第8話 新説/三角縁神獣鏡は九州にいた卑弥呼の鏡だ【古代史探索の旅Ⅲ/銅鏡・後編】

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これはどうでしょう

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Күн бұрын

三角縁神獣鏡の同范鏡を整理してこの鏡が九州にいた卑弥呼の鏡だと推論しました。
このシリーズ、古代史探索の旅Ⅲは邪馬台国からヤマト王権への王権移行がテーマです。
いまだなかなか旅に行きづらい状況ですが、出発へ向けた準備という意味でもいろんな角度で整理しておきたいと思っています。

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@satoshitanaka7655
@satoshitanaka7655 2 жыл бұрын
今まで、色んな所で断片的に述べられていた情報では流れが分からなかったのですが、ザックリとは言えこのように並べて分析すると、新たな見解が見えてきます。大変大変参考になりました。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
まだまだこれも断片情報ですが、色んなことを考えて頂く切っ掛けになれば嬉しいです。 今回のこの提言に対して専門家の方からのご批判コメントが寄せられないのが残念です。
@funnymovie6528
@funnymovie6528 Жыл бұрын
卑弥呼の時代にはすでに纏向遺跡があったのだから、邪馬台国九州説を唱えるのであれば、邪馬台国が東遷して箸墓古墳を作るのは時間的に困難だと思いますが。大和王権が邪馬台国勢力を併合した結果三角縁神獣鏡が全国へ展開されていったのではないでしょうか?
@27ff31
@27ff31 Жыл бұрын
纏向遺跡あるいは箸墓古墳の年代比定がまちがっているかもしれない
@masaoyamada5139
@masaoyamada5139 Жыл бұрын
考古学的資料を統計的かつ時系列に整理しているのでとても説得力がある。卑弥呼・邪馬台国論争は地元愛が優先していかがわしい議論が多いが、このチャンネルはとても参考になる。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
ありがとうございます。 地元愛があることはいいことだと思いますが、事実を曲げると、あとで辛くなることもありそうです。
@renren5491
@renren5491 Жыл бұрын
纒向には3世紀初頭の石塚古墳・勝山古墳など前方後円墳の初期型古墳があり、三角縁神獣鏡よりも先で格上扱いだった画文帯神獣鏡は近畿に集中している。 画文帯神獣鏡は、青銅器祭祀と入れ替わりに登場するもので、そのころから近畿が中心だったことが判る。土器の移動でも前方後円墳体制の前から近畿が九州を圧倒していた事実がある。北部九州は近畿系の人々が大量に流入していた。その象徴が那珂八幡古墳。邪馬台国に時代の前方後円墳。その前の段階の痕跡がないのに九州発祥を主張しているに過ぎない。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
画文帯神獣鏡が出土する近畿の古墳は、卑弥呼の時代のずっと後ですし、箸墓の前の世代とされる、いわゆる纏向型前方後円墳は纏向固有のものではなく、西日本から東日本まで分布しています。 この前の第7話と合わせて視聴頂くと、銅鏡の分布の遷移から、何らかの権力が北部九州から近畿へ移動していったことは否定出来ないでしょう。 あと、後半のお話はよく理解できません。
@renren5491
@renren5491 Жыл бұрын
​@@これはどうでしょう 土器の移動は人の移動。博多湾岸に近畿式土器が大量に発掘され、九州土器は他の地域では希少。邪馬台国の時代は九州を近畿王権が席巻していた事実は明らか。 近畿・近畿周辺からは九州系土器の出土が希少で九州人の痕跡がない。 博多湾岸、福岡県・佐賀県から庄内式近畿系土器がわんさか出土しています。
@renren5491
@renren5491 Жыл бұрын
3世紀初頭には、中国鏡である画文帯神獣鏡が畿内を中心に出土している事実がある。その段階で近畿が中心に銅鏡を集めいたことは規定事項。
@民草1
@民草1 2 жыл бұрын
素晴らしい推論ですね。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
ありがとうございます。 邪馬台国近畿説の方にも九州説の方にも受け入れがたい説になっただろうと思いますが、思い切って発信してみました(笑)。
@yokoso8849
@yokoso8849 2 жыл бұрын
こんにちは! いつも有り難うございます。楽しく興味深く拝見しております。 神社や遺跡の由緒書きを読むのが小さい頃から好きでした。 ワクワクします。 これからも、よろしくお願いします。 まゆさん、かわいいです。❣️
@まゆはどうでしょう
@まゆはどうでしょう 2 жыл бұрын
yoko soさん、はじめまして(^.^) 褒めて頂いちゃって恐縮です😅ありがとうございます💕 私もかずさんの影響で、ご由緒書きを読むのが好きになりました。これからもご視聴宜しくお願い致します。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
私は小さい頃は、特に神社に興味があったことはありません。 ただ、「邪馬台国」や「ツタンカーメンの謎」などには興味がありました。 大人になってからは、ヤマト王権を知りたいが為の「神社・ご由緒書き好き」です。 今後ともよろしくお願いします。
@yokoso8849
@yokoso8849 2 жыл бұрын
