲を払って独立を守ったと言う図式かも。
@csny0627
@csny0627 10 ай бұрын
免租特権をお持ちだったんですね。知るところでは奈良の十津川村なんかは「壬申の乱」以来の免租地ですね。スゴイです。うちの先祖は真田昌幸と幸村について第二次上田合戦を戦った後の処分で郷里を離れる際、出身地名に氏を変え、未耕作地開拓に入った。
@tamitouta
@tamitouta 10 ай бұрын
私の父方の曽祖父は江戸末期に(安政の頃)地元の小名(石高2ー3万石)の城代家老の娘が嫁に来ました、代々農家で曽祖父は次男で分家をして大谷石の石屋をしていたそうです!明治の最初の作った戸籍に安政生まれの曾祖母があってびっくりしました!わりと自由だったのです、(勝海舟の祖先は商人で、旗本株を買ったとなにかに書いて有りました)
@HatsuneMiku-39
@HatsuneMiku-39 10 ай бұрын
江戸時代に日本で初めて外国人として富士山を登ったサー・ラザフォード・オールコック氏が、日本の農民たちと触れ合う中で「いつも暗い表情の英国市民と比べてなんて朗らかでいつも笑っていて幸せそうな人々なのだろう!」と驚いたという記録が残っているとNHKの放送で以前見ましたが、その当時は「え?農民って年貢でひーひー言っていたのでは?」と違和感を感じていました。 でも今回の動画を見て「なるほど!そういうことか」と納得することができました。
@user-wx5ks2mp4n
@user-wx5ks2mp4n 5 ай бұрын
まあ当時の英国一般市民は最近よく言われる植民地時代のアフリカ人と同等以下の家畜扱い受けてたからな。比べる相手が鬼畜すぎて日本も大して良くはなかった可能性も普通にある。
@junboo615
@junboo615 10 ай бұрын
日本の歴史を学んでいるフランス人の学生とセッションしてみるといいかも。 日本の農民が貧しい、と聞くとフランスの学生たちは怪訝な顔をする。 フランス革命がなぜ起きたのかを学んだ彼らは、自国の農民の方が遥かに劣悪で日本の農民たちの 貧困とは比べ物にならないのに気が付く。 我が国は、戦争で負けたので民主主義になったのではない。 「民主主義」という概念すらない太古の昔からこの国に、それはすでに存在した。西欧がその概念に気が付くはるかに以前から。 なぜ、金ではなく、年貢(主に米)で納めさせるのか。米は二~三年は保存できる。 それを考えれば答えにたどり着くだろう。 西欧では宮殿の豪華な晩餐に搾取されるばかりなのに。ベルサイユ宮殿では糞尿はたれ流し、窓から桶で道に捨てていた頃。江戸にはすでに 水道が完備されていたことは知っていますか。着物はレンタル、便や糞尿は集められてすでに再利用されていた。 SDGs?・・・・今頃?笑わせるな、だ。 文化的にはこちらの方が遥かに進んでいた事実に気が付いた米国は戦後 徹底的にその思想や文化の破壊を結構した。地方のお年寄りの識字率が自国より高いのに驚愕。がくブル。(やべえ民族だって) 今の米国 銃規制もまだ。犯罪多発で、司法も適当。スラムはまだまだ危険で不衛生、治安も悪い。保険の普及率も低い これで進んでいる国家と言えるかな?疑問なのは私だけか?
@okayoshi3347
@okayoshi3347 10 ай бұрын
米は二~三年しか保存できないというところが重要? お金と違い必要以上に集めても意味が無い。 備蓄米も飢饉や災害で放出できる。 現物でなく貨幣中心になると富の過剰集中や貧富の差が広がってゆくのではないでしょうか?
@junboo615
@junboo615 10 ай бұрын
@@okayoshi3347 主題と話が逸れてしまうけれど、江戸の百姓が貧困っていうのを学校では習ったけれど、実際には西欧の農民の税比率とは比べられない程緩かったってのが事実。 寧ろお侍の方が貧乏。米での納税なのは、その領地に基金や災害がある時の備蓄の為で、何か有れば領民を食わせないといけない侍は、全てを自分達で使えるわけではない。そんな事をすれば 一揆や暴動が起こるのは明白で、抑制にもなっていた。また武家では家に対しての家禄なので、家徳を受けられるのは長男一人だけ。なので次男坊以降は成人すると食い扶持を得る為、 商人になったり、農民になるしかない。なので士農工商っていう身分制度があったのも間違いで、今は職業区分と習うはずです。 エタや被人も 忌み嫌われる職業で、例えば葬儀屋さんとか介錯人とか罪人の事で、実際には家禄をもらう武士より遥かに金を儲けていて、遊郭で豪遊したという記録も沢山ある。 関東は金本位、関西は銀本位の貨幣制度だったので、その両替益で長谷川平蔵(鬼兵で有名)は被人と呼ばれる罪人上がりの職人達の場所を作ってやっていたりする。 勿論、不正はあったにしろ藩や幕府は認めている。年貢の比率は6対4〜7対3と全体の7割が作り出す米を3割の武士消費出来ない構造にそもそもなっている。 民は飢えようがない。 こんな統治のシステムがこの日本には500年も前から存在した。当時の農民が貧困で喘いでいた、というのは今では修正させています。 対してフランス革命がなぜ起きたのか、フランスの農民がどんな状態だったのか、比較してみればわかります。 当時、ベルサイユ宮殿では食事を手づかみで食っていた頃、箸を使っていたし、口紅は紙で拭き取り、歯磨粉も売られていたよ。
@tamitouta
@tamitouta 10 ай бұрын
@@junboo615 その為、江戸の貧乏旗本は屋敷に植木を植えたり野菜などを作って売っていたそうですし、(広い敷地なら貸し地にして)寺子屋とか奥さまなら、琴とかお茶の先生をしたり、副業に励んでいたとか!(地方の侍も同じだと思います!)だから皆読み書き算盤が出来て、和算ではヨーロッパより早く円周率の計算をしていましたよね!文化の下支えになって居たのではないでしょうか!ヨーロッパより差別の無い民族だったのです!良かった日本🇯🇵に産まれた❣️
@nanaphidel1276
@nanaphidel1276 10 ай бұрын
結構 → 決行
@WILD-TORA-7seven
@WILD-TORA-7seven 10 ай бұрын
まったくもって『同感』でアリマスww (≧▽≦)b
@kojik1380
@kojik1380 11 ай бұрын
中国地方の農村出身です。全く同感です。 維新後身分制度は廃止され、農民も勉強して学校を出れば武士のようなエリートとなることが可能となりました。しかし農民は子供を旧制中学には行かせませんでした。 地主以外は全員が尋常小学校卒でした。農民の生活が苦しければ勉強して学校へ行きなさいというはずです。子供も貧しさから脱するために勉強して学校を目指したはずです。 つまり、勉強して学校を出て武士になるよりは、農民でいることの方が良かったということです。 農家の子供が新制高等学校へ行くようになったのは、高度経済成長で日本が豊になった昭和40年以降です。 農民は貧しかったから中学校へ行かせることができなったというのも嘘です。戦前のトラック物流が未整備の時代では、農家は米、野菜、味噌と食糧は魚以外はほぼ自作でした。 現代の家計支出で食費の占める割合を考えれば、当時の農民は食費支出がほぼゼロだったわけです。家計的には大きくプラスに働きます。 維新後無職とされた元武士の方がよほど貧しかったです。 江戸時代の武士は今で言うとただの公務員にすぎません。年貢の量は農民と話合いで決まりました。収穫が少ない時は、これくらいでいいよと言うふうに。 年貢の取り立てか厳しくて農民が食べる米が無くなるなんてありえません。 戦後食糧難の時に都会から買い出し列車で大勢の人が田舎へやってきました。うちの祖父はそこで米と掛け軸を交換して、結構有名な掛け軸含め50本くらいが実家の蔵に眠っています。 それと何といっても精神的な豊かさです。三世代同居で明治生まれの祖父母は神さん仏さんをいつも敬い、欲もなくいつも穏やかでした。田畑を耕して農作物を育てて収穫することに喜びを感じていたのだったんだなと、都会で30年生活した今気付かされました。昔は貧しかっただの苦しかっただの一度も聞いたことがありません。 都会で生活して、貧しかった家の出で悔しさをバネに会社で偉くなった人を何人か見てきましたが、今となっては会社で偉くなっても心の貧しさはそのままだったんだなと思うような言動でした。 自分家だけでなく、村のお爺さん、おばあさん全員にこにこしていつも穏やかでした。 神さんと仏さんと自然を相手に生活してきたことで、豊な精神性が育まれたのだと、都会生活30年でしみじみと感じる今日この頃です。
@jrdohebou7307
@jrdohebou7307 11 ай бұрын
明治時代以降、武士という身分はないはず。「学校を出て武士になる」とはどういうこと?
