【衝撃の裏側】学校では教えない白村江の戦いと壬申の乱〜後半〜|小名木善行

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Күн бұрын

Пікірлер: 149
@angelblue4849
@angelblue4849 Жыл бұрын
前半ってどこにあってどうやって見るのでしょうか?
@takaohirai1393
@takaohirai1393 3 жыл бұрын
日中間で休戦協定を結んで撤退するところに襲撃するって、李舜臣って7世紀から居たのか。 こんなことするのが歴史であり伝統であり文化なんだろうな。
@satoshiidee2022
@satoshiidee2022 3 жыл бұрын
教科書では決して教えてくれない、白村江の戦いの真実を初めて知りました。多くの日本人が亡くなった太平洋戦争にも匹敵する大事件だった事がよく分かりました。歴史教育において、その時代に生きた人々の声、心を教える事、知る事は、大切だと実感しました。
@ぱぴぽら
@ぱぴぽら 3 ай бұрын
天智と天武がなぜ兄弟を前提で話をされるのですか?  もうそれだけで事実である訳がない
@schyshuy3118
@schyshuy3118 3 жыл бұрын
ありがとうございました。非常に勉強になりました。
@SSD2000G
@SSD2000G 3 жыл бұрын
国家体制が一気に変化した激動の時代でもあり白村江前後は日本国形成に最も影響与えた時期だと思います しかし謎が深い
@大友邦久
@大友邦久 4 ай бұрын
学校では、白村江の戦いは、中国の巨船と、白村江の地形により、敗れた、と教わりました。奇襲とは…、新羅ですかね?。天智天皇、地方豪族から改革等も含め恨まれていたと言いますが、大友の皇子も含めた、グル作戦とは…
@masai5337
@masai5337 Жыл бұрын
こんな真相があったとは。知りませんでした。講義ありがとうございました。
@日本仁人
@日本仁人 3 жыл бұрын
白村江の戦い、やっと納得しました。 弱い海軍力で強い大型船団に挑んで焼打ちにあって散々やられた・・そのような内容だと記憶していた。 これこそ”目から鱗”でした。あの本書いた奴・・・
@GT-vn8zi
@GT-vn8zi 3 жыл бұрын
先生ありがとうございます 今も昔も半島に苦労です 構わないのが 一番大事なです
@okunobuyuki8796
@okunobuyuki8796 3 жыл бұрын
戦いで亡くなったとされる歴史上の人物が何人かいたということですね。そしてどうしてそのようにせざるをえなかったのか、そこまで考えると、今後もそのようにした方が良いという場面に出会う要人も出てくるかもしれませんね。
@名倉雅
@名倉雅 Жыл бұрын
俺の高校時代は「はくすきのえ」って習った。 今は「はくそんこう」に変わった。 そんなこんなで、大野城が出来て水城が出来た。 約1350年前に造られた水城は、今でもその跡が残っている。
@100mmgw6
@100mmgw6 3 жыл бұрын
白村江の戦いの認識が変わりました。今回も非常に面白い解説を拝聴しました。感謝致します。
@gjladd5344
@gjladd5344 11 күн бұрын
あの人の話は根拠がほとんどありません。 日本は当時百済の開拓地。 言い換えれば、分国でした。 なぜという国号を変えたのが百済滅亡後数年あるが、日本に国号を変えた。 しかも中国では百済の別名が日本だった。 その当時、日本が何の関係もない百済に国運をかけた兵力を送ることができるだろうか? 日本では百済は本国だから兵力を送るしかなかったし、百済滅亡後百済ユミンたちが日本に大挙移動したことで分かる。
@ぶよぶよ-k5l
@ぶよぶよ-k5l 3 жыл бұрын
「日本をかっこ良く」より、「小名木先生がかっこいい」ですね。救世主に見えます!
@ジーン-k5u
@ジーン-k5u 8 ай бұрын
古代からの伝言と言うタイトルの歴史小説がとても面白く、オススメさせて頂きます
@anonwaravino9824
@anonwaravino9824 3 жыл бұрын
いつだって変わりませんね あの地域は・・・
@riuy1
@riuy1 3 жыл бұрын
今も大昔もちょっと昔も朝鮮って卑怯やな。 そして天武天皇天才か
@丸十勝
@丸十勝 3 жыл бұрын
天武が万世一系の天皇を発明したんですから天才ですわ (おそらく本人も皇居を見てビックリしていると思います)
@damamsns
@damamsns 7 ай бұрын
元寇の時の敵の総大将がフビライ・ハンだと言う事は知ってても白村江の戦いの敵の総大将が武則天だと言う事は日本ではほとんど知られていないですね・・・・教科書にも載ってませんしね
@仲麻呂-x6s
@仲麻呂-x6s 2 жыл бұрын
白村江の戦い、壬申の乱について、想像を超えた事実と思われる話をお聞きすることができ、非常に参考になりました。今、日経新聞朝刊に、「ふりさけ見れば」(安部龍竜太郎著)が掲載となっており、壬申の乱から70年たってもなぜ争いが終わらないのか、知りたいのです。との東宮の言葉に、吉備真備が説明を行う場面があります。この壬申の乱までの歴史の流れがよくわかったので、益々、「ふりさけ見れば」を読み進めようと思います。ありがとうございました。
@郎敏-i9d
@郎敏-i9d 3 жыл бұрын
約束を守る、という概念が無いのは今昔変わりませんね。どこぞの“英雄”とやらも似たことをやって、島津を怒らせたみたいですし。 そういえば以前、秀吉の末裔は生きていたというお話がありましたが、もしそうだったら絶対に所在を伏せておくのもわかりますね。生命が幾つあっても足りませんもの。
@ごず-h7m
@ごず-h7m Жыл бұрын
唐との休戦約定は証拠物があるのですか?
@문기강-v2i
@문기강-v2i 7 ай бұрын
Kudarawa kanhantoni inakattta. Gino kihei suuzyuumanga mou ichidou Kudarao kougekisitato iu kiroku, 660nen Kudarono hyakuseiga Tokketsuto Makkatsuni toukousitato iu kiroku, metsubousita Kudarawa Siragito Makkatsuni hennyusarettato iu kirokuga mansyuugenryuukouni kirokusarette imasu. Hakubakoumo Chinani arimmasu.