わーい。コメントありがとうございます。 人は無意味なことはしない、、、、 由緒書きに書かれている悪鬼は誰だったのだろう? そこに神社が建つ必然は? ミステリーを解いている感じに似ています 大人になったらますます面白くなりました ありがとうございます。 毎回楽しみにしています❤️🧡
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
まさにミステリーですね。 今後ともよろしくお願いします。
@angelagabriel5874
@angelagabriel5874 2 жыл бұрын
前回・今回と「学者なみのデータ」分類と思います。  どこかの動画で「三角縁神獣鏡」の「国産説」を述べておりましたが、その時より細分化されており、たいへん有用です。 「一大率」が置かれていたのも「イト国」でしたね。  さらっと読みすぎてしまうのですが、当時はかなりの有力地だったのかも知れませんね。  記紀にも「イト(ツ)」を追ってみたいと思います。 第9話行きます。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
ありがとうございます。 卑弥呼は伊都国出身だと思っています。 まだ確証はありませんが。
@tamachan8587
@tamachan8587 Жыл бұрын
面白い推論だと思います。三角縁神獣鏡は魏の国では出土がなく、神獣鏡のデザインは呉の国に多いため、日本に来訪した呉の工人が日本で製作したものではないかという説があります。中国の考古学者も三角縁神獣鏡は中国では見たことがないということなので舶載鏡説はやや怪しいのではないかと思っています。三角縁神獣鏡は北九州の王権で始め作られ、近畿方面に王権の勢力とともに伝播したと考えられるのではないかと動画を見て思いました。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
なるほど。 鏡について私は専門家ではないので、個々が舶載鏡かどうかの判断はできませんが、専門家の間でも議論の最中であることは知っています。 ここでは、一般に舶載鏡と断定されているものが、その通り舶載鏡だった場合のこととして推論しています。 舶載鏡だから近畿に邪馬台国があったというのは他の遺物から、あり得ない話です。
@李Kevin-r2x
@李Kevin-r2x 8 ай бұрын
古代日本へ送りために特別製造の銅鏡だと思います
@鈴木芳宏
@鈴木芳宏 2 жыл бұрын
とても興味深く視聴しました。 ことに、同范鏡から年代の考察は鳥肌ものでした。本にしましょうとオファーがあって然るべきだと感じました。 坂氏、関川氏は研究者ですが、内倉氏は記者であっても研究者ではありません。 研究者以外が柔軟なアイデアを出しています。 井上悦文氏は書道家です。その著書『草書体で解く邪馬台国の謎』は、陳寿の草稿は草書で書かれ、皇帝の命を受けた役人が草稿を筆写する時に草書体故に誤って筆写した可能性を指摘したとても興味深い本です。 邪馬台国論争は魏志の刊本で論じられていますが、魏志は陳寿の死後に正史とされたようです。刊本のテキストクリティクとしても非常に重要な指摘だと読みました。 また動画もわたしの興味関心のあるところをじっくり見せていただき九州王朝を堪能させていただいています。次の動画も楽しみにしております。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
面白く見て頂けているようで嬉しいです。 「本」などとんでもございません。 私は本来「旅KZbinr」です。 今は旅に行けずに、ちょっと脱線してますが(笑)。 家内を喜ばせる為に、事前にネタ準備をしている、、、そんなつもりでやっております。 今後ともよろしくお願いします。
@トラにタヌキにカバさんよ
@トラにタヌキにカバさんよ 2 жыл бұрын
お久しぶりです。この前 卑弥呼さんにこの動画見せたら「ばれたか~~」言ってました。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
そうですか、ありがとうございました。 私も相談してみたかったんですよ(笑)。
@malkotoisu9730
@malkotoisu9730 2 жыл бұрын
畿内で三角縁神獣鏡の扱いは雑で、棺のまわりにちりばめられる鏡で、棺の中に収められるのは画紋帯神獣鏡みたい。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
そうですね。 4世紀(畿内の三角縁神獣鏡の古墳出土の時期)になると、三角縁神獣鏡が大量生産されるようになるけど、そこまで貴重な物ではなくなるのでしょうね。
@明日語郎
@明日語郎 2 жыл бұрын
三角縁神獣鏡は崇神の関係者に多数、古墳で見つかっています。私は、崇神が大陸の出身者で鏡を持ち込み、自身でも山城王権内で作成したと思います。備前車塚も豊前石塚も崇神の重臣、子供です。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
なるほど。そういう見方、可能性もありますね。 この鏡の普及開始が3世紀後半~4世紀とすると、崇神朝の時期とも言える訳ですね。 私が今回の動画でハッキリと思ったことは、三角縁神獣鏡の開始期において、この鏡が大和側で大陸より入手し、前方後円墳の波及とともに全国に配布されて行った、という説が成り立たないということです。 私はこの鏡の普及は、西から大きな勢力が東に影響していった証だと思っていますが、それが崇神天皇かどうかは分かりません。 考古学的には、まとまった王権が列島に入って来て征服していったようなことは考えにくいのだろうと思っています。
@大谷主水-l6t
@大谷主水-l6t 6 ай бұрын
これはすごい。溜飲がおりました。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 6 ай бұрын
納得頂けて嬉しいです。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