@csny0627
@csny0627 11 ай бұрын
@@jrdohebou7307 官吏になる、ということでしょう。そして元武士の戸籍には「士族」の標記がありましたからね。名乗るときは「常陸国人 士族 〇〇〇〇」でした。
@納豆-j7l
@納豆-j7l 11 ай бұрын
士農工商は身分制度ではないんだが
@mysygisun3335
@mysygisun3335 11 ай бұрын
そうね、ちょっとこの人勘違いが激しい様ですね。 江戸から明治に変わった時で、 読み書き算盤が、出来た人が5割は居たことが、確認されてますよね。
@kojik1380
@kojik1380 11 ай бұрын
@@jrdohebou7307 江戸時代における武士階級、つまり維新後「偉い」人達と言う意味です。農民も勉強して学校へ行けば偉くなれたのですが、戦前の中学へ行く農民の子供は誰もいませんでした。つまり偉くなりたいという願望がなかったと言うことです。農民の方がマシだったと言うことです。 農作業を行わない地主だけが戦前の中学校へ行ってました。
@やま-z8h
@やま-z8h Жыл бұрын
考えて見れば、そんな栄養が不足した状態で、野良仕事なんて出来る訳が無いな。
@塚本康-f5r
@塚本康-f5r 5 ай бұрын
そうだそうだ 全く其の通りだ〜。 現在の独裁3代世襲国🇰🇵の住民は,食糧生産より軍役最優先で一部の同盟国以外から嫌われて国交は無い故に、通年に渡り食物不足で餓死寸前が蔓延継続中。 人道支援しても底辺人民には決して行き渡らず富裕層と軍部が潤う現実。 江戸時代より悲惨で生きる為の脱北もままならない苦しさ。
@石之司
@石之司 4 ай бұрын
江戸時代の貴重な写真映像に、当時の農民さんたちの肉体美が写されてますが、そこらのボディビルダーの皆様が泣いて逃げ出すような筋肉美でしたねー。
@塚本康-f5r
@塚本康-f5r 4 ай бұрын
@@石之司 農家の女も15貫の米俵(60kg)2表を楽楽担いで運んでいた記録あり。 現在では考えられない逞しさだった。
@みーパパ-p7p
@みーパパ-p7p 3 ай бұрын
@@塚本康-f5r さん 山形県の酒田にある山居倉庫(山形県内の米の集積地)に行けば、米俵4俵を担いでいる女性の写真がありますね。
@鈴木利夫-u5u
@鈴木利夫-u5u 9 ай бұрын
渡辺京二氏の「逝きし世の面影」を最近読みました。江戸時代末期から明治初期にかけて日本にやってきた欧米人の日本に関する大量の記録が紹介されています。そのほとんどは日本人に対する感嘆と称賛です。日本人はすべての階層の人々が善良であり、毎日楽しく幸福そうに暮らしていると書いています。労働者階級の人々はほれぼれとするぐらい立派な体格をしていたと言います。しかし、明治時代に入ると日本人は江戸時代は遅れて恥ずべき時代だったと思っているようだと、ある外国人は書いています。
@鈴木隆-e8i
@鈴木隆-e8i 9 ай бұрын
明治10年における滋賀県地域の自署率調査では、男女で自署可率が63.08%でした。細かく言えば男性で83.55%、女性で38.76%です。 明治になっていきなり識字率が向上するなんて考えられないので、これは江戸時代からの寺子屋が農村にまで普及していたと考えるべきです。 仮に農民が余裕のない生活を強いられていたのなら、こんなに自署率が高いはずがありません。
@nomadkyoto5431
@nomadkyoto5431 8 ай бұрын
1800年頃の識字率は たぶん欧米で 30%程度、チャイナ,▲鮮,その他では せいぜい 20%程度だったろうと思います. 日本が圧倒的に高かったでしょう。
@user-wx5ks2mp4n
@user-wx5ks2mp4n 5 ай бұрын
識字で最低限の教育が為されていると判断するのも基準が低すぎるようには思うかな。産業革命時のイギリス労働者やロシアの農奴と比べるとその辺りはどうしても麻痺してしまうけど。
@へーデルヨッシャーブッハ
@へーデルヨッシャーブッハ 11 ай бұрын
農村の墓地に行ってよく観察すれば江戸時代の農民でも苗字があったと分かる。ちなみに、農村では同じ苗字だらけなので、屋号を使っていたし、今でも屋号使っている地域もある。
@csny0627
@csny0627 11 ай бұрын
うちは「六右衛門」と云うが、呼び方は「ろくえんどん」です。
@nekono_mimikon
@nekono_mimikon 10 ай бұрын
屋号を明治時代に苗字に転用した例もありますね。 加賀屋から加賀谷さんが有名ですが。
@さくら-r1k4i
@さくら-r1k4i 10 ай бұрын
以前、本で江戸時代の農民の実態を知りました。他にもあるであろう真実を知りたいですね。
@にゃんま-i4m
@にゃんま-i4m 10 ай бұрын
また勉強になりました先生m(_ _)m
@kyoko7343
@kyoko7343 10 ай бұрын
横溝正史の悪魔の手毬唄では、屋号を上手く使ってましたね。
@とりさん-t6e
@とりさん-t6e 9 ай бұрын
動画の趣旨は納得できるものでした。 ただし、飢饉の時は別です、特に江戸時代には大きな飢饉が3回あり餓死者が大量に発生しました。地域によって被害状況が異なり、里が消滅することも珍しくなかったそうです。また藩によっても違いがあり、蔵開きを行い藩内の領民に一人の餓死者を出さなかったところもありました。 平常時はおおむね豊かだったとするべきでしょう。
@fivepointedstar196
@fivepointedstar196 3 ай бұрын
各藩で違ってましたね。 東北地方は、1770年代から悪天候や冷害によって農作物の収穫が激減してきて農村は疲弊した状態だった。 天明大飢饉により、盛岡藩などは幾度の飢饉を経験していたにも関わらず、その対策がされていなかったため、大飢饉をまともに受けてしまい、7万5千人という総人口の4分の1の人々が餓死した。 同じ東北の藩でも米沢藩は宝暦の飢饉などの経験から、不作や飢饉に備え米穀や金銭を貯蔵しておく対応策が執られていた。
@yukiokomuroz3
@yukiokomuroz3 10 ай бұрын
百姓苗字ありましたよ。苗字が禁止されたのは江戸時代の終わりの方でそれまでは普通にありました。公的に名乗れなくなった後もお金を出せば公的に名乗れました。仙台藩の例では50両で苗字許可、100両で帯刀許可、200両で武士身分も変えました。自分の祖先ですが、江戸初期に武士をやめて百姓になり、江戸後期に200両払ってまた武士に戻りました。農村の百姓もポンと200両払えるのに驚きです。200両ってたいしたお金ではないのかもしれませんね。
@山のけむり-u9i
@山のけむり-u9i 10 ай бұрын
そうだよね😮江戸が世界一の都会であったことが認識され出してきたが、8割を占める百姓が食うか食わずの生活をしていたなんて考えられないね。大多数を占める百姓に実力があったればこそ、繁栄したと考えるべきでしょう😅 解説ありがとう😊勉強になりました。😊
@松山彰宏-h5q
@松山彰宏-h5q 10 ай бұрын
幕末に渋沢や近藤といった天領の百姓が、そこらの旗本よりも幕府のために必死で尽力した背景が理解できるというものです。
@hiroh1807
@hiroh1807 11 ай бұрын
興味深い動画で楽しめました! 以前に江戸時代の生活を研究した本で読んだ江戸時代のお百姓さんの日記みたいなものが掲載されていて役人が少ないから目が届かず米の年貢以外の収入がそれなりにあり貧乏ではないけど表向きは貧乏に見せかけていたみたいな記述がありとても面白かったことを思い出しました。
@ねこまた-u6n
@ねこまた-u6n 10 ай бұрын
40年くらい前、近所のお年寄りの挨拶は、今年の米の出来は悪い、でした・・どんなに豊作でも。
@チュンチュン丸-y5z
@チュンチュン丸-y5z 10 ай бұрын
年貢は、元々、地震や災害に配られる支給物資のはずです。天皇様が「おおみたから」だとする日本では、シラス統治は、完璧にまもられてるはずよね?