@gorofujikawa3422
@gorofujikawa3422 3 жыл бұрын
白村江の戦いについてまた続編をお願い致します。
@pontarou01
@pontarou01 Ай бұрын
教科書と全然違う
@미그23
@미그23 2 жыл бұрын
3万人は無事? 証拠?
@バル美存
@バル美存 3 жыл бұрын
持統天皇の役割と天智天皇と大友の皇子の吉野での生存説も新鮮で、正史の裏の真実を汲み取ることも学びました。
@tkc1094
@tkc1094 Жыл бұрын
新鮮だからって真実ではないと思います
@shunsukeakagi
@shunsukeakagi 3 жыл бұрын
素晴らしい話でした。今でも正式とされる報道なんか嘘ばかりですものね。
@user-jyanome-daisuki
@user-jyanome-daisuki 3 жыл бұрын
実に説得力ある小名木説を伺いました。
@天木佐久
@天木佐久 3 жыл бұрын
なんで壬申の乱なんかを起こしたのかなぁ〜⁉︎ と、日本史には?!?と思うことが多々ありますが、結美大学で疑問が解けていきます! みたからの 全てをしらば さもありや
@MrYoshichan
@MrYoshichan 3 жыл бұрын
倭国軍、唐軍に火矢が降り注いだ、の出典は何か?
@chanchan3493
@chanchan3493 Жыл бұрын
言っていることの裏付けが全く示されていない。 自分勝手な妄想でしゃべらずに根拠を示しながら説明すべき。
@keison1616
@keison1616 2 жыл бұрын
お疲れ様です。地元の越智直(おちのあたい)も唐の捕虜になって苦労して仲間とにげかえったそうです。帰ってきたら地震で家かなくなっていたそうです。天皇があわれにおもって別のところに土地をもらった 話しが言い伝えられています。
@yamaokadennki
@yamaokadennki 3 жыл бұрын
卑怯者の見本ですな今も昔も
@nameless5183
@nameless5183 3 жыл бұрын
ああ、本当にあの地域は昔からああなんだな。二度とあの地域の為に出兵したらアカンですわな。もう好きなだけ未開人やってろ。って思いますわ。
@鮭児-n6z
@鮭児-n6z 3 жыл бұрын
敵前逃亡するのはあの南民族の十八番🤭ベトナム戦争の時も南北戦争でもそうや
@ssannhiro3686
@ssannhiro3686 3 жыл бұрын
戦国時代、土岐氏の系譜を守ろうとして狂言合戦を行った岐阜の話を思い出した。 ひょっとすると、古史古伝みたいに、何か出て来るかも?
@正一市田
@正一市田 3 жыл бұрын
そんなものでてこない
@ssannhiro3686
@ssannhiro3686 3 жыл бұрын
@@正一市田 断言する根拠が出てきたの?
@yukiohasegawa9862
@yukiohasegawa9862 3 жыл бұрын
「白村江(はくすきえ)の戦い」は、昔、日本軍が半島で戦って負けた。位しか知りませんでした。大化の改新中にあったのですね。(それで改新に、全力が注げ無かった。) 若い貴重な命と、莫大な金と時間を失って、懸命に戦った。 そして防人を置いた。又、持統天皇は、大いに心を悩まし、平和、安全安心な人の世の創造とは・・・・ 「教育と文化」だ。 そして、国の教科書として「日本書紀」が産まれた。尚且つ、国司を全国に遣わして、教育の徹底を図った。 素晴らしい、真実の御講義、謹んで拝聴致しました。 今は、教育も文化も、乱れています。 戦後の新学制は、米人デューイの教育学(「自我の自主性が基本」と言う、人を獣にする特効薬。)で作られ、GHQに押し付けられました。 文化も戦後は、アメリカ文明(超個人主義、超物資主義)が蔓延しています。 しかし、蓮の花は、泥の中から、美しい花を咲かせて居ます。結美大学の活躍を、心から応援しています。
@shujimorimoto1488
@shujimorimoto1488 3 жыл бұрын
約束を守らない国って今も昔も変わらないんですね。 ああいう国を信じちゃあいけませんね。今でもそうですよ。
@nekoponpon298
@nekoponpon298 Жыл бұрын
半島に関わってはいけない 悪い結果しか生まない 悠久不変の定理です
@中村光男-o7d
@中村光男-o7d 3 жыл бұрын
某風土記逸文に、中大兄皇子は斉明大王の裳に服すると称して白村江の戦いに参加せず兵を引き日本側は日本側は惨敗した、とされているが本当のところはどうなのでしょうか。
@NaganoMasao2
@NaganoMasao2 3 жыл бұрын
天智天皇、大友皇子吉野隠遁節、ストンと腑に落ちます。
@glexun6482
@glexun6482 3 жыл бұрын
朝鮮戦争におけるアメリカ軍と中国軍というデジャブが...
@天衣無縫-e1v
@天衣無縫-e1v 2 жыл бұрын
白村江の戦いの教訓を、現代に生かせませんかね?
@なき-w8y
@なき-w8y 3 жыл бұрын
最近知ってチャンネル登録しました! 楽しく見てます。 9:42からの中南米までの太平洋の広大な海域が倭国(そういう認識を倭国側が一方的にしていたという事?)だったってところを別の動画で詳しくおききしたいです。
@yutakahiratuka7196
@yutakahiratuka7196 2 жыл бұрын
この時の朝鮮半島にに任那がないのはおかしいです。
@にゃんた1999
@にゃんた1999 3 жыл бұрын
唐側の資料にはどのように書いてあるのですか?
