【第3回公益資本主義公開フォーラム】株式会社植松電機 代表取締役植松努氏「これからの時代を生き抜くビジネス、対抗不能性」

  Рет қаралды 69,584

ベンチャー起業論breakthrough

ベンチャー起業論breakthrough

Күн бұрын

Пікірлер: 30
@コトメイレミ
@コトメイレミ 11 ай бұрын
60代です。子供の頃、大人達からいつも考えるなサッサと言う通りにしろと言われて苦しかった。何故と疑問をもち考えると叱られ疑問を言葉にすると理屈を言うなと殴られました。会話も成り立っていないし辛かった。今の時代に生まれたかった
@masuran-jf7so
@masuran-jf7so 5 күн бұрын
素晴らしい❤70代です😅 ずっと前から感度していたのにヒラメらことができませんでした。きょうからひろげます。 北海の上松さんの会社にお伺いしたいです。いつか、必ずお伺いし、学び体験した事をわが町に伝え広げていきたいと思います。
@ちかこ-j4d
@ちかこ-j4d 2 жыл бұрын
涙が止まりませんでした。植松さん、フォーラムを開いてくださった方達、動画編集、UPして下さった皆様、本当にありがとうございます。大人にも子供にも聞いてほしい内容ですね。
@はこび天舟-q9q
@はこび天舟-q9q Жыл бұрын
素晴らしい・・・感動しました
@takumi4191
@takumi4191 7 ай бұрын
20代ですが、自分がこれまで理不尽だなと思ってたことや納得いかなかったこと、違和感を抱いてたことをここまで分かりやすく言語化してくれて非常に痛快な気持ちです。
@砂場遊太郎
@砂場遊太郎 Жыл бұрын
おばあちゃんの教育がこの人の人生を大きく変えたのかな😢
@iwatch7703
@iwatch7703 10 ай бұрын
現世の神様見つけた😳❤今まで知らなかったのが恥ずかしい😅
@mstks5038
@mstks5038 2 жыл бұрын
今の日本を客観的に見た姿ですね。すごい実感しました。失敗を受け入れない日本の社会で責任感を育てるのは難しいですね。いろんな人に届いてほしいですね。
@ニューロードチャンネルエグゼクティブコーチ
@ニューロードチャンネルエグゼクティブコーチ 2 жыл бұрын
これまでの考え方にこだわっていたら、絶対できないですね。私自身自分のやり方がこれでいいのかと考えながら、自信を持てず、周りに合わせようとす考えが強いです。 自らがしっかり考えてどんな会社を作りたいのか、自分の中から生まれてくる思いをどれだけ自覚するかが重要ですね。 コロナを体験して私自身大きく変化しました。自分の生き方は、自分で歩いていくことが重要だとわかりました。 自分の中にある決めつけや思い込みが多くて、それを変えていくのが本当に大変です。人を大事にして、それぞれの力を伸ばしていくことが大事ですね。みんながワクワクして仕事できるといろんなみ未来が見えてきますね。応援しています。
@西村道子-g4x
@西村道子-g4x 11 ай бұрын
@ロキチャン
@ロキチャン 8 ай бұрын
素晴らしい講義ありがとうございました。私も昔の人間で、子供にはお金を中心とした仕事につく事を強いいてきました。夢を潰す言葉を発してきたと思い反省しました。夢の大切さを教えられました。孫にたいして、植松さんのおじいちゃんおばあちゃんのような声掛けが出来るといいなぁと思いました。ありがとうございました。
@kentoogawa1328
@kentoogawa1328 2 жыл бұрын
素敵な話しを聞けました。ありがとうございます。 特に「してもらう→する」お話しがとても深く自分に置き換えて考えていこうと思えました。 動画を載せて頂いた皆様、ありがとうございました。
@seita6446
@seita6446 Жыл бұрын
ロケットを作りに行きたくなりますね。 私が思っていた感覚を持たれたお話で、自分を肯定してもらったような感じがしました。 とても良いお話を聞いた感じがしました。 北海道の植松さんの会社を関西にも持って来てもらいたいと思いました。
@ホームズ-v3s
@ホームズ-v3s Жыл бұрын
最高だ!