@サトケン-x9h
@サトケン-x9h 10 ай бұрын
時代劇でも農民はボロッボロの着物着てたがあくまでも作業服であり普段着だからねちゃんとお祭りなり年始年末はキレイな着物を着てた。とにかく大抵の物は自家製だから現金はさほどいらなくてせいぜい魚肥とかの肥料くらいしか買う必要もなかった。一家に頭数さえあればね。だから農家はなるはやで嫁を貰い子作りする必要あったようです。それこそ江戸等の都市部は現金無しは喰えないからね
@kyoko7343
@kyoko7343 10 ай бұрын
@@ねこまた-u6n さん 大阪人の「儲かりまっか~?」「ぼちぼちでんな~」的な感じですねw
@okehazama
@okehazama 10 ай бұрын
イギリス初代駐日領事オールコックやアメリカ初代駐日公司タウンゼント・ハリスが日本を旅して、農民が豊かな生活をしていることに驚いた記録を残していますね。オールコックは「ヨーロッパにこんなに暮らし向きのいい農民はいない」と書いています
@山田哲也-t4c
@山田哲也-t4c 3 ай бұрын
幕末に来日していた外国人が遊郭で遊んだ際に,遊女たちがみんな読み書き計算(掛け算の九九)が出来た事に仰天したと言う話が残っています.
@久子長谷川-t2d
@久子長谷川-t2d 5 ай бұрын
母は米農家で明治40年頃の生まれです 嫁に出る時には躾のかかった着物が箪笥に入り切れずコオリをいくつも持って来て 町内中に挨拶の赤飯を配ったとか 10丁ほどの田畑があっだそうです住み込みの人も何人もいたのを覚えてます
@のどかおばあちゃん
@のどかおばあちゃん 4 ай бұрын
農業はじめて近隣の農家さんや畑してる人達と話す機会があるけど、農家さんはどんなに儲かってても「農家は大変だ〜、儲からない〜、人手が足りない〜」って言うし、畑してる人も「草刈り、虫、病気大変だ〜」とか言うし、 でも皆表情が朗らかでいつも笑顔でいるから幸福度は高いと思う。
@みーパパ-p7p
@みーパパ-p7p 3 ай бұрын
住んでる家も大邸宅だし、交通の便もあるけど家族は一人一台づつ車は持ってるし、農作業用の軽トラ数台所有は常識です。農業は.天候に左右されるので、国からの補助もあるしね... でも、どこも嫁不足で悩んでいるみたいです。
@鳥とる先生
@鳥とる先生 10 ай бұрын
今の固定資産税の基準になる不動産評価額は実勢価格よりはるかに安い。 江戸時代の年貢もそれと同じで、実際の収量に対して課税されていたわけではない。毎年の収量を旛が一々把握することはできない。旛が把握しているのは田んぼの面積だけ。その面積に応じた仮想収量というものがあって、それは実際の収量よりはるかに少ないものだった。 実際には1反歩あたり8俵の収量があったとしても、課税される収量は2俵ぐらいの感じ。 だから、五公五民といっても酷税だったわけではない。この大事なことを言わずにただ五公五民だけ教えている学校の歴史教育はおかしいと思うよ。 実際の収量の半分を年貢として巻き上げていたら武士は貧しい暮らしをしていない。
@こばーんでにーろ
@こばーんでにーろ 7 ай бұрын
文献は覚えて無いが、イギリス人が 千葉の房総地域の漁民たちにあった時、江戸の住民より、はるかに体格が良く逞しく、栄養状態が良かったと昔読んだ記憶があります。当時から良質なタンパク質を充分に取ってたんでしょうね。 江戸庶民は沢山の白米と漬物、味噌汁と言う食事がメーンだったので、慢性の栄養失調だったみたいです。
@nackeyt3068
@nackeyt3068 11 ай бұрын
ウチは倉持百姓だったけど、名字帯刀許されてたよ。大小2刀あったらしい。戦争に太刀を持って行ったまま戦死した方がいるので今は脇差しか残ってないけど。たまに蔵を家捜しすると、なにがしら面白いものが発掘されるので、かなり豊かな生活をしていたのは分かる。
@まりもっこり-r8b
@まりもっこり-r8b 11 ай бұрын
学者の方に一度しっかり調べてもらう価値がありそうですね😄
@junboo615
@junboo615 10 ай бұрын
士農工商って身分制度じゃなくて、階級の区分でしか無いですよね。調べてみると家計簿とか几帳面に記録されていたので侍の方が貧乏でしたっていうデータがいっぱい出て来ます。えた非人という最下層の人々の方が儲けていて遊郭で豪遊したなどの記述が多く見られます。
@こばーんでにーろ
@こばーんでにーろ 7 ай бұрын
蔵に何があるか興味深々。
@user-wx5ks2mp4n
@user-wx5ks2mp4n 5 ай бұрын
一口に農民と言っても倉持は流石に特権階級の側だったと思うぞ。我々が教科書で習う「農民」のイメージは基本的に最低辺の水呑み百姓のことです。特に江戸中期に入ると名主やそれに準ずる富農は碌な資産がない大多数の武士を圧倒していった。
@西村和夫-p3c
@西村和夫-p3c 5 ай бұрын
それと、百姓一揆を起こせば、首謀者は厳罰に処せられますが、藩側も「仕置き不十分」ということで、下手をすると改易とか、藩主は切腹のうえ藩はお取りつぶしの処分が待っていますよ。 当時の古文書何かを見ると、納める側の百姓と取り立て側の藩や代官所との間で、片方の藩は、一粒でも多く取り立てたい、方や農民側は出来るだけ納める量を少なくしたい!という事でキツネとタヌキの化かし合いのような文書のやり取りが見られる事が有ります。更には、年貢をお目こぼしをして貰いさに、役人に賄賂を贈ろうとしたり、接待攻勢をかけた、など面白いことが有ります。
@きなこもち-k2i
@きなこもち-k2i 4 ай бұрын
実際に貧しくなったのは、文明開化後だと思う。 貿易で儲ける一部の層だけが華やかで、それ以外は近代化の為の建設や工業、兵役に人材が取られて、農業従事者は減っているはず。 でなければ戦前までの短期間の間にあり得ない速度でレンガ造りの建物や橋や水路・トンネル等建設できるはずもなく、艦船や鉄道などの建造もできない。 生産量が減る一方で国内で回っていたものが輸出され、一部層が金貨銀貨を得ても、それ以外は貧しいのは当たり前。 文明開化ではそれまでの自国文化は下劣であり、西欧文化こそが最も優れたものだと謳うのだから、当然に江戸の庶民の暮らしは悲惨だったと洗脳するはず。 維新を推進したのはブリカス。当然ブリカスに有利な取引が行われる。 近代化に必要なものを大量に輸入する訳だから、その見返りは命を削って払うしかない。 貿易商にとっては売れば売るほど儲かる訳だから、生産者から強引に巻き上げていた可能性はある。 今もグローバリストが同じことをやっている。 近代化も一巡してWW1に勝利した当たりから豊かさを取り戻していく。近代化による生産性向上や占領地からの巻き上げもあっただろうし。
@山中達雄-j3p
@山中達雄-j3p 2 ай бұрын
それが社会全体に定着したのは戦後
@サトケン-x9h
@サトケン-x9h 10 ай бұрын
そうそう江戸時代は米以外は自由に作れたからねタバコも酒も自家製、米が足りなくても蕎麦や小麦で何とかなったしね却って明治になって税金取るためにタバコも酒も自家製は禁止されたしね。
@takeharuyoshizawa1263
@takeharuyoshizawa1263 3 ай бұрын
江戸時代の古文書を勉強してきた中で、去年は天候が不順でコメの作柄が悪かったので年貢を軽減して欲しいというような領主への嘆願書に対して、領主がその旨を了承したという古文書も残っています。真の歴史は教科書(権力者が作ったもの)ではなく、古文書などに残っているものだと認識を改めました。
@アベマリア-w5m
@アベマリア-w5m 9 ай бұрын