第8話を拝聴しました。私は邪馬台国近畿派ですが、考古学者も含めいわゆる専門家はあまり信用しないことにしています。神獣鏡は、卑弥呼がもらった100枚と時期がかぶりますが、もし平原1号墳が卑弥呼の墓であれば、そこからは1枚も見つかっておらず、100枚に触発されてあちこちで作られた国内産の可能性が高まります。これは46センチ鏡も同様で、平原1号墳では5枚、近畿では1枚しか見つかっていないことは、流通していなかった証拠で、やはり中国産ではないかと思います。専門家は平原1号の鏡は国産であると簡単に言いますが、間違っていると思います。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
・・・これまでの議論を踏まえて・・・ あなたのこのご意見は、ご自身の結論「平原1号墳が卑弥呼の墓」をタラレバの仮定にして述べられているので、残念ながら理解出来ません。 また、バラバラとあちこちにコメントされると文脈を追うことが出来なくなります。 見て頂いている他の方々は、よけい理解できないと思います。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
第10話をもう一度見ましたが、そもそも奴国に対する解釈が一般論の寄せ集めで大丈夫かなという思いがいたします。奴国の概念は本当は非常に難しく、なぜ奴国と評されているのか、なぜ奴という文字を使った国が8つも同じ地域あるのか、なぜもう一つ奴国があると書いてあるのか、金印は本当にナコクオウなのか、現在の早良区にも大きな遺跡があるがそれと奴国をどうマッチングさせるかなどが研究者の本当の使命ではありませんか。大きな環濠集落があるから大人口だ、だからここが邪馬台国だと言いう論法も失礼ながら短絡しており、倭人伝とマッチいたしません。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
これは第10話に対するコメントでしょうか? ならば、コピペでもかまいませんので、そちらの方にご寄稿下さい。 そうでないと、折角のコメントも邪馬台国に興味がある方々の目に届きません。
@是空-w1e
@是空-w1e 2 жыл бұрын
鋭い分析で、面白かったです! 情報収集は根気のいる作業だと思いますが、新たな発見があると報われますね。 個人的には、一部の三角縁神獣鏡が舶載鏡であるのかまだ疑問です。卑弥呼様には、金銀錯嵌珠竜文鉄鏡が相応しそうですが。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
ありがとうございます。 ご指摘の通りかもしれません。 が、舶載鏡かどうかは、我々の手にはおえない判断かと思っています。 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼宛の鏡でしょう。 銅鏡100枚の方は「卑弥呼の鏡」とは言いながら、「皆さん用」だと思っています。 遣いを送って来ていた国が30国あった訳ですから。
@真弓野崎
@真弓野崎 2 жыл бұрын
皆さんは卑弥呼=「銅鏡」と言われますが、全部違うと思います。三角縁神獣鏡は大量生産されていて位が同じに思えます。卑弥呼から見て、自分と同じ鏡を他人に渡すのはちょっと変じゃないかなと。 大分県日田市から出土した「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は漢の「曹操」と同じものです。時代も邪馬台国の時代と合うのです。 魏志倭人伝を深く読んでいただいて そちらも考察してみてください。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
実は私もそう思っています。 去年日田へ、そのレプリカを見にいったのですが、確かにそう思えました。 「卑弥呼の鏡」と書いていますが、卑弥呼が貰った鏡、のつもりでいます。 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を同時にもらったかどうかは分かりませんが、これこそ卑弥呼本人宛の鏡でしょう。 この鏡が日田へ行った経緯を推定したいところです。
@funnymovie6528
@funnymovie6528 Жыл бұрын
銅鏡と王権は関連はあってもイコールではないと思いますが。いかがでしょうか?
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
弥生期の出雲や吉備に銅鏡は入っていないけど、王はいたと思われますのでイコールではないですが、北部九州と畿内を中心とする地域においては、ほぼイコールと考えています。
@碁10級
@碁10級 2 жыл бұрын
とても興味深く拝聴しました。在野の研究家ほど真実に迫る考察を加えているように思っています。 一つだけ疑問に思う事は三角縁神獣鏡は中国では発見されていないわけなので魏はわざわざ卑弥呼の為に新作を造った事になります。 最初は?と思いましたが冷静に考えると”有り得るかも”となりました。 正に歴史ロマンですね!
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
早々のご視聴ありがとうございました。 邪馬台国大和説はすでに瓦解していると思っているので、あえて三角縁神獣鏡を全否定することもないと思っていたところに、3世紀中葉の北部九州に三角縁神獣鏡が副葬されていたことを知りました。 これはあり得るかな、と。 600枚は無理でしょうが、100枚なら特別に作ってくれてもいいかな、とも思いました。 特注品なら大陸に残しておく必要もないでしょう。 ・・・大和説のいい訳を借りました(笑)。
@funnymovie6528
@funnymovie6528 Жыл бұрын
前方後円墳の年代を比較するなら纒向勝山古墳のほうが、那珂八幡古墳より古くないですか?