@user-le1ye7nv9w
@user-le1ye7nv9w Жыл бұрын
28:30
@AkihitoDaidoDHeike
@AkihitoDaidoDHeike 10 ай бұрын
団塊の世代の私達は、セルロイドの下敷きを削って、鉛筆の金属製キャップに入れて、ロケットを作って、火をつけて飛ばしていました。同じ頃に、家の近くを通る北陸本線を通っている蒸気機関車が蒸気タンクと駆動輪が固定されたままでカーブを曲がれる原理が分からず、考えて答えを出しました。客車や貨物車は4輪の台車が前後にあるのでカーブを曲がれるのは理解できていました。また、糸巻きの糸を使い果たした木製の糸まりを車輪に見立てて、廊下を転がして楽しんでいました。ところが、最近、Facebookで、蒸気機関車がカーブを曲がれる原理を尋ねて、正解を答えられる人が東京大学卒者も含めて一人も居ませんでした。日本人の頭はおかしくなっているようです。
@AkihitoDaidoDHeike
@AkihitoDaidoDHeike 10 ай бұрын
《【日本の悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質とは?】》 【1】【天国と地獄】  日本経済のバブル崩壊後のデフレの状況を例えるとするならば、【悪足掻き(わるあがき)または、悪藻掻き(わるもがき)】と言えるように思う。しかし、そのバブル崩壊以前から、【悪足掻き(わるあがき)または、悪藻掻き(わるもがき)】は始まっていた。その【悪足掻き(わるあがき)または、悪藻掻き(わるもがき)】に、私自身も巻き込まれていたようだ。  私自身が日本経済に貢献した実績としては、私(当時29歳)が金沢医科大学【昭和47年、金沢に近い内灘の地に初代理事長に現在の鳳珠郡能登町出身の政治家、益谷秀次(東京外国語学校[現東京外国語大学]仏語科、京都帝国大学法科大学仏法科を卒業。浦和地方裁判所判事から、弁護士)氏が就任して設立】に赴任していた頃、旧『ナナオ電子工業株式会社』の開発部長と1979年の春頃に知り合い、『グラフィック(セファログラム)・アナライザー』の共同開発を提案し、受け入れられて、1980年の秋の九州大学キャンパスでの日本矯正歯科学会で展示発表できた事が最大の実績となった。  改名したEIZO株式会社は、1985年よりSONYの海外販売網で欧米に爆発的に販売し、1990年からは日本国内に自社販売網を築いて、爆発的に販売し、グラフィック・アートが生まれ、世界の発展に貢献した。現在では、世界中の自動車メーカの設計デザイン部門では不可欠となり、隈研吾等の建築設計事務所でも不可欠になっている。病院のレントゲン写真からフィルムが無くなり、最先端分野でも不可欠になった。  似た時期に開発された孫正義の携帯翻訳機や堀江貴弘の会計ソフト以上の影響が世界の最先端分野にもたらし、スイスの高速道路の監視モニターも全てEIZO株式会社製で統一されている。  また、同じ頃に、医師薬出版の四分冊の矯正歯科専門書、歯科矯正臨床シリーズ4 その基礎と臨床『開咬』の最も若い共同執筆陣の一人となった事も、実績の一つと言えるかも知れない。この金沢医科大学では、助手、医局長、外来医長、退職後の非常勤講師としても、それなりの貢献をしたつもりである。  しかし、金沢医科大学の私立大学としての経営には疑問が多かった。事務局が全ての実権を握っていたからである。だから、実績を残すには、外部で活躍するしかなかった。事務局と仲良くする事だけが、金沢医科大学で生き残れる世界だったのである。その点、国立の大阪大学とは正反対であった。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  逆に、国立の大阪大学の場合は、事務局の存在は影のように支えてくれていたように思う。同じ頃、第二口腔外科の二年先輩の米田 俊之は、世界で初めて大学院生で『骨形成因子』を発見し、大阪大学歯学部を骨代謝のメッカにした。