農家は昔も今も裕福ですよ。医師の方が実は貧乏だったりする😆農地に道路や駅ができたりすると何億という大金が入ります。農地にビルを建てて都内で1番楽な資産家は元農家の地主達☝️☺️戦争は土地の奪い合い、殺し合いしてでも土地の奪い合いをするだけのメリットがあるからですよ☺️ビル・ゲイツも今農業し始めてますよね。土地を所有し農業することがやはり1番大切だということなのだと思います。その土地や利権を奪うために戦後農地改革やら財閥解体やらの政策もしました。そもそも歴史も捏造で、日本も海外も差別利権を作り国民同士を対立させ弱体化させてますよね💦支配するために弱体化しているわけで、差別なんてなかったようですよ💦インディアンもアボリジニーも裕福です☺️
@bigmarch8686
@bigmarch8686 5 ай бұрын
アメリカは功なり名を遂げた人って結構な割合で牧場を持ちたがる。
@アベマリア-w5m
@アベマリア-w5m 5 ай бұрын
@@bigmarch8686 土地は値上がりしますし道路や施設の計画ができたら高値で買い取られます。
@ネゴトワネティエ-z9s
@ネゴトワネティエ-z9s 10 ай бұрын
江戸時代百姓は年貢の取り立てで苦しい生活をしていた。 というのはプロレタリア革命を正当化するため必要不可欠なこと。 明治政府の方策もあっただろうけど戦後更に酷いことになった気がする。
@nomadkyoto5431
@nomadkyoto5431 8 ай бұрын
戦前から "江戸時代は貧しかった" なるウソ歴史を捏造していたのですかねぇ? たしかに明治維新を起こしたのは欧米列強であり、明治維新や戦国時代の西洋人やキリスト教については徹底的に捏造されていますが、カレラと関わりのないところがどこまで捏造されたかは 私にはわかりません。大きく捏造されたのは戦後のことだと思います。 戦前の日本の教育に 共産主義,唯物史観の影響はそんなにあったのか?🤔
@bigmarch8686
@bigmarch8686 5 ай бұрын
戦中戦後の一時期の方が搾取は酷かったらしい。米を作る農家が米の飯食えなかったらしいから。 子供の頃学校から変えると腹が減ってるから、婆ちゃんに何かないかと尋ねると決まって唐芋ならあると答えられた。え~また~、とか言おうものなら戦争中の事持ち出して説教されたものだった。
@aubedigi7895
@aubedigi7895 11 ай бұрын
集落で立派な神社を建てているし、起請文にも姓を書いてあるものが多数有ります。温暖な気候で川も流れている地域で米も普通に食べていたそうです。江戸に住んでいた曽祖母の話によると、田舎侍が江戸に来て、自分達の悪行を隠す為に幕府の悪口を言っていたそうです。
@azumam2427
@azumam2427 11 ай бұрын
我が集落にも江戸末期に神社に建てた大きな石燈籠にも寄進した全員の姓名が彫られていますよ。それに我が家が神社に寄進した小さな石燈籠にも先祖の姓名が彫られているのですよ。
@80fire71
@80fire71 9 ай бұрын
すっかり、農民に『おらが村の田吾作』みたいな印象を植え付けられていた事を猛省 我々現代の大衆人民よりも、しっかり自立して強い立場の人々だったのだと思える
@venusxxx-px5zu
@venusxxx-px5zu Жыл бұрын
富山は米どころなので、百姓はお金持ってたらしい。武家じゃないお屋敷がわりと重要文化財として残ってます。
@三山祐次
@三山祐次 11 ай бұрын
三公七民❗岸田内閣の政策より良心的じゃないか🤷‍♂️🤷‍♂️🤷‍♂️
@松本幸夫-h8n
@松本幸夫-h8n 11 ай бұрын
現代のサラリーマンは、4割くらい税その他で取られるからね。
@1192鎌倉-h7x
@1192鎌倉-h7x 10 ай бұрын
独身サラリーマンなら、税金、各種保険料、老後の為のささやかな貯金をすると手取りで4割程度でしょうかね。
@tamitouta
@tamitouta 10 ай бұрын
岸田は国民を未だ搾れば出ると思って居るんでしょうね😂生かさず殺さず!自分の懐を肥やし(また議員と公務員の昇給をこっそり決めてます💢💢年収4000万超え💢)国民一揆を起こしましょう🎉
@yuzukusu2613
@yuzukusu2613 10 ай бұрын
今は5公5民だしね
@にゃんま-i4m
@にゃんま-i4m 10 ай бұрын
百姓にゃんま「え?。村長がいっきを考えてるとな?」 ちんねん「いっきだけに?」 私「いっきだけに、いっきに一騎駆けにござらないないかちんねんさん?」 ちんねん? ちんねん「にゃんま、だからいつもつまらない冗談はやめて下されよ」 私「すまんすまん😊ノビシッ💓」
@bean9227
@bean9227 10 ай бұрын
ほんとに生活が厳しかったら江戸時代にあれほどの里山にはならなかった。
@Diamondhead228
@Diamondhead228 11 ай бұрын
面白い研究成果、興味深く拝聴しました! 「百姓」というくらいだから、姓名の姓がうじゃうじゃあったのではないでしょうか?御説ごもっともと思うので、じゃあ姓がたくさんあったんだろうな、と推測できます。 時代劇でどんどんいびつな情報で私たちは洗脳されていると思います。これからもどんどん真実を明かしていってください。期待しております❤
@csny0627
@csny0627 10 ай бұрын
その昔は、姓が職業と一体だったので、百姓と云うのは色んな職業の人々、と云う意味ですね。今で云う一般国民、明治時代は平民、と云う所でしょうかね。
@tamitouta
@tamitouta 10 ай бұрын
百姓と言うのは、百の物をつくリ出せる!という、いわば尊称です❣️稲、麦から粟、稗、菜花〜野菜や花以外 にも筵、葦簾,草鞋、秋田の雪草鞋等々切りがありません‼️家庭菜園をやってた、サラリーマンの夫は百姓に憧れていました‼️
@largehill9736
@largehill9736 10 ай бұрын
@@csny0627 私の義理の兄の祖先は北前船の船主だったらしく、商人にも分類されなかったので百姓ということでした。しかも田畑を持っていないので水飲み百姓だったそうです。しかし北前船は儲かっていたので生活は裕福で、加賀藩にお金を貸し付けた証文があると言っていました。水飲み百姓が大名にお金を貸すなんて面白いですね。
@user-aoi2960
@user-aoi2960 11 ай бұрын
事実と違う事を、明治政府が情報操作されたのは、えげつない理由ですね。😳勉強になります、今まで知らなかったです。
@珍宝-b9m
@珍宝-b9m 11 ай бұрын
明治になった直後の農民は江戸時代の農民の生活を知っていたのに何故プロパガンダに成功したのでしょう? 自分の場合は時代劇やアニメの年貢を取り立てるシーンなどでギリギリ死なない程度を残して全部取り立てたような印象がすり込まれたけど 明治の頃はどうやったのか? 中韓の反日教育が何故成功したのかも気になる。
@PP102Beat
@PP102Beat 11 ай бұрын
江戸時代の四公六民の農民より、現代の五公五民のサラリーマンの方が悲惨だよなぁ…
@宮城和也-q6o
@宮城和也-q6o 11 ай бұрын
明治政府のプロパガンダも有るけど、唯物史観も相当の因果関係あるのではないかと思う。
@Chaikaist
@Chaikaist 4 ай бұрын
お前達は抑圧されているから俺を指導者として革命だ、とやりたい連中のせいですよ。
@山口力-k7f
@山口力-k7f 5 ай бұрын
解釈のしかたに疑問ありますね!確かに百姓に屋号があります。名前だけでは年貢の帳簿がまとまらないわけ、屋号で整理してたわけです。村が百姓だけでなく職人などはそれが屋号なんです。明治で名字を届ける事になりまして、屋号としたりしました。しかし、屋号とはカッコ悪い場合があるので名主さんに決めてもらいましたね。集落みんな同じ名字とかありますね! 戦前まで屋号で呼びあうとかですよ。
@ポンプミ
@ポンプミ Жыл бұрын
ご先祖様たちがどういった暮らしをしていたのか、考えるキッカケになります。 ありがとうございます。 東北地方の人々は寒くて苦労したかもですね。
