第184回「最上の死を迎えるには」2021/7/9【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

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Engaku-ji: a Zen temple of Rinzai school

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横田南嶺管長による著作『戒のこころ』『観音さまの心』『延命十句観音経のこころ』『合掌のこころ』『六はらみつのこころ』という五冊の小冊子を、一冊にまとめた『仏さまのこころ』を刊行致しました。
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本日の管長日記は、「最上の死を迎えるには」です。
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
本日もよろしくお願いいたします。
 
■管長日記「最上の死を迎えるには」
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武者小路実篤さんの本を読み直しています。
亀井勝一郎さんが編集した武者小路実篤さんの『人生語録』というのは、考えさせられる言葉が多く載せられています。
まず、この本の巻頭には、
生まれけり 死ぬ迄は 生くる也
という書が掲げられています。
これは武者小路さんの人生観をよく表しています。
編者の亀井氏は、
「武者小路先生の作品も言葉も実に明るい。
この明るさは、現代では稀有のもので、他のどんな作家や思想家の文章をもってきても、この明るさにはかなはない。
真の明るさとは、苦しみのないことではない。苦しみは苦しみとして心底に蔵して、たゞひたすらに無心であるとき、真の明るさが生ずる。
暗いといふことは殊更苦悶してあるといふことではない。暗いのは小さな「我」を捨てきれないからだ。自分の全生命を生かしきれないからだ。」
と武者小路さんの魅力を紹介されています。
私も武者小路さんの本は、小中学生の頃愛読していました。
好んで読んだのは、やはりその明るさに共感していたのかもしれません。
やはり今もどうしても暗いものは遠ざけたくなってしまいます。
亀井氏は、
更に
「しかし、故意に明るくしようと思ってもできるものではない。
下品な滑稽は決して明るいものではない。明るい作品をかくものは心を明るくしなければならぬ。心を明るくするのには小我を捨てなければならぬ。即ちおのづからでなければならぬ。「武者小路語録」を編んだ気持のなかには、明るい叡智を現代に伝へたいと思ふ心もあったのである。」
と書かれています。
今の世なればこそ、読み直したいものです。
私が子どもの頃には、あの武者小路さんの明るく素直な、見るだけでホッとする絵の描かれた色紙をよく目にしたものでした。
「仲よき事は美しき哉」
などいう平易な言葉でありました。
いくつかの言葉を紹介してみましょう。
「立派な人間がどんどん死んでゆき、くだらぬ人間が中々死なない。
さう人は思ふが、それは立派な人の死は目立ち、下らぬ人の生きてゐるのが目立つからだ。
何も立派な人が特に選ばれて死ぬのでもなく、下らぬ人が特に死なないのでもない。」
という言葉があって、これなどはなるほどそういうことかと思わせてくれます。
「自分の馬鹿なことを知るものは救はれる。
自分の馬鹿に気がつかず
他人の馬鹿だけに気がつくものは
本当の馬鹿である」
こういうこともよく言われることです。己の愚かさを知ることが大切であります。
「自分の悪いことを本当に知ってある罪人は、自分を正しいと常に思ひこんで他人を責める人間よりは、ずっと幸福だ。
その人は、神の愛を知ることが出来るから。
ありがたいとか、勿体ないとか云ふことを本当に知ることが出来るから。
この世に一番救はれないものは神にたいして不平を持つ奴だ。」
という言葉もあります。これは気をつけないといけません。
つい修行したりしますと、自分こそが正しいと思い込んで他人を責めてしまうことになりがちであります。私たちの世界にもよくあることです。
それよりも、自分の愚かさ、至らなさを常に自覚して、有り難い、もったいないという気持ちで暮らすことであります。
「人間の本心の
美しさ 優しさ 可憐さ。
愛さないわけにはゆかない。」
こんな明朗な言葉にも武者小路さんの魅力を感じます。
「僕はあたりまへの事切り言ひたくない。
今の人はあたりまへのことを知らなすぎる。
何でも一つひねくらないと承知しない。
糸巻から糸を出すやうに喋るのは我慢出来ない。
わざと糸をこんがらかして、その糸をほどく競争をしてゐるやうなものだ。
あたりまへでないことを尤もらしく言ふとわけがわからないで感心する。