それまでは軟骨細胞を培養しても、骨ができなかったが、彼の研究で軟骨細胞が骨を作る『骨形成因子』が明らかになったのだ。その後、似た『骨形成因子』が多数発見されている。  後に1990年からテキサス大学サンアントニオ校医学部内分泌代謝部門助教授、1995年から同教授、及び1992年から東京医科歯科大学難治疾患研究所教授となり、太平洋を往復しながら大活躍し始めていた。1997年〜2000年には古巣の大阪大学歯学部生化学講座教授となり、2000年からは大阪大学大学院歯学研究科教授となられた。  また、私自身、学校で習った事よりも、雑学に徹してきた結果、入局二年目に大阪大学歯学部付属病院の手術場で二例の手術の執刀を任され、癌末期患者の死亡臨床、死亡宣言、死亡診断、法医学的剖検を担当し、看護師達から『大道教授』と呼ばれた実績を残してきた。  外来で診たお母さんの二人の子供が、お母さんに説明する間に、私の両足を大木と見立てて攀じ登り、家でも僕の話になると良い子になってくれると感謝され、後に金沢医科大学に赴任後に尋ねてくれた。その後、長男は東京医科歯科大学に合格し、感謝の電話をもらった。  学外では、大阪回生病院の耳鼻科部長、酒井俊一(香川医科大学教授)の手術の助手も担当していた。  私は、昭和24年生まれの戦後の団塊の世代である。鯖江市の藩校の名前を引き継ぐ惜陰小学校入学時には、急増する入学生に対応するため、後者の増設が継続していた。だから、講堂も無く、入学式は校庭で行われた記憶が残っている。  その入学式の校長の挨拶は『惜陰の意味は、陰は時の事であり、陰を惜しむの意味は、時間を惜しむ意味となり、皆さんも時間を惜しんで勉強してほしい』と、素晴らしいスピーチだと思えた。教頭は『君達は、先生方を踏み台として、先生方よりも偉くなってください』と、これも素晴らしいスピーチだと思えた。  そう言えば、『惜陰小学校は、明治5年(1872年)の開校以来、150年にわたる荘厳な歴史を積み重ねてまいりました。(鯖江、上鯖江、西鯖江、長泉寺、五郎丸、定次の組合立小学校在設置することとし、校名「惜陰」は、鯖江藩江戸藩校「惜陰堂」からとったもの。 この「惜陰」の言葉の意味は「時の過ぎゆくことを惜しみ 努力する」ということ。  由来は中国の『晋書』(しんじょ)という歴史書(648年「唐」の時代)にある一文。)』のようである。しかし、入学後に教科書を開いてみると、面白いとも、読みたいとも思わなかった。  その内に、父が毎日読んでいた大人の新聞三紙(日経、朝日、福井)の読める所を探しながら、読める所を全て読み始めていた。毎日、三時間を費やしていた。  次第に、学校の勉強は、馬鹿馬鹿しくなってきて、宿題もやらなくなっていたので、先生も生徒も、私が劣等生であるかのように思っていたようである。だから、生徒達の虐めが酷くなり、先生も虐め側の肩を持ち始める最悪の状況だった。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  その虐め体質は、日本の何処でも起こっている事は、後に知る事になったが、その結果は、鯖江中学校に入学したら、明らかになった。
@AkihitoDaidoDHeike
@AkihitoDaidoDHeike 10 ай бұрын
鯖江中学校(旧惜陰中学校)に入学した直後に、実力試験が行われた。団塊の世代だから、13クラス650名の全員の実力試験の成績が廊下に張り出されたのである。その多くの生徒達が、私が劣等生だと思い込んでいたのだから、生徒達の反応は、実に面白かった。  その劣等生の私が、上から五番目だったからである。途端に、虐めは無くなっていた。つまり、私が学校の勉強を全く行こなっていなかった事で、馬鹿にしていたのである。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  中には、五点だと思い、下から五番目の劣等生だと思い込んで話し掛けてきた生徒があった。中学校の先生でも、私の成績に驚いて『頑張ったね!』