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
土器編年上では、同時期だろうと考えています。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
銅鏡は吉竹高木遺跡でも奴国遺跡からでも豊富に見つかってますよ。卑弥呼より前の時代です。また三角縁が卑弥呼の鏡であるかないかははっきりしないけども、彼女が魏からもらった鏡でないことは確かです。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
確かなことは、なかなか分かりませんが、後半の論旨がよく理解できません。
@平林修二-s3f
@平林修二-s3f 2 жыл бұрын
卑弥呼が魏から贈られた銅鏡が元になったと言う断定は、まだ早くはないですか?卑弥呼から日本中に配られたとする考察には一理あると思いますが、三角縁神獣鏡は大陸で発掘されたことは有りませんし、その意匠の参考になったと言われる神獣鏡も三角縁番龍鏡も、呉に特有の鏡で有り魏には存在しない物なのです。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
三角縁神獣鏡が呉の職人により日本で製作されたとする王仲珠氏の説がある一方で、 「三角縁神獣鏡につながる中国鏡は、魏の領域にあたる徐州の鏡であり、図像表現、配置、銘文のいずれをとっても呉との関係性は乏しい」 とする中国鏡の専門家、岡村秀典氏の意見も有ったりします。 いずれにしてもこれらの説に入り込める知識はありません。 ただ、三角縁神獣鏡の1枚が3世紀中葉の福岡にあった、ということを事実と捉えて、600枚の一部は魏からもらった鏡と考えました。 100枚の特注品であれば大陸に残さなかったことも想定できると思いました。
@sunsun2181
@sunsun2181 2 жыл бұрын
そう思います。送り手が卑弥呼ではなくて、九州にいた皇室の先祖の女性の地位の高い人とかの可能性もあります。つまり、卑弥呼ではなくて、天照大神に相当する女性リーダの可能性もあります。 そもそも、九州には、いい丹を出す地域もなく(当時としてです)、真珠やヒスイもあまり取れないので、自慢げに外国に贈り物として贈るほど産出しない。そして、九州には馬がいて、「馬がいなかった邪馬台国」とは話があわないです。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
魏志倭人伝には次のように書かれています。「東南陸行五百里到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸丗有王皆統屬女王國.........自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國」  ここには卑弥呼の女王国は伊都国にあり、その北(糸島沿岸部)に一大率が置かれ伊都国を治めていると書かれています。したがって女王国は糸島平野の深部・上流部となり、脊振山系を超えた佐賀平野、筑後平野ではありません。そこはもう伊都国ではないからです。また、佐賀平野、筑後平野に多くの人口があったことは事実でも、そこは投馬國、邪馬台国ではありません。邪馬台国は不彌国から合計30日程度海を行ったところにある近畿です。ちなみに卑弥呼は倭国女王であり、邪馬台国の女王とは書かれていません。彼女は西暦248年に糸島で亡くなっており、近畿・邪馬台国とは無関係であるはずです。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
それはあなたの読み方です。 そして魏志倭人伝の読み方について、あなたと議論しても答えが導かれることはありません。 何故なら私は漢文の専門家でもないし、この議論は300年されてきても、なお結論の出ない案件だからです。 このコメント欄は多くの方が見られますので、あちこちにバラバラとコメントされると、読む方には何を議論しているのか伝わりません。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
ここは普遍性を求めて議論する場所ではないんですか。それはあなた(私)の読み方と投げるなら、あなたの読み方はどうですか?ほかにどう読むべきかお聞かせください。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
「読み方について、あなたと議論しても答えが導かれることはありません」 と言いました。 理由も申し上げた通りです。 そもそもこの動画のコメント欄は、伊都国、邪馬台国の場所を議論するに相応しい場ではありません。
@隆一西
@隆一西 Жыл бұрын
大変興味深いデータで感銘を受けました🙇‍♂✨九州説派としてはとても励みになりましたが、以前、中国大陸の墳墓では三角縁神獣鏡は出土していないと、どこかの記事で見たような気はしますが(¯―¯٥)
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
おっしゃるように三角縁神獣鏡は中国からは出土していません。 しかし特別な金印が贈られた卑弥呼に対して、鏡を特注して使者に持たせたことは可能性あることだと思っています。
@spvol2mongen778
@spvol2mongen778 2 жыл бұрын
オ~、素晴らしいですね(^^) 僕の一押し 木津川の「椿井大塚古墳」と豊前「石塚山古墳」繋がりましたね~。 同笵鏡と共に鉄製の小札革綴冑が埋葬されてます。贈り主は『怪物』です(^^) その人は第12代景行天皇。土蜘蛛討伐で神夏磯媛の案内(裏切り)で豊前京都郡に行宮造営とあります。 土蜘蛛「土の朱を知る」先人からの権益の簒奪です。 討伐のはずが日本書紀「草を払い山を穿ち」つまり鉱脈探しです。 息子の日本武尊も 「草なぎ」してます(^^) 王宮伝承地は桜井「穴師」最晩年は大津の「穴太」まさに鉱山師。 椿井大塚古墳の近くに息長氏の拠点があり「朱智王」伝承と「朱智神社」 古代最大の交易品 「朱」を制した大王だと思います。 その富が『纒向』の源泉で宇陀もまた最大級の朱産地です。 つまり畿内の『倭種』による九州侵攻により元よりまとまりの乏しかった『倭人』が鏡と共に東遷した。 こんなん出ましたけど(^^)
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
「朱を求めて東遷」、そのお話ですね。 私の頭は、まだ薄ピンク位です(笑)。すみません。 ところで最後のくだり; 畿内の『倭種』による九州侵攻により元よりまとまりの乏しかった『倭人』が鏡と共に東遷した。 って、景行天皇の後の世の「東遷」ということでしょうか?