@WearstFaker
@WearstFaker Жыл бұрын
実際は東北の苦労はそこまでではない。無能な藩主であればあったかい地方でも飢餓とか一揆の危険にさらされた。 一番深刻なのは長州藩と薩摩藩。長州藩は貿易の利益などで税収は莫大だったが、事業の失敗で借金。借りた金が返せない状況で農民から重税を課した。当然農民から不満が出るが、その不満のはけ口は徳川幕府だった。 薩摩藩は、「ソテツ地獄」。小さな島に島民を監禁して、商品作物を搾取。利益は莫大だったが、大量の武士(藩の規模に不相応な)にその税金の大半は消費され、事業の失敗もあり農民に重税を課した。 薩摩藩はのちに禁門の変などで、幕府に恩を売り、徳政令を引き出そうとしたが失敗。討幕運動に加担する。 内政の失敗の責任を外部に責任転嫁するのは、今も昔も変わらない。
@csny0627
@csny0627 11 ай бұрын
奥羽越列藩同盟に加わった旧藩地域は、維新後の方が差別的で酷い扱いを受けたのが実際だったと思いますよ。就中、会津の薩長に対する心持は他地域の者からするといまだに計り知れないものがあるのかもしれません。
@ATA133PCI
@ATA133PCI 11 ай бұрын
寒いのもそうですが、借金で苦労した例もあります。 南部藩の支藩、八戸藩は借金の末に藩政を商人に乗っ取られてしまい、上から下まで藩全体が途方もない貧困に陥りました。
@azumam2427
@azumam2427 11 ай бұрын
ワイの所も東北地方ですが、領主が名君だったので江戸末期の大飢饉の際に一人も餓死者を出さなかったと言われている。それに我が部落には郷倉っていうものがあったからね。飢饉に備えて籾を備蓄していたんだと。こんな話がある。嫁に行くなら郷倉がある部落に行きたいってね。
@鴨谷周
@鴨谷周 11 ай бұрын
@@ATA133PCI 商人が本気出せばそんなものですよ、今でもね。武士、公務員こんなものはヤクザの次にクズですよ。
@市井の人-y5y
@市井の人-y5y 4 ай бұрын
江戸時代の庶民の生活が苦しく生きることもままならないのなら、あれほどレベルの高い独特の文化が生まれるはずはないですね。識字率も非常に高く優れた教養も持ち合わせていました。殆どの家庭には数学の問題集があり、好んでそれを解いていたとも言われています。現代より余程豊かな暮らしを謳歌していたのでしょう。
@博多行水
@博多行水 10 ай бұрын
百姓と米の件、全くその通りだと思います。江戸時代後半で全国の年貢高3000万石、 人口約3000万人、人はいつの時代も誰でも一年に1石の米を食べる、米を廃棄する人はいない、と考えると百姓が米を食べていないと武士、町人だけで米を年に5石食べる必要があり無理な話です。全国の米の相当部分(800万石)が大坂堂島の米相場に集まったというのも変な話で、堂島な絵図を見るとそんな大量の米を入れる倉はありません。米に関する思い込みや都市伝説は多いようですね。
@kta7843
@kta7843 10 ай бұрын
お米の現物を大坂にあつめていたわけではないだろう。 WTI原油(注)など一部の価格を基準に値段が決まる。 だから、大きな倉庫は不要だろう😊。 (注)WTIは英語表記「West Texas Intermediate」の略で、米国南部のテキサス州とニューメキシコ州を中心に産出される硫黄分が少なくガソリンを多く取り出せる高品質な原油で、欧州産の北海ブレント、中東産のドバイと並ぶ、原油価格の代表的な指標のひとつ。 水産物や野菜・花などの卸しは現物が眼の前にあって取引するが😅。 麦ご飯といっても、米に麦を混ぜて炊いたご飯を私の小さい頃、言ってた。麦だけのご飯は食べられたものでない😮。 その麦ご飯から純米のお米を食べるようにいつ、なったかは皆覚えていない(笑)。 それでも、8月頃からお米が少なくなるとサツマイモやうどんが増えてきた😏。 我が家は供出するほどの田んぼは無かったので、普通の米を食べられ、大百姓は良いまともなお米は供出し、小米(半分以下に割れたお米、成長仕切れなかった小さなお米。美味しくない)年中食べてんだぞ、っと言ってた😂。 百姓の仕事例えばお米作りなど、今でこそ毎年ほぼ一定に収穫があるが、昔は良いときと悪いときが極端、まるで、博打。対処するのに植物の速さではなく昆虫の速度でしないといけない、明日でも暇なときやろうとすると全滅する😮。 見かけと全然違う😂。
@kazuisd
@kazuisd 10 ай бұрын
差別の酷い国は、歴史的に昔から身分制度が厳しい印象です。例えば米、中、朝鮮半島ほか。 日本は他国に比べ差別は少なく、昔もそうだったのかな?と思っていたので確認出来て良かったです。 活気のある祭りも今も残っているし他、敬意さえ感じる。
@真小久保
@真小久保 Жыл бұрын
時代劇通りに悲惨だったら江戸時代続かないだろ。
@mysygisun3335
@mysygisun3335 11 ай бұрын
一部においては、凶作時まともな取り立て、一過が起きてもいたことは確かで、 津城は代官・名主の話し合いで、年貢の調整が行われていたのが確かな様だ。 また、下手な取り立てをして、大規模な一揆問題を起こせば、藩の取りつぶしも有った雄である。 ただ百姓と言っても、名主・地主・自作農・小作農・( )と多岐に渡り、 小作農が地主・名主に米を納めるのが5割と聞いていた。 ただ小作でも、上中下と状態が有ったのを忘れてはいけない。
@poo5988
@poo5988 10 ай бұрын
時代劇は江戸時代の生まれがすっかり減った大正時代に誕生しています。歌舞伎や残った資料などを基に製作したようですが、生き証人が減った状況での製作だったためかなり憶測による創作が多く入ったようです。これが原型となり、現在に引き継がれています。
@山中達雄-j3p
@山中達雄-j3p 4 ай бұрын
@@poo5988 憶測って左巻きの連中だろ?
@mykey308
@mykey308 4 ай бұрын
俺の先祖は豪農、粟ひえお米を奉納 たまの凶作 Oh no! 労え農家の功労 庭には立派な灯籠 レペゼン百八煩悩
@asa-du5cw
@asa-du5cw 4 ай бұрын
戦後の時代劇がこの様な江戸時代貧しく悲惨な洗脳を行なったのでは?水戸黄門などあり得ない話をてんこ盛り
@sintaro6634
@sintaro6634 10 ай бұрын
戦後教育の弊害ですね、西洋の方が優れていると言う印象操作の為に教科書もそれに沿った作りがされていて正しい歴史が伝わっていないのはこれ以外にも枚挙が無いですね、日本人はもっと誇りを持つべきですね。
@largehill9736
@largehill9736 10 ай бұрын
何でもかんでも戦後教育に結びつけるのはよくないと思います。江戸時代と明治時代の間に不連続性があるとしたら、それはむしろ明治時代の教育の問題ではないでしょうか?
@sintaro6634
@sintaro6634 10 ай бұрын
@@largehill9736 明治時代の教育ってそんなにネガティブ要素有るのですか?
@largehill9736
@largehill9736 10 ай бұрын
@@sintaro6634 維新の重鎮たちが自分たちのやったことは正義であるとアピールするために、必要以上に江戸時代を貶めたということはあると思います。
@g11ds
@g11ds 10 ай бұрын
@@largehill9736 重鎮というより失礼だがドアホですわw
@tamitouta
@tamitouta 10 ай бұрын
だって明治政府は田舎者(薩摩、長州)ばかりで、江戸に引け目を感じてたんじゃないかしら?江戸幕府の方が垢抜けて、頭も良かったと思います(ただサラリーマン化して喧嘩なんか弱そう)田舎は男尊女卑だけど江戸は女の方が強かった!髭もそう、侍(キチンと仕えて居た)は髭は禁止されていた!でも明治時代は偉そうに髭付けていた🧔!