@ジョニーグッドマン-d3o
@ジョニーグッドマン-d3o 3 жыл бұрын
『旧・新唐書』百済伝・劉仁軌伝に記述があります。いずれも一局地戦のような扱いです。倭兵と戦ったとあるのは劉仁軌伝の方で、百済伝では戦った相手は百済兵だと明記されています。 ちなみに、倭国と唐との間で停戦協定が締結されたという記録は地球上に存在しません。
@gareongareon5505
@gareongareon5505 2 жыл бұрын
戦後設置された筑紫都督府(≒GHQ)については触れないのですか?
@ya9732
@ya9732 3 жыл бұрын
朝鮮戦争の韓国とアメリカの関係と同じで後々まで影響を及ぼすという教訓ですね。
@矢野伸一-m1x
@矢野伸一-m1x 3 жыл бұрын
学校で習ったタイトルだけの授業に対し、中身の説明なかなか興味深く聞く事が出来ました! こんな感じで授業があったら社会の授業は時間が足りなくなりそうですね(笑)
@菅原太郎-v4d
@菅原太郎-v4d 3 жыл бұрын
「天智天皇」を「てんちてんのう」と発音されていますが、正しくは「てんぢてんのう」です。
@s-yo
@s-yo Жыл бұрын
見てきたかのように話してるけど 根拠を1つも述べてないですね。 自分はこう思うっていうただの想像物語
@xb_yukkuri
@xb_yukkuri 3 жыл бұрын
百済救援軍の戦没者慰霊碑か舟出した場所か天智天皇の墓なと思ってましたけど確かにその説の方が説は通るなと思いました。毎回ありがたいお話ありがとうございます。
@早津直人
@早津直人 3 жыл бұрын
仮説ではありますが説得力があると思います。個人的な意見ですが白村江の戦いでは日本が勝って北上する程に補給線が伸びてしまいかなり不利な戦をせざるを得なかったと感じます。
@胡蝶しのぶ-o2w
@胡蝶しのぶ-o2w 3 жыл бұрын
やはりあっちのやつらは卑怯なのか?
@とほかみえみため山下白雨-h5g
@とほかみえみため山下白雨-h5g 3 жыл бұрын
防人ー4 防人歌 防人は厳しい任務であり、遠い東国から九州までを自力で移動せねばならず、さらにその任務期間中の兵は食糧も武器も各自で調達しなければならない。また、税の免除も行われなかったため極限の状態であった。その様な状況で作られた歌が防人歌である。 万葉集 万葉集には防人歌が収録されている。巻13、14にも含まれているが、巻20には最も多く含まれている。巻20に採録される防人歌は、天平勝宝7年に大伴家持が収集して撰集し、手を加えた上で掲載されたものである。防人歌が集められた背景として、上代文学者の多田一臣は、防人の制度が揺らぎ始めた奈良時代中頃に、防人に関する情報収集の一環として国家的政策として行われた可能性があると指摘している。 《沖つ鳥鴨といふ船の還り来ば也良の崎守早く告げこそ》筑前国守山上憶良が防人を憐れんだ歌であり、具体的な也良という地名を詠み込んでいる。 例 国国の 防人つどひ 船乗りて 別るを見れば いともすべ無し (現在語訳) 全国から集まった防人が(任務のため)船に乗って別れることを見れば、なんともなす術もない。 わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず (現代語訳) 私の妻はとても恋しがっているようだ。飲もうとする水に影までもみえていて、決して忘れられない。 唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして (現代語訳) 唐衣にすがって泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまったなあ、母もいないのに。 天地の いずれの神を 祈らばか うつくし母に また言問はむ (現在語訳) 愛おしい母と再び会って話すためには、どの天や地の神に祈ればよいのだろうか。 ちはやぶる 神の御坂に 幣奉り 斎ふいのちは 母父がため  (現在語訳)荒々しい御坂の神に幣をお供えし、我が命の加護を祈願するのは母と父のためである。 今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は (現代語訳) 今日からは身を顧みることなく、大君(天皇)の強い御楯となって我は出で立つのである。 『万葉集』における内容のパーセンテージ 妻・恋人を思う - 40.2パーセント 母を思う - 24.1パーセント 父を思う - 13.7パーセント 望郷 - 6.8パーセント 悲哀 - 3.4パーセント 忠君 - 3.4パーセント 体制批判 - 3.4パーセント 子を思う - 2.2パーセント その他 - 2.8パーセント[1]
@とほかみえみため山下白雨-h5g
@とほかみえみため山下白雨-h5g 3 жыл бұрын
防人ー2 たのしい万葉集: 防人(さきもり)の歌 防人(さきもり) Sakimori(soldiers to fortify the border of Kyushu) イラスト by 倉橋エリさま 防人(さきもり)は、筑紫(ちくし)・壱岐(いき)・対馬(つしま)などの北九州の防衛にあたった兵士たちのことです。崎守(さきもり)の意味(ただし、色々な説があるそうです)だと考えられています。 西暦664年に中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が防人と烽(ほう:烽火(のろし))の制度をおいてからのことです。これは、前年(西暦663年)の朝鮮半島での白村江(はくすきのえ)の戦いに負けたために、防衛のために考えられたようです。 防人(さきもり)の選定、任期、辛い旅 防人には東国の人たちが選ばれました。なぜ東国の人たちが選ばれたかは良く分かっていませんが、一説には東国の力を弱めるためとも言われています。任期は、3年で毎年2月に兵員の三分の一が交替とのことですが、実際にはそう簡単には国に帰してはもらえなかったようです。 東国から行くときは部領使(ぶりょうし)という役割の人が連れて行きます。もちろん徒歩(ラッキーなときは船、裕福な人は馬)で北九州まで行くわけですが、当時の人たちにとって辛い旅だったことは間違いありません。また、帰りは、なんと、自費なのです。ですから、帰りたくても帰ることができない人がいました。また、無理して帰路についても、故郷の家を見ること無く、途中で行き倒れとなる人たちもいたのです。 0329: やすみしし我が大君の敷きませる国の中には都し思ほゆ(大伴四綱) 0330: 藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君(大伴四綱) 1265: 今年行く新防人が麻衣肩のまよひは誰れか取り見む(古歌集より) 1266: 大船を荒海に漕ぎ出でや船たけ我が見し子らがまみはしるしも(古歌集より) 3344: この月は君来まさむと大船の思ひ頼みていつしかと.......(長歌)(防人妻) 3345: 葦辺行く雁の翼を見るごとに君が帯ばしし投矢し思ほゆ(防人妻) 3427: 筑紫なるにほふ子ゆゑに陸奥の可刀利娘子の結ひし紐解く(不明) 3480: 大君の命畏み愛し妹が手枕離れ夜立ち来のかも(不明) 3516: 対馬の嶺は下雲あらなふ可牟の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも(不明) 3567: 置きて行かば妹はま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも(不明) 3568: 後れ居て恋ひば苦しも朝猟の君が弓にもならましものを(不明) 3569: 防人に立ちし朝開の金戸出にたばなれ惜しみ泣きし子らはも(不明) 3570: 葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕し汝をば偲はむ(不明) 3571: 己妻を人の里に置きおほほしく見つつぞ来ぬるこの道の間(不明)
@鎌三助
@鎌三助 3 жыл бұрын
昔から今に至るまでの変わらない伝統 これからも翻弄されて行くんでしょうか...