と驚き、話し掛けてきた。頑張った事は全く無い。それでも、彼等が私を馬鹿にしたい気持ちは無くなった訳ではなく、依然として馬鹿にしたい気持ちを持ち続けていたようである。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  この状態は、何を意味するのであろうか?当然、私の成績は、惜陰小学校の先生達にも知れる事になったのである。このような結果は、惜陰小学校の先生達も全く予想していなかった筈である。小学校時代に優秀だった生徒達が、私の遥か下に並んでいたからである。高校入学後に、小学校の同窓会が行われたが、彼等と話が合う筈が無い。  その時に出席した小学校の最後の六年生の時の担任の伊藤先生も、あなたは成績が良くなると思っていたと言ってくれたが、そんな事は思ってもいなかったはずである。宿題すら全くやらない生徒だったからであり、毎日のように居残りを強要されていたのだ。  だから、同じクラスから藤島高校に合格した女性(1970年〜1973年の福井県の教育長の加藤秀雄氏の長女)の横に座ると、忌々しい表情が明らかだった。彼等は、女にモテたいがために、それなりに勉強をしていたのである。しかし、中学入学時の実力試験の結果が示すように、手の届くレベルを遥かに超えていたのである。しかも、宿題すら全く行わなかった劣等生であるはずの私だったのだから。
@AkihitoDaidoDHeike
@AkihitoDaidoDHeike 10 ай бұрын
《【日本の悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質とは?】》 【2】【青天の霹靂】  その私は、中学校三年頃から、惜陰小学校以上に、150年を超える歴史と伝統を誇る我が藤島高等学校【前身は安政2年(1855年)に福井藩16代藩主・松平春嶽が開学した「明道館」である】の二年目の春に掛けて、急性アレルギー性副鼻腔炎に罹患した。  自覚症状は、集中力の欠如と記憶力の欠如だった。だから、中学三年生後半から、高校二年に渡って、成績は下降の一途を辿っていた。だから、私の成績の低下を喜ぶ輩が、私を揶揄って、中学3年生の時に、私の背中に張り紙を付けた輩さえいたのである。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  しかし、藤島高校には楽に合格した。その後、高二の通学電車の中で、嘔吐したのである。左の副鼻腔の手術を受け入院したが、術後の経過は良くなく、記憶力と集中力は全く回復しなかったのだ。  だから、受験勉強は諦め、その後も新聞三紙は継続して、毎日三時間を掛けて読み続け、他に現代日本文学全集(二七巻)、岩波文庫海外文学、対訳英文などを読み続け、学校の勉強は授業を聴いていただけだった。だから、中間試験と定期試験の成績は最悪だったが、実力試験だけは、かなり良かった。  高三に、志望校を決める必要があり、大学での勉強量の少なそうな歯学部に決め、高三の秋の『能研テスト』で、志望校を『大阪大学歯学部』として受験した。成績は、『大阪大学歯学部』志願者中、ダントツの一位であり、藤島高校の同じクラスの東京大学理二志望者の平均点を五点上回った。  『大阪大学歯学部』合格直後、電車の中で、中学時代の同級生に会った。僕の顔を見るなり、進学大学を尋ねたので、『大阪大学歯学部』だと伝えると、驚愕の表情になり、自分の進学大学を言わずに、僕から離れて行った。彼は、私の高校での成績の低下を聞き知っていたのであり、大した進学もしていないと思い込んでいたようである。  そして、彼はそれなりに勉強して、それなりの大学に進学したようである。だから、馬鹿にして、薄ら笑いたい気持ちで尋ねたのであろう。その薄ら笑いの表情の予兆が顔の表情筋の緩みに現れていた。  ところが真実が予想もしていなかったから、表情筋の緩みが、緊張のすり替わったのである。それ以上の緊張が続けば、痙攣するとさえ思えたから、私に背を向けて、離れたのである。