@yuzukusu2613
@yuzukusu2613 10 ай бұрын
江戸時代はプチ氷河期にあたり、たびたび冷害で飢饉に陥ったので、その時の情報が拡大解釈されて江戸時代全体で悲惨だったってイメージにつながってる。 「米」が食べられなかったという話も、収穫量と人口を比較するまでもなく、「米」が国民全員が食べる主食でないかぎり、米本位制という経済体制は成立しない
@みんなの願い平和
@みんなの願い平和 10 ай бұрын
小名木善行さんが言っている。人口の七割は農民との事。なので後三割作れば良い。 日本は農民を中心にした文化だ。
@aa35544
@aa35544 4 ай бұрын
現在でもサラリーマンという小作人制度がありますよ
@只野人也
@只野人也 10 ай бұрын
実は日本人にとって幸福な時代であった様な気がしました😂
@sanitation_master
@sanitation_master 10 ай бұрын
私の曽祖父は明治中頃の百姓でしたが、米の収穫が終わった秋の終わりぐらい頃、村の仲間で一か月程度も近くの湯治温泉に行っていたそうです。天保期からはじまった村百姓と女衆の楽しみだったそうです。
@ApplemintGuitar
@ApplemintGuitar 9 ай бұрын
新選組の近藤勇や土方歳三も、幕府直轄地の農民や商人で、苗字を名乗り剣術の稽古をしていたことは有名。 いざという時、江戸を守るためと教えられていました。 武士よりも武士らしく、剣術の腕前も並外れていたと伝えられています。
@西村徳一-f8m
@西村徳一-f8m 10 ай бұрын
教育と言うものは有る意味恐ろしいものと理解。確かに江戸時代の実態はそうでしょうね。違和感少し有った。世界的に正しい知識がネット等で!!と期待す。
@nyantaro-momo2
@nyantaro-momo2 4 ай бұрын
多分、幕末~明治時代が一番、農家が大変だったと思う。明治時代の地方は搾取対象で、都市部にお金かけられていたから。そもそも、いい時代じゃなきゃ250年以上も続かない。同じ侍社会だとしても、いくら参勤交代があっても、そんなに格差あったらこんなに時代は続かない。むしろ明治以降の近代日本のほうが、太平の世が2~30年続くとどん底をみる繰り返しで政権闘争ばかりで国民置き去り。どんどんひどくなっているから近代日本の形は近いうちどんでん返しが来ると思う。
@ひさぴ-e7d
@ひさぴ-e7d 11 ай бұрын
今じゃこちらで言う農民より年貢を政府に取られている現代農民は江戸時代より身も心も貧しい生活なのか… 五公五民じゃなぁ…
@yuuma328
@yuuma328 10 ай бұрын
その通りですね。税金高過ぎ!
@bigmarch8686
@bigmarch8686 5 ай бұрын
農村地帯を地盤とする某政治家が「農家は税金払ってないだろ」とか口を滑らして大騒ぎになった事ありました。 税金払うだけの所得ないって事なのに、その政治家何言ってんだろ。
@チュンチュン丸-y5z
@チュンチュン丸-y5z 10 ай бұрын
貧しくても、貧困でわなかったと思います。きっと一日一日を笑顔で過ごしてたと思います。 だって、私達だってその一日に、笑顔してるから・・・人を思いやる気持ちは、昔も今も同じだと思えるご先祖様の宝物だと思いませんか?
@1950ame
@1950ame 3 ай бұрын
なるほど、そうゆうことですか。我が家には百姓代と言う書付を城下の代官所から貰って 鴨居に祖父が飾っていました。確かに百姓ですが江戸時代からの代々のお墓が苗字付きで夫婦別に大きく立派な石塔があります。江戸時代は百姓には苗字は無かったと習った記憶があり、長年おかしいなぁと思っていました。それ程貧しくはなかったのかもしれませんね。
@yuukakamiya4751
@yuukakamiya4751 11 ай бұрын
地域差が激しい、飢饉もあるし天災も多かった時代だから。あと藩によって要求が違うからキツい藩と余裕がある藩はあったと思う
@wayo135246
@wayo135246 10 ай бұрын
同感です。
@雪矢上
@雪矢上 10 ай бұрын
それはそうだよね 飢饉で人まで食べたり娘を遊女屋に売ったり息子を奉公にだしたり芝居小屋に売ったりした家もあるわけだし 最近「おじろくおばさ」が話題になりがちだけど、アレは悲惨なんじゃなくて外に働きに出す必要が無かったって事だから地域としては豊かなんだと思う。
@竹内一真-r8k
@竹内一真-r8k 10 ай бұрын
藩によっても天領かどうかによっても違いがあった。貧しい藩もあれば豊かな藩もあったし、ひどい饑饉で餓死者がでた藩もあれば、名君のおかげで被害が無かった藩もあった。年貢の半分は米で他は綿とか紅花とかの産品だった。武士や人々の生活が米だけで成り立つわけがないのだ。江戸時代の経済が明治維新頃には行き詰まっていたことは、同時期に人口が停滞していたことからうかがわれている。
@ヨッシー-g8m
@ヨッシー-g8m 10 ай бұрын
悲惨なのは水飲み百姓って言われてた人達でその他の百姓は結構豊かだったって長野の爺さんが言ってたなあ
@明石浩一-t5t
@明石浩一-t5t 10 ай бұрын
素晴らしい!面白かったです、登録しました、日教組は日本人が作って無いし、少しずつ本当の歴史が広まれば日本人の生き方、考え方がもっと良くなる、ありがとう御座います
@まさやんまさやん-w6c
@まさやんまさやん-w6c 10 ай бұрын
江戸時代より現代の貧困問題の方が悲惨なように思いますが。これを後世の教科書は何て記すのでしょうか?
@dadanjinochichi7529
@dadanjinochichi7529 10 ай бұрын
現代日本の酷税よりはるかに楽 今は5公5民
@taka20062006
@taka20062006 10 ай бұрын
江戸時代の庶民って長屋の職人もそうだけど結構豊かだった。無税だし。店舗と大家さんは税金はあってけど個人にはなかなかいい生活だった。だから読み書きそろばんも自費で学べた。当然兵役もないし。4公6民が基準で藩によっては5公5民もあったがそれに裏作で藩によるけどだいたいいい生活だったのでは。(酷い藩もあった)土地で前金が決まるので棄地がいちばん行政側にとって悲惨だったでしょ。
@venusxxx-px5zu
@venusxxx-px5zu Жыл бұрын
田舎では田んぼの労力の為か、昔は一族が固まって住んでて、みな同じ苗字で紛らわしいから、屋号で読んでますね。 今でも老人は屋号で呼んでる😂
@minakosato2997
@minakosato2997 10 ай бұрын
今と違って農薬はなく、治水も品種改良も今ほど進んでいなかったでしょうから、天候や災害による不作は頻繁にあったはず。実際大きな飢饉が何度もあったと記録にもあるように、全く飢えずにいたことは無いと思います。でも過去の支配者を悪役にすると都合が良かったので、武士が過剰に悪いように説明されてきたのではと思います。 調査が進んで教科書の修正が進んでいるようで嬉しいです。
@Kミッツ
@Kミッツ 10 ай бұрын
幕府に出す書類には百姓は苗字は書けないが、住民管理をしていた寺や墓などには人物を判別するため、普段使っている苗字が書かれていると聞いたことがある。
@tamitouta
@tamitouta 10 ай бұрын
過去帳ですね!
@user-eb6ds4hx6z
@user-eb6ds4hx6z 11 ай бұрын
まさしく田舎者でも墓石やお寺の鐘に全員名字があります。
@mattsong3975
@mattsong3975 11 ай бұрын
農村のお墓ですか? 苗字を彫りつけても、怒られなかったのですね。
@こうだああだ-t7u
@こうだああだ-t7u 10 ай бұрын
これを見ると江戸時代の百姓は現代の庶民とあまり変わらない気がする。
@こうだああだ-t7u
@こうだああだ-t7u 10 ай бұрын
でも苗字を名乗れた百姓は例外に過ぎなかっただろう
@tamitouta
@tamitouta 10 ай бұрын
@@こうだああだ-t7u 名乗る必要が無い、周り近所皆親戚、顔見知り、(旅行とか行く時は必要かもしれないが)普通に暮らして居ればいちいち姓名を云う事も無いでしょう!