@user-neko369
@user-neko369 3 жыл бұрын
落合莞爾さんの話しに影響を受けている気がしますが? 私は、落合莞爾さんの話し有力視しています。
@kujira7852
@kujira7852 3 жыл бұрын
火の鳥太陽編ですね。
@とほかみえみため山下白雨-h5g
@とほかみえみため山下白雨-h5g 3 жыл бұрын
防人ー3 [ 天平勝寳(てんぴょうしょうほう)七歳(西暦755年)乙未(いつび)二月、相(あい)替(かわ)りて筑紫(つくし)に遣(つか)はさるる諸國の防人等(さきもりら)の歌 ] 4321: 畏きや命被り明日ゆりや草がむた寝む妹なしにして(物部秋持) 4322: 我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず(若倭部身麻呂) 4323: 時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ(丈部真麻呂) 4324: 遠江志留波の礒と尓閇の浦と合ひてしあらば言も通はむ(丈部川相) 4325: 父母も花にもがもや草枕旅は行くとも捧ごて行かむ(丈部黒當) 4326: 父母が殿の後方のももよ草百代いでませ我が来るまで(生玉部足國) 4327: 我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ(物部古麻呂) 4328: 大君の命畏み磯に触り海原渡る父母を置きて(丈部人麻呂) 4329: 八十国は難波に集ひ船かざり我がせむ日ろを見も人もがも(丹比部國足) 4330: 難波津に装ひ装ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに(丸子多麻呂) 4331: 大君の遠の朝廷としらぬひ筑紫の国は敵守る.......(長歌)(大伴家持) 4332: 大夫の靫取り負ひて出でて行けば別れを惜しみ嘆きけむ妻(大伴家持) 4333: 鶏が鳴く東壮士の妻別れ悲しくありけむ年の緒長み(大伴家持) 4334: 海原を遠く渡りて年経とも子らが結べる紐解くなゆめ(大伴家持) 4335: 今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね(大伴家持) 4336: 防人の堀江漕ぎ出る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ(大伴家持) 4337: 水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき(有度部牛麻呂) 4338: 畳薦牟良自が礒の離磯の母を離れて行くが悲しさ(生部道麻呂) 4339: 国廻るあとりかまけり行き廻り帰り来までに斎ひて待たね(刑部虫麻呂) 4340: 父母え斎ひて待たね筑紫なる水漬く白玉取りて来までに(川原虫麻呂) 4341: 橘の美袁利の里に父を置きて道の長道は行きかてのかも(丈部足麻呂) 4342: 真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず(坂田部首麻呂) ・「防人の(さきもりのうた) おしえてください この世に生きとし生けるものが すべての生命に限りがあるのならば 海は死にますか 山は死にますか 風はどうですか 空もそうですか おしえてください ワタシは時折 苦しみについて考えます 誰もが等しく 抱いた悲しみについて 生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと 病いの苦しみと 死にゆく悲しみと 現在の自分と 答えてください この世にありとあらゆるものの すべての生命に 約束があるのなら 春は死にますか 秋は死にますか 夏が去る様に 冬が来るように みんな逝くのですか わずかな姓名のきらめきを信じていいですか 言葉で見えない 望みといったものを 去る人があれば 来る人もあって 欠けてゆく月も やがて満ちて来る なりわいの中で おしえてください この世に生きとし 生けるものの すべての生命に 限りがあるのならば 海は死にますか 山は死にますか 春は死にますか 秋は死にますか 愛は死にますか 心は死にますか 私の大切な 故郷もみんな 逝ってしまいますか 海は死にますか 山は死にますか 春は死にますか 秋は死にますか 愛は死にますか 心は死にますか 私の大切な 故郷もみんな 逝ってしまいますか ・「防人の詩」(さきもりのうた)は、さだまさしの12枚目のシングル。1980年7月10日発売。 解説 映画『二百三高地』の主題歌である。 チャート成績 シングル売上は65万枚を記録した[1]。 収録曲 防人の詩 (作詩[注釈 1]・作曲:さだまさし、編曲:渡辺俊幸) 映画『二百三高地』主題歌。同映画の音楽監督の山本直純がさだと同郷で交流があった縁で、さだに主題歌の依頼があった。さだは依頼時に映画の主題を知り、「二百三高地の何を描くんですか。要するに”勝った、万歳”を猫くんですか?」と尋ねた。それに山本は「そうじゃない。戦争の勝った負けた以外の人間の小さな営みを、ちゃんと浮き彫りにしていきたい。そういう映画なんだ」と返答し、さだはオファーを受けた。それでもなかなか歌ができず、最後には自身の主演映画『翔べイカロスの翼』のロケ現場に山本のマネージャーが押しかけ、その場で1番だけ制作、譜面に起こす時間もなかったためカセットテープに吹き込んで手渡した。翌日、山本から3番まで繰り返すよう指示があり、同じメロディーの繰り返しで追加の歌詞を作った[2]。