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  恐らく、成績の良かった生徒も、悪かった生徒も、小学校や、中学校や、高校の先生達も、驚愕の結果だったのであろう。しかし、私は受験勉強に魅力を感じなかったから、受験勉強をしなかっただけであり、良い成績をとろうとは思った事も、エリートになろうとも思った事もなかったのだ。また、女性にモテたいと思った事もない。幼い頃は近くの女の子は皆んな僕と遊びたがっていた。お医者さんごっこも女の子から教えてもらったのだ。だからモテたいとは全く思わなかった。  私にとって、受験勉強は当に【悪足掻き(わるあがき)と悪藻掻き(わるもがき)】に過ぎないのである。その結果、その後の日本を生きて来たが、この【悪足掻き(わるあがき)と悪藻掻き(わるもがき)】に過ぎない現象が、あらゆる所に見られたのである。  最近、東京大学の駒場キャンパスと本郷キャンパスを訪れる事が多くなって来たが、大半の学生が、塾や受験勉強で合格してきた秀才である。私のように受験勉強をせずに合格した学生は僅かだ。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言える。  たまたま、私が外国語会話の初心者コースに参加した時に、東京大学の大学院生(国際政治)が来ていた。舛添 要一(法学部第3類政治コース卒の国際政治学者)は先輩であろう。  私が、急性アレルギー性副鼻腔炎で馬鹿になり、東京大学には行かなかったと言うと、自分は東京大学国際政治の大学院生だと、顔面に自信と笑みを浮かべて誇って言っていたが、東京大学の本質を知らない一般人は尊敬の眼差しであり、その後も彼に近付こうとしていた。  娘の花婿候補にとでもの気持ちが芽生えたのかも知れないが、これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。舛添 要一(法学部第3類政治コース卒の国際政治学者)も同類であろう。  大阪大学歯学部進学課程合格後に、母の京都女専(現在の京都女子大学)時代の国文科の同窓生の社長邸宅(豊中市刀根山一丁目の丘の上)の二階の長男(早稲田大学社会学部に進学)の部屋が空いているので、住むように薦められて、突然、居候させて頂く事になった。食事、風呂、洗濯も女中の長尾さんがしてくれるという。当家の次女は、階下の一階の部屋であり、後に大阪大学に合格した。  しかし、学生運動が吹き荒れていた頃であり、大阪大学生と職員が作った正門のバリケードが簡単に破られてしまった。翌年は東京大学の安田講堂が占拠されて、東京大学の入学試験が無くなったのである。  この学生運動も、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言える。たかが、大学生となったくらいで、世界の全てを理解した気持ちになっていた事は、彼等と話して見て明らかだった。  大阪大学歯学部進学課程合格後の一年目は水泳部に入ったが、プールが泥水であり、水質改善の見込みがないので、ワンダーフォーゲル部に変更した。しかし、夏休みの東北の奥羽山脈縦断遠征は、残雪とガスの為に無惨なものとなり、これも辞めてしまった。このワンダーフォーゲル部にも悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質が有ったと言えるように思う。  私の体力はアスリート並み(身長180cmで基礎代謝量が日本人平均の三倍、背筋腕力が最高で、ゲームセンターのキングコングや横綱に全勝)だったから、毎回、最後の食材を担ぐの私に、決まっていた事も、嫌になった原因であった。最後まで荷が軽くならないのだ。  また、先輩達は忙しいのか、日頃のランニングに参加せずに、だらしない為体の醜態を見せていた。これも、悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質と言えるように思う。  