@junboo615
@junboo615 10 ай бұрын
豪商や稼ぎの多い農民が身分や佩刀権を金で買う、なんて普通にゴロゴロありましたよ。
@畠山智子-h1e
@畠山智子-h1e 10 ай бұрын
父の話し、先祖が足軽3人ぶちの侍だったけど、その実態は、百姓侍だったと言ってました。農業をしている侍とゆう身分だったと。
@gennbanndai8652
@gennbanndai8652 11 ай бұрын
近代の歴史観、歴史教科書は、明治政府が急ごしらえしたんですな。
@UCMsrBguH03LVMtj1XAIhgWQ
@UCMsrBguH03LVMtj1XAIhgWQ 2 ай бұрын
人口の85%を占める江戸時代の百姓の生活がそんなに苦しかったら、江戸幕府が260年も続く訳がない。 田中圭一 著「百姓の江戸時代」(筑摩新書270)や渡辺尚志 著「百姓の力」(角川ソフィア文庫)を読むと実態がよくわかります。 それに「百姓=農民」ではない。
@bigmarch8686
@bigmarch8686 5 ай бұрын
お寺にご先祖様が寄進した純金の花器が残っているので、それなりに豊かだったんじゃね。
@たこやきの趣味の部屋
@たこやきの趣味の部屋 11 ай бұрын
今の総理大臣になってから国民は悲惨だし、これからはもっともっと悲惨になるだろう。 現総理の一族は富を得る事が出来るだろうけどね。
@green13876
@green13876 9 ай бұрын
士農工商とかは昭和につくられた言葉だからねw 平安時代から各氏族事に本家、商人、職人、荘園(農業)、武士と色々なジャンルに 人材を持っていて各地域事に室町時代から苗字も地域ごとに沢山使用していて普通に 昭和まで連携してましたよ!
@カレーの妖精-b8f
@カレーの妖精-b8f 10 ай бұрын
年貢を納めてた農民は裕福だったと思います。 しかし、年貢を納めなくていい農民、農民の大部分を占める『小作人』も裕福だったのでしょうか?
@スズキ-k2h
@スズキ-k2h 10 ай бұрын
先祖は藩境にいた侍です。農業はもちろん、麹も作っていました。他には鍛冶屋等の兼業が当たり前だったと思います 数十人程度の集落が点在していたと思われ、身分云々があったら結婚も出来ませんし、結婚したら親戚関係、同一族になり。下男下女となったりで同じ姓を名乗っています。そういった人を束ね畑仕事をしていたと聞きます(農地にしても働く者がいなければ成り立ちません) 同一族化する事で少ない人数で藩境の小競り合いに備える意味もあったかもしれません。 田舎士族は給料を自力で稼ぐ公務員ですよ。加え藩からの年貢以外のモノも求められていました(砂金等) そんな地域民を守るために死罪覚悟で申し立てをしたり(藩主とは親戚関係であり死罪にはなりますが通る事もあったり、城主が動けない時に城主の代わりに直訴したり)
@36936636
@36936636 11 ай бұрын
石川 英輔 氏著「泉光院江戸旅日記」を読むと農民は結構良いくらしをしていた事が判りますね。
@野口英一-v4c
@野口英一-v4c 10 ай бұрын
映画「七人の侍」の中に野武士の襲来を防ぐために、百姓が自分達の隠し持っている食料を、浪人たちに見せて野武士たちに対抗するよう取引する場面が出てきます 貧困に喘いでいた野武士たちは百姓が豊富な食料や財産を隠し持っているのを見てびっくりします 藩を首になった浪人より百姓のほうが裕福だったのは事実だと思う
@robeko-chang
@robeko-chang 10 ай бұрын
おしんに影響されすぎなんで…
@hanaziro0504
@hanaziro0504 8 ай бұрын
うちの田舎では年貢の米より特産の椎の実や椿の実の石高のほうが高かったのでそちらの実を出せば 米の出す量が少なくなるので飢饉の際にも米があったとの記録があります。
@takashii7111
@takashii7111 10 ай бұрын
新田開発や農業技術の向上によって生産性が上がったことで、江戸末期の年貢率は10~20%まで下がっていみたいです。あと、不作の時など収穫量に応じて年貢の量を交渉して決めており、一方的に取り立てることもほとんどなかったようです。一揆を起こされると、藩を収めている武士側が困るため、農民の方が一揆を起こすと脅しを掛けていたことも少なくありませんでした。
@osaru332
@osaru332 7 күн бұрын
日本中どんな山奥の集落でもそこそこ立派な神社お寺がある それらを維持できていたことを考えるとただただ貧しいだけとは考えにくい
@雲-r2m
@雲-r2m 10 ай бұрын
「四公六民」とな?  現在は半分近くを持って行かれてるんだが・・ 江戸時代の百姓より今の暮らしの方が厳しいってことだね。 納得!!
@カラオケソング集
@カラオケソング集 6 күн бұрын
胡麻の油とサラリーマンは搾れば搾るほど金になりますから(笑)
@かしわ台補聴器
@かしわ台補聴器 10 ай бұрын
自作農と小作農では、かなり違ったのではないでしょうか。
@hiroshitanaka4942
@hiroshitanaka4942 Жыл бұрын
苗字なんて持っていたも名乗らなかったんだよ。名乗る必要がなかった。また変に名乗ると税金を取られやすくなっていた
@mattsong3975
@mattsong3975 11 ай бұрын
税金を取られやすく……、そんなことがあったのですね。
@hiroshitanaka4942
@hiroshitanaka4942 11 ай бұрын
@@mattsong3975 家長制度で家長に対する住民税があったんですよ。苗字を名のならなけらば取られずに済んだんです
@mattsong3975
@mattsong3975 11 ай бұрын
@@hiroshitanaka4942 さま 有難うございます。何処かの藩で行われていたのでしょうか。藩に苗字を登録しなければ、村内で名乗るならば、課税とはならなかったのでしようか(質問するようで申し訳ありません)。
@nomadkyoto5431
@nomadkyoto5431 8 ай бұрын
士農工商は身分ではなく、えたひにんも身分ではない。基本的には職業分類です。 親の職業を子が継ぐことが多かったため身分であるかのように見えただけと思います。
@user-nn6ri3un6l
@user-nn6ri3un6l 7 ай бұрын
御一新に成ったはいいが薩長輩はこの日本をどうしていいか分からず…国民は徳川時代の方が良かったと言ってたそうです。
@00kumakuma
@00kumakuma 11 ай бұрын
戦国時代が終わって侍大将以下は帰農しているので、そもそも武士は農民に勝てない。 江戸時代検地は1回しか行われず、増産分は農民の取り分で税率は時代が進むほど落ちていた。
@松本悠佐
@松本悠佐 11 ай бұрын
確かに悪政や年貢の取り過ぎで一揆や騒動はあったかも知れませんがどこかで江戸幕府の政治は悪い…ダメ🙅だという流れに変わった気がします。
@tamitouta
@tamitouta 10 ай бұрын
茨城の夫の墓地に由来が細かく書いて有り、佐竹藩が穏やかに暮らさせて居たが幕府から東北への藩の移動を命じられ、夫の先祖は付いて行かず、地元の郷士(農民)として止まりました、しかし幕府直轄の代官に年貢を絞り取られ、一揆が起こりそうになって、村中が荒れた時、先祖の1人が幕府の役人と話し合い、年貢の件と合わせて新田開発の許可を得て何とか鎮めたそうです!そして、その時、開いた新田に先祖の名前が付いて(今は地名)います! 特産物(紙、漆、蕎麦)も多くて裕福な地域だったのです!(だから幕府直轄にしたのかな?)
@gyanodhyan5118
@gyanodhyan5118 3 ай бұрын
日本各地に語り継がれる、昔話には、ごく少数の怠け者が貧乏になるが、真面目に働く村人たちは、互いに助け合って、その様な人でも受け入れる、和やかな農村社会であった事が、伺えます。
@21stcenturymanury
@21stcenturymanury 11 ай бұрын
講談 浪花節 時代映画 小説が聞かず読まず見ずが一番で〜す⚔と!? 厳しかったら現代人まで人口は続かないのでは🤔ネ゙
@ginger9774
@ginger9774 10 ай бұрын
というか、江戸時代の人々の体の動かし方を知りたい。 超大きな米俵とかを、小柄な年配の人とかが、担いでる絵や写真が残ってるんだけど、どうやってるの? 今だと、ベトナムで、細い小柄なオジサンとかが、超重そうな鍋とか機械を担いじゃってビックリするんだけど、どうなってるんだろう?