山本と監督の舛田利雄が曲を聴いた結果、劇中で挿入歌としてフルコーラスで流すことになり、尺を取るためにわざわざシーンを付け足した[3]。 歌詞は『万葉集』第16巻第3852番に基づいて作られている。 Wikisource reference 『万葉集/第十六巻』- ウィキソース。 「鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼」 読み:いさなとり うみやしにする やまやしにする しぬれこそ うみはしほひて やまはかれすれ 意味:海は死にますか 山は死にますか。死にます。死ぬからこそ潮は引き、山は枯れるのです。 本作はシングル発売および映画公開に先立ち、1979年のテレビ番組『さだまさし・ライブコンサート』(NHK)で披露された。ただしそのときは歌詞が3番までしかなく、4番以降はその後加筆されたものである。なお一時期、4番の歌詞の一部を変更して歌っていた[注釈 2]。変更版「防人の詩」は谷村新司・さだまさしのジョイント・ライヴのアルバム『夢ライヴ』に収録されており、確認出来る。 『二百三高地』が戦争肯定映画であると解釈されたこともあり[4]、主題歌を作成したさだも「右翼」と批判された。さだは前年に「関白宣言」で「女性蔑視」だとバッシングされていたことから度重なる批判に落ち込んでいたが、文芸評論家の山本健吉は挽歌を引き合いに出し、「いなくなった人を歌うのは、日本の詩歌の伝統であって真髄である」「日本の詩歌の本道をちゃんととらえている」と擁護した[5][6]。また、おすぎとピーコはさだを批判する発言をしていたが、さだとホテルで遭遇し、真意を聞かされて以降は「あんた、それを世間に言いなさいよ、あたしたち、まさしの味方になるから」とさだに理解を示すようになったという[7]。 とてもちいさなまち (作詩・作曲:さだまさし、編曲:服部克久) とても小さな町である大切な故郷と大切な女性に対し、その地を出ていくことについて悲しみと名残惜しさを感じながらも気丈に生きていこうと決意した男性の心理を表した作品。後にベストアルバム『シングル・コレクション〜Only SINGLES』に再収録された。
@matukawatositane
@matukawatositane 3 жыл бұрын
親唐派の蘇我本家を討った以上はこうなる
@ピーソニ
@ピーソニ 3 жыл бұрын
蘇我入鹿を切ったのも唐人なのに、中臣鎌足か切ったと教科書で習うので訂正した方がいいです。
@klmklm-lo2xb
@klmklm-lo2xb 3 жыл бұрын
この動画の最後に出てくる「壬申の乱は壮大なヤラセ説」は、 私個人にとりましては「胸のすくような」解説でありました。 このような論理的かつ説得的な推論は、ある「特定の視点」に立脚してこそできることです。 一種の統治論的観点とでも言えばいいのでしょうか。。。 私も、このような「視点」を是非理解して身に着けたいものです。 解説ありがとうございます。
@done-s
@done-s 2 жыл бұрын
わざわざ新羅と唐に挟み撃ちにされる白村江に全軍投入しないで、 慶州あたりからも上陸できれば良かったんですけど。
@大和狸
@大和狸 24 күн бұрын
早口で理解出来ません自己満足です。内容をスーパーしてください❗️相手に解ることが大切です❗️
@池田和仁-c6d
@池田和仁-c6d 3 жыл бұрын
やらせ説、興味深く面白い話でした。
@oyunam
@oyunam 3 жыл бұрын
説得力ある解説でした。 これを基にドラマ制作したら面白いですよね。 「永遠のゼロ」にも通じる、本当の勇者、的なドラマになると思います。 ちなみに百田ドラマのベースになっているのが「樅木は残った」で、 (ほとんどパクリ)これも歴史事実を紡ぐ別の見方でドラマを構成しています。 正史という学者的解釈の歴史が正しいとは必ずしも言えない。 悪者、敗者とされた者たちが実は逆転している可能性があるということですね。 それこそがドラマかと。
@user-neko369
@user-neko369 3 жыл бұрын
今も昔も変わりなし!多分
@yocyajima9383
@yocyajima9383 3 жыл бұрын
根拠はどこにあるのでしょう?ほとんど妄想ですね。
@法道-b8f
@法道-b8f 2 жыл бұрын
この動画を見て 日本建国の歴史に興味を持たない 子供っているんだろうか?
@1億3千万
@1億3千万 3 жыл бұрын
先生は落語家さんなんですか?
@正一市田
@正一市田 3 жыл бұрын
天智天皇は暗殺された⁉️ と云う話しもありますよ、和歌にも其れらしき問い掛けがあります❗️ 履き物が片方だけ有ったとか、
@丸十勝
@丸十勝 3 жыл бұрын
大津市の三井寺の言い伝えですね
@シュウ-y2p
@シュウ-y2p 3 жыл бұрын
この後の第二陣が聖徳太子の弟でしたね なんか違う部分多い気が 天智天皇と天武天皇兄弟でない説の方が分かりやすいし 槍使いとか当時でもあんまり無い武人の側面から
@運否天賦-s5z
@運否天賦-s5z 3 жыл бұрын
朝鮮戦争もアメリカ・イギリス VS 中国・ソ連だし いつも代理だなw ミグで亡命している北朝鮮兵もいるし戦ってはいるけど。
@流静
@流静 3 жыл бұрын
古代の真実は奈良の橿原 飛鳥 吉野にある。
@Tanaka-Ichiro999
@Tanaka-Ichiro999 Жыл бұрын
白村江は惨敗のはずで脚色し過ぎでは? あの民族が戦勝したのに倭国に侵略、干渉しない所が疑問。 天智天皇(大和政権)への政治干渉だったのでは?