@spvol2mongen778
@spvol2mongen778 2 жыл бұрын
@@これはどうでしょう さん。 はい、ヤマトに王権らしきモノが出来てから初めて九州と接点をもったのが12代景行で10代崇神の四道将軍派遣により中国地区に出来た拠点(吉備か?)をもって、西征したと考え 纒向は景行が造営したので九州の土器も現れるんだと思います。 神武と比定される有力者は存在し、先月再訪した 生目、西都原両古墳群からも日向で間違いなく東遷は春秋年と河内潟の形状からも長浜氏の仰られるようにBC50~70年頃その後 紀伊伊都郡で力を蓄えたのでは?と思います。 最近の僕が古代史のポイントと考えてるのが ①BC5300年頃の鬼界カルデラの大噴火。(九州に熊が生息しない理由) ②朝鮮半島ではBC5000年頃の地層から縄文土器が見られる。 ③三韓時代までは同じ言語 特に新羅は倭人の創った国 ④BC220年頃 始皇帝の命を受けた『徐福』の渡来。(佐賀が有力) ⑤古代日本最大の功労者『秦氏』の渡来と功績(徐福一派と秦氏は時代差はありますが繋がりを感じています) ⑥諏訪からみえる東国の交易と神の変遷。 ⑦藤原氏が隠した本当の真実。 です(^^) 畿内では仰られた 枚方は重要だと思います。河内潟の頃からも上陸地点と考えられ 天野川からニギハヤヒ伝承の天の磐船神社へ そしてヤマトに繋がります。 その後も秦氏、継体が拠点にしてる場所ですね。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
私のポイントは暫くこの時期から抜けられそうにありません(笑)。 近いところは③、④でしょうか。 でも色んなことが分かってきたので、おいおいまとめていくつもりです。 天の磐船神社は行ったことがありませんが、淀川水系から大和盆地に入りやすそうな経路に見えますね。 このあたりは、弥生時代中期ころに武器型青銅器の中細型同戈が持ち込まれた場所のようです。 もとになった中細型同戈が田川市から多数発見されているので、ニギハヤヒ/物部の関係性が想像できますね。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
すみません。重要なご指摘をスルーしておりました(笑)。 生目、西都原両古墳群。 「いきめ」がイクメなら意味深ですね。 東征したのがイクメ王(垂仁)という説もあるようなので。 正直、まだ頭がそっちまで行けてないです。 イワレビコの出身地に間違いないでしょうか?
@MrAirrium
@MrAirrium 2 жыл бұрын
三角縁神獣鏡は大半がレプリカだと思いますが、そのオリジナルは存在していたでしょうし、同范鏡に焦点を当てたこの考察はとても興味深いです。 10:07の系統図ですが、北九州→畿内までの行程は神武東征神話をなぞるかのようです(出発地は日向ではなく伊都国でしょう)。 私は神武畿内入りは西暦290-300年頃とみており、それとも合致します。 三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡とされておりますが、おそらく神武の時代には女王国連合(伊都国(北九州)・邪馬台国(熊本))は分裂していたのではないかと考えています。 つまり女王国連合時代に伊都国が分与された三角縁神獣鏡を以て、失われた「親魏倭王」の代わりとしたとか。妄想ですけどね。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
私も早く神武東征神話の解釈に挑みたいと思っているのですが、出発点が中々定まらないところです。 時期は多くの方が3世紀を想定していらっしゃるので、私もその頃かなと思っています。 ご指摘にもある、その時の九州の状況をもう少し想像できるような材料を、いま集めているところです。 なかなか楽しい作業です(笑)。
@MrAirrium
@MrAirrium 2 жыл бұрын
楽しそうですね~ 私もご相伴に預かりたいものです(笑 私もひとつものしてみたいとは思っているのですが、書き始めるとしたら7300年前に九州の縄文人を壊滅させた喜界カルデラからかなとか思ってみたり。 古事記の頃の人々の認識では九州は筑紫国、豊国、肥国、熊曾国の4つの部族にわかれていたようですね。 クマソは筑前国風土記では球磨囎唹と当てられているから、実質5部族ですか。 それぞれが何に該当するか、ここら辺が古代九州の謎を解く糸口になるかもしれません。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
推理ゲームを是非ご一緒ください(笑)。 熊襲についての知識がほとんどありません。 肥国は、佐賀(+長崎)と熊本というところですよね。 今はこの間に福岡県南部の大川市、柳川市、みやま市が入っていますが、神功皇后の時の征伐の土蜘蛛は、みやま市のあたりと、佐賀県西部(武雄市だったかな)だったと思いますので、4世紀頃の筑紫にとって佐賀と熊本は共通の敵対国、肥国だったのかもしれません。
@MrAirrium
@MrAirrium 2 жыл бұрын