@西村徳一-f8m
@西村徳一-f8m 10 ай бұрын
何事にもコツが有りますよ。又、筋肉は鍛えると強くなる事は御存じと思います。自分も高校時代60kgの米俵かついだが、今では10kgがとても重たく後期高齢者は筋力衰えるなと。筋力強化を心してる。
@junboo615
@junboo615 10 ай бұрын
筋肉を使うっていうのも西欧から入って来た考え方。体の使い方がそもそも違うし、スタミナをつけるのに肉を食わないですね。体の作りはそもそも西欧人と違うので肉を食ってもすぐにエネルギーに変えられない。明治の初期に日本に来たドイツ人の食物学者の事を調べてみると良いかもです。籠担ぎの人足に肉を食べてもらった実験をどっかで読んだ気がします。😅
@ginger9774
@ginger9774 10 ай бұрын
@@junboo615 ありがとうございます😊
@YTest-q2w
@YTest-q2w 11 ай бұрын
0:28: 🌾 江戸時代の百姓は貧しくなかったことが最新の研究で分かってきています。 3:21: 🗡 武士と百姓の社会階層についての最新の研究結果が明らかになってきています。 6:58: 🌾 江戸時代において、農民は米作り以外の作物を裏作として栽培し、特産品を年貢とは別に納める藩もあったが、原則として年貢がかけられていた。 9:57: 🌾 明治政府が百姓たちの貧しさを強調し、米を毎日食べられるよう実現したかったというプロパガンダが真相である。 13:02: 📚 百姓身持ちの覚書とは17世紀半ばに流布した地域の百姓に対する共有書で、徳川藩主によって広く流布された。 Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです…
@yama7587
@yama7587 10 ай бұрын
たかだか数百年前の状態すら把握出来ていないという事実 学校で子供に何年も掛けて教え込む程の価値を感じません 日本史と世界史はそれぞれもう少しスリムにして1教科にしても良いのでは?と感じます 子供の頃に習った話は結構な割合で覆るし、参考資料によって諸説あるし、ほぼ研究者の想像の域を越えていない説が多い気がします
@tamitouta
@tamitouta 10 ай бұрын
歴史は自分のことを中心にすると理解しやすいと思います!本の丸暗記ではつまらないです!おばあちゃんひいばあちゃん又そのばあちゃん(爺さんでも同じ)と辿ると直ぐに江戸時代です!菩提寺の過去帳でも分かります!頭の硬くなった学者の書く物では無くて!
@TheYamatou
@TheYamatou 10 ай бұрын
百姓で片付けてしまうと分からなくなります。  百姓を本百姓と水呑み百姓に分ける必要があります。 そして叛逆症の中でも庄屋はまた違うのです。 一般に人口が最も多いのは水呑み百姓です。 水呑み百姓は其の名のとおりに、白米を食べることは殆どありません。 そして土間や板の間での生活が中心です。 田畑を所有せず人夫のように使役を提供する人たちです。 大昔は百生といえば、氏、姓制度で姓を持たない人たちで、更に専門の職業を持たない何でも出来る人たちだったのですが、江戸時代には農業従事者を百生というようになったみたいです。 そして年貢としての米は最重要物資であるためこれを生産する農業従事者を管理するために、本百姓には名字や短刀の帯刀も許していました。 また水呑み百姓の子も寺子屋教育を受けさすなど国の構成員として管理していたのです。 百姓たちは此のように村としての中で大事に管理されて集団生活を送っていたのです。 ダカラ祭りや何かがあった時には白いご飯を食べることも出来たのです。 代官の取り立てが厳しい時でも寺に保管しておけば寺社奉行の管轄となるため治外法権で祭用の食物なども無事だったのです。 そして、優秀な子供には篤農家の庄屋などが特別に勉強させるなど、村としての人材育成なども行なったりして、共同体としての管理を行っていたのです。 貧乏武士などよりも、マトモな生活をしていたのではと思います。 此のように、共同体として野村の中では水呑み百姓も生活の中心者として、共同体のぴち員として生活していたのです。  大陸の社会と違い身分の違いは有っても単に支配する側される側という厳しい搾取の構造はあまりなかったと言えます。  此の村での関係はそのまま庄屋、代官、半、将軍というたての関係でも発揮されていました。  つまり余り管理ができていなければ其の半が取り潰しなどに合うわけです。  幕府の其のような版画多く出てきては幕府の体制が揺らぐために管理をしていたわけです。  ソシテ更に、日本では幕府といえども天皇から政治を任されているという建前が有ったため、何時でも其の名を取り替える故実ができおれば謀反が起こせると言おう牽制ができるようになっていたのです。  バクといえど、天皇から征夷大将軍の称号をもらって政治を取り持っているだけの存在だったからです。 一般の大陸の国では考えられないような体制を維持していたのです。  これが日本の特殊性に関係してきます。
@user-nn6ri3un6l
@user-nn6ri3un6l 7 ай бұрын
だから薩長等は戦争を起こしたのを後悔したそうです。何故なら徳川時代は政治·や外交に優れており幕府時に自分たちより優秀な人達がいたので俺達はなんて事をしてしましたんだろう…特に岩倉具視が病気で床に伏せてた時、明治天皇が見舞いに来た時天皇に自分達がこんな情けない世の中にしてしまい謝るように両手を合わせ床に伏せたそうです。それを観た天皇がそれみたことかという表情をしたそうです。
@yamatakehu
@yamatakehu 9 ай бұрын
私の先祖は土地を有していた豪農でした。いろんな家宝が残っています。ただ、土地を相続できなかった百姓の次男坊以下はどうだったんだろうか。
@uncle-monk
@uncle-monk 10 ай бұрын
古い時代、本家→分家でも 戸籍に載る『姓=名字』は一緒。 混乱を明瞭化するため、各家々には 姓とは別の 屋号(家号)がござって、 同姓を明瞭にする慣習がありました。
@tamitouta
@tamitouta 10 ай бұрын
今でも田舎は同性が多くて、名前で言い合っています😂
@uncle-monk
@uncle-monk 10 ай бұрын
@@tamitouta 地域や時代にもよりけりでしょうが、 戸籍(=公式)な姓名で呼ぶは無礼。 そのような価値観がございまして、 同じ姓でも・・・だからこそ(?) 『屋号』で呼ぶ風習がございまして。 南関東の我が故郷でも、native層には 未だに根強くて・・・
@tamitouta
@tamitouta 10 ай бұрын
@@uncle-monk 外回りの仕事をしてます、ひとつの集落の殆どが同じ姓!分家して、又、親兄弟が近くに住み(広大な田圃や畑がある)で訪問するとき、気をつけています! 子供の頃、母の親戚が集まると殆ど屋号で呼び合って又は子供の頃の呼び名とか、チンプンカンプンでした!
@uncle-monk
@uncle-monk 10 ай бұрын
@@tamitouta 隣の集落にも同じ屋号が在ったりして、 大人たちは直ぐに判ったようだけど、 子供たちには難しかった。
@そろそろ-p7y
@そろそろ-p7y 10 ай бұрын
べたべたの美談がやたら多い明治維新の裏で実はなんかあったんだなと思ってしまう話ですね、事実が大切、ありがとうございます
@yosiakifukuhara1255
@yosiakifukuhara1255 10 ай бұрын
勉強になりましたありがとう。
@田織園斎
@田織園斎 10 ай бұрын
私の父は農家の生まれだった。しかし性市川は十数代以上菩提寺の過去帳に残っていたそうだ。農家も様々だ。母方の曽祖父は代々加藤姓江戸時代から続いている。
@雅史新藤
@雅史新藤 2 ай бұрын
小・中学校の教科書には、改訂しなくてはいけないことが多くなってきましたね。縄文時代の発達した日本文明のこと、元寇のとき本当は日本の武士が優勢であったこと、などをはじめとし、この動画のように江戸時代の日本が世界でも先進的で豊かな社会を築いていたことなどを正確に記述し、日本が劣っていたというイメージを植え付ける教科書を改めるべきです。
@masaiz3997
@masaiz3997 4 ай бұрын
実家は農家ですけど出自ははっきりしていて清和源氏の武家でしたが豊臣方で、関ケ原の戦い(1600年)の6年前文禄 3年(1594)に廃業し?新田開拓事業に参加し農民となりました。明治の北海道の開拓民と似たようなものですね。なので苗字は持っていましたよ。そういう農家がかなり多いと思います。ただ苗字はもともとは〇〇でしたが農業や商売をやったことで江戸時代には〇〇屋と屋がつき、明治の時代には「屋」は古臭いと思ったのか「谷」に変えた苗字に改名して現在があります。
@真小久保
@真小久保 Жыл бұрын
間違った歴史利用で部落逆差別とか。
@WearstFaker
@WearstFaker Жыл бұрын
明治時代の教育が、薩長史観によっていて、薩長のステレオタイプを日本全国の人が植え付けられたから、差別も同様に広がった。
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