かういう人間が今は多すぎる。僕はそんな面倒なことをする興味は持ってゐない。」
この言葉から武者小路さんの明るさがどこから出てくるのか分かる気がします。
今も変わりはないと思います。
なにか、あたりまえのことを、無理にこんがらかしてしまっているのだと思います。
「君は君、我は我なり、それでよき哉。」
同じような言葉で、
「君は君、我は我なり、それで仲よき。」
単純な言葉ですが、かくありたいものです。
「僕は元気な人間が好きです。
元気な人間と言ふのは生々した人間と言ふのは、生長してゐる人間です。
生長してゐる人間と言ふのは精神が充実してゐる人間です。
内から生命の泉がほとばしり出てゐるものです。
空っぽでない人間、つけ焼刃でない人間、浮き草でない、風の吹き廻しでうかれ出さない人間です。」
という言葉もいいなと思います。
生き生きとして生きたいものです。
それには、今日一日今日一日と少しでも成長するものがないといけません。
漫然と昨日と同じことをしているようでは、生き生きしているとは言いがたいものです。
「人間が死ぬ時の言葉は美しいと言はれてゐるのも、人間は死ぬ時は、自分のことを考へず、あとのことを考へるからである。」
自分のことを考えずあとのことを考えるという、その心は無我であり無心なのでありましょう。
それから武者小路さんは、人間は不死を願ったり、永遠に生きることを望んだりするのは、怠け者になっているときや、「自分を生かしてゐない時とか、何か自然の最も深いものに不忠実であったりした時」だというのです。
本当に自分を生かした瞬間には、そんなことは感じないというのです。
そこで武者小路さんは、
「自分が生れたこと、自分が生きたこと、自分はそれを後悔せず、それを感謝して死にたいと思ってある。」というのであります。
「いつまでも生きられると思ふと、人間は利己的になり、野心家になり易い。
いづれ死ぬのだと思ふと、そんなことはつまらぬことがわかり、もっと真面目な生活がしたくなる。」
という言葉などは、人間は死を見つめてこそ真の生き方できることをよく表しています。
次の言葉は長いのですが、深い言葉でありますので、そのまま引用します。
「僕には死は自分の個人的生命にとっては終りだと思ってゐる。
しかしそれは熟し切った果実が地上に落ちると同じで、不幸なこととは思ってゐない。
熟し切らずに死ぬことは不幸なことと言へるが、しかし生きてなすべきことを途中で許されたのだと僕は思ふ。
死は生きることより楽なものだと思ってゐる。
僕は無心を生命の極致と思ってゐる。
そして死は無心の極だと思ってゐる。
それならなぜ死なないのかと言ふと、生きている内は人間として生きる義務があるのだから、それを果さないと何かにすまないと思ふからだ。
だから僕は自分の死を考へる時、かう神様に言って死にたいと前から思つてゐる。
それは理想的な言葉で、現実では僕はまだ見つともない真似をするかも知れない。それは、
「僕はもう死んでもいいのですか。ありがたう。今死んでよければ自分の一生幸福でした。」」
というのであります。
この最後の言葉、「僕はもう死んでもいいのですか。ありがたう。」は、前管長の本の題名にもなっている言葉なのであります。
武者小路さんの『蝸牛語録』にある言葉だと分かりました。
きっと前管長さまも、このような心境で死を迎えられたのだと思いました。
「自分は無心に生きられる時を一番美しいと思ってゐる。何か気にかかることがある時は無心になれない。
そして無心の極は地上で生きられるだけ生きた後で得られる死だと思ってゐる。」
という言葉もあります。
そして、
「何時死ぬかと言ふことを考へず、よく生きることを考へるべきだと思ふ。」と仰せになっています。
「本当の意味の自然死があれば、その人は熟し切った果実が地上におちるやうに死んでゆくであらう。」
という言葉は武者小路さんの死生観を端的に表しています。
亀井勝一郎さんは、この本の最後の解説で、
「最上の死は、この語録の中にもある如く「生命がよく生かされた所」であり、それは「一日よく働いたものには安眠のあるやうなもの」であらう。安眠の如き死こそ最高の死にちがひない。
しかしそれは、徒らな憧れによって得らるるのでなく、全力をつくして一日を生きる、与へられた仕事に一刻を惜しんで働くことによって得らるるであらう。
邪念も空想もなく、無心に己の仕事に熱中しうるものこそ幸ひである。さういふ境地は遠いところにあるのではない。万人の眼前にあるのだ。各自の職域で、ただいま一刻の刹那に全力を注ぐところにあるのだ。」
と説かれています。
これは武者小路さんの到り得た境地だと思いました。
「各自の職域で、ただいま一刻の刹那に全力を注ぐ」ところにこそ、「最上の死」は訪れるのでありましょう。
横田南嶺
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