@安藤豊之
@安藤豊之 3 жыл бұрын
李舜臣がやりましたw
@岡本明良-m2s
@岡本明良-m2s 3 жыл бұрын
「壬申の乱は、白村江の戦後処理のためであり、天智天皇や大友の皇子は、吉野に隠棲された」との説、なるほど、そのように解釈できるのかと思うと同時に、「これは、ねず説」と前置きして話されたので、好感が持てました。以前の小名木氏なら、このような前置きなしに、「そうである」と断定的に話されていたので、曲がった史実を押し付ける人だと、警戒しながら視聴していました。今後も、未だ確定していない史実や史学会の見解と相違することを話される時には、是非、このような前置き(又は後置き)をして下さるよう、お願い致します。
@shinchangreen36
@shinchangreen36 3 жыл бұрын
本能寺の変もやらせではないかと解説していました。
@user-tosaki
@user-tosaki 2 жыл бұрын
本能寺の変と同じですね
@1204foxmulder1
@1204foxmulder1 3 жыл бұрын
妄想歴史
@bamboo108
@bamboo108 3 жыл бұрын
いつも勉強になります。でも「日本をかっこよく」の後にジャズというのはいただけませんね。
@郷士土佐
@郷士土佐 3 жыл бұрын
先のちょうせん戦争と同じ構図。 何故、かの国の若者は、ヘタレが多いのか?
@rock55
@rock55 3 жыл бұрын
ねず説支持です 和歌にヒントがたくさんあるかも 額田王の歌とか
@giantszero6962
@giantszero6962 3 жыл бұрын
魏志倭人伝に出てくる国が太平洋の向こう側???そんな馬鹿な。i
@terue9764
@terue9764 3 жыл бұрын
油断大敵、帰国するまでに、気を抜いた軍が間抜けとしか、、
@巌流島男
@巌流島男 3 жыл бұрын
筑紫水軍(ほぼ全滅)と遠賀水軍'(無傷で帰還)の事、大宰府が唐進駐軍に占領された事(碑があります)などご存じないようで。
@とほかみえみため山下白雨-h5g
@とほかみえみため山下白雨-h5g 3 жыл бұрын
・肥前名護屋城(なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡鎮西町・呼子町)、東松浦郡玄海町)にあった日本の城。太閤豊臣秀吉が文禄の役を始める前に築かせた。現在、国の特別史跡に指定されている。平成18年(2006年)には日本100名城(87番)に選定された。 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州の役で島津義久を降した後、天正18年(1590年)、小田原の役において奥州伊達政宗を服属させ、北条氏直を降し、徳川家康を関東に移封して天下統一を成し遂げた。国内統一の途中においてすでに秀吉は世界に目を転じており、九州平定以来、「高麗」つまり李氏朝鮮に、服属と明征伐への協力を要請したが、朝鮮は拒絶した。その後も対馬の宗義調らが複数の交渉を重ねるが、朝鮮側は拒絶の意志を変えなかった。なお秀吉は同様に琉球や呂宋や高山国(台湾)にも使者を出した。 詳細は「文禄・慶長の役」を参照 ・元寇防塁(げんこうぼうるい)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた石による、蒙古襲来(元寇)に備えて築かれた防塁。弘安の役の際には防塁が築かれたところからは元高麗軍は一切上陸することが出来なかった[1]。昭和六年(1931年)に国の史跡に指定[2]。 「元寇防塁」は中山平次郎の命名で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名である。 計画 文永11年(1274年)に元による侵攻(文永の役)を受けた鎌倉幕府は本格的な異国警護に着手し、翌建治2年(1276年)に異国征伐として高麗出兵を計画し、平行して石築地を築造させ、元による再襲来に備えた。 築造 築造は国ごとに区域を定め、大隅国の石築地賦役文書に拠れば、武家領や本所一円地を問わずに田1反あたり1寸の割合で石築地役が賦課されたという。弘安4年(1281年)の弘安の役までには一部が完成しており、元軍は博多への上陸を断念して、志賀島に船団を停泊させたという。弘安の役の後も元による再襲来に備えて異国警護体制は持続し、工事や破損箇所の修復が負荷された。工事は鎌倉幕府滅亡の前年にあたる元弘2年(1332年)まで行われている。九州の御家人竹崎季長の描かせた『蒙古襲来絵詞』には、建築当時の姿が描かれている。 ・水城 構造 高さ・幅は平均して2メートルある。総延長は、西の福岡市西区今津から東の福岡市東区香椎までの約20キロメートルに及ぶというのが定説になっている。内部には小石を詰め、陸側に傾斜を持たせて海側を切り立たせている。築造を担当した国により、構造に違いがある。・水城(みずき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・春日市にまたがり築かれた、日本の古代の城である。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「水城跡」に指定されている[1]。 概要 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 1975年。 『日本書紀』に、「・・・。また、筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き水を貯へしむ、名づけて水城(みずき)と曰ふ」と、記載された城である[注 1]。 白村江の敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。天智天皇三年(664年)の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの烽(とぶひ)を対馬島・壱岐島・筑紫国などに配備した[2]。そして、敗戦の翌年に筑紫国に水城[注 2]を築く。また、その翌年に筑紫国に大野城が築かれた。ともに大宰府の防衛のためである[3]。 水城は、大野城のある四大寺山(大城山)と[注 3]、西側の大野城市牛頸(うしくび)地区の台地の間の、一番狭いくびれ部を塞ぐ形で造られている。全長約1.2キロメートル×高さ9メートル×基底部の幅約80メートル・上部の幅約25メートルの二段構造の土塁で、東西の端部の東門と西門が開く。土塁の基底部を横断して埋設された木樋(もくひ)は、長さ79.5メートル×内法幅1.2メートル×内法高さ0.8メートルである。土塁の博多側の現水田面より5メートル下に、幅60メートル×深さ4メートルほどの外濠が存在する[3]。 水城は、平野を遮断する直線的な土塁と外濠をあわせもつ「城壁」(防塁)である。中央に御笠川が北流する沖積地の軟弱地盤に築かれる。土塁の最下層部に多量の枝葉を混入し、基礎地盤を強化する、敷粗朶(しきそだ)工法で施工されている。また、土塁の上層部は、土質の異なる積土を10センチメートルほどの単位で硬く締め固めて積まれた、版築(はんちく)土塁である[4]。 水城は、博多湾側の福岡平野から筑紫に通じる平野を閉塞する「遮断城」である。東門と西門が設けられ、福岡方面から2道が通過していた。