私が退部してからは、私と同じグループの二人がワンダーフォーゲル部部長と副部長となり、かなりしっかりしてきたように伺えた。私の退部が、彼らに自覚をもたらしたように思えた。  私の体力はアスリート並みである事は、その後のゴルフやスキーで証明された。ゴルフクラブもスキーも欧米のトップ・プロ用でないと、合わないのである。因みに、ドライバーは350ヤード、ドライビング・アイアンは300ヤードである。欧米のトップ・プロと変わらない飛距離である。スキーでは冬季オリンピック・アルペン種目初代三冠王のトニー・ザイラーやHEADのチーフ・デモンストレーターと二人だけで一緒に滑ったり、サイン入りブロマイドを頂いたりした。  教養部の歯学部進学過程(二年間)では、結局は、読書三昧での元の生活に戻った。英語はリンガフォンを買って、英会話のレベル向上に努めていた。丁度、大阪万博の開催があり、外人との英会話を試みていたが、なかなかチャンスに恵まれなかった。そのような毎日だったが、万博後は、大阪、京都、奈良、神戸の美術館に行くように勤めていた。
@AkihitoDaidoDHeike
@AkihitoDaidoDHeike 10 ай бұрын
その最も著明な現象は、民主主義の不理解、調教犬技術の未熟、異常な受験勉強、行政能力の稚拙、司法界の法治主義ならぬ知情主義、未来予知能力の低さ、自己啓発能力の低さなどに現れています。虐めもその一端を露呈しているのです。  能の誕生は、奈良時代に中国から日本に伝わった「散楽」が日本古来の芸能と結びつき、「猿楽」と呼ばれて始まった。平安期に入ると、大きく変化し始め、鎌倉中後期、南北朝、室町時代にかけ、猿楽師の観阿弥と世阿弥親子によって大成された。室町時代の応安七年(1374年)、観阿弥が京都・新熊野神社境内で演じた「白髭の曲舞」が能の誕生とされている。  「わびさび」は、中国の宋王朝(960〜1279年)の道教から生まれ、禅仏教に取り込まれた概念です。当初は、禁欲的かつ控えめに美を愛でる方法として捉えられていました。「侘び」と「寂び」は、本来は別の意味ですが、現代ではひとまとめにして語られています。  「侘び」は、つつましく、質素なものにこそ趣があると感じる心のことです。一方、「寂び」とは、時間の経過によって表れる美しさを指します。  「侘び」は、茶の湯の一つの美意識であり、清楚で質素な生活を旨とし、質素であることの中に心の充足と美を求める思想です。「寂び」は、経年変化によって、廃れていく、物寂しい様に美しさが備わった状態です。「侘び」は内面的な豊かさの象徴とするなら、「寂び」は外面的な美しさです。  日本では、室町時代中期の東山文化を背景とし、禅と茶の湯の精神から誕生し、武道・剣道の『間と場の感性』が日本独特の美的感性を育てました。室町時代後期、公家・武士の間で豪華な茶の湯が流行に対し、室町時代にすでに「わびさび」の精神が生まれていた。  質素な茶の湯を追求した茶人の一人が、「侘び茶」の創始者といわれる村田珠光です。珠光は臨済宗の僧一休宗純が禅の思想に触れ、茶の湯に禅思想を取り入れた。  武道が進化すると、『間と場の感性』が究極の芸術、特に宮本武蔵の様な文武両道の二刀流として結実した。ここで「侘び寂び」という概念に芸術的な美しさが生まれ、美的概念として大成を遂げた。
@AkihitoDaidoDHeike
@AkihitoDaidoDHeike 10 ай бұрын
《【日本の悪足掻き(わるあがき)、悪藻掻き(わるもがき)の体質とは?】》 【4】【『読解力』の育成こそ教育の柱】  東京の麹町や、横浜では、おそらく大多数の生徒が塾などの受験勉強機関に通っていると思います。その事は、慶應義塾の幼稚舎でも同じです。  その結果、学校では、勉強や宿題をしなくても、心配無いと言う安心感が、家庭内部に行き渡っているのでは無いでしょうか?だから、宿題も出さないという教育方針が、受け入れやすいように思います。  この方針が、果たして、福井県で容認されるか疑問です。しかし、私は、それを私自身でも、二人の娘達にも実行しました。