ありがとうございます。ぜひご一緒させてください(笑 卑弥呼の時代の九州勢力は土器と墓制で色付けできるのではないかと考えています。 「肥」は仰る通り旧国名の肥前肥後だと思いますが、「肥」に該当するのは熊本部分でいえば白川以北までで、白川以南は球磨国の領域にだったのではないかと思います。 これは球磨地方と熊本平野南部で主に発掘される免田式土器の分布からの推測です。 免田式土器の使われていた時代(西暦200年頃?)、「肥」に該当するの地方と「クマ」地方の勢力が熊本の白川をはさんで対峙していた可能性があります。 また「筑紫」はいまの福岡県西部で甕棺墓が発掘されるエリアが該当するのでしょう。その旗頭は伊都国でしょうか。 甕棺墓は肥の国に該当する神埼(吉野ケ里)や熊本平野でも見つかっているので、筑紫と肥は墓制における同一の文化圏と言えます。 熊本平野(白川以南)にも甕棺墓文化圏が存在していたのですが、その後免田式土器勢力の浸食を受け、白川以北まで撤退したものと考えています。 また同時代、福岡県東部の遠賀川下流域では土器棺葬が営まれていて、甕棺墓はまったく発掘されていません。 遠賀川下流域(おそらく関門海峡含む)は筑肥の甕棺墓連合とは異なる勢力圏だったようです。 つまり 筑紫=伊都国+衛星国 肥=邪馬台国+衛星国 豊=遠賀川下流域=物部氏族+宗像 球磨=狗奴国 卑弥呼の時代は筑肥連合を組んでいましたが、卑弥呼死後筑肥同盟は分裂し、筑豊同盟を結んだのだと思われます。 それにより伊都国は遠賀川以東、瀬戸内海航路を使えるようになり、神武も畿内入りを果たせたのかな、と。 だいぶ端折りました。そして神功皇后まで行けませんでした。ご指摘お待ちしております。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
お考えをご披露頂き、ありがとうございます。 私の方で神功皇后の話を出してしまいましたが、頭の中はまだそこに行けません。 ・・・だから大丈夫です(笑)。 土器と墓制で、というお考え賛成です。 魏志倭人伝が出発点ではありますが、その当時の勢力図をさらに詳しく知るには、考古学資料に頼るのが最も適切なのだろうと思っています。 神武神話の解釈もその後で遅くないのかも知れませんね。 今回頂いた九州勢力図。 正直驚きました。 以下、私の今今の考え。 弥生時代後期を前半と後半に分けた時、 前半では吉野ヶ里などの筑紫平野を中心とした福岡、佐賀、熊本大分の広い範囲が広範囲の協調圏。 これは、甕棺墓分布域と重なり、また漢鏡、同范鏡などの銅鏡分布図、武器型青銅器(中広形銅矛等)の分布とも重なります。 ともに筑豊の広い部分を含みません。 一点、甕棺も銅鏡も白川は超えているので、そこの境界線は異なるかも知れません。 後期の後半は、その中心が福岡平野と筑豊(+豊前)に移り、広い海洋性を持ってくる時期と考えております。 ご指摘のように、これらが邪馬台国の勢力図だったり、卑弥呼後の世界、物部の本拠地、狗奴国の範囲を示すとすることができるのだと思います。 狗奴国との境界は、以前は狗古智卑狗=菊池に強い興味を持っていましたが、最近はそこにあまりとらわれないようにしています。 ですから、Airriumさんが示された勢力図とかなり一致しているのです。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
わざわざありがとうございます。神獣鏡は500枚以上が見つかり、主に近畿です。出来のいいもの悪いものが混じっています。ひょっとすると中国製も混じっているかもしれませんが、多くは国産である証拠です。中国では一枚も見つかっていません。一方卑弥呼は3世紀前半に糸島におり、記録では西暦239年に魏から100枚(おそらくそれ以下)をもらっています。私はいろいろな根拠から平原1号墳を卑弥呼の墓と考えていますが、そこから見つかった鏡は神獣鏡とは異なります。私が言いたいのは、卑弥呼はひょっとしたら神獣鏡を持っていたかもしれないが、その確率は限りなく低く、おそらく神獣鏡は卑弥呼の死後の作成であるはずです。これは神獣鏡が卑弥呼の鏡であるとするより、そうではないと結論付ける方が確率が高いことを示しています。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
平原王墓を卑弥呼の墓だと考えている方も多いですね。 でも私は、半世紀合わないとする考古学の見解に疑義を申すような知識を持っていません。 なのでそのお考えには賛同出来ません。
@脇田昭
@脇田昭 2 жыл бұрын
ただ、中国から三角ぶち神獣鏡で発見されていないことがネックではないでしょうか? 東海地方がみごとに欠落していることは何を意味するのかも興味あります。 韓国慶州の古墳を見たことありますが金製の馬具があり、日本で発掘された馬具とそっくりでした。その古墳は円墳だったと思います。やはり円墳のほうが古い年代と思います。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
銅鏡百枚というのは中国にとっても尋常ではない数でしょうから、特注品だったと考えればあり得ると思っています。 東海地方は、北近江や越の国、丹の国などとの結びつきが強かったと考えられますので、そうした影響だったかも知れません。
@脇田昭
@脇田昭 2 жыл бұрын
@@これはどうでしょう さん 銅鏡を配った?勢力と敵対していた勢力が東海地方に存在していたと考えられるのではないでしょうか?