西門は3期の変遷が確認され、大宰府と筑紫館(後の鴻臚館)を結ぶ、儀礼的な外交の主要道として8世紀後半まで機能していたとされている[5][6]。 水城の西方に、丘陵の間を塞ぐ複数の小規模の土塁遺構がある。水城と一連の構築物で、「小水城(しょうみずき)」と総称される。土塁の長さ約80メートルの「上大利小水城」・土塁の長さ約100メートルの「大土居小水城」[注 4]・土塁の長さ約80メートルの「天神山小水城」[注 4]などである[7]。 また基山町にも、基肄城に連なると考えられる関屋土塁跡やとうれぎ土塁跡があり、これらも小水城と呼ばれる。 天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬〜九州の北部〜瀬戸内海〜畿内と連携する防衛体制を整える。また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城・基肄城と平野部の水城大堤や小水城などで防備を固め、この原型は、百済の泗沘都城にあるとされていた[8]。しかし当時はまだ大宰府が機能していなかったとして否定されつつある。 関連の歴史 『日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。 天智天皇2年(663年):白村江の戦いで、倭(日本)・百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した。 天智天皇3年(664年):対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築く。 天智天皇4年(665年):長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く。 天智天皇6年(667年):大和国に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築く。この年、中大兄皇子は大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となる。 調査研究 遺構に関する事柄は、概要に記述の通り。 考古学的調査は、1913年(大正2年)の黒板勝美・中山平次郎の土塁断面の調査と、1930年(昭和5年)の長沼賢海・鏡山猛の木樋の調査があるが、本格的な発掘調査は1970年(昭和45年)に開始された。それ以降、福岡県教育委員会・九州歴史資料館・太宰府市・大野城市が、継続的に調査している[9]。 1975年(昭和50年)の発掘調査で、水城大堤の博多側に外濠が存在することが判明した[3]。1978年(昭和53年)の発掘調査で、8世紀後半代の「水城」銘の墨書土師土器が発掘された[10]。 2013年から2014年にかけて、福岡県教育委員会は、100年ぶりに土塁断面の再調査を行った[11]。 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[12]。 2019年2月26日、大野城市下大利にある「父子嶋(ててこじま)」が国特別史跡「水城跡」に追加指定された[13]。 その他 九州旅客鉄道の鹿児島本線の「水城駅」は、『日本書紀』の「水城」に由来する。水城駅の近くで、列車は「水城の土塁切断部」を通過する[11]。 平成25年〜27年の三か年にわたり、「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業」が企画され、関係自治体に加え、官民も連携した各種の記念事業が展開された[14]。 2017年(平成29年)、続日本100名城(182番)に選定された[15]。 2017年(平成29年)4月1日 - 水城館開館[16]。 2017年11月、国際天文学連合(IAU)は火星と木星の間で古川麒一郎により発見された小惑星に「Mizuki」と命名、登録した[17]。
@名倉雅
@名倉雅 Жыл бұрын
お疲れ様です。 長いけど、福岡市在住の私には「元寇防塁」「大野城」「水城」等身近な史跡なので、大変興味深く読ませて頂きました。
@はっ-t2w
@はっ-t2w Жыл бұрын
芝居面白い🤣
@xrqli5550
@xrqli5550 3 жыл бұрын
途中出落語はいってるな
@とほかみえみため山下白雨-h5g
@とほかみえみため山下白雨-h5g 3 жыл бұрын
・上毛野 稚子(かみつけの の わかこ、生没年不詳) 飛鳥時代の豪族。姓は君。 経歴 上毛野君氏については、『日本書紀』巻第五にある、崇神天皇の長男の豊城入彦命の夢の話[1]や、巻第七にあるその孫の彦狭嶋王の東山道派遣の話[2]、息子の御諸別王の東国経営の話[3]などが知られている。『新撰姓氏録』左京皇別・右京皇別にも同様の記述があり、下毛野氏と同祖とある。上毛野稚子の名前が登場するのは、『書紀』巻第二十七によると、天智天皇2年(663年)3月に、 前将軍(まへのいくさのきみ=第一軍の将軍)上毛野君稚子(かみつけの の きみ わかこ)、間人連大蓋(はしひと の むらじ おほふた)、中将軍(そひのいくさのきみ=第二軍の将軍)巨勢神前臣訳語(こせのかむさき の おみ をさ)・三輪君根麻呂(みわ の きみ ねまろ)・後将軍(しりへのいくさのきみ=大三軍の将軍)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけた の おみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おほやけ の おみ かまつか)を遣(つかは)して、二万七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、新羅(しらぎ)を打たしむ。[4] とあるのが最初である。続けて6月に、稚子ら全将軍の軍団が 新羅の沙鼻岐奴江(さびきぬえ)、二つの城(さし)を取る。[5] という戦果をあげたことが記されている。この「沙鼻岐奴江」であるが、「沙鼻・岐奴江」と「沙鼻岐・奴江」のどこで区切るのかが判明していない。現在の慶尚北道尚州市にあたる「沙比」とすると、西から新羅に侵入したことになり、慶尚南道三嘉にあたる「三岐」とすると、南から侵入したことになる。 白村江での唐・新羅連合軍との決戦は、その2ヶ月後であった[6]。その際に、上毛野稚子がどのような働きをしたのか、そしてどうなったのかは、不明である。天武天皇13年(684年)11月、八色の姓の制定により、上毛野君氏は一族の上毛野三千の労なども含め、長年朝廷に尽くしてきたことにより「朝臣」の姓を賜与されている[7]。 阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳) 7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させ、渡嶋を比定する決定的な史料はなく諸説あるが、東北以北にて粛慎と交戦した。 蝦夷征討・粛慎討伐 斉明天皇4年(658年)4月から斉明天皇6年(660年)5月にかけて、越国守であった比羅夫が蝦夷・粛慎征討を行ったことが『日本書紀』に記されている。これらには重複を指摘する意見のほか、30年ほど前には一部の事象のみを史実とする著書もあった[7]。また、渡島をはじめ、日本書記に書かれている地名を元に明治期に制定された地名があるため、同定には慎重な判断を要する。 