その結果、教育界、司法界、行政界からの、差別的妨害に遭い、親権を持つ私は娘達に、アメリカ東海岸のボーディング・スクールへの留学を計画し、ボストンに親代わりを引き受けてくれる方の邸宅に伺って、中学一年の長女の訪問旅行を企画しましたが、離婚していた母親から、親権の移譲を申し立てられ、結局のところ、親権が取り上げられました。  二人の娘達はカナダのブリティッシュ・コロンビア州のブラックコム・ウィスラーにスキー旅行で行き、子供のスキー・スクールに入学し、英語の世界に浸っていましたし、一人旅でアメリカのコロラド州、アスペンの夏季音楽学校に約1ヶ月間の留学を経験させて準備を済ませていました。帰国前に、私が迎えに行き、ドライブ、ゴルフ、乗馬などを楽しんでいました。  しかし、福井家庭裁判所は、司法界、教育界、行政界、宗教界の意向を汲んで、私から親権を奪ってしまいました。東京や横浜のような状況とは全く異なる世界が、日本の過疎地方の根強い背景にあるのです。  私は、その後に清掃業者の司法書士に損害賠償で訴えられた事がありましが、弁護士も司法書士にも頼まず、完勝した事がありました。その後の十五億円の損害賠償請求では、私の書いた書面に弁護士は署名捺印しただけで提出し、弁護士は何も書かないので、弁護士の仕事をしていないと東京弁護士会に訴えましたが、全部自分が’書いたと主張したのです。  本来なら私が勝つべき裁判を敗訴にしたのも東京大学法学部の講師でもあった無能な弁護士でした。役に立たないからと、来廷を断り、追加の請求された弁護士料金も支払わなかったのですが、法廷に無断で来て結審を成立させ、私の敗訴に導いたのです。日本の司法界は弁護士に過保護であり、司法界の人間ではない一般人を勝たせる事は無いのです。日本の司法界は法治主義ではなく、知情主義であり、根底には痴情主義が根付いていて、司法界の女性に関わる事件を揉み消しているいるのです。  日本の教育者による『読解力』を軽視する考え方には賛成できません。日本人の英会話力は単語と文法を覚える方法に依存していますが、これでは『英語で考える能力』は伴いません。そもそも、英文を全て日本語翻訳できると考える事に無理があります。  ノーベル文学賞受賞作品『ドクトル・ジバゴ』は日本語に訳せないと思います。翻訳文が出ていますが、英文の内容と表現の素晴らしさは伝わりません。そもそも、原文はロシア語ですから、読んだ事はありませんが、ロシア語は、東京外国語大学のロシア語合唱団『ルムーク』に参加して、国立音楽祭に参加した事も有りますが、とても英訳文の表現がロシア語原文に記載されていたとは思えません。それほどに英訳文は素晴らしかったのです。  だから、英訳文でノーベル文学賞を受賞したと思われるくらいです。ロシア語と日本語は屈折語と膠着語の違いが有りますが、語尾変化が合っていれば、語順が違っても理解できるのです。その点は日本語と似ていて、表現内容が曖昧になり易いのです。  ロシア語と似ている日本語も曖昧で、基本的に日本人の哲学論議は哲学にすらなっていません。金沢に近い羽咋市の西田幾多郎哲学館があり、以前は毎年のように夏季合宿が行われて、日本感性教育学会の理事の私も、特別講演を依頼されて、何度か参加しましたが、日本の大学の哲学教授は、哲学さえ知りませんし、勿論、英会話すら出来ない程度であり、日本中の哲学講座が廃止されてきた現実の背景を露呈しています。  また、数々の素晴らしいロシアは、数々の素晴らしいロシア文学作家を生み出してきましたが、大抵のロシア人は読んでいるはずだとは思いますが、おそらく理解できる人は極く僅かだと思います。  そのロシア人の教育レベルだから、現在のプーチンの独走を許しているのです。読解力が有れば、英語を含む外国語も単語や文法を覚えなくても、理解できるようになるのです。  如何に読解力を高めるかが、学力に直結するのです。私と二人の娘達が、受験勉強をしなくても、東京大学に楽に受かる程の実力が身に付いたのは「読解力」によるものです。『学力🟰読解力』だと言えます。