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
そうかも知れませんね。 まだよく分かりません、が。
@脇田昭
@脇田昭 2 жыл бұрын
@@これはどうでしょう さん ありがとうございます。 東海地方に三角縁神獣鏡発掘なし、はやはりおかしいと思い、 本日比較的地元の図書館で調べましたところ、 写真付きで三角縁神獣鏡が4枚出土していたことがわかりました。 甲屋敷古墳 三角縁神獣鏡 図21 写真 愛知県小牧市小木2丁目474-1 旧住所 小木字甲屋敷4493 甲屋敷2号古墳出土 三角縁神獣鏡 図22 写真 愛知県小牧市小木1丁目 旧住所 小木字甲屋敷 天王山古墳出土 三角縁神獣鏡 図24 写真 愛知県小牧市小木2丁目 宇都宮古墳出土 三角縁神獣鏡 愛知県小牧市小木3丁目226 宇都宮神社境内 旧住所 小牧市屋敷4599 書名 味美古墳群 第1分冊 小牧市史によると、と引用されていました。 短時間の訪問で書名がメモれませんでしたが、表記の書名だったと思います。 それ以外にも六獣鏡が天王山古墳で出土。 内行花文鏡 甲屋敷2号で出土 しているそうです。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
調査ありがとうございます(笑)。 三角縁神獣鏡はほとんどの都府県で発見されているでしょうから、さもありなん、ですね。 合計600面以上の配布の中で、大和で作られただろうと思われるものが多数だと思いますので、今回の分析はその中の初期のものの同范鏡を対象にしてみました。
@伊那修太
@伊那修太 Жыл бұрын
アカデミズムの中にいるとその先輩の学説を受け継がないと偉くなれないので、間違った学説でも結果ありきでそういう方向へ導いてしまうことが往々にしてあります。その点、古田武彦さんもそうですが、在野の人の方がアカデミズムの霧に惑わされないで正しい方向を見つけていくことができるとも思います。是非これからもご自分の考え方を大切にご披露ください。とても面白いです。一つだけ、古田武彦さんの「魏志倭人伝には“邪馬台(臺)国”とは書いてなく、“邪馬一(壹)国”と書いてある」という説についてはどうお考えですか?私は「“邪馬一(壹)国”と書いてあるのに“ヤマト”と結びつけるために無理に“邪馬台(臺)国”と結びつけるようなアカデミズムのやり方が問題だと思うのですが・・・。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
励みになるお言葉、有り難いです。 ただ、私は歴史マニアで自分勝手な主張をしております。どうかご勘弁下さい。 邪馬壹国については、以前は「豆」だから「ヤマトゥ国」と読んでもいいのかな、と思っていたところ当時の中国の読み方ではトゥとは読めず、イチですとご教示頂きました。 一方、別の方のコメントで、日本に漢字が正式に入ってきたのはそれ以降だから、地名を表す字として輸入された後、国内の読み方がその後出来ていったのでは、と。 それを邪馬壹国で考えると、その国を表す字として邪馬壹国が入って来て、その後、ヤマトゥ→ヤマトという倭国内の地名が出来て行ったのでは、と考えるようになりました。
@user-xqe3tap7rx
@user-xqe3tap7rx 10 ай бұрын
在野の研究者に立派な人がいるのはその通りだと思いますが、古田氏はどうですかね。氏のヤマイチ国説が当時の学会を大いに騒がせたという話を聴いたことがありますが、今にして考えれば、それだけ日本の考古学会のレベルが低いということではないかと思います。 言うまでもなく「邪馬臺(壹)国」は、当時のヤマトの人の発音に似せて魏の人が悪意のある当て字を使用したということだろうと思います。だから音が同じなら「臺」だろうが「壹」だろうが、どちらでもよい訳ですね。ところがそんな事さえも現代の学者は分からなかった。 「夜麻登」(古事記)、「夜摩苔」(日本書紀)などと書かれているので、少なくとも八世紀の日本人は、「臺」「壹」「登」「苔」はみな等しく「ト(ゥ)」と発音することを知っていたと思います。 ところが今は、「邪馬臺国」の「臺」は「タイ」と読ませ、「臺与」の「臺」は「ト」と読ませる。これは意図的としか思えません。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
ここに書けば公開になりますか?卑弥呼の女王国が筑後平野にありえないと私が言う根拠は、倭人伝に女王国は伊都国にあると書いてあるからですよ。逆にお伺いしますが、伊都国ではなく筑後平野であるとされる根拠は何ですか?ひょっとして「南至邪馬壹國 女王之所都」に惑わされておられませんか。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
ここに書いて頂くと、大げさにいえば全世界公開になります。 ただ邪馬台国の位置を議論したい方々へは届きにくいと思います。 この動画はそこを扱っていないからです。 別コメントに返信させて頂いたように、また筑紫平野とする根拠も含めて、第9話、10話を視聴頂き、10話の方にコメント頂ければ、邪馬台国論争に興味ある方々の眼に触れやすいと思います。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
はい、わかりました、
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
私に対することでしょうか?後半とおっしゃるのは、魏からもらった鏡ではないという点でしょうか?もし見当違いのコメントであるなら無視してください。なお、魏からもらったものではないという意見は変わりません。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
そうです。 三角縁神獣鏡が卑弥呼が貰った鏡でないことが確かなら、 「三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であるかないかハッキリしない」 の意味がよく判りませんでした。
@sunsun2181
@sunsun2181 2 жыл бұрын
大変面白かったです。グラフが素晴らしいです。 でも、四国の調査が不十分です。四国からも鏡がでています。あと、絹もでています。農具の持ち手などを止めるのに、巻かれていたようです。邪馬台国四国説っていのもあって、これがまた、丹、ヒスイ、真珠の3つがセットで出るのは四国だけです。畿内と九州は3つとも出る場所はありません。また、九州には馬がいましたが、四国には馬がいませんでした。 このため、魏志倭人伝の記述にあっていますし、四国ならちょうどいい港があるし、まあまあ平野もあります。 九州説をとる人は、鏡が出たとしても、それが皇室の先祖の九州に住んでいた一族由来のものかどうか、まず証明しなければなりません。鏡が女性らしい被葬者の墓から出たとしても、どっちかわからないのです。太陽をあがめる巫女さんや女王などは、腐るほどいました。 平原遺跡などは、八咫鏡と全く同じデザインのものが出土していて、これこそが「天照大神 もしくはその子孫の巫女」の墓といわれています。 あと、卑弥呼とアマテラスを同一人物とみるのは、時代におそらくずれもあるし、邪馬台国は縄文人系統で、天照は弥生人傾向です。種族がぜんぜん違いますから、同一人物のわけがありません。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 2 жыл бұрын