斉明天皇4年(658年)4月に船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷に小乙上の冠位を与えるとともに、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。また、有間浜で渡島の蝦夷を饗応している[8]。同年7月には蝦夷200人余りが朝廷に参上して物資を献上するとともに、饗応を受けた[9]。 同年、比羅夫は粛慎(みしはせ)を平らげ、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上する[10]。粛慎(みしはせ)の出自については諸説ある。詳細は粛慎 (みしはせ)の項を参照。 斉明天皇5年(659年)3月には船軍180艘を率いて再び蝦夷を討つ。比羅夫は飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を一ヶ所に集めて饗応し禄を与える。また、後方羊蹄(シリベシ)に至り、蝦夷の要請を受けて当地に政所を置き郡領を任命して帰った[11]。「後方羊蹄」の具体的な場所は明らかでないが、余市説[12][13](後志国余市郡)、末期古墳のある札幌・江別説(石狩国札幌郡)や恵庭・千歳説(胆振国千歳郡)があるほか[注釈 1]、江戸時代末期の探検家・松浦武四郎は北海道の尻別川流域と比定し、同地を後志国(しりべしのくに)、同地の山を後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けた。 この頃、再び粛慎と戦って帰還し、虜49人を朝廷に献じたともいう[14]。 斉明天皇6年(660年)3月に船軍200艘を率いて粛慎を討つ。比羅夫は大河(石狩川あるいは後志利別川と考える説がある)のほとりで、粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島(へろべのしま。粛慎の本拠地を樺太や[15]、奥尻島とする説などがある)まで追って戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る[16]。同年5月に蝦夷50人余りを献じ、粛慎の47人を饗応した[17]。 白村江の戦い 天智天皇元年(662年)8月に中大兄皇子(後の天智天皇)の命により、新羅征討軍の後将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かい、武器や食糧を送った(この時の冠位は大花下)。しかし、翌天智天皇2年(663年)新羅と唐の連合軍に敗れる(白村江の戦い)。この敗北により百済再興はならなかった。 天智天皇3年(664年)新冠位制度(冠位二十六階)の制定に伴って大錦上に叙せられる。またこの頃、筑紫大宰帥に任ぜられている(『続日本紀』)[18]。白村江の戦いののち、唐や新羅の来襲に備え、軍事経験豊かな比羅夫を九州地方の防衛責任者に任じたものと想定される[7]。 劉 仁軌(りゅう じんき、拼音:Liú Rénguĭ、仁寿2年(602年) - 垂拱元年1月22日(685年3月2日) 中国の唐の軍人。字は正則。汴州尉氏県の出身。龍朔3年(663年)9月、百済残党を支援する倭(日本)の水軍を白村江で迎撃し、400余隻の軍船を焼き払って大勝する(白村江の戦い)。さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させたという。麟徳2年(665年)高宗が泰山で封禅を行った際には、新羅・百済・耽羅・倭4国の首領を率いて参加し、大司憲を拝し、右相兼検校太子左中護に進み、楽城県男に封ぜられた。総章元年(668年)には熊津道安撫大使兼浿江道総管となり、李勣に従って高句麗を平定。金紫光禄大夫を拝し、太子左庶子同中書門下三品に進んだ。上元元年(674年)には鶏林道大総管に任ぜられ、新羅の文武王を討って(唐・新羅戦争)大勝し、上元2年(675年)には左僕射となって朝政に参画した。 鬼室 福信(きしつ ふくしん、生年不詳 - 663年) 百済の王族・将軍。義慈王の父である第30代武王(余璋)の甥。官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)。鬼室氏の祖となる。没した2か月後白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が大敗した。扶余福信。 義慈王時代の660年、唐と新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)によって百済が滅亡した後も、旧臣らを糾合して抵抗運動を続け、百済の故都である泗沘城(現・忠清南道扶余郡)の奪還を試みた。この頃、義慈王の王子であった余豊璋は、倭国との同盟の人質として倭国に滞留していたが、鬼室福信ら遺臣は、百済復興の旗印として擁するため豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求める。斉明天皇・中大兄皇子は快くこれを了承し、積極的に百済復興を支援することとし、翌年正月には斉明天皇自ら、筑紫へ遠征する運びとなった。 文武王(ぶんぶおう、626年 - 681年7月21日) 新羅の第30代の王(在位:661年 - 681年)であり、姓は金、諱は法敏。先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃は波珍飡(4等官)の金善品(真智王の弟の金仇輪の子)の娘の慈儀王后[1]。661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。在位中に高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。
@nichihon
@nichihon 3 жыл бұрын
よくわかりました 眞子さまの件も同じでしょうか
@nainaiprivate
@nainaiprivate 3 жыл бұрын
1300年前から相変わらずだったと朝鮮笑
@yoi8909
@yoi8909 3 жыл бұрын
芸達者だけど、知性を感じる。 所謂、知識人ですね。
@丸十勝
@丸十勝 3 жыл бұрын
天智は百済系、天武は新羅系と言われてます
@ムペチャンネル偏差値40から第
@ムペチャンネル偏差値40から第 3 жыл бұрын
日本史って勉強する意味あるの?このコメント欄とかだと博識の人多いと思うけどどうやって勉強してるんすか? 色んな年代の方がいると思いますがただの興味でやってるんすか? ちなみに自分は小学生です。
@rerepopo663
@rerepopo663 3 жыл бұрын
文禄慶長の役なんて国王が真っ先に・・・w。
@viku-o6977
@viku-o6977 3 жыл бұрын
中大兄皇子は乗せられやすい人物!?、乙己の変&白村江の戦い。然り!。 そういうのが有って壬申の乱があったんですね!。
@なまなた-b9q
@なまなた-b9q 3 жыл бұрын
うそつき
@ooamisannmu7690
@ooamisannmu7690 3 жыл бұрын
盧溝橋事件かよ
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