日本の教育は『読解力』を育てずに、学力を付けようとする自己矛盾を呈しています。そのせいか、教育に関係してきた人々は、口達者な人である傾向が強いのか、発言が多いが、中身が乏しい傾向が強い。  特に『教科書は自習のための教材ではなく、教師が教える為の教材である』との発言には疑問を感じる。私は英語の教科書の音読を毎日続けてきました。その事が、その後の英会話力の習得に最も役立った事は、急性アレルギー性副鼻腔炎で記憶力と集中力を無くした私にとっては、最も影響のある教材であった。  その意味では、英語の教科書の教材は、自習用の教材であった。また、参考書などを買わずに、教科書だけを教材にして来た私と二人の娘達にとっては、充分な教科書であった。  また、私のような戦後の団塊の世代には、小学校五年生の頃に、近くを通る北陸本線の蒸気機関車(SL)の大きな駆動車が蒸気ピストンと連結されていて、何故、カーブを曲がれないかを分からずに疑問を持って、注意深く見ていて、そのカーブを曲がれる原理を理解できた事や、図画工作の時間に配布された教材に記載されていた黄金比の計算方法を見出した事や、中学二年生の理科で習った凹面鏡が真円だと、焦点の一点に集光しない事に気付き、焦点の一点に集光する凹面鏡断面のカーブの放物線を導き出した事も、教科書には記載されていなかったが、学ぶ事の楽しみを味わえた思い出として残っている。  その意味では、教科書は教師の利用する教材としてだけではなく、生徒が様々な疑問を持ち、それの疑問を解決する戦場であるとの印象が残っている。『教科書は自習のための教材ではなく、教師が教える為の教材である』との発言には疑問を感じる。  現在の文科省と、学校教諭が存続する限り、どんなに教育の議論をしても、僅かな効果しかないと思われる。私は、自分の出来る事だけを行うしか無いと思う。例えば、学校教諭達が自分の子供の可能性を最大限に引き出せた人が、どのくらい居るだろうか?皆無に近いと思う。
@パーちん-t5g
@パーちん-t5g Жыл бұрын
奪い合えば足らぬ分け合えば余る
@hkvy761
@hkvy761 Жыл бұрын
だから他人を生かさず殺すアメリカ中国ロシアが強い訳だ今の時代
@wowwow-k4y
@wowwow-k4y 9 ай бұрын
時間給→スーパーのレジ、ダラダラやってもテキパキやっても同じ時給😂😂😂
@たさみ
@たさみ 10 ай бұрын
10人、シェ゙アしました
@まんま-h3x
@まんま-h3x 8 ай бұрын
ん〜、、、
@user-nukoyama
@user-nukoyama 10 ай бұрын
またピンボケな事言ってんな。 財務省の緊縮財政と米国のグローバル規制緩和が、失われた三十年の実態だろうが。 経営者目線では逆に日本の貧困は見えない。 日米構造協議以降の外圧路線位、批判してくれよ。
記念講演「思うは招く」植松努氏
1:35:27
岐阜県PTA連合会
Рет қаралды 998 М.
The evil clown plays a prank on the angel
00:39
超人夫妇
Рет қаралды 53 МЛН
99.9% IMPOSSIBLE
00:24
STORROR
Рет қаралды 31 МЛН
Мясо вегана? 🧐 @Whatthefshow
01:01
История одного вокалиста
Рет қаралды 7 МЛН
植松努「思うは招く」PART1 | みらいロケット2016
29:43
OIU学生×株式会社植松電機 植松努さん おとなインターンVOL.2
13:13
大阪国際大学・短期大学部 公式チャンネル
Рет қаралды 53 М.
Hope invites | Tsutomu Uematsu | TEDxSapporo
20:43
TEDx Talks
Рет қаралды 8 МЛН
植松努「思うは招く」PART2 | みらいロケット2016
30:51