ありがとうございます。 ただ今回の提言は三角縁神獣鏡についてのものなので、卑弥呼がどこにいたのか、というテーマを対象にしていません。 勿論、四国からも三角縁神獣鏡は出土していますが、今回対象にした舶載鏡の同范鏡は四国から出ていなかったので、四国には触れていません。 卑弥呼は〇〇にいた、等というご主張であれば最新の第10話などへコメント頂ければ、他の投稿者の方々も含めて議論が盛り上がるのだろうと思います。 よろしくお願いします。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
おはようございます。半世紀違うというのは原田大六さん(地元の考古学者で1号墳を発掘した学者)の意見で、分厚いウンチクに支えられており反論しにくいようです。しかしそれは発掘物の年代が墳墓より古いからという論拠で、本当は西暦239年の鏡が埋められていてもまったく不思議はありません。しかし、彼は肝心の土壙の底の土の分析を行っておらず、その後の再調査でも通り一遍の調査しか行われていません。木棺や遺体は腐りはてた、だから何も残っていないというのは、残存物の様子からどうもおかしいのですが、複雑でここには書けません。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
すみません。 返信の返信の形にして頂けると、文脈が分かります。 「半世紀」は、伊都国歴史博物館で学芸員の方から直接うかがいました。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
伊都国歴博の学芸員の方はそれなりに学識を積んだ方ですが、公の見解以上のことは言えないようです。また、市の役人さんですから立場があると思います。議論をしましても、それ以上進めない限界を感じます。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
残念ですが、私には学芸員さんと議論出来る知識はありません。 教えて頂くだけです。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
平原1号墳は3世紀の古代史に重大な影響を与えるかもしれない史跡だと思うのですが、墓のレプリカを見れば、なぜこんなところにガラス玉が残りうるんだろう、なぜこんな形で鉄刀が残りうるんだろうかとと誰でも不思議に思うはずです。なぜ土壙の底の土は分析されていないのに皆腐りはてたと断定できるのかと。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
何がどう不思議に思われているのか、さっぱり分かりません。 そもそもこの動画では、平原王墓の話を扱っていません。
@岡田ヒロキ-t5p
@岡田ヒロキ-t5p Жыл бұрын
ここには簡単には書けませんが、おそらく論文がジャーナルに載ると思いますので、その時にでも。
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
何度も申しましたが、あちこちにバラバラとコメントされても、読む方には何を議論しているのか伝わりません。
@他力本願-s3g
@他力本願-s3g 9 ай бұрын
後漢です、訂正します(-_-;)
@他力本願-s3g
@他力本願-s3g 9 ай бұрын
もし卑弥呼が存在したとして、魏から送られた鏡は三角縁神獣鏡ではないと思う、説明の必要はないですよね! そして魏から送られた鏡の最有力候補は金銀錯龍文鉄鏡だと思う、時代背景、魏の遺跡からの出土例、などから間違いなく前漢の時代に作られた物、王が持つにふさわしいですよね!だけど邪馬台国が日田市にあったとは思ってませんが(^-^;
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 9 ай бұрын
私は卑弥呼は日田に居たと思っています。 勿論、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼に贈られた鏡で、同時に贈られた銅鏡百枚が三角縁神獣鏡などだろうと思っています。
@他力本願-s3g
@他力本願-s3g 9 ай бұрын
私の勝手な妄想ですが、卑弥呼(に該当する人物)の墓は、宇佐神宮だと思ってるので日田市を邪馬台国に出来ないというw@@これはどうでしょう
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 9 ай бұрын
私も卑弥呼の墓が宇佐神宮にある可能性はありだと思っています。 その時は、日田にいた卑弥呼が死んだ後、宇佐に埋葬されたという筋書きです。
@他力本願-s3g
@他力本願-s3g 9 ай бұрын
距離的にどうかなあ、って感じです、魏志倭人伝に見てきたような事書いてあるじゃないですか、なので日田もアリなんですが(^-^;@@これはどうでしょう
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう 9 ай бұрын
私は今の大野城市にある水城土塁は、卑弥呼の時代にもあったと思っています。 それは邪馬台国連合とも言える筑紫平野を大陸勢力から守る為でもあり、わざわざ卑弥呼様を日田に囲っていることを考えると、みすみす奴国から邪馬台国への道を魏の使者に教えるハズはないと考えています。 その時の道程を改めて考えるとすると、水行は奴国から宇佐まで、陸行は宇佐から日田までと考えることになると思っています。
@大野望-d7y
@大野望-d7y Жыл бұрын
三角神獣鏡は 倭国製なのではないのでしょうか  中国では 一枚も出土してないのではないのでしょうか?   中国から匠を呼び寄せて造ったとしても 景初2年と年号を入れたと皇帝にしれたら?    中国で出土しない三角縁神獣鏡は 純国産でないのではないのでしょうか?
@これはどうでしょう
@これはどうでしょう Жыл бұрын
私は考古学者ではないので、三角縁神獣鏡が舶載鏡なのか仿製鏡なのかを判断することはできません。 学会でも色んな意見があることも知っています。 今回はWikipediaで、舶載鏡と断定している三角縁神獣鏡について分析しました。
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